すぐにわかる結論
流言(りゅうげん)とは、確かな根拠が示されないまま、人から人へと伝わっていく話のことです。 私たちが普段「うわさ」と呼ぶものにあたり、必ずしも嘘とは限りません。
心理学では、自分にとって重要で、事実がはっきりしない話ほど、広まりやすいと考えられてきました。
ただし、これは噂の広がりを説明する一つの考え方です。実際には、人々の不安や、その話をどれほど信じているかなども関係します。
導入
なぜ噂は、いつの間にか広がっていくのか?
「文化祭が中止になるらしいよ」
例えば、学校で友達からこんな話を聞いたら、あなたはどうしますか。
気になって、別の友達にも聞いてみるかもしれません。
ところが放課後には、「文化祭は中止に決まったんだって」と話す人がいる。
最初は「らしい」という不確かな話だったのに、いつの間にか事実のように伝わっています。
これは説明のために考えた例ですが、似たことは職場やSNS(エスエヌエス。インターネット上で情報を投稿・共有するサービス)でも起こりえます。
噂は、人から人へ伝わる途中で、内容や受け取られ方が変わることがあります。
聞いた人が一部を忘れたり、自分なりの解釈を加えたりすることがあるためです。
しかも、多くの人が話しているからといって、その内容が事実だとは限りません。
この記事では、先ほど紹介した流言について、心理学の研究や実際の事件を通して、噂が広がり、変化する仕組みを読み解きます。
その仕組みを知ることで、気になる話を聞いたときにも、何を確かめればよいか判断する手がかりが得られるはずです。
1 疑問が生まれた物語
誰が言い始めたのかわからない噂
※以下は、身近な場面を想像するための創作です。
月曜日の朝、会社員の美咲は、同僚から声をかけられました。
「来月、人員整理があるかもしれないって」
人員整理とは、会社が働く人の数を減らすことです。
「誰が言ってたの?」
「別の部署の人。でも、会社からの発表はないみたい」
美咲は、まだ決まった話ではないと思いました。
それでも仕事中、何度もその言葉が頭に浮かびます。もし自分が対象になったら、生活はどうなるのだろう。
昼休みには、別の同僚まで同じ話をしていました。
「最近、上司たちの会議が増えているらしいよ」
何人も話しているなら、本当なのかもしれない。
そう感じた美咲は、話の出どころを尋ねました。
ところが、誰も最初に言った人を知りません。会議が増えたことと、人員整理に関係があるのかもわからないのです。
帰りの電車で、美咲は家族にメッセージを書きました。
「うちの会社、人員整理があるらしい」
送信する直前、指が止まります。
「私も確かめていないのに、誰かに伝えようとしている……」
嘘をつくつもりはありません。ただ、不安な気持ちを誰かに聞いてほしかったのです。
美咲はメッセージを消して考えました。
ほかの人たちも、同じように心配して話したのだろうか。
気になるのに、確かなことがわからない。そんなとき、人は不安をやわらげたり、答えを探したりするために、誰かに話すことがあります。
美咲は、そんな人の気持ちが噂の広がりとどう関係しているのか、知りたくなりました。
2 流言とは?「うわさ」の正しい意味と、研究を始めた二人の心理学者
先ほど、美咲は「人員整理があるらしい」という話を聞きました。
話の出どころも、確かな証拠もわからない。それでも、何人もの同僚が話しているうちに、本当かもしれないと感じ始めました。
ここで知っておきたいのが、「本当の話かどうか」と「本当だと確かめられる根拠があるか」は、別の問題だということです。
実は、この違いが「流言」を理解するうえでも大切になります。
流言(りゅうげん) は、心理学では英語の rumor(ルーマー、「うわさ」)に当たる言葉です。
国語辞典では「根拠のないうわさ」という意味で使われますが、心理学では、ある出来事についての話が、確かな証拠を示されないまま人から人へ伝わることに注目します。
ここでいう「出来事についての話」とは、「会社が倒産するらしい」「近くの店が閉店するらしい」など、本当かどうかを確かめられる内容を持った話のことです。
流言は、必ずしも嘘や作り話を意味するわけではありません。
後から正しい情報だったとわかる場合もあります。
ただし、結果的に本当だったとしても、噂が広まった時点で十分な根拠があったとは限りません。
では、こうした情報の広がりを、心理学では誰が研究してきたのでしょうか。
流言の研究で知られる二人の心理学者
流言の研究を理解するうえで重要なのが、ゴードン・ウィラード・オルポートとレオ・ジョセフ・ポストマンです。
ゴードン・ウィラード・オルポート(Gordon Willard Allport)
1897年(明治30年)11月11日、アメリカ・インディアナ州モンティズーマに生まれ、1967年(昭和42年)10月9日に亡くなった心理学者です。
日本語では「オールポート」とも表記されます。
アメリカのハーバード大学を中心に活躍し、特に人格心理学と社会心理学の研究で知られています。
人格心理学とは、人によって性格や行動の特徴がなぜ違うのかを研究する分野です。
一方、社会心理学は、周囲の人々や社会との関わりが、人の考えや行動にどのような影響を与えるのかを研究します。
オルポートは、人間の性格だけでなく、偏見や人々の集団の中での行動にも関心を持っていました。
レオ・ジョセフ・ポストマン(Leo Joseph Postman)
1918年(大正7年)6月7日、ロシアのペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)に生まれ、2004年(平成16年)4月22日に亡くなった心理学者です。
幼いころにアメリカへ移住し、ハーバード大学で博士号を取得しました。
その後、カリフォルニア大学バークレー校などで活躍し、主に人間の記憶、学習、知覚について研究しました。
知覚(ちかく)とは、目や耳などから入ってきた情報を受け取り、それが何なのかを理解する心の働きです。
ポストマンは、人が覚えた情報を忘れたり、新しい情報によって以前の記憶が影響を受けたりする仕組みも研究しました。
なぜ二人は噂を研究したのか?
二人の流言研究の背景には、第二次世界大戦がありました。
戦争中は、戦況や社会の出来事について十分な情報が得られず、さまざまな噂が広まることがありました。
二人は、こうした戦時中の噂を取り上げるとともに、人から人へ情報を伝える実験も行いました。
例えば、絵に描かれた場面を見た人が、その内容を別の人に説明し、聞いた人がさらに次の人へ伝えるという方法です。
伝える前と後の説明を比べることで、どの情報が省かれ、何が強調され、どのように内容が変わるのかを調べました。
そして1947年(昭和22年)、二人は共同で『The Psychology of Rumor』(ザ・サイコロジー・オブ・ルーマー、「うわさの心理学」)を出版しました。
日本では1952年(昭和27年)、南博(みなみ・ひろし)の翻訳により『デマの心理学』という題名で刊行されています。
日本語版の題名には「デマ」とありますが、二人が研究した流言を、すべて意図的な嘘だと考えるのは正確ではありません。
二人が注目したのは、確かな根拠がない情報がなぜ人々の間で広まり、伝わる途中でどのように変化するのかという問題です。
噂を広める人に、必ずしも誰かをだまそうとする気持ちがあるとは限りません。
それでも、情報が人から人へ渡っていくうちに、最初とは違う話になってしまうことがあります。
流言を学ぶことは、そうした人間の記憶や判断、情報を伝えるときの心の働きを理解することにもつながるのです。
3 小学生にもわかる説明
噂を聞いたとき、何が本当かわかる?
噂を聞いたときは、「実際に確かめられたこと」と「誰かがそうかもしれないと思ったこと」を分けて考えるのが大切です。
例えば、公園に「来週、ブランコを点検します」という貼り紙があったとします。
点検とは、壊れた場所がないかなど、安全を調べることです。
それを見た子が「ブランコが壊れているのかな」と思い、友達に「壊れているかもしれない」と話しました。
その友達は、別の子に「ブランコが壊れたらしいよ」と伝えます。
でも、貼り紙に書かれていたのは、点検するという予定だけです。
「壊れている」という話は、まだ確かめられていません。
ここで覚えておきたいことがあります。
同じ噂を何人から聞いても、全員が一人の想像を伝えているだけなら、確かな証拠が増えたわけではありません。
これは説明のために作った例です。噂が必ず変化するわけではありませんが、人から人へ伝わる途中で、想像が混ざることもあります。
大切なのは、何人が話しているかだけで判断せず、「最初に何がわかっていたのか」を確かめることなのです。
流言の基本法則とは? なぜ重要で曖昧な話ほど広まりやすいのか
自分にとって大切な話なのに、本当かどうか確かめる証拠が足りない。そんなとき、噂は広まりやすくなると考えられてきました。
この関係を説明したのが、先ほど紹介した心理学者オルポートとポストマンの「流言の基本法則」です。
二人は1947年(昭和22年)の著書で、噂の広がりに関係する二つの条件を示しました。
それが「重要性」と「曖昧さ」です。
二人の考え方は、次の式で表されます。
R ~ i × a
それぞれの記号には、次の意味があります。
- R(アール):rumor(ルーマー、「流言」)。噂が人々の間にどれほど出回っているか。
- i(アイ):importance(インポータンス、「重要性」)。その話が、伝える人や聞く人にとってどれほど大切か。
- a(エー):ambiguity(アンビギュイティ、「曖昧さ」)。その話が本当か確かめるための証拠が、どれほどはっきりしていないか。
「~」は、おおよその関係を示す記号です。重要性と曖昧さの積に比例するという考え方で、「R ∝ i × a」と説明されることもあります。
ここで注意したいのは、曖昧さとは、話の意味がわかりにくいことではなく、その話を裏付ける証拠がはっきりしないことです。
例えば、毎日バスで通学している人が「来週から駅前のバスが運休するらしい」と聞いたとします。
これは法則を理解するための例です。
バスが使えなくなれば通学に困るため、その人にとっては重要な情報です。
しかし、運行会社からの発表がなく、誰も話の出どころを知らなければ、本当なのか判断できません。
「明日も乗れるのかな」「友達は何か知っているかな」
そんな気持ちから、誰かに尋ねたり、聞いた話を伝えたりするかもしれません。
一方、バスを使わない人には、同じ話でも重要性が低いでしょう。
また、運行会社が正確な予定を発表すれば、情報は重要なままでも、証拠の曖昧さは小さくなります。
つまり、重要性は人によって異なり、曖昧さは確認できる情報によって変わるのです。
二人は、この二つが重なるほど噂が広まりやすく、どちらかが欠けると広まりにくいと考えました。
ただし、この式に数字を当てはめても、実際に何人へ噂が広まるかを正確に計算できるわけではありません。
後の研究では、不安や情報を信じる程度、先行きがわからない状況なども関係すると指摘されています。
流言の基本法則は、噂が広がりやすくなる条件を理解するための古典的な考え方であり、すべての噂の広がりを決める万能な公式ではないのです。
噂はなぜ変わる? 平準化・強調化・同化の3つの仕組み
噂は人から人へ伝わる途中で、細かな情報が省かれたり、一部分だけが目立ったり、聞いた人の考えに合わせて内容が変わったりすることがあります。
先ほど紹介した心理学者オルポートとポストマンは、こうした情報の変化を「平準化」「強調化」「同化」という3つの働きで説明しました。
二人は、絵に描かれた場面を人から人へ言葉で伝えてもらい、最初の絵と、それぞれの人が伝えた内容を比較する実験などを行いました。
その研究から整理された3つの働きを、身近な例で見てみましょう。
例えば、駅前の本屋に、こんなお知らせが貼られていたとします。
「来週の水曜日は、棚の入れ替えのため午後だけ休業します。木曜日は通常どおり営業します」
これは考え方を理解するために作った例です。
① 平準化(へいじゅんか)|細かな情報が省かれる
leveling(レベリング、「情報が短く単純になること」)
平準化とは、人から人へ話が伝わるうちに、細かな情報が省かれ、内容が短くなっていくことです。
例えば、「あの本屋、来週休むんだって」と伝わると、休む曜日や時間、理由などが抜け落ちています。
話は短くなりましたが、その分、正確な状況がわかりにくくなっています。
② 強調化(きょうちょうか)|一部分だけが目立つ
sharpening(シャープニング、「特定の情報が目立つようになること」)
強調化とは、いくつもの情報の中から、特に注意を引いた部分が選ばれ、記憶や伝える内容の中心になることです。
例えば、営業日や休業の理由よりも「本屋が休む」という部分ばかりが印象に残り、次の人にもその話を中心に伝える場合です。
これは、必ずしも大げさな話を作ることではありません。
ほかの情報が忘れられることで、残った部分が目立つ場合もあります。
③ 同化(どうか)|自分の考えに合う話へ変わる
assimilation(アシミレーション、「自分の経験や予想に合うように情報を受け取ること」)
同化とは、聞いた人が持っている知識や思い込み、期待などに合わせて、話の内容を理解したり、変えて伝えたりすることです。
例えば、近所で閉店する店が続いていたため、「あの本屋も閉店するらしい」と受け取ってしまう場合です。
しかし、元のお知らせに閉店するとは書かれていません。
自分の経験から予想したことが、元の情報と混ざってしまったのです。
ここで大切なのは、3つの働きが必ず順番に起こるわけではないという点です。
平準化と強調化は表裏の関係にあり、同化によって、どの情報が省かれ、何が強調されるかが変わることもあります。
また、すべての噂が必ず変化するわけでもありません。
噂は、単に言葉を伝えるだけでなく、一人ひとりが情報を覚え、意味を理解し、伝え直す過程で変化することがあるのです。
研究で何がわかった? 流言の実験結果と科学的な限界
人から人へ話を伝える実験では、伝える回数が増えるにつれて、最初の情報の一部が失われたり、内容が変わったりすることが確認されました。
しかし、前に紹介した「流言の基本法則」が、その実験によって証明されたわけではありません。
この違いを理解するために、実際の研究を見てみましょう。
情報は人から人へ伝わると、どのように変わるのか?
オルポートとポストマンは1945年(昭和20年)、『The Basic Psychology of Rumor』(ザ・ベーシック・サイコロジー・オブ・ルーマー、「うわさの基本的な心理」)という論文で、実験の方法と結果を報告しました。
二人が確かめようとしたのは、同じ情報を人から人へ伝えると、元の内容がどのように変わるのかという問題です。
そこで、伝言ゲームに似た実験を行いました。
まず、地下鉄の乗客など、多くの人物や物が描かれた絵をスクリーンに映します。
絵を見られる説明役が、そこに何が描かれているのかを、約20項目の細かな情報を含めて話しました。
一方、別室で待っていた6〜7人の参加者は、絵を見ることができません。
最初の参加者は説明を聞き、次の人に伝えます。その人も、聞いた内容をさらに次の人へ伝えます。
参加者には、できるだけ正確に伝えるよう指示されていました。
研究者たちは、最初の説明と、途中で伝えられた内容を比べました。
この方法なら、どの情報が残り、何が抜け落ち、どのように変化したのかを確かめられます。
実験では、どんな結果になったのか?
この方法は、大学生、兵士、子どもなどを含む40組以上の集まりで使われました。
そのうち11件の実験結果をまとめた分析では、5〜6回の伝達を経る間に、最初の説明に含まれていた細かな情報の約70%が失われたと報告されています。
これは、最初に伝えられた情報を100とすると、最後には約30が残ったという意味です。
ただし、70%が嘘に変わったわけではありません。
もともと説明に含まれていた細かな情報の多くが、次の人には伝えられなくなったという結果です。
また、観客がいる実験と、観客がいない実験を比べると、観客がいない場合のほうが、平均して約2倍の細かな情報が伝えられていました。
この結果からは、人前で話すという状況も、伝える内容に影響する可能性が読み取れます。
この結果は、普段の噂にも当てはまるのか?
ここで注意したいのは、実験で起きたことが、現実の噂でも必ず同じように起こるとは限らないという点です。
二人自身も、実験と日常生活には違いがあると説明しています。
実験の参加者は、正確に伝えるよう指示され、相手に質問することもできませんでした。また、聞いてから伝えるまでの時間も短く設定されていました。
しかし、普段の会話なら、わからない部分を聞き返したり、時間がたってから思い出して話したりすることがあります。
さらに、実際の噂には、不安や期待、自分の生活への影響なども関わります。
そのため、この実験だけで、現実の噂がどれほど広がるかまでは判断できません。
その後の研究で、新しくわかったことは?
アメリカの心理学者ラルフ・L・ロスノウ(Ralph L. Rosnow、ラルフ・エル・ロスノウ)は、1980年(昭和55年)、それまでの研究を比較・検討し、流言の基本法則を見直しました。
これは新たな伝言実験ではなく、過去の研究結果や理論を調べ、従来の説明で十分なのかを検討する研究です。
ロスノウは、不安や先行きの不確かさにも注目する必要があると論じました。
さらに1991年(平成3年)の論文では、従来の基本法則そのものは実証されていなかったと指摘しています。
そして、噂が生まれ、伝えられる背景には、本人の不安、状況の不確かさ、その話を信じる程度、自分への影響の大きさなどが組み合わさっていると考えました。
ただし、これらの条件がそろえば必ず噂が広がると証明されたわけではありません。
ここまでの研究から、情報が伝わる途中で変化することと、その情報を人が広めようとする理由は、分けて考える必要があるとわかります。
噂の広がりを理解するには、話の内容だけでなく、それを聞いた人が置かれている状況や、どのような気持ちで受け取ったのかにも目を向けることが大切なのです。
豊川信用金庫事件とは? 何気ない一言が大騒ぎに発展した理由
1973年(昭和48年)12月、経営に問題のなかった豊川信用金庫で、倒産するという根拠のない噂が広まり、多くの人が預金を引き出す騒ぎが起こりました。
これが「豊川信用金庫事件(とよかわしんようきんこじけん)」です。
愛知県の小坂井町(現在の豊川市の一部)を中心に起こったこの事件は、誰かが計画的に嘘を広めたものではなく、女子高校生たちの何気ない会話が発端だったとされています。
なぜ、そんな一言が大勢の人を動かすことになったのでしょうか。
12月8日|「危ない」という言葉の意味が変わった
始まりは、3人の女子高校生の会話でした。
豊川信用金庫への就職が決まった生徒に、友人たちが「信用金庫は危ないわよ」と冗談を言いました。
ここでの「危ない」は、強盗に入られるかもしれないという意味だったとされています。
ところが、言われた生徒は心配になり、その日の夜、親戚に「信用金庫は危ないのか」と尋ねました。
親戚は豊川信用金庫の経営が危ないという話だと受け取り、別の親戚に確認しました。
やがて、その話は美容院の経営者やクリーニング店の関係者へと伝わっていきます。
強盗に遭う危険という話が、経営が危ないという話に変わり、ついには「豊川信用金庫が潰れるらしい」という噂になったのです。
12月13日|偶然の電話が、噂を信じるきっかけに
噂が広まり始めたころ、あるクリーニング店で偶然の出来事が起こりました。
店を訪れた男性が電話を借り、妻に「豊川信用金庫から120万円をおろしてくれ」と伝えたのです。
実際には、仕事の支払いに必要なお金を引き出そうとしていただけで、男性は倒産の噂を知りませんでした。
ところが、すでに噂を聞いていた店の女性は、この電話を違う意味で受け取りました。
「本当に倒産するから、お金を引き出しているのではないか」
そう思い込んだ女性は、夫にも預金を引き出してもらい、周囲の知人たちへ噂を伝えました。
さらに、話を聞いた人が別の人へ伝え、アマチュア無線を使って噂を広めた人もいたと報告されています。
2019年(令和元年)の日本大学の研究論文によると、12月13日には59人が信用金庫に押し寄せ、約5,000万円が引き出されました。
男性がお金を引き出そうとしたのは事実ですが、倒産が理由だったわけではありません。
しかし、理由を確かめないまま、偶然の行動が噂を裏付ける証拠のように受け取られてしまったのです。
12月14日以降|説明さえも誤解されてしまう
翌14日には、信用金庫が混乱を収めようとした行動まで、誤解される事態になりました。
信用金庫は、経営について不安がある人には2階で説明するという案内を出しました。
ところが、一部の人は「2階で倒産に向けた話し合いをしているのではないか」と受け取ったのです。
その後、日本銀行が経営に問題はないと説明し、預金の払い戻しに必要な現金も用意されました。
信用金庫も、運び込まれた現金を利用者から見える場所に積み上げるなどして、不安を解消しようとしました。
報道による訂正や関係者の対応もあり、騒ぎは次第に落ち着いていきました。
日本大学の2019年の研究論文では、この事件で約20億円の預金が引き出されたと記されています。
なお、引き出し総額は資料によって異なる数字も伝えられており、約20億円は同論文による記述です。
なぜ、これほど噂が広がったのか?
ここからは、先ほど学んだ流言の基本法則を使って事件を考えてみましょう。
預金者にとって、自分のお金が安全かどうかは、生活に関わる大切な問題です。
しかし、倒産の噂には確かな裏付けがありませんでした。
さらに当時は、石油危機によって経済への不安が広がっていました。
2019年の研究論文では、近隣で過去に金融機関が破綻したことや、その影響を受けた人物が噂の伝達に関わっていたことも指摘されています。
こうした社会的な背景が、人々の不安を強め、噂を信じやすくする条件になったと研究者たちは分析しています。
ただし、これらは事件を調べた研究者による分析であり、預金者全員が同じ理由で行動したと確認されたわけではありません。
この事件からわかるのは、根拠のない噂でも、言葉の意味の取り違えや、不安、偶然の出来事が重なると、人々の判断や行動に大きな影響を与える場合があるということです。
「誰かがお金を引き出した」という事実と、「信用金庫が倒産するから引き出した」という解釈は違います。
この二つを区別することが、流言の怖さを正しく理解するための大切な手がかりになるのです。

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