島のうたに隠された「たすけて」、SOSにも聞こえる掛け声、炭酸から単三へつながる伏線、セイレーンの「わかった」、そして最後のうさぎの仕草。真実を知る前と後で意味が変わる場面を追いながら、『人魚の島のひみつ』が残した問いを考えます。
- 「島のうた」の秘密、SOS、単三、セイレーンの「わかった」、そして最後にうさぎがちいかわを撫でた意味
- 怪しすぎる「特別な島へのご招待」から、すでに物語の仕掛けは始まっていた
- ハチワレの『くつずれ』で始まることが、あとから少し意味深に感じられた
- 島へようこそ――最初はただ楽しかった「島のうた」
- ヒトハとフタバ――ちいかわとハチワレとは別の「大切な二人」
- 船を漕ぐ「おーえす」が、私にはSOSにも聞こえた
- 神秘的な洞窟は、「島の表面」から「島の秘密」へ入る入口のようだった
- 「人魚は本当は3匹いた」――何気ない情報が、物語最大の謎になる
- 同じ「島のうた」が、セイレーンの声になるだけで別の歌になる
- セイレーンは、本当に「悪い怪物」なのか
- セイレーンには、「間違えたら謝る」優しさもあった
- 怖い戦いの途中なのに、モモンガはモモンガのまま
- ハチワレの反撃には、「なんとかなれ」だけではない成長が見えた
- 「昆布臭い」「旨味が染み込んでいる」――笑えるのに、よく考えると怖い
- 島二郎の「波の音」は、漫画から映画になったことでより具体的になった
- 鬼カレー――最初は楽しみだった「食べ物」が、最後には武器になる
- セイレーンが持つ「かじりかけのリンゴ」にも意味があるのだろうか
- セイレーンの「わかった」は、意味が分からない言葉ではなく、あとで意味が明らかになる言葉だった
- 「炭酸」から「単三」へ――一度目では笑える言葉が、真相を知ると怖くなる
- ヒトハとフタバを、私は簡単な悪者にはできなかった
- 漫画で想像していたセイレーンと、映画で出会ったセイレーンは少し違った
- 本当に重いのは、人魚を食べた瞬間だけではなく「そのあと」なのかもしれない
- 『今日の日はさようなら』が、ヒトハとフタバの真実を知ると違って聞こえる
- ちいかわは、なぜヒトハとフタバの前で何も言えなかったのか
- そして、うさぎがちいかわを撫でる――私はここがとても気になった
- では、うさぎ自身はどこまで気づいていたのだろう
- ちいかわ、ハチワレ、うさぎでは「真実との距離」がそれぞれ違うのかもしれない
- 最初の「島のうた」と最後の「島二郎ver.」が違う理由
- そもそも島二郎とは、いったい何者だったのだろう
- ハチワレの歌で始まり、最後はちいかわ自身の歌へ
- エンドロール後、「わかった」という言葉が完全につながる
- 振り返ると、すべてが「知る前」と「知ったあと」で変わっていた
- 漫画から映画になって大きく加わったのは、「音」と「時間」
- 結局、誰が悪かったのだろう
- まとめ――『人魚の島のひみつ』を最後まで観て感じたこと
「島のうた」の秘密、SOS、単三、セイレーンの「わかった」、そして最後にうさぎがちいかわを撫でた意味
※この記事には『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』の物語の核心、結末、エンドロール後までの重大なネタバレを含みます。
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観終わったあと、私はすぐに「もう一度、最初から観てみたい」と思いました。
というのも、この映画には、最初に観たときには何でもなかった言葉や歌、ちょっとした違和感が、物語の真相を知ったあとではまったく別の意味に見えてくる場面がいくつもあったからです。
楽しかったはずの歌が、あとから少し怖くなる。
何気ない掛け声が、別の言葉にも聞こえてくる。
優しい島民だと思っていたヒトハとフタバには、誰にも言えない秘密がある。
恐ろしい怪物だと思っていたセイレーンにも、怒るだけの理由がある。
そして、最初は「降参した」という意味に聞こえた「わかった」という一言さえ、物語が進むとまったく別の意味だったことが分かってきます。
私は、この
「知る前と、知ったあとでは、同じものが同じようには見えなくなる」
という感覚こそが、『人魚の島のひみつ』を読み解くうえで、とても大切な部分なのではないかと感じました。
今回は映画の流れを追いながら、私が特に気になった場面、伏線のように感じたところ、映画になったことで漫画以上に伝わってきた部分、そして最後まで観たからこそ見えてきたことを、一つずつ振り返ってみたいと思います。
怪しすぎる「特別な島へのご招待」から、すでに物語の仕掛けは始まっていた
物語は、ちいかわとハチワレの前に、うさぎが怪しげなチラシを持って現れるところから始まります。
簡単な討伐。
大きな報酬。
島では美味しいものも楽しめる。
聞けば聞くほど魅力的ですが、冷静に考えれば条件が良すぎます。
最初に観たときには、「うさぎがまた怪しいものを持ってきた」という、いつもの『ちいかわ』らしい楽しい導入として見ていました。
ところが、映画を最後まで観たあとで振り返ると、このチラシの時点ですでに、この島そのものの性質が表れていたようにも思えます。
表面だけを見ると、とても魅力的。
でも、その奥には説明されていない事情が隠れている。
この島も同じです。
食べ物がたくさんある。
島民たちは歓迎してくれる。
楽しそうな歌まで聞こえてくる。
でも実際には、島民たちはセイレーンに襲われ続けている。
そして、そのセイレーンが島を襲うようになった本当の理由まで知っている者はほとんどいません。
つまり、この映画は最初のチラシからすでに、
「目の前に見えているものだけが真実とは限らない」
という物語を始めていたのではないでしょうか。
ハチワレの『くつずれ』で始まることが、あとから少し意味深に感じられた
映画の始まりで印象に残るのが、ハチワレが歌う『くつずれ』です。
私は映画を最後まで観たあと、この『くつずれ』という言葉そのものが少し気になりました。
くつずれは、歩かなければできません。
どこかへ進もうとしたからこそできる痛みです。
旅行は楽しい。
新しい場所へ行くことも楽しい。
でも、前へ進むことには、少しだけ痛みを伴うこともある。
もちろん、「くつずれ」という曲名そのものが映画の結末を意味している、とまで言いたいわけではありません。
ただ今回のちいかわたちは、楽しい旅行のつもりで島へ向かい、そこで知らなかった世界を知ってしまいます。
特にちいかわは、島へ行く前とまったく同じ気持ちでは帰ってきません。
そう考えると、
楽しい旅の始まりに、ほんの少しだけ「痛み」を感じさせる言葉が置かれている
ことが、私は妙に印象に残りました。
島へようこそ――最初はただ楽しかった「島のうた」
島へ到着すると、映画の雰囲気は一気に華やかになります。
楽しそうな島民たち。
美味しそうな屋台。
明るい音楽。
そして「島のうた」。
映画館で観ていると、この場面は本当に楽しそうです。
原作漫画では文字から想像していた歌が、本当に音楽になり、実際に島民たちの声として聞こえてくる。
この瞬間だけなら、これから恐ろしいことが起きる島だとはなかなか思えません。
ところが、私はこの歌をあとから振り返ったとき、少し不思議なことに気づきました。
歌詞に並んでいる言葉の頭を拾っていくと、
「たすけて」
と読めるように感じられる部分があります。
劇中で「これは暗号です」と説明されるわけではありません。
ですから、私はこれを確定した答えとしてではなく、
「もし意図的にそう読めるように作られているのだとしたら面白い」
という一つの見方として受け取りました。
なぜなら、この読み方をすると、島民たちの歓迎そのものが二重の意味を持つからです。
表面では、
「ようこそ」
と歌っている。
ところがその中には、
「たすけて」
が隠れているようにも見える。
つまり、この歌そのものが島の状態なのです。
外から見ると楽しい。
でも内側では助けを求めている。
最初からちいかわたちは“答え”のようなものを聞かされていたのに、それが答えだとは気づけない。
私はここに、この映画全体へつながっていく最初の仕掛けを感じました。
ヒトハとフタバ――ちいかわとハチワレとは別の「大切な二人」
島では、ちいかわたちはヒトハとフタバに出会います。
最初の二人は、親切な島民にしか見えません。
一緒に過ごし、仲良くなり、ちいかわたちを助けてくれる。
けれども、映画の最後まで観てから思い返すと、私はヒトハとフタバを、ちいかわとハチワレに少し重ねるようになりました。
ちいかわにとって、ハチワレはとても大切な存在です。
ヒトハにとって、フタバも大切な存在です。
どちらにも、
「大切な相手と一緒にいたい」
という気持ちがあります。
その願い自体は、何も悪くありません。
ところがヒトハとフタバの場合、その願いが「永遠」という形で現実になってしまった。
そして、その永遠を手に入れるために、一匹の人魚が犠牲になっています。
私はこの映画の中で、
ちいかわとハチワレの友情と、ヒトハとフタバの友情が、どこか鏡のように置かれている
ように感じました。
このことは後半の『今日の日はさようなら』にもつながっていきます。
船を漕ぐ「おーえす」が、私にはSOSにも聞こえた
みんなで船を漕ぐ場面も、最初は楽しい場面です。
そこで繰り返される、
「おーえす、おーえす」
という掛け声。
普通に考えれば、船を漕ぐときの掛け声です。
でも映画では実際の音として聞くため、私は、
「SOSにも聞こえるな」
と感じました。
これも、作品の中でSOSだと説明されているわけではありません。
でも先ほどの「島のうた」の「たすけて」と重ねて考えると、とても面白い。
歌の中には「助けて」。
船の掛け声は「SOS」のようにも聞こえる。
それなのに、ちいかわたちは楽しそうに島を満喫している。
つまり、
最初から救難信号のようなものが周囲にあるのに、その意味に誰も気づいていない。
そんな構造にも見えます。
これは、漫画から映画になったことで特に面白くなったところだと思います。
漫画では「おーえす」という文字を読みます。
でも映画では、耳から音が入ってくる。
だからこそ、
「この音、別の意味にも聞こえる」
という新しい気づきが生まれるのです。
神秘的な洞窟は、「島の表面」から「島の秘密」へ入る入口のようだった
ちいかわ、ハチワレ、うさぎが洞窟へ入り、その奥で神秘的な空間を見つける場面。
私は、この洞窟そのものが、この映画の構造を表しているように感じました。
島の表面には、
歌。
食べ物。
屋台。
明るい島民たち。
そんな楽しい世界があります。
でも、その下へ潜っていくと、まったく違う世界が広がっている。
まるで、
島の表面から、その奥に隠されていた真実へ入っていく
ような場面です。
漫画では自分のタイミングでページをめくれます。
映画では、光、水、空間の広さ、静けさまで加わります。
そのため「ここから物語の空気が変わる」という感覚が、より強く伝わってきました。
楽しかった島が、少しずつ別の顔を見せ始める。
その境界線が、この洞窟だったように思います。
「人魚は本当は3匹いた」――何気ない情報が、物語最大の謎になる
セイレーンと人魚たちが現れます。
そして分かってくるのが、
人魚はもともと3匹だった
ということ。
では、残りの一匹はどこへ行ったのか。
ここから映画は、単純な討伐の話ではなくなります。
誰かが人魚を食べた。
セイレーンは、その犯人を探している。
つまり、この時点から私は『人魚の島のひみつ』が、
セイレーンとの戦いと、「消えた人魚を食べたのは誰なのか」という謎解きが同時に進む映画
に変わったように感じました。
誰が食べたのか。
なぜ食べたのか。
なぜそのことを隠しているのか。
一つ答えが分かると、その奥にさらに別の疑問が出てくる。
まるで先ほどの洞窟のように、物語そのものが一段ずつ深いところへ進んでいきます。
同じ「島のうた」が、セイレーンの声になるだけで別の歌になる
映画になったことで特に印象的だったのが、「島のうた」の使い方です。
島民たちが歌ったときには、とても明るかった。
ところがセイレーンが歌うと、同じ旋律なのに一気に怖くなる。
私はここで、
曲の意味は、曲だけで決まるものではない
と感じました。
誰が歌うのか。
どんな状況で歌っているのか。
その相手について、自分が何を知っているのか。
それだけで、まったく違うものになります。
そしてこれは、この映画の登場人物にも当てはまります。
セイレーンは、最初は怪物に見える。
でも事情を知れば、大切な人魚を失った側でもある。
ヒトハとフタバは、最初は優しい島民に見える。
でもその二人こそが、人魚の秘密に関わっている。
同じものでも、その背景を知れば見え方が変わる。
「島のうた」は音楽そのもので、この映画の仕掛けを表しているように感じました。
セイレーンは、本当に「悪い怪物」なのか
セイレーンは島民を襲います。
だから最初は、
「この怪物を倒せば解決する」
と思います。
でも、そうではありません。
セイレーンには、人魚を一匹失ったという理由があります。
大切な存在を奪われた。
犯人を探したい。
怒る。
悲しむ。
そこまでは、とても理解できます。
しかし犯人が分からないからといって、関係のない島民まで襲っていいのか。
そう考えると、セイレーンを完全な被害者にもできません。
私は、この作品の怖さの一つがここにあると思います。
被害者だった者が、別の場面では加害者にもなる。
そして、逆もある。
誰か一人を「悪い存在」にしてしまえば簡単なのに、この物語はそうしてくれません。
セイレーンには、「間違えたら謝る」優しさもあった
セイレーンについて考えていると、私はもう一つ忘れたくない場面があります。
それは、ちいかわたちが初めてセイレーンと出会ったときです。
セイレーンは最初、ちいかわたちを人魚を食べた犯人だと勘違いして襲います。
ところが、犯人ではないと分かると、その態度は大きく変わります。
間違えて襲ったことをきちんと謝り、冷えてしまったちいかわたちを自分の体で温める。
私はこの場面を思い返すと、
セイレーンは、相手が誰であっても無差別に傷つけたい存在ではない
ように感じます。
自分が間違えたと分かれば、それを認める。
謝る。
そして、自分が傷つけてしまった相手をそのまま放っておかず、きちんと介抱する。
巨大で恐ろしい見た目から想像するよりも、ずっと素直で、どこか律儀なところがあります。
だからこそ私は、この場面を知ったあとでは、セイレーンを単純な「悪い怪物」として見ることが難しくなりました。
では、そんなセイレーンが、なぜその後ちいかわたちに対して激しく攻撃するようになるのでしょうか。
そのきっかけの一つが、モモンガが実際に人魚を食べようとしたことです。
人魚を見つけたモモンガは、永遠の命が手に入ることを知っていたこともあり、人魚を食べようとします。
ここで重要なのは、セイレーンにとって人魚たちがどんな存在なのか、ということだと思います。
人魚たちは、ただ近くにいる生き物ではありません。
一緒に歌う。
いつもそばにいる。
体についたものを取ってもらう。
そして、一匹を失ったあとも、セイレーンはその犯人を探し続けています。
こうした姿を見ると、人魚たちはセイレーンにとって、
何よりも守りたい大切な仲間
なのだと思います。
だからこそ、モモンガが人魚を食べようとする行動は、セイレーンにとって単なるいたずらや冗談では済まなかったのでしょう。
それは、
自分の大切な仲間の命を奪おうとする行動
そのものです。
ここで私は、セイレーンの中にある一つの境界線が見えるような気がしました。
犯人ではない相手には、間違いを認めて謝ることができる。
傷つけてしまった相手なら、助けることもできる。
けれども、自分の大切な仲間を傷つけようとする相手には、徹底して立ち向かう。
つまりセイレーンは、
「自分の仲間ではないから傷つけてもいい」と考えているわけではなく、「敵ではない相手」と「大切なものを脅かす相手」をはっきり分けている
ように私には見えました。
そう考えると、セイレーンの優しさと怖さは、まったく別の性格なのではないのかもしれません。
むしろ、
どちらも「大切な存在を強く思う」という同じ気持ちから生まれている
のではないでしょうか。
大切な人魚たちを守りたい。
だから、仲間にはとても優しい。
間違えて傷つけた相手には謝ることもできる。
しかし同時に、その大切なものを奪おうとする相手には、一切容赦がなくなる。
そして、一匹を失った悲しみがあまりにも大きかったからこそ、犯人を見つけるために関係のない島民まで襲うところまで行ってしまった。
私はここに、この映画が誰かを一つの面だけで「優しい」「残酷」と決めつけさせない面白さを感じます。
セイレーンには確かに優しいところがあります。
仲間を大切にする。
間違ったら謝る。
自分が傷つけた相手を助ける。
でも、
優しい部分を持っていることと、残酷な行動をしないことは同じではありません。
大切な誰かを守りたいという気持ちそのものは、とても理解できます。
けれど、その気持ちが強いからといって、無関係な誰かを傷つけていいわけではない。
これは、ヒトハとフタバについて感じた、
「理解できること」と「正しいこと」は一致しない
ということにもつながっているように思います。
ヒトハは、大切なフタバを助けたかった。
セイレーンは、大切な人魚を取り戻したかった。
どちらにも、
「大切な存在を失いたくない」
という、とても理解しやすい気持ちがあります。
しかし、その気持ちから生まれた行動によって、別の誰かが傷ついてしまう。
私はここまで考えて、セイレーンとヒトハが、実はまったく反対の立場にいるだけではないことにも気づきました。
一方は、大切な存在を救うために人魚の命を奪った。
もう一方は、大切な存在を奪われたことで、犯人を探し続けた。
立場は正反対です。
でもその中心にあるのは、どちらも、
「大切な誰かを失いたくない」
という気持ちです。
だからこそ、この物語では誰か一人だけを完全な悪者にすることが難しいのではないでしょうか。
セイレーンは優しい。
でも怖い。
被害者でもある。
でも加害者にもなっている。
そのどれか一つだけが本当なのではなく、
そのすべてが同時にセイレーンの中にある。
私は、そんな矛盾した部分まで持っているからこそ、セイレーンは単なる「倒すべき怪物」では終わらず、この物語の中でとても印象に残る存在になっているのではないかと思います。
怖い戦いの途中なのに、モモンガはモモンガのまま
セイレーンとの戦いでは、かなり危険なことが起こっています。
それなのに、モモンガらしい出来事が入ってくる。
思わぬところへ攻撃が当たったり、喉に飴を詰まらせた流れから、ここぞとばかりに泣こうとしたり。
こういうところを見ると、「やっぱりちいかわだな」と感じます。
普通なら物語が深刻になれば、笑いは減っていきます。
でも『ちいかわ』では、
怖い。
かわいい。
おかしい。
理不尽。
が同じ場面の中に存在します。
私は、この落差がかえって怖さを強くしているように感じました。
ずっと怖い映画なら最初から身構えます。
でも笑えるから油断する。
そのすぐあとに、本当に恐ろしいことが起こる。
この距離の近さが、『ちいかわ』独特の感覚なのだと思います。
ハチワレの反撃には、「なんとかなれ」だけではない成長が見えた
セイレーンの攻撃に対し、ハチワレがラッコ先生の教えを思い出し、タイミングを見て反撃する場面。
私はここを、単純に格好いい場面というだけでは見ませんでした。
ハチワレといえば、
「なんとかなれ!」
という勢いも魅力です。
でも今回は、
覚えている。
相手を見る。
タイミングを待つ。
そして動く。
過去の経験が、ちゃんと今のハチワレの力になっている。
映画では動きが連続して見えるので、「待っていること」や「判断していること」が漫画以上に伝わってきます。
私はここに、ハチワレの小さな成長を感じました。
「昆布臭い」「旨味が染み込んでいる」――笑えるのに、よく考えると怖い
セイレーンに捕らえられた仲間たち。
体には昆布のような匂いがつき、旨味まで染み込んでいる。
かなり笑える場面でもあります。
でも少し考えると、不気味です。
この映画では最初から最後まで、
「食べる」
という行為が重要なところに置かれています。
食べ物に惹かれて島へ来る。
島でたくさん食べる。
事件の中心には「人魚を食べる」という行為がある。
捕まった仲間たちは、自分たちが食べ物に近づいているような状態になる。
そして最後にセイレーンを追い込むものも、食べ物です。
私はこれに気づいてから、
「食」が、この映画全体をつなぐ一つの大きなモチーフなのではないか
と思うようになりました。
食べることは、ちいかわたちにとって幸せです。
でも同じ「食べる」が、命を奪うことにもなる。
幸せと恐怖が、同じ行為の中にある。
ここにも、この映画の二重性があります。
島二郎の「波の音」は、漫画から映画になったことでより具体的になった
仲間を助けるためにやってきた島二郎。
セイレーンに気づかれないよう、耳元で波の音を再現する場面もとても印象に残りました。
漫画で読んでいたときには、
「どんな波の音なんだろう」
と頭の中で想像するしかありません。
でも映画では、それが本当に「音」として聞こえます。
だから、島二郎がものすごく真剣にやっている奇妙な作戦が、漫画以上に具体的で面白く感じられました。
今回の映画化では、こういう
「原作では読者の頭の中にしかなかった音を、実際に聞かせる」
という部分がとても大きかったと思います。
セイレーンの歌も同じです。
「島のうた」も同じです。
映画になったことで、音そのものが物語の一部になっています。
鬼カレー――最初は楽しみだった「食べ物」が、最後には武器になる
そしてセイレーンとの最後の戦いで登場するのが、激辛カレーです。
以前、ちいかわ、ハチワレ、うさぎが経験したことのある強烈な辛さ。
さらに島二郎のとっておきまで加わる。
うさぎやモモンガも力を合わせ、なんとかセイレーンの口へ届ける。
ここで改めて考えると、物語の最初と最後が「食べ物」でつながっています。
最初は、
食べ物に惹かれて島へ来る。
最後には、
食べ物によって危機を切り抜ける。
そして物語最大の秘密も、
誰かが誰かを食べた
ことです。
美味しい。
楽しい。
生きる。
奪う。
救う。
同じ「食」が、場面によってまったく違う意味を持っています。
私はこの構造も、とても『ちいかわ』らしいと思いました。
セイレーンが持つ「かじりかけのリンゴ」にも意味があるのだろうか
ここまで「食べる」ということについて考えていて、私はパンフレットや関連するイラストに描かれている、もう一つのものが気になりました。
それが、
セイレーンが持っている、かじられたリンゴです。
もちろん、このリンゴについて劇中で何か説明されるわけではありません。
そのため、
「このリンゴには必ずこういう意味がある」
と断定することはできません。
それでも、『人魚の島のひみつ』という物語全体を振り返ると、私は少し意味深なものに見えてしまいました。
リンゴと聞いて、私がまず思い浮かべたのが、
「禁断の果実」
です。
一般的な絵画や物語の中では、アダムとイブが食べた「禁断の果実」がリンゴとして描かれることがあります。
実際の聖書には、その果実がリンゴだったとは書かれていません。
それでも、「食べてはいけないものを食べたことで、それまでの世界には戻れなくなる」というイメージとリンゴが結びついてきたことは確かです。
そう考えると、私はヒトハとフタバの物語を少し重ねたくなりました。
二人もまた、
本来なら食べるべきではなかったものを食べたことで、永遠の命を手に入れます。
けれど、それによって幸せになっただけではありません。
人魚の命が失われる。
セイレーンが犯人を探し続ける。
島民たちまで巻き込まれる。
そして最後には、ヒトハとフタバ自身も島を離れることになります。
つまり、
「食べたことで特別なものを得た代わりに、それまでと同じ場所には戻れなくなった」
とも見ることができます。
もし、セイレーンの持っているリンゴにそうしたイメージまで重ねられているのだとしたら、とても面白いと思いました。
そして、さらに気になるのは、そのリンゴがすでにかじられていることです。
まっさらなリンゴではなく、誰かが一度口をつけたリンゴ。
この物語の最大の秘密も、
「誰かが、食べてはいけないものを食べてしまった」
ことから始まっています。
だから私は、かじられたリンゴを見ると、
「一度食べてしまったものは、もう食べる前の状態には戻せない」
ということまで連想してしまいます。
ヒトハとフタバも、人魚を食べる前には戻れません。
セイレーンも、人魚を失う前には戻れない。
島民たちも、事件が起きる前とまったく同じ島には戻らない。
ちいかわ自身も、真実を知る前の自分には戻れません。
そう考えると、
かじられたリンゴは、「何かを知ったり、何かをしてしまったあとでは、世界は完全には元に戻らない」というこの映画の感覚にも重なる
ように私は感じました。
そして、これはこの映画で何度も登場する「食べる」というモチーフともつながります。
ちいかわたちは、美味しいものを食べることを楽しみに島へやって来る。
島ではたくさんの食べ物が登場する。
仲間たちはセイレーンに捕まり、食べ物のような状態にされる。
物語最大の秘密は、人魚を食べたこと。
そして最後には、激辛カレーという食べ物がセイレーンを止める力になる。
同じ「食べる」という行為でも、
幸せになることもある。
命をつなぐこともある。
誰かを傷つけることもある。
そして、取り返しのつかないことを起こすこともある。
私は、そこにかじられたリンゴまで加えて考えると、
「食べること」が、この映画の最初から最後までをつなぐ、とても大きなモチーフだったのではないか
という思いがさらに強くなりました。
もちろん、セイレーンのリンゴが本当に「禁断の果実」を意識したものなのかは分かりません。
単純にキャラクターを彩るための小物なのかもしれません。
でも、この映画には、一度見ただけでは意味が分からなかったものが、あとから別の意味に見えてくる仕掛けがいくつもありました。
だからこそ私は、この小さなリンゴについても、
「もしかすると、ここにも何か意味が重ねられているのではないか」
と考えてしまいます。
そうやって本編の外にある一枚のイラストからまで物語について考えたくなるところも、『人魚の島のひみつ』の面白さなのかもしれません。
セイレーンの「わかった」は、意味が分からない言葉ではなく、あとで意味が明らかになる言葉だった
今回、改めて考えて特に重要だと思ったのが、セイレーンの
「わかった」
です。
激辛カレーを食べさせられたあと、セイレーンが「わかった」と言う。
その瞬間だけを見れば、
「もう分かった、島民を襲うのをやめる」
という意味にも聞こえます。
だから最初は、ちいかわたちの作戦が成功し、セイレーンが降参したようにも見えます。
でも映画は、そのまま曖昧には終わりません。
戦いの中でフタバの身体から単三電池が外れ、それをセイレーンが目撃する。
そして、その出来事がヒトハとフタバの過去へつながっていく。
その後の回想や二人の秘密まで知れば、あの「わかった」が、
「人魚を食べた犯人がわかった」
という意味だったことが、かなり明確に見えてきます。
私はここを、前に考えていた以上にうまい伏線回収だと思いました。
つまりこの映画は、
「何が分かったのかを最後まで秘密にする」
のではありません。
その瞬間だけ観客に別の意味だと思わせておき、あとから映像によって本当の意味に気づかせる。
この作りなのです。
そして面白いことに、表向きの意味も完全に間違いではありません。
セイレーンは、そのあと島全体を手当たり次第に襲う必要がなくなります。
なぜなら、
探している相手が分かったから。
「もう襲わないことが分かった」のではなく、
「誰を追えばいいのか分かったから、島全体を探す必要がなくなった」
と考えれば、すべての行動がつながります。
私は、この「わかった」というたった一言に、かなり恐ろしい意味が入っているように感じました。
「炭酸」から「単三」へ――一度目では笑える言葉が、真相を知ると怖くなる
そして、「わかった」と深く結びついているのが「タンサン」です。
物語の最初では、普通に「炭酸」を連想します。
飲み物の話です。
だから観客の頭にも自然に「炭酸」という言葉が残ります。
ところが後半では、
単三。
単三電池です。
この言葉遊びは、単純に面白いだけではありません。
人魚を食べることで得られるのは「永遠の命」。
本来なら、とても神秘的なものに聞こえます。
でも、その身体が「単三電池」と結びついて描かれる。
電池を入れれば動く。
なくなれば止まる。
また入れれば動く。
そう考えると、「永遠の命」が急に怖くなります。
永遠に生きられるというより、
終わることができない。
私は「単三」という日常的で少しおかしな言葉を使ったことで、逆に不老不死の不気味さが強くなっているように感じました。
そして、この単三電池をセイレーンが見ることによって、
「わかった」
につながっていく。
「炭酸」という序盤の何気ない言葉が、後半の真相そのものへつながる。
とてもきれいな伏線だと思います。
ヒトハとフタバを、私は簡単な悪者にはできなかった
そして明かされる二人の過去。
人魚を食べたのは、ヒトハとフタバでした。
でも、その理由は、
「永遠に生きたかったから」
ではありません。
フタバを助けたかった。
大切な存在が目の前で死にかけている。
助ける方法がある。
でも、そのためには別の命を犠牲にしなければならない。
もちろん、人魚を殺したことが正しくなるわけではありません。
でも私は、
もし自分の大切な人が目の前で死にそうだったら、自分は絶対に同じ選択をしないと言い切れるのだろうか
と考えてしまいました。
ヒトハの行動は、正しいとは言えない。
でも、理解できないとも言えない。
私はこの、
「理解できること」と「正しいこと」が一致しない
ところが、この映画で最も苦しいところだと思います。
漫画で想像していたセイレーンと、映画で出会ったセイレーンは少し違った
ヒトハとフタバの過去まで知ったところで、私は改めてセイレーンと人魚たちのことも考えてしまいました。
漫画を読んでいたとき、私はセイレーンにもっと低く、不気味な声を何となく想像していました。
ところが映画で実際に声を聞いてみると、思っていた以上にかわいらしい。
巨大で圧倒的な力を持ち、島民たちから恐れられている存在なのに、声にはどこか無邪気さや愛嬌があります。
私は、この見た目や行動と声とのギャップがとても印象に残りました。
一方、人魚たちの声は、私にはどこか機械音のようにも聞こえました。
「ガギギ」といった独特の響きも、かわいい見た目とは少し違い、人間とはまったく異なる生き物なのだと感じさせます。
漫画では自分の頭の中で自由に想像していた「声」が、映画では実際の音として与えられる。
それだけで、セイレーンや人魚たちに対する印象がかなり変わったように思います。
そして、もう一つ驚いたのが、人魚たちの「声」の作り方でした。
物語の現在では、人魚はすでに2匹しかいません。
けれども、ヒトハとフタバの過去を描く回想では、まだ人魚が3匹そろっていたころの姿が描かれます。
映画では、その3匹のために人魚役の声優も3人用意され、それぞれの声が重なっています。
私はここに、映画ならではの細かなこだわりを感じました。
現在の物語だけを考えれば、普段登場する2匹の声があれば成立しそうにも思えます。
それでも、かつて3匹が一緒にいた場面のために、きちんともう一つの声まで用意している。
それによって回想の3匹が、単に
「昔はもう1匹いました」
という説明のための存在ではなく、
本当に3匹で一緒に過ごし、歌い、そこにいた存在
として感じられるようになっている気がしました。
そして、このことは物語を知ったあとでは少し切なくも感じます。
今聞こえている人魚の声は2つ。
でも、過去にはそこにもう一つの声があった。
その失われた一匹の存在こそが、セイレーンが島民たちを追い続ける理由になっています。
そう考えると、3人分の声をきちんと用意したことは、単なる豪華さではなく、
「失われる前には、本当に3匹で一つの時間を過ごしていた」ことを、音でも感じさせるための演出
だったように私は感じました。
漫画では3匹が並んでいる絵を見ることで分かっていたことが、映画では「3匹の姿」に「3つの声」まで加わる。
こういう細かなところにも、この作品が漫画の世界を映画の「音」へ置き換えるときの丁寧さが表れているように思います。
そして、その印象をさらに複雑にしたのが、ヒトハとフタバの過去を描いた回想シーンでした。
そこでは、セイレーンと3匹の人魚たちが、イカを玩具のようにして遊んでいます。
私はあの場面を見て、獲物を捕まえて遊ぶ猫の姿を少し思い浮かべました。
人間から見ると残酷に見えることでも、猫自身には「相手を苦しめてやろう」という明確な悪意があるとは限りません。
セイレーンと人魚たちも、それに近いのではないかと感じました。
彼らはイカを苦しめようとしているというより、
それが一つの命であることを、自分たちと同じ重さでは捉えていないように見える。
私はそこが、むしろ怖かったです。
明確な悪意を持つ怪物なら、「悪い存在だから怖い」と考えることができます。
でもセイレーンたちは、かわいらしい声で楽しそうに遊びながら、その遊びによって自分たちより弱い存在を傷つけている。
そして、その遊びの延長でヒトハとフタバまで巻き込まれ、フタバが命を失いかけるほどの出来事につながってしまいます。
つまりセイレーンたちの怖さは、単純な残酷さではなく、
「自分たちにとっては遊びでも、相手にとっては命に関わることだと分かっていない無邪気さ」
にあるのではないでしょうか。
ここでさらに印象的なのは、セイレーン自身は、仲間の人魚が失われると深く悲しみ、犯人を探し続けることです。
自分にとって大切な仲間の命は、とても大切。
でも、自分たちより弱い存在の命については、同じ感覚では考えていなかったようにも見える。
私は、この食い違いがとても気になりました。
そしてそれは、人間にとってもまったく無関係な話ではないように思います。
自分には悪意のない何気ない行動でも、相手にとっては大きな傷になることがある。
悪意がなかったからといって、起きてしまった結果までなくなるわけではない。
そう考えると、この回想シーンは単に「セイレーンたちの昔」を説明しているだけではなく、
「悪意がなければ、誰かを傷つけても責任はないのか」
という、この映画全体につながる問いまで含んでいるように感じました。
かわいい声。
不思議な人魚の鳴き声。
楽しそうな遊び。
一つひとつだけを見ると、それほど恐ろしいものではありません。
でも、その無邪気さの中にある危うさを知ると、私はセイレーンと人魚たちが、漫画で読んでいたとき以上に少し怖い存在に感じられました。
本当に重いのは、人魚を食べた瞬間だけではなく「そのあと」なのかもしれない
そしてヒトハとフタバについて考えているうちに、私は、
「本当に重いのは、人魚を食べた瞬間だけではないのでは」
と思うようになりました。
二人は、そのあと真実を言いません。
セイレーンは犯人を探し続けます。
その結果、関係のない島民まで襲われる。
最初の行動は、追い詰められた中でのとっさの選択だったのかもしれません。
でも、その後は時間があります。
一日言えなければ、次の日はもっと言いづらい。
時間が経てば経つほど、さらに言えなくなる。
その間にも誰かが傷ついていく。
私は、この部分にとても現実的な怖さを感じました。
人は最初から大きな嘘をつこうとしているとは限りません。
「今は言えない」
が積み重なって、いつの間にか取り返しのつかない秘密になることがあります。
ヒトハとフタバの物語には、そんな弱さまで描かれているように思いました。
『今日の日はさようなら』が、ヒトハとフタバの真実を知ると違って聞こえる
キャンプファイヤーで流れる『今日の日はさようなら』。
私はこの歌も、この映画の重要なポイントだと思います。
最初に聞けば、
仲間。
友情。
また会おう。
ずっと友達でいよう。
そんな温かい歌です。
でもヒトハとフタバの過去を知ったあとでは、私は同じようには聞けなくなりました。
なぜなら二人もまた、
ずっと一緒にいたかった
からです。
ちいかわとハチワレも、きっとずっと友達でいたい。
ヒトハとフタバも、ずっと一緒にいたかった。
願いそのものはとても似ています。
でも、ヒトハとフタバの「ずっと」は、本当に永遠になってしまった。
すると、
「いつまでも一緒にいたい」
という、とても美しい願いが、
本当に永遠だったらどうなるのだろう
という怖さに変わります。
終わることができない。
別れることもできない。
そして、その永遠が誰かの犠牲によって生まれている。
私は、優しい友情の歌をこの場面に置いたことで、かえってヒトハとフタバの物語が重くなっているように感じました。
ちいかわは、なぜヒトハとフタバの前で何も言えなかったのか
そして私が、この映画の中心だと思っている場面です。
ちいかわは、ヒトハとフタバの秘密に気づきます。
二人のところへ行く。
何かを言おうとする。
でも、言えない。
私はこの場面を、
「ちいかわが優しいから秘密にしてあげた」
だけでは見ていません。
たぶん、ちいかわ自身にも何が正しいのか分からなかったのだと思います。
真実を話したら、二人はどうなるのか。
言わなければ、これまで襲われた島民たちはどうなるのか。
人魚はどうなるのか。
セイレーンの悲しみはどうなるのか。
ちいかわは、ヒトハとフタバが人魚を食べるまでに何があったのか、そのすべてを知っているわけではありません。
それでも、二人の様子から、
ただ面白半分に人魚を食べたわけではない。
二人の間には、自分には簡単に踏み込めない何かがある。
ということは感じたのではないでしょうか。
そして何より、ちいかわ自身にもハチワレやうさぎという大切な仲間がいます。
もしハチワレが目の前で死にかけていたら。
もし助ける方法が一つしかなかったら。
そんなことまで考えたかどうかは分かりません。
でも、少なくとも、
相手の行動だけを見て簡単に「悪い」と言えなくなってしまった
ように私は感じました。
これまでのちいかわには、
怖くても勇気を出す。
仲間を助ける。
逃げずに立ち向かう。
そうすることで前へ進める場面がたくさんありました。
でも今回は違います。
勇気を出したとしても、正しい答えそのものが分からない。
私は、ちいかわが初めてそういう問題に出会ったように見えました。
そして映画では、言葉を出せない時間そのものが描かれます。
表情。
視線。
沈黙。
一歩進もうとして止まる時間。
漫画では一つのコマだった葛藤が、映画では「時間」になります。
この沈黙の長さが、ちいかわの迷いをさらに強く伝えていたと思います。
そして、うさぎがちいかわを撫でる――私はここがとても気になった
ちいかわがヒトハとフタバに何も言えず、その場に立ち尽くしていると、ハチワレとうさぎが近づいてきます。
その中で私が特に印象に残ったのが、うさぎがちいかわの頭を何度も撫でるような仕草です。
ちいかわは、ヒトハとフタバの前まで行きながら、結局何も言えませんでした。
その直後に、うさぎは理由を問いただすこともなく、何があったのか説明を求めることもなく、ただちいかわを撫でています。
私はその姿が、
「そういう選択をしたんだな」
と、ちいかわの決断そのものを受け止めているように見えました。
もしあの撫でる仕草に「よく頑張った」という意味があるのだとしたら、それは「犯人を見つけて偉かった」ということではなく、
「自分で考えて、自分で選んだんだな」
ということを認めているようにも感じます。
正しい答えを出せたから褒めているのではない。
答えが分からない中で、それでもちいかわ自身が考え、何も言わないという選択をした。
その重さを、うさぎなりの方法で受け止めていたのではないでしょうか。
言葉で説明するのではなく、ただ撫でる。
私はそこに、ちいかわとうさぎらしい、とても静かなやり取りを感じました。
では、うさぎ自身はどこまで気づいていたのだろう
そして、あの撫でる仕草を見ていると、もう一つ気になることがあります。
うさぎ自身も、事件の真相にある程度近づいていたのではないか。
ということです。
うさぎもまた、ちいかわたちと一緒に事件のさまざまな場面を経験しています。
だから、ヒトハとフタバが犯人だというところまで完全に理解していたかどうかは分からなくても、
「この二人には何かある」
「ちいかわは何か重大なことに気づいた」
というところまでは察していた可能性もあるように思います。
ただ、私はここを「うさぎは最初から全部知っていた」とまでは考えていません。
作品の中では、うさぎがいつ、何に気づいたのかは明確に説明されていないからです。
むしろ私が面白いと思うのは、
うさぎが真実をすべて知っていたかどうかより、ちいかわが何かを知り、それでも何も言わないことを選んだことを察したのではないか
という部分です。
ちいかわは説明しない。
うさぎも聞かない。
それでも、撫でる。
二人の間では、すべてを言葉にしなくても何かが伝わっていたのかもしれません。
そう考えると、あの場面は単に「うさぎがちいかわを慰めている」だけではなく、
言葉にできないほど複雑なことを抱えたちいかわを、うさぎがそのまま受け止めた場面
にも見えてきます。
私はそう考えると、あの何気ない撫でる仕草が、とても優しく、同時に少し切ないものに感じられました。
ちいかわ、ハチワレ、うさぎでは「真実との距離」がそれぞれ違うのかもしれない
この場面を考えると、3人の違いも面白く見えてきます。
ハチワレは言葉にするキャラクターです。
感じたことを話す。
疑問を口にする。
周囲に説明する。
一方、ちいかわは今回、
真実に近づきながら言葉を失います。
そしてうさぎは、
そもそも説明しない。
でも、行動だけで何かを示す。
私はこの3人が並んでいる最後の場面に、
「同じ出来事を経験しても、受け取り方や表し方は違う」
ということまで感じました。
全部話すことだけが、理解ではない。
何も言わないからといって、何も分かっていないとも限らない。
うさぎの撫でる仕草には、そんな余白が残されているように思います。
最初の「島のうた」と最後の「島二郎ver.」が違う理由
映画の終盤で、もう一つとても気になったのが「島のうた」の変化です。
最初にちいかわたちが島へやって来たときに流れていた「島のうた」と、最後に流れる歌はまったく同じものではありません。
最後には「島のうた(島二郎ver.)」となり、島二郎の料理が歌の中に加わり、島民たちと島二郎が同じ歌の中にいるような形へ変わっています。
私は、この変化がとても印象に残りました。
まず思い出したのが、最初の「島のうた」にある「たすけて」という読み方です。
もし最初の歌の中に、本当に「たすけて」と読める仕掛けが置かれているのだとしたら、事件が終わったあとの島では、
もう同じ「助けて」を歌う必要がなくなった
とも考えられます。
だからこそ、最後の歌は最初と同じ歌詞には戻らず、「島二郎ver.」という新しい形になった。
私はそこに、単なる歌詞の変更以上の意味を感じました。
事件が起きる前の島と、事件が終わったあとの島。
場所そのものは同じです。
でも、そこにいる人たちの関係は少し変わっています。
最初のころの島二郎は、島民たちとは少し離れたところにいる存在のようにも見えました。
しかし、ちいかわたちと一緒に仲間を助け、セイレーンとの出来事を経験したことで、最後には島民たちと同じ歌を歌う側に入っています。
だから私は、「島二郎ver.」になったこと自体が、
島二郎が島民たちに受け入れられ、事件をきっかけに新しい関係が生まれたこと
を表しているように感じました。
最初の「島のうた」は、外からやって来たちいかわたちを迎える歌でした。
一方、最後の「島のうた(島二郎ver.)」は、事件を経験したあと、その島でこれから暮らしていく人たちの歌になっているようにも聞こえます。
同じ旋律を使いながら、歌の中に登場するものや、そこに加わる存在が変わっている。
私はそこに、
「島は元通りになった」のではなく、「出来事を経験したことで少し違う島へ変わった」
という意味を感じました。
セイレーンとの関係が変わった。
ヒトハとフタバも島を離れた。
そして島二郎と島民たちの距離も、以前とは違うものになった。
だからこそ、最後の歌も最初とまったく同じには戻らない。
セリフで「この島は変わりました」と説明するのではなく、「島のうた」そのものを別バージョンへ変えることで、事件の前と後の違いを見せている。
私は、この演出がとても好きです。
「島のうた(島二郎ver.)」は、事件のあとに生まれた新しい関係と、これからの島の姿を表しているのかもしれません。
そして、最後に違うバージョンの「島のうた」を流したことには、
事件が終わったからすべてが元通りになるのではなく、経験したことを残しながら、島が新しい形へ進み始めた
ということを見せる意味もあったのではないかと思いました。
ただ、この映画は「全部解決して幸せになりました」と簡単には言わせてくれません。
ヒトハとフタバの問題は終わっていない。
セイレーンの物語も、まだ終わっていない。
そして、ちいかわの中にも秘密が残っています。
だから私は、最後の「島二郎ver.」を単純な「めでたしめでたし」の歌というより、
いろいろなことを抱えたまま、それでも島が以前とは違う新しい形へ進み始めたことを感じさせる歌
として受け取りました。
完全に元通りになるのではなく、経験した出来事を残したまま少しずつ変わっていく。
その終わり方のほうが、この『人魚の島のひみつ』という作品には合っているように感じました。
そもそも島二郎とは、いったい何者だったのだろう
「島のうた(島二郎ver.)」について考えていると、私はもう一つ、ずっと気になっていたことがあります。
そもそも島二郎とは、いったい何者だったのでしょうか。
森の奥で店「島二郎」を営み、カレーや貝汁を出している姿だけを見れば、少し変わった場所で暮らしている料理人です。
ところが物語が進むにつれて、島二郎が普通の店主では説明できないほど、この島と海に詳しく、そして異常なほど強いことが分かってきます。
自分で海へ潜って貝を採る。
セイレーンのいる場所を知っている。
水のわずかな変化からセイレーンの様子を察する。
水中でも自由に動き、巨大なセイレーンを相手に一人で時間を稼ぐ。
さらに、セイレーンの攻撃にも簡単にはひるまず、ちいかわたちを逃がすために危険な役目を自分から引き受けています。
こうして振り返ると、
「どうしてこの人は、こんなに海のことを知っていて、こんなに強いのだろう」
という疑問が残ります。
しかも不思議なのは、それほどの人物なのに、島の中心で目立って暮らしているわけではないことです。
店は森の奥にあり、ちいかわが偶然たどり着かなければ、その存在に気づかなかったかもしれないような場所にあります。
島民たちとも、普段から深く交流していたようには見えません。
だから私は、島二郎は島民たちを避けていたというより、
もともと誰かと群れることなく、海と島の自然の中で自分なりの暮らしを続けてきた存在
だったのではないかと感じました。
その暮らし方は、店で出している料理にも表れているように思います。
島二郎は自分で海へ潜って貝を採り、それを貝汁にして出しています。
とても素朴な料理ですが、島二郎にとっては、自分が暮らす海から得たものを自分で料理するという、生活そのものに近い一品なのかもしれません。
そして、もう一つ印象に残るのがカレーです。
かなり辛いカレーを作り、さらに強烈な唐辛子まで持っている。
ただ私は、
「セイレーンを倒すために、最初から激辛カレーを用意していた」
とは考えていません。
むしろ、島二郎が普段から作っていたものや持っていたものが、偶然セイレーンとの戦いで大きな力になった。
そのほうが『ちいかわ』らしいように感じます。
何でもない日常の中にあったものが、思いがけないところで誰かを助ける力になる。
島二郎のカレーも、そんな存在だったのではないでしょうか。
そして島二郎について考えていると、どうしても気になるのが、
海との結びつきがあまりにも強いこと
です。
髭をたくわえた大柄な姿。
海の近くで暮らし、自分で貝を採る。
水中でも高い身体能力を見せる。
海の変化にも非常に敏感で、セイレーンについてもよく知っている。
物語には、ギリシャ神話に登場する「セイレーン」という存在が出てきます。
そう考えると私は、島二郎にもどこか海の神様のようなイメージを感じました。
特に、髭を生やした大柄な姿や海との深い関係を見ると、ギリシャ神話の海神ポセイドンを連想したくなるところもあります。
ただ、私は「島二郎の正体はポセイドンだ」とまで断定する必要はないと思っています。
むしろ面白いのは、
島二郎が「普通の飲食店の店主」という説明だけでは、どうしても収まりきらない存在として描かれていること
です。
島民たちが恐れているセイレーンを前にしても、島二郎は必要以上に怯えません。
ただ力が強いだけでもありません。
セイレーンを起こさないように音でごまかしたり、仲間を先に逃がしたり、自分が危険な役割を引き受けたりする。
そこには、海に対する知識や経験だけでなく、誰かを守ろうとする優しさもあります。
私は島二郎を見ていると、
島民たちとは少し離れた場所で暮らしながら、実は誰よりもこの島と海のことをよく知っていた人物
だったのではないかと思えてきます。
そして、そんな島二郎が最後には島民たちと同じ「島のうた」の中にいる。
その変化も、島二郎という存在を考えるうえで印象的でした。
結局、島二郎が本当は何者なのかは分かりません。
「なぜあんなに強いのか」
「なぜ海のことをあれほど知っているのか」
「なぜ森の奥でひっそり店を続けていたのか」
その答えは、はっきりとは語られません。
海の神のようにも見える。
ただの、とてつもなく強くて優しい料理人のようにも見える。
そのどちらとも決めきれないまま、それでも物語の一番大変なところで現れ、ちいかわたちを助けてくれる。
そんな正体不明さも含めて、島二郎は『人魚の島のひみつ』の中でも、特に不思議で魅力的な存在だったように感じました。
ハチワレの歌で始まり、最後はちいかわ自身の歌へ
映画全体を振り返ると、最初にはハチワレが歌う「くつずれ」があり、最後にはちいかわ自身の歌へ戻っていきます。
私は、この「歌う側が変わる」ということも印象的でした。
最初はハチワレの歌に乗って外の世界へ向かう。
そして、いろいろなことを経験した最後は、ちいかわ自身の側へ戻ってくる。
つまり、
映画の入口は「みんなで行く冒険」なのに、出口は「ちいかわの心」
になっているようにも見えます。
島へ行く前のちいかわ。
島から帰るちいかわ。
見た目は変わりません。
でも、心の中には一つだけ大きな違いがあります。
秘密を知っている。
そして、その秘密を言わないという選択をした。
だから私は、この映画の本当の結末は、
「セイレーンを撃退しました」
ではなく、
「ちいかわが、答えの出ないものを一つ抱えて日常へ帰ってきた」
ことなのではないかと思いました。
エンドロール後、「わかった」という言葉が完全につながる
そして、この映画は最後の最後まで終わりません。
ヒトハとフタバは島を去ります。
別の場所へ行く。
これだけなら、
「二人は過去を背負いながら、新しい人生へ向かいました」
という結末にもできます。
でも、エンドロール後。
セイレーンは終わっていません。
ここで私は、もう一度、
「わかった」
を思い出しました。
この場面まで見ると、あの言葉の意味はさらに明確になります。
セイレーンは許したわけではない。
諦めたわけでもない。
犯人が誰なのか分かった。
だから島民全体を探す必要がなくなった。
そして今度は、ヒトハとフタバを追う。
つまりエンドロール後の場面は、
単なる「最後に怖い場面を入れた」のではなく、
途中に置かれていた「わかった」という言葉の意味を、最後に行動で見せる場面
にもなっているのだと思います。
そう考えると、「わかった」は伏線としてかなりきれいに回収されています。
最初には安心する言葉。
最後には、追跡の始まりを意味する言葉。
同じ言葉なのに、真実を知ったあとではまったく違って聞こえます。
振り返ると、すべてが「知る前」と「知ったあと」で変わっていた
こうして映画を最初から振り返ってみると、私は一つの共通点に気づきます。
「島のうた」は、最初は楽しい歓迎の歌だった。
でも「たすけて」が隠れているようにも見える。
「おーえす」は楽しい掛け声だった。
でもSOSにも聞こえる。
セイレーンは恐ろしい怪物だった。
でも人魚を失った側でもあった。
ヒトハとフタバは優しい島民だった。
でも大きな秘密を抱えていた。
「タンサン」は炭酸だと思った。
でも単三だった。
「わかった」は降参に聞こえた。
でも、本当は犯人の特定だった。
『今日の日はさようなら』は友情の歌だった。
でも「永遠に一緒にいる」ということの怖さまで重なってくる。
そして、最初の「島のうた」は最後には島二郎ver.へ変わる。
こうして並べてみると、この映画は何度も、
最初に一つの意味を見せておいて、あとからもう一つの意味を重ねる
作りになっています。
だから、一度観たあとでもう一度最初へ戻りたくなる。
真実を知らなかった自分と、真実を知った自分では、同じ映画を観ても違うものが見える。
私はこれこそが、『人魚の島のひみつ』の大きな魅力なのだと思います。
漫画から映画になって大きく加わったのは、「音」と「時間」
今回の映画を観て、私は漫画と映画の一番大きな違いは、単純に「絵が動くこと」ではないと感じました。
音と時間です。
漫画ではページをめくる速度を、自分で決められます。
怖ければすぐ次のページへ進める。
気になれば同じコマをずっと見られる。
でも映画では、作品側が時間を決めます。
セイレーンが近づく時間を待つ。
歌を最後まで聞く。
ちいかわが言葉を失っている時間を見る。
うさぎがちいかわを撫でている時間を見る。
その「時間」に、キャラクターの感情が生まれます。
そして音があるから、
同じ「島のうた」でも、島民とセイレーンではまったく違って聞こえる。
「おーえす」がSOSにも聞こえる。
島二郎の波の音を実際に聞くことができる。
人魚に関する恐ろしい場面も、映像だけでなく音によって想像が膨らむ。
つまり今回の映画化は、
原作に新しい答えを大量に加えたというより、
漫画の中にあった「行間」を、音と時間によって広げた
映画だったのではないでしょうか。
結局、誰が悪かったのだろう
最後まで観ても、私はこの問いにきれいな答えを出せません。
セイレーン。
ヒトハ。
フタバ。
島民たち。
誰か一人に全部の責任を押しつければ簡単です。
でも、それではこの物語を説明できません。
セイレーンには、人魚を奪われた悲しみがある。
でも、関係のない島民まで襲った。
ヒトハには、フタバを救いたいという理由がある。
でも、人魚を犠牲にした。
フタバにも、ヒトハと一緒にいたいという気持ちがある。
でも、その永遠は他の命の犠牲の上にある。
そして二人は秘密を隠し続けた。
どの人物にも事情があります。
でも、
事情があることと、責任がなくなることは同じではありません。
私は、この映画がそこをとても大切にしているように感じました。
「分かる」
ということと、
「正しい」
ということは違う。
相手を理解することは、その行動をすべて許すことではない。
でも、その行動だけを見て相手のすべてを悪だと決めることもできない。
その難しさがあるから、映画を観終わったあとまで考えてしまうのだと思います。
まとめ――『人魚の島のひみつ』を最後まで観て感じたこと
真実を知ると、同じものが違って見える――この映画の「ひみつ」とは
映画全体を振り返ってみると、私はこの物語には、
「真実を知る前と、知ったあとでは、同じものが違って見える」
という仕掛けが、何度も繰り返されていたように感じます。
最初に島へ着いたときに聞いた「島のうた」。
初めて聞いたときは、ちいかわたちを歓迎する明るい歌に聞こえました。
けれども歌詞を振り返ってみると、その中には「たすけて」と読めるような言葉が隠されているようにも見えます。
船を漕ぐときの楽しそうな「おーえす」という掛け声も、あとから考えると「SOS」のように聞こえてくる。
最初はただの「炭酸」だと思っていた言葉も、物語が進むと「単三」というまったく別の意味につながっていく。
セイレーンが言った「わかった」という言葉も、その瞬間には「もう攻撃をやめる」という意味のように受け取れます。
しかし、その後に真実を知ると、
「誰が人魚を食べたのか分かった」
という意味だったことが見えてきます。
そして「今日の日はさようなら」も、最初は友情を感じさせる歌として聞こえます。
けれども、ヒトハとフタバが「永遠に一緒にいる」ことになった理由を知ったあとでは、その言葉の響きまで少し違って感じられます。
ずっと一緒にいられることは、必ずしも幸せなことだけではない。
別れることができるからこそ、一緒にいられる時間が大切になることもある。
そんなことまで考えさせられました。
そして、最初に流れた楽しい「島のうた」も、最後には「島のうた(島二郎ver.)」へと変わっています。
事件が終わっても、すべてが最初と同じ状態へ戻るわけではない。
セイレーンとの関係が変わり、ヒトハとフタバは島を離れ、島二郎と島民たちの距離も変わった。
だから、島そのものは同じ場所にあっても、その島を表す歌は同じではなくなった。
こうして並べてみると、
「島のうた」
「おーえす」
「炭酸」
「わかった」
「今日の日はさようなら」
そして最後の「島二郎ver.」。
どれも最初に見たり聞いたりしたときと、真実を知ったあとでは意味が少しずつ変わっています。
私はこの構造が、とても面白いと思いました。
真実を知ると、それまで見ていたものまで違って見える。
だから私は、この映画のタイトルにある「ひみつ」とは、
「誰が人魚を食べたのか」
という謎だけを指しているのではないように感じます。
ヒトハとフタバも、最初は親切な島民に見えました。
セイレーンも、最初は島民たちを襲う恐ろしい怪物に見えました。
でも、それぞれの過去や理由を知ると、最初に見えていた姿だけでは説明できなくなります。
もちろん、事情が分かったからといって、したことがすべて正しくなるわけではありません。
それでも、
人も、出来事も、言葉も、一つの面だけを見ているだけでは、本当の姿は分からない。
見えていなかった事情を知った瞬間、それまで信じていた世界の形そのものが変わることがあります。
私は、それこそがこの映画に最後まで隠されていた、もう一つの「ひみつ」だったのではないかと思いました。
観ている最中は、ちいかわたちと一緒に島を冒険しながら、次に何が起きるのかを追っていきます。
けれども、物語の真相を知ったあとで最初の場面を振り返ってみると、それまで何気なく見ていた歌や言葉、小さな違和感まで、別の意味を持って見えてきます。
そして、そこまで知ってしまったとき、今度は物語の中の登場人物だけではなく、観ていた私たち自身にも問いが向けられているように感じます。
「では、自分だったらどうしただろう」
この物語を最後まで観た私たちに、『人魚の島のひみつ』は何を残し、どんなことを教えてくれたのでしょうか。
この映画が教えてくれたこと
『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』は、表面だけを見ると、とても分かりやすい冒険です。
怪しいチラシが来る。
島へ行く。
美味しいものを食べる。
怪物が現れる。
仲間が捕まる。
みんなで助ける。
そして帰る。
それだけを並べれば、とてもシンプルな物語です。
でも、その中で起きていたことは、決して単純ではありませんでした。
私はこの映画を観て、
世の中には、「正しいことをすれば全部解決する」とは限らない問題がある
ということを強く感じました。
ヒトハは、フタバを失いたくなかった。
瀕死のフタバを助けたいと思った。
その気持ちだけを見れば、大切な人を守りたいという、とても理解しやすいものです。
でも、そのために別の命を奪っていいわけではありません。
フタバもまた、永遠に一人になることを恐れ、ヒトハにも同じ不老不死を与えました。
「ずっと一緒にいたい」という気持ちは理解できます。
けれども、その選択によって起きたことまで消えるわけではありません。
一方で、セイレーンも大切な人魚を失いました。
怒ることも、犯人を探そうとすることも理解できます。
でも、その怒りによって、何も知らない島民たちまで傷つけていいわけではない。
つまり、この物語には、
「こちらが完全な善で、こちらが完全な悪」
と簡単に分けられる人がほとんどいません。
それぞれに理由がある。
それぞれに守りたいものがある。
でも、理由があることと、その行動が正しいことは同じではありません。
私は、この
「理解できること」と「正しいこと」は一致しない
という難しさが、この映画の中心にあるように感じました。
そして、その難しさを最後に一番強く背負うことになったのが、ちいかわだったのではないでしょうか。
ちいかわは真実を知ります。
誰が人魚を食べたのか。
なぜそんなことをしたのか。
そして、その結果として何が起きているのか。
でも、真実を知ったからといって、すぐに「これが正しい」と言えるわけではありませんでした。
私は、ちいかわが最後に言葉を失ったのは、弱かったからではないと思います。
むしろ、
世界が簡単ではないと知ってしまったから、簡単な答えを口にできなくなった。
そんな場面だったように感じます。
「本当のことを言うべきだ」
と考えることもできます。
でも、目の前にいるヒトハとフタバの事情まで知ってしまったちいかわには、それだけでは割り切れなかった。
だから、何かを言おうとしても言葉にならない。
そこに、私はちいかわの優しさだけではなく、真実を知ってしまった人の苦しさを感じました。
そして、そのあとにうさぎがちいかわを撫でます。
私は、この場面がとても好きです。
うさぎが事件の真相をすべて知っていたのかは分かりません。
ちいかわと同じところまで気づいていたのかも分かりません。
ただ、
ちいかわが何か重大なことを知り、自分で考えた末に何も言わないことを選んだ
ということだけは、何となく感じ取っていたのかもしれません。
だから、うさぎは問い詰めない。
「何があったの?」
とも聞かない。
「それで正しかったよ」
とも言わない。
ただ撫でる。
私はそこに、
「正解だったよ」と褒めているのではなく、「自分で考えて、そうすることを選んだんだな」と受け止めている
ようなものを感じました。
世界には、誰かから正解を教えてもらえない問題があります。
それでも、自分で考えなければならないことがあります。
そして、誰かが悩んだ末に出した答えを、すぐに「正しい」「間違っている」と決めつけるのではなく、まずその人が何を考えたのかを受け止めることもある。
もしかすると、うさぎのあの撫で方は、そんなことを言葉を使わずに表していたのかもしれません。
そして、この映画を観終わった私たちにも、同じ問いが残ります。
「自分だったらどうしただろう」
もし自分がヒトハだったら。
目の前で大切な人が死にかけていたとしたら。
もし自分がフタバだったら。
永遠に一人だけ生き続けなければならないと知ったとしたら。
もし自分がセイレーンだったら。
大切な存在を突然奪われたとしたら。
そして、もし自分がちいかわだったら。
すべての事情を知ったあとで、それでも真実を言うことができただろうか。
簡単には答えられません。
だからこそ私は、この映画が私たちに教えてくれたのは、
すぐに正解を出すことではなく、物事を一つの面だけで決めつけず、その人がなぜそうしたのかを知ろうとし、それでも自分ならどうするのかを考え続けることの大切さ
なのではないかと思います。
相手の事情を知ろうとする。
その気持ちを理解しようとする。
でも、理解できたからといって、すべてを許すわけではない。
誰かを傷つけたことや、選択によって生まれた責任までなくなるわけではありません。
相手の気持ちを理解することと、その行動を正しいと認めることは違う。
その二つを簡単に一つにしないこと。
私は、それもこの物語が残してくれた大切なことだと思います。
『ちいかわ』らしい、かわいくて、楽しくて、少し怖い冒険。
その中に、こんなにも簡単には答えの出ない問いが隠されていました。
だからこの映画は、物語が終わったところですべてが終わるのではなく、そのあとも観た人の中で続いていくのだと思います。
そして最後には、
「あなたなら、どうしただろう」
という問いを、そっと残していく。
答えを一つ教えてくれるのではなく、考えるきっかけを残してくれること。
それこそが、『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』が私たちに教えてくれた、いちばん大切なことなのかもしれません。


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