反対されたとき、考えはそこで終わるのでしょうか。
弁証法を、身近な対立からたどりながら、ヘーゲルの「止揚」「正・反・合」「存在・無・生成」まで、初めて学ぶ人にもわかる言葉で丁寧に解説します。
「どっちが正しい?」で終わらせない――対立から見えてくる、新しい問い
代表例
こんなとき、あなたならどう考えますか?
「自分では正しいと思ったのに、反対された。」
「相手の意見にも納得できる。でも、自分の考えも間違っているとは思えない。」
「二つの考えがぶつかったとき、どちらか一方を選ぶしかないの?」
たとえば、
「会議は短いほうがいい。」
でも、
「短すぎると、話せない人が出てくる。」
「自由は大切だ。」
でも、
「何をしても自由と言えるのだろうか。」
「みんな同じに扱うのが公平だ。」
でも、
「事情が違う人まで、まったく同じでいいのだろうか。」
一つの考えを真剣に考えるほど、「それだけでは説明できないこと」が見えてくる場合があります。
そんなときに知っておきたい哲学の言葉が、弁証法(べんしょうほう)です。
一つの考えの限界や対立に気づき、そこからさらに考えを進めていく。
今回は、この少し難しそうな言葉を、日常の疑問からたどります。
5秒でわかる答え
弁証法とは、一つの考えをそこで固定せず、その考えから現れる限界や対立を通して、より豊かな理解へ進んでいく考え方です。
小学生にもわかるように説明すると
友達と遊ぶ場所を決めるとします。
あなたは、
「外で遊びたい!」
でも友達は、
「雨が降りそうだから、家の中がいいよ」
と言いました。
ここで「どっちが正しい?」だけなら、外か家かの二択です。
でも、少し考えてみます。
あなたは「体を動かしたい」。
友達は「雨にぬれたくない」。
それなら、
「雨にぬれずに、体を動かせる場所はないかな?」
と考えられます。
体育館や室内の遊び場が見つかるかもしれません。
大切なのは、二つの意見を半分ずつ混ぜたことではありません。
「なぜ意見がぶつかったのか」を考えたことで、最初にはなかった見方が生まれたことです。
弁証法を学ぶ入口では、
「反対された。終わり」ではなく、「どうして反対が生まれたんだろう?」
と、もう一度考えてみてください。
- 代表例
- 5秒でわかる答え
- 小学生にもわかるように説明すると
- 1.この記事では「弁証法って結局何?」を日常から考えます
- 2.疑問が生まれた物語
- 3.すぐにわかる結論
- 4.そもそも「弁証法」とは何なのか
- 5.ヘーゲルとはどんな人?
- 6.ヘーゲルの弁証法は、どのように考えが進むのか
- 7.アウフヘーベン(止揚)とは何なのか
- 8.「正・反・合」とヘーゲルの弁証法は、どんな関係なのか
- 9.ヘーゲルは歴史をどう考えたのか
- 10.弁証法からヒントを得て、日常の対立を考えてみる
- 11.弁証法を日常で考えるときに大切なこと
- 12.おまけコラム
- 13.応用編
- 14.さらに学びたい人へ
- 15.まとめ・考察
- 16.疑問が解決した物語
- 17.文章の締めとして
1.この記事では「弁証法って結局何?」を日常から考えます
「弁証法」と聞いて、
「正・反・合(せい・はん・ごう)って何?」
「アウフヘーベン、止揚(しよう)ってどういう意味?」
「反対意見を混ぜることが弁証法なの?」
と疑問を持つ人もいるでしょう。
もっと身近には、
「意見がぶつかったら、どう考えればいい?」
「自分の考えが否定されたら、捨てるしかない?」
「どちらにも一理あるときはどうする?」
という疑問から、この言葉にたどり着くこともあります。
この記事では、まず弁証法の基本をやさしく理解し、そのあとで、なぜそのように考えるのかを詳しく見ていきます。
後半では、ドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル、Aufheben(アウフヘーベン。「否定しながら保存する」という意味を含む重要な考え)、そして「正・反・合」と弁証法の関係も順番に確認します。
最初から難しい言葉を覚える必要はありません。
まずは、「一つの答えだけではうまく説明できなくなったとき、そこで考えるのをやめない」という入口をつかんでください。
2.疑問が生まれた物語
「どっちが正しい?」では解決しなかった
会社員のアオイは、職場の長い会議に困っていました。
30分の予定なのに、気づけば1時間。
そこでアオイは提案します。
「会議は20分までにしませんか? 時間を決めたほうが、みんな仕事に集中できると思います」
自分では、いい案だと思っていました。
ところが同僚のナオが言います。
「短くするのはいいと思う。でも、20分で終わらせることを優先したら、すぐに話せない人は意見を出せなくならないかな?」
アオイは少しムッとしました。
みんなの時間を守りたくて考えたのに。
でも帰り道、ナオの言葉が気になります。
「短い会議がいい。」
それは今でも正しいと思う。
でも、
「みんなが意見を言えることも大切だ。」
それも間違いとは思えない。
では、20分と60分の間を取って40分なら解決でしょうか。
アオイは、それも違う気がしました。
そこで初めて、
「そもそも、いい会議って何だろう?」
と思います。
短いこと?
全員が話せること?
必要なことが決まること?
考えているうちに、アオイは気づきます。
反対されて答えがわからなくなったのに、反対される前より問題を深く考えている。
「反対されることで、考えが進むことってあるのかな?」
調べていると、一つの言葉が目に入りました。
弁証法。
「難しそう。でも、今日のことと関係があるのかな?」
アオイは、その言葉を調べてみることにしました。
3.すぐにわかる結論
弁証法でまず知っておきたいこと
ここまでの疑問に、いったん答えを出しましょう。
弁証法で大切なのは、一つの考えを完成した答えとして固定せず、その考えを考え抜いたときに見えてくる限界や対立から、さらに理解を進めていくことです。
ヘーゲルの弁証法では、ある考えをはっきり捉え、それを考えていく中で一面的なところや限界が現れ、そこから次の理解へ進むという運動が重視されます。ヘーゲル自身も『哲学諸学の百科全書』で、固定された規定が、その有限性によって自らを越えていく「弁証法的」な契機を説明しています。
哲学研究者によって執筆・編集されるオンライン哲学事典 Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー、日本語では「スタンフォード哲学百科事典」) でも、ヘーゲルの弁証法では、最初の考えが持つ一面性や限界が次の段階への動きにつながることが説明されています。
だから最初は、
「AとBを混ぜれば、もっといいCになる」
と覚えるより、
「いまの考えだけでは足りないところはどこだろう?」
と考える方が、本質に近づけます。
アオイも「20分か60分か」から、
「そもそも、よい会議とは何のためにあるのか」
という問いへ進みました。
弁証法は、自分の答えの限界から、次の問いを見つけていくための考え方です。
ここまでわかれば、まずは十分です。
第4章からは、このやさしい理解を土台に、「弁証法」という言葉の意味、ヘーゲルの考え、そしてAufheben(アウフヘーベン)――日本語で「止揚(しよう)」を、もう少し詳しく見ていきます。
4.そもそも「弁証法」とは何なのか
ここまで、日常の例から「弁証法」の入口を見てきました。
では、あらためて考えてみましょう。
弁証法とは、結局何なのでしょうか。
まず、最初に覚えておきたい答えがあります。
「弁証法」は、哲学の歴史の中で、ずっと同じ意味で使われてきた言葉ではありません。誰の弁証法について話しているのかによって、その意味や使い方が違います。
英語では dialectic(ダイアレクティック、「弁証法」)、ドイツ語では Dialektik(ディアレクティーク、「弁証法」)と呼ばれます。
弁証法には古代ギリシャまでさかのぼる長い歴史があり、ヘーゲルが初めて作った考え方ではありません。古代ギリシャのプラトンにも弁証法があり、その後のカントにも弁証法があり、ヘーゲルにも弁証法があります。しかし、三人がまったく同じことを「弁証法」と呼んでいるわけではありません。
では、何が違うのでしょうか。
この記事では、
プラトンでは「問いを使って考えを試す」
カントでは「理性が生み出す間違いを、論証を比較して見つける」
ヘーゲルでは「一つの考えそのものを突き詰め、そこから現れる限界や対立を通して理解を進める」
という違いから見ていきます。
ただし、これは三人の哲学のすべてを一言で説明したものではありません。
まず全体の違いをつかむための入口です。
最初は、プラトンです。
プラトン(Plato/紀元前429年ごろ~紀元前347年)は、古代ギリシャのアテナイで活動した哲学者です。日本で元号が使われ始めるよりも、はるかに前の人物です。
ソクラテスの弟子として知られ、多くの著作を、人と人が話し合う「対話篇(たいわへん)」という形で残しました。現在でも、西洋哲学の歴史で特に大きな影響を与えた哲学者の一人とされています。
では、
プラトンの弁証法では、何をするのでしょうか。
プラトンの対話篇、とくに初期の作品に登場するソクラテスは、相手が出した答えに質問を重ねていきます。
たとえば、ある人が、
「勇気とは、怖がらないことだ」
と答えたとします。
そこでソクラテスが、
「では、危険だと知らないから怖がらない人も、勇気があると言えるのだろうか」
と質問する。
さらに、
「怖いと感じていても、人を助けるために行動した人には勇気がないのだろうか」
と考えてみる。
すると、
「勇気=怖がらないこと」
という最初の答えだけでは、すべての場合を説明できないことが見えてきます。
そこで、
「それなら、勇気とは本当は何なのだろう」
と答えを考え直します。
このように、相手が最初に出した考えを質問によって調べ、その考えと、相手自身が認めるほかの考えとの間に矛盾がないかを確かめる方法は、el enchus(エレンコス、「吟味・反駁」)と呼ばれます。
ここでいう「反駁」とは、ただ相手を言い負かすという意味ではありません。
相手が出した答えが本当に成り立つのかを、その人自身が認める別の考えや具体例と照らし合わせて試すことです。
専門的な資料である Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー、日本語では「スタンフォード哲学百科事典」)でも、ソクラテスのエレンコスでは、相手の最初の主張から質問を始め、その人が認める別の前提を引き出し、最初の主張と両立するかを確かめる方法が説明されています。この事典は、各分野の専門家が執筆し、専門の編集者による審査を経て公開・更新されている、スタンフォード大学哲学部の学術的なオンライン哲学事典です。
では、
これは、どうやって考えを確かめる方法なのでしょうか。
大切なのは、
「自分の答えに合う証拠をたくさん探す」
ことではありません。
たとえば、
「勇気とは怖がらないことだ」
という自分の考えが正しいと思いたいから、
「怖がらずに行動した勇敢な人」をたくさん集める。
これだけでは、自分の最初の考えを守る材料を集めているだけです。
プラトンの初期対話篇に見られるソクラテス的な検討では、むしろ、
「この答えでは説明できない場合はないだろうか」
「自分がほかに正しいと思っていることと矛盾しないだろうか」
と、自分の答えにとって都合の悪い場合まで確かめます。
この、
最初の答えを出す
→質問をする
→その答えでは説明できない例や矛盾がないか確かめる
→問題があれば答えを修正する
という問いと答えのやり取りそのものが、考えを確かめる方法なのです。
したがって、
プラトンの対話から弁証法を理解する入口は、「自分の考えが本当に成り立つのかを、問いによって試し、必要なら考え直すこと」です。
ただし、ここも注意が必要です。
プラトンの弁証法のすべてが、このエレンコスだけで説明できるわけではありません。
プラトンの哲学では、後の作品になると弁証法はさらに広い役割を持つようになります。
ここではまず、
「自分の答えを守るために質問する」のではなく、「自分の答えそのものが本当に成り立つかを試す」
というところを入口として覚えてください。
では次に、
カントにとって弁証法とは何だったのでしょうか。
イマヌエル・カント(Immanuel Kant/1724年〈享保9年〉~1804年〈文化元年〉)は、現在のドイツにあたる地域で活動した哲学者です。
カントが大きな問題として考えたことの一つが、
「人間は、何を、どこまで『事実として知っている』と言えるのだろうか」
という問題でした。
ここでいう「知る」は、
「どれくらい勉強できるのか」
「どれくらいたくさん覚えられるのか」
という学習能力の話ではありません。
そうではなく、
「どのようなことなら、十分な根拠を持って『これは事実として知っている』と言えて、どこから先は、考えることはできても『知っている』とは言えないのか」
を問題にしています。
カントは、この問題を1781年(天明元年)に初版、1787年(天明7年)に第2版を刊行した『純粋理性批判(じゅんすいりせいひはん)』で詳しく検討しました。
『純粋理性批判』は、人間が経験から独立して使う思考について、何が可能で何が不可能なのかを調べようとした哲学書です。
ここで「批判」という言葉にも注意してください。
日常でいう、
「相手の悪いところを指摘する」という意味ではありません。
カントが行おうとした「批判」は、
人間の考え方について、「何なら正しく知識を得るために使えるのか」「どこまで使うと、確かめられないことまで知ったつもりになってしまうのか」を点検することです。
つまり、
「理性はだめだ」
と否定するための本ではありません。
理性を正しく使うには、その理性に何ができて、何ができないのかをまず調べなければならない
と考えたのです。
では、
カントは、それをどのような方法で調べたのでしょうか。
ここがとても重要です。
カントは、この問題について科学的な実験をしたわけではありません。
人を集めてアンケートをしたわけでも、望遠鏡で宇宙を観察したわけでもありません。
カントが行ったのは、考えを論理的に組み立て、その論証同士を比較し、それぞれがどのような前提に立っているのかを点検する哲学的な方法です。
「頭の中でなんとなく想像した」という意味でもありません。
ある前提を置いたら、そこからどのような結論が導かれるのかを一つずつ確かめる。
そして、反対側の主張についても同じように論証する。
さらに、その二つを比べて、
「なぜ正反対の答えが、どちらも正しそうに見えるのか」
を調べる。
この論証と前提の点検そのものが、カントにとって問題を検討する方法なのです。
実際の例を見てみましょう。
カントは、
「世界には、時間的な始まりがあるのだろうか」という問題を取り上げました。
まず、
「世界には始まりがある」
という側から論証します。
もし世界に始まりがなく、過去がどこまでも無限に続いていたとすると、現在に至るまでに無限の時間がすでに経過したことになります。
そこから、
「それでは現在まで到達できないのではないか。だから世界には始まりがあるのではないか」
という論証を組み立てます。
ところがカントは、そこで終わりません。
今度は、
「世界には始まりがない」
という反対側についても論証します。
もし世界に最初の瞬間があったなら、その前には世界が存在しない空白の時間があったことになります。
しかし、何も変化していない空白の時間の中では、
「なぜ別の瞬間ではなく、その瞬間に世界が始まったのか」
を説明する違いがありません。
そこから今度は、
「世界には時間的な始まりはないのではないか」
という反対の論証も成り立つように見えます。
つまり、
「世界には始まりがある」
「世界には始まりがない」
という正反対の主張について、どちらにも理屈を組み立てることができてしまったのです。
このように、反対する主張がどちらも理屈として成り立つように見える対立を、カントは Antinomie(アンティノミー、日本語では「二律背反〈にりつはいはん〉」)と呼びました。カントの二律背反では、世界全体について客観的な知識を得ようとすると、正反対の結論へ進んでしまう問題が扱われています。
では、ここでカントは、
「二つとも正しそうだから、好きな方を選ぼう」
としたのでしょうか。
そうではありません。
また、
「理屈なんて信用できない」
とあきらめたのでもありません。
カントが次にしたことは、
「どうして、正反対の二つの答えが、どちらも証明できるように見えてしまったのだろう」
と、二つの論証に共通する前提を調べることでした。
これも、カントの検討方法の一部です。
つまり、
反対する二つの論証を作ることが準備で、そのあと別の調査をしたのではありません。
二つの論証を実際に組み立て、
比較し、
どこに共通する前提があるのかを探し、
その前提が本当に使えるのかを点検する。
この一連の作業そのものが、カントが哲学的に問題を調べた方法です。
そしてカントは、少なくとも「世界には始まりがあるのか」といった第一の二律背反について、
二つの主張が共通して、
「世界全体を、私たちが経験できる一つの物と同じように考え、その全体について答えを出せる」
かのように扱っていることに問題があると考えました。
私たちは、
「今日の前には昨日があった」
「この出来事の前には、別の出来事があった」
というように、経験する世界の中で出来事を調べることはできます。
しかし、
過去・現在・未来をすべて含む「世界全体」を、机や石のように一つの完成した物として目の前に出して確認することはできません。
それなのに、
経験の中で使える考え方をそのまま使って、
「世界全体には絶対に始まりがある」
あるいは、
「世界全体には絶対に始まりがない」
と、経験を越えた世界全体について知識を得ようとする。
カントは、そこに問題があると考えました。
これは、
「世界について考えるな」
という意味ではありません。
考えることができることと、十分な根拠を持って「事実として知っている」と言えることは同じではない
ということです。
たとえば、
「宇宙のすべてを生み出した最初の原因は何だろう」
と考えることはできます。
しかし、
考えられるからといって、
「私はその答えを事実として知っている」
とは限りません。
カントは、この二つを区別しようとしました。
では、
カントにとって「弁証法」は、結局何だったのでしょうか。
ここでは次のように理解するとわかりやすいでしょう。
カントの弁証法とは、人間の理性が経験を越えたことまで知識として答えようとしたとき、どうしてもっともらしい間違いや矛盾が生まれるのかを、実際の論証とその前提を点検することで明らかにすることです。
「人間の理性は間違っている」と批判したのではありません。
カントが問題にしたのは、
人間の理性で考えられることなら、何でもそのまま事実として知ることができると思ってしまうことです。
そして、
「世界には始まりがある」
「世界には始まりがない」
というような反対の論証を実際に比べることで、
人間の理性には、問いを作ることはできても、その問いについて理論的な知識として答えられるとは限らない場合がある
ことを示そうとしました。
カントは、魂、世界全体、神などについて人間が考えること自体を、すべて無意味だとしたわけでもありません。
大切なのは、
「考えられる」ことと「事実として知っている」を混同しないこと
なのです。
そして、このカントより後に登場したのが、
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel/1770年〈明和7年〉~1831年〈天保2年〉)
です。
ヘーゲルはドイツの哲学者で、カント以後の「ドイツ観念論」と呼ばれる哲学の流れを代表する人物の一人です。
思考だけでなく、自然、人間、社会、歴史などを、一つのつながった哲学の体系として説明しようとしました。
では、
ヘーゲルにとって弁証法とは何だったのでしょうか。
まず答えを示します。
ヘーゲルの弁証法では、一つの考えや概念を「これで完成した答えだ」と固定せず、その考えを最後まで突き詰めたときに、その考え自身から現れる足りないところや対立を通して、より多くのことを含んだ理解へ進んでいきます。
ここで、
「反対意見を探してきて、二つを比べることなのかな」
と思うかもしれません。
しかし、そこがカントや普通の討論とも違う重要なところです。
ヘーゲルでは、外から反対意見を持ってきてぶつけることが中心なのではありません。
最初の考えそのものを、意味するところまできちんと考える。
すると、
「この考えだけでは、ここを説明できない」
「この考えをそのまま押し進めると、別の内容が必要になる」
という問題が、その考えの中から現れてくる。
その変化を追っていくのです。
では、
ヘーゲルは、それをどのような方法で行ったのでしょうか。
ここでも、科学実験をしたわけではありません。
アンケートや統計調査でもありません。
また、
「頭の中で好きなように新しい考えを思いつく」
という方法でもありません。
ヘーゲルが行おうとしたのは、一つの概念をはっきり定め、その概念が本当にその意味だけで成り立つのかを徹底して考え、そこから必然的に現れる問題や対立を追っていく哲学的な検討です。
ヘーゲルは1817年(文化14年)に初版を刊行し、1827年(文政10年)、1830年(天保元年)に改訂した『哲学諸学の百科全書(てつがくしょがくのひゃっかぜんしょ)』で、自分の哲学体系をまとめました。
この本は、一般的な百科事典のように言葉の意味を並べた本ではありません。
論理、自然、人間の精神や社会などがどのようにつながっているのかを、一つの哲学体系として示そうとした本です。その第一部の論理学で、ヘーゲルは弁証法的な動きを詳しく説明しています。
ヘーゲルは、論理的なものには三つの「契機(けいき)」があると説明しました。
「契機」という言葉も、そのままでは意味がわかりにくいですね。
ここでいう契機は、
一つの考えが別の理解へ動いていくときに、その動きの中で働く大切な面
くらいに考えてください。
単純に、
「第1段階が終わったら、第2段階へ進む」
という時間順の三つの箱ではありません。
一つの概念を考える中に現れる三つの面です。
まず、
「これはこういうものだ」
と、あるものを一定の意味に決めて捉えます。
しかし、その意味を固定したまま考え続けると、
「この説明だけでは、すべてを説明できない」
という一面的なところや限界が現れます。
そこで、その問題をただ捨てるのではなく、
最初の考えのどこが足りなかったのかを含んだ、新しい理解へ進んでいく。
ヘーゲルの弁証法では、この変化が外から勝手に持ち込まれるのではなく、最初の考えの内容そのものを考え抜くことから生じるという点が重要です。
少し身近な例で考えてみましょう。
「自由とは、自分の好きなことができることだ」
と考えたとします。
これは、一見するとわかりやすい答えです。
しかし、この答えをそのまま最後まで使うと、
「自分が好きなように行動した結果、ほかの人が自由に行動できなくなった場合はどうなるの?」
という問題が出てきます。
ここで重要なのは、
誰かが外から、
「あなたの意見には反対です」
と言ったから問題が生まれたのではありません。
「自由とは好きなことができることだ」という最初の説明そのものを最後まで考えたことで、その説明だけでは自由を十分に説明できないことが見えてきた
ということです。
すると、
「自由とは、好き勝手に行動できることだけではないのかもしれない」
と、自由についての考えそのものを見直す必要が出てきます。
ただし、この「自由」の例は、ここでヘーゲルの弁証法をイメージしやすくするための記事上の例です。
ヘーゲル本人が、この文章のまま「自由とは好きなことをすること」という例から弁証法を説明した、という意味ではありません。
具体例と、本人が実際に書いた議論は区別しておきましょう。
前半に登場したアオイの会議の例も同じです。
「会議は20分にしたい」
という考えがある。
それに対して、
「それでは発言するのに時間がかかる人が話せない」
という問題が出てきた。
そこで、
「20分と60分の真ん中だから40分にしよう」
とするだけなら、単に時間の中間を取っただけです。
弁証法を理解するために重要なのは、
「なぜ20分と60分という対立が生まれたのだろう」
と考えることです。
20分を求めた理由には、
「無駄な会議を減らしたい」
という目的があった。
60分を必要とした人には、
「全員が考えを話せるようにしたい」
という目的があった。
そうすると、
「20分か60分か」
という最初の問いだけでは、
「よい会議とは何か」
という本当の問題を十分に捉えられていなかったことが見えてきます。
だから問いそのものを深める。
これは、
二つの意見を混ぜたから新しい答えができたということではありません。
対立が現れたことで、
最初の考えでは何が見えていなかったのかがわかり、問題そのものをより深く捉え直せるようになったという例です。
そして、この会議の話も、ヘーゲル本人が使った例ではありません。
ヘーゲルの考え方を日常で理解するための記事上の例です。
ここでも、特に誤解しないでほしいところがあります。
ヘーゲルの弁証法は、「Aという意見と反対のBという意見を混ぜれば、より正しいCができる」という単純な方法ではありません。
よく知られている、
「正・反・合」
「テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ」
という説明だけでヘーゲルの弁証法そのものを理解するのも正確ではありません。
ヘーゲル自身が、自分の弁証法全体をその三語の公式として提示したわけではないからです。ヘーゲル自身の説明では、『哲学諸学の百科全書』の論理学で、固定された理解、そこに現れる否定的・弁証法的な面、そしてそれらを含んで捉える思弁的な面という三つの「契機」が説明されています。
ですから、
「反対意見が出た」
だけでも弁証法ではありません。
「二つを混ぜた」
だけでも弁証法ではありません。
最初の考えをきちんと考え抜いたことで、その考え自身では説明できないところが現れ、そこから最初よりも内容の豊かな理解へ進んでいく。
ここが、ヘーゲルの弁証法を理解するための重要な入口です。
ここまでを整理しましょう。
プラトンの対話から弁証法を理解する入口では、
問いと答えを通して、最初の考えが本当に成り立つのかを試します。
自分に都合のよい証拠だけを集めることではありません。
その答えでは説明できない例や、自分のほかの考えとの矛盾まで確かめます。
カントの弁証法では、
人間が、経験を越えたことについて理性だけで知識を得ようとしたとき、なぜもっともらしい矛盾や間違いが生まれるのかを調べます。
そして、その調べ方は科学実験ではありません。
反対する論証を実際に組み立てて比較し、両方に共通している前提を点検すること自体が、哲学的な検討方法です。
その結果カントは、
「考えることができること」と「根拠を持って事実として知っていると言えること」を同じものとして扱ってはいけない
と考えました。
そしてヘーゲルでは、
一つの考えを固定された答えにせず、その考え自身を考え抜いたときに現れる限界や対立を追い、その内容を含んだ、より豊かな理解へ進みます。
外から反対意見を持ってきて戦わせることでも、
二つの意見の真ん中を取ることでもありません。
最初の考えそのものの中から、「このままでは足りない」とわかる理由を見つけ、そこから次の理解へ進むこと
が重要なのです。
つまり、
同じ「弁証法」という言葉でも、誰がその言葉を使っているのかによって、何を問題にし、何を方法として使い、何を明らかにしようとしているのかが違います。
だから、
「弁証法とは○○です」
という一文だけを覚えるのではなく、
「誰の弁証法で、何をするための方法なのか」
まで確認することが大切です。
そして、この記事でこの先さらに詳しく見ていくのは、
ヘーゲルの弁証法です。
では、ヘーゲルの弁証法で、
最初の考えに「これだけでは足りない」とわかったとき、
その最初の考えは全部捨てられてしまうのでしょうか。
答えは、
全部捨てるわけではありません。
ヘーゲルでは、前の考えの足りなかったところを乗り越えながらも、その考えの中にあった内容まで、すべて無意味なものとして消してしまうわけではありません。
前の考えをそのまま残すのでもなく、全部捨てるのでもなく、限界を乗り越えながら、その中にあった内容を次の理解の中へ残していく。
この独特の動きを理解するために重要になる言葉が、
Aufheben(アウフヘーベン。日本語では「止揚〈しよう〉」)です。
Aufheben には、ドイツ語で「取り消す・なくす」という意味と、「保存する・取っておく」という意味があります。
ヘーゲルはこの二つの意味を重ねて、前の考えの限界は乗り越えながらも、そこに含まれていた内容は次の理解の中に残していく動きを表しました。
ただし、
「止揚=二つの考えをいい感じに混ぜること」
と覚えてしまうと、ここでも意味がずれてしまいます。
では、
何が否定されるのか。
何が残るのか。
そして、なぜそれによって新しい理解へ進めるのか。
ここまでで、ヘーゲルの弁証法がどのような考え方なのか、その入口が見えてきました。
では、そもそもヘーゲルはどんな人物で、なぜこのような弁証法を深く考えるようになったのでしょうか。
ヘーゲルは、何もないところから突然この考え方を作ったわけではありません。彼自身が生きた時代や、カントをはじめとする先行する哲学者たちが残した問題と深く関係しています。
次の章では、弁証法の仕組みをさらに詳しく見る前に、
「ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルとは、どんな哲学者だったのか」
を見ていきましょう。
どんな時代に生き、何を問題として考え、どのような流れの中で自分の哲学を形づくっていったのか。
そこがわかると、なぜヘーゲルの弁証法をこれから詳しく学ぶのかも、より理解しやすくなります。
5.ヘーゲルとはどんな人?
なぜ弁証法を深く考えるようになったのか
前の章では、プラトン、カント、ヘーゲルを比べながら、「弁証法」という言葉が哲学者によって同じ意味ではないことを見てきました。
そしてヘーゲルでは、
一つの考えを固定された答えとして終わらせず、その考え自身を考え抜いたときに現れる限界や対立から、さらに理解を進めていく
ことが重要でした。
では、なぜヘーゲルはこのような哲学を考えるようになったのでしょうか。
その答えを知るために、まずヘーゲルという人物を見てみましょう。
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel)は、1770年(明和7年)8月27日にシュトゥットガルトで生まれ、1831年(天保2年)11月14日にベルリンで亡くなったドイツの哲学者です。
1818年(文政元年)から亡くなるまでベルリン大学で哲学を教え、のちには大学の学長も務めました。生年月日やベルリン大学での経歴は、現在のフンボルト大学ベルリンの資料でも確認できます。
ヘーゲルは、カントより後に発展した「ドイツ観念論(かんねんろん)」と呼ばれる哲学の流れを代表する人物の一人です。
難しい名前ですが、ここでは、
カントが残した「人間は世界をどのように知るのか」「人間の考え方と世界はどのような関係にあるのか」といった問題を受け継ぎ、さらに一つのまとまった哲学として説明しようとした流れ
と考えるとわかりやすいでしょう。
この流れには、ヘーゲルだけでなく、
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte/1762年〈宝暦12年〉~1814年〈文化11年〉)
や、
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨーゼフ・シェリング(Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling/1775年〈安永4年〉~1854年〈嘉永7年〉)
などもいます。
ヘーゲルは、こうした哲学者たちの考えをそのまま受け入れたのではなく、何が説明できて、どこに問題が残るのかを考えながら、自分自身の哲学を形づくっていきました。
では、ヘーゲルは結局、何を説明しようとした人なのでしょうか。
ヘーゲルが扱ったのは、弁証法だけではありません。
人間が物事を考える仕組み。
自然。
人間の意識。
社会や政治。
歴史。
芸術。
宗教。
哲学そのもの。
ヘーゲルは、こうしたものを完全に別々の問題として終わらせず、
「それぞれはどのようにつながっているのか」まで含めて、一つの哲学の体系として説明しようとしました。
ここでいう「体系」とは、
「ヘーゲルは世界中のことを全部知っていた」
という意味ではありません。
そうではなく、
論理について考えること、自然について考えること、人間や社会について考えることを、互いに無関係な話として切り離さず、その関係まで説明しようとした
ということです。
しかし、若いころから完成した体系や弁証法を持っていたわけではありません。
ヘーゲルは1788年(天明8年)から1793年(寛政5年)までテュービンゲンで哲学や神学を学び、その後は宗教や社会についての問題を多く考えていました。
1800年(寛政12年)ごろから、カントが始め、フィヒテなどが発展させた哲学上の問題へ、より本格的に取り組むようになります。
そして1801年(享和元年)には、当時哲学研究の重要な場所だったイェーナへ移り、シェリングと共同で研究や雑誌編集を行いました。同じ年には、フィヒテとシェリングの哲学を比較した著作も発表しています。
ここからわかることがあります。
ヘーゲルは、ある日突然「弁証法」を思いついたのではありません。
カントが示した理性と矛盾の問題。
フィヒテがカントの哲学をさらに体系化しようとした試み。
シェリングが自然と精神などの関係を説明しようとした哲学。
そうした先行する問題と向き合いながら、ヘーゲル自身の考え方が少しずつ形づくられていったのです。ヘーゲルの弁証法についての専門的な研究でも、カントやフィヒテからの影響と、そこからヘーゲルが独自に展開した点が区別されています。
その変化が大きく表れる著作の一つが、1807年(文化4年)に出版された『精神現象学(せいしんげんしょうがく)』です。
この本では、人間の意識が、
「自分はこうやって物事を知っている」
という一つの理解から出発し、その理解では説明できない経験に出会い、その結果として別の理解へ進んでいく過程が描かれます。
つまり、最初から完成した答えだけを並べる本ではありません。
ある理解が、自分自身の基準ではうまく成り立たなくなり、その経験を通して次の理解へ進んでいく。
この動きが、本そのものの進み方にも深く関係しています。
その後、ヘーゲルは1812年(文化9年)、1813年(文化10年)、1816年(文化13年)に『論理学(ろんりがく)』を刊行しました。
ここでいう「論理学」は、
「正しい推理のルールだけを学ぶ本」ではありません。
「存在とは何か」
「本質とは何か」
「概念とは何か」
といった、私たちが物事を考えるときの基本的な考えが、互いにどのようにつながり、次の考えへ進んでいくのかを扱っています。
さらに1817年(文化14年)の『哲学諸学の百科全書』では、自分の哲学体系を大きく「論理」「自然」「精神」というつながりでまとめました。
だからヘーゲルにとって弁証法は、
人と意見がぶつかったときだけに使う話し合いの技術ではありません。
物事や概念をどのように理解し、その理解がなぜ変化していくのかという、ヘーゲルの哲学全体に関係する重要な考え方なのです。
では、そのヘーゲル自身は、
考えが進んでいく動きを、どのように説明したのでしょうか。
6.ヘーゲルの弁証法は、どのように考えが進むのか
まず、答えから見てみましょう。
ヘーゲルは『哲学諸学の百科全書』の論理学で、
論理的なものには、「悟性的・抽象的」「弁証法的・否定的理性的」「思弁的・肯定的理性的」という三つの側面、つまり「契機」がある
と説明しています。
「契機」という言葉は、前の章でも出てきました。
ここでは、
一つの考えが動いていくとき、その動きの中で働いている大切な面
という意味です。
ヘーゲル自身も、これらを単純に切り離された三つの部分として扱っているわけではありません。
そのため、
「第1段階を終えたら、第2段階へ進み、そのあと必ず第3段階へ行く」
という機械的な三段階だと思わないことが大切です。
では、この三つの「契機」がそれぞれ何を意味しているのか見てみましょう。
ここでいう三つは、単純な時間順の「第1段階・第2段階・第3段階」ではありません。
第一の側面は、「悟性的・抽象的な側面」です。
これは、物事を、
「これはこういうものだ」
と、一定の意味としてはっきり捉える働きです。
たとえば、
「自由とは○○である」
「正義とは○○である」
と、まず意味を区切って考えます。
「抽象的」と言われると、悪いことのように聞こえるかもしれません。
しかしヘーゲルは、この働きそのものを不要だとは考えていません。
何かについて考えるには、
まず「これは何なのか」を、ある程度はっきり決めなければ、考え始めることすらできないからです。
実際、『哲学諸学の百科全書』でも、物事を明確に区別する悟性の働きには、理論でも実践でも必要な役割があると説明されています。
第二の側面が、「弁証法的・否定的理性的な側面」です。
第一の側面で決めた意味を、そのまま固定して終わらせず、さらに考えていきます。
すると、
「この説明だけでは、その考えを最後まで成り立たせることができない」
という一面性や限界が現れることがあります。
ここで重要なのは、
誰かが外から反対意見を持ってきたから問題が起こるのではない
というところです。
その考え自身の内容を追っていった結果として、
「このままでは足りない」
とわかるのです。
ヘーゲルは、有限な考え方の限界は外から勝手に付け加えられるのではなく、その考え自身の内容を追っていく中で現れると説明しています。
第三の側面が、「思弁的・肯定的理性的な側面」です。
ここでは、第二の側面で現れた対立や限界を、
「どちらか一方を消せば終わり」
と考えません。
それまでの対立がどのような関係にあり、そこからどんな新しい内容が現れるのかまで含めて、より具体的な理解として捉えます。
ここでいう「思弁的」は、
「証拠もなく想像する」という日常語の意味ではありません。
対立して見えた内容を、その関係まで含めて捉え、その否定から何が新しく成り立つのかを見ること
です。
つまり、この三つは、
「第一を終えたら第二、第二を終えたら第三」
という機械的な手順ではありません。
一つの考えをはっきり捉え、その限界が現れ、その限界を含んだより具体的な理解へ進むときに見られる三つの側面です。
ヘーゲル自身も、弁証法の結果は「何も残らない否定」ではなく、それまでの内容を含んだ肯定的な結果になると説明しています。
少し抽象的なので、ヘーゲル自身の論理学で特に有名な例を見てみましょう。
それが、
「存在」「無」「生成」
です。
ここでは、この三つがそれぞれ何を意味し、なぜ次の概念へつながっていくのかを順番に見ていきます。
「存在」とは、「ただ、ある」とだけ考えた状態です。
ここでいう「存在」は、
「机がある」
「人がいる」
のような、何か具体的な物が存在しているという意味ではありません。
色も形も場所も、大きさも性質も、何も決めず、
ただ「ある」ということだけを考えたもの
です。
ヘーゲルはこれを「純粋な存在」として考えます。
普通の言葉でいえば、
「何があるのかは何も決めず、とにかく『ある』とだけ考えている状態」
です。
ところが、何についても決まっていないため、この「純粋な存在」には、それがどんなものなのかを区別する内容がありません。
そこで、次の「無」との関係が問題になります。
「無」とは、「何も決まっていない」という純粋な空白として考えられたものです。
これも、
「机がない」
「人がいない」
というように、特定の物がないという意味だけではありません。
何であるかをまったく決めることのできない、
純粋な「ない」
を考えています。
普通の言葉でいえば、
「そこに何があるとも言えず、何の特徴も決められていない状態」
です。
すると、ここで不思議なことが起こります。
「純粋な存在」は、何の特徴も決められていません。
「純粋な無」も、何の特徴も決められていません。
そのためヘーゲルは、何の規定も持たないという点では、純粋な存在と純粋な無を区別しておくことができないと考えます。
ただし、
「存在と無は、まったく同じ意味の言葉だ」と言っているわけではありません。
「存在」は「ある」と考えられ、
「無」は「ない」と考えられています。
意味としては対立しています。
それでも、どちらも具体的な内容を何も持たないところまで純粋にしたとき、両者を完全に切り離したまま固定することができなくなる、というのがポイントです。
「生成」とは、「存在」と「無」が互いに移り変わる動きを含んだ概念です。
ドイツ語では Werden(ヴェルデン、「成ること・生じていくこと」) といい、日本語では一般に「生成(せいせい)」と訳されます。
普通の言葉でいえば、
「なかったものが生じること」と「あったものが消えていくこと」を、一つの変化として捉えること
です。
何かが生まれるときには、
「まだ存在していない」状態から「存在する」状態へ移ります。
反対に、何かが消えるときには、
「存在する」状態から「存在しない」状態へ移ります。
そこでヘーゲルは、「存在」と「無」を別々に固定するだけではなく、
存在が無へ、無が存在へと移っていく関係そのものを「生成」として捉えます。
つまり、
「存在」
→ ただ「ある」と考える。
「無」
→ ただ「ない」と考える。
「生成」
→ その「ある」と「ない」が、互いに移り変わる動きまで含めて考える。
という違いです。
ここで覚えてほしいのは、
「存在と無は同じです」
という短い結論ではありません。
大切なのは、
最初に置いた「存在」という概念を最後まで考えたことで、それを単独のまま固定しておけないことがわかり、「無」との関係、さらに両者の移り変わりを含む「生成」へと理解が進んでいる
という動きです。
これは、先ほど見た三つの契機ともつながります。
ある概念を一定の意味として捉える。
その概念を考え抜くことで、一面的なところや限界が現れる。
そして、その結果をただ捨てず、そこから現れた内容を含んだ、より具体的な概念へ進む。
「存在・無・生成」は、この動きを理解するための有名な例なのです。
ただし、
この三つを「すべての問題は必ず三段階で解決する」という公式にしてはいけません。
ヘーゲルにとって重要なのは、「存在・無・生成」という三つの箱と同じ形を、別の問題へ外から当てはめることではありません。
考えている内容そのものを追った結果として、なぜその考えだけでは足りず、次の理解へ進まなければならないのかが現れること
が重要なのです。
では、新しい理解へ進んだとき、
最初の「存在」や「無」は、全部なくなってしまうのでしょうか。
答えは、全部なくなるわけではありません。
「生成」という新しい概念の中でも、「存在」と「無」は、その内容を形を変えて残しています。
ここで重要になるのが、第4章の最後でも登場した Aufheben(アウフヘーベン、「取り消しながら保存する」という二つの意味を含み、日本語では「止揚〈しよう〉」と訳される言葉) です。
7.アウフヘーベン(止揚)とは何なのか
まず、結論です。
Aufheben(アウフヘーベン)とは、前の考えをそのまま残すことでも、完全に捨てることでもなく、その限界を乗り越えながら、そこに含まれていた内容を次の理解の中へ残すことです。
日本語では一般に「止揚(しよう)」と訳されます。
ドイツ語の aufheben(アウフヘーベン)には、「取り消す・廃止する」という意味と、「保存しておく」という意味があります。
ヘーゲルは、この一見反対する二つの意味を、弁証法の動きを表すために重要だと考えました。専門的な解説でも、ヘーゲルの Aufheben は「否定すること」と「保存すること」が同時に働くものとして説明されています。
先ほどの「存在・無・生成」で見るとわかりやすくなります。
「存在」だけでは十分ではありません。
「無」だけでも十分ではありません。
その意味では、
それぞれを単独で最終的な答えとする考え方は乗り越えられます。
しかし、「存在」や「無」という内容そのものが完全に消えるわけでもありません。
「生成」という概念には、
何かが存在するようになることと、
何かが存在しなくなることの両方が含まれています。
つまり、
前の考えは、以前とまったく同じ形では残らない。しかし、その内容は次の理解の中で役割を持ち続ける。
これが止揚を理解する大切なところです。
日常の例で考えてみましょう。
これはヘーゲル本人が使った例ではなく、止揚の考えを理解するための記事上の例です。
ある人が、
「計画は、最初に決めたとおり守ることが大切だ」
と考えていたとします。
この考えには、
「その場の気分だけで行動しない」
「目標に向かって続ける」
という大切な内容があります。
ところが、予定外の出来事や体調の変化があっても、最初の計画を一切変えないとしたら、むしろ本来の目標を達成できなくなることがあります。
そこで、
「計画を一度決めたら何があっても変えない」
という部分は見直す。
しかし、
「目標を立て、継続して行動する」
という大切な内容まで捨てる必要はありません。
すると、
「目標は保ちながら、状況に応じて計画そのものは修正する」
という理解へ進めます。
これは、
二つの考えを半分ずつ混ぜたわけではありません。
最初の考えがなぜ不十分だったのかを確かめ、その中にあった大切な内容を、別の形で残しています。
これが、止揚をイメージする一つの方法です。
だから、
「否定する」とは全部捨てることではなく、「保存する」とは元の形のまま残すことでもありません。
前の理解を乗り越えながら、その内容を次の理解の中で生かす。
そこが、Aufheben の重要な意味です。
8.「正・反・合」とヘーゲルの弁証法は、どんな関係なのか
弁証法について調べると、
「正・反・合」
という言葉を目にすることがあります。
最初に、いちばん大切な答えを確認しておきましょう。
「正・反・合」は、ヘーゲル本人が「これが私の弁証法の公式です」と示した言葉ではありません。
ヘーゲルの弁証法を初めて学ぶ人に、その動きをわかりやすく説明するときに使われることのある整理のしかたです。
一般的には、次の三つの言葉と対応させて説明されます。
正 = These(テーゼ、「最初に置かれる主張・考え」)
反 = Antithese(アンティテーゼ、「それに対立する主張・考え」)
合 = Synthese(ジンテーゼ、「対立した内容を含んだ新しい理解」)
では、この三つは何を表しているのでしょうか。
同じ順番で、一つずつ見てみましょう。
「テーゼ」とは、最初に置かれる主張や考えです。
「正」にあたります。
普通の言葉でいえば、
「まず、こう考えてみる」
という出発点です。
たとえば、
「会議は短いほうがよい」
という考えを最初に置いたとします。
この説明では、これがテーゼです。
ただし、「正」という漢字が使われていますが、
「正しい答え」という意味ではありません。
あくまで、最初に置かれた考えです。
「アンティテーゼ」とは、最初の考えに対立する内容です。
「反」にあたります。
普通の言葉でいえば、
「でも、その考えだけでは説明できないことがあるのでは?」
と、最初の考えだけでは見えていなかった問題が現れることです。
先ほどの例なら、
「会議を短くしすぎると、ゆっくり考えてから話す人の意見が出にくくなる」
という問題が見えてくるかもしれません。
この説明では、これがアンティテーゼにあたります。
ただし、
最初の意見と反対のことを、わざと一つ考えればよいという意味ではありません。
ヘーゲルの弁証法で重要なのは、最初の考えそのものを考えていった結果として、その考えだけでは足りないところが見えてくることです。
「ジンテーゼ」とは、対立によってわかったことまで含んだ、新しい理解です。
「合」にあたります。
普通の言葉でいえば、
「どちらか一方を選ぶだけではなく、なぜ二つがぶつかったのかまで考えて、最初より広い問いへ進むこと」
と考えるとわかりやすいでしょう。
会議の例なら、
「20分にするか、60分にするか」
という二択だけで考えるのではなく、
「必要なことを短い時間で決めながら、必要な人の意見もきちんと届く会議にするには、どうすればよいのか」
と問い直すことができます。
ここでは、
「時間を無駄にしたくない」
という最初の考えも、
「必要な人の意見を届かせたい」
という対立から見えてきた内容も、
どちらも捨てていません。
だからといって、
ジンテーゼは「二つの意見を半分ずつ混ぜること」ではありません。
「20分」と「60分」が対立したから、
「では40分にしましょう」
と真ん中を取るだけでは、それだけでジンテーゼになったとは言えません。
大切なのは、
対立したことで何が足りなかったのかを知り、その結果まで含んだ新しい理解へ進むこと
です。
では、
テーゼ → アンティテーゼ → ジンテーゼ
という流れが、そのままヘーゲル本人の弁証法なのでしょうか。
答えは、
いいえ。そのまま同じものではありません。
ここで、第6章で見たヘーゲル自身の説明を思い出してみましょう。
ヘーゲルは『哲学諸学の百科全書』で、論理的なものには、
「悟性的・抽象的な側面」
「弁証法的・否定的理性的な側面」
「思弁的・肯定的理性的な側面」
という三つの側面・契機があると説明しています。
三つあるので、
「正・反・合と同じでは?」
と思うかもしれません。
しかし、
この二つを一対一でまったく同じものとして扱うのは正確ではありません。
ヘーゲル本人が自分の弁証法の一般的な説明として示しているのは、
「テーゼ・アンティテーゼ・ジンテーゼ」
ではなく、
「悟性的・抽象的」
「弁証法的・否定的理性的」
「思弁的・肯定的理性的」
という三つの側面です。
では、なぜ「テーゼ・アンティテーゼ・ジンテーゼ」という説明がヘーゲルと結びつけられるのでしょうか。
その背景には、ヘーゲルより前の哲学者フィヒテなどの影響や、ヘーゲルの議論を三つの動きとして理解しようとしてきた後の解説があります。
フィヒテの哲学では、ある考えから対立する内容を明らかにし、その対立をさらに別の考えによって結びつけていく方法が重要な役割を持っていました。
ヘーゲルもフィヒテから影響を受けています。
しかし、
影響を受けたことと、その方法をそのまま自分の公式として使ったことは別です。
専門的な研究でも、ヘーゲルはフィヒテと結びつけられる「テーゼ・アンティテーゼ・ジンテーゼ」という三語を、自分の弁証法の公式として採用しなかったと説明されています。
では、それはどうやって確かめるのでしょうか。
この問題は、実験やアンケートで調べるものではありません。
ヘーゲル本人が、自分の方法について著作の中でどのように説明しているのかを確認し、比べます。
先ほど見た『哲学諸学の百科全書』では、ヘーゲル自身が「悟性的」「弁証法的」「思弁的」という三つの側面を説明しています。
またヘーゲルにとって重要なのは、
考えている内容とは関係なく、あらかじめ用意した三つの形を外から当てはめることではありません。
考えている内容そのものを追っていくことで、
「この考えだけでは足りない」
「この考えを続けると、別の内容が必要になる」
とわかり、次の考えへ進むことが重要なのです。
ここで、第6章で見た、
「存在」「無」「生成」
を思い出してみましょう。
この三つは、
存在 = テーゼ(正)
無 = アンティテーゼ(反)
生成 = ジンテーゼ(合)
という形で説明されることがあります。
では、
「存在・無・生成」と「正・反・合」は同じものなのでしょうか。
答えは、
同じものではありません。
ここは、はっきり分けて覚えてください。
「存在・無・生成」は、ヘーゲルが『論理学』で実際に論じている三つの概念です。
「存在」とは何なのか。
「存在」を何の特徴もないところまで純粋に考えると、なぜ「無」と区別できなくなるのか。
そして、「存在」と「無」の関係から、なぜ「生成」へ進むのか。
ヘーゲルは、こうした概念のつながりを実際に論じています。
つまり、
「存在・無・生成」は、ヘーゲルが実際に論じている内容です。
一方、
「正・反・合」は、その「存在・無・生成」のつながりを説明するときにも使われることのある、三つの役割の名前です。
とても簡単に分けると、
正= 最初に置かれる考え
反= そこから現れる、対立する考え
合= その対立によってわかったことまで含んだ新しい理解
です。
そのため、
「存在・無・生成」の流れを見ると、
存在は「正」の位置
無は「反」の位置
生成は「合」の位置
として説明することができます。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、「存在・無・生成」は、テーゼ・アンティテーゼ・ジンテーゼという伝統的な説明に比較的当てはめやすい「教科書的な例」として紹介されています。
ただし、
「存在」という言葉の意味が「正」なのではありません。
「無」という言葉の意味が「反」なのでもありません。
「生成」という言葉の意味が「合」なのでもありません。
たとえば、物語に桃太郎が登場して、
「桃太郎はこの物語の主人公です」
と言ったとします。
だからといって、
「桃太郎」という言葉と「主人公」という言葉が同じ意味になるわけではありません。
桃太郎という人物が、その物語の中で「主人公という役割」に置かれているという意味です。
それと似ています。
「存在・無・生成」を正・反・合で説明するときも、
存在・無・生成という三つの概念のつながりを、正・反・合という三つの役割に分けて説明している
のです。
では、
「存在・無・生成」がきれいに「正・反・合」で説明できるのなら、
ヘーゲルの哲学は全部、
正 → 反 → 合
で説明できるのでしょうか。
答えは、
いいえ。
ここがもう一つの大切なところです。
「存在・無・生成」は、この形で比較的説明しやすい例です。
しかし、ヘーゲルの論理学には、
「最初の考え」
↓
「その正反対」
↓
「二つをまとめた考え」
という三つの形では、きれいに説明できないところもあります。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、「存在・無・生成」の例をそのままヘーゲルの論理学全体へ機械的に広げることには注意が必要だと説明されています。
つまり、
「存在・無・生成」でうまく説明できたからといって、ヘーゲルの弁証法すべてが必ず「正→反→合」の三段階で進むわけではありません。
では、
「正・反・合」という説明は使わないほうがよいのでしょうか。
いいえ。
最初に弁証法の大まかな動きをつかむためには、役立つことがあります。
たとえば、
正= 最初の考え
反= その考えを考えていく中で現れた限界や対立
合= そこでわかったことまで含んだ、より広い理解
と考えれば、
一つの考えをそこで固定せず、その考えから現れた限界や対立を通して、さらに理解を進めていく
という弁証法の大まかなイメージをつかみやすくなります。
ただし、
「反」は、わざと反対意見を一つ作ることではありません。
そして、
「合」は、二つの意見を半分ずつ混ぜることではありません。
「Aという意見を出す」
↓
「では、反対のBを探す」
↓
「AとBの真ん中を取ってCを作る」
という手順を使えば、自動的にヘーゲルの弁証法になるわけではないのです。
ヘーゲルにとって重要なのは、
最初の考えそのものを最後まで考えてみることです。
すると、その考えの中から、
「これだけでは説明できない」
「このままでは考えが成り立たない」
という限界や対立が見えてくることがあります。
そして、
その限界によってわかったことを捨てずに、次の理解へ進む。
そこに、ヘーゲルの弁証法の大切な特徴があります。
最後に、この章の答えを整理しておきましょう。
「正・反・合」と「テーゼ・アンティテーゼ・ジンテーゼ」は、対応させて説明されることがあります。
しかし、
それは、ヘーゲル本人が「どんな問題でも正→反→合の三段階で考えなさい」と示した固定公式ではありません。
そして、
「存在・無・生成」と「正・反・合」も、同じものではありません。
いちばん簡単に分けると、
存在・無・生成= ヘーゲルが実際に論じた三つの概念
正・反・合= そのような概念のつながりを、三つの役割に分けて説明するときに使われることのある整理のしかた
です。
「存在=正、無=反、生成=合」と説明することはできます。
でもそれは、
「存在と正は同じ意味、無と反は同じ意味、生成と合は同じ意味」
ということではありません。
そして何より、
ヘーゲルの弁証法すべてを「正→反→合」という一つの公式に押し込めないこと。
ここまで区別できれば、「正・反・合」とヘーゲルの弁証法の関係を、かなり正確につかめています。
9.ヘーゲルは歴史をどう考えたのか
「自由の意識の進歩」とは
ここまで見ると、
「弁証法は、考え方や概念についての話なのだな」
と思うかもしれません。
しかしヘーゲルは、社会や歴史についても大きな哲学を作りました。
ヘーゲルの歴史哲学で特に重要なのが、
世界史を、人間が「自由とは何か」を理解し、その自由を現実の社会や制度の中で形にしていく過程として捉えたことです。
よく知られている「世界史は自由の意識の進歩である」という考えも、この文脈から出てきます。
ただし、この歴史哲学については、資料の成り立ちも知っておく必要があります。
ヘーゲルはベルリン大学で世界史について何度も講義しました。
現在「歴史哲学」として読まれている文章の多くは、ヘーゲルが一冊の完成した本として出版したものではありません。
ヘーゲルの死後、本人の講義原稿や、学生たちが取った講義記録などをもとに編集されたものです。
そのため、「ヘーゲルはこう書いた」と一冊の著書の文章のように扱うときには注意が必要です。
では、
ヘーゲルは歴史をどうやって調べたのでしょうか。
ここでも、現代の歴史学者のように、自分で大量の古文書を発掘し、資料を統計的に分析することを中心にしたわけではありません。
ヘーゲルは、すでに歴史家たちによって記録・整理された歴史を材料にしながら、
「そこにどのような意味やつながりがあるのか」「自由という考えが、社会や制度の中でどのように姿を変えてきたのか」
を哲学的に解釈しようとしました。
専門的な解説でも、ヘーゲルの哲学的歴史理解は、実際の歴史研究によって得られた材料を前提にし、その材料の中にどのような概念的な発展が見えるのかを考えるものだと説明されています。
ここでいう「自由」も、
「好きなことを何でもできる」
という意味ではありません。
ヘーゲルにとって自由は、法律、権利、家族、市民社会、国家など、人と人との関係や社会制度の中で現実の形を持つものでもあります。
ヘーゲルは世界史を説明するとき、
「一人だけが自由だと考えられていた段階」
「一部の人が自由だと考えられていた段階」
「人間は人間であることによって自由であるという原理が意識される段階」
という大きな流れを示しました。
ただし、
これは現代の歴史学によって確認された世界史の客観的な三段階ではありません。
ヘーゲル自身の歴史哲学による整理です。
そして、この説明には現代から見て重大な問題があります。
ヘーゲルは、中国やインドなどを含む世界の歴史を同じ立場から評価せず、ヨーロッパ、とくに自分が「ゲルマン世界」と呼んだ世界を、自由の発展のより進んだ段階として位置づけました。
現在の専門研究でも、ヘーゲルの世界史の説明には明確なヨーロッパ中心主義があると指摘されています。
そのため、
「ヘーゲルが歴史の正しい法則を発見した」
とそのまま受け取ることはできません。
一方で、
歴史を単なる年号や事件の並びとしてではなく、「人間は自由をどう理解し、それを社会の中でどう実現しようとしてきたのか」という問いから考えようとした
ところには、ヘーゲルの歴史哲学の特徴があります。
ここでも、
最初から「自由」の意味が完成しているのではなく、
自由についての理解が、社会や歴史の中でより具体的なものになっていく
という、ここまで見てきたヘーゲルの考え方とのつながりが見えてきます。
10.弁証法からヒントを得て、日常の対立を考えてみる
ここからは、ヘーゲル本人が示した「会話術」を紹介するわけではありません。
ここまで学んだ弁証法からヒントを得て、日常の問題を考えるために、このブログで整理した応用です。
たとえば、文化祭の準備で、
「全員の役割を最初にはっきり決めた方がいい」
という意見があったとします。
誰が何をするのか決めれば、責任の場所がわかり、作業も進めやすくなります。
ところが別の人は、
「役割を固定しすぎると、忙しい人がいても助けられない。みんなで柔軟に手伝った方がいい」
と考えます。
ここですぐ、
「では半分だけ役割を決めよう」
とすることもできます。
しかし、その前に、
なぜ二つの意見がぶつかったのか
を考えてみます。
最初の意見が大切にしていたのは、
「誰が何をするのかわからなくなり、仕事が止まることを防ぎたい」
ということでした。
もう一方が大切にしていたのは、
「状況が変わったときに、みんなで助けられるようにしたい」
ということでした。
すると本当の問題は、
「役割を決めるか、決めないか」
だけではないことが見えてきます。
「責任の場所をはっきりさせながら、状況が変わったときには助け合える仕組みをどう作るか」
という、より具体的な問いに変えることができます。
たとえば、
「担当者は決める。ただし、遅れている仕事が出たら、ほかの人が手伝えるルールも作る」
という方法も考えられます。
これは、
二つの意見を半分ずつ混ぜただけではありません。
対立が起きた理由を調べたことで、最初の「決めるか、決めないか」という問いだけでは見えていなかった問題が見つかった
という例です。
もちろん、これが必ず正解になるわけではありません。
この例自体も、ヘーゲル本人の著作にあるものではありません。
日常で弁証法からヒントを得るなら、次のように考えてみることができます。
「自分の考えだけでは説明できないものは何だろう?」
「なぜ反対する考えが出てきたのだろう?」
「それぞれの考えは、何を守ろうとしているのだろう?」
「そもそも、最初の問い方だけで問題を十分に捉えられているだろうか?」
この問いを使えば自動的に正解が出る、という意味ではありません。
目的は、
最初に出した答えを完成品だと思わず、その答えではまだ見えていないものがないかを確かめること
です。
11.弁証法を日常で考えるときに大切なこと
最後に、弁証法を日常へ持ち帰るときの大切な点を整理しておきましょう。
まず、
弁証法で重要なのは、「反対すること」そのものではありません。
何にでも、
「いや、違う」
と言えば考えが深くなるわけではありません。
大切なのは、
反対や行き詰まりが現れたとき、それによって最初の考えのどこが足りなかったのかを確かめることです。
次に、
弁証法は、必ず真ん中を選ぶ方法でもありません。
100と0なら50。
20分と60分なら40分。
その答えが適切な場合もあります。
しかし、弁証法で重要なのは中間そのものではなく、
なぜ対立したのかを考え、必要なら最初の問いそのものを捉え直すこと
です。
そして、もう一つ大切な限界があります。
弁証法は、事実を確かめるための科学的な実験や観察、統計、歴史資料の調査の代わりにはなりません。
たとえば、
「どの治療法が実際に効果を持つのか」
「平均気温がどれだけ変化したのか」
「ある制度を導入したあと、実際にどのような結果が出たのか」
といった問いは、考えを深めるだけでは答えられません。
その問いに合った観察、実験、測定、統計、資料などが必要です。
つまり弁証法は、
「考えれば何でも真実がわかる魔法の公式」ではありません。
それでも、この考え方を学ぶ意味があります。
私たちは、
「もう答えはわかった」
と思った瞬間に、その答えでは説明できないものを見なくなることがあります。
ヘーゲルの弁証法から学べる重要なことの一つは、
一度出した答えを完成したものとして固定せず、その答え自身の中に、まだ説明できていないものがないかを確かめることです。
反対されたとき。
考えと現実が合わなくなったとき。
今までの説明ではうまく理解できないものが出てきたとき。
そこで、
「邪魔な反例だ」
と消してしまうのではなく、
「この問題によって、自分は何を考え直す必要があるのだろう」
と考えてみる。
弁証法を知ることで見えてくるのは、単に「反対意見とうまく付き合う方法」ではありません。
自分が正しいと思っている答えにも、まだ続きを考えられる可能性がある。
そのことに気づけるところに、弁証法を学ぶ大きな意味があります。
12.おまけコラム
主人公が成長する物語は「弁証法」なの?
ここまで、かなり本格的に弁証法を見てきました。
少し肩の力を抜いて、物語の中から考えてみましょう。
漫画や小説、映画、ゲームなどで、
「最初は一人で何でもやろうとしていた主人公が、失敗を経験して、仲間を頼れるようになる」
という成長を見ることがあります。
これは、少し弁証法に似て見えます。
たとえば主人公が、
「強い人間とは、誰にも頼らず一人でやり遂げる人だ」
と考えていたとします。
ところが、その考えを実際に貫いた結果、一人ではどうしても解決できない問題にぶつかる。
そこで初めて、
「一人でできることには限界がある」
と気づきます。
では、
「一人で努力することは全部間違いだった」
となるのでしょうか。
そうとは限りません。
自分で考えること。
責任を引き受けること。
努力すること。
そうした部分は残しながら、
「自分で責任を持つことと、必要なときに人を頼ることは両立できる」という理解へ変わるかもしれません。
これは、ここまで見てきた、
以前の考えがそのままでは足りないとわかり、その中にあった大切なものを残しながら、別の理解へ進む
という動きを思い浮かべるには、わかりやすい例です。
ただし、
主人公が成長する物語なら、何でもヘーゲルの弁証法になるわけではありません。
単に修行して強くなった。
知識が増えた。
失敗したので別の方法を試した。
それだけで弁証法だと言うことはできません。
ここで紹介した物語は、ヘーゲル本人が使った例でもありません。
あくまで、
「前の自分を全部捨てるのではなく、前の考えの限界を経験しながら、それを含んだ新しい理解へ変わっていく」
という弁証法の動きを、身近な物語から想像するための記事上の例です。
こう考えると、弁証法は難しい哲学書の中だけにあるものではなく、
「人は、考えを変えるときに何を捨て、何を残しているのだろう」
という、とても身近な問いにも見えてきます。
――ここまでで、弁証法そのものの仕組みはかなり見えてきました。
この先は、興味に合わせて「応用編」へ進んでみましょう。
弁証法のまわりには、
似ているようで意味の違う言葉があります。
これらを区別できるようになると、
「何となく弁証法っぽい」
ではなく、
「ここでは対立が起きている」「これは矛盾とは違う」「これは止揚ではなく妥協だ」
と、自分の言葉で考えられるようになります。
次は、弁証法を理解するための「言葉の地図」を広げてみましょう。
13.応用編
似ている言葉を見分けると、弁証法がもっとわかる
弁証法を理解するときに意外と大切なのが、
似ている言葉を、全部同じものとして扱わないことです。
まず、
「対立」と「矛盾」は同じではありません。
「対立」は、もっと広い言葉です。
たとえば、
「会議を短くしたい」
と、
「全員に十分話してほしい」
は対立することがあります。
しかし、この二つは、
「会議は短くなければならない」
と
「会議は短くてはならない」
のように、論理的に真正面から否定し合う文とは限りません。
両方を実現できる方法が見つかる可能性もあります。
一方、論理学でいう contradiction(コントラディクション、「矛盾」) は、基本的には「Aである」と「Aではない」のように、同じ条件のもとでは両方を同時に真とできない関係を指します。ヘーゲルの「矛盾」が現代の形式論理とどのような関係にあるのかについては研究上の議論がありますので、「意見が違えば全部、論理的矛盾だ」と考えない方が安全です。
「二律背反」と「パラドックス」も、完全に同じ言葉ではありません。
前にカントのところで出てきた Antinomie(アンティノミー、「二律背反」) は、カントでは、世界全体などについて理性が答えを出そうとすると、互いに反対する主張にそれぞれ論証ができてしまう問題を指していました。
ですから、
「ラーメンにするか、カレーにするか迷う」
というだけでは二律背反ではありません。
一方、paradox(パラドックス、「逆説・一見するとおかしな結論を生む問題」) は、もっと広く使われる言葉です。
常識とぶつかる結論や、矛盾しているように見える問題など、さまざまな種類があります。哲学や論理学では「antinomy」と「paradox」が近い意味で使われる場合もありますが、カントの記事を読むときには「二律背反」をカント独自の議論の文脈で理解した方が混乱しません。
もう一つ、似ているのが**「ジレンマ」**です。
dilemma(ディレンマ、「どちらを選んでも困る選択」)とは、
「Aを選んでも問題がある。Bを選んでも問題がある」
という状態です。
二つの選択肢で困っているからといって、必ずしも二つの主張が論理的に矛盾しているわけではありません。
つまり、
対立・矛盾・二律背反・パラドックス・ジレンマは、似た場面で出てくることはあっても、同じ言葉ではない
のです。
「否定」と「反論」も分けて考えてみましょう。
反論とは、
「その主張には賛成できない」
と理由を示して反対することです。
しかし、ヘーゲルの弁証法でいう「否定」は、単に誰かが外から、
「それは間違っています」
と言うことだけではありません。
ある考えを突き詰めた結果、その考え自身の一面的なところが現れ、それまでの形のままでは維持できなくなる。
そこに重要な「否定」があります。
ヘーゲル研究では、このように、何が否定されたのかがはっきりした否定を determinate negation(ディターミネート・ネゲーション、「規定的否定」) という言葉で説明することがあります。
簡単に言えば、
ただ「ダメだった」で終わる否定ではなく、「何が足りなかったのか」が次の理解を決める否定
です。
そして、特に間違えやすいのが、「妥協」「折衷」と「止揚」の違いです。
妥協は、お互いが少しずつ条件を譲って、合意できる場所を探すことです。
折衷(せっちゅう)は、異なる考えから部分を取り入れて組み合わせることです。
どちらも、現実ではとても大切な方法です。
しかし、
それだけでヘーゲルの止揚になるわけではありません。
止揚で重要なのは、
「Aから半分、Bから半分」
ではなく、
なぜ最初の考えでは足りなかったのかを明らかにし、その考えに含まれていた内容を別の形で残しながら、より具体的な理解へ進むこと
でした。
だから、
「みんなが不満だから真ん中にした」
なら妥協かもしれません。
「対立したことで、そもそもの問題の捉え方が足りなかったとわかり、問いそのものが変わった」
なら、弁証法を考えるヒントになります。
では、
弁証法の反対語は何でしょうか。
実は、
「これが弁証法の正式な反対語です」
と言える一語があるわけではありません。
「固定的な考え方」
「物事を変化しないものとしてだけ捉える考え方」
などを対照的なものとして説明することはできます。
ただし、第6章で出てきた「悟性」を、そのまま弁証法の反対語にするのも正確ではありません。
ヘーゲルにとって、物事をまずはっきり区別して考える悟性的な働きも、考えるために必要な契機だからです。
弁証法は「区別する考え方」を捨てるのではなく、そこで固定して終わらないところに特徴があります。
こうして言葉を分けてみると、
「対立がある=弁証法」
ではないことが、さらに見えやすくなります。
弁証法を見るときには、
何が対立しているのか。
本当に矛盾なのか。
どこが否定されたのか。
何が残ったのか。
問いそのものは変わったのか。
と、一つずつ見ていくことが大切です。
14.さらに学びたい人へ
ここまで読んで、もう少し深く知りたいと思った人のために、次へ進みやすい本を紹介します。
哲学の知識がほとんどない人が、最初に読むなら
『ヘーゲル哲学に学ぶ 考え抜く力』 川瀬和也
この本は、難しいヘーゲル哲学をそのまま説明するのではなく、
「考え抜くとはどういうことなのか」
という身近なところからヘーゲルへ入っていく本です。
この本では弁証法も、
すぐにどちらか一方を選ぶのではなく、対立した状態にも向き合いながら考え抜くための方法
として扱われています。
ただし、子ども向けに作られた本ではありません。
小学生高学年くらいの読者なら、すべてを一人で理解しようとするより、
この記事を読んだあとに、興味を持ったところを大人と一緒に読んでみる
ヘーゲルという哲学者の全体像を、できるだけ平易な言葉で知りたいなら
『新しいヘーゲル』 長谷川宏
この本は、
「弁証法とはどんな考え方なのか」
というところから始まり、
『精神現象学』、論理・自然・精神、芸術、宗教、歴史、近代社会まで、
ヘーゲルの哲学全体を見渡していく入門書です。
「弁証法だけではなく、ヘーゲルは世界全体をどう考えていたのだろう?」
と興味が広がった人に向いています。
一つの概念だけではなく、ヘーゲルという哲学者の全体像をつかみたいときの入口として読みやすい一冊です。
今回の記事を読んだ人に、全体として特におすすめしたいのが
『ヘーゲル〈再〉入門』 川瀬和也
この本は、ヘーゲルの代表的な著作である、
『精神現象学』と『大論理学』を読み解きながら、
ヘーゲルの考えが、なぜ固定されたままではなく動いていくのか
を「流動性」という言葉を手がかりに説明しています。
初めての人が読める入口でありながら、その先まで学び続けられる内容になっています。
今回の記事を読み終えて、
「今度は、ヘーゲルの弁証法そのものを、もう少し正確に学んでみたい」
と思った人には、特に相性のよい一冊です。
さらに深く、「論理学の中で弁証法がどう動いているのか」まで学びたい中級者なら
『ヘーゲル論理学と弁証法』 海老澤善一
これは、ここまでの三冊よりも専門的です。
『大論理学』を中心に、
「形而上学と弁証法」「無限」「存在」「本質」「概念」「理念」
などを詳しく検討しています。
さらに最後には、弁証法そのものについても詳しく論じられています。
初めてヘーゲルを読む人が最初から挑戦するというより、
入門書を読んだあと、今回の記事で扱った弁証法を本格的に掘り下げたくなったときに読む本
と考えるとよいでしょう。
すべて読む必要はありません。
この記事を読んで、
「存在・無・生成が気になる」
「止揚についてもっと知りたい」
「正・反・合との違いをもっと確かめたい」
「ヘーゲルが考えた自由について読みたい」
と思ったところから、一冊選んでみてください。
哲学では、
わからないことが出てきたこと自体が、次に調べる問いになります。
この記事で生まれた疑問をそこで終わらせず、
別の本を読み、
違う説明と比べ、
また自分の理解を問い直してみる。
そうやって、
一つの理解を固定せず、次の理解へ進んでいくことそのものが、今回学んだ弁証法を、読書の中でもう一度たどってみることになるのかもしれません。
15.まとめ・考察
「反対された」は、考えが終わった合図ではない
結局、弁証法とは、一つの考えを完成した答えとして固定せず、その考えを突き詰めたときに現れる限界や対立を通して、より豊かな理解へ進んでいく考え方です。
この記事では、弁証法を、
「反対意見を出し合う方法」
「正・反・合という三段階」
という短い説明だけで終わらせず、その歴史からたどってきました。
プラトンでは、問いによって自分の答えが本当に成り立つのかを試しました。
カントでは、理性が経験を越えた問いに答えようとすると、なぜ反対する論証が生まれるのかを調べました。
そしてヘーゲルでは、
一つの考えそのものを最後まで考えたときに現れる限界や対立から、さらに具体的な理解へ進んでいく
という弁証法を見てきました。
さらに、Aufheben(アウフヘーベン、「止揚」)では、
以前の考えを全部捨てるのでも、そのまま残すのでもなく、限界を乗り越えながら、その内容を次の理解へ残す
という独特の動きも見ました。
ここまでを日常へ持ち帰ると、弁証法には一つ、とても面白い見方があります。
それは、
反対意見は、「自分が間違っている」という判決とは限らない。自分の問いがまだ小さいことを知らせる手がかりになる場合がある
ということです。
たとえば、
「効率を上げたい」
と思っていたら、
「それでは丁寧さが失われる」
と言われた。
ここですぐ、
「効率か、丁寧さか」
という勝負にすることもできます。
しかし、
「なぜこの二つは対立したのだろう」
と考えると、
「そもそも、よい仕事とは何なのだろう」
という一段大きな問いが出てくるかもしれません。
私たちが普段「反対された」と感じる瞬間は、
もしかすると、
答えを否定された瞬間ではなく、問いを作り直せる瞬間
なのかもしれません。
こんな経験はないでしょうか。
「自分で全部やった方が早い」
と思っていたのに、仕事や学校行事で抱え込みすぎて、逆に遅くなった。
「誰にでも同じように接するのが公平だ」
と思っていたけれど、人によって必要な助けが違うことに気づいた。
「失敗しないことが大切だ」
と思っていたけれど、一度失敗したからこそ、自分のやり方の問題が見えた。
そんなとき、
昔の自分が全部間違っていたとは限りません。
昔の考えには、そのとき見えていた大切なものがありました。
ただ、
それだけでは説明できないものが現れた。
そこから考え直した。
これは、日常の中で弁証法を思い出せる場面です。
では、あなたならどう考えるでしょうか。
今、
「絶対にAだ」
と思っていることを一つ思い浮かべてみてください。
そこで、いきなり反対意見を探す必要はありません。
まず、次の順番で考えてみてください。
① なぜ私はAが正しいと思っているのだろう。
② Aだけでは説明できない例はあるだろうか。
③ その例は、Aの何が足りないと教えているのだろう。
④ Aの中で、それでも残した方がよい大切な部分は何だろう。
⑤ それを含めると、最初よりどんな問い方ができるだろう。
ここまで考えれば、
「何となく考えてください」
と丸投げされた状態ではありません。
自分なりの答えへ進むための道筋があります。
弁証法を知ったからといって、すべての対立が解決できるわけではありません。
科学的な事実には実験や観察が必要です。
歴史的な事実には資料が必要です。
人と人との争いには、価値観や利害の問題もあります。
それでも弁証法は、
「今の答えが、最後の答えとは限らない」
ということを思い出させてくれます。
私は、そこに弁証法のいちばん面白いところがあると思います。
自分の考えを持つことと、
自分の考えを疑えること。
この二つは、反対のように見えます。
けれども、
自分の考えを本当に大切にするからこそ、その考えがどこまで成り立つのかを試すことができる。
そう考えると、哲学とは、
答えをたくさん持っている人になることではなく、
自分の答えが行き止まりになったとき、その行き止まりから次の問いを見つけられる人になること
なのかもしれません。
あなたの中にある、
「でも、それって本当にそうなの?」
という小さな違和感。
それは、考えることを邪魔するものではありません。
もしかすると、
そこが次の哲学の始まりです。
16.疑問が解決した物語
記事を読み終えたアオイは、あの日の会議を思い出していました。
最初は、
「会議は20分までにした方がいい」
と考えていました。
長い会議を減らせば、仕事に集中できる。
その考えは、今でも大切です。
でもナオは、
「20分を優先したら、すぐに話せない人は意見を出せなくならないかな?」
と言いました。
以前のアオイなら、
「20分と60分の間を取って40分にしよう」
と考えていたかもしれません。
でも、弁証法を知った今は違います。
大切なのは、真ん中を取ることではなく、なぜ二つの意見がぶつかったのかを考えることです。
アオイが20分にしたかったのは、
「みんなの時間を無駄にしたくない」
からでした。
ナオが心配していたのは、
「発言するのに時間がかかる人の意見も大切にしたい」
ということでした。
すると、本当の問いが見えてきます。
「必要なことを短い時間で決めながら、必要な人の意見もきちんと届く会議にするには、どうすればいいのだろう?」
翌日、アオイはナオに提案しました。
「議題を前もって共有して、先に意見を書けるようにしない?」
さらに、
会議の目的によって時間を変える。
会議の前後にも意見を出せるようにする。
発言していない人にも必要なら確認する。
という方法を考えました。
つまり、
「すべて20分」という最初の案は変わりました。
でも、
「みんなの時間を大切にする」という考えまで捨てたわけではありません。
最初の考えの足りない部分を見直したことで、より具体的な答えへ進めたのです。
もちろん、これはヘーゲル本人が示した会議術ではありません。
アオイは弁証法を、
「正解を出す公式」ではなく、「最初の考えでは何が見えていなかったのか」を考えるヒント
として使いました。
帰り道、アオイは最初の疑問を思い出します。
「反対されることで、考えが進むことってあるのかな?」
今なら答えられます。
あります。
ただし、反対されれば自動的に正解が出るわけではありません。
大切なのは、
反対によって、自分の考えのどこが足りなかったのかを確かめることです。
では、あなたならどうでしょうか。
反対されたときは、
「自分は何を大切にしている?」
「相手は何を大切にしている?」
「この対立によって、最初の問いでは見えていなかったものは何?」
と考えてみてください。
弁証法が教えてくれるのは、
「相手に合わせること」でも、
「二つの意見を混ぜること」でもありません。
行き詰まったときに、答えだけでなく、問いそのものを見直してみること。
アオイが最後に見つけたのは、
20分か60分かという正解ではありませんでした。
もっとよい答えへ進むためには、最初の問いを変える必要があることもある。
それが、アオイが「弁証法」から見つけた答えでした。
17.文章の締めとして
考えが変わることは、ときどき少し怖いものです。
昨日まで正しいと思っていたことに、迷いが生まれる。
自分の中で、答えが揺れる。
そんな瞬間は、できれば避けたいと思うこともあります。
でも、もしかするとその揺れは、
考えが壊れているのではなく、
今までより広いものを見ようとしている途中
なのかもしれません。
答えがすぐに出ない日があってもいい。
前の自分と、今の自分の考えが少し違っていてもいい。
大切なのは、その違いを急いで消すことではなく、
「なぜ、今はこう感じるのだろう」
と立ち止まってみることなのかもしれません。
哲学は、遠い世界の難しい言葉ではなく、
そうした小さな違和感のそばに、静かに始まっているのだと思います。
補足注意
この記事は、筆者が確認できる範囲で、原典や信頼できる専門資料をもとに内容を整理したものです。
弁証法やヘーゲルの哲学には、研究者によって異なる解釈や議論があり、この記事で紹介した説明だけが唯一の答えというわけではありません。
また、今後の研究や資料の検討によって、これまでの理解がより詳しくなったり、新しい見方が示されたりする可能性もあります。
🧭 本記事のスタンス
この記事が「これが唯一の正解」と決めるためではなく、読者自身が興味を持ち、さらに調べ、考えていくための入口になれば幸いです。
一つの説明だけで終わらせず、さまざまな立場や解釈にも目を向けながら、自分自身で考えてみてください。
このブログで生まれた「でも、それって?」をここで止めず、文献をたどり、異なる考えと出会い、問いを深めながら、あなた自身の理解も“止めずに揚げる”――そんなふうに、弁証法の続きをあなた自身の学びの中で進めてみてください。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
弁証法は、考えが揺れることを恐れず、その揺れの中に次の理解の入口があることを教えてくれているのかもしれません。

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