無為自然を調べると、人物「老子」と書物『老子』に何度も出会います。なぜ「老子」が重要なのかを、「道」「徳」「無為」「自然」のつながりから、初めての人にもわかる言葉でたどります。
無為自然を知りたいのに、なぜ「老子」が何度も出てくるのか?

代表例
「無為自然」について調べていると、何度も出てくる名前があります。
「老子(ろうし)」です。
無為自然について知りたかっただけなのに、
「老子」の思想では……
『老子』には……
と、何度も同じ名前に出会います。
すると、こんな疑問が出てきませんか?
「そもそも『老子』って何?」
「なぜ無為自然を考えるときに、「老子」が重要なの?」

今回の記事では、無為自然そのものを詳しく説明するのではありません。
無為自然を調べていくなかで出会う人物「老子」と、書物『老子』について考えていきます。
「老子」は、どんな人物として伝えられてきたのでしょうか。
そして、なぜ「無為」や「自然」という考えと深く結びついているのでしょうか。
今回は、
「無為自然にとって、「老子」とはどんな存在なのか?」
という問いから、一緒にたどっていきましょう。
この記事での表記について
この記事では、
人物 → 「老子」
書物 → 『老子』
と書き分けます。

同じ二文字でも、人を指す場合と本を指す場合があるからです。
人物「老子」の詳しい生没年や経歴は確定しておらず、実在についても研究上の議論があります。
また、書物『老子』についても、人物「老子」が一人ですべてを書いたと確定しているわけではありません。
詳しい理由は、この先で必要になったところで見ていきます。
ここでは、
「老子」なら人。『老子』なら本。
まずはこれだけ覚えておけば大丈夫です。
5秒でわかる結論
無為自然を考えるうえで「老子」が重要なのは、『老子』で「無為」と「自然」が、「道」と深く関わる大切な考えとして語られているからです。
小学生にもわかりやすく言うと
「老子」は、
「何でも自分がやれば、本当にうまくいくのかな?」
と考えるきっかけを与えてくれる人物です。
たとえば、友達が一人で工作をしています。
少し失敗しています。
あなたのほうが上手だからと、全部代わりに作ってあげれば、きれいな作品は完成するかもしれません。
でも、毎回そうしていたらどうでしょう。
友達が自分で考えたり、失敗したり、工夫したりする機会までなくなってしまいます。
だからといって、
「何も助けなければいい」
ということでもありません。
困っているなら助ける。
危ないなら止める。
必要なら教える。
大切なのは、
「自分が、どこまで手を加える必要があるのだろう?」
と考えてみることです。

書物『老子』に登場する「無為」を考えるときにも、この問いが一つの入口になります。
『老子』の無為は、単純にすべての行動をやめるという意味ではなく、自分の欲望などから物事を無理に動かそうとする行為と対比して考えられています。
だから人物「老子」を、
「何もしないほうがいいと教えた人」
として覚えるより、
「人間は、物事に手を加えすぎていないだろうか、と考えるきっかけを残した人物」
として見てみると、その思想へ入りやすくなります。
1 こんなとき、「老子」の考えが気になってくる
仕事で、後輩が失敗しないように何でも先回りしてしまう。
子どものためを思って、本人が考える前に答えを教えてしまう。
人間関係をよくしたくて、相手の考え方まで変えようとしてしまう。
自分にも、
「もっと頑張らなければ」
「もっと成長しなければ」
と、いつも何かを求め続けてしまう。
努力することや、人を助けることが悪いわけではありません。
ここで『老子』から考えてみたいのは、
「その行動は、本当に必要なのだろうか?」
という、もう一つ手前の問いです。
自分はなぜ、そこまで手を出そうとしているのでしょう。
本当に必要だからでしょうか。
それとも、自分の思いどおりにしたい気持ちが混ざっているのでしょうか。
こんな問いを持ったとき、人物「老子」と『老子』の思想が、少し身近になってきます。
2 疑問が生まれた物語
無為自然を調べていたら、「老子」が気になった
会社員のユウタは、新しく入ってきた後輩の指導を任されていました。
ユウタは面倒見がよく、後輩にも早く仕事を覚えてほしいと思っています。
資料を作っていれば、
「そこは、こう書いたほうがいいよ」
と教えます。
作業に迷っていれば、
「次はこれ。その次はこれ」
と順番まで説明します。
間違いを見つければ、
「ここは自分で直しておくよ」
と代わりに修正することもありました。
ユウタは、本当に後輩のためを思っていました。
ところが、しばらくすると後輩は、
「次は何をすればいいですか?」
「ここはどうすればいいですか?」
と、何でもユウタに確認するようになります。
ある日、ユウタが聞きました。
「まず、自分ではどう思う?」
すると後輩は、少し困った顔をしました。
「いつも教えてもらっていたので……」
その言葉が、ユウタの中に残りました。

「助けていたつもりだったけど、もしかして手を出しすぎていたのかな」
そこでユウタは、「任せること」や「手を出しすぎないこと」について調べ始めます。
その途中で見つけたのが、
「無為自然」
という言葉でした。
そして無為自然について調べていくと、何度も同じ人物の名前が出てきます。
「老子」。
「この「老子」って、どんな人なんだろう?」
「どうして無為自然について調べると、こんなに出てくるんだろう?」
ユウタが気になったのは、無為自然という言葉の意味だけではなくなりました。
「老子」は、人間が何かを“しすぎること”について、何を考えていたのだろう。
ここから、無為自然について調べるなかで出会った人物「老子」を、もう少し詳しく見ていきましょう。
3 すぐにわかる結論
では、人物「老子」とはどんな存在なのでしょうか?
まず、ここでは詳しい歴史に入る前に、大切なところだけつかんでおきましょう。
人物「老子」は、古代中国の思想家として伝えられ、その名に結びついた思想が、後の道家思想に大きな影響を与えた存在です。
「道家(どうか)」とは、後世の中国思想の分類で、「道」を重要な手がかりとして、人間・社会・世界のあり方を考えてきた思想の流れを指します。
中国の伝統では、人物「老子」は紀元前6世紀ごろ、孔子(こうし、紀元前551年~紀元前479年)より年長の人物として伝えられてきました。
ただし、人物「老子」の生没年や詳しい人生が、歴史的事実としてすべて確認されているわけではありません。
人物「老子」についての有名な伝承を残しているのが、中国古代の歴史書『史記(しき)』です。
『史記』では、人物「老子」は姓を李(り)、名を耳(じ)とし、周王朝で記録や文書に関係する仕事に就いていた人物として語られています。
また、孔子が人物「老子」に「礼」について尋ねたことや、人物「老子」が国を去る際、「道」と「徳」について五千字余りを書き残したという伝承も記されています。
そして、その人物「老子」の名と結びついて現在まで伝わってきたのが、書物『老子』です。
書物『老子』には、
「道」
「徳」
「無為」
「自然」
など、人間や社会、世界のあり方を考えるための重要な言葉が登場します。
『老子』は、のちに『道徳経(どうとくきょう)』とも呼ばれるようになりました。
Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー/スタンフォード哲学百科事典)は、専門研究者によって執筆・更新されている学術的なオンライン哲学百科事典です。
その人物「老子」と『老子』についての解説でも、「道」「徳」「無為」「自然」などが、この思想を理解する重要な概念として扱われています。
ここで、まず覚えてほしいことは三つです。
人物として伝えられてきた「老子」がいる。
その人物の名に結びついて伝わってきた書物『老子』がある。

ただし、人物「老子」の詳しい実像や、『老子』がどのように現在の形になったのかには、今も研究上わかっていない部分がある。
まずは、この三つがわかれば十分です。
そして今回、本当に知りたいのはここからです。
なぜ無為自然について調べると、人物「老子」と書物『老子』がこれほど重要な存在として出てくるのでしょうか。
その答えを知るには、まず人物「老子」と書物『老子』を、もう少しはっきり分けて理解する必要があります。
ここまでのやさしい説明から一段深く入り、次は、
人物「老子」はどのような人物として伝えられてきたのか。
書物『老子』とは、どのような本なのか。
この二つを詳しく見ていきましょう。
4 人物「老子」と書物『老子』とは?
ここからは、これまでのやさしい紹介から一段深く入り、人物「老子」と書物『老子』について詳しく見ていきます。
最初に、最も大切なことを整理しておきましょう。
人物「老子」と、書物『老子』は分けて考える必要があります。
人物「老子」は、古代中国の思想家として伝えられてきた存在。
書物『老子』は、その人物の名と結びつき、「道」「徳」「無為」「自然」などについて語る思想書です。
同じ「ろうし」と読むので紛らわしいのですが、この違いがわかると、
「人物「老子」について、どのような伝承が残っているのか」
「書物『老子』には、実際に何が書かれているのか」
を混同せずに考えられるようになります。
人物「老子」は、どのような人として伝えられてきたのでしょうか。
人物「老子」についての有名な伝承を残しているのが、中国古代の歴史書『史記(しき)』です。
『史記』は、前漢の歴史家・司馬遷(しばせん、紀元前145年ごろ~紀元前86年ごろとされますが、生没年には異説があります)がまとめた、中国の歴史を広い時代にわたって記した歴史書です。
前漢(ぜんかん)とは、古代中国の王朝「漢」の前半にあたる時代で、紀元前202年から西暦8年まで続きました。
司馬遷は、その前漢の時代に、古い伝承の時代から自分の生きた時代までの歴史をまとめ、『史記』を著しました。
その『史記』では、人物「老子」は楚の出身で、姓を李(り)、名を耳(じ)、字を聃(たん)とする人物として紹介されています。
「字(あざな)」とは、古代中国で本名とは別に用いられた呼び名です。
ここで、
「李耳という名前なのに、どうして人物「老子」と呼ばれているの?」
と疑問に思うかもしれません。
「老子」という呼び名は、一般には「老いた先生」「年長の先生」ほどの意味を持つ尊称と理解されています。
「子(し)」は、古代中国で先生や思想家などに敬意を込めて使われた呼び方です。
そのため伝統的には、「李」が姓、「耳」が名で、「老子」はその人物を敬って呼ぶ名前として理解されてきました。
ただし、研究者のすべてがこの説明で一致しているわけではなく、「老」を姓と見る説もあります。人物「老子」の名前そのものにも研究上の議論が残っています。
ちなみに、「李」という漢字には「スモモ・スモモの木」、「耳」には文字どおり「耳」という意味があります。
ただし、その漢字の意味が、そのまま人物「老子」の名前の由来だったと確認されているわけではありません。
人物「老子」は、古代中国の思想『荘子(そうじ)』などでは、「老聃(ろうたん)」とも呼ばれています。
『荘子』は、紀元前4世紀後半ごろに活躍したと考えられている思想家「荘子(そうじ)」の思想や、その後の人々による文章を含む書物です。
人物「荘子」は、姓を荘(そう)、名を周(しゅう)といい、「荘周(そうしゅう)」とも呼ばれます。 「荘子」の「子(し)」は、古代中国で思想家や先生などに敬意を込めて使われた呼び方です。
物語やたとえ話を使いながら、人間のものの見方や「道」、生き方などを考える古代中国の重要な思想書として伝えられてきました。
その『荘子』には人物「老子」が「老聃」という名で登場する場面があります。
「聃」は長い耳と結びつけて説明されることもありますが、人物「老子」の歴史的な実像そのものに不明な点が多いため、
「李耳」という人物と、古い文献に登場する「老聃」が歴史上確実に同一人物だったと断定することはできません。
大切なのは、『史記』では人物「老子」が姓を李、名を耳とする人物として伝えられているということです。
さらに『史記』では、その人物「老子」が周王朝(しゅうおうちょう)で、「守蔵室の史」という王室の記録や文書に関係する役職に就いていたと伝えられています。
周王朝とは、古代中国に存在した王朝の一つです。
つまり『史記』の物語では、「李耳」と、周王朝で記録を扱っていた人物「老子」は別々の人物ではなく、同じ人物として語られています。
さらに、孔子(こうし、紀元前551年~紀元前479年)が人物「老子」に「礼(れい)」について尋ねたという伝承も残されています。
ここでいう「礼」は、単なる挨拶やマナーだけではありません。
古代中国における儀礼や社会の決まり、人と人との関係を整える振る舞いまで含む、広い意味を持つ言葉です。
そしてもう一つ有名なのが、人物「老子」が周の衰えを見て国を去ろうとしたときの物語です。
『史記』では、関所の役人に教えを書き残すよう求められた人物「老子」が、「道」と「徳」について五千字余りを書き残したと伝えています。
そして人物「老子」は、その後どこへ行ったのかわからなくなった、と物語は続きます。
この五千字余りの文章が、人物「老子」の名と結びつく書物『老子』として伝えられた、というのが伝統的な説明です。
では、こうした伝承の中で、人物「老子」はどのような人物として描かれているのでしょうか。
『史記』では、人物「老子」は「道」と「徳」を修めた人物として語られています。

では、ここでいう「道」と「徳」とは、どのような考えなのでしょうか。
『史記』は人物「老子」を「道」と「徳」に結びつく人物として伝えていますが、その具体的な意味を考えるうえでは、人物「老子」の名と結びついて伝わった書物『老子』に残る文章が重要な手がかりになります。
そこでここからは、書物『老子』の内容を手がかりにしながら、「道」と「徳」が何を指しているのかを簡単につかんでおきましょう。
「道(どう)」とは、『老子』が、世界のあらゆるものが生まれ、変化し、成り立っていく根本を考えるために使った言葉です。
私たち人間が「こうしよう」と命令しなくても、世界ではものが生まれ、育ち、変化していきます。
『老子』は、そうした万物が生まれ、変化していく根本にあるものを「道」と呼んで考えました。
「道」といっても、ここでは道路や進むべき人生の道という意味だけではありません。
また、人間のような姿をした神が命令して世界を動かしている、という意味でもありません。
まずは、「世界のものごとが生まれ、変化していく根本にあるものを表す言葉」と考えると理解しやすいでしょう。
では、「徳(とく)」とは何でしょうか。
現代の日本語では「道徳」という言葉から、「善いことをする」「ルールを守る」といった意味を思い浮かべるかもしれません。
しかし、『老子』の「徳」はそれだけを意味する言葉ではありません。
『老子』第51章には、
「道が万物を生じ、徳がそれを養う」
という関係が語られています。
ここでの「徳」は、「道」から受け取った働きによって、一つひとつのものが育ち、そのものらしく成り立っていく力と考えるとわかりやすくなります。
たとえば、「道」が世界全体のものごとが生まれ、変化していく根本を表す言葉だとすれば、「徳」は、その「道」の働きが一つひとつの具体的な存在に現れ、その存在を育てているところに注目した言葉です。
とても簡単に整理すると、
「道」は、世界全体の根本を考える言葉。
「徳」は、その「道」の働きが、一つひとつのものを育て、成り立たせているところを考える言葉。
と捉えると、まずは十分です。
ただし、「道」も「徳」も、『老子』の中で一言だけでは説明しきれない重要な概念です。
この先の第7章では、「無為」「自然」との関係まで含めて、
「道」「徳」「無為」「自然」が、どのようにつながっているのか
をもう一段詳しく見ていきます。
『史記』では、人物「老子」はそうした「道」と「徳」を重んじ、自分を表に出して名声を求めるより、身を隠し、名を残そうとしない人物として描かれています。
ただし、ここで重要なのは、
『史記』に残る人物「老子」の物語を、そのまますべて歴史的事実として受け取らないことです。
人物「老子」の実在や詳しい経歴については、現在も研究者の見解が一致していません。
Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー/スタンフォード哲学百科事典)でも、司馬遷がさまざまな伝承や資料をもとに人物「老子」の物語をまとめた可能性が論じられており、人物の正体については複数の研究上の見方が紹介されています。
だからこの記事でも、
人物「老子」の伝承と、書物『老子』から実際に確認できる思想は分けて考えます。

では、その人物「老子」の名と結びついて伝わってきた書物『老子』とは、どんな本なのでしょうか。
ひとことで言えば、『老子』は、
世界や人間のあり方を見つめながら、「私たちは本当にそこまで物事を自分の思いどおりに動かす必要があるのか」と問いかけてくる思想書
です。
人物「老子」の一生を順番に紹介する伝記ではありません。
現在一般的に読まれている『老子』は81章からなり、一つひとつは比較的短い文章で構成されています。
そこでは、
「世界や万物は、どのように成り立っているのか」
「人は、欲しいものを求め続ければ満たされるのか」
「強いものが、本当に最後まで強いのか」
「人や社会をよくしようとして、かえって手を加えすぎてはいないか」
「人の上に立つ者は、どのように社会と関わればよいのか」
といった問いにつながる言葉が語られています。
そのため、『老子』は長い歴史の中でさまざまな読み方をされてきました。
世界の根本を考える哲学として。
自分の欲望や生き方を考える思想として。
人の上に立つ者がどのように社会を治めるのかを考える政治思想として。
『老子』は、一つの読み方だけでは収まりきらない古典なのです。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、自己修養、統治、世界の根本についての哲学など、『老子』には複数の読み方が積み重ねられてきたことが紹介されています。
では、今を生きる私たちは、どんなときに『老子』を読めるのでしょうか。
たとえば、
頑張っているのに、なぜか物事がうまくいかないとき。
人を助けようとして、どこまで手を出せばよいのかわからなくなったとき。
誰かを自分の考える方向へ変えようとしていることに気づいたとき。
そんなときに『老子』を読むと、
「もっと何をすればいいか」だけではなく、「そもそも、そこまでしなければならないのだろうか」
という、別の問いを持つことができます。
『老子』が現代の悩みにそのまま答えを出してくれるわけではありません。
けれど、
「足すこと」
「動かすこと」
「変えること」
だけで考えていた問題を、
「減らすこと」「待つこと」「無理に動かさないこと」からも考えてみる
きっかけを与えてくれます。
そして、『老子』を理解するうえで中心となる言葉の一つが「道」です。
その「道」と深く関わりながら、
「徳」
「無為」
「自然」
といった考えが語られていきます。
この「道」と「徳」は、書物『老子』のもう一つの呼び名にも関係しています。
書物『老子』は、のちに『道徳経(どうとくきょう)』という名前でも広く呼ばれるようになりました。
ただし、これは『老子』という名前がなくなり、ある時突然『道徳経』へ改名されたという意味ではありません。
もともとこの書物は、人物「老子」の名と結びついて『老子』と呼ばれてきました。
その後、漢代になると、『老子』はしだいに重要な「経(けい)」として位置づけられていきます。
ここでいう「経」とは、単に「古い本」という意味ではありません。
古代中国では、長く受け継ぐ価値があり、学問や思想の重要なよりどころとして重んじられる古典・経典を表す言葉として使われました。
「経」という字のもともとの意味には、織物を支える縦糸があります。
そこから、長い時代を通して受け継がれる重要な書物にも「経」という字が使われるようになりました。
つまり、『老子』が「経」として扱われるようになったことは、人物「老子」の名に結びついた思想書というだけでなく、
後世まで読み継ぐ価値のある重要な古典として扱われるようになった
ことを意味します。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでは、『老子』が漢代に「経」としての地位を得ていき、『道徳経』という名称が広く使われるようになるのは漢代の終わりに近い時期だったと説明されています。
では、『道徳経』とはどんな意味なのでしょうか。
三つに分けるとわかりやすくなります。
ここでいう「道」と「徳」は、先ほど説明した『老子』の「道」と「徳」と同じ言葉です。
「道」は、世界のあらゆるものが生まれ、変化し、成り立っていく根本を考えるための言葉。
「徳」は、その「道」の働きによって、一つひとつのものが育ち、そのものとして成り立っていくことに関わる言葉です。
そして「経」は、長く受け継がれる重要な古典・経典を表します。
つまり『道徳経』は、大まかに言えば、
「道と徳について語る重要な古典」
という意味を持つ名前です。
現在一般的に読まれている『老子』は、大きく前半と後半の二つに分けられています。
第1章から第37章までの前半を「道経(どうきょう)」、第38章から第81章までの後半を「徳経(とくきょう)」と呼びます。
つまり「道経」と「徳経」は別々の書物ではありません。
一冊の『老子』を大きく二つに分けたときの、それぞれの部分につけられた名前です。
前半が「道経」、後半が「徳経」と呼ばれるのは、それぞれの部分の最初に出てくる言葉と関係しています。
第1章は「道」という言葉から始まり、第38章は「上徳(じょうとく)」という言葉から始まります。
そのため、現在一般的な『老子』では、第1章から第37章までの前半を「道経」、第38章から第81章までの後半を「徳経」と呼びます。
ただし、
「道経には道だけ」
「徳経には徳だけ」
が書かれているわけではありません。
「道」「徳」をはじめ、『老子』のさまざまな考えは前半と後半の両方に登場します。
そして、ここにも『老子』の長い歴史が見えてきます。
現在は「道経」が先、「徳経」が後ですが、この順番が最初から固定されていたわけではありません。
1973年(昭和48年)、中国・湖南省の馬王堆(まおうたい)から、絹に文字を書いた帛書(はくしょ)と呼ばれる二種類の古い『老子』写本が発見されました。
この馬王堆帛書では、現在とは反対に、「徳」にあたる部分が先、「道」にあたる部分が後に置かれています。
つまり、
現在の『老子』の並び方や81章という形が、最初からまったく同じ形で存在していたわけではありません。

現在の81章という構成も、長い伝承の中で標準的になっていった形です。古い時代には章数の異なる形や、章の区切り方が異なる伝本も存在しました。
では、人物「老子」が現在の『老子』をすべて書いたのでしょうか。
伝統的には、人物「老子」が著した書物として伝えられてきました。
だから人物も「老子」、書物も『老子』と呼ばれています。
しかし、現在の資料から、人物「老子」が現在の『老子』を一人ですべて著したと確認することはできません。
書物『老子』については、人物「老子」に結びつけられた言葉や文章のまとまりが伝えられ、それらが長い時間の中で集められ、整理され、現在に近い形になったと考える研究があります。
そのことを考えるもう一つの重要な手がかりが、郭店(かくてん)竹簡です。
1993年(平成5年)、中国・湖北省の郭店の墓から、多数の竹簡が発見されました。
竹簡(ちくかん)とは、細長い竹の札に文字を書いた古代の文書です。
その中には、現在の『老子』と重なる文章がおよそ2000字含まれていました。
墓は紀元前300年ごろのものと考えられ、郭店竹簡の『老子』関係資料は、現在確認されているものの中でも最古級です。
しかし、現在の『老子』と比べると、文章の順番や組み合わせ、文字などに違いがあります。
そのため現代研究では、人物「老子」に結びつけられた複数の言葉や文章のまとまりが伝わり、それらが長い時間をかけて整理されて現在に近い『老子』になった、と考える見方が有力です。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、紀元前4世紀ごろには人物「老子」に結びつく複数の言葉の集まりが広まり、紀元前3世紀には現在の『老子』に比較的近い形へまとまっていった可能性が示されています。
ここまで見ると、なぜ人物「老子」と書物『老子』を分けて考える必要があるのかがわかります。
人物「老子」の詳しい人生については、伝承と研究上の議論がある。
しかし、書物『老子』に残された文章そのものを読み、そこで何が考えられているのかを調べることはできます。
今回の記事で本当に知りたいのも、そこです。
人物「老子」がどこで生まれ、どこへ去ったのかだけを追いかけることではありません。
人物「老子」の名と結びついた『老子』では、なぜ「無為」や「自然」が重要なのか。
そして、
それを知ることで、なぜ無為自然という考えがもう一段深く見えてくるのか。
ここからが、今回の記事の中心です。
まずは、『老子』で重要になる「無為」から見ていきましょう。
5 無為から見る人物「老子」と『老子』
第4章では、人物「老子」と書物『老子』を分けて考えました。
ここからは、人物「老子」の名が、なぜ「無為(むい)」という考えと強く結びついてきたのかを、『老子』に残された言葉から見ていきましょう。
まず、「無為」とは何なのかを、ここで簡単に確認しておきます。
「無為」とは、何もしないことではありません。
わかりやすく言えば、
「必要なことはする。でも、自分の欲や焦りから、必要以上に手を加えて物事を自分の思いどおりに動かそうとしない」
という考えです。
たとえば、誰かが困っているときに助けることまでやめる、という意味ではありません。
助けが必要なら助ける。
間違いを止める必要があるなら止める。
けれど、
「自分の考えどおりにさせたい」
「早く結果を出したい」
「自分が何とかしなければ不安だ」
という気持ちから、必要以上に口を出したり、先回りしたり、無理に動かしたりしない。
「何もしない」のではなく、「必要以上にしない」。

これが、「無為」を理解する最初の入口です。
無為そのものについては前回の記事で詳しく扱っているので、ここでは、
なぜこの考えが『老子』の中でそれほど重要なのか
に注目していきます。
『老子』第37章には、
「道常無為而無不為(みちはつねにむいにして、しかもなさざるはなし)」
という言葉があります。
まず、この言葉そのものは、
「道はつねに無為でありながら、為さないことはない」
といった意味に読まれます。
これだけでは、かなりわかりにくいと思います。
そこで、一つずつ考えてみましょう。
ここでいう「道」は、第4章で見たように、世界のあらゆるものが生まれ、変化し、成り立っていく根本を考えるための言葉です。
そして、
「道は無為である」
というのは、「道が何もしていない」という単純な意味ではありません。
『老子』の「道」は、人間のように、
「これをこう変えよう」
「自分の計画どおりに動かそう」
「こちらの命令に従わせよう」
と意図を持って、世界のあらゆるものを一つひとつ操作している存在として描かれているわけではありません。
それでも、何も起こらないわけではありません。
ものは生まれ、育ち、変化していきます。
つまり「道常無為而無不為」は、まず入口として、
「道は、何もかもを無理に操作して動かしているわけではない。それでも、世界ではさまざまなことが起こり、ものごとは生まれ、変化していく」
という考えを表している、と理解するとわかりやすいでしょう。
しかも、第37章の文章はここで終わりません。
そのあとには、
「萬物將自化(ばんぶつまさにみずからかせん)」
という言葉が続きます。
難しく見えますが、ここでの意味は、
「あらゆるものが、おのずから変化していく」
ほどです。
「自化(じか)」の「自」は「みずから」、「化」は「変化する」という意味です。
つまり、
誰かが外から無理にすべてを動かさなくても、ものごとには、それぞれ変化していく働きがある
ということです。
第37章では、国を治める人が「道」に沿ったあり方を守ることができれば、万物がおのずから変化していく、と語られています。
ここで注意したいのは、
「放っておけば、何でも勝手にうまくいく」
という話ではないことです。
大切なのは、
「すべてを自分が動かさなければならない」と考えて、必要以上に手を加えることを問い直している
というところです。
たとえば、植物を育てる場面を考えてみましょう。
植物には、水や日光など、育つために必要なものがあります。
水が必要なら与える必要があります。
しかし、
「もっと早く大きくしたい」
と思って水を与えすぎたり、毎日引っぱって背を伸ばそうとしたりしても、植物が健康に育つわけではありません。
人間ができるのは、必要な条件を整えることです。
実際に育っていくのは、その植物自身です。
もちろん、『老子』が植物の育て方を説明しているわけではありません。
しかし、「無為」を初めて考えるときには、
「必要なことはする。しかし、自分がすべてを無理に動かそうとはしない」
という感覚をつかむ例になります。
Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー/スタンフォード哲学百科事典)でも、『老子』の wuwei(ウーウェイ/無為)は、単純にまったく行動しないことではなく、とくに自分の利益や欲望に強く動かされた行為と対照される考えとして説明されています。
つまり『老子』が問題にしているのは、
「行動したか、行動しなかったか」だけではありません。
もう一歩深いところにある、
「なぜ、その行動をしようとしているのか」
という問題です。
たとえば、
「相手のため」と言いながら、本当は自分の思いどおりに動かしたい。
「もっと頑張らなければ」と言いながら、本当は周りから評価されないことが怖い。
「今すぐ何とかしなければ」と焦って、まだ待ってもよいことにまで手を出してしまう。
「自分がやったほうが早い」と、相手が自分で考える機会まで奪ってしまう。
こうした行動は、一つひとつを見れば「何かをしている」だけです。
けれど『老子』の「無為」という考えから見ると、
「その行動は本当に必要なのか。それとも、自分の欲や焦りから、必要以上に手を加えているのか」
という別の問いが見えてきます。
そして、『老子』の「無為」が重要なのは、個人の生き方だけを扱っているからではありません。
国をどのように治めるのかという問題にも、「無為」が使われています。

『老子』第57章には、
「我無為、而民自化(われむいなれば、しかしてたみみずからかす)」
という言葉があります。
ここでの「我」は、国を治める理想的な立場の人を想定して読むことができます。
意味を簡単にすると、
「自分が無為であれば、人々はおのずから変わっていく」
ということです。
ここでも、
「国を治める人は、何もしなくてよい」
という意味ではありません。
むしろ問題にされているのは、
人々をよくしようとして、細かく命令し、縛り、すべてを上から動かそうとしすぎること
です。
何でも命令する。
何でも禁止する。
人々を自分の望む形に変えようとする。
そうした働きかけを増やし続ければ、本当に社会はよくなるのか。
『老子』は、そこを問い直します。
必要なことまでやめるのではなく、
国を治める側が余計に人々を動かしすぎず、人々自身が生活し、判断し、変化していける余地を残すこと
が重要になるのです。
ここまで見ると、なぜ「無為」が『老子』で重要なのかが見えてきます。
「無為」は、
自分自身がどう行動するのか
という問題だけではありません。
人とどのように関わるのか。
国を治める人が、人々とどのように関わるのか。
そして、
「道」は、なぜ無理に操作しなくても万物を成り立たせていると考えられるのか。
こうした問題をつないでいる言葉なのです。
だから、人物「老子」の名と「無為」が強く結びついてきました。
もちろん、人物「老子」が現在の『老子』の文章をすべて直接書いた、あるいはすべてそのまま語った、と確認されているわけではありません。
しかし、人物「老子」の名と結びついて伝わった書物『老子』では、「無為」が、人間の行動・人との関わり・政治・そして「道」の働きを考えるうえで重要な言葉として使われています。
だから無為について深く調べていくと、人物「老子」と書物『老子』へ行き着くのです。
では、『老子』は、なぜこれほど
「必要以上に動かそうとしないこと」
を大切にするのでしょうか。
その理由を考えると、もう一つの重要な言葉につながります。
それが、
「自然」
です。
ただし、ここでいう「自然」は、山や森、海といった現代日本語の「自然」だけを意味する言葉ではありません。
では、『老子』の「自然」とは何なのでしょうか。
次は、この「自然」について見ていきましょう。
6 自然から見る人物「老子」と『老子』
第5章では、「無為」について見てきました。
「無為」とは、何もしないことではなく、
必要なことはする。でも、自分の欲や焦りから、必要以上に手を加えて物事を自分の思いどおりに動かそうとしないこと
でした。
では、『老子』はなぜ、そこまで「動かしすぎないこと」を大切にするのでしょうか。
その理由を考えるうえで重要になるのが、
「自然(しぜん/じねん)」
という言葉です。
まず、ここでいう「自然」が何なのかを、普通の言葉で確認しておきましょう。
『老子』の「自然」は、山や森、海などをまとめて「自然」と呼ぶ、現在の日本語とは少し意味が違います。
古代中国語では ziran(ズーラン/自然) といい、文字を分けると、
「自」=みずから
「然」=そのようである
という意味があります。
つまり、
「誰かに無理やりそうさせられたのではなく、それ自身がそのようになっていること」
を表す言葉です。

もっと簡単に言えば、
「外から無理に形を決められたり、動かされたりしているのではない状態」
です。
たとえば、植物を考えてみましょう。
人間は、水を与えたり、日の当たる場所に置いたりすることはできます。
しかし、
「明日までに10センチ伸びなさい」
と命令して、その命令によって植物を成長させることはできません。
育つための条件を支えることはできても、実際に育っていくのは植物そのものです。
もちろん、『老子』の「自然」を植物だけで説明しきれるわけではありません。
ただ、
「外から無理にそうさせられるのではなく、それ自体の働きによってそうなっていく」
という感覚をつかむ例にはなります。
『老子』第25章には、
「道法自然(みちはしぜんにのっとる)」
という有名な言葉があります。
その前には、
「人は地に法り、地は天に法り、天は道に法り、道は自然に法る」
という流れが語られています。
ここでの「法る(のっとる)」は、
「それに従う」「それを手本とする」
ほどの意味です。
では、
「道は自然に法る」
とは、どういうことでしょうか。
ここで「自然」を山や森という意味で読んでしまうと、
「道よりも上に“自然界”があって、道がそれに従っているの?」
と思ってしまいます。
しかし、ここでの「自然」は、その意味ではありません。
「道」は、誰かに命令されて働いているものでも、さらに上にいる何かによって作られたものでもない。
「道」は、外から無理にそうさせられているのではなく、それ自体としてそうである。
「道法自然」は、まずそのように理解するとわかりやすいでしょう。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、この「自然」は、単なる自然界ではなく、**「自らそうであること」**として説明されています。
そして、「自然」は「道」だけに使われる言葉ではありません。
『老子』第64章には、
「輔萬物之自然而不敢為(ばんぶつのしぜんをたすけて、あえてなさず)」
という言葉があります。
まず、難しい言葉を分けてみましょう。
「輔(ほ)」は、「助ける」「支える」。
「万物(ばんぶつ)」は、この世界に存在するさまざまなもの。
そしてここでの「自然」は、先ほど見た「それ自体がそうなっていくこと」です。
この文章では、
万物がそれぞれ自らそうなっていくことを助けながら、自分の考えで無理に作り変えようとはしない
という方向が示されています。
この場面で登場するのが、
「聖人(せいじん)」
です。
「聖人」といっても、ここでは神様という意味ではありません。
『老子』の中で、「道」に沿った理想的な考え方や生き方をする人物を表す言葉です。
ここで、とても大切なことが見えてきます。
『老子』が言っているのは、
「何も助けるな」
ではありません。
第64章には、実際に「輔」、つまり「助ける・支える」という言葉が使われています。
助けることはできる。
支えることもできる。
けれど、
相手や物事が自分で動いていくところまで奪って、自分の望む形に作り変えようとはしない。
ここが重要なのです。
たとえば、仕事を教える場面を考えてみましょう。
後輩がわからないところを説明する。
必要な情報を渡す。
大きな失敗につながりそうなら止める。
こうしたことは「支える」ことです。
しかし、
まだ本人が考えている途中なのに全部答えを教える。
やり方を一から十まで自分と同じにさせる。
自分の理想どおりになるまで細かく口を出す。
そこまでいくと、
「助けること」と「自分の思いどおりに動かすこと」の境目
が見えにくくなってきます。

『老子』の「自然」という考えは、
「相手や物事には、自分で動き、変化していく部分がある。それを必要以上に奪っていないだろうか」
と考えるきっかけを与えてくれます。
ここで、第5章で見た「無為」とつながります。
「自然」は、
外から無理にそうさせられるのではなく、それ自体がそうなっていくこと。
「無為」は、
その動きを自分の欲や焦りで必要以上に邪魔したり、自分の思いどおりに作り変えたりしないこと。
です。
簡単な例でいえば、
植物が育っていくことそのものに注目するのが「自然」。
水や日光など必要なものは支えながら、早く育てようとして無理に引っぱらないのが「無為」。
このように考えると、二つの違いが見えやすくなります。
もちろん、「自然」と「無為」は植物の話だけを表す言葉ではありません。
『老子』では、人間の生き方や人との関わり、政治などにも広がっていく考えです。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、wuwei(ウーウェイ/無為)は、ziran(ズーラン/自然)を実際の人間の生き方や行動の中で考えるための重要な言葉として説明されています。
では、
なぜ物事には「自然」と呼ばれる、自らそうなっていく働きがあると『老子』は考えるのでしょうか。
ここで、第4章から何度も登場してきた、
「道」と「徳」
がもう一度重要になります。
7 「道・徳・無為・自然」はどうつながるのか
ここまで、
「道」
「徳」
「無為」
「自然」
という四つの言葉が出てきました。
それぞれの意味がわかっても、
「結局、この四つは何の関係があるの?」
と思うかもしれません。
そこで、この章では四つを一つにつないで考えてみましょう。
まず、一番大きなところにあるのが、
「道(どう)」
です。
「道」は何だったでしょうか。
第4章でも見たように、ここでいう「道」は道路のことではありません。
また、人間のような姿をした神様でもありません。
『老子』第25章では、天地よりも前からあるものについて語り、その名前がわからないため、仮に「道」と呼ぶという形で説明されています。
つまり「道」は、
「なぜこの世界では、ものが生まれ、育ち、変化していくのか。そのいちばん根本にあるものを考えるためにつけられた名前」
です。
私たちは木を植えることはできます。
しかし、人間が木の中に入り込んで、葉を一枚ずつ作っているわけではありません。
人間が毎朝太陽を昇らせているわけでもありません。
人間が世界のすべてを動かしていなくても、世界ではさまざまなものが生まれ、変化しています。
『老子』は、そうした世界全体が成り立ち、変化していく根本を考えるときに、
「道」
という言葉を使います。
では、
「徳(とく)」
とは何だったでしょうか。
「徳」も、ここでは単純に
「善い人になること」
「決まりを守ること」
という意味ではありません。
『老子』第51章には、
「道生之、徳畜之(みちこれをしょうじ、とくこれをやしなう)」
という言葉があります。
簡単にすると、
「道が生み、徳が養う」
という意味です。
これも、そのままではわかりにくいので、普通の言葉にしてみましょう。
「道」が、ものが生まれ変化していく世界全体の根本を考える言葉だとすれば、
「徳」は、その「道」の働きを受けながら、一つひとつのものが育ち、そのものとして成り立っていく働きに注目する言葉
です。
たとえば、
「世界には、植物が生まれ育っていく大きな成り立ちがある」
というところを見るのが「道」だとします。
そこからさらに、
「この木が、この木として芽を出し、枝を伸ばし、育っていく」
という、一つひとつの存在が育ち成り立っていくところに目を向ける。
その違いを考えると、「道」と「徳」の関係をつかみやすくなります。
もちろん、これは「道」と「徳」を初めて理解するための例であり、二つの概念を植物だけで説明しきれるわけではありません。
そして『老子』第51章では、「道」と「徳」について、さらに大切なことが語られます。
「道」が尊ばれ、「徳」が重んじられるのは、
誰かがそうしろと命令したからではなく、「常に自然」である
というのです。
ここで第6章の「自然」がつながります。
「自然」とは、誰かに外から無理やりそうさせられるのではなく、それ自体がそうなっていくこと。
つまり『老子』では、
世界の根本である「道」も、
そこから一つひとつのものが育ち成り立っていくことも、
誰かが外から細かく命令して動かしているものとしては考えられていません。
ものごとは、それぞれが自らそうなっていく。
この考えを表す重要な言葉が「自然」です。
そして、ここで人間の問題が出てきます。
世界や物事には自ら動き、変化していく部分がある。
それなのに人間が、
「全部自分の思いどおりにしたい」
「もっと早く結果を出したい」
「こうならなければならない」
と考えて、必要以上に手を加え続けたらどうなるでしょうか。
そこで重要になるのが、
「無為」
です。
「無為」は何もしないことではありません。
必要なことはする。しかし、自分の欲や焦りから、必要以上に物事を動かそうとしない。
これが、第5章で見てきた「無為」です。
ここまでを、できるだけ普通の言葉で一本につないでみましょう。

「道」
→ 世界では、人間がすべてを動かさなくても、ものが生まれ、育ち、変化している。その世界全体の根本を考えるための言葉。
「徳」
→ その「道」の働きを受けて、一つひとつのものが育ち、そのものとして成り立っていくところに注目する言葉。
「自然」
→ 誰かに外から無理やりそうさせられるのではなく、それ自体がそうなっていくこと。
「無為」
→ その動きを、自分の欲や焦りから必要以上に邪魔したり、自分の思いどおりに作り変えたりしないこと。
この四つを、さらに短くつなぐなら、
世界には「道」があり、その働きによって一つひとつのものが育ち成り立つところを「徳」と考える。
それらは外から無理に命令されてそうなるのではなく、「自然」にそうなっていく。
だから人間も、すべてを自分の思いどおりに動かそうとせず、「無為」という向き合い方を大切にする。
という関係が見えてきます。
ただし、ここで一つ注意が必要です。
これは、
「道 → 徳 → 自然 → 無為」
という四段階の決まった公式が『老子』に書かれている、という意味ではありません。
四つの言葉は『老子』のさまざまな章に登場し、互いに関係しながら、世界や人間について考える大きな思想をつくっています。
『老子』は短く、いくつもの意味に読める文章を多く含むため、「道」「徳」「自然」「無為」についても長い解釈の歴史があります。
ここで整理したのは、
初めて『老子』を読む人が、四つの言葉の関係を見失わないための入口
です。
そして、今回の記事にとって特に重要なのはここです。
現在私たちは、
「無為自然」
という言葉を一つのまとまりとして使うことがあります。
しかし『老子』を詳しく見ていくと、「無為」と「自然」だけが二つだけで孤立しているわけではありません。
その奥には、
世界はどのように成り立っているのかを考える「道」。
一つひとつのものが、どう育ち成り立つのかを考える「徳」。
があります。
だから無為自然について深く調べていくと、人物「老子」の名と書物『老子』へ行き着くのです。
人物「老子」が何年に生まれ、どこで亡くなったのかだけを知ることが、今回の目的ではありません。
大切なのは、
人物「老子」の名と結びついて伝わった『老子』が、世界や人間をどのように見ているのかを知ること。
そこまで見て初めて、
「なぜ無為自然を考えるとき、人物「老子」と『老子』が重要なのか」
が見えてきます。
そして、ここまで理解すると、さらに次の疑問が出てきます。
なぜ『老子』は、人間が物事を動かしすぎることをこれほど問い直すのでしょうか。
人はなぜ、
「もっと欲しい」
「もっと強くなりたい」
「相手を自分の思いどおりにしたい」
「何かをしなければならない」
と思うのでしょうか。
次は、人物「老子」の名に結びついた『老子』が、
人間の欲望、強さ、支配しようとする気持ち、そして「何かをしなければ」という思いを、どのように問い直しているのか
を見ていきましょう。
9 おまけコラム 孔子は人物「老子」に会った?
『史記』に残る「龍のような人」という伝承
ここまで人物「老子」と『老子』の思想を見てきましたが、ここでは少しだけ本筋を離れて、人物「老子」にまつわる興味深い伝承を見てみましょう。
その相手として登場するのが、孔子(こうし、紀元前551年~紀元前479年)です。
孔子は、古代中国の魯(ろ)という国に生きた思想家・教育者です。
人物「孔子」は、姓を孔(こう)、名を丘(きゅう)といい、姓名では「孔丘(こうきゅう)」と呼ばれます。また、字(あざな)は「仲尼(ちゅうじ)」と伝えられています。
「孔子」の「子(し)」は、古代中国で思想家や先生などに敬意を込めて使われた呼び方です。
つまり、「孔子」は本名そのものではなく、「孔先生」ほどの意味を持つ敬称です。
孔子は、人はどのように生きるべきか、人と人とはどのような関係を築くべきか、社会をどのように治めるべきかといった問題を考えた人物です。
その言葉や弟子たちとの対話は、のちに弟子や後世の人々によってまとめられた『論語(ろんご)』に伝えられています。
孔子が生きたのは、日本で最初の元号「大化」が使われるより千年以上も前です。
特に孔子は、「礼(れい)」を重視した人物として知られています。
ここでいう「礼」は、単なる挨拶や礼儀作法だけではありません。古代中国における儀礼や社会的な決まり、人と人との関係を整えるための振る舞いまで含む、広い意味を持つ言葉です。Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー/スタンフォード哲学百科事典)でも、孔子の思想において礼が人格形成や社会のあり方と深く関わっていたことが説明されています。
では、その孔子と人物「老子」に、どのような関係があったのでしょうか。
『史記』に残されているのは、「孔子が人物「老子」に礼について教えを求めた」という伝承です。
第4段落でも少し触れましたが、『史記』の「老子韓非列伝」では、孔子が周へ行き、人物「老子」に「礼」について尋ねたとされています。
そこで人物「老子」は、孔子に対して、昔の偉人たちの身体はすでに朽ち、言葉だけが残っていることを語り、さらに自分の驕りや多すぎる欲望を取り去るよう忠告したと伝えられています。
そして面白いのは、その後です。
人物「老子」と別れた孔子は、弟子たちにその印象を語ります。
鳥なら、飛ぶことがわかる。
魚なら、泳ぐことがわかる。
獣なら、走ることがわかる。
ところが龍については、風や雲に乗って天へ昇っていくため、自分にはその動きを捉えることができない。
そして孔子は、人物「老子」について、
まるで「龍」のような人物だった
という趣旨の言葉を残したと『史記』は伝えています。

なぜ「龍」なのでしょうか。
ここで人物「老子」が本当に龍だった、という話をしているわけではありません。
鳥や魚、獣であれば、その動き方を予想できます。
しかし龍は、人間の思うようには捉えられない存在として描かれます。
つまりこの伝承の中の孔子は、人物「老子」を、自分の知識や物差しだけでは簡単に捉えることのできない、底知れない人物として表現していると読むことができます。
ただし、ここからは「伝承」と「歴史的に確認できること」を分けて考える必要があります。
孔子が人物「老子」に会ったという話は『史記』だけでなく、『荘子(そうじ)』などほかの古い文献にもさまざまな形で伝えられています。
一方で、歴史上の孔子と人物「老子」が本当にこのように出会い、この会話を交わしたことまで確認されているわけではありません。
そもそも人物「老子」の実在や生涯そのものについて研究上の議論があることは、第4段落で見てきたとおりです。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、孔子と人物「老子」の面会について複数の古代文献に伝承があることを紹介する一方、『史記』に残る人物「老子」の伝記をそのまま歴史的事実として受け取ることには慎重な見方が示されています。
では、この話に意味はないのでしょうか。
大切なのは、この伝承から「二人は確実に会った」と証明することではありません。
むしろ興味深いのは、
後世の人々が、人物「老子」を、「普通の人のようには簡単に理解できない、奥深い人物」として語っていたことです。
中国思想の歴史に大きな影響を残した孔子が、その人物を「龍」にたとえた――。
たとえそれが歴史的事実として確認できない伝承であっても、そのような物語が長く語り継がれたこと自体が、人物「老子」が後世にどのような存在として受け取られてきたのかを考える手がかりになります。
書物『老子』には、強く自分を押し出すよりも身を低くすることや、物事を簡単に決めつけず、言葉だけでは捉えきれない「道」について考えようとする姿勢が繰り返し現れます。
そんな『老子』を読み進めたあとで、孔子が人物「老子」を「龍」にたとえたという伝承に触れると、
人物「老子」が、単に昔の有名な思想家としてではなく、その考えや人物像を簡単には言い表せない、奥深い賢者として記憶されてきたことも、少しイメージしやすくなるのではないでしょうか。
――ここまで、人物「老子」と書物『老子』をたどりながら、「道」「徳」「無為」「自然」という考えを見てきました。
この先は、興味に合わせて第10段落の応用編へ進んでみましょう。
『老子』の言葉は、意味がわかったつもりでも、現代の日本語に置き換えた瞬間に少し違った意味で受け取ってしまうことがあります。
似ている言葉や反対に見える言葉まで知っておくと、『老子』の考えはもっと立体的に見えてきます。
そして、自分の日常についても、自分自身の言葉で考えやすくなります。
10 応用編 『老子』の言葉を、自分の言葉で考えるために
ここまで登場した『老子』の言葉には、現代の日本語と似ているために、かえって意味を取り違えやすいものがあります。
そこでここでは、
「似ているけれど、同じではない言葉」
を比べながら整理してみましょう。
大切なのは、難しい言葉を暗記することではありません。
「結局、その言葉は何を表しているのか」
を、自分の言葉で説明できるところまで理解することです。
「無為」と「何もしないこと」は、同じではありません。
『老子』の「無為(むい)」とは、何もせずに放っておくことではありません。
簡単にいえば、
必要なことはする。でも、自分の欲や焦りから、必要以上に手を加えて物事を自分の思いどおりに動かそうとしないこと
です。
たとえば、困っている人を助けることまでやめるわけではありません。
必要なら助ける。
しかし、
「自分のやり方に従わせたい」
「早く結果を出したい」
という気持ちから、相手が自分で考えられるところまで先回りしてしまう。
『老子』の「無為」は、そうしたやりすぎを問い直す考えです。
Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー/スタンフォード哲学百科事典)でも、wuwei(ウーウェイ/無為)は完全に何もしないことではなく、とくに自分の利益や欲望に強く動かされた行為と対照される考えとして説明されています。
なお、「無為」の反対語として「有為(ゆうい)」という言葉を見かけることがありますが、「有為」には後の中国思想や仏教などで別の意味もあります。
そのため、ここでは機械的に「無為 対 有為」と覚えるより、
「必要以上に動かそうとしないこと」と「自分の思惑で無理に動かそうとすること」の違い
として考えるほうがわかりやすいでしょう。
つまり「無為」は、
「何もしないこと」ではなく、「必要以上にしないこと」
です。
『老子』の「自然」と、現代の「自然体」は、同じではありません。
現代の日本語で「自然体でいこう」というと、
「肩の力を抜く」
「飾らない」
といった意味で使うことがあります。
これは『老子』の「自然」を考えるきっかけにはなりますが、意味はもっと広いものです。
『老子』のziran(ズーラン/自然・自らそうであること)とは、
誰かに外から無理やりそうさせられるのではなく、それ自体がそうなっていくこと
です。
たとえば、誰かを成長させようとして、自分の考える理想の形に無理やり変えるのではなく、必要なところは支えながら、その人自身が考え、変化していく余地を残す。
こうした場面を考えると、「自然」の意味をイメージしやすくなります。
だから『老子』の「自然」を、
「力を抜いてリラックスすること」
だけで理解するのは十分ではありません。
つまり「自然」は、
「自然体でいること」だけではなく、「外から無理に作り変えられるのではなく、それ自体がそうなっていくこと」
を表す言葉です。
そのため、「自然」の反対語を一語で決めるよりも、
外から無理に押しつけること、必要以上に操作すること、自分の思いどおりに作り変えようとすること
との違いを見るほうが理解しやすくなります。
「無欲」と「欲望を全部なくすこと」は、同じではありません。
『老子』の「無欲(むよく)」を、食べたい、休みたい、安心して暮らしたいといった、人間の必要まで全部なくすことだと考える必要はありません。
『老子』を理解するときに問題になるのは、とくに、
「もっと欲しい」
「もっと評価されたい」
「もっと上に行きたい」
と、満足するところがなく、どこまでも自分を満たそうとしてふくらんでいく欲望です。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、『老子』の「自然」は人間の基本的な必要を含む一方で、終わりなく自己満足をふくらませる欲望とは区別して説明されています。
たとえば、
お腹が空いたから食べたい。
疲れたから休みたい。
ということと、
「もっと高価なものを持たなければ満足できない」
「もっと他人から評価されなければ安心できない」
ということは、同じではありません。
大切なのは、
必要なものを求めることと、「もっと、もっと」と際限なく求め続けることを分けて考えること
です。
つまり「無欲」は、
「何も欲しがらないこと」ではなく、「必要以上にふくらんだ欲望に振り回されないこと」
と考えるとわかりやすいでしょう。
だから『老子』から考えたいのは、
「欲があるか、ないか」
だけではありません。
「これは本当に自分に必要なものなのか。それとも、満足できずにもっと求め続けているのか」
という問いです。
「柔弱」と「ただ弱くなること」は、同じではありません。
『老子』には、
「柔弱(じゅうじゃく)」
という言葉が登場します。
「柔」は柔らかいこと。
「弱」は強く押し返さないことを表します。
その反対側に置かれるのが、
「剛強(ごうきょう)」
です。
「剛」は硬いこと。
「強」は強く押し通すことです。
私たちは普段、
「硬いほうが強い」
「押し通せるほうが強い」
と考えがちです。
しかし『老子』は、その「強さ」の基準そのものを問い直します。
第78章には、
「天下莫柔弱於水(てんかにみずよりじゅうじゃくなるはなし)」
という、水についての言葉があります。
水は柔らかく、形も決まっていません。
手で押しても、すぐに形を変えます。
一見すると、とても「弱い」ものに見えます。
ところが水は、長い時間をかければ硬いものにも働きかけ続けます。
『老子』第78章では、柔らかく弱い水と、硬く強いものを比べながら、「硬い=いつでも強い」「柔らかい=いつでも弱い」という考え方を問い直しています。
つまり「柔弱」は、
「弱い人になりなさい」という意味ではなく、「押し返すことや硬さだけが強さではない」と考えるための言葉
です。
「不争」と「何でも相手に負けること」も、同じではありません。
柔弱と関係して、『老子』で大切になるもう一つの言葉が、
「不争(ふそう)」
です。
簡単にいえば、
自分が勝つために、何でも相手と争って押しのけようとしないこと
です。
『老子』第8章では、水について、
「水善利萬物而不爭(みずはよくばんぶつをりしてあらそわず)」
と語られます。
簡単にすると、
「水はさまざまなものを潤し、役に立ちながら、自分が上に立とうとして争わない」
という意味です。
ここでいう「不争」は、
何を言われても我慢する。
自分の意見を持たない。
必ず相手に負ける。
という意味ではありません。
『老子』が水に注目するのは、役に立ちながらも、
「自分が一番だ」と前へ出て、他者を押しのけようとしない
ところです。
つまり「不争」は、
「負けること」ではなく、「勝つことや優位に立つことだけを目的に争わないこと」
と考えるとわかりやすいでしょう。
ここまでの言葉を、同じ形でもう一度整理してみましょう。
「無為」と「何もしないこと」は、同じではありません。
無為は、必要なことはしながら、必要以上に物事を動かそうとしないこと。
『老子』の「自然」と、現代の「自然体」は、同じではありません。
自然は、外から無理にそうさせられるのではなく、それ自体がそうなっていくこと。
「無欲」と「欲望を全部なくすこと」は、同じではありません。
無欲は、必要以上にふくらむ欲望に振り回されないこと。
「柔弱」と「ただ弱くなること」は、同じではありません。
柔弱は、硬さや押しの強さだけを「強さ」と考えないための言葉。
「不争」と「何でも相手に負けること」は、同じではありません。
不争は、勝つことや優位に立つことだけを目的に、相手を押しのけて争わないこと。
こうして比べてみると、『老子』には一つの共通した問いが見えてきます。
「自分が当然だと思っている『強さ』『行動』『欲望』『自然さ』は、本当にそれだけが正しい意味なのだろうか」
という問いです。
『老子』のおもしろさは、難しい言葉の意味を暗記することだけにあるのではありません。
普段は疑わずに使っている言葉や価値観を、いったん立ち止まって考え直すところにもあるのです。
11 さらに学びたい人へ
ここまで読んで、
「人物「老子」や『老子』について、もう少し知りたい」
「実際の81章も読んでみたい」
「今回出てきた道・徳・無為・自然を、もっと深く確かめたい」
と思った人に向けて、読み方の違う3冊を紹介します。
まずは楽しく知りたい人・小学生高学年くらいから挑戦したい人へ
『マンガでわかる老子《入門》 「無為自然」の教えを学ぶ!』著者:周春才 訳者:漆嶋稔
『老子』の全81章を現代語訳とマンガで紹介する入門書です。
書物『老子』をいきなり漢文で読むのは難しそう、という人でも、場面やイメージを使って読み進められるのが大きな特徴です。書誌情報と81章を扱う構成は、国立国会図書館と書店情報の双方で確認できます。
小学生向けとして出版された児童書ではありませんが、小学校高学年くらいなら、大人と一緒に「これはどういう意味だろう?」と考える最初の一冊として使いやすいでしょう。
一度『老子』を読んで、さらに正確に確かめたい人へ
『老子 全訳注』 著者:池田知久
この本の大きな特徴は、原文・読み下し・現代語訳・解説を通して『老子』を確認できるだけでなく、馬王堆帛書などの出土資料も重視していることです。講談社の公式紹介でも、各種の出土資料を踏まえて本文を検討していることが明記されています。
第4段落で、「現在の『老子』は最初から今とまったく同じ形だったわけではない」
という話に興味を持った人には、特に相性のよい一冊です。
今回の記事より一段深く、
「その解釈は、実際の原文ではどうなっているのだろう?」
と確かめながら読みたい人におすすめします。
今回の記事全体を、もう一度『老子』そのものと結びつけたい人へ
『老子』(副題「無知無欲のすすめ」) 編訳:金谷治
この本のよさは、単に現代語訳を読むだけでなく、
「道とは何か」「無為とは何か」「欲望をどう考えるのか」「なぜ柔らかさや不争が大切なのか」
といった、『老子』全体の思想を考えながら読めるところです。
今回の記事を一通り読んだ人が、次に一冊選ぶなら特におすすめしやすい本です。
この記事で見てきた、様々な言葉を、記事だけで終わらせず、実際の『老子』の文章へ戻って確かめることができます。
最初からすべてを理解する必要はありません。
『老子』は短い文章だからこそ、一度読んだだけでは意味を決めきれないところがたくさんあります。
だからこそ、
一つの章を読んで、自分の日常を思い出し、また原文に戻って考える。
そんな読み方ができます。
「人物「老子」は何を言いたかったのだろう」と急いで一つの答えを決めるよりも、
『老子』の言葉を手がかりに、「自分ならどう考えるだろう」と問い続けること。
それもまた、『老子』を読む面白さの一つです。
12 まとめ・考察
ここまで、人物「老子」と書物『老子』をたどりながら、「道」「徳」「無為」「自然」といった考えを見てきました。
今回の記事で大切なのは、無為自然という言葉だけを知ることと、人物「老子」や『老子』まで知ることでは、見えてくるものが違うということです。
無為自然だけを見ると、
「無理をしすぎないこと」
「自然に任せること」
といった生き方の知恵として理解することもできます。
しかし『老子』までたどると、その奥にはもっと大きな問いがあります。
人間は、なぜ物事を自分の思いどおりに動かそうとするのか。
本当に必要な行動と、自分の欲望や不安から加えすぎている行動は、どう見分ければよいのか。
ここまで考えて初めて、「無為」や「自然」が単なる「何もしない」「力を抜く」という話ではないことが、よりはっきり見えてきます。
私が『老子』の思想から特に面白いと感じるのは、問題を解決するときに「何を足すか」だけではなく、「何をしすぎているのか」も考えられるようになることです。

たとえば、後輩が仕事に迷っているとき。
心配だからと答えを全部教えることもできます。
けれど、
「ここまでは教える。でも、ここからは本人に考えてもらおう」
と考えることもできます。
家族や友人に悩みを相談されたときも同じです。
すぐに自分の答えを伝えるのではなく、
「相手は本当はどうしたいのだろう」
と一度聞いてみる。
自分自身が「もっと頑張らなければ」と焦っているときなら、新しい努力を増やす前に、
「今していることの中で、本当は減らしてもよいものはないだろうか」
と考えてみる。
『老子』から考えられる答えの一つは、
「何もしないこと」ではなく、「必要なことと、しすぎていることを見分けること」
ではないでしょうか。
そしてもう一つは、
自分がすべてを動かそうとせず、人や物事が自ら動ける余地を残すことです。
もちろん、助けが必要なときに何もしない、という意味ではありません。
必要なら助ける。
しかし、助けることで相手が自分で考える機会まで奪っていないかを見る。
行動する。
しかし、その行動が本当に必要なのか、それとも自分の不安を消すためなのかを考える。
迷ったときは、
「これは本当に必要だからしているのか」
「少し手を引いたら、相手や物事が自ら動ける余地はあるだろうか」
という二つの問いを持ってみるとよいかもしれません。

無為自然という言葉だけを知っていたときには、「無理をしない考え方」と見えていたものが、人物「老子」と『老子』までたどることで、
「自分は、何をしすぎているのだろう」
「どこまでは自分が行い、どこから先は任せられるだろう」
という、自分自身の生き方を考える問いへ変わっていきます。
それが、人物「老子」と『老子』まで知ることで、無為自然がもう一段深く見えてくる理由の一つだと考えられます。
13 疑問が解決した物語
無為自然について調べるうちに、人物「老子」と書物『老子』に出会ったユウタ。
最初の疑問は、
「どうして無為自然について調べると、人物「老子」が何度も出てくるのだろう?」
というものでした。
けれど、『老子』の「無為」や「自然」を知るうちに、ユウタは少しずつ答えに近づいていきました。
ある日、後輩がまた尋ねました。
「ユウタさん、ここはどうしたらいいですか?」
以前なら、ユウタはすぐに答えを教えていたでしょう。
でも、その日は少し待って、
「君はどうしたいと思ってる?」
と聞いてみました。
後輩はしばらく考えてから、
「自分では、こっちがいいと思っています」
と答えました。
ユウタはそこで初めて、
「答えを教えることだけが、助けることではないのかもしれない」
と実感しました。
それからは、何も教えなくなったわけではありません。
必要なら説明する。
大きな間違いは止める。
でも、すぐに手を出す前に、
「これは本当に自分がする必要があるのか。それとも、相手が自分で考えられるところなのか」
と考えるようになりました。
すると少しずつ、後輩も、
「次は何をすればいいですか?」
ではなく、
「自分ではこう考えたんですが、どうでしょうか?」
と相談するようになっていきました。
ユウタが人物「老子」と『老子』から得たのは、
「何もしない」という答えではありません。
「必要なことはする。でも、しすぎない」
という考え方でした。

相手ができないところは助ける。
自分で考えられるところは、すぐに奪わない。
そして迷ったら、
「これは必要な助けか。それとも、自分が安心したいから手を出しているのか」
と考えてみる。
それが、ユウタなりに見つけた一つの答えでした。
では、あなたならどうでしょうか。
誰かを助けようとするとき、
どこまで手を貸し、どこから相手に任せるでしょうか。
答えは一つではありません。
でも、人物「老子」と『老子』の考えを手がかりにするなら、
「するか、しないか」ではなく、「どこまでが必要なのか」を考える。
そこから、自分なりの答えを探していくことができます。
14 文章の締めとして
無為自然について調べていたはずなのに、気づけば人物「老子」と書物『老子』にたどり着き、「道」「徳」「無為」「自然」という言葉の奥まで見てきました。
人物「老子」の本当の姿には、今もわからないことが残っています。
それでも、人物「老子」の名とともに伝えられてきた『老子』の言葉は、長い時間を越えて、今を生きる私たちにも問いを投げかけています。
何かがうまくいかないとき、私たちはつい、
「もっと何かをしなければ」
と考えてしまいます。
けれど、ときには新しいことを足す前に、
「自分は、何かをしすぎていないだろうか」
と考えてみる。
その小さな問いによって、今まで見えなかったものが見えてくることもあるのかもしれません。
すぐに答えを出さなくてもいい。
すべてを自分で動かそうとしなくてもいい。
必要なことをしながら、相手や物事が自ら動いていく余地を残してみる。
人物「老子」と『老子』について知ることは、昔の中国思想を覚えることだけではなく、自分がどのように人と関わり、どのように生きたいのかを、少し違う角度から考えてみることにもつながっています。

補足注意
この記事は、人物「老子」と書物『老子』について、現在確認できる文献や研究をもとに、個人で調べられる範囲で整理したものです。
人物「老子」の実在や詳しい生涯、『老子』の成立過程、各言葉の解釈については、研究者の間でもさまざまな見方があります。
そのため、ここで紹介した内容が唯一の答えではありません。
また、古い資料の発見や研究の進展によって、これまでの理解が修正されたり、新しい見方が生まれたりする可能性もあります。
🧭 本記事のスタンス
この記事が、
「これが正解だ」と決めるためではなく、「もっと知りたい」「自分でも調べてみたい」と思うための入り口
になれば幸いです。
『老子』には長い解釈の歴史があります。
ぜひ一つの説明だけで終わらせず、さまざまな立場や読み方にも触れながら、自分なりに考えてみてください。
この記事をきっかけに人物「老子」を知り、書物『老子』にもっと惹かれたなら、ここで「道」を止めず、さらに深い文献や資料へ――「老子」を知るほど『老子』は深まり、『老子』を読むほどあなた自身の「道」もまた深まっていくのかもしれません。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
人物「老子」と『老子』の言葉は、何かを変えようとする前に、まず「本当にそこまで手を加える必要があるのか」と自分自身に問いかける大切さを教えてくれているのかもしれません。


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