体も記憶も考え方も変わっていくのに、なぜ昨日の私と今日の私は「同じ私」なのでしょうか。パーフィットの思考実験から、自分を時間の中でつないでいるものを考えます。
変わり続ける私を、「同じ私」にしているものは何だろう?

代表例
昨日のあなたと、今日のあなた。なぜ「同じあなた」なのでしょうか。
「どちらも私なんだから、同じに決まっている」
そう思うかもしれません。
では、50年前の自分と50年後の自分ならどうでしょう。
体は変わります。
考え方も変わります。
昔のことを忘れてしまうこともあります。
それでも私たちは、
「ずっと同じ一人の私が生きている」
と考えています。
では――
何が変わっても残っていれば、「私は私のまま」なのでしょうか。

この不思議な問いを考えるのが、今回のテーマです。
5秒でわかる結論
人格の同一性では、「時間がたって変化しても、なぜ過去と現在の自分を一人の同じ人だと言えるのか」という問いを考えます。
ここでいう「人格」は、性格のことではなく、**一人の人としての「私」**を指しています。
小学生にもわかるように言うと?
小さいころの自分の写真を見てみてください。
今とは顔も体も違います。
好きなものも、考えていることも違うでしょう。
そのころの出来事を、ほとんど覚えていないかもしれません。
それでも、
「これは昔の自分だ」
と思います。
では、どうしてでしょう。
見た目も、考えも、記憶も変わっているのに、なぜ同じ「私」なのでしょうか。
これが人格の同一性を考える最初の一歩です。

- 代表例
- 5秒でわかる結論
- 小学生にもわかるように言うと?
- 第1章 「自分って何だろう?」と思ったことがある人へ
- 第2章 疑問が生まれた物語
- 第3章 すぐに分かる結論
- 第4章 『人格の同一性』とは、本当はどういう意味?
- 第5章 デレク・パーフィットは、なぜ「私」を考えたのか?
- 第6章 パーフィットは、本当に「同じ私であることは重要ではない」と言ったの?
- 第7章 原典では何が語られている?
- 第8章 「心のつながり」と「生きた人間のつながり」は同じなの?
- 第9章 よくある誤解
- 第10章 人格の同一性は、日常のどこで役立つ?
- 第11章 この言葉を知ると、「私」の見え方はどう変わる?
- 第12章 では、あなたならどう考える?
- 第13章 おまけコラム
- 第14章 まとめ・考察
- 第15章 疑問が解決した物語
- 第16章 文章の締めとして
第1章 「自分って何だろう?」と思ったことがある人へ
昔の写真を見て、
「自分なのに、なんだか別人みたい」
と感じたことはありませんか。
数年前の自分が書いた文章を読んで、
「昔はこんなことを考えていたんだ」
と驚いたことがある人もいるでしょう。
私たちは、ずっと同じではありません。
体は成長します。
性格や価値観も変わります。
覚えていたことを忘れることもあります。
それでも私たちは普通、
「昔の自分と今の自分は、一人の同じ私だ」
と考えています。
今回の記事は、
「そもそも自分って何だろう?」
「人は変わるのに、なぜ同じ人だと言えるの?」
「記憶を失ったら、その人は同じ人なの?」
そんな疑問を一度でも持ったことがある人に向けた記事です。
哲学に詳しくなくても問題ありません。
むしろ、
「そんなこと、考えたこともなかった」
という人にこそ考えてほしいテーマです。
なぜなら人格の同一性は、難しい哲学の世界だけにある問題ではないからです。
昔の自分を思い出すとき。
未来の自分について考えるとき。
「あの人は昔と変わった」と感じるとき。
記憶や性格が変わった人について「それでも同じ人なのだろうか」と考えるとき。
私たちは知らないうちに、
「何が人を同じ人にしているのか」
という問いに触れています。
この記事では、まずこの問いをできるだけ簡単に考えます。
そのあと、
体が続いていれば同じ人なのか。
記憶が続いていれば同じ人なのか。
心のつながりが重要なのか。
そして、そもそも「ずっと同じ私であること」は本当にそれほど重要なのか。
少しずつ深く考えていきます。
最初から答えを決める必要はありません。
まずは、
「確かに、どうして同じ私なんだろう?」
と思えたら、それだけで哲学は始まっています。
第2章 疑問が生まれた物語
「この子、本当に僕なの?」

中学生の悠斗は、ある日、昔の写真を見つけました。
そこには、小学校へ入ったばかりの自分が写っています。
大きなランドセルを背負って、笑っていました。
「懐かしいな」
そう思ったあと、悠斗は少し不思議になりました。
写真が撮られた日のことを、ほとんど覚えていなかったのです。
当時何を考えていたのか。
何が好きだったのか。
誰とどんな話をしていたのか。
思い出せないことばかりです。
顔も今とは違います。
体も違います。
好きなものも、考え方も変わっています。
それでも悠斗は、その写真を見て、
「これは昔の僕だ」
と思います。
そこで、ふと疑問が浮かびました。
「でも……何が同じなんだろう?」
体が同じだから?
記憶があるから?
ずっと同じ名前だから?
家族や友達が同じ人だと思っているから?
どれもそれらしい答えに思えます。
けれど、どれも考え始めると少し困ります。
名前なら変えることができます。
昔のことを忘れても、その人がすぐ別人になるわけではありません。
体だって、成長しながら変化していきます。
では、
「昔の僕」と「今の僕」をつないでいるものは何なのだろう。
悠斗には答えが分かりませんでした。
そして、もう一つ思いつきます。
もし、自分とまったく同じ記憶を持った人が突然現れたら?
その人は「自分」なのでしょうか。
それとも、自分によく似た別人なのでしょうか。
逆に、自分が昔の記憶をほとんど失ったら?
それでも自分は自分なのでしょうか。
たった一枚の昔の写真から、
「私とは何なのか」
という大きな疑問が生まれてしまいました。
実は悠斗が抱いたこの疑問は、哲学者たちも長いあいだ考えてきた問題です。
この疑問は、哲学で「人格の同一性」を考えるときの中心的な問いの一つです。
そして、この問題を考えるときに大切なのは、
「昔の自分と今の自分が、どれくらい似ているか」
だけではありません。
「昔の自分と今の自分が、本当に一人の同じ存在なのはなぜなのか」
を考えることです。
ここから問いは、さらに深くなっていきます。
第3章 すぐに分かる結論
人格の同一性で考えるのは、
「人は変わっていくのに、なぜ昔の自分と今の自分を“一人の同じ私”だと言えるのか」
という問いです。
たとえば、見た目がそっくりな双子がいても、二人は別の人です。
反対に、小学生だったあなたと大人になった今のあなたは、見た目も考え方もかなり変わっているかもしれません。
それでも私たちは、一人の同じ人が成長してきたと考えます。
つまり大切なのは、
「どれくらい似ているか」ではなく、「何が一人の同じ人をつないでいるのか」
ということです。

では、その「つながり」とは何なのでしょう。
体が続いていることでしょうか。
一人の生き物として生命が続いていることでしょうか。
それとも、記憶や考え、意図、望みなどの心理的なつながりでしょうか。
この問いについて、哲学では今も一つの答えに決着しているわけではありません。
身体や生命の連続性を重視する考え方もあれば、記憶や心のつながりを重視する考え方もあります。
そして、この問題をさらに深く考えた哲学者の一人が、イギリスの哲学者デレク・パーフィットです。
パーフィットは、
「未来にも“同じ一人の私”がいることそのものより、今の私と未来の私が心理的につながっていることの方が、私たちにとって重要なのではないか」
と考えました。
でも、ここで新しい疑問が生まれます。
もし、あなたの記憶や考えを二人の人が同時に受け継いだらどうなるのでしょう。
二人とも「あなた」なのでしょうか。
それとも、どちらもあなたではないのでしょうか。
パーフィットは、こうした不思議な例を考えることで、
「そもそも、“同じ私であること”とは何なのか」
を問い直していきました。
では、なぜそこまで考える必要があったのでしょう。
その答えを知るために、次は「人格の同一性」という言葉が本当は何を意味しているのかから、もう少し詳しく見ていきましょう。
第4章 『人格の同一性』とは、本当はどういう意味?
ここからは、「人格の同一性」という言葉をもう少し正確に見ていきましょう。
英語では personal identity(パーソナル・アイデンティティ) といいます。
personal は「人に関する」、identity はここでは「同じ一つの存在であること」という意味です。
日常では「アイデンティティ」という言葉を、「自分らしさ」や「自分は何者なのか」という意味で使うこともあります。
この記事で中心に考えているのは、それとは少し違います。
「ある時点にいた人と、別の時点にいる人が、なぜ一人の同じ人物だと言えるのか」
という問題です。
ここで大切なのは、私たちが普段使っている「同じ」という言葉には、実は違う意味があることです。
たとえば、同じ店でまったく同じデザインのコップを2個買ったとします。
色も形も大きさも同じです。
私たちは、
「同じコップを2個買った」
と言うでしょう。
でも、よく考えるとコップは2個あります。
よく似ていて、同じ性質を持っていても、別々の二つのコップです。
このように、
「性質や特徴が同じ、あるいは非常によく似ている」
という意味での「同じ」を、哲学ではqualitative identity(クオリタティブ・アイデンティティ)=質的同一性と呼びます。
qualitative(クオリタティブ)は「性質についての」という意味です。
では、一つのコップを毎日使い続けて、ある日小さな傷がついたらどうでしょう。
昨日とは見た目が少し変わっています。
それでも普通は、
「昨日までのコップがなくなって、今日から別のコップになった」
とは考えません。
見た目が変わっても、一つの同じコップが続いている
と考えます。

こちらは、哲学ではnumerical identity(ニューメリカル・アイデンティティ)=数的同一性と呼ばれます。
numerical(ニューメリカル)は「数についての」という意味で、ここでは、
「二つあるのではなく、数の上で一つの同じ存在である」
という意味です。
人間に置き換えると、違いがさらに分かりやすくなります。
たとえば、顔も背格好もよく似た双子がいたとします。
二人はとてもよく似ています。
それでも、二人は別々の人です。
つまり、
よく似ていても、同じ一人の人物ではありません。
反対に、小学生だったあなたと現在のあなたを考えてみてください。
顔も体格も変わっています。
好きなものも、知っていることも、考え方も変わっているでしょう。
昔とはかなり違うのに、私たちは、
「小学生だった自分と今の自分は、一人の同じ人だ」
と考えます。
つまり、
似ていることと、一人の同じ存在であることは別なのです。
整理すると、次のようになります。
| 考え方 | 「同じ」の意味 | 例 |
|---|---|---|
| 質的同一性 | 性質・特徴が同じ、またはよく似ている | 見た目がそっくりな双子 |
| 数的同一性 | 二つではなく、一つの同じ存在である | 小学生だったあなたと現在のあなた |
そして、今回の人格の同一性で特に問題になるのは、後者の数的同一性です。
問いかけているのは、
「昔の私と今の私は、どれくらい似ているのか」
ではありません。
「昔とは大きく変わっているのに、なぜ昔の私と今の私は、二人ではなく“一人の同じ私”だと言えるのか」
ということです。
ここを区別すると、人格の同一性の不思議さが、よりはっきり見えてきます。
よく似ているのに別人であることはある。
そして反対に、
大きく変わっているのに、同じ一人であることもある。
では、見た目や性格が変わってもなお、昔のあなたと今のあなたを「一人の同じ人」としてつないでいるものは、いったい何なのでしょうか。
ここから、人格の同一性についての本当の問題が始まります。
では、その一人を時間の中でつないでいるものは何なのでしょう。
この問いに対しては、現在も一つだけの答えに決着しているわけではありません。
人間という一つの生物が生き続けていることを重視する考え方もあります。
一方で、記憶・意図・信念・望みなど、心理的なもののつながりを重視する考え方もあります。
心理ではなく、一人の生物としての生命や身体の連続性を重視する立場も、人格の同一性を考えるうえで重要です。これについては後ほど、パーフィットとは異なる有力な考え方として詳しく見ていきます。
そして後者の考え方へ大きな影響を与えたのが、17世紀のイギリスの哲学者ジョン・ロックです。
ロックは『人間知性論』第2巻第27章「同一性と差異について」で、人が時間を越えて同じ人格であるとはどういうことかを考えました。この章は1694年の第2版で追加され、その後の人格の同一性についての議論に大きな影響を与えました。
ロックが重視したのは、単に同じ身体が続くことではなく、意識のつながりです。
過去の行為や経験へ現在の意識が及ぶことを、人格の同一性と深く結びつけました。
そのため「ロックの記憶説」と呼ばれることがありますが、ロックのいう「意識」を単純に記憶だけと考えてよいのかについては、現在も研究上の議論があります。
まず大切なのは、
人格の同一性を、身体だけではなく「意識や心理的なつながり」から考える大きな流れに、ロックが強い影響を与えた
ということです。
ロックのこの考えは、その後の人格の同一性をめぐる議論に大きな影響を与えました。
ただし、後の哲学者たちがロックの考えをそのまま受け継いだわけではありません。
「意識とは記憶だけなのか」
「昔の出来事を直接覚えていなくても、途中の自分を通して心理的につながっていれば同じ人と言えるのではないか」
といった問題が、その後も考え続けられていきます。
そこから、記憶だけではなく、意図・信念・望みなどを含めた心理的なつながりが、時間の中で連続していくことを重視する考え方が発展していきました。
ここでいう心理的なつながりとは、簡単に言えば、
「過去の自分の記憶や考え、意図、望みなどが、形を変えながら今の自分へつながっていること」
です。

たとえば、昨日、
「明日は図書館へ行こう」
と決めたとします。
今日、そのことを覚えていて図書館へ行ったなら、昨日の「意図」が今日の行動へつながっています。
また、子どものころに失敗した経験から、
「次は同じ失敗をしないようにしよう」
と考えるようになったなら、昔の経験や記憶が、今の考え方へつながっています。
ここで大切なのは、
昔の自分と今の自分が、まったく同じ記憶や同じ考えを持ち続けている必要はない
ということです。
人は、新しいことを知り、忘れ、考えを変えていきます。
それでも、
昨日の自分から今日の自分へ。
今日の自分から明日の自分へ。
記憶や意図、信念、望みなどが少しずつ影響を与えながら続いていくことがあります。
このような心理的なつながりが重なって時間を越えて続くことを、のちにpsychological continuity(サイコロジカル・コンティニュイティ)=心理的連続性と呼ぶ考え方が発展していきました。
つまり、
「ずっと同じことを考えているから同じ私」なのではなく、「考えや記憶が変わりながらも、前の自分から次の自分へ心理的につながっている」
という見方です。
そして約300年後。
この心理的なつながりと人格の同一性の関係を、さらに深く考えた哲学者が現れます。
その一人が、デレク・パーフィットです。
パーフィットは、
「心理的につながっていること」と「一人の同じ人物であることは、本当に同じなのか」
と問いをさらに深めました。
そして最終的には、
「そもそも、“同じ一人の私であり続けること”そのものが、私たちにとって本当に一番重要なのだろうか」
というところまで問題を進めていきます。
第5章 デレク・パーフィットは、なぜ「私」を考えたのか?
デレク・パーフィット(Derek Parfit/1942〜2017)は、人格の同一性を「どう生きるべきか」という問題にまでつなげて考えたイギリスの哲学者です。
1967年から長くオックスフォード大学オール・ソウルズ・カレッジに所属し、人格の同一性だけでなく、合理性、道徳、未来世代などの問題を研究しました。
では、なぜ「どう生きるべきか」を考える哲学者が、
「私はなぜ私なのか」
という問題を考える必要があったのでしょう。
たとえば、あなたが今日、お金を少し貯金したとします。
使ってしまえば、今日の自分は楽しいかもしれません。
それでも貯金するのは、
「未来の自分が困らないようにしよう」
と考えるからでしょう。
勉強も似ています。
今日遊ぶ時間を減らして勉強するのは、未来の自分のためです。
健康のために運動するのも、
「今の私」と「未来の私」を特別につながった存在として考えている
からこそ意味があります。

でも、ここでパーフィットの問いが効いてきます。
50年後のあなたは、今とはかなり変わっているかもしれません。
考え方も、望みも、覚えていることも変わっているでしょう。
それでも私たちは普通、
「50年後の自分も私なのだから、見知らぬ他人とは違って、特別に大切にするのは当たり前だ」
と考えます。
では、その「当たり前」は、何を根拠にしているのでしょうか。
50年後の人物が、二人の別人ではなく、一人の同じ人物だからでしょうか。
それとも、今の自分の記憶・意図・信念・望みなどが、変化しながらもその人物へ心理的につながっているからでしょうか。
パーフィットが問い直したのは、まさにこの違いです。
「未来の自分だから大切なのは当然」と考えるだけでなく、そもそも何が“未来の自分を自分のこととして大切にする理由”になっているのだろう。
人格の同一性を考えることは、やがてこの問いへつながっていきます。
パーフィットは1971年、哲学誌『The Philosophical Review(ザ・フィロソフィカル・レビュー)』に「Personal Identity(パーソナル・アイデンティティ/人格の同一性)」という論文を発表しました。
その議論は、のちに代表作『Reasons and Persons(リーズンズ・アンド・パーソンズ/理由と人格)』で大きく発展します。1971年の論文が実際に同誌第80巻第1号、3〜27ページに掲載されたことも確認できます。
この本で人格の同一性が重要なのは、それが単独の「自分探し」の問題ではないからです。
『理由と人格』第3部では、人格の同一性を考えたあと、その問題を合理性や道徳へつなげていきます。
パーフィットが知りたかったのは、単に「私は何者なのか」ということだけではありません。
「なぜ私たちは、未来の自分を特別に大切にするのか。そして、その理由は本当に『未来も同じ私だから』だけで説明できるのか」
という問題まで考えました。
だから人格の同一性についての問いは、やがて、「自分の未来をどこまで大切にするべきか」「自分と他人をどこまで違うものとして考えるべきか」といった、どう生きるかという問題へつながっていったのです。
第6章 パーフィットは、本当に「同じ私であることは重要ではない」と言ったの?
ここまでの記事では、パーフィットの考えを分かりやすくするために、
「同じ一人の私であり続けることそのものより、心理的なつながりの方が重要なのではないか」
と説明してきました。
ただし、この言葉だけを見ると、
「人は体も考え方も変わっていくのだから、同じ人物であり続けることにはあまり意味がない」
という主張のようにも見えるかもしれません。
パーフィットが考えたのは、そういう単純なことではありません。
彼が問い直したのは、
「未来の人物が、今の自分とは別人ではなく“一人の同じ人物”であり続けることそのものが、私たちが生き続けるうえで本当に一番大切なのだろうか」
ということです。
そこでパーフィットが注目したのが、今の自分から未来へ続いていく心理的なつながりでした。
ここでいう心理的なつながりとは、記憶・意図・信念・望みなどが、変化しながらも過去の自分から未来の自分へつながっていくことです。
つまりパーフィットは、
「未来にも一人の同じ私がいること」そのものと、「今の私の記憶や意図、信念、望みなどが未来へつながっていくこと」は、本当に同じくらい重要なのだろうか
と考えたのです。
そして、ある特殊な場合には、たとえ「一人の同じ人物であり続けること」が成立しなくても、私たちが生存について大切にしている心理的なつながりは残るかもしれない、と考えました。
では、本当にパーフィット本人が、そのようなことを主張していたのでしょうか。
ここからは、この記事で使ってきた分かりやすい言い換えと、パーフィット自身の著作で確認できる主張を分けながら見ていきましょう。
これはパーフィットの議論を初心者向けにまとめた表現で、そのままの日本語が著作に書かれているわけではありません。
しかし、考え方の方向は原典で確認できます。
『理由と人格』第12章の題名は、
Why Our Identity Is not What Matters(ワイ・アワ・アイデンティティ・イズ・ノット・ワット・マターズ)
です。
直訳に近く言えば、
「なぜ私たちの同一性そのものが、重要なものではないのか」
という意味です。
そして続く第13章は、
What Does Matter(ワット・ダズ・マター)=「では、何が重要なのか」
という題名になっています。
ここでいう「重要ではない」は、
「自分の存在など、どうでもいい」
という意味ではありません。
パーフィットが問い直したのは、
未来の自分を大切にするとき、本当に重要なのは「未来のその人が、今の自分とは別人ではなく、一人の同じ人物であり続けること」そのものなのか
ということです。
彼の立場は reductionism(リダクショニズム)=還元主義 と呼ばれます。
ここでの還元主義とは、
「人間は存在しない」
という意味ではありません。
人についての事実を説明するために、身体・脳・心理的な出来事などについての事実とは別に、さらに特別な「私そのもの」という事実を付け加える必要はない
という方向の考え方です。
少し難しく感じるかもしれません。
しかし、問題の中心はとてもシンプルです。
「私」が生き続けるために、
身体や脳、記憶や心理的なつながりとは別に、
どこかに変わらない「本当の私」が存在し続けなければならないのでしょうか。
パーフィットは、そうした「さらに別の何か」が必要だとは考えませんでした。
そして、その考えが本当に成り立つのかを確かめるために使ったのが、次に見る奇妙な思考実験なのです。
第7章 原典では何が語られている?
もし「私」が二つに分かれたら
パーフィットの議論のおもしろさは、結論だけではなく、そこへたどり着くまでの考え方にあります。
『理由と人格』の人格の同一性を扱う部分では、
「二人の別人ではなく、一人の同じ人物であり続けるとはどういうことなのか」
「身体や脳が続くことが重要なのか」
「それとも、記憶や意図などの心理的なつながりが続くことが重要なのか」
といった問題が検討されていきます。
しかし、普通の日常生活だけを見ていても、それらの違いはなかなか見えてきません。
なぜなら、私たちの日常では、
身体が続くこと。
脳が続くこと。
記憶や考えが続くこと。
これらが、多くの場合、一緒に起きているからです。
昨日のあなたから今日のあなたへ、身体も脳も続いています。
そして、昨日考えていたことを今日覚えていたり、昨日決めたことを今日実行したりします。
これでは、
「一人の同じ人物であること」と「心理的につながっていること」のどちらが本当に重要なのか
を切り分けて考えるのが難しいのです。
そこでパーフィットは、
「普段は一緒にあるものを、もし切り離したらどうなるだろう」
と考えます。
ここで使われるのが、思考実験です。
思考実験とは、実際に危険な実験を行うことではありません。
「もし、このような特殊な状況が起きたらどうなるだろう」と条件を頭の中で設定し、その場合にも自分たちの考え方が成り立つのかを確かめる方法です。
パーフィットの議論の背景には、現実に行われてきたsplit-brain(スプリット・ブレイン)=分離脳の研究があります。
左右の大脳半球は、主に脳梁(のうりょう)と呼ばれる神経線維の大きな束を通して情報をやり取りしています。
重い難治性てんかんの治療では、発作が反対側の脳へ広がるのを抑えるため、この脳梁を切断する脳梁離断術が行われてきました。

これは「人の人格を二つにするため」の手術ではなく、てんかんを治療するための手術です。
その後の研究では、左右それぞれの視野へ別々の情報を提示するなどの方法を使い、左右の大脳半球が情報をどのように処理し、共有しているのかが調べられました。
脳梁を切断すると、知覚や注意などで左右の情報の統合が大きく弱まることがあります。
ただし、その分離は完全ではありません。
現在の研究でも、
「分離脳になると、一人の人間の意識が完全に二人分へ分かれる」と単純に結論づけられるわけではありません。
行動の統一性が残る場合もあり、分離脳の人に「一つの意識があるのか、二つの意識があるのか」という問題についても、研究だけから単純な答えを出せる状態ではありません。
ここまでは現実の医学と脳科学の話です。
パーフィットは、ここから先を思考実験として、さらに極端な状況へ進めます。
では、手術前の人物を「A」として考えてみましょう。
Aの脳を、左半球と右半球に分けます。
そして、左半球を別の身体へ移植し、その人物をBとします。
右半球も、さらに別の身体へ移植し、その人物をCとします。
つまり、
A
↓
B C
という形です。
BにはAの左半球があり、CにはAの右半球があります。
そしてこの思考実験では、どちらの半球もそれぞれの身体で正常に働くと仮定します。
もちろん、このような人間の脳半球移植が実際に行われたわけではありません。
ここからは、あくまで哲学上の想像です。
さらに重要な条件があります。
BもCも、Aの過去との十分な心理的なつながりを持っていると仮定します。
BはAの過去を覚えています。
CもAの過去を覚えています。
BはAが立てた計画を引き継ぎます。
CもAが立てた計画を引き継ぎます。
Aの信念や望みなども、BとCの両方へ心理的につながっているとします。
『理由と人格』第12章で論じられる完全分裂の思考実験です。

では、パーフィットはなぜ、こんな奇妙な状況を考えたのでしょうか。
知りたかったことの一つは、
「一人の同じ人物であり続けること」と、「心理的につながり続けること」は、本当に同じことなのか
ということです。
ここで、自然な疑問が出てきます。
「BもCもAと心理的につながっているなら、BもCもAなのではないか?」
たしかに、心理的なつながりだけを見るなら、そう考えたくなります。
Aの記憶がBへ続いている。
Aの記憶がCへも続いている。
Aの意図や信念、望みも、両方へ続いている。
だったら、
「AがBとCという二人になった」
と考えればよいようにも思えます。
しかし、ここに大きな問題があります。
もし、
「AとBは、一人の同じ人物である」
と考え、
同時に、
「AとCも、一人の同じ人物である」
と考えるなら、BとCも一人の同じ人物でなければならなくなります。
ところが、手術後のBとCは明らかに二人です。
Bが東京へ行っているとき、Cは大阪へ行くことができます。
Bが昼食を食べているとき、Cは眠っているかもしれません。
その後、二人はまったく違う経験をして、違う人生を歩んでいくこともできます。

つまり、BとCは一人の人物ではありません。
そのため、
「AがそのままBとCの両方になった」
とは考えられないのです。
では、
「BだけがAなのではないか」
と考えればよいのでしょうか。
それにも問題があります。
この思考実験では、BもCもAとの心理的なつながりを十分に持つよう、左右を対称的な条件にしています。
それなのに、
「BだけがAで、CはAではない」
とするなら、
なぜBだけなのか
という新しい問題が生まれます。
そこでパーフィットは、この完全分裂の場合、BとCのどちらも、分裂前のAと「一人の同じ人物」ではないと考えます。
ここで、この思考実験を行った意味が見えてきます。
心理的なつながりは、一人のAからBとCの二方向へ枝分かれすることができます。
しかし、
「一人の同じ人物であること」は、同じように一人から二人へ枝分かれすることができません。
つまり、
「一人の同じ人物であること」と「心理的につながっていること」は、同じものではない
という違いが見えてきたのです。
では、
「BもCもAと同じ人物ではない」
と分かったところで、話は終わりなのでしょうか。
パーフィットにとって、むしろここからが重要でした。
BもCもAと一人の同じ人物ではない。
それなら、
「Aはそこで終わった。Aにとって大切なものも、すべて失われた」
と考えるべきなのでしょうか。
もう一度、思考実験の条件を思い出してみましょう。
Bには、Aの過去との心理的なつながりがあります。
Cにもあります。
Aの記憶につながるものがあります。
Aの意図や計画を引き継ぎます。
Aの信念や望みなども、未来へ続いていると仮定されています。
つまり、
BもCもAと一人の同じ人物ではないのに、Aと未来を結ぶ心理的なつながりは残っている
のです。
ここでパーフィットは問い直します。
「一人の同じ人物でなくなったというだけで、これは普通に死んで、何も残らなくなることと同じなのだろうか?」
パーフィットは、そうではないと考えました。
完全分裂の場合、AとB・Cとのあいだには、私たちが普通の生存で大切にしているものが残っている、と考えたのです。
ここが非常に重要です。
パーフィットは、
「心理的につながっているから、BもCもA本人である」と結論したのではありません。
むしろ、
「BもCもAと一人の同じ人物ではない。それでも、生存について重要だと考えられる心理的なつながりは残ることができる」
と考えたのです。
だからこそ、
「一人の同じ人物であり続けること」と、「生き続けるうえで私たちが大切にしているもの」は、必ずしも同じではないのではないか
という問いが生まれます。
その「大切な心理的な関係」を、さらに詳しく説明するために登場するのが、
Relation R(リレーション・アール)=R関係
です。
パーフィットのいうR関係とは、簡単に言えば、
記憶・意図・信念・望みなどによる直接的な心理的つながりや、それらのつながりが重なりながら時間を越えて続いていくこと
に関係するものです。
より正確には、
psychological connectedness(サイコロジカル・コネクテッドネス)=心理的連結性
と、
psychological continuity(サイコロジカル・コンティニュイティ)=心理的連続性
を区別します。
心理的連結性とは、簡単に言えば、過去と現在のあいだにある直接的な心理的つながりです。
たとえば、
昨日「明日は図書館へ行こう」と決め、今日その計画を覚えていて図書館へ行く。
昔経験した失敗を覚えていて、それが今の判断に影響している。
以前から持っていた信念や目標が、今の行動へつながっている。
こうした関係です。
一方、心理的連続性とは、こうした直接的なつながりが重なり合いながら続いていくことです。
昔のあなたと今のあなたで考えてみましょう。
小学生のあなたは、今日起きたことを知りません。
今のあなたも、小学生時代の一日一日をすべて覚えているわけではありません。
それでも、
小学生のあなたから、その翌年のあなたへ。
その人から中学生のあなたへ。
そこから高校生、その後のあなたへ。
記憶・意図・信念・望みなどの心理的なつながりが、少しずつ重なりながら続いています。
一本の長いロープを想像してみると分かりやすいかもしれません。
一本の繊維だけが、ロープの最初から最後まで続いている必要はありません。
短い繊維が少しずつ重なり合うことで、一本の長いロープになります。

心理的連続性も、それに少し似ています。
昔から今まで、まったく同じ記憶や考えを持ち続けている必要はありません。
人は忘れます。
新しいことを知ります。
考え方も変わります。
望んでいることも変わります。
それでも、昨日から今日へ、今日から明日へと心理的なつながりが重なっていくことがあります。
パーフィットがいうR関係は、より正確には、心理的連結性および/または心理的連続性と、それらを生じさせる原因についての条件を含む関係です。
そして完全分裂の思考実験では、このR関係にあたるものが、AからBとCの両方へ続いていると考えます。
ここで、最初の疑問へ戻ってみましょう。
パーフィットが知りたかったのは、
「脳を二つに分ければ、人間は本当に二人の自分になるのか」
という医学的な問題ではありません。
また、
「BとCのどちらが本物のAなのか」
を決めることだけが目的でもありません。
この思考実験によって考えたかったのは、
「一人の同じ人物であり続けること」と「心理的につながり続けること」を切り離したとき、私たちが生存について本当に大切にしているものはどちらなのか
ということです。
完全分裂では、
AからBへ心理的なつながりが続きます。
AからCへも心理的なつながりが続きます。
しかし、BもCもAと一人の同じ人物ではありません。
つまり、
心理的なつながりは残っているのに、人物としての同一性は残っていない
という特殊な状況になります。
それでも、Aが未来について大切にしていた記憶・計画・信念・望みなどにつながるものは、BとCへ続いています。
そこでパーフィットは、
私たちが生き続けるうえで本当に重要なのは、「未来にも一人の同じ私が存在すること」そのものではなく、心理的な連結性や連続性のような関係なのではないか
と論じました。
もちろん、この思考実験によって、
「人間とは科学的にこういう存在だ」
と証明されたわけではありません。
これは哲学の思考実験です。
パーフィットが示そうとしたのは、
「未来の人物が今の自分と同じ人物であること」と、「今の自分から未来へ心理的なつながりや連続性が続いていること」は、特殊な場合には別々になる
ということです。
そしてパーフィットは、
私たちが生き続けるうえで本当に重要なのは、「未来にも同じ私が存在すること」そのものではなく、今の自分から未来へ心理的なつながりや連続性が続いていくことなのではないか
と考えました。
こうして、最初の問いは一段深くなります。
最初は、
「未来の人物は、本当に今の私と同じ人物なのか?」
という問いでした。
しかし、完全分裂の思考実験を考えると、それだけでは終わりません。
さらに、
「未来にも同じ私が存在することと、今の私から未来へ心理的なつながりが続くこと――私たちが生き続けるうえで、本当に重要なのはどちらなのだろう?」
という問いへ進んでいくのです。
人格の同一性について考えていたはずなのに、いつの間にか私たちは、
「未来の自分を、なぜ大切にするのか」
という問題にまで来ました。
そして、ここにもまだ答えの出ていない問題があります。
心理的なつながりが大切だとしても、
それだけで本当に十分なのでしょうか。
身体や、一人の生物として生き続けることは重要ではないのでしょうか。
記憶や心理的なつながりが大きく失われた場合は、どう考えればよいのでしょう。
そして、パーフィットの考えを受け入れると、私たちの「自分」という感覚や、未来の自分、さらには他人との関わり方はどう変わるのでしょうか。
人格の同一性の問題は、ここからさらに深くなっていきます。
第8章 「心のつながり」と「生きた人間のつながり」は同じなの?
ここまで、パーフィットの考えを追ってきました。
ここから大切になるのは、
「パーフィットが正しい」と覚えることではなく、その考えはどこまで成り立つのかを、自分でも確かめてみることです。
まず、ここまで何度も登場した**「心理的なつながり」**という言葉を、もう一度やさしく整理しておきましょう。
心理的なつながりとは、簡単に言えば、
過去の自分の記憶・考え・意図・信念・望みなどが、現在や未来の自分へ影響しながらつながっていること
です。
たとえば、昨日のあなたが、
「明日は図書館へ行こう」
と決めたとします。
今日のあなたがその予定を覚えていて、実際に図書館へ行ったなら、昨日の意図が今日の行動へつながっています。
小学生のころの失敗を覚えていて、
「あのとき失敗したから、今度は慎重にしよう」
と考えるなら、過去の記憶が現在の考え方へつながっています。
昔から持っている目標が、現在の進路や行動へ影響しているなら、過去の望みや信念も現在へつながっています。
これが、ここでいう心理的なつながりです。
大切なのは、
昔から今まで、まったく同じ記憶や考えを持ち続けている必要はない
ということです。
人は忘れます。
考え方も変わります。
望んでいることも変わります。
眠っている間のように、意識そのものが途切れる時間もあります。
それでも、
昨日の自分から今日の自分へ。
今日の自分から明日の自分へ。
記憶・意図・信念・望みなどが少しずつ影響し合いながら続いていくことがあります。
パーフィットは、こうした直接的な心理的つながりを、
psychological connectedness(サイコロジカル・コネクテッドネス)=心理的連結性
と呼びます。
そして、このようなつながりが時間の中で重なり合いながら続いていくことを、
psychological continuity(サイコロジカル・コンティニュイティ)=心理的連続性
と考えます。
つまり、とても簡単に言えば、
心理的なつながりとは、「私の心の履歴が、過去から現在、そして未来へどうつながっているか」ということです。
ただし、ここで一つ注意が必要です。
パーフィットは、
「心理的につながっていれば、必ず一人の同じ人物である」と言っているわけではありません。
前の章の完全分裂を思い出してください。
AからBへ心理的なつながりがありました。
AからCへも心理的なつながりがありました。
しかし、BとCの両方をA本人だとは言えませんでした。
ここから、
「一人の同じ人物であること」と「心理的につながっていること」は、同じではない
ということが見えてきました。
パーフィットが特に重視したのは、
たとえ一人の同じ人物であることが成立しない特殊な場合でも、生存において重要な心理的なつながりは残ることがあるのではないか
という点でした。
では、ここで反対側から考えてみましょう。
人が時間を越えて存在し続けることを考えるとき、本当に心理的なつながりを中心に考えてよいのでしょうか。
私たちは記憶し、考え、望む存在です。
しかし同時に、赤ちゃんとして生まれ、食べ、眠り、呼吸し、成長しながら生き続けている一人の人間でもあります。
ここを重視する立場があります。
animalism(アニマリズム)=動物説です。
代表的な論者の一人が、哲学者エリック・オルソンです。
動物説を理解するときに、まず避けたい誤解があります。
動物説は、
「私という心や魂があって、その私が一つの身体をずっと使い続けている」という考えではありません。
むしろ、その反対に近い考え方です。
動物説では、
「私は、身体の中に入っている別の何かではなく、この生きている一人のヒトという生物そのものである」
と考えます。
つまり、
「私」と「この生きた人間」を別々のものにしないのです。
赤ちゃんだったころのあなたを考えてみましょう。
現在とは体の大きさも違います。
顔つきも変わっています。
できることも、考えていることも違います。
赤ちゃんだったころには、現在のような人生の計画もありません。
現在のあなたは、そのころの出来事をほとんど覚えていないかもしれません。
それでも動物説では、
赤ちゃんだった一人のヒトという生物が成長し、生命活動を続けながら、現在まで生き続けてきた
と考えることができます。
重要なのは、
「昔からまったく同じ形の身体を持っていること」ではありません。
体は成長し、変化します。
むしろ動物説が重視するのは、
変化しながらも、一つの生きた生物としての生命が続いていること
です。
ここで、二つの考え方を並べてみましょう。
| 見るもの | 心理的なつながりを重視する考え | 動物説 |
|---|---|---|
| 注目するもの | 記憶・考え・意図・信念・望みなど | 一人の生きたヒトという生物 |
| 過去から現在へのつながり | 心理的な状態が影響しながらつながる | 一つの生物が成長しながら生き続ける |
| 赤ちゃんのころの記憶がなくても? | 直接のつながりは弱くても、途中の心理的連続性を考えられる | 記憶がなくても同じ生物が生き続けていれば説明できる |
| 「私」と身体の関係 | 心理的な関係を重要なものとして考える | 私自身が、この生きているヒトという生物である |
| 魂を想定する? | 必要とは限らない | 動物説そのものは、身体を使う魂を前提にしない |
とても簡単にまとめるなら、
心理的なつながりを見る考え方は、「私の心の履歴がどう続いているか」を見る。
一方、
動物説は、「この一人の生きた人間が、どう生き続けているか」を見る。
という違いです。

ただし、ここでも「心か体か」という単純な二択にしてはいけません。
動物説も、人間に記憶や考え、望みがあることを否定しません。
動物説でも、私たちは考えます。
記憶します。
計画を立てます。
誰かを好きになったり、将来を望んだりもします。
違うのは、
「過去から現在へ、記憶・意図・信念・望みなどの心理的なつながりが続いていることを重視するのか」
それとも、
「心理的な状態がどれほど変化しても、一人のヒトという生物が生命を続けていることを重視するのか」
というところです。
動物説では、記憶や考えがなくてもよい、と考えているわけではありません。
人間にはもちろん、記憶も思考も望みもあります。
ただし、
それらが続いていることを、「私が同じ存在として生き続けているための条件」とは考えません。
たとえば、大きな記憶喪失によって過去の出来事をほとんど思い出せなくなったとしても、それだけで一人のヒトという生物が別の個体へ変わるわけではありません。
動物説が重視するのは、
「心の内容がどれだけ続いているか」ではなく、「一つの生きたヒトという生物が、生命を続けながら存在しているか」
なのです。
たとえば、非常に大きな記憶喪失が起きたとします。
以前の出来事をほとんど思い出せなくなり、考え方や性格まで大きく変化したとしましょう。
心理的なつながりだけを見ると、
「過去の自分とのつながりはかなり弱くなった」
と考えることができます。
しかし動物説から見れば、
それでも同じ一人のヒトという生物が生き続けているなら、その人物は存在し続けている
と考えやすくなります。

ここに、二つの考え方の違いがよく表れています。
では、動物説が正しい答えなのでしょうか。
そう簡単でもありません。
ここで、もう一度パーフィットのような脳移植の思考実験を考えてみましょう。
仮に、あなたの記憶・意図・信念・望みなどを支えている脳の部分が、別の身体へ移されたとします。
移植された先の人物は、
あなたの家族を覚えています。
あなたの友人を覚えています。
昨日あなたが立てた予定も覚えています。
あなたの信念や目標も引き継いでいます。
一方、元の身体では、生物としての生命が続いているとします。
すると、
生物としてのつながりは、元の身体の側へ続いている。
しかし、
心理的なつながりは、脳を受け継いだ別の身体の側へ続いている。
という状況を想像できます。
ここで問いが生まれます。
あなたは、どちらなのでしょうか。
一人の生物として生命を続けている方でしょうか。
それとも、あなたの記憶・考え・意図・望みなどを引き継いだ方でしょうか。
このような思考実験が難しいのは、
普段は一緒に続いている「生物としてのつながり」と「心理的なつながり」が、別々の方向へ進んでしまう
からです。
動物説では、私たちは一人のヒトという生物なので、生物として続いている側を重視します。
しかし、多くの人は、
「自分の記憶も性格も人生の計画もすべて別の身体へ移ったのなら、そちらが自分の続きのように感じる」
という直感を持つかもしれません。
だからこそ、脳移植の思考実験は動物説を考えるうえでも重要になります。
ここまで見てくると、人格の同一性についての問いは、単純な
「心と体のどちらが本当の私なのか」
という問題ではないことが分かります。
むしろ、
「過去の私と現在の私を、一人の同じ人物としているものは何なのか」
そして、
「一人の同じ人物であることとは別に、私たちが生き続けるうえで大切にしているつながりは何なのか」
という、二つの問題が重なっています。
さらに、別の方向からこの問題を考える哲学者もいます。
哲学者クリスティーン・コースガードは、私たちが考え、決断し、行動する主体であることに注目します。
私たちは、
将来の計画を立てます。
昨日した約束を今日守ります。
何年もかけて一つの目標を追いかけることもあります。
こうした行動をするとき、私たちは「昨日の私」「今日の私」「未来の私」を、まったく無関係な存在として扱っているわけではありません。
時間を越えて、自分の行動や計画をある程度一つにつなげながら生きています。
ここからは、
「一人の同じ人物である条件は何か」という問題だけではなく、「私たちが一つの人生を生き、行動するために、時間を越えた自分のまとまりがどのような意味を持つのか」
という別の問いも見えてきます。
ここまでの違いを、最後にもう一度整理してみましょう。
心理的なつながり
過去の記憶・考え・意図・信念・望みなどが、現在や未来へ影響しながらつながっていくこと。
動物説
私は、心が身体を使っている存在ではなく、この一人の生きたヒトという生物そのものであり、その生物が生命を続けることを重視する考え方。
パーフィットの問い
「一人の同じ人物であり続けること」と「心理的につながり続けること」を分けたとき、生存について私たちが本当に重要だと考えているものは何なのか。
こうして見ると、人格の同一性には少なくとも二つの大きな問いがあることが分かります。
一つは、
「何によって、私は時間を越えて一人の同じ存在であり続けるのか」
という問いです。
そしてもう一つは、
「たとえ一人の同じ人物であることとは別だとしても、私たちが生きるうえで本当に大切なつながりとは何なのか」
という問いです。
心理的なつながりでしょうか。
一人の生物としての生命でしょうか。
それとも、人生の計画や約束を引き受けながら生きる、一人の行為者としてのつながりでしょうか。
現在の哲学でも、ここに一つだけの答えがあるわけではありません。
だからこそ、パーフィットの答えを覚えて終わるのではなく、
「では、自分は何が続いていれば、“私は続いている”と言いたくなるだろう?」
と考えてみることが、人格の同一性を哲学する次の一歩になるのです。
ここまでの違いを、最後にもう一度整理してみましょう。
心理的なつながりとは、
過去の記憶・考え・意図・信念・望みなどが、現在や未来へ影響しながらつながっていくことです。
一方、動物説では、
私は、心や魂が身体を使っている存在ではなく、この一人の生きたヒトという生物そのものだと考えます。
そのため、記憶や考えが大きく変化しても、一つの生物としての生命が続いていることを重視します。
そしてパーフィットは、さらに別の問いを投げかけました。
「一人の同じ人物であり続けること」と「心理的につながり続けること」が別々になるとしたら、私たちが生き続けるうえで本当に重要なのは何なのだろう。
では結局、
何が続いていれば、「私は同じ私として続いている」と言えるのでしょうか。
ここまで読んで、
「結局、答えは出ていないの?」
と思った人もいるかもしれません。
現在の哲学では、この問いに対する一つだけの答えが決まっているわけではありません。
しかし、だからといって何も分かっていないわけでもありません。
たとえば、
「記憶や意図など、心理的なつながりを重視する」
という考えがあります。
「一人のヒトという生物が、生命を続けていることを重視する」
という動物説もあります。
そして、それぞれの考え方には、「なるほど」と思えるところと、特殊な場合になると答えるのが難しくなるところがあります。
では、私たちは何も答えを持てないのでしょうか。
ここで、日常の自分に戻って考えてみましょう。
昨日のあなたから今日のあなたへ。
一人のヒトという生物としての生命は続いています。
同時に、昨日の記憶や予定、考えや望みなども、すべてではなくても今日のあなたへつながっています。
つまり、私たちの普通の生活では、
「一人の生物としてのつながり」と「心理的なつながり」は、たいてい同じ方向へ一緒に続いています。
だから普段は、
「昨日の私と今日の私は、同じ私だ」
と言っても、それほど困らないのです。
問題が難しくなるのは、パーフィットの完全分裂や脳移植のように、普段は一緒に続いているものを、あえて別々にした場合です。
心理的なつながりは、こちらへ。
生物としてのつながりは、あちらへ。
もし本当にそのようなことが起きたら、
「どちらが私なのか」
という問いに対して、心理的なつながりを重視する考えと、動物説とでは答えが分かれてきます。
つまり、現在の哲学で決着していないのは、
「私たちの日常では何も分からない」ということではありません。
むしろ、
「心のつながりと生物としてのつながりが別々になった特殊な場合に、それでも何を基準に『私』と呼ぶべきなのか」
というところで、考え方が分かれているのです。
そして、ここまで考えてくると、一つ大切なことが見えてきます。
人格の同一性について哲学する意味は、
「正解がまだないから、何も言えない」
ということではありません。
むしろ、
私たちが普段ひとまとめにしている「同じ私」という言葉の中には、いくつもの違うつながりが含まれている
と分かってきたこと自体が、大きな前進なのです。
体は成長しながら、生物として続いている。
記憶や考えは変化しながら、心理的につながっている。
そして私たちは、過去の約束を引き受け、未来の計画を立てながら、一つの人生を生きています。
普段は、それらが重なり合って、
「これが私だ」
という感覚をつくっているのかもしれません。
けれど、その一つひとつを切り離してみたらどうなるのか。
どれがなくなっても、まだ「私」と言えるのか。
それとも、どこかで「もう私ではない」と言いたくなるのか。
そこから先には、まだ議論が続いています。
だから、この章で無理に一つの答えを決める必要はありません。
ひとまず持ち帰ってほしいのは、
「同じ私が続く」という一見当たり前のことの中には、生物としてのつながり、心理的なつながり、そして人生を引き受けていくつながりなど、いくつもの問題が重なっている
ということです。
そして最後に、もう一度だけ自分に問いかけてみてください。
もし、記憶が変わっても、考え方が変わっても、体が変化しても、それでも「私は私だ」と思うとしたら――あなたは、何が続いているからそう思うのでしょうか。
その答えを考え始めたところから、今度はあなた自身の人格の同一性についての哲学が始まります。
第9章 よくある誤解
「人格の同一性」を間違えないために
ここまで、人格の同一性についてさまざまな考え方を見てきました。
内容が深くなってきたので、ここで一度、
「こういう意味だと思っていたけれど、実は少し違う」
という、起こりやすい誤解を整理しておきましょう。
人格の同一性は、「性格がずっと同じか」を調べる問題ではありません。
「人格」という言葉を見ると、
「性格が変わったら、もう同じ人ではないの?」
と思うかもしれません。
しかし、ここでいう人格の同一性は、性格が変わらないことを意味しているわけではありません。
子どものころと大人になった現在では、性格や好み、価値観が大きく変わることがあります。
それでも私たちは普通、
「子どものころの私と、今の私は一人の同じ人物だ」
と考えます。
人格の同一性で問題になるのは、
「人がさまざまに変化しながらも、時間を越えて一人の同じ人物であり続けるとは、どういうことなのか」
という問いです。
心理的なつながりについても、よくある誤解があります。
「昔のことをたくさん覚えていれば、心理的につながっている」というだけではありません。
記憶は大切な要素の一つですが、それだけではないからです。
たとえば、
昨日立てた計画を今日実行する。
昔の経験が現在の考え方へ影響する。
以前から持っていた信念や望みが、その後の行動へつながっていく。
こうした意図・信念・望みなども、心理的なつながりに関係します。
また、幼いころの一日一日を現在のあなたが直接覚えている必要もありません。
幼い自分から少し成長した自分へ。
そこからさらに成長した自分へ。
そのように心理的なつながりが少しずつ重なりながら続いていくことがあります。
心理的連続性とは、「昔のことを全部覚えていること」ではなく、記憶・意図・信念・望みなどの心理的なつながりが、時間の中で重なりながら続いていくことです。
もう一つ、とても重要な誤解があります。
それは、
「心理的につながっているなら、その人は必ず同じ人物なのだ」と考えてしまうことです。
前の章で見たパーフィットの完全分裂を思い出してください。
AからBへ心理的なつながりがあります。
AからCへも心理的なつながりがあります。
それでも、BとCの両方を同時にA本人だとは言えませんでした。
つまり、
「心理的につながっていること」と「一人の同じ人物であること」は、同じ意味ではありません。
パーフィットが分裂の思考実験で注目したのも、まさにこの違いでした。
心理的なつながりは二方向へ枝分かれすることができます。
しかし、一人の人物がそのまま二人の同じ人物になることはできません。
だからパーフィットは、
「心理的につながっていれば、それだけで同一人物だ」
と単純に考えたのではありません。
むしろ、
一人の同じ人物であることが成立しなくても、生存において重要な心理的なつながりは残る場合があるのではないか
と考えたのです。
パーフィットについては、もう一つ注意が必要です。
彼の議論を、
「本当の自分なんて存在しない」という主張だと理解するのも正確ではありません。
パーフィットは、人間が存在しないと言っているわけではありません。
彼が問い直したのは、
人についてのすべての事実を説明するとき、身体・脳・記憶・意図・信念などについての事実に加えて、さらに特別な「私そのもの」という深い事実が必要なのか
ということです。
これは、パーフィットのreductionism(リダクショニズム)=還元主義と関係します。
簡単に言えば、
「人について起きている身体的・心理的な事実とは別に、さらに説明できない特別な“私の核”を想定しなくてもよいのではないか」
と考える立場です。
したがって、
パーフィットの考えは、「人間は存在しない」という主張ではなく、「人について、さらに特別な深い事実を想定する必要があるのか」を問い直すものです。
動物説についても、誤解しやすいところがあります。
動物説は、「昔からずっと同じ形の身体を使っているから、同じ人だ」という考えではありません。
身体は成長します。
形も変わります。
それでも、一人の生きたヒトという生物が生命活動を続けながら存続している、と考えることができます。
また、
「魂である私が身体の中に入り、その身体を使っている」
という考えでもありません。
動物説では、
「私は身体を使っている別の何かではなく、この一人の生きたヒトという生物そのものである」
と考えます。
そして、記憶や考えを持つことを否定しているわけでもありません。
重要なのは、
記憶や考えが続いていることを、「同じ一人の生物として存在し続けるための条件」とは考えない
という点です。
大きな記憶喪失が起きても、それだけで一人のヒトという生物が別の個体になるわけではありません。
パーフィットの「分裂」についても、忘れてはいけないことがあります。
これは、実際に人間の脳を左右に分け、それぞれを別の身体へ移植した実験の結果ではありません。
現実の分離脳研究はありますが、パーフィットが考えた完全分裂とは別のものです。
パーフィットは、
「もし、一人の人物から二人へ心理的なつながりが枝分かれしたらどうなるだろう」
という条件を頭の中で設定しました。
完全分裂は、現実には簡単に切り離せない条件をあえて分けることで、「同じ人物であること」と「心理的につながっていること」の違いを確かめるための思考実験です。
「脳を二つにすれば、本当に人間が二人の自分になる」と科学的に証明した話ではありません。
そして最後に、
「では、パーフィットの答えが人格の同一性についての正解なの?」という疑問もあるでしょう。
これについても、一つの答えに決着しているわけではありません。
心理的なつながりを重視する考えがあります。
一人の生きたヒトという生物の存続を重視する動物説もあります。
さらに、
「同じ人物であるための条件」と、
「私たちが生きるうえで何を大切にするべきか」は、
そもそも別の問題なのではないか、と考えることもできます。
現在の哲学では、「これだけが唯一の正解だ」と決まっているわけではありません。
しかし、それは「何も分かっていない」という意味でもありません。
ここまでの議論によって、
「性格が同じこと」と「一人の同じ人物であること」は違う。
「心理的につながっていること」と「一人の同じ人物であること」も同じではない。
「一人の生物として続くこと」と「心理的につながり続けること」も、特殊な場合には別々に考えることができる。
という区別が見えてきました。
ここまでを一言でまとめるなら、
人格の同一性とは、「変わらない何か」を一つ探し出すだけの問題ではありません。
身体も心も変化していく人間について、それでも時間を越えて「一人の同じ人物である」と言えるのはなぜなのか。そして、その中で私たちが本当に大切にしているものは何なのかを問い直す哲学です。
この区別が分かっていれば、人格の同一性について考えるときに、少なくとも「性格が変わったから別人」「記憶がなくなったから必ず別人」「心理的につながっているから必ず同一人物」と簡単に決めつけずに考えられるようになります。
第10章 人格の同一性は、日常のどこで役立つ?

人格の同一性を知ったからといって、人生の問題に自動的な正解が出るわけではありません。
役立つのは、
「今、別々に考えるべき問題を一つにしていないだろうか」と気づけることです。
たとえば、未来の自分について考えるとき。
勉強する。
貯金する。
健康のために生活を整える。
新しい技術を学ぶ。
多くの場合、努力するのは今の自分ですが、その結果を受け取るのは未来の自分です。
パーフィットは、未来の自己への特別な関心と心理的なつながりの強さとの関係を検討しました。
『理由と人格』第14章では、心理的連結性の程度に応じて未来の自己への関心をどう考えるべきか、という問題まで議論しています。
だからといって、
「未来の自分とのつながりが弱いなら、未来など気にしなくてよい」
ということではありません。
むしろ、
「今の自分は、未来の自分へ何を受け渡したいのだろう?」
と考えるきっかけになります。
昔の自分について考えるときにも使えます。
「あのころの自分は、今とは全然違う」
と思うことがあります。
でも、
同じ人物であることと、同じ性格・同じ価値観を持ち続けることは別です。
昔と考えが違うからといって、それだけで過去の自分とのつながりがなくなるわけではありません。
反対に、「同じ自分だから」という理由だけで、昔の考え方を今も守り続けなければならないわけでもありません。
仕事や進路でも同じです。
「昔決めた夢だから、変えてはいけない」
と感じることがあります。
しかし、昔の自分から経験や考えを受け継ぎながら、今の自分が新しい判断をすることもできます。
過去の自分とつながっていることと、過去の自分に縛られることは同じではありません。
人間関係でも役立ちます。
「昔はそんな人じゃなかった」
と思うことがあります。
人格の同一性について考えると、
「同じ人であること」と、
「昔と同じ考え方をしていること」
を分けられます。
人は、一人の同じ人物として生きながら、大きく変化することができます。
哲学は、
「こうしなさい」
と答えを決める道具ではありません。
これまで一つだと思っていた問題を分け、何を根拠に判断しているのかを見直せるようにする道具です。
人格の同一性も、その一つなのです。
第11章 この言葉を知ると、「私」の見え方はどう変わる?
人格の同一性を知る一番の意味は、専門用語を覚えることではありません。
「私」というものについて、今までとは違う問い方ができるようになることです。
これまでは、
「昔の私も今の私も同じ。私なんだから当然」
と思っていたかもしれません。
今なら、
「何がその二人を一人の人生としてつないでいるのだろう?」
と考えられます。
これまでは、
「昔と考えが変わった。自分らしくなくなった」
と思っていたかもしれません。
今なら、
「同じ人でありながら、人はどこまで変わることができるのだろう?」
と考えられます。
これまでは、
「未来の自分は自分なのだから、大切にするのは当然」
と思っていたかもしれません。
今なら、
「なぜ私は未来の自分を特別に気にかけるのだろう?」
と、一段深いところまで考えられます。
そして、おそらく一番大きな変化は、
「私は何者なのか」という問いに、最初から一つの答えを決めなくてもよくなることです。
身体を大切だと思う人もいるでしょう。
心理的なつながりを大切だと思う人もいるでしょう。
人生を一つの物語として理解することに意味を感じる人もいるかもしれません。
哲学には、それぞれを検討するための考え方があります。
大切なのは、
「私は私だから」で思考を終わらせず、自分が何を『私』にとって大切なものだと考えているのかを吟味できることです。
哲学が私たちを少し自由にするとすれば、その一つは、
「こう考えるのが当たり前だ」
と思っていたことを、
「本当にそうだろうか?」
と、もう一度自分で考えられるようになることなのかもしれません。
第12章 では、あなたならどう考える?
ここまで、ロック、パーフィット、心理的連続性、動物説など、いくつもの考え方を見てきました。
でも、このブログで最後に考えてほしいのは、
哲学者の答えではありません。
あなた自身の答えです。
最初の問いに戻ってみましょう。
昨日のあなたと、今日のあなた。なぜ同じ「あなた」なのでしょうか。
身体が続いているからでしょうか。
一人の生物として生命が続いているからでしょうか。
記憶や意図、信念、望みなどがつながっているからでしょうか。
それとも、まだ別のものが必要でしょうか。
では、条件を少し変えてみます。
もし多くの記憶を失っても、あなたはあなたでしょうか。
もしあなたの記憶や考えを受け継いだ人物が別に現れたら、その人はあなたでしょうか。
もしその人物が二人現れたら?
そして、
「どちらが私なのか」という答えが出なくても、あなたにとって大切な何かが二人へ受け継がれているとしたら、それを「生き続けた」と考えられるでしょうか。
さらに未来の自分を想像してください。
50年後のあなたは、今とは違うものを好きになり、違う考えを持ち、今日の出来事の多くを忘れているかもしれません。
それでも今のあなたは、その未来の人のために何かを残したいと思うでしょうか。
もしそうなら、
何がその未来の人を、見知らぬ誰かとは違う特別な存在にしているのでしょう。
この記事の最初では、
「昨日の私と今日の私は同じ私。当たり前だ」
と思っていたかもしれません。
ここまで読んだ今、その問いが少し難しく感じられたなら、それは哲学を学んだ意味の一つです。
分からなくなったのではありません。
最初は見えていなかった選択肢や問題が、見えるようになったのです。
パーフィットに賛成する必要はありません。
動物説を選ぶ必要もありません。
哲学者と違う答えを考えても構いません。
ただ、一度だけ自分に問いかけてみてください。
あなたを「あなた」にしているものは、何でしょうか。
その答えに、
「なぜそう思うの?」
と、もう一度問いかけてみる。
そこから先は、哲学者の哲学ではありません。
あなた自身の哲学が始まります。
第13章 おまけコラム
「私」は、自分の中だけにあるの?
ここまで私たちは、
身体、生命、記憶、心理的なつながりなど、
「何が昔の私と今の私をつないでいるのか」
を考えてきました。
では最後に、少しだけ視点を変えてみましょう。
「私」を理解するためには、自分の中だけを見れば十分なのでしょうか。
たとえば、幼いころの写真を見つけたとします。
そこに写っているのは間違いなくあなたです。
でも、その日のことをあなた自身は何も覚えていません。
すると家族が、
「この日は初めて一人で学校へ行った日だよ」
「このころは毎日こんな遊びをしていたよ」
と教えてくれるかもしれません。
あなたが忘れてしまった「あなた」を、別の誰かが覚えているのです。
ほかにもあります。
昔の手紙。
日記。
学校の記録。
友達との思い出。
写真や動画。
自分では忘れてしまった過去が、他人との関係や記録の中に残っていることがあります。
もちろん、他人があなたを覚えていることだけで、昔と今のあなたが数の上で同じ一人の人物になるわけではありません。
ここまで考えてきた「人格の同一性」とは、区別して考える必要があります。
それでも、
「私はどんな人間なのか」
を考えるときには、少し事情が変わってきます。
哲学には narrative identity(ナラティブ・アイデンティティ)=物語的同一性・物語的アイデンティティと呼ばれる考え方があります。
これは単純に、
「何があれば昔と今で一人の同じ人物なのか」
を決める理論というより、
自分の経験・行動・失敗・選択などを、どのように一人の人間の人生として理解するのか
に注目する考え方です。
私たちは過去を、ただ保存しているわけではありません。
「あの失敗があったから、今の考え方になった」
「あの人と出会ったことで、人生が変わった」
「あのころの自分には分からなかったけれど、今なら意味が分かる」
そんなふうに、過去の出来事を現在から振り返り、つなぎ直しながら自分の人生を理解しています。
物語的な人格理解では、
過去の経験や記憶、選択、失敗などに意味を見いだし、それらが現在の自分へどのようにつながってきたのかを、一つの人生の物語として理解すること
に注目します。

これは、過去の出来事をただ順番に覚えているという意味ではありません。
たとえば、
「あの失敗があったから、今の考え方になった」
「あの人との出会いが、その後の生き方を変えた」
「あのころは意味が分からなかったけれど、今振り返ると、あの経験も現在の自分につながっている」
というように、過去を現在から振り返り、その意味やつながりを考えながら、
「これらはすべて、私が生きてきた一つの人生の出来事なのだ」
と理解していくことです。
すると、「私」という問いには、また別の顔が現れます。
「何が私を同じ一人の人にしているのか」
という問いだけでなく、
「私は、自分の人生をどのような人生として理解しているのか」
という問いです。
そして、そこには他人との関係も入り込んできます。
自分では忘れてしまった優しさを、誰かが覚えていることがあります。
自分では大したことではないと思った言葉が、誰かの人生に残っていることもあります。
反対に、自分が忘れていた失敗を、誰かが覚えていることもあるでしょう。
そう考えると、「私」を理解することは、自分の頭の中だけをのぞけば終わる問題ではないのかもしれません。
私は、何を覚えているのか。
だけではなく、
私は、誰と関わり、どんな出来事を自分の人生として受け取ってきたのか。
そんな問いも生まれてきます。
あなたが忘れてしまった「あなた」を、誰かが覚えているとしたら――
その記憶は、あなたが「自分の人生」を理解するうえで、どんな意味を持っているのでしょうか。
第14章 まとめ・考察
「私」は、変わらず保存されるものなのか
ここまで人格の同一性について考えてきて分かるのは、
「私が私である」という当たり前に見えることには、まだ一つに決着していない哲学的な問題が含まれている
ということです。
身体や一人の生物としての生命を重視する考え方があります。
記憶・意図・信念・望みなどの心理的なつながりを重視する考え方もあります。
そしてパーフィットはさらに、
「同じ一人の人物であること」と「生き続けるうえで本当に大切なもの」は、本当に同じなのか
と問い直しました。
人格の同一性について、現在もすべての哲学者が認める一つの答えに決着しているわけではありません。
では、この哲学から私たちは何を持ち帰れるのでしょうか。
ここからは、一つの考察です。
「私」を、昔から未来まで同じ状態で保存されるものとして考えなくてもよいのではないでしょうか。
私たちは変わります。
知らなかったことを知ります。
信じていたことを疑います。
夢を変えることもあります。
忘れてしまうこともあります。
だからといって、性格や価値観が変わるたびに、数の上でも別の人物になったということにはなりません。
むしろ人生は、
「保存」よりも「受け渡し」
に近いのかもしれません。

小学生だった自分から、中学生だった自分へ。
昨日の自分から、今日の自分へ。
今日の自分から、まだ会ったことのない未来の自分へ。
私たちは、過去から受け取ったものをすべてそのまま保存しているわけではありません。
「これは大切にしたい」
「これは考え直したい」
「これはもう手放してもいい」
と、ときには選び直しながら生きています。
昔の写真や文章を見つけて、
「こんなことを考えていたのか」
と恥ずかしくなった経験はないでしょうか。
でも少し時間を置いて見ると、
「このころの経験があったから、今はこう考えているのかもしれない」
と思えることもあります。
過去の自分とつながっていることと、過去の自分に縛られることは同じではありません。
これは、人格の同一性について考えることで見えてくる、大切な違いの一つだと思います。
そして、ここには哲学の持つ自由もあります。
哲学は、
「昔のあなたは間違っていたから忘れなさい」
とも、
「昔のあなたと同じでいなさい」
とも命令しません。
代わりに、
「なぜ、そう考えるの?」
と問い返してきます。
昔決めたことだから続けるのか。
今でも大切だと思うから続けるのか。
昔とは違う道を選ぶなら、なぜ変えたいのか。
そうやって、自分が受け取ったものを一つずつ吟味する。
そして、未来へ何を渡したいかを考える。
人格の同一性について考えることは、
「絶対に変わらない本当の自分」を見つけることだけではありません。
変わっていく自分と、どのようにつき合って生きていくのかを考えることでもあるのではないでしょうか。
あなたは、過去の自分から何を受け取りましたか。
そして、
未来の自分へ、何を残したいでしょうか。
第15章 疑問が解決した物語
「この子、本当に僕なの?」
あの日、昔の写真を見つけた悠斗は、そんな疑問を持ちました。
それから悠斗は、
身体について考えました。
記憶について考えました。
心理的なつながりについて考えました。
一人の生物として生き続けることについても考えました。
そして、パーフィットが、
「同じ一人の人物であることそのものが、本当に一番大切なのだろうか」
と問い直したことも知りました。
最初の悠斗は、
どこかに一つだけ、
「これさえ分かれば、自分が自分である理由を完全に説明できる」
という答えがあると思っていました。
でも今は、少し違います。
人格の同一性について、哲学には一つだけの答えがあるわけではない。
身体を見る考え方もある。
心理を見る考え方もある。
そして、
「同じ人物である条件」と、
「自分にとって何が大切なのか」
さえ、分けて考えられる。
そこまで分かったとき、悠斗には最初の疑問が少し違って見えてきました。
ある日、もう一度あの写真を取り出しました。
大きなランドセルを背負った、小さな自分です。
やはり、その日のことは思い出せません。
すると、近くにいた母親が写真を見て言いました。
「この日、すごく緊張してたんだよ」
「僕が?」
「うん。でも学校の門まで行ったら、『もう一人で行ける』って言って走っていった」
悠斗は笑いました。
「全然覚えてない」
「そうなの?」
「うん。ほんとに何も」
写真の中の少年は、自分なのに、自分の知らない人のようにも見えます。
でも悠斗は、以前とは違うことを考えました。
「全部覚えていないというだけで、この子が僕じゃなくなるわけじゃないんだな」
だからといって、
「記憶は必要ない」
と結論したわけではありません。
身体だけが答えだと決めたわけでもありません。
パーフィットが絶対に正しいと思ったわけでもありません。
ただ、最初より一つだけはっきりしたことがありました。
「同じ自分であること」と、「昔から何も変わっていないこと」は同じではない。
昔の自分から、今の自分へ。
何かは残っています。
何かは変わっています。
そして、何かはもう忘れてしまいました。
でも今の自分も、いつか未来の自分から見れば、
「昔の自分」
になります。
悠斗は机に向かい、ノートを開きました。
そして書きました。
「未来の僕へ。
今の僕が何を考えていたか、覚えていますか?」

少し考えて、もう一行つけ足しました。
「忘れていてもいい。
でも、今の僕から何か一つくらい受け取っていたら面白い。」
悠斗は、未来の自分に、
「今と同じでいてほしい」
とは思いませんでした。
むしろ、
変わってもいい。
ただ、
自分が何を受け取り、
何を考え直し、
何を次へ残したいのかは、
ときどき立ち止まって考えてみよう。
そう思いました。
あの日の、
「この子、本当に僕なの?」
という疑問に、数学の問題のような一つの正解が見つかったわけではありません。
それでも、悠斗の疑問は最初とは違います。
「何が同じだから僕なの?」
だけではなく、
「昔の僕から何を受け取って、未来の僕へ何を渡したいんだろう?」
と考えられるようになったからです。
写真をしまう前に、悠斗はもう一度、小さな自分を見ました。
「ずいぶん変わったな」
そう言って、少し笑いました。
では、あなたならどうでしょう。
もし子どものころのあなたと、今、一度だけ話せるとしたら。
何を伝えますか。
そして、まだ会ったことのない未来のあなたへ、一つだけ何かを渡せるとしたら――
あなたは何を残したいでしょうか。
第16章 文章の締めとして

「私は私です。」
これほど簡単に言える言葉なのに、
「なぜ?」
と尋ねると、答えることは急に難しくなります。
昨日の自分。
子どものころの自分。
そして、まだ会ったことのない未来の自分。
私たちは、そのすべてを同じ「私」という言葉で呼んでいます。
この記事を読む前には、
それを不思議だと思わなかったかもしれません。
でも今は、
「何が同じなのだろう」
「何が変わっても、私は私なのだろう」
「そもそも、同じ私であることの何が大切なのだろう」
と、いくつもの問いが見えるようになりました。
哲学は、ときどき不思議です。
知る前より、知った後の方が答えるのが難しくなることがあります。
でも、それは何も分からなくなったからではありません。
今まで一つに見えていた問題の中に、いくつもの違う問いがあることに気づいたからです。
人格の同一性について、今日一つの答えを決めなくても構いません。
十年後には、今とは違う答えを持っているかもしれません。
そのときは、
「昔の自分は、どうしてそう考えていたのだろう」
と、もう一度問い直してみてください。
そして、
「今の自分は、なぜこう考えるのだろう」
とも問いかけてみてください。
答えが変わったなら、
その変化にも、きっと理由があります。
そうやって問い続けることも、
時間の中を生きる「私」にできることの一つなのではないでしょうか。

補足注意
この記事は、公開時点で確認できる哲学書・研究・信頼できる資料をもとに、「人格の同一性」について考えるための入り口としてまとめています。
人格の同一性には、心理的なつながりを重視する考え方、生物としての連続性を重視する考え方など、さまざまな立場があり、ここで紹介した内容が唯一の答えというわけではありません。
また、哲学上の議論だけでなく、脳や意識についての研究も続いているため、今後の研究や新しい議論によって、私たちの理解がさらに深まったり、見方が変わったりする可能性もあります。
🧭 本記事のスタンス
この記事を「答えの終着点」ではなく、「もっと知りたい」「自分でも考えてみたい」と思ったときの出発点として受け取っていただければ幸いです。
一つの立場だけで決めつけず、異なる考え方にも触れながら、ぜひあなた自身の問いを育ててみてください。
「同じ私」をたどるほど、「違う私」が見えてくる――このブログで生まれた問いをここで閉じず、次は文献を開いて、あなた自身の「私」へと学びをさらに深くつないでみてください。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
人格の同一性という問いは、変わっていくことと自分であり続けることを両立させながら、私たちは何度でも「自分とは何か」を考え直せるのだと教えてくれているのかもしれません。


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