私たちが見ている世界は本物なのでしょうか。月や虹などの身近な例を通して、カントの「物自体」と「現象」の違い、そして「知ること」の不思議を考えます。

5秒でわかる結論
物自体とは、人間の知り方から切り離して考えた物事そのものです。カントは、そのあり方を私たちは知ることができないと考えました。
小学生にもわかりやすく言うと
学校の教室にある机を思い浮かべてみてください。
私たちは机の色を見たり、手で触れたり、長さを測ったりして、机についていろいろなことを知ることができます。
でも、ここで一つ不思議な疑問があります。
もし、人間が見たり、感じたり、考えたりする仕組みを使わなかったら、机そのものがどうあるのかを知ることはできるのでしょうか。

カントという哲学者は、それはできないと考えました。
ただし、これは机について調べても何もわからない、という意味ではありません。
私たちは机について多くのことを知ることができます。その一方で、人間の知り方から切り離した「物事そのもの」については、知ることに限界があると考えたのです。
この記事を読むとわかること
きれいな夕焼けを見つけて、写真を撮ったことはありませんか。
ところが、あとから写真を見てみると、「あれ? 実際に見た色と少し違うな」と感じることがあります。
カメラの設定や光の受け取り方によって、写真の色が変わることがあるからです。
では、私たち人間が物事を見るときにも、何か決まった仕組みが関係しているのでしょうか。
ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、こうした人間の「知る」という働きそのものについて、深く考えました。
この記事では、次の三つをわかりやすく紹介します。
- 物自体と現象とは、どのような意味なのか。
- カントは、なぜ物自体について考えたのか。
- 私たちは世界について、どこまで知ることができるのか。
普段は当たり前だと思っている「見ること」や「知ること」について、一緒に考えてみましょう。
疑問が生まれた物語
月のことを全部知ることはできるの?
学校からの帰り道。
結衣と航は、夕方の空に白く浮かぶ月を見つけました。

「見て、もう月が出てるよ」
結衣が空を指さすと、航も顔を上げました。
「月って、あんなに小さく見えるのに、本当はすごく大きいんだよね」
「うん。図鑑で見たけど、月には大きな穴みたいな場所もたくさんあるんだって」
二人は、しばらく空を見上げていました。
すると航が、不思議そうにつぶやきました。
「ねえ、月のことって、もっと詳しく調べていけば、いつか全部わかるようになるのかな?」
結衣は少し考えました。
「どうだろう。でも、この前、図書室でちょっと不思議な言葉を見たよ」
「どんな言葉?」
「『物自体(ものじたい)』っていう言葉。人間が物事を知ることと関係があるみたいなんだけど、よくわからなかったんだ」
「物自体? 物そのものってこと?」
「私もそう思ったけど、何だかもっと難しい意味がありそうだったよ」
航は、もう一度月を見上げました。
「人間が物事を知ることと、どう関係しているんだろう?」
「明日、図書室で調べてみない?」
二人は、物自体という不思議な言葉について、もう少し詳しく知りたくなりました。
1 物自体とは?
カントが考えた「物事そのもの」
物自体(ものじたい)とは、人間が物事を見たり、理解したりする仕組みから切り離して考えた、物事そのもののことです。
ドイツ語では Ding an sich(ディング・アン・ジヒ、「物それ自体」)といいます。
この考えを哲学の重要な問題として取り上げたのが、ドイツの哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)です。
カントは、1781年(天明元年)に出版した『純粋理性批判』(じゅんすいりせいひはん)という本で、人間は何を確かな知識として知ることができ、どこから先は知ることができないのかを考えました。
そのなかで重要になるのが、「現象」と「物自体」の違いです。
冒頭の物語に登場した月を思い出してみましょう。
私たちは月がいつ、空のどこに見えるのかを観察したり、その動きを調べたりできます。
このように、私たちが経験できるものとして現れた物事を、カントは現象(げんしょう)と呼びました。
現象とは、ただ目に見える姿という意味ではありません。実際に観察したり、調べたりして知ることのできる物事も含まれます。
では、なぜカントは、現象とは別に「物自体」という言葉を使ったのでしょうか。
それは、人間が物事を知るときには、必ず人間自身の物の受け取り方や理解のしかたが関わっていると考えたからです。
たとえば、私たちは月を空のある場所に見つけ、時間とともに位置が変わっていくものとしてとらえます。そして、観察したことをもとに月について理解していきます。
カントは、このように人間が物事を経験し、理解する仕組みがあることを重視しました。
しかし、私たちが何かを知ろうとすれば、その仕組みを使わずに知ることはできません。
そのためカントは、私たちは現象について知ることはできても、人間の知り方から切り離した物自体が、それ自体としてどうあるのかを知ることはできないと考えたのです。
ただし、物自体は、月の裏側のように、まだ調べていない場所を指す言葉ではありません。

また、現象が偽物だという意味でもありません。
現象は私たちが経験を通して知ることのできる物事であり、物自体は、その経験のしかたから切り離して考えた物事そのものです。
この違いを考えることは、人間が何を確かな知識として知ることができるのか、その範囲を明らかにすることにつながります。
では、カントはなぜ、そこまで人間の「知る」という働きに注目したのでしょうか。
その背景には、人間が経験によって確かめられることと、考えることはできても知識として確かめられないことを、きちんと区別したいという問題がありました。
次の章では、カントがどのような人物で、なぜこの問題に取り組んだのかを詳しく見ていきましょう。
2 カントとは?
なぜ「知ることの限界」を考えたのか
イマヌエル・カント(Immanuel Kant)は、人間が何を根拠に「知っている」と言えるのかを深く考えた、18世紀のドイツの哲学者です。

カントは、1724年(享保9年)4月22日、当時のプロイセン王国にあったケーニヒスベルクという町で生まれました。
亡くなったのは、1804年(享和4年)2月12日。79歳でした。
生まれてから亡くなるまで、人生のほとんどをケーニヒスベルクで過ごしました。
この町は、現在のロシアにあるカリーニングラードに当たります。
カントの父親は、馬につける革製の道具を作る職人でした。
決して裕福な家庭ではありませんでしたが、カントは学校で学び、16歳になると地元の大学へ進みます。
大学では哲学のほか、数学や物理学なども学びました。
その後、子どもたちに勉強を教える家庭教師として働き、1755年(宝暦5年)からは大学で教えるようになります。
1770年(明和7年)、46歳のときには、物事を筋道立てて考える方法や、世界の根本的な問題を研究する分野の教授になりました。
カントは、哲学だけを研究していたわけではありません。
太陽や惑星がどのように生まれたのかについても考え、人間がどのように行動することが正しいのかという、道徳の問題にも取り組みました。
では、なぜカントは、人間が「何を知ることができるのか」という問題を深く考えたのでしょうか。
カントが生きた時代、ヨーロッパでは、自然の動きを観察したり、計算したりして、その仕組みを明らかにする学問が発展していました。
一方で、私たちが経験したことから、どこまで確かな知識を得られるのかという問題もありました。
この問題を考えるうえで、カントに大きな影響を与えた人物の一人が、デイヴィッド・ヒューム(David Hume、1711年〈正徳元年〉~1776年〈安永5年〉)です。
ヒュームは、スコットランドのエディンバラに生まれた哲学者・歴史家で、人間が経験から何を知ることができ、その知識をどこまで確かなものと言えるのかを深く考えた人物です。
ヒュームが投げかけた疑問は、カントが「人間の知識は何を根拠に成り立つのか」を問い直す重要なきっかけとなりました。
ヒュームは、私たちが何度も経験した出来事について、それだけで「原因と結果は必ず結びついている」と言えるのかを問い直しました。
現代の身近な例に置き換えると、スイッチを押して電気がつくところを何度も見れば、私たちはスイッチを押したことが原因だと考えるでしょう。
しかし、何度も同じ出来事を見たという経験だけで、原因と結果が必ず結びつくことまで確かめられるのでしょうか。
ヒュームは、このような問題を取り上げました。
カント自身も、ヒュームの問題提起が、それまでの自分の考え方を見直すきっかけになったと、後の著作で振り返っています。
カントが明らかにしようとしたのは、人間が経験から何を学べるのかだけでなく、そもそも確かな知識はどのようにして成り立つのか、ということでした。
さらに、神は存在するのか、死後も魂は存在するのかといった、経験によって確かめることが難しい問題についても、人間の考える働きだけで何を知識として主張できるのかを問い直しました。
こうした問題に長年取り組んだカントは、57歳になった1781年(天明元年)、第1章で紹介した『純粋理性批判』を出版しました。
カントは、人間の知識には限界があると指摘するだけでなく、私たちが世界について確かな知識を得られるのはなぜなのかも、明らかにしようとしたのです。
その考えを理解するためには、人間が何かを見たり、感じたり、理解したりするときに、どのような働きが関わっているのかを知る必要があります。
次の章では、カントが考えた「人間が世界を知る仕組み」について、身近な例から詳しく見ていきましょう。
3 私たちは、どうやって世界を知っているのか
カントは、私たちが世界について知るためには、物事を受け取る働きと、受け取ったものを考えて理解する働きの両方が必要だと考えました。
では、この二つはどのような働きなのでしょうか。
たとえば、教室で友達が床に置かれたボールを軽く押した場面を思い浮かべてみてください。
私たちは、ボールの丸い形や色を目で見たり、床を転がる音を耳で聞いたりします。
カントは、このように物事を私たちが受け取る働きを、感性(かんせい)と呼びました。
ここでいう感性は、普段使う「絵や音楽のセンスがよい」という意味ではありません。
そして、カントは感性について、もう一つ大切なことを考えました。
それは、私たちは物事を「空間」と「時間」の中で経験しているということです。
空間とは、物がどこにあり、ほかの物とどのような位置関係にあるのかをとらえるためのものです。
時間とは、出来事がいつ起こり、何が先で何が後なのかをとらえるためのものです。
先ほどのボールも、教室のどこを転がったのか、いつ動き始めて、いつ止まったのかという形で経験しています。
ここで重要なのは、カントが空間と時間を、ただ経験から覚えるものだとは考えなかったことです。
カントは、空間と時間を、人間が物事を経験するために、初めから必要な基本的な仕組みだと考えました。
これは、生まれたときから物の場所や出来事の時刻を知っているという意味ではありません。
実際にボールがどこにあるのかは、見て確かめる必要があります。
しかし、そのボールを「どこにあるのか」「いつ動いたのか」という形で経験できること自体に、人間の感性の働きが関わっていると考えたのです。
では、物事を見たり聞いたりして受け取るだけで、私たちはその意味まで理解できるのでしょうか。
カントは、それだけでは十分ではないと考えました。
たとえば、目の前にある丸い物を見て、私たちは「これはボールだ」と理解できます。
さらに、友達がボールを押した後に転がり始めたのを見て、「押したことが原因で、ボールが動いたのだ」と考えることもできます。
このように、受け取ったものを「何なのか」ととらえたり、出来事の関係を考えたりする働きを、カントは悟性(ごせい)と呼びました。
カントは、ある出来事が別の出来事を引き起こす「原因と結果」という関係も、悟性が経験を理解するために使う基本的な考え方の一つだと説明しています。
第2章で紹介したヒュームは、何度も同じ出来事を見ただけで、原因と結果の必然的な結びつきまでわかるのかを問題にしました。
これに対してカントは、原因と結果に従って出来事を理解するための基本的な仕組みは、経験を繰り返すことで初めて生まれるものではないと考えたのです。
ただし、その仕組みがあるからといって、実際に何が原因だったのかを、調べずに正しく判断できるわけではありません。
ボールが動いた原因についても、実際に何が起きたのかを確かめる必要があります。
ここまでを整理してみましょう。
感性は、物事を私たちが経験できる形で受け取る働きです。
悟性は、受け取ったものを考え、何であるかや出来事の関係を理解する働きです。
カントは、この二つの働きが結びつくことで、私たちは経験した物事について知識を得られると考えました。

これは、感性が働き終わってから悟性が働き始めるという、頭の中の順番を説明したものではありません。
また、脳の働きを科学実験で調べた結果でもありません。
カントは、私たちが物事について確かな知識を得るには、どのような条件が必要なのかを哲学によって考えたのです。
このような人間の働きを通して、私たちが経験する物事が、第1章で紹介した「現象」です。
では、その現象は、人間の働きを通して知るものだからといって、偽物なのでしょうか。
カントのいう現象は、単なる幻や思い違いではありません。
次の章では、現象がなぜ単なる偽物ではないのかを、虹の例を使って詳しく見ていきましょう。
4 現象とは?
私たちが見ている世界は本物なのか
カントのいう「現象」は、偽物や思い違いという意味ではありません。私たちは現象について、観察したり調べたりして、確かな知識を得ることができます。
この違いを理解するために、カント自身が『純粋理性批判』で取り上げた、虹と雨粒の例を見てみましょう。
雨がやんで太陽が顔を出すと、空にきれいな虹が見えることがありますね。
虹は、まるで七色の橋が空にかかっているように見えます。
でも、そこに手で触れられる橋があるわけではありません。
虹が見えるのは、太陽の光が空気中の小さな水滴に入り、曲がったり、内側ではね返ったりして、色ごとに違う方向へ進むためです。
虹は、ただの思い違いではなく、光と水滴の働きによって見えるものなのです。
一方、雨粒は実際に手で触れたり、容器に集めたりできます。
そのため、普段の生活では、虹を「見えている姿」、雨粒を「実際にある物」として区別することができます。
しかし、カントが考えた「現象」と「物自体」の違いは、これとは別のものです。
カントの哲学では、虹だけでなく、雨粒も現象に含まれます。

なぜなら、雨粒の形や大きさ、空から落ちてくる場所や動きも、私たちが経験し、調べることのできるものだからです。
第3章で学んだように、私たちは物事を空間や時間の中で経験し、理解しています。
雨粒について調べるときも、その人間の働きが関わっています。
つまり、虹について詳しく調べ、雨粒が関係しているとわかっても、その雨粒がカントのいう「物自体」になるわけではありません。
ここが、今回覚えておきたい大切な違いです。
現象と物自体の違いは、単に「見えている姿」と「その奥に隠れた本当の物」の違いではありません。
カントが区別したのは、人間が経験できる形で現れた物事と、人間の知り方から切り離して考えた物事そのものです。
そして、現象だからといって、私たちが知っていることが間違いになるわけでもありません。
雨粒の大きさや動きを測ることも、虹ができる仕組みを調べることもできます。
こうした観察や調査によって、私たちは世界について多くのことを知ることができるのです。
カントは、経験できる世界についての知識を否定したのではなく、そうした知識が成り立つ仕組みと、その限界を明らかにしようとしました。
一方、人間が物事を経験するための条件から切り離した「物自体」は、同じように観察したり、測定したりして知ることができません。
なぜそう考えられるのか。
次の章では、ここまで学んできた人間の知り方をもとに、その理由をもう少し詳しく見ていきましょう。
5 なぜ私たちは物自体を知ることができないのか
カントは、私たちが物自体を知ることができないのは、人間が物事を知るための仕組みを通さずに、物事そのものを確かめることができないからだと考えました。
では、それはどういう意味なのでしょうか。
第3章で学んだように、私たちは感性によって物事を受け取り、悟性によって理解しています。
つまり、木や月のように私たちが経験する物事について確かな知識を得るには、感性によって対象を受け取り、悟性によって理解することが必要だと、カントは考えました。
ここで、庭に一本の木がある場面を考えてみましょう。
私たちは木の葉の色を見たり、幹に触れたり、高さを測ったりできます。
たとえば、木の高さを測って3メートルだとわかれば、その木について一つの知識を得たことになります。
では、その木が「人間の知り方とは関係なく、それ自体としてどうあるのか」についても、同じように知ることができるのでしょうか。
カントの考えでは、そこまでは知ることができません。
なぜなら、木の高さを測るとき、私たちは木を空間の中にあるものとして経験しているからです。
第3章で学んだように、カントは空間を、人間が物事を経験するための基本的な仕組みだと考えました。
そのため、経験の中で木の高さを確かめられたとしても、その高さが、人間の知り方から切り離した木そのものにも、そのまま当てはまるとは言えないのです。
これは、測った高さが間違っているという意味ではありません。

私たちは経験できる木について確かな知識を得られます。しかし、その知識を、人間の経験のしかたとは関係のない物自体についても、そのまま正しいと言えるわけではないのです。
ここで、もう一つ大切な違いがあります。
それは、「知ることができない」と「考えることができない」は、同じではないということです。
私たちは、「人間が見たり、理解したりする仕組みとは関係なく、物事そのものはどうあるのだろう」と考えることができます。
しかし、そう考えたからといって、物自体がどのような形や性質を持つのかまで、わかったことにはなりません。
たとえば、「物自体にも、私たちが測ったのと同じ高さがあるはずだ」と想像しても、それだけでは本当だと確かめたことにはなりません。
考えることができても、それを事実として知っていると言うには、確かな根拠が必要なのです。
カントは『純粋理性批判』の中で、物自体を知ることはできなくても、考えることはできるという区別を示しました。
では、知ることができない物自体を、どうして考える必要があるのでしょうか。
それは、人間が経験によって知ることのできる範囲と、その範囲を超えてしまうことを区別するためです。
物自体について考えることで、私たちは、経験によって確かめたことを、経験のしかたとは関係のない物事そのものについても、そのまま知っていると決めつけずにすみます。
カントにとって物自体は、人間が何を知ることができ、何を知っているとは言えないのか、その境界を考えるうえで重要な概念なのです。
ここまでで、物自体を知ることができない理由が見えてきました。
ここまでの「物自体」と「現象」の違いを、本を読みながらもっと深く学びたい方へ。記事の後半では、漫画から入門書、少し詳しい解説書まで、カントの哲学を学べる3冊を紹介しています。
それでは、科学が進歩して、今よりもずっと詳しく世界を調べられるようになれば、この限界を超えられるのでしょうか。
次の章では、科学によって新しい知識を得ることと、物自体を知ることの違いを、さらに具体的に考えていきましょう。
6 科学が進歩しても、物自体はわからないのか
カントの考えでは、科学が進歩して新しいことがわかるようになっても、それだけで物自体を知ることにはなりません。
なぜなら、科学によって新しく発見できるものと、カントのいう物自体は、意味が違うからです。
たとえば、池の水を一滴だけ取って、顕微鏡(けんびきょう)で調べる場面を考えてみましょう。
顕微鏡は、肉眼では見えにくい小さなものを、大きく見えるようにする道具です。
水の中に微生物(びせいぶつ)という、とても小さな生き物がいれば、顕微鏡を使って、その形や動きを観察できることがあります。
また、望遠鏡(ぼうえんきょう)は、遠くのものを調べるための道具です。
遠くの星から届く光を集めることで、肉眼では見えなかった星を観察することもできます。
このように、科学の進歩によって、私たちは今まで知らなかったものを発見し、その性質や仕組みについて調べることができます。

では、顕微鏡で発見した小さな生き物や、望遠鏡で見つけた遠くの星は、カントのいう「物自体」なのでしょうか。
答えは、違います。これらもカントのいう「現象」に含まれます。
小さな生き物も遠くの星も、観察や測定によって調べ、その結果から知識を得ることのできる対象だからです。
ここで大切なのは、「まだ知られていないもの」と「物自体」を区別することです。
まだ発見されていない生き物や星は、これから研究が進めば見つかるかもしれません。
しかし、物自体とは、単に小さすぎて見えないものや、遠すぎて調べられないものではありません。
第5章で学んだように、カントが物自体と呼んだのは、人間が物事を経験し、理解する仕組みから切り離して考えた物事そのものです。
顕微鏡や望遠鏡を使えば、これまで調べられなかったものについても、新しい知識を得られるようになります。
けれども、その知識も、観察や測定の結果を人間が理解することで得られるものです。
つまり、科学によって調べられる範囲が広がっても、それは人間の経験に基づく知識が広がることなのです。
カントの考えでは、科学によって現象についての知識を増やすことと、物自体をそれ自体として知ることは、同じではありません。
だからといって、科学でわかったことが間違いだという意味でもありません。
科学では、観察や測定から得られた結果を確かめ、自然についての知識を深めることができます。
カントも、経験できる世界について確かな知識が成り立つことを重視していました。
ただし、ここで説明しているのは、科学で物自体を知ることが不可能だと実験で証明されたという話ではありません。
カントが、人間の知識が成り立つ条件を哲学的に考えた結果、経験による知識は物自体そのものには及ばないと論じたのです。
この違いを理解すると、物自体が単に「いつか発見されるかもしれない謎の物」ではないことがわかります。
次の章では、ここまで学んだことをもとに、物自体について間違えやすい考え方を整理していきましょう。
7 物自体について間違えやすい4つのこと
ここまで学んできた物自体には、意味を間違えて覚えやすいところがあります。
特に大切な四つの疑問について、正しい理解を確認してみましょう。

① 物自体とは、世界のどこかに隠れている物なの?
物自体とは、探せばいつか見つかる、隠された物のことではありません。
まだ発見されていない物でも、見つければ観察したり、大きさや性質を調べたりできます。
しかし、カントの物自体は、単にまだ知られていない物ではなく、人間が物事を経験し、理解する仕組みから切り離して考えた物事そのものです。
そのため、見えない物を発見することと、物自体を知ることは違います。
② 現象とは、偽物や幻という意味なの?
カントのいう現象は、偽物や幻という意味ではありません。
私たちは、ときには見間違えたり、思い違いをしたりします。
しかし、人間の知り方が関わっているからといって、経験する世界がすべて間違いになるわけではありません。
カントは、現象と単なる錯覚を区別しました。
現象については、観察や調査を通して、何が本当なのかを確かめることができるのです。
③ カントは、世界について何もわからないと考えたの?
カントは、人間が経験できる世界について、確かな知識を得られると考えました。
カントが考えたのは、何も知ることができないということではありません。
むしろ、人間が自然の仕組みなどを知ることができるのは、なぜなのかを明らかにしようとしました。
そのうえで、経験によって知ることのできる範囲と、物自体については知識として確かめられないことを区別したのです。
④ 現象と物自体は、必ず二つの別世界なの?
現象と物自体を、必ず二つの別世界として理解しなければならないわけではありません。
実は、この違いをどのように理解するかについては、現在も哲学の研究者の間で議論があります。
現象と物自体を、それぞれ異なる対象として理解する研究者がいます。
一方で、同じ物事について、人間が経験する場合と、人間の経験のしかたから切り離して考える場合という、異なる見方として理解する研究者もいます。
どちらか一方だけが、カントの考えとして確定しているわけではありません。
ただし、どちらの立場で考える場合にも、重要な点があります。
カントは、人間が経験できる物事について知ることと、物自体がそれ自体としてどうあるのかを知ることを区別したのです。
ここまでの四つを理解すれば、物自体を「まだ発見されていない不思議な物」や「見かけの裏にある秘密の世界」と決めつけずに考えられるようになります。
では、物自体という言葉を学ぶことで、私たちは「知っている」ということを、どのように考えられるようになるのでしょうか。
次の章では、カントが伝えようとした重要な考えを振り返りながら、私たち自身がそこから何を考えられるのかを整理していきましょう。
8 まとめ・考察
物自体から何がわかるのか
カントの物自体という考え方からわかるのは、私たちは世界について確かな知識を得られる一方で、その知識がどこまで及ぶのかには限界がある、ということです。
ここまで、物自体と現象の違いから始まり、人間が世界を知る仕組みや、科学との関係について考えてきました。
カントのいう「現象」とは、私たちが経験できる形で現れた物事のことです。
私たちは現象について観察や調査を行い、多くの知識を得ることができます。
一方、「物自体」とは、人間が物事を経験し、理解する仕組みから切り離して考えた物事そのものです。
カントは、物自体について考えることはできても、それがそれ自体としてどうあるのかを、人間は知ることができないと論じました。
大切なのは、人間には何もわからないということではなく、何を知ることができ、何を知っているとは言えないのかを区別することです。
ここからは、私たちの日常に引き寄せて考えてみましょう
ここから紹介するのは、カントがそのまま教えた生活方法ではなく、今回の哲学を学んだことから考えられる、この記事独自の考察です。
私たちは日常の中で、確かめていないことまで「きっとそうだ」と思ってしまうことがあります。
たとえば、学校や職場で、いつも挨拶を返してくれる人が、今日は何も言わずに通り過ぎたとします。
「もしかして、嫌われてしまったのかな?」
そんなふうに感じることがあるかもしれません。
しかし、このとき実際にわかっているのは、「今日は挨拶が返ってこなかった」ということです。
「嫌われた」というのは、まだ確かめられていない考えです。

相手が声に気づかなかったのかもしれませんし、何か別のことを考えていたのかもしれません。
もちろん、理由を尋ねても、すぐにはわからないこともあるでしょう。
それでも、実際に確かめたことと、自分がそう考えただけのことは、分けて考えることができます。
ただし、ここで注意したいことがあります。
友達の気持ちがわからないことと、カントのいう物自体を知ることができないという問題は、同じではありません。
友達の気持ちは、尋ねたり、話を聞いたりすることで、あとからわかる場合があります。
それに対して物自体の問題は、人間が知識を得るための条件そのものに関わっています。
この違いを大切にしたうえで、私は、カントの哲学から日常にもつながる一つの姿勢を考えられると思います。
それは、「自分が知っていると思っていることには、どのような根拠があるのだろう」と確かめる姿勢です。
ここで、あなた自身にも一つ問いかけてみたいと思います。
今日、「きっとそうだ」「絶対にそうだ」と思ったことの中に、まだ確かめていないことはありませんでしたか。
もし思い当たることがあれば、まず「実際に見たり聞いたりして確かめたこと」と「自分が考えたこと」を分けてみるとよいかもしれません。
そして、確かめられることなら、必要に応じて調べたり、相手に尋ねたりすることができます。
一方で、十分な根拠がないことについては、無理に結論を出さず、「今はわからない」と考えることもできます。
これは、すべてを疑って何も信じないという意味ではありません。
むしろ、確かめられた知識を大切にするために、まだわかっていないことを区別する姿勢です。
私には、ここに物自体という哲学を学ぶ面白さがあるように思えます。
知ることの限界を考えるのは、世界を知ることをあきらめるためではなく、自分が本当に何を知っているのかを、より正確に考えるためでもあるのです。
私たちが世界について知っていることは、決して少なくありません。
それでも、自分の知り方がどこまで及ぶのかを問い直すことには、意味があります。
物自体という言葉は、そんな「知っている」という当たり前の言葉を、もう一度深く考えるきっかけを与えてくれるのではないでしょうか。
「自分は本当に何を知っているのだろう?」
そんな疑問を、別の哲学者の視点からも考えてみたい方には、ソクラテスに関係する「無知の知」もおすすめです。
カントの物自体とは異なる問題ですが、自分が知っていることと、まだ知らないことを問い直す、もう一つの哲学の入り口になります。
無知の知とは?意味と具体例、ソクラテスが問い続けた理由を解説
おまけコラム
カントの本は、出版当初、どう受け止められたのか?
カントの『純粋理性批判』は、出版してすぐに多くの人から理解され、歓迎されたわけではありません。
1781年(天明元年)に出版されたこの本は、最初のうちは反応が少なく、内容が難しいと感じた読者もいました。
そして翌1782年(天明2年)、その内容を厳しく批評する書評が掲載されます。
書評とは、本を読んで、その内容を紹介したり、評価したりする文章のことです。
もとの文章を書いたのは、クリスティアン・ガルヴェ(Christian Garve、1742年〈寛保2年〉~1798年〈寛政10年〉)です。
ガルヴェは、現在のポーランドにあたるブレスラウで生まれ、ドイツ語で哲学をわかりやすく伝える文章や、外国の哲学書の翻訳などに取り組んだ哲学者でした。
カントの『純粋理性批判』についても書評を書き、その考え方を批評しました。
一方、その書評を大きく編集したのが、ヨハン・ゲオルク・ハインリヒ・フェーダー(Johann Georg Heinrich Feder、1740年〈元文5年〉~1821年〈文政4年〉)です。
フェーダーは、ドイツのゲッティンゲン大学で哲学を教え、学術誌の編集にも関わっていた哲学者でした。
フェーダーは、ガルヴェの書評を大幅に短くし、文章にも手を加えました。そのため、発表された書評には、二人の考えが関わっていたのです。

この書評は、筆者の名前を明かさずに発表されました。
では、何が批判されたのでしょうか。
重要な問題の一つは、カントの考え方では、私たちが経験する世界を、幻や思い違いと区別できなくなるのではないか、というものでした。
しかし、カント自身は、私たちが経験する世界はすべて幻だと考えていたわけではありません。
カントは1783年(天明3年)、『プロレゴーメナ』(Prolegomena[プロレゴーメナ、「序論」という意味])を出版します。
これは、『純粋理性批判』で述べた哲学の重要な内容を、より短く、別の進め方で説明した本です。
この本は書評が出る前から執筆していましたが、カントはその付録で問題の書評を取り上げ、自分の考えが誤解されていると反論しました。
カントは、自分の考えを発表して終わりにしたのではなく、批判を受けたあとも、その内容を改めて説明したのです。
この出来事から考えられること
ここからは、歴史上の事実をもとにした、この記事独自の考察です。
私たちも、自分ではきちんと説明したつもりなのに、相手には違う意味で伝わってしまうことがあります。
そんなとき、ただ説明を長くするだけでは、かえって伝わりにくくなるかもしれません。
大切なのは、何が伝わっていないのかを考え、相手が理解できる形で説明し直すことなのかもしれません。
カントの本をめぐるこの出来事は、難しい哲学の歴史でありながら、私たちにとっても身近な「伝えることの難しさ」を考えるきっかけになります。
さらに学びたい人へ
物自体と現象について、もっと詳しく知りたい人に向けて、カントの哲学を学べる日本語の書籍を3冊紹介します。
漫画から始めたい人、哲学の全体像を理解したい人、さらに深く考えたい人に分けて選びました。
初心者・小学生にもおすすめ
『純粋理性批判』(講談社まんが学術文庫 28) 原作 イマヌエル・カント 著者 佐藤文香/近藤たかし(漫画)
難しい文章が苦手な人や、漫画を通して哲学に触れてみたい人向け。小学校高学年なら、大人と一緒に読むのもよいでしょう。
本の特徴
人間とアンドロイドの恋の物語を通して、感性・悟性・物自体・現象といった考え方を紹介しています。
おすすめ理由
今回の記事で学んだ内容を、登場人物のやり取りや物語からイメージしやすくなります。ただし、漫画としての脚色があり、カントの原典そのものではありません。
中級者向け・もっと深く理解したい人に
『超解読! はじめてのカント『純粋理性批判』』 著者 竹田青嗣
物自体と現象の基本を理解し、その考え方がどのような議論から生まれたのかを詳しく学びたい人向け。
本の特徴
『純粋理性批判』の構成に沿って、物自体や、人間が物事を知る仕組みについて解説しています。
おすすめ理由
今回の記事では触れきれなかったカントの議論を、順番にたどることができます。難しい専門用語も増えるため、入門書を読んだ後の一冊としておすすめです。
全体におすすめ・カントの哲学をもっと広く知りたい人へ
『自分で考える勇気――カント哲学入門』 著者 御子柴善之
カントの考え方を初めて学ぶ中学生・高校生から、大人の読者まで。哲学に興味を持ち始めた人におすすめです。
本の特徴
カントの生涯を紹介しながら、『純粋理性批判』をはじめとする重要な著作を取り上げ、知識や自由、道徳、幸福などの問題を考えていく入門書です。
おすすめ理由
今回の記事で学んだ「人間は何を知ることができるのか」という問いから、さらに「人間はどう生きるべきなのか」という問いへ、カントの哲学を広げて学ぶことができます。
哲学を学ぶ楽しさは、難しい言葉をたくさん覚えることだけではありません。
一冊の本を読みながら、「なぜそう考えるのだろう」「本当にそう言えるのかな」と、自分自身の疑問を見つけることにもあります。
今回の「物自体」という言葉が、世界を見ることや、何かを「知っている」と思うことについて、もう一度考えてみるきっかけになればうれしく思います。
疑問が解決した物語
月のことを全部知ることはできるの?
翌日の放課後。
結衣と航は、約束していたとおり、学校の図書室に来ていました。
二人が調べていたのは、昨日の帰り道に気になった「物自体」という言葉です。
「ねえ、結衣。昨日は物自体って、月の本当の姿みたいな意味なのかなって思ったけど、ちょっと違ったんだね」
「うん。カントは、人間が物事を知るときには、見たり、感じたり、理解したりする仕組みが関わっているって考えたんだね」
航は、机に広げた月の図鑑を見つめました。
「でもさ、月は望遠鏡で調べられるし、宇宙船で近くまで行くことだってできるよね。そうすれば、もっといろいろなことがわかるんじゃない?」
「うん。それはそのとおりだと思う」
結衣はうなずきました。
「でも、カントのいう物自体は、まだ見つかっていない場所や、知らないことの意味じゃないんだよね」
「そうか。月の裏側を調べても、それが物自体を見つけたことになるわけじゃないんだ」
「うん。私たちが観察したり、調べたりして知る月は、カントのいう『現象』なんだって」
航は、少し考えてから言いました。
「じゃあ、昨日の『月のことを全部知ることはできるの?』っていう疑問には、どう答えたらいいんだろう?」
結衣は、調べたことを振り返りながら答えました。
「科学が進歩すれば、月についてわかることは増えると思う。でも、いつか全部わかるとまでは言えないよね。それに、カントが考えた物自体は、科学でまだ調べていないこととは違う問題なんだよ」
「なるほど。じゃあ、物自体を知ることができないからって、月について調べる意味がなくなるわけじゃないんだ!」
「そういうことだね」
航は、図鑑に載っている月の写真を指さしました。
「じゃあさ、まずは月にある、あの大きな穴みたいな場所について調べてみない?」
「いいね! 昨日も気になってたもんね」
二人はノートを開き、調べてわかったことと、まだわからないことを書き分け始めました。

しばらくして、航が笑いながら言いました。
「なんだか、昨日より月のことが面白くなった気がする」
「どうして?」
「だって、知らないことがあるって、これから調べられることもあるってことだよね」
結衣も笑顔になりました。
「それに、自分が知っていると思っていたことも、本当に確かめたのか考えるのは大切かもしれないね」
図書室を出るころには、窓の向こうに白い月が見えていました。
昨日と同じように、二人は月を見上げます。
月の姿が急に変わったわけではありません。
けれども、二人の月を見る気持ちは、少し変わっていました。
知らないことがあるからこそ、もっと知りたくなる。そして、知っていることと、まだわからないことを区別しながら考えることも大切なのだと、二人は気づいたのです。
あなたなら、何かについて「わからない」と感じたとき、どうしますか?
一つの考え方は、まず自分が何を確かめていて、何をまだ確かめていないのかを整理することです。
調べられることは調べ、根拠が足りないことは、無理に答えを決めない。
そして、カントの物自体のように、人間が何を知識として確かめられるのかという、もっと根本的な問題にも目を向けてみる。
「わからない」を終わりにせず、何を知ることができるのかを考え続けることも、哲学の楽しさの一つなのかもしれません。
文章の締めとして
昨日と同じ月を見上げても、何かを学んだあとは、少し違った気持ちで眺められることがあります。
月が変わったわけではありません。
私たちの中に、今まで気づかなかった小さな疑問が生まれたのかもしれません。
世界には、まだまだ知ることのできることがたくさんあります。
そして、簡単には答えを出せない問いもあります。
そんな世界だからこそ、これからも知ることを楽しみながら、一つひとつの疑問を大切にしていきたいですね。

補足注意
この記事は、筆者が個人で確認できる範囲の情報でカントの著作や哲学研究をもとに、物自体と現象について整理したものです。
カントの考え方には、現在も研究者の間で解釈が分かれている部分があり、ここで紹介した説明が唯一の答えというわけではありません。
今後の研究によって新たな解釈が示され、理解が深まったり、見直されたりする可能性もあります。
🧭 本記事のスタンス
この記事は、「これが唯一の正解」と決めつけるためではなく、「物自体とは何だろう?」という疑問から、読者自身が興味を持ち、考え、調べていくための入り口として書いています。
一つの説明だけで答えを決めず、さまざまな解釈や考え方にも目を向けながら、自分自身の問いを大切にしていただければ幸いです。
「現象」を知れば、もっと「検証」したくなる――「物自体」から始まった問いを、「知ること自体」の面白さへとつなげて、その続きはぜひ原典や研究書の一冊から深めてみてください。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
「物自体」という考え方は、世界をすべてわかったつもりにならず、それでも知ろうとする好奇心を持ち続けることの大切さを教えてくれているのかもしれません。

参考資料・さらに調べたい方へ
この記事では、カントの著作や哲学研究について、確認できる範囲の資料を手がかりに、物自体と現象の違いを整理しました。
以下では、記事の作成や内容の確認に関係する原典・学術資料と、さらに詳しく調べたい方に役立つ資料を紹介します。
なお、以下には、記事の作成過程で内容や書誌情報を確認する際に手がかりとした資料と、読者がさらに学ぶために追加した資料が含まれています。筆者がすべての原典や論文を通読し、その内容を網羅的に検証したという意味ではありません。
カント自身の著作(原典)
① イマヌエル・カント『純粋理性批判』(1781年初版・1787年第2版)
物自体と現象、感性と悟性、人間の知識がどのように成り立つのかを考えるための中心的な著作です。
② イマヌエル・カント『プロレゴーメナ』(1783年)
『純粋理性批判』の重要な考え方を別の進め方で説明した著作です。この記事のおまけコラムで紹介した、書評への反論も収められています。
哲学をさらに調べるための学術資料
③ Stanford Encyclopedia of Philosophy「Immanuel Kant」
スタンフォード哲学百科事典によるカントの解説です。生涯や著作、『純粋理性批判』で取り組んだ問題を、学術的な視点から調べられます。
※英語の資料です。
④ Stanford Encyclopedia of Philosophy「Kant’s Transcendental Idealism」
カントの物自体と現象について、研究者のさまざまな解釈を紹介する専門的な資料です。
「現象と物自体は二つの別の対象なのか、それとも異なる見方なのか」という、第7章で紹介した問題をさらに深く学べます。
※英語の資料です。
⑤ 渋谷久「カント『純粋理性批判』における物自体の問題」(1967年)
日本哲学会の学術誌『哲学』第17号、167〜177頁に掲載された日本語の研究論文です。
物自体の問題を、さらに専門的に調べたい人向けの資料です。なお、1967年の論文であり、現在までの研究成果をすべて紹介するものではありません。
※この記事の完成後に、さらに専門的に調べたい方のための資料として追加しました。
原典や研究資料には、専門的で難しい内容も含まれています。
最初からすべてを理解しようとせず、気になった言葉や疑問から少しずつ調べてみてください。
一つの説明を知ったあとに、別の解釈や原典にも目を向けてみることで、「知ること」についての理解がさらに深まるかもしれません。

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