哲学とは何か?意味・考え方を初心者にもわかりやすく解説|「本当にそう?」から始める哲学入門

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哲学は、難しい言葉を覚えることからではなく、「本当にそう?」と問い直すことから始められます。ソクラテスやカントの思想にも触れながら、哲学の意味・考え方・日常で使える問い方を、初心者にもやさしく解説します。

『哲学』とは何か?「当たり前を、本当にそう?と考えてみること」から解説

代表例

「当たり前」って、本当に当たり前?

「どうして勉強しなくちゃいけないの?」

子どもからこう聞かれたら、あなたなら何と答えるでしょうか。

「将来のためだよ」

そう答えるかもしれません。

では、もう一度聞かれたらどうでしょう。

「どうして勉強すると、将来のためになるの?」

少し考えてしまいませんか。

「いい学校に行けるかもしれないから」

では、どうして「いい学校」に行くことが大切なのでしょう。

「いい仕事に就きやすくなるから」

では、「いい仕事」とは何でしょうか。

給料が高い仕事でしょうか。

好きなことができる仕事でしょうか。

人の役に立てる仕事でしょうか。

一つの「なぜ?」から、当たり前だと思っていたことの奥に、いくつもの新しい問いが見えてきました。

実は、こんなふうに「当たり前」をいったん立ち止まって考え直すことが、哲学への入り口になります。

「努力するのは良いことだ」

「約束は守るべきだ」

「幸せになりたい」

普段なら、そのまま受け入れている言葉にも、

「なぜ、そう言えるのだろう?」

「ここでいう“幸せ”って何だろう?」

と問いかけることができます。

哲学は、昔の偉い人が難しい言葉で考えるだけのものではありません。

あなたが今日感じた、

「どうして?」

「本当に?」

という小さな疑問からも、哲学は始まります。

5秒でわかる結論・哲学とは?

哲学とは、世界や自分、人間の生き方や知識、価値などについて問い、その理由を確かめながら、より深く考えていく営みです。

もっと簡単に言えば、

「当たり前だと思っていたことを、“本当にそう?”ともう一度考えてみること」

が、哲学を始める一つの方法です。

たとえば、

「幸せになりたい」

と思ったとします。

そこで、

「どうすれば幸せになれる?」

と考えることも大切です。

哲学では、さらに一歩戻って、

「そもそも、幸せって何だろう?」

と考えることがあります。

お金があること?

好きな人と暮らすこと?

楽しい気持ちでいられること?

自分の人生に納得できること?

こうして、普段は意味を詳しく考えずに使っている言葉を、一度立ち止まって確かめてみます。

ただし、これは哲学の唯一の定義ではありません。

「哲学とは何か」「哲学は何のためにあるのか」「どのように哲学するのか」そのものについても、哲学者たちは考え続けています。

哲学そのものの性質・目的・方法について考える分野は、metaphilosophy(メタフィロソフィー、日本語では「メタ哲学」)と呼ばれます。

ですから今回は、哲学のすべてを一言で決めてしまうのではなく、

「当たり前を、もう一度考えてみる」

という、わかりやすい入り口から始めてみましょう。

小学生にもわかる哲学・「なんで?」を、もう一回考えてみる

友達から、こう言われたとします。

「このゲーム、みんな持ってるよ。君も買ったほうがいいよ」

「そうなんだ。じゃあ買おう」

それも一つの選択です。

でも、一度だけ考えてみます。

「みんなが持っていたら、どうして自分も買ったほうがいいんだろう?」

すると、

「友達と一緒に遊びたいから?」

「持っていないと仲間に入りにくいから?」

「みんなが楽しそうだから?」

「それとも、本当に自分が欲しいから?」

と、いろいろな理由が見えてきます。

さらに、

「みんなと同じであることは大切?」

「自分が欲しいものと、人を見て欲しくなったものは同じ?」

という新しい問いも生まれます。

一つの問いについてよく考えると、その奥から次の問いが見えてくることがあります。

これが、哲学の面白さの一つです。

そして大切なのは、ただ何でも疑ったり、相手の意見を否定したりすることではありません。

「なぜそう考えるのか」を確かめ、よりよく理解しようとすることが大切です。

友達の、

「みんな持っているよ」

という言葉を否定する必要はありません。

「みんなが持っている」

ということと、

「だから自分も買ったほうがいい」

ということの間には、どんな理由があるのだろう。

そこを一度考えてみる。

それだけでも、哲学は始まっています。

第1章 そもそも「哲学」という言葉は何を意味する?

英語の philosophy(フィロソフィー、「哲学」)の語源をたどると、古代ギリシャ語の philosophia(フィロソフィア)に行き着きます。

philosophia は、一般に
「知恵を愛すること」「知恵への愛」
という意味で説明される言葉です。

言葉の成り立ちを見ると、「愛すること・好むこと」に関わる philo-(フィロ)と、「知恵」を意味する sophia(ソフィア)が結びついた言葉として理解できます。

そして、この philosophia を源流にもつ英語の philosophy は、現在では主に「哲学」という学問や探究そのものを表す言葉として使われています。

スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy/スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー)や、アメリカ哲学会(American Philosophical Association/アメリカン・フィロソフィカル・アソシエーション)の資料でも、哲学という言葉が古代ギリシャ語の philosophia に由来し、「知恵への愛」と結びつけて説明されていることを確認できます。

では、「知恵を愛する」とは、知識をたくさん覚えることなのでしょうか。

ここからが、哲学という言葉の本当の面白いところです。

もちろん、知識は大切です。

しかし哲学では、知っていることを増やすだけではなく、

「私は、それをどうして正しいと思っているのだろう?」

と、その理由まで考えていきます。

たとえば、

「正義とは何か」

について考えてみましょう。

辞書で「正義」という言葉の意味を調べることはできます。

でも、それだけでは、

「法律で決まっていることは、いつでも正しいのか」

「一人を犠牲にすれば大勢を助けられる場合、それは正しいのか」

といった問題には簡単に答えられません。

知識を得たあとに、

「それなら、この場合はどう考えればいい?」

「なぜ、その答えを正しいと思う?」

と進んでいく。

American Philosophical Associationも哲学を、考えや問題を体系的に研究し、根本的な真理や世界について理由に基づいて理解しようとする営みとして説明しています。

つまり「知恵を愛する」という言葉は、

「もう知っている」で終わるのではなく、「もっとよく知りたい」と問い続ける姿勢

として考えると、哲学が少し身近になります。

第2章 哲学の一つ目の入口

自分や相手の「考えを吟味する」

哲学をもう少し具体的に理解するために、ここで一つ大切な考え方を紹介します。

哲学をする一つの大切な方法は、自分や相手の考えを「吟味する」ことです。

「吟味」とは、

ある考えについて、その意味や理由、前提などをよく確かめること

です。

たとえば、

「努力すれば成功する」

という言葉を聞いたとします。

そこで哲学的に考えるなら、すぐに賛成・反対を決める前に、

「なぜ、そう言えるのだろう?」

と考えてみます。

努力が成功につながった例は確かにあります。

では、努力してもうまくいかなかった場合はどうでしょう。

そして、そもそも、

「成功」って何でしょうか。

たくさんお金を稼ぐこと?

目標を達成すること?

自分が納得できる人生を送ること?

「成功」という言葉の意味が変われば、

「努力すれば成功する」

という文章について考える内容も変わってきます。

考えを吟味するとは、その考えが「なぜ成り立つのか」を丁寧に確かめていくことなのです。

この姿勢を考えるうえで重要なのが、古代ギリシャの哲学者ソクラテス(紀元前469~399年)です。

ソクラテス自身は著作を残していません。そのため、現在の私たちは主にプラトンクセノポンなど、彼について書き残した人々の作品を通してソクラテスを知っています。資料によって描かれ方には違いがあるため、「歴史上のソクラテス」と「作品に描かれたソクラテス」を完全に同じものとして扱えない点にも注意が必要です。

そのうえで、プラトンの『ソクラテスの弁明』に描かれたソクラテスは、自分自身と他者を問い、徳や生き方について考え続けることを非常に重視しています。裁判の場面でも、自分と他人を吟味しながら徳について語り合うことを、人間にとって大切な営みとして述べています。

Stanford Encyclopedia of Philosophyも、ソクラテスの生涯の仕事を、自分自身と他者の生を吟味することと説明しています。

ここで読者に覚えてほしいのは、

哲学では、相手だけでなく、自分自身の考えにも問いを向ける

ということです。

「相手はどうしてそう考えるのだろう?」

だけではなく、

「では、自分はどうしてこう考えているのだろう?」

と問い返してみる。

哲学で最も深く調べることになる考えは、案外、自分自身の考えなのかもしれません。

第3章 「考えを吟味する」って、どういうこと?

もう少し身近なイメージで考えてみましょう。

私たちは毎日、たくさんの「考えという橋」を渡りながら生活しています。

ここでは、私たちが何かを判断するときに使っている考え方や理由のつながりを、わかりやすく「考えという橋」にたとえてみます。

「努力することは良いことだ」

「大勢が賛成しているなら正しいだろう」

「お金があれば幸せになれる」

「有名な人が言っているから信用できる」

こうした考えをもとに、

「だから、こうしよう」

と判断しています。

哲学では、その橋を渡る前に、少しだけ足元を確かめます。

「この考えを支えている理由は何だろう?」

「いつでも成り立つのだろうか?」

「反対の例はないだろうか?」

「そもそも、この言葉は何を意味しているのだろう?」

たとえば、

「お金があれば幸せになれる」という橋を考えてみます。

お金が増えることで、生活上の選択肢が増えたり、不安を減らせたりする場合はあるでしょう。

では、

「お金が増えれば増えるほど、人は必ず幸せになる」

とまで言えるでしょうか。

そもそも「幸せ」には、

安心して暮らせること、

大切な人と過ごすこと、

健康であること、

自分の人生に意味を感じることなど、

いくつもの考え方があります。

すると、

「お金があれば幸せになれる」

という一見わかりやすい言葉の中にも、

たくさんの問いが隠れていたことがわかります。

哲学で考えを吟味するとは、その考えを支えている理由や前提を確かめ、どこまで成り立つのかを丁寧に考えることです。

理由を確かめてみて、

「この考えには十分な理由がありそうだ」

と思うこともあります。

反対に、

「ある場合には成り立つけれど、いつでも正しいわけではなさそうだ」

と考え直すこともあります。

さらに、

「別の見方をしたほうが、もっとよく説明できるのでは?」

と、新しい考えへ進むこともあります。

だから哲学では、

何を考えるかだけでなく、「なぜそう考えるのか」を大切にします。

「みんなが言っているから」

「昔からそうだから」

だけで終わらず、一度、自分で理由を確かめてみる。

すると、

「やっぱり、この考えには大切な理由があった」

と改めて納得することもあれば、

「自分は理由を考えずに、ずっとそう思い込んでいた」

と気づくこともあります。

そして、ここから次の問いが生まれます。

もし、自分が当たり前だと思ってきた考えを吟味し、別の見方を選び直すことができるなら、それは私たちの「自由」とどのようにつながるのでしょうか。

次は、哲学のもう一つの大切な働きである、

「自分のものの見方を、少し自由にすること」

について考えていきましょう。

第4章 ある人の物語

「みんながそう言うから」は理由になる?

ここからは、「哲学とは何か」を説明するだけでなく、際に哲学的に考えると、いつもの景色がどう変わって見えるのかを体験してみましょう。

中学3年生のハルは、そろそろ将来の進路を考えなければならない時期を迎えていました。

ある日の休み時間、友達が言いました。

「将来のことを考えたら、やっぱり大学には行ったほうがいいよね」

周りの友達も、

「そうだよね」

「大学に行ったほうが安心じゃない?」

とうなずきます。

ハルも最初は、

「やっぱり、そうなのかな」

と思いました。

でも帰り道、ふと疑問が浮かびます。

「どうして大学へ行くことが、“良い将来”につながるんだろう?」

ここでハルが始めたのは、大学進学に賛成するか反対するかを、すぐに決めることではありません。

まず、

「自分は、なぜ大学へ行ったほうがいいと思っていたんだろう?」

と考えてみたのです。

学びたいことがあるから?

なりたい仕事に必要だから?

周りの友達が進学するから?

家族を安心させたいから?

それとも、大学へ行く以外の道をあまり知らないから?

考えているうちに、ハルは一つ大切なことに気づきます。

「みんなが大学へ行こうとしている」ということと、「だから自分も大学へ行くべきだ」ということは、同じ話ではありません。

前者は「周りの人がどうしているか」という事実についての話です。

後者は「自分はどうするのがよいのか」という判断についての話です。

周りの人の選択は、自分が考えるための大切な材料にはなります。

けれど、それだけで自分の答えまで自動的に決まるわけではありません。

そこで問いは、さらに深くなっていきます。

「大学へ行かない人生は、良くない人生なの?」

「そもそも、“良い将来”って何だろう?」

安定して暮らせること?

好きな仕事をすること?

十分なお金を得ること?

大切な人と過ごせること?

それとも、自分が納得できる人生を送ることでしょうか。

最初は、

「大学に行ったほうがいいのかな?」

という問いでした。

ところが理由を考えていくと、

「自分は、どんな人生を“良い人生”だと思っているのか?」

という、もっと大きな問いへ変わっていきました。

哲学では、こうしたことがよく起こります。

最初に考えていた問題の奥に、もっと根本的な問いが隠れていることに気づくのです。

ハルは、その日のうちに進路の答えを出したわけではありません。

でも、

「みんながそうするから」

という答えだけで終わらず、

「自分は何を大切にして、その選択をするのだろう?」

と考え始めました。

答えがまだ決まっていなくても、問いは前より深くなっています。

そして約2400年前のアテナイにも、人々が「知っている」「正しい」と思っていることに問いを重ねた人物がいました。

第5章 約2400年前にも「問い続けた人」がいた

その人物が、古代ギリシャ・アテナイで生きた哲学者ソクラテス(紀元前469年ごろ〜紀元前399年)です。

ソクラテスについて最初に知っておきたいのは、本人が哲学書を書き残していないということです。

現在の私たちは、主にプラトンやクセノポンなどが書いた作品を通してソクラテスを知っています。そのため、「歴史上のソクラテス本人が何を考えていたのか」と、「プラトンの作品に描かれたソクラテス」を完全に同じものとして扱うことはできません。

それでも、プラトンが描いたソクラテスからは、この記事で考えてきた「吟味する」という姿勢を、とてもはっきり見ることができます。

ここで、ソクラテスの考え方がよく表れている一つの作品を見てみましょう。

それが、プラトンの『ソクラテスの弁明』です。

まず知っておきたいのは、この作品の背景には実際に起こったソクラテスの裁判があるということです。

紀元前399年、70歳ほどだったソクラテスは、アテナイで裁判にかけられ、最終的に死刑判決を受けました。『ソクラテスの弁明』は、その裁判でソクラテスが自分の生き方や哲学について弁護する姿を、弟子のプラトンが作品として残したものです。

ただし、現代の裁判記録のように発言を一言一句記録したものではありません。実際の裁判を背景にした、ソクラテスを知るための重要な古代資料として読むのが適切です。

では、なぜソクラテスは裁判の場で、自分の哲学について語ることになったのでしょうか。

ソクラテスが裁判で正式に問われたのは、大きく言えば、「若者を堕落させたこと」と、「アテナイが認める神々を認めず、新しい神的なものを持ち込んだこと」でした。

けれど、その背景には、それ以前から積み重なっていたソクラテスへの悪評がありました。

ソクラテスは街の人々に問いを投げかけ、

「それは本当に正しいのですか?」

「あなたは、それを本当に知っているのですか?」

と、その考えを吟味していました。

そのような問いを快く思わない人もいました。

そこで裁判の中でソクラテスは、

「そもそも、なぜ私はこんなことをするようになったのか。そして、なぜこれほど悪く言われるようになったのか」

を説明しようとします。

その説明の中で登場するのが、「デルフォイの神託」です。

神託とは、古代ギリシャで「神から示される答えやお告げ」と考えられていたものです。

ソクラテスの友人カイレポンは、アポロン神の神託で有名だったデルフォイを訪れ、「ソクラテスより知恵のある者がいるか」と尋ねました。

すると、神託を告げる女性祭司ピューティアから、「ソクラテスより知恵のある者はいない」という趣旨の答えが返ってきた、と作品では語られています。

ところが、ソクラテス自身は困りました。

自分では、自分が特別に賢いとは思っていなかったからです。

「では、この神託は何を意味しているのだろう?」

その意味を確かめるため、ソクラテスは政治家、詩人、職人など、「知恵があると思われている人々」を訪ね、対話を重ねていきます。

そこでソクラテスが注目したのは、「知らないこと」そのものではなく、自分が何を知り、何をまだ知らないのかを正しく見分けることの大切さでした。

同じように十分な答えを持っていなくても、「自分はまだ知らない」と気づいている人と、「もう知っている」と思い込んでいる人では、その後の考え方が変わります。

「まだ知らない」と気づけば、問い、調べ、学び続けることができます。

一方で、「もう知っている」と思えば、そこで問いを止めてしまうかもしれません。

『ソクラテスの弁明』で描かれるソクラテスの知恵は、この「自分の知識の限界を自覚すること」と深く結びついています。

後世、日本ではこの考えが「無知の知」という表現で広く紹介されてきました。

より丁寧に捉えるなら、

「自分が何を知っていて、何をまだ知らないのかを確かめる姿勢」

と考えると、ソクラテスの実践がわかりやすくなります。

プラトンの対話篇では、ソクラテスは相手の答えに質問を重ね、その考えの前提や矛盾を確かめていきます。

研究では、このような問答を elenchus(エレンコス、「吟味」「反駁」) と呼ぶことがあります。
ここでいう「反駁(はんばく)」とは、ただ相手に言い返すことではなく、問いを重ねながら相手の主張やその理由を検討し、矛盾や問題点がないかを確かめていくことを意味します。

ただし、「ソクラテスが一つの決まった手順としてエレンコスという方法を作った」と単純に考えるのは正確ではありません。ソクラテスの問答法がどのような方法だったのかについては、研究上も議論があります。スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy/スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー。以下SEP)でも、対話相手の考えを出発点に問いを重ね、当初の主張と両立しない点を明らかにすることが、その重要な特徴として説明されています。

そして『ソクラテスの弁明』の終盤では、ソクラテスは自分自身と他者を吟味しながら徳について語り合う生活を、人間にとって非常に重要なものとして語ります。

ここまで来ると、哲学が少し違って見えてこないでしょうか。

哲学を始めるために、難しい答えをすべて知っている必要はありません。

むしろ、

「自分は本当にわかっているだろうか?」

と問い直せることが、次に進むための入口になります。

そして、自分が当然だと思っていた考えまで問い直せるようになると、もう一つの変化が生まれます。

「別の見方もできるかもしれない」

と思えるようになることです。

第6章 哲学の二つ目の入口

自分の考え方を少し自由にする

ここまで見てきた「吟味すること」から、もう一歩進んでみましょう。

哲学には、無意識に受け入れてきた考えを見直し、自分のものの見方を少し自由にする働きがあります。

ここでいう自由とは、

「好きなことを何でもしてよい」

という意味ではありません。

一つしかないと思っていた見方から少し離れ、理由を確かめたうえで、自分の考えを選び直せる自由です。

ハルさんの例に戻ってみましょう。

最初は、

「みんな大学へ行くと言っている」

という周囲の考えに沿って、自分の将来を考えていました。

しかし問いを重ねることで、

「自分は何を学びたいのか」

「どんな仕事をしたいのか」

「どんな人生を良いと思うのか」

を考えるようになりました。

その結果、大学へ行くことを選ぶかもしれません。

別の道を選ぶかもしれません。

重要なのは、哲学がどちらかの答えを決めることではありません。

周囲の答えをそのまま自分の答えにするのではなく、理由を考えたうえで、自分自身の判断として選べるようになることです。

この「自分自身で考える」という問題を深く考えた哲学者の一人が、18世紀ドイツのイマヌエル・カント(1724〜1804年)です。

カントは1784年の文章『啓蒙とは何か』で、啓蒙を、人が他人の指導に頼りきった状態から抜け出し、自分自身の理解力を用いるようになることと結びつけました。
啓蒙(けいもう)とは、一般には、人々が知識や合理的な考え方を身につけ、理解を深めていくことを意味します。
ただし、カントが『啓蒙とは何か』で特に重視したのは、誰かに答えを教えてもらうことだけではなく、他人の判断に頼りきらず、自分自身の理解力を使って考えられるようになることでした。

そこでカントが啓蒙の標語として掲げたのが、

Sapere aude(サペレ・アウデ)

というラテン語です。

「知る勇気をもて」などと訳されますが、カント自身の説明に沿えば、

「他人の考えに頼りきるのではなく、自分自身の頭でも考え、判断する勇気をもて」

という意味で捉えるとわかりやすいでしょう。

ここで大切なのは、

自分で考えることは、他人の意見を無視することではない

という点です。

カントの理性についての議論では、自分だけの考えに閉じこもるのではなく、他者と考えを共有し、他者の立場からも考え、自分の判断を公に吟味できることが重要になります。SEPも、カントにとって理性の公共的な使用とコミュニケーションが重要だったことを説明しています。

つまり、

相手の考えを聞く。

その理由を確かめる。

自分の考えにも問いを向ける。

そして、

「それでも、自分はどう考えるのか」

を考える。

このような過程の中に、哲学がひらく自由の一つを見ることができます。

「普通はこうだから」

「昔からそうだから」

「みんながそう言っているから」

そこで考えることを終わらせず、

「なぜそう考えるのだろう。そして、自分はどう考えるのだろう」

と、もう一度考えてみる。

考え直した結果、最初と同じ答えに戻ることもあります。

それでも、その答えは以前とは少し違います。

何となく受け入れていた答えではなく、

理由を確かめたうえで、自分自身でも納得して選んだ答え

になっているからです。

哲学が私たちにもたらしうる自由とは、すべての制約から逃れることではなく、

自分の考えを吟味し、必要なら考え直し、新しい見方へ自分自身を開いていけること。

まずは、そんな「考える自由」から捉えてみると、哲学が私たちの日常と深くつながっていることが見えてきます。

第7章 「自分で考える」という自由

カントから、もう一歩先へ

前の章では、哲学によって自分の考えを吟味し、

「周りがそう言っているから」だけではなく、自分でも理由を確かめて選び直せること

を、一つの「考える自由」として紹介しました。

では、自分で考えることができれば、それで十分なのでしょうか。

ここで、カントの考えをもう一歩深く見てみましょう。

18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントが重視したのは、自分一人の考えに閉じこもることではありません。

自分自身で考えると同時に、その考えを他者にも開き、吟味できるようにすることです。

カントは「自分で考える」ことに加えて、他者の立場に身を置いて考えることや、自分の考えに一貫性を持たせることも、理性を用いるうえで重要な考え方として示しています。

これは、普段の会話にも置き換えられます。

たとえば友人と意見が分かれたとしましょう。

「私はこう思う」

だけで終わるのではなく、

「どうして私はそう思うんだろう?」

と、自分の理由を確かめる。

次に、

「相手の立場から見たら、どう見えるだろう?」

と考えてみる。

そして、

「それでも、この考えには筋が通っているだろうか?」

ともう一度確かめます。

自分で考えることと、他人の考えを聞くことは両立します。

むしろ、他者の考えに触れることで、自分一人では気づけなかった前提や思い込みが見えてくることがあります。

カントはさらに、public use of reason(パブリック・ユース・オブ・リーズン、「理性の公的使用」)を重視しました。

この言葉は少し注意して理解する必要があります。

カントがいう「理性の公的使用」とは、学者として、自分の考えを広く社会の人々に向けて示し、「なぜそう考えるのか」という理由も含めて、誰もが検討できる形で考えることです。

そこでは、自分の考えを、

「私はこう思うから正しい」

だけで終わらせません。

他の人も検討できる形で理由を示し、その考えが批判や問いに耐えられるかを確かめていきます。

哲学における「自分で考える」とは、自分だけの世界に閉じこもることではなく、自分の判断に責任を持ちながら、他者にも開かれた形で考え続けることなのです。

ここまで来ると、「哲学が私たちを少し自由にする」という意味も、もう少し深く見えてきます。

誰かの考えをそのまま受け入れるだけでもない。

自分の考えだけに閉じこもるのでもない。

他者の考えに触れながら、自分の理由を確かめ、必要なら考え直す。

「考え直すことができる」ということ自体が、私たちの持つ大切な自由の一つなのです。

第8章 では、哲学者たちは何を考えてきたの?

ここまで読んで、

「哲学的に考える方法は少しわかってきた。でも、哲学者はいったい何について考えているの?」

と思った人もいるでしょう。

答えは、とても広いものです。

哲学者たちは、私たちが普段当たり前のように使っている「知る」「正しい」「存在する」「自由」「幸せ」「美しい」といった言葉の奥を考えてきました。

哲学の分け方は一つではありませんが、代表的な領域には、認識論、形而上学、倫理学、論理学などがあります。

でも、難しい名前から覚える必要はありません。

まずは「どんな問いを考えるのか」を見てみましょう。

たとえば、

「私は、本当にそれを知っていると言えるのだろうか?」

SNSで何度も見た情報。

友人から聞いた話。

昔から信じている常識。

それらを「知っている」と言うためには、どんな理由や証拠が必要なのでしょう。

こうした「知るとは何か」を考える分野を、epistemology(エピステモロジー、「認識論」)と呼びます。

では、

「そもそも、“存在する”ってどういうこと?」

という問いはどうでしょう。

机や人間は存在しているように思えます。

では、数字や時間、まだ起きていない「可能性」は、どのような意味で存在すると言えるのでしょうか。

こうした「何が存在するのか」「世界は根本的にどのように成り立っているのか」を考える哲学の分野を、metaphysics(メタフィジックス、「形而上学」)と呼びます。

さらに、

「何をするのが正しいのだろう?」

という問いもあります。

約束はいつでも守るべきでしょうか。

一人の利益と大勢の利益がぶつかったら、どう考えればよいのでしょう。

「正しい行い」「良い人生」「人はどう生きるべきか」などを考える分野が、ethics(エシックス、「倫理学」)です。

そして、

「私は何者なのだろう?」

「心と体には、どんな関係があるのだろう?」

「なぜ人は、あるものを美しいと思うのだろう?」

という問いも哲学になります。

こうして並べてみると、不思議なことに気づきます。

哲学者だけが特別な疑問を持っているわけではありません。

「それ、本当なの?」

「それって正しいの?」

「幸せって何?」

「自分って何?」

私たちも、一度くらいは似たことを考えたことがあるのではないでしょうか。

哲学の問いは、私たちの日常から遠く離れたところにあるのではなく、普段使っている言葉や経験の中にすでに隠れています。

哲学者たちは、それを「なんとなく」で終わらせず、何百年、何千年にもわたって考え続けてきたのです。

だから哲学を学ぶことは、

「昔の人の答えを暗記すること」

だけではありません。

「こんな問い方もできるのか」と、自分が世界を見るための視点を増やしていくことでもあります。

第9章 哲学では、問いを「理由」で確かめていく

ここまで何度も、

「本当にそう?」

という問いを使ってきました。

でも、哲学は問いを投げかけたところで終わりません。

哲学では、「なぜそう考えるのか」という理由を確かめながら、考えをよりよいものへ近づけていきます。

たとえば、

「たくさんの人が賛成しているから、この意見は正しい」

という考えがあったとします。

そこで、

「違うと思う」

と言うだけでは、考えはあまり深まりません。

まず、

「なぜ、多くの人が賛成していると正しいと言えるのだろう?」

と理由を確かめます。

さらに、

「多数決が役に立つのは、どんな場合だろう?」

「少数の人の権利はどう考える?」

「そもそも、ここでいう“正しい”とは何だろう?」

と前提まで見ていきます。

このような考え方と深く関係しているのが、critical thinking(クリティカル・シンキング、「批判的思考」)です。

ここでいう「批判」とは、人の悪いところを探したり、何でも反対したりすることではありません。

主張について、その理由や前提を確かめ、どれほど納得できるものなのかを丁寧に評価することです。

インターネット哲学百科事典(Internet Encyclopedia of Philosophy/インターネット・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー。以下IEP)は、批判的思考を、日常的な状況で主張・前提・論証を評価するために、理由を用い、またその理由自体を評価する過程として説明しています。

哲学や論理学では、ある結論を理由によって支えようとする考えのまとまりを、英語で argument(アーギュメント、「論証」) と呼びます。日常英語では「口論・言い争い」という意味もありますが、ここではその意味ではありません。

論証の中で、結論を支える理由となる主張を premise(プレミス、「前提」)その理由から最終的に導こうとする主張を conclusion(コンクルージョン、「結論」)と呼びます。

簡単に言えば、
前提は「なぜそう言える?」への答え、結論は「だから何が言える?」への答えです。

ただし、普段から難しい用語を使う必要はありません。

次のように考えるだけでも十分です。

「何が言われている?」

まず、考えている内容をはっきりさせる。

「なぜそう言える?」

理由を探す。

「その理由は確か?」

事実なのか、推測なのか、思い込みなのかを確かめる。

「別の立場から見たら?」

反対の例や、自分とは違う立場を考える。

そして最後に、

「ここまで考えたうえで、自分はどう考える?」

と、もう一度答えを作ります。

最初と同じ答えになることもあります。

考えが変わることもあります。

どちらも、考えた結果です。

重要なのは、

疑問を持つことだけで終わらず、その問いについて理由を確かめながら、自分の考えを吟味していくことです。

哲学は、

「本当にそう?」

という問いから始められます。

そして、

「なぜそう言える?」

「別の見方はない?」

と進み、

最後にはもう一度、

「では、自分はどう考える?」

と自分自身に問いを返します。

その繰り返しによって、最初はぼんやりしていた考えが少しずつ形を持ち始めます。

そして、自分では気づかなかった新しい問いが、また一つ見えてくるのです。

第10章 今日から哲学してみる

使える「4つの問い」

ここまで読んで、

「哲学がどんなものかは、なんとなくわかってきた。でも、自分はどうやって哲学すればいいの?」

と思った人もいるでしょう。

そこで、この記事では日常で使いやすいように、哲学的に考える流れを4つの問いに整理してみます。

これは哲学に決められた正式な「4段階の方法」ではありません。

これまで見てきた「問いを立てる」「理由を確かめる」「別の立場から考える」「自分自身で判断する」という考え方を、今日から使える形にしたものです。

①「本当にそう?」

まず、すぐに答えを決めず、一度だけ立ち止まってみます。

たとえば、

「一度失敗したら、もうダメだ」

と思ったとしましょう。

そこで、

「本当に、一度の失敗だけで全部が決まるのだろうか?」

と問いを入れてみます。

この問いの目的は、何でも否定することではありません。

自分が気づかないまま置いていた前提を、いったん見えるようにすることです。

②「どうして、そう思う?」

次は理由を探します。

「失敗したら終わり」と考えたのは、

以前失敗して傷ついたからでしょうか。

人から失敗を笑われた経験があるからでしょうか。

それとも、「成功できる人は失敗しない」という考えを、いつの間にか持っていたからでしょうか。

理由が見えてくると、

「失敗そのものが怖いというより、人からどう思われるかが怖かったのかもしれない」

と、問題の見え方まで変わることがあります。

③「別の立場から見たら?」

今度は、自分が立っている場所から少し離れてみます。

もし親友が、あなたとまったく同じ失敗をしたらどうでしょう。

あなたはその友達に、

「一度失敗したから、もう全部終わりだよ」

と言うでしょうか。

おそらく、

「次にどうするか考えよう」

「一回だけで決めなくてもいいよ」

と言うかもしれません。

立つ場所を変えると、同じ出来事にも違う見え方が現れます。

これは、これまで考えてきた「自分の考えを少し自由にする」ということにもつながっています。

④「ここまで考えて、それでも私はどう考える?」

最後は、自分に戻ります。

哲学では、問い続けるだけでなく、

「今のところ、自分はこう考える」

という答えを持つこともできます。

ただし、その答えは永久に変えてはいけないものではありません。

新しい事実を知った。

別の人の意見を聞いた。

自分自身が新しい経験をした。

そんなときには、また考え直せます。

つまり、

「本当にそう?」
→「なぜそう思う?」
→「別の立場なら?」
→「それでも私はどう考える?」

と進んでみる。

たったこれだけでも、

「哲学について知った」

ところから、

「自分で哲学してみた」

ところへ、一歩進むことができます。

第11章 哲学すると、何が変わる?

では、哲学は何の役に立つのでしょうか。

最初に答えるなら、

哲学が与えてくれるのは、何にでも使える正解ではなく、「考え直すための余地」です。

哲学を学んだからといって、人生の迷いがすべて消えるわけではありません。

どんな問題にも正しい答えを出せるようになる、とも言えません。

それでも、これまでならすぐに決めていたところで、

「少し待ってみよう」

と思えることがあります。

人と意見が違ったとき、

「相手が間違っている」

で終わらず、

「相手には何が見えているのだろう?」

と考えてみる。

失敗したとき、

「自分には才能がない」

と決める前に、

「今回の失敗だけから、そこまで言えるだろうか?」

と考えてみる。

「普通はこうするものだ」と言われたときには、

「その“普通”は、どんな理由でできたものだろう?」

と考えることもできます。

答えが一つ増えるというより、

答えを決める前に、小さな「考える余白」が生まれる。

この記事で「哲学が私たちを少し自由にする」と表現してきたのは、こうした意味です。

そして、哲学を「自分で考え、判断する力」や「自由」と結びつけて考える見方は、哲学教育の分野でも重視されてきました。

その一つの例が、UNESCO(ユネスコ、国際連合教育科学文化機関)が2007年に刊行した、哲学教育についての報告書です。

その題名が、
Philosophy, a School of Freedom(フィロソフィー・ア・スクール・オブ・フリーダム、「哲学、自由の学校」)
です。

この報告書は、「哲学を学べば自由になれることを実験で証明した研究」ではありません。就学前から大学まで、変化する世界の中で哲学をどのように教え、学ぶのか、その現状・方法・役割を幅広く検討したUNESCOの報告書です。

ここで注目したいのは、哲学教育が、単に哲学者の名前や思想を覚えることではなく、問い、考え、自分で判断する力を育てる営みとして捉えられていることです。

哲学は、あなたの代わりに何を信じるべきか決めてくれるものではありません。

むしろ、

「ほかの見方はないだろうか」
「私はなぜそう思っているのだろう」
「考え直すことはできないだろうか」

と問いを返してきます。

自分の考えを、変えられないものではなく、確かめたり選び直したりできるものとして持つ。

そこに、哲学と「自由」を結びつけて考える一つの理由があります。

第12章 もう一段深く

「哲学とは何か?」も哲学になる

ここまで記事を読んできたあなたなら、

「哲学とは何ですか?」

と聞かれたとき、最初よりずっと多くのことを答えられるはずです。

当たり前を問い直すこと。

理由を確かめること。

自分や相手の考えを吟味すること。

別の立場から考えること。

そして、自分自身でもう一度考え直すこと。

では、最後にもう一段だけ深く進んでみましょう。

ここまで説明してきたことだけで、本当に「哲学とは何か」をすべて説明できたのでしょうか?

実は、

「哲学とは何なのか」を考えること自体が、哲学の問いになります。

哲学そのものの性質・目的・方法について考えることを、

metaphilosophy(メタフィロソフィー、「メタ哲学」)

と呼びます。

IEPでは、メタ哲学の代表的な問いとして、

「哲学とは何か」

「哲学は何のためにあるのか」

「哲学はどのように行うべきなのか」

が挙げられています。

つまり哲学者たちは、

「世界とは何か」

「知識とは何か」

「正義とは何か」

だけでなく、

「そもそも、私たちが今やっている“哲学”とは何なのか?」

まで問いの対象にしてきたのです。

そして、その答えも一つではありません。

たとえばIEPでは、ここ100年ほどの西洋のメタ哲学を説明するために、次のような大まかな枠組みを使っています。

Analytic philosophy(アナリティック・フィロソフィー、「分析哲学」)
→ 言葉や概念、論理、論証などを明確にしながら、哲学的な問題を厳密に考えようとしてきた哲学の伝統です。ただし、現代の分析哲学には多様な立場があり、単純に「言葉を分析する哲学」だけではありません。

Pragmatism(プラグマティズム、「実用主義」)
→ 考えや概念の意味を、それが実際の経験や行為の中でどのような違いをもたらすのか、という観点から考えてきた哲学の伝統です。

Continental philosophy(コンチネンタル・フィロソフィー、「大陸哲学」)
→ 主にヨーロッパ大陸の哲学の流れと結びつけて使われる幅広い呼び名で、現象学、実存主義、解釈学、批判理論など、さまざまな思想を含みます。

IEPでは、こうした伝統と関係するメタ哲学を、現代西洋のメタ哲学を理解するための大まかな枠組みとして整理しています。

ただし、これは「哲学は必ずこの三つに分かれる」という意味ではありません。

IEP自身も、この分類は整理のために用いているものであり、どの哲学者をどこに位置づけるのか、また分析哲学と大陸哲学などの境界をどう引くのかについても議論があると説明しています。

ここで大切なのは、名前を覚えることではありません。

哲学者によって、

「哲学は何を目指すのか」

「どんな方法で考えるべきなのか」

「哲学と科学、社会、人生にはどんな関係があるのか」

についても考えが違う、ということです。

そして、ここまで来ると少し面白いことが起こります。

この記事は最初、
「哲学とは、“当たり前を本当にそう?と考えてみること”から始められる」
と説明しました。

では、その説明自身にも問いを向けてみましょう。

「哲学とは、当たり前を問い直すこと――本当にそれだけだろうか?」

ここまで読んできたなら、答えはもう少し広がっているはずです。

当たり前を問い直すことは、哲学を始める大切な入口の一つです。

しかし哲学は、ただ疑問を持つだけではありません。
その問いについて理由や前提を確かめ、別の見方も考えながら、自分や他者の考えを吟味していくことも含まれます。

そして今、この記事の最初の説明そのものを問い直したように、哲学では、自分が一度出した答えさえ、もう一度考え直すことができます。

一つの答えが、次の問いの入口になることがある。

そこにも、哲学のおもしろさがあります。

第13章 今日、覚えて帰ってほしいこと

ここまで、ソクラテス、カント、認識論、倫理学、メタ哲学など、さまざまな話をしてきました。

でも、今日初めて哲学に触れたなら、難しい名前をすべて覚える必要はありません。

一つだけ持ち帰るなら、これです。

「当たり前だと思ったときこそ、“本当にそう?”と一度考えてみる。」

そこから哲学を始めることができます。

そして、この記事で見てきたことをもう少しだけ付け加えるなら、

哲学では、

自分や相手の考えについて「なぜそう言えるのか」を吟味します。

そして、

今まで当たり前だと思っていた見方を確かめ、自分自身でもう一度考え直します。

哲学は、あなたの代わりに人生の答えを決めてはくれません。

むしろ、

「では、あなた自身はどう考えますか?」

と問い返してきます。

だから哲学は、何千年も前の哲学者だけのものではありません。

学校でも。

仕事でも。

人間関係でも。

インターネットで何かを見たときでも。

「なぜだろう?」

と思ったその瞬間から、始めることができます。

そして、答えが見つかったときにも、ほんの少しだけ問いを残してみてください。

「これは、今の自分の答え。では、本当にこれで終わりだろうか?」

一つの答えから、また一つの問いが生まれる。

そこから、次の哲学が始まります。

第14章 まとめ

哲学は、答えを持ったところからも始まる

この記事は、

「哲学とは何だろう?」

という問いから始まりました。

そして、哲学へのわかりやすい入口として、

「当たり前だと思っていることに、“本当にそう?”と問いかけてみること」

から考えてきました。

その問いは、ただ疑うためのものではありません。

「なぜ、そう考えるのだろう?」

と理由を確かめる。

自分とは違う立場からも見てみる。

相手の考えだけでなく、自分自身の考えも吟味する。

そして最後には、

「ここまで考えたうえで、自分はどう考えるのか」

と、自分なりの答えを作ってみる。

この記事で見てきた哲学の一つの姿は、そんな問いと考え直しの往復です。

ソクラテスについて見てきたように、自分自身と他者の生や考えを吟味することは、古代ギリシャ哲学の重要な実践の一つでした。

そしてカントについて見てきたように、自分自身で考えることは、自分だけの意見に閉じこもることではありません。他者にも開かれた形で理由を示し、考えを吟味できることにもつながっています。

ここまで考えると、哲学についてもう一つ大切なことが見えてきます。

哲学は、答えがわからないときだけに始まるものではありません。

むしろ、

「これは正しい」

「これが普通だ」

「自分はもうわかっている」

と思ったところからも始めることができます。

その答えに、

「なぜ?」

と問いかけてみるからです。

よく考えた結果、

「やっぱり、この考えには理由がある」

と以前と同じ答えに戻ることもあります。

反対に、

「今まで一つしかないと思っていたけれど、別の見方もできそうだ」

と考えが変わることもあります。

どちらが哲学的に「成功」したということではありません。

大切なのは、自分の考えをただ受け取ったままにせず、一度自分自身でも確かめてみることです。

問いを持つ。

理由を考える。

他者の考えにも触れる。

自分なりの答えを作る。

そして、新しいことを知ったなら、必要に応じてもう一度考え直す。

哲学の性質や目的そのものについてもさまざまな立場があり、「哲学とは何か」を問うこと自体がメタ哲学のテーマになっています。

だから、この記事で紹介してきた言葉も最後の正解ではありません。

「哲学とは、当たり前を“本当にそう?”と考えてみることから始められる」

という、この説明自身にも問いを向けることができます。

そして最後に、あなた自身にも一つだけ問いを残します。

あなたがこれまで「当たり前だから」と、理由を確かめずに受け入れてきたことは何でしょうか?

すぐに思いつかなくても大丈夫です。

今日一日の中で、

「普通はこうする」

「当然こうだ」

「みんなそうしている」

と思った瞬間があったら、ほんの少しだけ立ち止まってみてください。

「本当にそうだろうか?」

その小さな問いから、あなた自身の哲学が始まります。

第15章 ハルのその後

見つかったのは「正解」ではなく、考えるための道だった

ここからは、第4章に登場した架空の中学生・ハルさんの物語の続きです。

ハルが最初に抱えていた疑問は、

「どうして大学へ行くことが、“良い将来”につながるんだろう?」

というものでした。

友達は、

「大学へ行ったほうが安心だ」

と言います。

家族も進学について気にかけています。

ハル自身も、なんとなく、

「大学には行ったほうがいいんだろうな」

と思っていました。

でも、哲学について知ったハルは、以前とは少し違う問いを自分に向けてみました。

「そもそも、自分は何を理由に大学へ行きたいと思っているんだろう?」

ノートを開いて、思いつくことを書いてみます。

「もっと勉強してみたいことがある」

「将来やりたい仕事について、まだよく知らない」

「友達と違う道を選ぶのが少し怖い」

「家族を安心させたい」

「大学以外にどんな道があるのか、よく知らない」

書いているうちに、ハルは気づきました。

「大学へ行ったほうがいいのか?」

という一つの問いの中に、

いくつもの違う問題が混ざっていたのです。

学びたいことの問題。

仕事の問題。

家族の期待。

周囲と違う選択をする不安。

そして、

「自分にとって良い人生とは何か」

という問題です。

そこでハルは、大学へ行くか行かないかを急いで決める前に、まず自分が知らないことを調べてみることにしました。

興味のある分野は、大学でどんなことを学べるのか。

自分が気になっている仕事には、どんな道があるのか。

大学以外には、どんな進路があるのか。

先生にも聞いてみました。

家族にも、

「どうして大学に行ったほうがいいと思っているの?」

と尋ねてみました。

すると、それまで単に、

「大学に行きなさいと言われている」

と思っていた言葉の奥に、

家族自身の経験や、

「将来困ってほしくない」

という心配があることも見えてきました。

ハルはまだ、大学へ行くかどうかを決めていません。

でも、最初に抱えていた疑問には、一つの答えが見えてきました。

「大学へ行けば、自動的に“良い将来”になるわけではない。大切なのは、自分が何を学び、どんな人生を望み、そのために大学という選択がどんな意味を持つのかを考えることなんだ。」

そしてハルは、もう一つ気づきました。

答えをまだ持っていないことと、

何もわかっていないことは、同じではありません。

「自分は何をまだ知らないのか」がわかれば、次に何を調べればよいのかが見えてきます。

わからなければ調べる。

理由がわからなければ尋ねる。

違う考えに出会ったら比べてみる。

そして、必要ならもう一度考える。

ハルが手に入れたのは、

「大学へ行くべきか」という問題に対する、誰にでも当てはまる一つの正解ではありませんでした。

自分自身で答えへ近づいていくための「問い方」を手に入れたのです。

もしかすると、この記事を読み始める前のあなたにも、

「哲学って結局、何をするものなの?」

という疑問があったかもしれません。

今、その問いに対する答えは、最初と少し変わっているでしょうか。

もし変わっているとすれば、それは哲学について知識を読んだからだけではありません。

あなた自身がこの記事を読みながら、「哲学とは何か」を一緒に考えてきたからなのです。

第16章 文章の締めとして

この記事は、

「哲学とは何だろう?」

という一つの問いから始まりました。

けれど、ここまで考えてくると、その一つの問いから、

「知るって何だろう?」

「正しいって何だろう?」

「自由って何だろう?」

「幸せって何だろう?」

「自分は何を大切にしているんだろう?」

と、いくつもの新しい問いが生まれてきました。

問いが増えたということは、何もわからなくなったということではありません。

一つのことを丁寧に考えたからこそ、それまで見えていなかった問題や可能性に気づけた、と考えることもできます。

今日、この記事を閉じたあとに、哲学者の名前をすべて覚えている必要はありません。

難しい言葉を暗記する必要もありません。

ただ、いつか日常の中で、

「どうしてだろう?」

と思ったとき。

誰かの意見を聞いて、

「なるほど。でも、なぜそう言えるんだろう?」

と思ったとき。

自分自身に、

「私は、どうしてこう思っているんだろう?」

と問いかけたとき。

この記事で始めた哲学は、あなたの日常の中で再び動き始めます。

本を読んでいるときだけが、哲学の時間ではありません。

誰かと話しているとき。

迷っているとき。

何かを選ぼうとしているとき。

自分の答えに少しだけ疑問を感じたとき。

その一つひとつが、考えるきっかけになります。

哲学について「知る」ことから始まったこの記事が、

これからどこかで、

あなた自身が「考えてみる」ためのきっかけになれば幸いです。

注意補足

この記事では、作者が個人で調べられる範囲の情報をもとに、原典や研究資料、信頼できる解説などを確認しながら、できる限り正確でわかりやすく「哲学とは何か」をお伝えしています。

ただし、個人による調査・執筆であるため、哲学に関するすべての研究・資料・解釈を網羅しているものではなく、記事の内容が唯一の答えであることや、完全性を保証するものではありません。

哲学にはさまざまな立場や考え方があり、同じ哲学者や言葉であっても、研究者や時代、参照する資料によって解釈が異なることがあります。

また、新しい史料の発見や研究の進展、原典の再検討、翻訳や解釈の変化によって、現在広く受け入れられている理解が見直されたり、新たな見方が示されたりする可能性もあります。

そのため、本記事の内容は一つの参考として受け取り、気になる点や重要な内容については、複数の資料と照らし合わせながら確かめてみてください。

🧭 本記事のスタンス

この記事は、

「これが哲学についてのすべての正解です」

と、考えることを終わらせるための記事ではありません。

むしろ、

「哲学って面白いかもしれない」
「これは本当にそうなのだろうか?」
「もっと知りたい」

という、小さな問いが生まれるための一つの入口として書いています。

この記事で紹介した考え方についても、そのまま受け入れる必要はありません。

「なぜ、そう言えるのだろう?」

「ほかの哲学者なら、どう考えるのだろう?」

「原典には、本当はどのように書かれているのだろう?」

と、ぜひこの記事そのものにも問いを向けてみてください。

そして、このブログをきっかけに哲学へ興味が湧いたら、ぜひ原典や研究書にも触れ、ここでは紹介しきれなかった考えや、異なる立場の哲学にも出会ってみてください。

この記事の答えをゴールにするのではなく、ここから自分で確かめ、自分で問い直してみる。

知るほどに問い、問うほどに知る――その繰り返しの先で、ここで生まれた小さな「なぜ?」を、あなただけの深い哲学へと育ててみてください。

最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました。

哲学は、答えを急ぐことだけが大切なのではなく、自分自身で問い、考え、そして必要ならもう一度考え直せることの大切さを教えてくれているのかもしれません。

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