※この記事には『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』の結末、エンドロール後を含む重大なネタバレがあります。
4DXで2回目を観たからこそ見えてきた、うさぎの動き、ヒトハとフタバの違い、八百比丘尼やエデンとの重なり、島二郎、『机さする』の意味。公式情報とファン考察を分けながら、自分の目と耳で確かめた「もう一つの人魚の島のひみつ」をまとめます。

- 『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を、今度は4DXでもう一度観てきました。
- 2回目は4DX――「揺れる映画」だから気づけた、キャラクターの動き
- りんごから始まっていた「失楽園」――知ることは、本当に幸せなのか
- 一人になったちいかわが齧る木の実――「永遠」ではなく、今日を生きるための食べ物
- 人魚の肉で不老不死になる――日本の「八百比丘尼」伝説を知るとラストが変わる
- 最後に二人が洞窟へ入る意味――八百比丘尼とエデンが重なる
- 2回目はヒトハとフタバを「一組」ではなく、二人の別人として追ってみる
- あの全身を覆う蓑は「電池を隠すため」だけではなかった
- 二人だけ泳ぎ方が違う――人魚の肉を食べると、身体まで人魚へ近づくのか
- 「単三」はギャグだけではない?――二人で一つの永遠という読み方
- 「人魚が一人足りない」は、耳でも分かるように作られていた?
- セイレーン初登場――月が消えていく演出が、2回目の方が怖かった
- 島二郎は、本当にただの料理人なのか――「忘れられた土地神」説
- 水中では島二郎の言葉が通じない。でもセイレーンは普通に喋る
- ラッコ先生は、誰と同じバンガローに泊まったのだろう
- 「人魚の墓」と言われる盛り上がり――私はむしろ分からなくなった
- 人魚殺害――しるこサンドを画面に残す残酷さ
- イカの足が減っている?――セイレーンは「悪意がないからこそ怖い」のか
- 考察を知って、キャンプファイヤーがさらに怖くなった
- だからちいかわは、ヒトハを簡単に裁けなかったのではないか
- うさぎは、どこまで分かっていたのか
- 『机さする』――私は今回、「永遠ではなく今を選ぶ歌」に聞こえた
- 考察を知ってから観ると、映画は「答え合わせ」ではなく「疑問を増やすもの」になった
- この映画を2回みた時に教えてくれるかもしれないこと
- 参考にした考察・資料
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を、今度は4DXでもう一度観てきました。
私はこれまで、映画を見る前に原作の「セイレーン編」から「誰が悪者なのか」「島民とセイレーン、どちらが本当の被害者なのか」「おーえす=SOSなのでは」といったことを考え、1回目の映画鑑賞後には「島のうた」に隠れた「たすけて」、「炭酸」から「単三」へつながる伏線、セイレーンの「わかった」の二重の意味、最後にうさぎがちいかわを撫でる場面などを書きました。前の記事では、特に「真実を知る前と知った後では、同じ場面が違って見える映画だった」ということを中心に考えています。
そこで今回は、同じところをもう一度詳しく書くのではなく、その後にYouTubeやnoteなどで公開されているさまざまな考察や、映画を何度も観た方の感想・分析、ナガノ先生の公式インタビューなども参考にしながら、私自身でもう一度映画を観てみました。
考察の中には、公式に明言されていることもあれば、ファンの間で語られている仮説や解釈もあります。そうした違いにも注意しつつ、今回はそれらをそのまま紹介するのではなく、「では、2回目はどこを意識して観ると、この映画をさらに深く楽しめるのだろう」という目線で、自分なりに確かめながら観てみました。
もちろん、ここから書くことすべてが公式の答えというわけではありません。
考察の中には、かなり説得力があるものもあれば、偶然かもしれないもの、私は少し違うように見えたものもあります。
だからこそ今回は、「これが正解です」という記事ではなく、
いろいろな考察を知ったあとで、私は2回目の映画をこんなふうに見た。すると、1回目では見えなかったものが本当にたくさん出てきた。
そんな記事にしたいと思います。
ナガノ先生自身、映画では作画やコンテまで「かなり細かい部分」を確認したと話しています。そして見どころとして、背景や、メインで話していないキャラクターの動き――特にうさぎ――、原作にはない映画ならではの構図や「間」まで挙げています。
そう聞いてから2回目を観ると、画面の真ん中だけを見ているのが急にもったいなくなりました。

2回目は4DX――「揺れる映画」だから気づけた、キャラクターの動き
今回私は4DXで観ました。
正直、観る前は「大きな戦闘や船の場面など、重要なところだけ揺れるのかな」と思っていました。
ところが実際には、かなり序盤から細かく動きます。
鳥がふわふわと動く場面でも座席が反応し、船に乗れば当然のように横へ揺れる。画面が上空から大きく動いたり、下から見上げたりする場面では、座席も横だけではなく上下へ動いているように感じられました。
そのおかげで、通常上映では「カメラが動いている」と見ていた場面が、4DXでは「自分も一緒に移動している」に変わりました。
そして途中から、妙に気になったのがうさぎでした。
うさぎが中心になって動く場面では、とにかくよく揺れる。
最初は「ここから、うさぎ視点のような演出になるのかな」とさえ思ったほどです。

実際、4DXの体験記事でも、ちいかわやハチワレが走るだけでは座席が揺れないのに、うさぎが走ると揺れる、奇声や武器の反動まで振動として表現されていると報告されています。
これを知ると、ナガノ先生が「背景で動いているうさぎも見どころ」とわざわざ言っていた意味を、少し身体で理解できた気がしました。
うさぎは、言葉で説明するキャラクターではありません。
でも「動き」では、とても多くのことを語っています。
4DXは、その動きを強制的にこちらの身体へ伝えてくる上映だったように感じました。
そしてセイレーンと島二郎の戦い。
ここは本当に激しかったです。
ジェットコースターに乗っているような感覚になるほどで、「ポップコーンやジュースを持っている人は大丈夫なのだろうか」と余計な心配をしてしまうほどでした。
4DXのレポートでも、セイレーンは動くだけで振動が入り、島二郎との戦いでは風、水、振動が総動員されるほど強い演出だったとされています。
つまり映像だけでなく4DXでも、セイレーンと島二郎は“普通のキャラクター同士の戦い”とは違う規模の存在として扱われているように感じます。
もう一つ忘れられないのが、人魚を殴る場面でした。
違う場面ですが、最初に背中へ「ドン」と来た時、私は本当に後ろの人が座席にぶつかったのかと思いました。
人魚を殴る場面では、同じような音に合わせてまた背中へ衝撃が来て、
「あ、これは殴打の演出なんだ」
と気づきました。
映画では直接的な映像を避けているあの場面を、4DXでは観客の背中に返してくる。
実際、別の4DX体験でも、人魚を殴る音に合わせて背中へ衝撃が来ることが報告されています。
ヒトハには、フタバを救わなければならなかった事情がある。
それでも、そのために人魚が何度も殴られたという事実は消えない。
「かわいそうだから仕方なかった」と簡単に整理させないための演出にも思えました。
ちなみに匂いについては、私は「今、何か匂ったような……でも映画館そのものの匂いかもしれない」と最後までよく分かりませんでした。
島二郎が磯の香りをセイレーンに嗅がせるところや、最初の島の屋台では何か来るのでは、とかなり期待していたのですが、私には明確には判別できませんでした。
4DXを体験した方の記事を調べてみると、私と同じように「匂いはほとんど分からなかった」という感想がある一方で、花や食べ物のような香りを感じたという報告もありました。上映環境によって体感には違いがあるようです。あくまでも、私が観た劇場では少なくとも、はっきりと「これはカレーの匂いだ」「これは磯の香りだ」と分かるほどの演出は感じませんでした。
それでも4DXを体験して一番変わったのは、
この映画では「どう動いたか」そのものが情報なのではないか
という見方でした。
そこから、ヒトハとフタバの動きも急に気になり始めます。
りんごから始まっていた「失楽園」――知ることは、本当に幸せなのか
さけねこさんの考察で、私が特に面白いと思ったのが、冒頭のりんごでした。
映画は、ちいかわたちがりんごを食べるところから始まります。
さらにヒトハとフタバの家にも、りんごが置かれている。
これを旧約聖書のエデンの園、「知恵の実」のイメージと重ねる考察です。
厳密には、聖書本文に果物が「りんご」と書かれているわけではありません。
重要なのは、「善悪を知る木の実」を食べたことで、人間が“知ってしまった”こと。
そして創世記では、そのうえ「命の木」まで食べて永遠に生きることを防ぐため、人間は楽園の外へ出されます。
この構造をヒトハとフタバへ重ねると、かなり不思議なくらい重なります。
二人は図鑑によって、
「人魚の肉を食べれば永遠の命を得る」
という知識を得る。
そして実際に人魚を食べる。
つまり、「知識」と「永遠の命」の両方を手に入れてしまう。
その結果、最後には自分たちの島――楽園だった場所――から出ていくことになる。
私は、さけねこさんの考察を「憎しみだけではなく、“知ってしまったこと”そのものが物語を動かしている」という視点として受け取りました。
これを知ったあとで2回目を見ると、映画の「図鑑」が急に怖くなりました。
図鑑は、本来なら子どもが世界を知るためのものです。
でも、その一ページを知っていたからこそ、ヒトハは人魚を殺すという選択肢を思いつけてしまった。
そしてちいかわも最後には、知らなければ幸せだったかもしれない秘密を知ってしまいます。
だからこの映画は、
「真実を知ることは正しい」
だけでは終わっていないのかもしれません。
知識には、戻れなくなる力もある。
私は2回目、冒頭のりんごをそんなふうに見ました。

一人になったちいかわが齧る木の実――「永遠」ではなく、今日を生きるための食べ物
そして、りんごを意識すると、もう一つ食べ物が気になりました。
仲間たちが捕らえられ、一人で行動することになったちいかわが、お腹を空かせながら川沿いで見つけた木の実を齧る場面です。
さけねこさんも、この果物の意味を考察の対象にしています。
私は2回目、この場面を見ながら、冒頭のりんごや人魚の肉とは正反対の食べ物のようにも感じました。
人魚の肉は、
死にたくない、失いたくないという思いから「永遠」を手に入れる食べ物。
一方で、一人になったちいかわが食べる木の実は、
今、倒れないため。今日を生きて仲間を助けに行くための食べ物。
同じ「食べる」という行為なのに、片方は永遠の命へ向かい、もう片方は今日を生きるために使われています。

この映画では、食べ物がただのかわいい小道具ではありません。
最初のりんご。
島のごちそう。
人魚の肉。
ちいかわが一人で食べる木の実。
島二郎のカレーと貝汁。
そして最後にはカレーそのものがセイレーンを止める武器になる。
食べることが、誘惑にも、救命にも、罪にも、回復にも、武器にもなる。
そう考えると、映画全体が「何を食べるか」という一本の線でもつながって見えてきました。
人魚の肉で不老不死になる――日本の「八百比丘尼」伝説を知るとラストが変わる
今回、ぜひ2回目以降に知ってから観てほしいと思ったのが、八百比丘尼(やおびくに)の伝説です。
これは日本各地に残る人魚伝説で、福井県小浜市では、人魚の肉を食べた娘が年を取らなくなり、長い年月を生きた末に故郷へ戻り、最後には洞窟へ入ったという伝承が残っています。
小浜市の公式観光サイトでも、八百比丘尼が長い旅の末に小浜へ戻り、洞窟の前に白い椿を植え、そこへ姿を消したという伝説が紹介されています。
さらに13世紀の説話集『古今著聞集』には、伊勢国の海で網にかかった3匹の大魚が、人に似た頭を持ち、叫び、涙を流したものの、最後には人々に食べられたという話が残されているそうです。

『映画ちいかわ』がこの説話を直接モチーフにしたと公式に明かされているわけではありませんが、「人に近い存在を捕らえ、食べる」という日本の人魚・異形魚伝承を知ると、ヒトハが人魚を殺して肉を持ち帰る場面にも、また違った怖さを感じました。
西洋の「美しい人魚姫」のイメージというより、
人ならざる魚を食べること。
食べた者が長い命を得ること。
その命が幸せとは限らないこと。
こちらの日本的な人魚伝説を知ると、ヒトハとフタバの物語が一段深く見えてきます。
そして特に気になるのが、ポスターやパンフレット周辺に描かれている赤い花です。
これを「椿ではないか」と見る考察があります。
福井県小浜市に残る八百比丘尼伝説では、人魚の肉を食べて長い年月を生きた八百比丘尼が、最後に故郷へ戻り、洞窟の前に白い椿を植えて中へ入ったと伝えられています。小浜市の資料にも、八百比丘尼が白い椿を好み、「玉椿姫」などの名でも伝えられていることが紹介されています。
そう考えると、映画に登場する「人魚の肉」「不老不死」「洞窟」、そして花という要素が、八百比丘尼伝説と不思議なくらい重なって見えてきます。
ただし、映画の赤い花が八百比丘尼の椿を意図して描かれたものだと、公式に明言されているわけではありません。
花についても「椿ではなく別の植物ではないか」という見方があります。
だから私は、「あの花は絶対に椿だ」と断定するのではなく、八百比丘尼の伝説を知ったあとでは、あの花まで意味のあるものに見えてくる――くらいの楽しみ方がちょうどいいと思っています。
最後に二人が洞窟へ入る意味――八百比丘尼とエデンが重なる
そしてこの伝説を知ってから、エンドロール後を見るとかなり怖いです。
ヒトハとフタバは島から逃げ、新しい小島を見つける。
そして、二人が「ここなら暮らせそう」と選ぶ場所が洞窟です。
八百比丘尼も、不老の身体で長い時間を過ごした最後に洞窟へ入る。
一方でエデンの物語として見れば、禁じられた知識と永遠の命を得た二人が、楽園だった島を追われて外へ出る。
つまりあの小さな洞窟は、
八百比丘尼が最後に行き着く場所
にも、
失楽園のあとに追放された二人の住処
にも見えてきます。

さらにセイレーン自身も、犯人を捕まえたら身体に合った狭い檻へ入れ、深く暗い場所へ閉じ込めるような罰を考えていました。
ヒトハとフタバが不老不死であることを考えると、それは結果として、終わりの見えない拘束にもなり得ます。
私はこの見方を知ってから、あの洞窟が「新しい家」に見えなくなりました。
二人は逃げ切ったのではなく、
人魚を食べた瞬間から、もう永遠に逃げ続ける場所へ入ってしまったのかもしれない。
そんなラストにも見えます。
2回目はヒトハとフタバを「一組」ではなく、二人の別人として追ってみる
1回目では、私はどうしてもヒトハとフタバを「葉っぱの二人」と一組で見ていました。
でも2回目は、できるだけ二人を別々に追いました。
ナガノ先生は公式インタビューで、二人には明確に性格差があり、
ヒトハは少し抜けた雰囲気。
フタバはしっかり者の雰囲気。
として演じてもらったと明かしています。
しかも、もともとは顔もセリフもあったキャラクターを、あえて「顔もセリフもこちらから分からない」形に変えたそうです。
つまり、二人には性格がないのではありません。
性格はある。でも説明してくれない。
だから2回目では、動きそのものを見る必要があります。
私の場合、葉っぱの枚数に加え、顔にある点の有無の違いも確認してみようと、などの目線で追いました。

すると、「二人が同じように動いている」のではなく、危険が起きた時の反応、手を差し出すタイミング、立ち位置に少しずつ差があるように見えます。
特にフタバは、過去の事故でもヒトハを庇うような動きを見せます。そして最終決戦でも、私にはちいかわとハチワレを助けるために前へ出て、自分がセイレーンの攻撃を受けたように見えました。
1回目では流れの中で見ていた場面ですが、「ヒトハとフタバを別々の人物として追う」と決めて2回目を見ると、このフタバの行動がとても気になりました。
ここで私は一つ疑問を持ちました。
なぜフタバは、ちいかわとハチワレをそこまで守るのだろう。
もちろん、もともとの優しい性格だからとも考えられます。
でも、ヒトハとフタバが黙っていた秘密のせいで、何も知らない外部のちいかわたちまで島へ呼ばれ、命の危険に巻き込まれた。
そう考えると、私はあの行動に、少しだけ贖罪のようなものも感じました。
島民全員を救うことはできない。
真実を名乗り出る勇気も持てない。
それでも、少なくとも自分たちの秘密に巻き込まれたちいかわやハチワレだけは守りたい。
そんな気持ちがあったのでは、と考えると、フタバが最後に飛び込む場面がさらに切なく見えました。
あの全身を覆う蓑は「電池を隠すため」だけではなかった
もう一つ、2回目にかなり意識して見たのが衣装です。
ヒトハとフタバだけ、他の島民のように腰から蓑を巻くのではなく、顔の下から全身を覆うような蓑を着ています。
初見では、
「お尻の電池ボックスを隠すための伏線だったのか」
と思いました。
ところが回想をよく見ると、人魚の肉を食べる前から、すでに同じような全身を覆う服を着ています。
ということは、
「不老不死になったから電池を隠すためにこの服へ変えた」
では説明できません。
ここから、ヒトハとフタバはそもそも他の島民とは別の文化・出自を持つ者、あるいは島へ後から来た者なのではないかという考察も生まれています。
私には、元々二人の異質さを示していた服が、事件後には偶然にも本当に秘密を隠すための“隠れ蓑”になってしまったように見えました。
一つのデザインが、物語の前後で別の意味を持つ。
この映画らしい仕掛けだと思います。
ちなみに映画内で、2回はヒトハ・フタバの下からのアングルで映るシーンがあったのですが、その時は電池ボックスの描写は私には確認できませんでした。

二人だけ泳ぎ方が違う――人魚の肉を食べると、身体まで人魚へ近づくのか
そして水中。
これは考察を知ってから絶対に確認したかったところです。
ヒトハとフタバは、ちいかわたちとは泳ぎ方が違って見えます。
普通のバタ足ではなく、両足をそろえ、下半身を上下へ動かす。
イルカや、人魚の尾びれのような動きです。
実際、複数の鑑賞者から「ヒトハとフタバだけ魚のような泳ぎ方をしている」という指摘が出ています。

もし意図された動きなら、人魚の肉が与えたものは、
不老不死と単三電池だけではない
のかもしれません。
少しずつ、身体そのものが人魚側へ変化している。
だから水中でも他のちいかわ族より適応できる。
そう考えると、二人が「もう人魚なのでは」という考察まで出てくるのも分かります。
もちろん、これは公式に説明された設定ではありません。
でもナガノ先生が「キャラクターの身体の動き」に合わせた音楽まで注目してほしいと言い、ヒトハとフタバの性格をセリフなしの演技で区別していることを考えると、私は泳ぎ方を単なる作画上の偶然として流しにくくなりました。
「単三」はギャグだけではない?――二人で一つの永遠という読み方
前の記事では、「炭酸」が実は「単三」へつながる伏線だったことを書きました。
今回はそこからもう一歩。
ファンの間には、「3」と「3」を向かい合わせると∞(無限)を連想できるという考察があります。
ヒトハに単三が一本。
フタバにも単三が一本。
一人一個の「3」を持ち、二人で「永遠」を作る。

現実には単三一本で動く機器も普通にありますから、「電池は二本で使うものだから絶対に二人で一組」という話ではありません。
でも物語として見ると、
フタバは一人で永遠に生きることを恐れた。
だからヒトハにも同じものを食べさせた。
つまりこの二人にとって、不老不死は一人では成立しない。
「二人でなければ耐えられない永遠」
です。
そう考えると、「一人一本の単三」というシュールな絵にも、妙な意味が出てきます。
ちなみに2回目、私は電池を入れる向きまで気になってしまいました。
プラス側から入れているように見え、「普通ならバネのあるマイナス側から押し込むのでは?」と思ったのですが、これは機器によって構造も違うため、伏線とまでは言えません。
ただ、一度考察モードで映画を見始めると、こんなところまで気になってしまいます。
これも再鑑賞の楽しいところでした。
「人魚が一人足りない」は、耳でも分かるように作られていた?
2回目でぜひ耳を澄ませてほしいのが、人魚たちのコーラスです。
作中では、人魚は本来3人いました。
しかし現在は一人が殺されて、二人しかいません。
音楽に詳しいファンからは、人魚のコーラスが通常のきれいな和音から一部欠けたような響きになっており、「一人足りない」という事実を耳でも感じさせているのではないかという考察が出ています。
音楽面についても面白い分析がありました。
アニメ!アニメ!の音楽考察記事では、通常の「島のうた」が4拍子なのに対して、「島のうた(セイレーンver.)」では3拍子へ変化していること、さらに人魚たちのコーラスでは、一般的な和音の中で重要な「3度」の音が聞こえないことが指摘されています。
作中では、本来3人だった人魚のうち1人がすでにいません。
3拍子。
3度の音。
そして3人のうち1人がいない。
どこまでが制作側によって意図された仕掛けなのかは明らかになっていませんが、「誰かが一人足りない」という物語上の状態が、音楽の響きにまで表れているのではないか――という考察はとても面白いと思いました。

私は音階や和音について詳しいわけではないので、2回目に聴いて「確かに3度がない」と自分の耳だけで判断するところまではできませんでした。
それでも、「画面では人魚が一人いない。そして音にも何かが足りないのかもしれない」と知ってから聴くと、同じ歌が少し違って聞こえました。
ナガノ先生自身、「島のうた」は同じテーマを何度もアレンジして流すよう依頼したと明かしています。
つまり、
同じ歌なのに、歌う人と場面が変わるだけで意味が変わる
のは偶然ではなく、映画の重要な手法だったのだと思います。
1回目はストーリーを目で追っていました。
2回目は、「誰がいないのか」を耳で聞く映画にもなりました。
セイレーン初登場――月が消えていく演出が、2回目の方が怖かった
1回目より、2回目の方が怖いと感じた場面もあります。
セイレーンの最初の登場です。
歌い終わって襲いかかるまでの間、月がだんだん隠れていき、セイレーンの巨体が暗闇へ沈んでいくように見えました。
最初は歌う不思議な存在だったものが、少しずつ「巨大な何か」に変わっていく。

私が4DXで特に感じたのは、セイレーンが登場してからの「不気味さ」でした。セイレーンに関わる場面では座席の動きや振動も加わり、スクリーンの中にいる巨大な存在を、目だけではなく体でも感じるような感覚がありました。
私が観た映画館ではスモークの演出は感じられませんでしたが、4DXの鑑賞レポートでは、セイレーンの登場シーンでスクリーン横にスモークが焚かれ、その怪しさや恐ろしさがさらに強く感じられたという報告もありました。
公式インタビューでも、ナガノ先生はセイレーン登場シーンのミュージカル調の雰囲気に触れ、セイレーンが顔を出す直前、ちいかわとハチワレの背後からカメラが寄っていくところを「すごくかっこいい」と話しています。
だから2回目は、「セイレーンが出た!」ではなく、
セイレーンを怖く見せるために、光・月・カメラ・音がどの順番で変わるのか
を見ました。
すると、漫画にはない「映画だからできる怖さ」がかなり見えてきました。
島二郎は、本当にただの料理人なのか――「忘れられた土地神」説
1回目の記事でも「島二郎とは何者なのか」について少し書きました。
でもその後の考察を読むと、私はさらに分からなくなりました。
島二郎は、島の人たちから存在を知られていません。
それなのに、
セイレーンが初めて島へ来た頃のことを知っている。
人魚の住処を知っている。
海へ自在に潜る。
セイレーンと水中で直接戦える。
そして回想を見ると、島民の生活圏から完全に隔絶していたようにも見えず、島民の比較的近くで貝を採っていたようにさえ見えます。
そこで出ているのが、
島二郎=島にもともといる土着神・守り神なのではないか
という説です。
セイレーンが海の向こうから豊穣と災いの両方を運んできた「来訪神」なら、島二郎は島に昔からいるのに、住民から存在すら忘れられている「土着神(どちゃくしん)」。
実際、島民に忘れられながら土地に根を張る神のような存在として島二郎を読む考察があります。
私は2回目、
「森の奥だから誰にも会わなかった」
だけでは、本当に説明し切れるのだろうかと思いました。
もしかすると、ちいかわが島二郎を見つけたことで、
忘れられていた守り神が、もう一度島民の前へ戻ってきた
ような構造なのかもしれません。

そして事件の最後、島民の歌の中心がセイレーンの恵みではなく「貝汁・カレー」へ移っていく。
そう見ると、島を支える存在そのものが、
外から来たセイレーンから、もともと島にいた島二郎へ
入れ替わったようにも見えます。
水中では島二郎の言葉が通じない。でもセイレーンは普通に喋る
島二郎について、もう一つ面白かったのが水中の会話です。
島二郎はセイレーンへ何か必死に話しかけます。
しかし水中なので「ブクブク」となり、セイレーンには何を言っているのか分からない。
ところが、セイレーン自身は水中でも普通に言葉を話せる。
これも改めて考えると不思議です。
同じ水の中にいるのに、片方には「言葉」があり、もう片方は音が崩れてしまう。

これを、セイレーンが海の神のような存在、島二郎が陸・島側の土地神的存在だからではないかと読む考察もあります。
もちろん、単純に「水中で喋ったらブクブクになる」というギャグでもあります。
でもこの映画は、ギャグとして成立するものをそのまま象徴にもできてしまうところが面白い。
4DXでセイレーンと島二郎の水中戦を身体ごと体験したことで、私は二人を「強い敵と強い味方」というより、
海から来たものと、島にいたもの
の衝突として見るようになりました。
ラッコ先生は、誰と同じバンガローに泊まったのだろう
これは少し軽い考察です。
映画を見直していて、私は宿泊場所が気になりました。
ちいかわ・ハチワレ・うさぎは、ヒトハとフタバと一緒にUNOをしています。
では、ラッコ先生は?
小出さんの考察でも、「上位ランカーであるラッコとたまたま同室になったラッキーモブがいたのでは」というところから、ラッコの宿泊相手が話題になっています。
さらにラッコとくりまんじゅうには、過去に討伐仲間だったのではないかというファン考察もあります。
そこで私は、
ラッコ・くりまんじゅう・シーサーが同じバンガローだった可能性はないのかな
と考えながら見ました。

これは私の推測です。
でも、そう考えると翌朝くりまんじゅうとシーサーが別行動をしていてもラッコが特別驚かず、最終的に二人がカレー作りへ加わっても自然に受け入れていることにも、少し違った見え方が出てきます。
もちろん、映画の中で部屋割りが明示されたわけではありません。
こういう「本筋には関係なさそうな空白」を想像できるのも、2回目以降ならではの楽しさでした。
「人魚の墓」と言われる盛り上がり――私はむしろ分からなくなった
洞窟の入口付近にある地面の盛り上がりについて、
ヒトハが殺した人魚の遺体を埋めた跡なのではないか
という有名な考察があります。
一度そう言われると、ものすごく墓に見えます。
しかも、殺害された人魚の肉の一部は煮付けになったとしても、残った身体はどこへ行ったのかという疑問にも答えられる。
だから私も2回目、かなり注意して探しました。
ところが、私は逆に分からなくなりました。
セイレーンが島民を襲うようになり、立入禁止の看板を立てる回想場面では、その盛り上がりが見えない。
これは「事件後に埋めた」なら説明できます。
でも、ラッコ先生を探しに行く後の洞窟入口でも、私には同じ盛り上がりが確認できませんでした。
場所や角度が少し違うだけなのか。
作画上省略されているのか。
本当に墓なのか。
ここは、考察を知って映画へ行った結果、答えが分かったのではなく、むしろ疑問が増えたところでした。

私はこういう結果も面白いと思っています。
ネットの考察を「正解」として見に行くのではなく、自分の目で確認すると、
「本当にそうかな?」
という新しい考察が始まるからです。
人魚殺害――しるこサンドを画面に残す残酷さ
人魚を殺す回想も、2回目はまったく違って見えました。
原作では、直接描くことなく、短いコマと打撃音によって想像させる場面でした。
映画では時間が生まれます。
そして私が特に辛かったのが、しるこサンドが画面に残り続けることでした。

ついさっきまで、かわいいお菓子で人魚を誘っていた。
そのかわいいパッケージがそこにあるまま、隣で殺害が行われる。
「かわいい」と「残酷」が同じ画面から逃げない。
4DXではそこへ背中への衝撃まで加わる。
私は、ヒトハの悲しさだけではなく、人魚側から見た出来事も考えざるを得なくなりました。
また私は、人魚を殺す時に使っているものが「びんよよ」のようにも見えました。
もしそうなら、普段はコミカルに見える武器が、人魚を殺せるほどの力を持っていたことにもなります。
ここはまだ自信がなく、次に観る時の確認事項です。
さらに、人魚を持ち帰る途中で鱗が落ちる描写がありますが、煮付けをフタバへ与えた後にも袋の近くに鱗があるように見えました。
もし同じ人魚の鱗なら、
ヒトハはどれだけの身体を持ち帰ったのか。残った身体をどこへ隠したのか。
という「墓説」にもつながっていきます。
一つの小さな鱗から、また別の謎が始まります。
イカの足が減っている?――セイレーンは「悪意がないからこそ怖い」のか
もう一つ、細かすぎるところですが、セイレーンと人魚がイカで遊ぶ場面も確認しました。
映画では、私にはイカの足が5本から4本ほどへ減ったように見えました。

原作ではさらに減っていくように見える一方、後ではまた本数が増えているようにも見える。
別のイカなのか。
デフォルメによる作画の揺れなのか。
本当に遊びながら足をちぎっているのか。
ここも答えは分かりません。
でももし本当に足を減らしながら遊んでいるのだとしたら、セイレーンの怖さは「悪人だから」ではありません。
本人たちは楽しんでいるのに、相手にとっては残酷。
人魚を食べた島民を許せないセイレーンも、自分たちは別の生物をおもちゃにする。
この価値観のズレが、「誰が完全な正義なのか分からない」という映画の感覚をさらに強くします。
考察を知って、キャンプファイヤーがさらに怖くなった
1回目でも、キャンプファイヤーは重要だと感じました。
でも岡田斗司夫さんの考察を聞いたあとでは、特にヒトハとフタバの回想が違って見えました。
ヒトハは、瀕死のフタバへ人魚の肉を食べさせる。
ところが不老不死になったフタバが、今度はヒトハにも食べさせようとすると、映画版のヒトハは嫌がるような反応を見せます。
岡田さんはここから、
ヒトハは永遠の命の怖さを分かっていた。それでも、自分がフタバを失うのが辛いからフタバには食べさせたのではないか
と読みます。
この見方はかなり重いです。
「フタバを救いたかった」という優しさと、
「フタバに死なれたら自分が寂しい」という自己都合を、
きれいに分けられなくなるからです。
そしてフタバもまた、一人だけ永遠に残されることを恐れ、ヒトハを同じ運命に巻き込む。
二人は相手を大切にしている。
でも大切だからこそ、相手の運命を勝手に変えてしまう。
キャンプファイヤーで友情を歌う歌が流れる中、その回想が入る。
普通なら「ずっと友達でいよう」という優しい意味のはずなのに、ヒトハとフタバは文字通り永遠に一緒になってしまった。

それは願いが叶った姿なのか。
それとも呪いなのか。
2回目の私は、ここで初めて「永遠」という言葉そのものが怖くなりました。
だからちいかわは、ヒトハを簡単に裁けなかったのではないか
そしてその時、ちいかわの横にはハチワレがいます。
これも考察を知ってから見ると、とても意味深です。
ヒトハは、大切なフタバを絶対に失いたくなかった。
ちいかわもまた、仲間を絶対に見捨てないキャラクターです。
もしハチワレがフタバと同じように、今にも死にそうになったら。
「この肉を食べさせれば助かる」と知っていたら。
その代わり、別の誰かを犠牲にしなければならなかったら。
ちいかわは、本当にヒトハとは違う選択ができるのでしょうか。
私は2回目、キャンプファイヤーでちいかわがヒトハとフタバを見て、そのあとハチワレを見るような構図を、
他人の罪を見る場面ではなく、自分自身の未来を見せられる場面
として見ました。
だから、問いただせなかったのかもしれない。
「悪いことをしたから言わなければ」という単純な正義ではなく、
自分も同じ立場なら何をするか分からない

ところまで考えてしまったのではないか。
この読み方をすると、ちいかわの沈黙が、優しさだけでも弱さだけでもなくなります。
うさぎは、どこまで分かっていたのか
ここは前の記事でも少し書きましたが、2回目はさらに「背景のうさぎ」を意識しました。
小出さんの考察では、うさぎはちいかわよりかなり前からヒトハとフタバを怪しんでいた可能性まで検討されています。
岡田斗司夫さんは、最後にうさぎがちいかわの頭を撫でる行動を、
「よく言わずに我慢したな」
という無言の理解ではないかと読んでいます。
私は、そこまで真相全部を知っていたかはまだ分かりません。
でも2回目、ナガノ先生が公式に「背景のうさぎを見てほしい」と話していたことを思い出しながら観ると、うさぎは本当に、話の中心にいない時ほど周囲をよく見ているように感じました。

ハチワレは言葉で世界を理解する。
ちいかわは違和感と感情で真相へ近づく。
うさぎは、ほとんど説明しないまま行動で理解している。
三人の「知り方」が違うのかもしれません。
『机さする』――私は今回、「永遠ではなく今を選ぶ歌」に聞こえた
前の記事では、EDの『机さする』について深くは書きませんでした。
その後、この曲にも本当にさまざまな考察があることを知りました。
ハチワレの未来の異形化を暗示しているという説。
映画公開前のカウントダウンイラストを別世界線としてつなぎ、うさぎを失い、でかつよ化したハチワレと暮らすちいかわの歌だとする「アナザーエンド」説。
「くつずれ」がハチワレからちいかわへ向けた歌で、『机さする』はちいかわ側から友達へ向けた歌だとする説。
どれも面白いです。
ただ、今回2回目を観終えた直後の私には、もっと本編そのものにつながる歌に聞こえました。
ヒトハとフタバは、
相手を失いたくないから「永遠」を手に入れた二人。
でも永遠を手に入れたことで、島を出て、逃げ続けなければならなくなった。
一方で『机さする』にあるのは、記憶を残すこと、忘れそうになること、未来の約束、そして最後には「今ここにあるもの」へ触れるような感覚です。
だから私は、
ヒトハとフタバが「永遠に一緒にいる」ことを選んだ物語のあとで、ちいかわは「永遠」ではなく「覚えていること」「いつかを約束すること」「今一緒にいること」を選ぼうとしているのではないか
と思いました。
永遠の命を手に入れなくてもいい。
いつか別れるかもしれない。
忘れてしまうことだってあるかもしれない。
それでも、だからこそ写真を残したり、言葉を書いたり、次の約束をしたり、今ある机に触れたりする。

そう考えると『机さする』は、この映画の答えを断言する歌ではなく、
永遠という怖いものを見てしまったちいかわが、有限な日常へ戻っていく歌
のように聞こえました。
別世界線として読むアナザーエンド説も非常に面白いのですが、今回の「2回目の本編を見る」という私の体験には、この読み方が一番しっくりきました。
考察を知ってから観ると、映画は「答え合わせ」ではなく「疑問を増やすもの」になった
今回、いろいろな考察を読んでから2回目を観ました。
当然、「なるほど、本当にそう見える」と思ったものがたくさんありました。
でも同時に、
「ネットではこう言われていたけれど、自分で見直すと、むしろ新しい疑問が出てきた」
というものもありました。
例えば、洞窟前にある「人魚の墓ではないか」と考察されている地面の盛り上がりです。
この盛り上がり自体は、私も映画の中で確認できました。
ただ気になったのは、同じ洞窟前と思われる別の場面では、その盛り上がりが見えなかったことです。
セイレーンが島民を襲うようになり、立入禁止の看板を立てる回想シーンでは、私にはその盛り上がりを確認できませんでした。
さらに、ラッコ先生を探しに洞窟へ向かう場面でも、同じ場所と思われるところに盛り上がりが見えなかったように感じました。
最初に確認できた盛り上がりが本当に人魚を埋めた跡なのか。
見る角度や場所が少し違うだけなのか。
作画上、その場面では省略されているのか。
考察を知ってから見直したことで、「墓らしきものがある」という発見だけでなく、「では、なぜ他の場面では見えないのだろう」という新しい疑問が残りました。
もう一つ確認したかったのが、帰りの船で聞こえる「笑い声」です。
原作では、ちいかわたちが島から帰る船の場面に笑い声のような描写があります。
この声をセイレーンのものと考え、ヒトハとフタバの新しい島へ向かったあとに戻ってきたセイレーンの声なのではないか、とする考察があります。
一方で、ヒトハとフタバ側の場面は日の出前、ちいかわたちが島を出る場面は日の出後のように見えるため、単純に同じ時間帯の出来事としてつなげてよいのかという疑問もあります。
そして映画版では、原作にあったこの笑い声が確認できなかったという鑑賞記事もあります。
私自身も今回、「映画では本当に聞こえないのだろうか」と意識して耳を澄ませてみましたが、少なくとも私には、セイレーンの笑い声だとはっきり分かる音を確認できませんでした。
そのため、「映画版では絶対に削除された」と断定するのではなく、原作には笑い声の描写がある一方、映画では私は確認できなかった――というところまでを、今回の再鑑賞での発見として残しておきたいと思います。

だから私は今回、
考察を知ってから映画へ行くことは、答えを確認しに行くことではない
と思いました。
「本当にそうだろうか」と、自分の目と耳で見直すために行く。
すると、有名な説がもっと強くなることもあれば、逆に疑問が増えることもある。
そこから自分だけの三回目の宿題が生まれる。
これこそ、『映画ちいかわ』を何度も観る面白さなのだと思います。
この映画を2回みた時に教えてくれるかもしれないこと
1回目の私は、物語を追っていました。
誰が悪かったのか。
なぜセイレーンは怒っていたのか。
なぜヒトハとフタバは人魚を食べたのか。
なぜちいかわは最後に黙ったのか。
でも2回目の私は、物語の外側を見るようになりました。
背景で誰が動いているのか。
ヒトハとフタバはどちらが先に手を出したのか。
二人はどう泳いでいるのか。
同じ「島のうた」がなぜ違って聞こえるのか。
人魚が一人いないことが音にまで表れているのか。
なぜりんごが最初に出てくるのか。
なぜ不老不死になった二人が最後に洞窟へ入るのか。
なぜ島二郎だけ島民から忘れられているのか。
なぜ島二郎の声は水中では言葉にならず、セイレーンの声は届くのか。
そして4DXでは、誰が動けば座席が揺れ、どの攻撃が自分の身体へ返ってくるのか。
こうやって見ると、映画はセリフとストーリーだけで作られているわけではありませんでした。
食べ物。
音。
光。
カメラ。
身体の動き。
背景。
民間伝承。
そして、あえて説明されなかったこと。
その全部で同時に物語が進んでいる。
ナガノ先生は公式インタビューで、作画やコンテのかなり細かな部分まで確認し、悔いがないよう出来ることを全部やったと語っています。
だから、どこまでが本当に意図された伏線なのかは分からなくても、
「もしかしたら、ここにも意味があるのでは」
と立ち止まって見ること自体が、この映画の楽しみ方の一つなのだと思います。
そして今回、八百比丘尼やエデンの園まで知ったうえで見返して、一番心に残ったのは、
「永遠に生きること」と「今を生きること」は、同じではない
ということでした。
ヒトハは、大切なフタバを失いたくない思いから人魚の肉を食べさせ、その結果、二人は永遠に近い命を持つことになった。
そこには確かに、相手を大切に思う気持ちがあった。
でもその選択は、人魚の命を奪い、二人が島を離れ、追われながら生きる未来へつながってしまった。
一方でちいかわは、一人になっても木の実を齧り、今日を生き、仲間を探しに行く。
ハチワレとうさぎとの未来が永遠だという保証はありません。
だからこそ、今、一緒にいることには意味がある。
忘れそうなら残せばいい。
いつかを約束してもいい。
すべての真実を言葉にできなくても、隣にいることはできる。
今回、2回見た『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』からは、そんなことを教えてくれるのかもしれません。
そしてもしこれから2回目、3回目を観る方がいたら、ぜひ一度、ストーリーの真ん中だけではなく画面の端と、キャラクターの足元と、背景と、音にも目を向けてみてください。
一度目にはなかったはずの「もう一つの人魚の島のひみつ」が、そこから見えてくるかもしれません。

参考にした考察・資料
今回の記事を書くにあたり、映画をもう一度観る際の参考として、YouTubeやnoteなどで公開されているさまざまな考察や、公式インタビュー、映画・人魚伝承に関する記事を拝見しました。
以下の考察をそのまま「正解」として紹介するものではなく、複数の考え方を参考にしたうえで、実際に私自身が映画を再鑑賞し、確認できたことや感じたこと、自分なりに考えたことを記事としてまとめています。
さけねこの映画チャンネル
りんごと「知ること」、エデンの園、人魚伝説、ヒトハとフタバ、映画タイトルや『机さする』など、映画全体に散りばめられたモチーフを考える際に参考にしました。
小出(ちいかわガチ考察)さん
映画で追加された細かな動作や背景、ヒトハとフタバの違い、うさぎの行動、島二郎やバンガローなど、「2回目だからこそ確認したくなる部分」を考える際に参考にしました。
岡田斗司夫さんの『映画ちいかわ』考察
ヒトハとフタバの行動を「友情や愛情」だけでなく、「大切な相手を失いたくないという自分自身の気持ち」まで含めて考える視点や、キャンプファイヤーでちいかわが秘密を口にしなかった意味、ヒトハとフタバにとって「永遠に一緒にいること」が本当に幸せなのかという部分を考える際に参考にしました。
ふぁくつさん
映画公開前のカウントダウンイラストを別の物語としてつなげる「アナザーエンド」説や、『机さする』の複数の読み方を考える際に参考にしました。
なお、この考察は公開後にも内容が更新されているため、この記事ではYouTube版だけでなく、更新内容が反映されたnote版も参考にしています。
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』公式情報
映画化にあたって原作から増減・変更した部分、ヒトハとフタバの性格設定、背景で動くうさぎ、映画ならではの構図や「間」、キャラクターの身体や心の動きに合わせた音楽など、制作側から明らかにされている情報を確認する際に参考にしました。
八百比丘尼・人魚伝説について
人魚の肉を食べて長い命を得た八百比丘尼の伝説や、最後に洞窟へ入ったこと、白い椿との関係などを確認する際に参考にしました。
映画のヒトハとフタバについて、「人魚の肉」「不老不死」「洞窟」「花」といった要素が八百比丘尼伝説と重なって見える部分がありますが、映画がこの伝説を直接モチーフにしていると公式に明言されているわけではありません。そのため、記事内ではあくまで伝承を知ったうえでの一つの見方として紹介しています。
Real Soundの映画・人魚伝承考察
八百比丘尼の伝説に加え、13世紀の説話集『古今著聞集』に残る、人に似た頭を持つ3匹の大魚が捕らえられ、最後には人々に食べられたという説話について確認する際に参考にしました。
日本に残る「人魚や人に近い異形の魚を食べる」という伝承を知ることで、ヒトハが人魚を殺し、その肉を持ち帰る場面を別の角度から考えるきっかけになりました。
アニメ!アニメ!の音楽考察
通常の「島のうた」が4拍子であるのに対し、「島のうた(セイレーンver.)」では3拍子へ変化していることや、人魚たちのコーラスで「3度」の音がないという音楽面の分析を参考にしました。
私は音階や和音について詳しいわけではないため、記事内でもこの分析を自分自身の音楽的な断定として扱うのではなく、「このような音楽分析もある」という形で紹介しています。
アニメ!アニメ!の4DX体験記事
うさぎが走る際の座席振動、船の揺れ、セイレーンと島二郎の戦闘時の激しい4DX演出、香りについての体験などを、自分自身の4DX鑑賞体験と比較する際に参考にしました。
4DXの演出は映画館によって異なる場合があるため、記事内では「必ずこの演出がある」と断定するのではなく、私が実際に体験したことと、他の鑑賞者による体験記事を分けて書いています。
この記事で紹介している考察には、公式に明かされている設定だけでなく、ファンによる仮説や解釈も含まれています。
私自身もこれらの考察を読んだうえで2回目の映画を観て、「本当にそう見えるのか」「私はどう感じるのか」を自分なりに確認しています。そのため、この記事では一つの考察を正解と決めるのではなく、こんな見方をしてみると、2回目以降の『映画ちいかわ』がさらに面白くなるかもしれないという視点で紹介しています。


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