「無知の知」で知られるソクラテスは、なぜ人々に問い続け、裁判でもその生き方を貫こうとしたのでしょうか。神託と対話、古代の記録を通して、一人の哲学者の人生をたどります。

5秒でわかる結論
ソクラテス(紀元前469年ごろ〜399年)は、古代ギリシアのアテナイで、人々との対話を通して「知恵とは何か」を問い続けた哲学者です。
彼について書き残した哲学者プラトンの『ソクラテスの弁明』には、知らないことを知っていると思い込まない姿勢が描かれています。
この姿勢が、後世「無知の知」と呼ばれる考え方を理解するうえで、重要な手がかりになるのです。
噛み砕いて言うと

たとえば、友達が「この問題の答えは絶対にこれだよ」と言ったとします。
そこで「どうしてそう思うの?」と聞かれたら、うまく説明できないかもしれません。
ソクラテスは、こうした「本当にわかっているのかな?」という問いを、人々との会話の中で大切にした人物です。
知らないことに気づくのは、恥ずかしいことではありません。そこから、もう一度考え始められるからです。
「無知の知」を理解するには、問い続けたソクラテス自身を知ることが、大切な手がかりになります。
導入
「無知の知」という言葉を調べていると、何度も登場する名前があります。
ソクラテス
古代ギリシアの哲学者ですが、なぜこの人が「無知の知」と結びついているのでしょうか。
そもそも、なぜ人間の知恵について考え、人々に質問を繰り返したのでしょうか。
もし誰かに「本当にそう言えるの?」と聞かれたら、あなたはどう答えますか。
ソクラテスは、そうした問いを人々との対話で重ねた人物として伝えられています。
しかも、紀元前399年、彼は裁判にかけられ、死刑判決を受けました。
なぜ問い続けた哲学者が、裁かれることになったのでしょうか。
今回は古代アテナイへと想像の中でさかのぼり、当時の社会、ソクラテスの生き方、神託(神からのお告げとされた言葉)への疑問、対話、そして裁判をたどります。
「無知の知」という言葉だけでは見えにくい、一人の人物の姿を探していきましょう。
疑問が生まれた物語
放課後の図書室で、悠斗は開いていた哲学の本から顔を上げました。
「美咲、『無知の知』を調べていたら、ソクラテスって名前が何度も出てくるんだ」
「昔の哲学者だよね。何をした人なの?」
「人に質問をしていたみたい。でも、どうして『無知の知』と関係があるのか、まだよくわからない」
美咲は隣に座り、本をのぞき込みました。
「でも、どうしてその人がそんなに重要なの?」
悠斗が次のページをめくると、そこには「紀元前399年、ソクラテスの裁判」と書かれていました。
「えっ、裁判? 質問していた人が、どうして?」

「それだけが理由だったのかな。そもそも、どんな時代に生きていた人なんだろう」
二人は古代アテナイの絵を眺めました。
「もし、その時代へ行けたら、何かわかるかもしれないね」
本のページをめくる音が、いつしか遠い昔の街のざわめきに変わっていくような気がしました。
もちろん、これは二人の想像の旅です。
けれど、手がかりになるのは実際に残された古代の記録。
ソクラテスとは何者だったのか。なぜ人々に問い続け、その姿が「無知の知」と結びつくのか。
二人はまず、裁判の行われた紀元前399年のアテナイを目指すことにしました。
その前に、旅の手がかりとなる「無知の知」の意味を、少しだけ確かめておきましょう。
1 無知の知とは?
「無知の知」とは、自分が知らないことを、知っていると思い込まず、「自分はまだ知らない」と気づく姿勢を説明する言葉です。
たとえば、「勇気とは、怖がらないことだ」と答えたとします。
ところが、「怖くても友達を助けようとするのは、勇気ではないの?」と聞かれたら、最初の答えを考え直す必要があります。
これは考え方を理解するための例で、ソクラテス本人が使った言葉ではありません。
大切なのは、何も知らないと決めつけることではなく、自分が説明できることと、まだ説明できないことを区別することです。

この考え方を理解するうえで重要なのが、ソクラテス(紀元前469年ごろ〜399年)です。
ソクラテスは、古代ギリシアの都市アテナイ(現在のギリシャの首都アテネ)で、人々に質問を重ねながら、何を本当に知っていると言えるのか、どう生きるべきなのかを問い続けた哲学者です。
彼と交流した哲学者プラトン(紀元前427年ごろ〜347年ごろ)は、著作『ソクラテスの弁明(べんめい)』に、裁判で自分の考えを説明するソクラテスの姿を描きました。
『ソクラテスの弁明』の21bには、ソクラテスが、自分には知恵がないと思っているのに、神のお告げでは自分が最も知恵のある人物だとされたことに、疑問を抱く場面があります。
そして21dには、知恵があると評判の人物と対話したあと、「知らないことを知っているとも思わない」という趣旨の考えを述べる場面があります。
なお、「21b」「21d」は、古い版の本のページ番号と、そのページのどの部分なのかを示す記号です。現在も、プラトンの著作のどこに書かれているかを示すために使われています。
ただし、「無知の知」はソクラテス自身が付けた名前ではありません。後世に彼の姿勢を説明するために使われる表現であり、その解釈については研究上の議論もあります。
ソクラテスが「無知の知」を理解するうえで重要なのは、この言葉を発明したからではなく、人は何を本当に知っているのかを問い続けた姿が、古代の著作に残されているからです。
その人物の生き方と、問い続けた理由を知るために、まずは彼が裁判にかけられた紀元前399年のアテナイへ向かいましょう。
2 紀元前399年、裁判の場面へ
想像の旅でたどり着いたのは、紀元前399年のアテナイです。
この年、およそ70歳になっていたソクラテスは、裁判にかけられました。
当時のアテナイでは、市民たちが裁判で訴えを聞き、罪があるかどうかを判断していました。
ソクラテスは、なぜ裁判にかけられたのでしょうか。
その答えは、第1章で紹介したプラトンの『ソクラテスの弁明』24b〜24cに記されています。
ソクラテスに向けられた主な訴えは、次の二つでした。
一つは、若者を悪い方向へ導いたという疑いです。
もう一つは、アテナイの人々が公に認めていた神々を認めず、代わりに新しい神的なものを信じているという疑いです。
ここでいう「神的なもの」とは、神に関係する存在や働きのことです。当時のアテナイでは、神々への信仰は個人だけの問題ではなく、都市の行事や社会の仕組みとも深く関わっていました。
ただし、これはソクラテスが訴えられた内容です。
実際に若者を悪い方向へ導いたことや、訴えられたとおりの信仰を持っていたことが、歴史的事実として確かめられたわけではありません。
プラトンの『ソクラテスの弁明』には、ソクラテスが自分を訴えた相手に質問しながら反論する場面があります。
まず、若者を悪い方向へ導いたという疑いについては、「周囲の人を悪くすれば、自分もその人から害を受けるおそれがある。それなのに、なぜわざとそんなことをするのか」という考え方で反論しました。
さらに、もし本人が知らないうちに悪い影響を与えているのなら、裁判にかける前に、何が悪いのかを教えるべきだとも述べています(25d〜26a)。
神々については、神に関係する存在や働きを認めている人を、神をまったく信じていない人だとするのは、話が食い違っていると反論しました(26b〜27e)。
つまりソクラテスは、相手の訴えをただ否定するのではなく、質問を重ね、その主張が本当に成り立つのかを確かめようとしたのです。

しかし、市民たちの判断によって有罪となり、最終的に死刑を言い渡されました。
つまり、ソクラテスが裁かれた直接の理由は、若者への影響と、都市の神々に対する信仰をめぐる告発でした。
では、なぜそのような疑いを向けられたのでしょうか。
その背景を理解するには、当時のアテナイの政治や宗教、そしてソクラテスが人々とどのように関わっていたのかを知る必要があります。
ただし、裁判に至った事情のすべてを、一つの理由だけで説明することはできません。
そこで、いったん裁判の場面を離れ、時代をさかのぼってみましょう。
ソクラテスとは、そもそもどのような人物だったのでしょうか。
次は、彼が生きたアテナイの社会と、その人生をたどっていきます。
3 ソクラテスとはどんな人物?
紀元前399年の裁判から、さらに時代をさかのぼってみましょう。
ソクラテスは、古代ギリシアのアテナイで生まれ育ち、人々との対話を通して、知恵や人間の生き方について考え続けた哲学者です。
彼は、どのような家庭に生まれ、どのような時代を生きたのでしょうか。
まずは、一人の人間としてのソクラテスを知るところから始めましょう。
ソクラテスの名前と生涯

ソクラテスの名前は、古代ギリシア語でΣωκράτης(ソークラテース)と書きます。
これは本人の名前を当時の言葉で表したもので、日本語では一般に「ソクラテス」と呼ばれています。
生まれたのは紀元前469年ごろ、亡くなったのは紀元前399年です。
正確な誕生日や亡くなった月日は、確実にはわかっていません。
当時は、現在の日本人のように名字と名前を組み合わせるのではなく、必要に応じて父親の名前や所属する地区を使って人物を区別していました。
ソクラテスの場合は、「ソプロニスコスの息子で、アロペケーに属するソクラテス」というように説明できます。
アロペケーとは、古代アテナイにあった地区の名前です。ソクラテスは、この地区に所属するアテナイ市民でした。
ただし、正確にどの家で生まれたのかまではわかっていません。
ソクラテスは、どのような家庭に生まれたのか
父親の名前はソプロニスコスです。
石を加工する職人だったと伝えられていますが、仕事の詳しい実態まで確実にわかっているわけではありません。
母親はパイナレテという女性です。
第1章で紹介した哲学者プラトンの著作『テアイテトス』には、母親が産婆(さんば)だったという話が登場します。
『テアイテトス』は、「知識とは何か」を登場人物同士の会話を通して考える哲学書です。
産婆とは、赤ちゃんが生まれるときに母親を助ける仕事で、現在の助産師に近い役割です。
また、ソクラテス自身も、クサンティッペという女性と結婚し、3人の息子がいたと伝えられています。
プラトンの『ソクラテスの弁明』34dには、裁判当時、息子の一人は青年になりかけており、残る二人はまだ幼かったと描かれています。
ソクラテスもまた、家族と暮らし、子どもを育てる立場にあったのです。
ソクラテスが生きたアテナイは、どのような社会だったのか
ソクラテスが生きた紀元前5世紀のアテナイでは、市民が集まり、政治について話し合う仕組みが発達していました。
これは民主政(みんしゅせい)と呼ばれ、市民が政治の決定に参加する仕組みです。
ただし、現在の民主主義とは大きな違いがありました。
政治に参加できたのは、主に一定の条件を満たした成人男性の市民です。
女性や奴隷、外国から移り住んだ人々には、同じ政治参加の権利がありませんでした。
つまり、アテナイは人々が政治について話し合う社会である一方、誰もが平等に参加できる社会ではなかったのです。
さらに、ソクラテスが生きた時代には、大きな戦争も起こりました。
ペロポネソス戦争(紀元前431年〜404年)です。
これは、アテナイとスパルタという二つの有力な都市を中心に、それぞれの仲間となった都市も加わって争った戦争です。
ソクラテス自身も、アテナイ側の兵士として戦いに参加しました。
プラトンの『ソクラテスの弁明』28eには、ソクラテスがポティダイア、アンフィポリス、デリオンという戦いの行われた場所で、兵士として任務に就いたことが記されています。
彼は、遠くから社会を眺めているだけの哲学者ではありませんでした。
家族を持ち、都市の一員として暮らし、戦争にも参加した人物だったのです。
では、ソクラテスは何を大切にしていたのでしょうか。
プラトンの著作には、ソクラテスが人々に質問を重ねながら、勇気や正しさ、善く生きることについて考える姿が描かれています。
ここでいう「善く生きる」とは、単にお金をたくさん持ったり、有名になったりすることではありません。
何が正しい行いなのかを考え、自分がどのような人間として生きるべきかを問い直すことです。
ソクラテスは、相手が知っていると考えていることについて質問し、その説明が本当に成り立つのかを確かめようとしました。
これは科学的な実験ではなく、会話の中で答えの理由を尋ね、ときには反対の例を示して、考えを確かめていく哲学的な方法です。
ただし、ソクラテス自身が哲学について書いた著作は残っていません。
そのため、私たちが知るソクラテスの姿は、プラトンなど、彼について書き残した人々の著作を通したものです。
また、彼が若いころからどのような経験を重ねて哲学に関心を深めたのか、その詳しい道のりもすべてわかっているわけではありません。
それでも、古代の記録から見えてくるのは、自分や他人が本当に何を知っているのか、そして人はどう生きるべきなのかを問い続けた人物の姿です。
では、そのソクラテスは、なぜ人間の知恵をそれほど重要な問題として考えたのでしょうか。
その理由を知る手がかりとして、プラトンの著作に登場するのがデルフォイの神託です。
デルフォイとは、古代ギリシアで神のお告げを受ける場所として知られていた土地です。
神託(しんたく)とは、神からの答えや意思として人々に伝えられたお告げを意味します。
次は、ソクラテスがこの神託について何を疑問に思い、なぜ知恵のある人々を訪ねるようになったのかをたどっていきましょう。
4 神託の意味を確かめた理由
ソクラテスが裁判で神託の話を持ち出したのは、自分がなぜ知恵のある人物だと評判になり、同時に人々の反感を買うようになったのかを説明するためでした。
第2章で紹介した二つの告発とは別に、ソクラテスについては、以前からさまざまな噂が広まっていたといいます。
第1章で紹介したプラトンの『ソクラテスの弁明』18b〜19cには、「天や地下の不思議なことを調べている」「言い分が弱くても、話し方によって正しく見せる」といった噂があったと記されています。
ただし、これはソクラテスが実際にそのようなことをしていたという証拠ではありません。むしろ、彼が裁判で反論しようとした評判です。
では、なぜソクラテスには、そのような評判が生まれたのでしょうか。
その理由を説明するために、ソクラテスが語ったのが、第3章で紹介したデルフォイの神託の話でした。
『ソクラテスの弁明』20e〜21bによると、ソクラテスにはカイレフォン(古代ギリシア語:Χαιρεφῶν〈カイレポーン〉)という、若いころからの友人がいました。
カイレフォンはアテナイの市民で、ソクラテスと長く交流していた人物です。
あるとき彼はデルフォイを訪れ、神のお告げを伝える女性の神官に、ソクラテスより知恵のある人がいるかを尋ねました。
すると、「ソクラテスより知恵のある人はいない」という意味の答えが返ってきたとされています。

しかも、ソクラテスは裁判で、すでに亡くなっていたカイレフォンに代わり、その兄弟がこの話を確かめられると述べています。
ここで注目したいのは、神託を聞いたソクラテス自身の反応です。
彼は、自分には特別な知恵があるとは思っていませんでした。
しかし、神が嘘をつくはずはないとも考えていました。
そのため、自分の考えと神託の言葉をどう理解すればよいのか、長い間答えが見つからなかったと語っています(21b)。
そして、迷った末に選んだのが、自分より知恵のある人物を探すという行動でした。
もし、そのような人が見つかれば、神託の言葉に反論できると考えたのです(21c)。
そこでソクラテスは、知恵があると評判の人物を訪ね、実際に会話を交わすことにしました。
これは科学的な実験ではありません。人々に質問し、その答えや理由を確かめながら、相手が本当に何を知っているのかを考える哲学的な方法です。
ここから見えてくるのは、自分を優れた人物だとする言葉であっても、意味がわからなければ確かめようとするソクラテスの姿です。
ただし、神託がいつ伝えられたのかは正確にはわかっていません。また、この出来事だけが、ソクラテスが哲学に関心を持った原因だったと断定することもできません。
ここまでの話は、プラトンの著作に描かれた、裁判でのソクラテス自身の説明に基づいています。
そして、この話にはもう一つ重要な意味がありました。
ソクラテスは、自分がなぜ人々に質問を重ねるようになったのかを、裁判で説明しようとしていたのです。
しかし、その活動は、すべての人から歓迎されたわけではありませんでした。
次は、ソクラテスの対話が周囲にどう受け止められ、なぜ人々の反感や若者たちの関心を集めたのかをたどっていきましょう。
5 対話が生んだ関心と反感
ソクラテスの対話は、人々の関心を集める一方で、反感を招くこともありました。そして、その活動が彼の評判に影響したと、プラトンの『ソクラテスの弁明』には描かれています。
第4章で紹介したように、ソクラテスは神託の意味を確かめようとして、知恵があると評判の人々を訪ねました。
その相手には、政治家や詩人、職人などがいました。
ソクラテスは相手に質問を重ね、答えの理由を尋ねながら、本当にその説明でよいのかを確かめようとしました。
しかし、そのような対話が、誰にとっても歓迎されるわけではありませんでした。
『ソクラテスの弁明』21d〜21eには、ソクラテスがある政治家と話し、相手が十分に理解していないことを示そうとしたところ、本人だけでなく、周囲で聞いていた人々からも反感を買ったと語る場面があります。
人々から知恵があると思われていた人物が、ほかの人の前で自分の考えを十分に説明できない。
そのような場面は、相手にとって受け入れにくいものだったとも考えられます。
一方、対話を見ていた人々の中には、相手の説明の問題点を指摘するソクラテス自身を、知恵のある人物だと思う人もいたとされています(23a)。
つまり、同じ対話でも、相手に疑問を投げかけられる人と、それを見ている人とでは、受け止め方が違うことがあったのです。

そして、ソクラテスのまわりには、若者たちも集まるようになりました。
『ソクラテスの弁明』23c〜23dによると、特に裕福な家庭で、自由な時間の多かった若者たちが、自分からソクラテスについて回ったと語られています。
彼らは、人々が質問を受けて答えに困る様子を興味深く感じていました。
そして、ソクラテスの質問の仕方をまねて、自分たちもほかの人に質問するようになったといいます。
ところが、若者たちから質問された人々の中には、ソクラテス本人に怒りを向ける人もいました。
若者がまねをしているのは、ソクラテスの対話の仕方だったからです。
ソクラテスは、こうした反感が積み重なり、「若者を悪い方向へ導いている」という非難につながったと、裁判で説明しています。
ここで、第2章で紹介した告発とのつながりが見えてきます。
ただし、若者が質問の仕方をまねたことと、実際に若者を悪い方向へ導いたことは、同じではありません。
では、ソクラテスは若者たちを集め、自分の考えを教えていたのでしょうか。
『ソクラテスの弁明』33a〜33bでは、ソクラテスは自分について、誰かの教師になったことはなく、特定の人に知識を教えると約束したこともないと述べています。
そして、若者でも年配の人でも、裕福な人でも貧しい人でも、話を聞きたい人や質問したい人には応じていたと説明しています。
お金を払った人だけに話をする、というやり方でもなかったのです。
これは、ソクラテスが裁判で述べた、自分の活動についての説明です。
実際に彼が周囲の人々からどのように受け止められていたのか、そのすべてをこの説明だけで確定することはできません。
また、人々の反感が裁判にどの程度影響したのかについても、当時の政治や宗教などの背景を含めて考える必要があります。
それでも、古代の記録からは、一人の人物の姿が浮かび上がります。
ソクラテスは、人々と対話することで関心を集め、同時に反感も買いながら、アテナイの社会で問い続けた人物として伝えられているのです。
では、周囲の人々から知恵のある人物だと思われることもあったソクラテス自身は、自分の知恵をどう考えていたのでしょうか。
次は、その答えをたどりながら、ソクラテスと「無知の知」との関係をさらに深く見ていきましょう。
6 自分の知恵をどう考えたのか
ソクラテスは、自分を何でも知っている賢い人物だとは考えていませんでした。むしろ、自分の知恵には限界があると考え、そのことを意識しながら人々への問いかけを続けた人物として描かれています。
第5章では、ソクラテスの対話を見ていた人々の中に、彼自身を知恵のある人物だと考える人がいたことを紹介しました。
しかし、ソクラテス本人の考えは、その評判とは異なっていました。
第1章で紹介したプラトンの『ソクラテスの弁明』21dには、政治家との対話を終えたソクラテスが、自分自身をどう評価したのかが記されています。
ソクラテスは、人間にとって何が立派でよいことなのかについて、自分も相手も十分に知っているとは言えないと考えました。
ただし、相手は自分が知っていると思っているのに対し、ソクラテスは、知らないことを知っているとは思っていませんでした。
その違いに限って、自分の方が少しだけ知恵があるのではないかと考えたのです。
ここで大切なのは、ソクラテスが自分にはあらゆる知識がないと考えていたわけではないことです。
実際に、同じ著作の22dでは、職人たちが自分の知らない専門的な知識を持っていることを認めています。
では、なぜ周囲の人々はソクラテスを知恵のある人物だと思ったのでしょうか。
『ソクラテスの弁明』23aによると、彼は、対話で相手の説明の問題点を明らかにすると、周囲の人々が、その問題について自分は詳しいのだと思ってしまうと語っています。
つまり、他人の説明の問題点を指摘できることと、その問題の正しい答えを自分が知っていることは、同じではないのです。

さらにソクラテスは、神託について、自分なりの理解を語りました。
神こそ本当に知恵を持つ存在であり、それと比べれば、人間の知恵はごくわずかなものなのではないか。
そして、神託が自分の名前を使ったのも、自分が特別に優れているからではなく、人間が自分の知恵の限界を理解することの大切さを示すためだったのではないか、と考えたのです(23a〜23b)。
これは、プラトンの著作でソクラテスが語った神託の解釈です。
では、そのように考えたソクラテスは、問い続けることをやめたのでしょうか。
いいえ。彼は、自分の知恵には限界があると考えながらも、人々との対話を続けました。
しかも、その活動は楽しいことばかりではなかったようです。
『ソクラテスの弁明』21eには、人々から反感を買っていることに気づき、心を痛め、恐れも感じながら、それでも神に関わる務めを何より大切だと考えた、と語る場面があります。
さらに23b〜23cでは、知恵があると思われる人々を訪ねる活動に多くの時間を費やし、自分の生活や都市の仕事に十分な時間を使えず、貧しい暮らしをしていたと説明しています。
もちろん、これは裁判でのソクラテス自身の説明であり、その生活のすべてが独立した資料で確かめられているわけではありません。
それでも、ここからは重要な人物像が見えてきます。
プラトンが描いたソクラテスは、自分の知恵を誇るのではなく、その限界を意識し、反感や生活上の苦労を抱えながらも、問い続けた人物だったのです。
この姿こそ、後世「無知の知」と呼ばれる考え方を理解するうえで、ソクラテスという人物が重要な理由の一つです。
ソクラテスの言葉や人生を、もっと自分でも確かめてみたい方へ。
この記事の後半では、初めての方にも読みやすい本から、ソクラテスを描いた古代の著作を読める日本語訳、さらに深く学べる研究書まで紹介しています。
ここで、ソクラテス自身の歩みに話を戻しましょう。
彼はなぜ、そのような苦労をしてまで問い続けることを大切にしたのでしょうか。
次は、ソクラテスが知識や評判以上に何を重視し、どのような人間として生きようとしていたのかをたどっていきましょう。
7 何のために問い続けたのか
ソクラテスが人々に問い続けたのは、自分の知恵を示すためではなく、人々が何を大切にし、どう生きるべきかを考え直してもらうためだったと、プラトンの著作には描かれています。
第6章では、ソクラテスが自分の知恵の限界を意識しながらも、人々への問いかけを続けたことを紹介しました。
しかし、彼が目指していたのは、人々の知識を確かめることだけではありませんでした。
第1章で紹介したプラトンの『ソクラテスの弁明』29d〜30bには、ソクラテスが人々に何を大切にしてほしかったのかが記されています。
彼が問題にしたのは、多くの人がお金や名誉、評判を大切にする一方で、知恵や真実、そして自分の魂をよりよくすることには、十分な関心を向けていないのではないか、ということでした。
ここでいう魂(たましい)は、古代ギリシア語でψυχή(プシュケー、「魂」「生命」などと訳される言葉)といいます。
この場面では、死後の魂についてだけ話しているのではありません。
自分が何を正しいと考え、どのような判断をし、どう生きていくのかという、人間自身のあり方に関わる言葉です。
そして、その魂をよりよくすることと深く結びつくのが、徳(とく)です。
徳は、古代ギリシア語でἀρετή(アレテー、「優れたあり方」「卓越性」などを意味する言葉)といいます。
アレテーは広い意味を持つ言葉ですが、ソクラテスが人間の生き方について語る場合には、正しいことを理解し、よく判断して生きるための、人間としての優れたあり方を指します。
つまり、魂をよりよくすることとは、自分の生き方を見直し、人間としての徳を大切にすることなのです。
では、ソクラテスは、そのために何をしていたのでしょうか。
『ソクラテスの弁明』29e〜30aでは、相手が自分の魂を大切にしていると答えても、ソクラテスはすぐに話を終わらせないと述べています。
さらに質問を重ね、本当に徳を大切にしていると言えるのかを確かめようとしたのです。
もし、相手が徳を持っていると主張していても、実際にはそう思えなければ、大切なものを軽く扱っていると厳しく指摘することもあったと語っています。
これは、相手を安心させるだけの会話ではありません。
自分では正しく生きていると思っていても、本当にそう言えるのかを、相手自身に考え直してもらおうとする働きかけでした。

ソクラテスは、財産や名誉を持つこと自体を、すべて否定していたわけではありません。
『ソクラテスの弁明』30bでは、財産によって徳が生まれるのではなく、徳によって財産やほかの善いものがもたらされるという趣旨を述べています。
これは、徳を身につければ必ずお金持ちになれるという約束ではありません。
財産を増やすことよりも、まず自分がどのような人間として生きるのかを大切にすべきだという、ものごとの価値の順番に関わる考えです。
さらに、同じ著作の31bでは、ソクラテスは自分の活動について、父親や兄が身近な人に助言するように、一人ひとりに徳を大切にするよう働きかけてきたと語っています。
ここには、ソクラテスが自分の活動をどう受け止めていたのかが表れています。
彼は、人々への問いかけを、相手の間違いを指摘するだけの行為ではなく、その人がよりよく生きるための助けになる活動だと考えていたのです。
もちろん、これはプラトンが描いた裁判でのソクラテス自身の説明です。
第5章で見たように、その活動を歓迎しない人々もいました。ソクラテスの考えが、当時のすべての人に受け入れられていたわけではありません。
それでも、彼が問い続けた理由を考えるうえで、重要なことが見えてきます。
ソクラテスは、自分だけが知恵を持つことよりも、人々が自分自身の生き方を見直し、徳を大切にして生きることを重視した人物として描かれているのです。
では、これほど大切にしていた活動について、ソクラテスは死刑の可能性がある裁判の場で、どのような判断をしたのでしょうか。
次は再び紀元前399年のアテナイへ戻り、ソクラテスが自分の生き方をどこまで貫こうとしたのかをたどっていきましょう。
8 再び裁判へ
なぜソクラテスは問い続けることをやめなかったのか
ソクラテスが裁判でも問い続けることをやめないと語ったのは、人々と対話することを神から与えられた務めだと考え、命を守るためであっても、自分が正しくないと思うことを選ぶべきではないと考えていたからです。
ここで、物語の始まりとなった紀元前399年のアテナイへ戻ってみましょう。
第2章で紹介した裁判の場に立っていたのは、それまでの人生で何度も人々と向き合い、ときには反感を買いながらも問い続けてきたソクラテスです。
第7章では、彼が人々に善く生きることを大切にしてほしいと考えていたことを紹介しました。
では、自分自身の命が危険にさらされたときにも、その考えを守ろうとしたのでしょうか。
プラトンの『ソクラテスの弁明』29c〜30cには、ソクラテスが裁判で、ある仮定の話をする場面があります。
それは、もし裁判を行っている市民たちから「哲学をやめるなら釈放する」と言われたら、どうするかという話です。
ソクラテスは、そのような条件を示されたとしても、神に従い、生きている限り哲学を続けると述べています。
ただし、これはソクラテスが考えた仮定の話であり、実際に裁判でその条件が提示されたわけではありません。
では、なぜ彼はそこまでして、自分の活動を大切にしたのでしょうか。
その手がかりは、同じ著作の28e〜29bにあります。
第3章で紹介したように、ソクラテスには兵士として戦争に参加した経験がありました。
彼は裁判で、兵士として命令された場所を守り、死の危険に向き合ったことを振り返っています。
そして、兵士として危険な持ち場を守ったのに、神から与えられたと考える哲学の務めを、死を恐れて捨ててよいのだろうか、という趣旨の考えを述べました。
ソクラテスにとって、人々に問い続けることは、都合が悪くなったら簡単にやめられる趣味ではなかったのです。
しかも、彼は自分の考えを、言葉だけで説明したわけではありません。
『ソクラテスの弁明』32a〜32eには、過去に危険な命令や決定に反対した経験が語られています。
一つ目は、紀元前406年の出来事です。
当時、ソクラテスはアテナイの評議会(ひょうぎかい)という、市民による政治の仕事を進める機関の一員でした。
この年、海戦のあと、犠牲になった兵士たちの救助や遺体の回収をめぐって、将軍たちの責任が問題になりました。
市民たちの集会では、複数の将軍を一度に裁くことが求められました。
しかし、ソクラテスは、その進め方が法律に反すると考え、反対したと語っています。
周囲から強い圧力を受け、捕らえられる危険もありました。
それでも、大勢の人々が求めているからといって、法律に反する決定に協力すべきではないと考えたのです。
そして、もう一つの出来事が、紀元前404年にアテナイが戦争に敗れたあとのことです。
このころ、アテナイでは一時的に三十人政権と呼ばれる、少数の支配者が権力を握る政治体制が成立しました。
この政権は、反対する人々を捕らえたり、処刑したりしていました。
その支配者たちは、ソクラテスを含む5人に、サラミス島にいたレオンという人物を連れてくるよう命じました。
命令の目的は、レオンを処刑することでした。
レオンは、当時の人々から能力や評判を認められていた人物として、クセノポンの『ギリシア史』第2巻第3章39節に描かれています。
同じ著作には、彼が不正な行為をしていなかったという評価も記されています。
ただし、三十人政権がなぜレオンを処刑の対象に選んだのか、その具体的な理由まではわかっていません。
しかし、ソクラテスは、この命令にも従いませんでした。
ほかの4人がレオンを連れに行った一方で、自分は家に帰ったと、裁判で語っています(32c〜32e)。
命令に逆らったことで、彼自身も処刑される可能性がありました。
それでもソクラテスは、自分が不正だと考える行為に加わることを避けたのです。

ここで注目したいのは、二つの出来事が異なる政治体制のもとで起きたことです。
最初は、市民が政治を決める民主政の時代でした。
次は、少数の支配者が権力を握った時代です。
ソクラテスは、どちらの場面でも、権力を持つ人々や多数の人々の判断に、無条件で従ったわけではありませんでした。
彼が裁判で伝えようとしたのは、誰が命令したかよりも、その行為が正しいかどうかを大切にしてきたということでした。
では、ソクラテスは死ぬことをまったく恐れていなかったのでしょうか。
本人の心の中を、私たちが確実に知ることはできません。
ただし、『ソクラテスの弁明』29a〜29bでは、彼は死が人間にとってよいことなのか悪いことなのかは、確かにはわからないと語っています。
その一方で、不正なことをするのは悪いことだと考えていました。
だからこそ、死を避けるために、自分が不正だと考える行為を選ぶべきではないと判断したのです。
そして、この考え方は、裁判で哲学をやめないと述べた姿勢にもつながっています。
もちろん、ここまでの具体的な発言や行動は、プラトンの著作に記されたソクラテス自身の説明に基づいています。私たちが裁判中の本人の気持ちを、そのまま知ることができるわけではありません。
また、裁判に至った理由も、彼が人々から反感を買ったことだけでは説明できません。
紀元前399年のアテナイは、長い戦争と政治体制の変化を経験した社会でした。政治や宗教をめぐる不安や対立も、裁判の背景を考えるうえで重要です。
そのような社会の中で、ソクラテスは自分の考えを裁判で説明しましたが、最終的には死刑判決を受けました。
死刑判決を受けたソクラテスは、その後、牢獄で最期を迎えました。
プラトンの著作『パイドン』117a〜118aには、ソクラテスが友人たちに見守られながら毒薬を飲み、亡くなる場面が描かれています。
ただし、これはプラトンの著作に残された描写であり、当時の会話や出来事の細部まで、そのまま歴史的事実として確かめられるわけではありません。
プラトンが描いたソクラテスは、何が正しいかを問い続け、その考えを自分の行動にも当てはめ、命の危険を前にしても大切にしようとした人物だったのです。
では、ソクラテス自身が哲学の本を書き残していないのに、なぜ私たちは、その発言や行動を知ることができるのでしょうか。
次は、ソクラテスについて書き残した人々を紹介し、古代から現代まで伝えられてきた人物像を確かめていきましょう。
9 ソクラテス像を伝えた人々
ソクラテスの姿が現代まで伝わっているのは、彼自身の著作ではなく、彼を知る人々や同じ時代に生きた人々が、それぞれの立場から言葉や行動を書き残したからです。
第8章では、裁判で自分の生き方を説明し、命の危険を前にしても考えを曲げようとしなかったソクラテスの姿をたどりました。
しかし、第3章でも紹介したように、ソクラテス本人が書いた著作は残っていません。
では、なぜ私たちは、これほど詳しく彼の人生や考え方を知ることができるのでしょうか。
その答えを知るために重要なのが、プラトン、クセノポン、アリストパネスという三人が残した著作です。
ただし、三人が描いたソクラテスは、まったく同じ人物像ではありませんでした。

哲学の問いを伝えたプラトン
第1章で紹介したプラトンは、ソクラテスと交流した古代ギリシアの哲学者です。
彼は『ソクラテスの弁明』のほかにも、登場人物同士の会話を通して哲学の問題を考える対話篇(たいわへん)と呼ばれる形式の著作を残しました。
その作品には、ソクラテスが人々へ問いかけ、正しさや知恵、人間の生き方について考え続ける姿が描かれています。
しかし、対話篇は実際の会話をそのまま記録したものではありません。
プラトン自身の哲学的な考えが、登場人物ソクラテスの言葉として表現されている場合もあると考えられています。
プラトンの著作は、ソクラテスの哲学を知る重要な資料ですが、そこに書かれた言葉をすべて本人の発言だと断定することはできないのです。
日常生活の中の姿を伝えたクセノポン
もう一人が、クセノポン(古代ギリシア語:Ξενοφῶν〈クセノポーン〉、紀元前430年ごろ〜354年ごろ)です。
クセノポンは、ソクラテスと交流した古代ギリシアの軍人・歴史家で、ソクラテスについても複数の著作を残しました。
その代表的な作品が『ソクラテス言行録』です。
『ソクラテスの思い出』とも訳されるこの本は、ソクラテスの言葉や行動を紹介し、彼がどのような人物だったのかを伝えようとした著作です。
第1巻第1章10節には、ソクラテスが朝から人々の集まる場所に出かけ、市場でも会話し、話を聞きたい人は誰でも聞くことができた、と記されています。
さらに、友人との付き合い方や生活上の判断について助言する姿も描かれています。
クセノポンの著作からは、人々の日常生活に関わりながら、相手に語りかけていたソクラテスの姿を知ることができます。
ただし、こちらも著者が自分の考えや目的に沿ってまとめた作品です。すべての会話が、実際に交わされたとおりだったとは限りません。
喜劇の中で描かれたソクラテス
一方、ソクラテスを笑いの対象として描いた人物もいました。
アリストパネス(古代ギリシア語:Ἀριστοφάνης〈アリストパネース〉、紀元前450年ごろ〜386年ごろ)は、アテナイで活躍した喜劇作家です。
喜劇とは、人々を笑わせるために、人物や社会の出来事をおかしく描く演劇のことです。
彼の作品『雲』(古代ギリシア語:Νεφέλαι〈ネフェライ〉、「雲」の意味)は、紀元前423年、ソクラテスがまだ生きていた時代に初めて上演されました。
この劇では、ソクラテスが空の不思議な現象を調べたり、言葉を巧みに使って人を言い負かす方法を教えたりする人物として描かれています。
しかし、これは笑いのために人物を大きく誇張した作品です。
劇に登場するソクラテスの行動を、そのまま歴史上の本人の行動だと考えることはできません。
それでも、この作品には重要な意味があります。
第4章で紹介した『ソクラテスの弁明』19cでは、ソクラテス自身が、アリストパネスの喜劇に登場する人物像に触れています。
『雲』は、ソクラテスが生きていた時代に、彼がどのように笑いの対象として描かれていたのかを知る手がかりになるのです。
では、三人のうち誰が、本当のソクラテスを伝えているのでしょうか。
この問いに、一人だけを選んで答えることはできません。
研究者は、こうした古代の著作を比べながら、誰がいつ書いたのか、どのような目的で書いたのか、描かれた出来事がほかの資料とも一致するのかを確かめています。
これは、複数の歴史資料を比較し、実際に何が起きたのかを考える方法です。
ただし、共通する内容があっても、それだけで本人の発言が一言一句正確に記録されたとは限りません。
このように、残された資料から歴史上のソクラテス本人の姿をどこまで知ることができるのかという問題は、ソクラテス問題(英語:Socratic problem〈ソクラティック・プロブレム〉)と呼ばれています。
私たちは古代の著作を通してソクラテスを知ることができますが、その人物のすべてを確実に知ることができるわけではありません。
それでも、彼に関心を持つ人々が多くの著作を残し、その作品が読み継がれたことで、ソクラテスの問いかけや生き方は、長い時代を越えて伝わってきました。
ソクラテスは、同じ時代の人々にさまざまな姿で描かれ、その人物像が後世まで考え続けられてきた哲学者なのです。
では、そうして伝えられたソクラテスの姿が、なぜ特に「無知の知」という言葉と結びつくようになったのでしょうか。
次は、古代の記述と後世の解釈を区別しながら、その関係を確かめていきましょう。
10 「無知の知」と結びつく理由
ソクラテスが「無知の知」と結びつくようになったのは、彼自身がその言葉を作ったからではありません。古代の著作に残されたソクラテスの姿が、後世、特に日本で「無知の知」という言葉とともに説明されるようになったからです。
第9章では、プラトンたちが残した著作によって、ソクラテスの人物像が現代まで伝わっていることを紹介しました。
しかし、古代の著作に書かれた言葉と、後世の人々がその人物を説明するために使う言葉は、必ずしも同じではありません。
「無知の知」は、その違いを理解するうえで重要な例です。
古代の著作には、何が書かれているのか
第1章と第6章で紹介したプラトンの『ソクラテスの弁明』21dには、ソクラテスが、自分の知らないことを知っているとは思わない、という趣旨の発言をする場面があります。
一方で、ソクラテスが自分の考えを「無知の知」という決まった名前で呼び、一つの教えとして説明したわけではありません。

この違いは重要です。
第4章から第8章までたどってきたように、ソクラテスは自分の知恵について考えるだけでなく、人々と対話し、反感を買いながらも、どう生きるべきかを問い続けた人物として描かれています。
そして裁判でも、その活動を大切にすると語りました。
後世の人々が「無知の知」と結びつけてきたのは、こうしたソクラテスの言葉や生き方の一面なのです。
日本では、どのように理解されてきたのか
日本では、ソクラテスを紹介するとき、「無知の知」という言葉が広く使われてきました。
ただし、誰が、いつ、この日本語表現を最初に使い始めたのかについては、確かな資料だけで一人の人物に特定できるわけではありません。
また、この呼び方が古代のソクラテスの姿を正確に表しているのかについても、研究上の議論があります。
その一人が、納富信留(のうとみ・のぶる、1965年〈昭和40年〉生まれ)です。
納富は、古代ギリシアの哲学を研究する日本の哲学研究者です。
著書『哲学の誕生――ソクラテスとは何者か』(筑摩書房、2017年〈平成29年〉)では、ソクラテスの死後に人々が残した著作や、彼の人物像をめぐる議論を調べ、哲学がどのように形づくられていったのかを考えています。
その第6章で、納富は日本で広まった「無知の知」という理解を見直しています。
納富が重視するのは、「不知の自覚(ふちのじかく)」という表現です。
「不知」とは、まだ知らないということです。
「自覚」とは、自分自身でそのことに気づいていることです。
つまり、不知の自覚とは、自分が知らないことについて、知っているふりをせず、知らないと受け止めることです。
納富は、古代の言葉を日本語に訳す際にも、単に「知らない」状態と、知らないのに知っていると思い込む状態を区別しています。
この違いを確かめるには、後世の短い言葉だけを見るのではなく、プラトンの原文に戻り、ソクラテスが何を「知っている」と述べ、何を「知らないと思う」と述べたのかを読み比べる必要があります。
なお、これは納富による翻訳と解釈の立場であり、すべての研究者が同じ言葉を使っているという意味ではありません。
ソクラテスを知るうえで、本当に重要なこと
ここまで考えると、「無知の知」という言葉だけでソクラテスという人物を説明し尽くすことはできないとわかります。
ソクラテス自身は、一つの短い言葉を後世に残すために生きていたわけではありません。
プラトンたちの著作に描かれているのは、知恵について問い、人々の生き方を気にかけ、裁判でも自分の考えを説明した、一人の哲学者の姿です。
ソクラテスが「無知の知」を理解するうえで重要なのは、その言葉の作者だからではなく、後世の人々がその言葉を通して理解しようとしてきた、問い続ける生き方の中心にいる人物だからです。
だからこそ、「無知の知」という言葉からソクラテスを知ったあとには、その言葉だけでは見えてこない人物の姿にも目を向ける必要があります。
「無知の知」という言葉そのものを、もう少し詳しく知りたい方へ。
今回はソクラテスという人物の人生を中心に紹介しました。
「無知の知」の意味や具体例、日常生活での生かし方については、別の記事で詳しく解説しています。
→ 無知の知とは?意味と具体例、ソクラテスが問い続けた理由を解説
次は、ここまでたどってきたソクラテスの人物像について、誤解しやすい点を整理していきましょう。
11 ソクラテス像をめぐる誤解
ソクラテスを理解するには、本人が何を大切にしていたと語ったのか、周囲の人々がどう受け止めたのか、後世の著作にどう描かれたのかを分けて考えることが大切です。
第10章まで、ソクラテスの人生と、後世に伝えられた人物像をたどってきました。
ここで、一人の人物として理解するために、特に注意したい点を整理しましょう。
ソクラテスは、知らないことを認めながらも、自分で判断し、行動した人物として描かれています。
第6章で紹介したように、彼は自分の知恵に限界があると考えていました。
しかし、だからといって、あらゆる判断を避けていたわけではありません。
プラトンの『ソクラテスの弁明』29bには、不正な行いは悪いと考える姿勢が記されています。
第8章で紹介した、法律に反すると考えた裁判の進め方への反対や、不正だと考えた命令を拒んだ行動も、その人物像を知る手がかりになります。
知らないことを認める姿勢と、理由を考えて行動することは、両立していたのです。
ソクラテスが人々に問いかけた目的と、相手が実際に受けた印象は、同じではありません。
第7章で紹介したように、ソクラテスは人々が自分の生き方を見直すことを大切にしていたと語っています。
一方、第5章では、質問された人々が反感を抱いたことも紹介しました。
つまり、ソクラテス自身は相手のためになると考えていたとしても、相手が同じように受け止めたとは限らないのです。
若者たちへの影響と、若者を悪い方向へ導いたという告発も、区別する必要があります。
『ソクラテスの弁明』23c〜23dには、若者たちが自分からソクラテスに近づき、質問の仕方をまねたと記されています。
一方、33a〜33bでは、ソクラテスは自分について、決まった弟子に知識を教える教師ではなかったと説明しています。
ただし、教師ではなかったという本人の説明だけで、若者への影響がなかったと結論づけることはできません。
同じように、若者が影響を受けたという事実だけで、告発されたとおりに若者を悪くしたと決めることもできません。
そして、ソクラテスを完全に正しい人物として描くことにも注意が必要です。
第9章で紹介したように、プラトン、クセノポン、アリストパネスは、それぞれ異なるソクラテスの姿を書き残しました。
私たちは、それらの記録を通して彼の人生を考えることはできます。しかし、本人の言葉や気持ち、行動のすべてを確実に知ることができるわけではありません。
裁判で死刑判決を受けたという事実も、それだけで彼の考えがすべて正しかった、あるいはすべて間違っていたと証明するものではありません。
ソクラテスは、知らないことを認め、他人にも問いかけ、自分自身も判断しながら生きた人物として伝えられています。
その一方で、彼の活動を歓迎した人も、反感を抱いた人もいました。
本人の説明、周囲の反応、残された資料の限界を区別することで、ソクラテスを一つの言葉だけでは見えない、一人の人間として理解できるようになるのです。
ここまでたどってきた人生を踏まえて、次は、なぜソクラテスが「無知の知」を理解するうえで重要な人物なのかを、記事全体から整理していきましょう。
12 まとめ・考察
ソクラテスは何を問い、何を後世に残したのか
ソクラテスは、自分の知恵の限界を意識しながら、人々に「何が正しいのか」「人はどう生きるべきなのか」を問い続けた人物として伝えられています。そして、その問いかけを自分自身の生き方にも向けていたことが、「無知の知」を理解するうえで重要なのです。
ここまで、神託に疑問を持ったソクラテスが、人々との対話を続け、反感を買いながらも、裁判で自分の生き方を説明するまでの人生をたどってきました。
ソクラテスにとって、問いかけることは、単に相手の知識を確かめるためのものではなかったのでしょう。
第7章で紹介したように、プラトンの『ソクラテスの弁明』には、人々が知恵や真実を大切にし、善く生きることを考えてほしいと願う姿が描かれています。
そして第8章で見たように、彼は、自分が不正だと考える行為に加わることを避け、裁判でも哲学を続けると語りました。
ソクラテスは、他人に問いを投げかけるだけではなく、自分自身にも「どう行動するべきか」を問い続けた人物だったと理解できます。
では、そんなソクラテスは、後世に何を残したのでしょうか。
不思議なことに、ソクラテス本人が書いた著作は残っていません。
それでも、彼と交流したプラトンたちは、その人物像や哲学的な対話を著作に残しました。
とりわけプラトンは、ソクラテスを登場人物とする対話篇を通して、知識や正しさ、人間が善く生きることについての問いをさらに深めていきました。
後の哲学者たちも、そうした問題を受け継ぎ、ときには違う答えを考えてきました。
ソクラテスの影響は、何か一つの答えが、そのまま何百年も守られたということではありません。
一人の人物が投げかけた問いが、別の人々の思考を動かし、新しい議論を生み出していったことにも、彼が後世に残した大きな意味があるのです。
ここからは、ソクラテスの人生をたどってきた私なりの考察です。
私は、ソクラテスの生き方を考えると、「問いは、相手に向けるだけでなく、最後には自分自身へ返ってくるものなのではないか」と感じます。
例えば、学校や職場で、ほとんどの人がある決定に賛成している場面を想像してみてください。
自分も、その場の流れに合わせて賛成しようとしています。
ところが、ふと疑問が浮かびます。
「その決め方で、困る人はいないだろうか?」
「みんなが賛成していること以外に、正しいと言える理由はあるだろうか?」
こんな経験は、誰にでもあるかもしれません。
ここで大切なのは、必ず反対することではありません。
まず、なぜその決定がよいと考えられているのかを確かめることです。
そして、相手の説明を聞き、自分が見落としていることはないかも考える。
それでも問題があると判断したなら、自分はどう行動するべきなのかを考える。
これは、ソクラテスがその場面について直接教えた方法ではありません。彼の人生から、現代の私たちにも引き寄せて考えられる一つの例です。
では、あなたならどうするでしょうか。
周囲と意見が違ったとき、自分の考えを守りますか。それとも、相手の意見に合わせますか。
私は、どちらかを最初から正解と決める必要はないと思います。
大切なのは、自分の考えにも相手の考えにも理由を尋ね、確かめたことをもとに判断することではないでしょうか。
相手の説明に納得できれば、自分の考えを変えてもよい。
反対に、十分に考えても納得できないのであれば、その理由を大切にしてよい。
ただし、自分が正しいと信じているからといって、必ず正しいとは限りません。
自分の考えを大切にすることと、自分の考えを疑い直せることは、両立するのだと思います。

考えてみれば、自分の著作が残っていないソクラテスが、二千年以上も後の私たちに「自分はどう生きるべきだろう」と考えさせていること自体、とても興味深いことです。
彼が残したものは、後世の誰もが従うべき一つの正解ではありません。
古代の著作を通して伝わってきたのは、知っていると思い込まず、相手に問い、自分自身の行動についても考え続けた人物の姿です。
ソクラテスが「無知の知」を理解するうえで重要なのは、その言葉を作ったからではなく、知らないことへの向き合い方が、対話や人生の選択とどのようにつながるのかを考える手がかりとなる人物だからです。
そして私は、そこにこそ、今もソクラテスの人生を学ぶ意味があるのではないかと考えています。
ソクラテスを知って、哲学そのものにも興味が湧いた方へ。
「そもそも哲学とは何をすることなのだろう?」
「当たり前だと思っていることを、なぜ問い直すのだろう?」
そんな疑問が生まれた方には、哲学の意味や考え方を身近な例から紹介した記事もおすすめです。
おまけコラム
靴を履いただけで驚かれた? 古代の宴会で語られた意外なソクラテス
古代の著作には、普段は裸足で歩き、考え事に夢中になると長時間その場から動かなくなる、少し変わったソクラテスの姿も描かれています。
ここまで、ソクラテスが何を大切にし、どのように生きた人物だったのかをたどってきました。
しかし、彼の姿を伝える著作には、思わず笑ってしまうような場面も残されています。
その一つが、プラトンの『饗宴』(きょうえん)です。
原題は古代ギリシア語でΣυμπόσιον(シュンポシオン、「人々が集まって酒を飲み、語り合う会」の意味)といい、人々が宴会で愛について語り合う様子を描いた哲学的な対話篇です。
この作品の174aには、ソクラテスが宴会へ出かけようとする、こんな場面があります。
ある知人がソクラテスに出会うと、彼は体を洗い、珍しく履物を履いていました。
それを見た知人は、普段とは違う身なりに驚き、どこへ行くのかを尋ねます。

ソクラテスは、宴会に招かれたので、それにふさわしく身なりを整えたのだと答えました。
靴を履いているだけで珍しがられるとは、普段のソクラテスはどれほど気取らない姿だったのでしょうか。
さらに、この『饗宴』には、ソクラテスの変わった行動について語る人物が登場します。
その人物は、アルキビアデス(古代ギリシア語:Ἀλκιβιάδης〈アルキビアデース〉、紀元前450年ごろ〜404年ごろ)です。
彼はアテナイの政治家・軍人で、ソクラテスと交流があった人物として知られています。
『饗宴』220bでは、アルキビアデスが、戦争に参加していたころのソクラテスについて語っています。
ある冬の日、寒さが非常に厳しく、兵士たちは衣服を重ね、足にも防寒のためのものを巻いていました。
ところが、ソクラテスはいつもと変わらない服装で、靴も履かずに氷の上を歩いていたというのです。
しかも、履物を履いたほかの兵士たちより、軽々と歩いているように見えたと語られています。
そして、もう一つ驚くような話があります。
今度は、夏の出来事です。
『饗宴』220c〜220dには、ソクラテスが朝から何かを考え始め、その場に立ったまま動かなくなったという話が登場します。
昼になっても、夕方になっても、まだ考え続けています。
兵士たちは不思議に思い、夜になると寝具を持ち出して、本当に一晩中立っているのか見守りました。
すると、ソクラテスは翌朝、太陽が昇るまで立ち続け、そのあと太陽に祈りをささげて立ち去ったというのです。
寒い日でも裸足で歩き、考え事を始めたら一晩中動かない。そんなソクラテスの姿を想像すると、哲学者という言葉から受ける印象が少し変わるかもしれません。
アルキビアデスは、ソクラテスをシレノス(古代ギリシア神話に登場する、人間とは異なる滑稽な姿で描かれる存在)の像にもたとえています。
当時、外側にはシレノスの姿があり、開くと内側に神々の像が現れる彫刻があったと語られています。
アルキビアデスは、ソクラテスもそれと似ていて、外から見ると変わった人物なのに、深く知ると内側に大切なものが隠れているのだと表現しました(215a〜215b)。
ただし、今回の話は、プラトンが書いた作品の中で、登場人物が語る逸話です。
実際のソクラテスが何時間立っていたのか、寒さをどれほど平気にしていたのかまで、歴史的な事実として確認できるわけではありません。
それでも、こうした記述からは、ソクラテスが、同じ時代の人々にとっても、普通とは少し違う、印象に残る人物として描かれていたことがわかります。
ここからは、私なりの考察です。
私たちは、哲学者と聞くと、立派な服を着て、難しい本を読みながら静かに考えている人物を想像するかもしれません。
けれども、古代の著作に描かれたソクラテスは、そんな姿ばかりではありませんでした。
人の魅力は、肩書きや見た目だけではわからない。少し変わっていると思われる人の中にも、ほかの人にはない考え方や大切なものが隠れているのかもしれません。
ソクラテスを知ることは、哲学を学ぶことだけではなく、そんな一人の個性的な人間に出会うことでもあるのだと思います。
さらに学びたい人へ
ソクラテスがどのような人物だったのかを知ると、「無知の知」という言葉にも、これまでとは違った深みが感じられるかもしれません。
ここでは、ソクラテスの考え方や人生をもっと知りたい人に向けて、おすすめの本と、歴史を感じられる場所をご紹介します。
おすすめの書籍
小学生・哲学を初めて学ぶ人へ
『こどもギリシア哲学 汝自身を知れ!』 著者:齋藤孝/絵:オフィスシバチャン
小学生や、難しい哲学書を読む前に基本から楽しみたい人。
本の特徴
ソクラテスをはじめ、古代ギリシアの哲学者たちの考え方を、かわいらしいイラストとわかりやすい解説で紹介しています。
おすすめ理由
「無知の知」や「善く生きること」など、今回の記事に関係する考え方にも触れられます。親子で一緒に考えるきっかけにもなる一冊です。
初心者から一般の大人まで、幅広くおすすめ
『ソクラテスの弁明』 著者:プラトン/訳者:納富信留
ソクラテスが裁判で何を語ったと伝えられているのか、原典から知りたい人。
本の特徴
プラトンが描いたソクラテスの裁判での弁明を、日本語訳で読めます。訳者による解説や年譜も収録されています。
おすすめ理由
今回の記事で紹介した、ソクラテスが問い続けた理由や、自分の生き方をどう考えていたのかを、古代の著作からさらに深く理解できます。
中級者・歴史や研究を深く知りたい人へ
『哲学の誕生――ソクラテスとは何者か』 著者:納富信留
ソクラテスの人物像や、後世に伝えられた姿を研究の視点から知りたい人。
本の特徴
さまざまな古代資料を読み解きながら、ソクラテスという人物をめぐる議論と、哲学が形づくられていく過程を考察しています。
おすすめ理由
今回の記事の「ソクラテス問題」や「無知の知」という呼び方について、さらに理解を深められます。人物紹介を読み終えた後の、次の一冊におすすめです。
ソクラテスゆかりの地と、対話を体験できる場所
アテナイの古代アゴラ(ギリシア・アテネ)
おすすめ:ソクラテスが生きた社会の雰囲気を感じたい人へ。
古代アゴラは、市民が集まり、政治や商業などが営まれたアテナイの中心的な場所です。
現在は遺跡として見学でき、敷地内の古代アゴラ博物館では、当時の社会や民主政に関係する資料を見ることができます。
ソクラテスが生きた社会を、実際の場所から想像するのに適しています。ただし、個々の対話が行われた正確な地点を特定できるわけではありません。
デルフォイのアポロン神殿跡(ギリシア・デルフォイ)
おすすめ:ソクラテスと神託の関係をもっと知りたい人へ。
プラトン『ソクラテスの弁明』では、友人カイレポンがデルフォイで神託を尋ねたと語られています。
現在もアポロン神殿の遺跡が残っており、周辺はユネスコ世界遺産に登録されています。
神託が古代ギリシアの人々にとってどのような存在だったのか、その歴史的な背景を感じられる場所です。
新宿哲学カフェ(東京都新宿区)
おすすめ:哲学や対話に初めて触れ、自分の疑問を言葉にしてみたい人へ。
東京都新宿区にある「対話屋ディアロギヤ」が案内している、哲学や対話を初めて知る人向けの場所です。
哲学の専門知識がなくても、少人数で日常の疑問を話したり、哲学対話とはどのようなものなのかを質問したりできます。
また、ほかの参加者と一緒に問いを考える体験をしたい人には、同じ団体が別に開催する「哲学対話イベント」もあります。
古代ソクラテスの対話を再現する施設ではありませんが、問いかけたり、人の考えに耳を傾けたりすることを身近に感じられる場所です。
※訪問前に開催日時や参加条件を公式案内でご確認ください。
本を読んだり、歴史の舞台を訪れたり、誰かと話し合ったりすることで、ソクラテスが生涯を通して向き合った「知ること」や「善く生きること」への問いが、少し身近になるかもしれません。
疑問が解決した物語
放課後の図書室。
古代アテナイの街のざわめきを想像していた悠斗と美咲は、いつの間にか目の前の哲学の本に戻っていました。
「美咲、最初は『無知の知』を調べていたのに、どうしてソクラテスの名前が何度も出てくるのか、不思議だったんだ」
「うん。でも、今なら少しわかる気がする」
美咲は、本に描かれたソクラテスの姿を見つめました。
「ソクラテスは、ただ『自分は知らない』と言っていた人じゃなかったんだね。人に質問しながら、何が正しいのか、どう生きるべきなのかを考え続けた人だったんだ」
「そうだね。それに、自分が正しいと思うことを、言葉だけじゃなくて行動でも大切にしていたんだ」
悠斗は、裁判について書かれたページをもう一度開きました。
「最初は、質問していた人がどうして裁判にかけられたのかと思ったけど、当時の社会や、周りの人たちとの関係もあったんだね」
「それに、ソクラテスのことは、ほかの人たちが書き残したものから知るんだよね。だから、どのように描かれているのかも大事なんだ」
悠斗はうなずき、ノートに一文を書きました。
「ソクラテスが『無知の知』を理解するうえで重要なのは、知らないことを知っていると思い込まず、人々との対話を通して、自分や他人の知恵と生き方を問い続けた人物だから。」
「これなら、最初の疑問に答えられそうだね」
美咲は笑顔になりました。
すると悠斗は、少し考えてから尋ねました。
「ねえ、美咲。もし学校で、みんなが正しいと言っていることに、自分だけ疑問を感じたらどうする?」
「うーん。みんなが言っているからって、すぐに正しいと決めないかな。でも、自分だけが正しいとも思わないようにしたい」
「じゃあ、どうする?」
「まず、『どうしてそう考えるの?』って聞いてみる。それから、自分がそう思う理由も確かめる。相手の話を聞いて、納得できたら考えを変えてもいいと思う」
「なるほど。自分の考えを大切にすることと、その考えを確かめ直すことは、両方できるんだね」
悠斗はノートの最後に、もう一つ書き加えました。
「知らないことを認めるのは、考えることをやめるためじゃない。そこから、もっとよく知り、よりよく判断するためなんだ。」

二人は顔を見合わせ、静かに本を閉じました。
紀元前399年のアテナイを想像する旅は終わりました。
けれど、ソクラテスが大切にしていた問いは、遠い昔の話だけではありません。
あなたにも、周りの人が当たり前だと思っていることに、少し疑問を感じた経験はありませんか。
そんなときは、すぐに賛成したり反対したりする前に、「なぜそう考えるのだろう」「自分は何を根拠にそう思うのだろう」と確かめてみる。
それも、ソクラテスの生き方から学べる、一つの考え方なのかもしれません。
文章の締めとして
今から2400年以上も前、古代アテナイで人々に問いかけていたソクラテス。
彼自身が書き残した著作は伝わっていません。それでも、彼の姿や言葉は、ほかの人々が残した記録を通して、今も私たちのもとに届いています。
遠い昔に生きた一人の人物について、これほど長い時間を経てもなお、人々が知ろうとし、考え続けている。
それは、少し不思議で、素敵なことだと思います。
もし、ソクラテスの人生を知る前と後で、「無知の知」という言葉の感じ方が少しでも変わっていたなら、この記事を書いた意味があったように思います。
これから何かを学ぶとき、誰かの話を聞くとき、ふとソクラテスという人物を思い出すことがあるかもしれません。

補足注意
本記事は、筆者が個人で確認できる範囲の古代資料や研究書などをもとに、ソクラテスの人物像と「無知の知」との関係を紹介したものです。
ソクラテス自身の著作は残っておらず、彼については古代の資料や研究者によって異なる見方もあります。
ここで紹介した内容がすべてではなく、今後の研究や資料の再検討によって、人物像の理解が深まったり、解釈が変わったりする可能性もあります。
🧭 本記事のスタンス
この記事は、ソクラテスについて「これが唯一の正解」と決めつけるものではありません。
一人の哲学者の人生を知ることで、「無知の知」への理解を深め、自分自身でも問い、調べ、考えるための入り口として書いています。
古代の記録や研究者によるさまざまな解釈にも目を向けながら、ぜひ自分なりの疑問や考えを大切にしていただければ幸いです。
知れば知るほど、まだ知らないことが見えてくる――そんなソクラテスの「問い」を「追い」ながら、ぜひ原典や研究書にも触れ、あなた自身の「知りたい」を、さらに深い「知る喜び」へとつなげてみてください。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
ソクラテスの人生は、知らないことに気づく瞬間こそ、新しい問いと学びが始まる大切な一歩なのだと教えてくれているのかもしれません。

参考資料・確認先
本記事は、主に以下の公開資料や研究者の解説、出版社などの公式情報を参考に、ソクラテスの人生や人物像をまとめています。
- Perseus Digital Library(タフツ大学)
プラトン『ソクラテスの弁明』『饗宴』『テアイテトス』『パイドン』、クセノポン『ソクラテス言行録』、アリストパネス『雲』などの古代資料。 - Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科事典)
「Socrates」――ソクラテスの生涯、歴史的背景、人物像についての専門的な解説。 - 日立総合計画研究所・納富信留氏へのインタビュー
「無知の知」と「不知の自覚」についての研究者本人による説明。 - 筑摩書房・光文社・草思社などの出版社情報
納富信留氏の研究書や、本文で紹介した日本語書籍の内容紹介・書誌情報。 - ギリシャ文化省・古代アゴラ博物館の公式案内
古代アテナイの社会や歴史に関する情報。 - ユネスコ世界遺産センター
デルフォイの遺跡と、古代ギリシアにおける神託の歴史的背景。 - 対話屋ディアロギヤ・公式案内
新宿哲学カフェや哲学対話イベントについての紹介。
古代の著作については公開されている原文や英訳を、現代の研究や施設については公開された解説や公式情報を参考にしています。資料によって確認できる範囲は異なるため、本記事ではそれらを踏まえて、ソクラテスという人物をわかりやすく紹介しています。

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