車のドアの開閉音に夢中になるラッコ先生と、「そーっと拒否する」を試すモモンガ。一見まったく違う二つの物語から見えてきたのは、他人には理解しきれない「好き」や「欲しい」、そしてその人だけが感じている世界でした。第366話に込められたキャラクターの魅力と、思わず考えさせられる意味を掘り下げます。
- 『ちいかわ』第366話「車動画/拒否するか」。
- 最初の一枚からすでにモモンガらしいです
- 「インターネットのところ」にいるラッコ先生
- あの「インターネットのところ」は、いったいどうなっているのでしょうか
- ラッコ先生はいったい何を見ているのでしょうか
- 「全然わかんない」という、とても正直な言葉
- 好きになるほど、世界は細かく見えます
- さらに面白いのは、動画を投稿している誰かがいることです
- ラッコ先生の「いい音だ」は、その人だけの幸福なのかもしれません
- 後半は、モモンガの「そーっと拒否するか」
- 「かわいい」は感情ではなく、技術なのでしょうか
- モモンガは「かわいい自分」を作ろうとしているのかもしれません
- 鎧さんのため息には「理解できなさ」が詰まっています
- 鎧さんの距離感は、実はかなり健全なのかもしれません
- しかし本当に持っていかれると困るモモンガ
- モモンガが欲しいものは一つではありません
- 「かわいさ」は誰のものなのでしょうか
- 「嫌いなのにかわいい」が成立するキャラクター
- ラッコ先生とモモンガを同じ回に置く意味
- そして前半と後半には「音」という共通点もあります
- コメント欄では、こんなところに注目が集まっていました
- 今回の物語が教えてくれているのかもしれないこと
『ちいかわ』第366話「車動画/拒否するか」。
今回もわずかな時間の中で、ラッコ先生の意外な一面と、モモンガらしさ全開のやり取りが描かれていました。
前半は、ラッコ先生がインターネットで車の動画を見ている話です。
後半は、モモンガが労働の鎧さんを相手に「そーっと拒否する」という行動を試してみる話です。
一見すると、まったく関係のない二つの小話です。
しかし何度か見返しているうちに、私はこの二つには共通して、
「他人から見るとよくわからない、その人だけの感覚」
が描かれているように感じました。
だからこそ、今回の話は単純に「ラッコ先生が車好きで面白い」「モモンガがかわいい」で終わらず、妙に印象に残るのかもしれません。
最初の一枚からすでにモモンガらしいです
冒頭のイラストでは、モモンガが木の陰に隠れ、その様子を鎧さんが見ています。
本編を見る前なら、なぜモモンガが隠れているのかはわかりません。
しかし後半まで見ると、この一枚だけで今回のモモンガがほとんど表現されていることに気づきます。
人には強気に絡みます。
何かを要求します。
その一方で、「かわいく見える行動」を試したくなると、急に物陰に隠れて、小さく震えてみます。
強気なのか弱気なのか。
素直なのか演技なのか。
モモンガはいつも、一つの性格だけでは説明できません。
むしろ、その矛盾しているように見える部分そのものがモモンガなのだと思います。
「インターネットのところ」にいるラッコ先生

前半では、ちいかわとハチワレが「インターネットのところ」にいるラッコ先生を見つけます。
ハチワレも「先生」と気づき、少し驚いています。
ラッコ先生といえば、強く、頼りになり、討伐ではちいかわたちの憧れとなる存在です。
そんなラッコ先生が、一人でパソコンに向かい動画を見ています。
この時点で、普段とは少し違う顔が見えます。
私はこういう場面が好きです。
人は、誰かの前にいるときと、一人で好きなことをしているときでは少し違います。
普段は「先生」であるラッコも、誰にも見られていないところでは、一人の趣味人になります。
それによって、遠い存在だったキャラクターが急に身近に感じられます。
強い人にも休日があります。
格好いい人にも、人には説明しづらい趣味があります。
そんな当たり前のことが見えるだけで、キャラクターに生活感が生まれます。
あの「インターネットのところ」は、いったいどうなっているのでしょうか
そして今回、ストーリーとは別のところでもかなり気になる部分がありました。
インターネットの場所で、なぜか空が見えています。
後ろには壁のようなものがあるのに、上には屋根がないように見えます。
室内なのでしょうか。
屋外なのでしょうか。
半屋外なのでしょうか。
そもそも最初から屋根がない施設なのでしょうか。
こういう部分が、『ちいかわ』の世界は面白いです。
インターネットやパソコンという現代的な設備は存在するのに、使われている場所は妙に素朴で、私たちの常識とは少し違っています。
現代文明があるのに、完全には現代社会ではありません。
食べ物も仕事もインターネットもあります。
しかし、その配置や仕組みはどこか不思議です。
『ちいかわ』の世界は、細かく説明されないからこそ想像したくなります。
今回の屋根のないように見えるインターネット施設も、ほんの一瞬の背景なのに、「この世界ではどういう暮らしをしているのだろう」と想像を広げてくれます。
ラッコ先生はいったい何を見ているのでしょうか
ちいかわとハチワレは、ラッコ先生が見ている動画が気になって画面を覗きます。
最初は、ひたすら車を洗っている動画です。
次は、道路を走っている車の動画です。
ここまでは、なんとなく理解できます。
洗車動画なら、汚れた車がきれいになっていく爽快感があります。
走行動画なら、自分もドライブしているような気分を味わえます。
ところが、その次の動画で一気に様子が変わります。
映っているのは、車のドアを開ける。
閉める。
また開ける。
また閉める。
ただそれだけです。
しかもラッコ先生は、その場面を何度も繰り返して見ています。
これを見たハチワレが、
「全然わかんない!」
となります。
この一言が、今回の話の中でかなり重要なのではないかと思いました。
「全然わかんない」という、とても正直な言葉
私も最初はハチワレ側でした。
洗車はわかります。
走行動画もわかります。
でも、ドアを何度も開けたり閉めたりしている映像の何が面白いのだろう、と思ってしまいます。
ところがラッコ先生は、その音を聞いて、
「いい音だ」
と言います。
ここで初めて、
「ああ、映像を見ているというより音を聞いているのか」
とわかります。
それでも、車に詳しくない人からすると、
「そこまで違うのでしょうか?」
と思ってしまいます。
けれど考えてみれば、私たちにも似たようなことはたくさんあります。
興味のない人から見れば違いがわからないものでも、好きな人にはまったく違って感じられます。
コーヒーが好きな人なら、豆や焙煎の違いが気になります。
音楽が好きな人なら、演奏や音質の小さな違いがわかります。
電車が好きな人なら、走行音や発車音にも魅力を感じます。
車好きなら、エンジン音だけではなく、ドアを閉めたときの重さや音まで「その車らしさ」として楽しめるのかもしれません。
つまり、趣味が深くなるということは、
普通の人には同じに見えるものの中に、違いが見えるようになること
なのではないでしょうか。
好きになるほど、世界は細かく見えます
ここが今回、私が一番興味深いと思ったところの一つです。
ラッコ先生は、私たちとは違うものを見ているわけではありません。
同じ車のドアを見ています。
同じ音を聞いています。
それなのに、感じている情報量が違います。
ハチワレにとっては、
「ドアが開いて閉まった」
だけです。
ラッコ先生にとっては、
「この音がいい」
になります。
好きになるということは、世界を見る解像度が上がることなのかもしれません。
興味のない人には一つに見えるものが、好きな人には十種類、百種類に見えてきます。
だから趣味というものは面白いです。
そして同時に、他人には理解されにくくなっていきます。
好きになればなるほど、その楽しさは深くなります。
しかし同時に、
「何がそんなにいいの?」
と言われる領域にも入っていきます。
ラッコ先生の車のドア動画は、それを極端な形で表しているように感じました。
さらに面白いのは、動画を投稿している誰かがいることです
そして、この場面を考えれば考えるほど面白くなってくるのが、動画を投稿している側の存在です。
ラッコ先生がその動画を見ているということは、当然、誰かが撮影してインターネットに投稿しています。
『ちいかわ』の世界のどこかに、
「この車のドアの音、いいな」
と思って撮影し、
何度もドアを開けたり閉めたりし、
その動画を公開している誰かがいるわけです。
さらに、それを見るラッコ先生がいます。
つまり、
ものすごくニッチな需要と供給が成立しています。
ここに妙なリアリティを感じます。
現実のインターネットもそうです。
誰が見るのだろうと思うような動画でも、検索してみると何十万回、何百万回と再生されていることがあります。
世の中には、自分の知らない趣味の世界が無数に存在しています。
『ちいかわ』の世界にも、そうした無数の小さな世界があります。
そのことが、ほんの数秒の動画から想像できます。
だからこの場面は妙に印象に残るのだと思います。
ラッコ先生の「いい音だ」は、その人だけの幸福なのかもしれません
ラッコ先生は、誰かに趣味を説明しているわけではありません。
誰かに理解してもらおうともしていません。
ただ、自分が好きだから見ています。
そして、
「いい音だ」
と満足しています。
私はここがとてもいいと思いました。
人に理解されることと、自分が好きであることは、本来別の問題です。
ハチワレには「全然わかんない」。
それでもラッコ先生は満足しています。
もしかすると趣味というものは、それで十分なのかもしれません。
誰かから、
「それの何が面白いの?」
と言われても、
自分にとって「いい」と思えるなら、それでいいのだと思います。
ラッコ先生の短い一言には、そんな小さな幸福まで感じられます。
後半は、モモンガの「そーっと拒否するか」

そして後半です。
今度はモモンガが、
「そーっと拒否するか」
ということを考えます。
これもよく考えると、かなり不思議な発想です。
普通なら、
「嫌だから断る」
「欲しくないから受け取らない」
という順番になります。
しかしモモンガは違います。
「かわいく拒否する」という行動そのものをやってみたいように見えます。
何を拒否するのかより、
「拒否している自分がどう見えるのか」
のほうが大事なのです。
この時点で、モモンガにとっての「かわいい」というものが何なのかが少し見えてきます。
「かわいい」は感情ではなく、技術なのでしょうか
モモンガは鎧さんに近づき、
「おい」
「なんかよこしな」
と要求します。
この時点では全然かわいくありません。
むしろ完全に強盗の入り口です。
ところが、そのあと鎧さんからチョコを差し出されると、一転します。
目をうるうるさせ、小さく震え、木の陰に隠れ、
「おろ……」
「ふる……ふる……」
というような声まで出します。
一気に「かわいい存在」を演じ始めます。
ここで私は、
モモンガにとって「かわいい」は性格ではなく技術なのではないか
と思いました。
ちいかわは、かわいく見せようとしているようには見えません。
怖いから震えます。
悲しいから泣きます。
うれしいから笑います。
その結果として「かわいい」のです。
しかしモモンガは違います。
「こういう顔をするとかわいい」
「こういう動きをするとかわいい」
「こういう声を出すとかわいい」
というものを、観察し、実践しているように見えます。
だからモモンガのかわいさには、少し人工的な感じがあります。
そして、その人工的な感じが逆に面白いのです。
モモンガは「かわいい自分」を作ろうとしているのかもしれません
考えてみると、私たち人間にも似たところはあります。
写真を撮るときだけ少し表情を変えます。
人前では普段より丁寧に振る舞います。
服装や話し方を変えます。
SNSでは、自分の見せたい部分を選んで見せます。
つまり私たちも、
「人からどう見えるか」
を考えながら自分を作っています。
もちろん、モモンガほど極端ではありません。
しかしモモンガの行動は、そういう私たちの姿を極端にしたものにも見えます。
かわいいと思われたい。
かわいがられたい。
そのために「かわいい自分」を作ります。
モモンガのあざとさが妙に人間臭く感じられるのは、この部分なのかもしれません。
鎧さんのため息には「理解できなさ」が詰まっています
そんなモモンガに絡まれた鎧さんは、
「はぁ……」
とため息をつきます。
このため息が非常にいいです。
説明しなくても、
「またか」
「何なんだこいつは」
「仕方ないな」
というような気持ちが伝わってきます。
しかし鎧さんは怒りません。
「チョコ食べる?」
と差し出します。
ここで鎧さんの優しさが見えます。
同時に、ただ優しいだけでもありません。
モモンガがかわいく拒否すると、
「あ、じゃ……」
という感じで、そのまま立ち去ろうとします。
ここが重要だと思います。
鎧さんは、モモンガの複雑な心理を無理に読み取ろうとしません。
拒否されました。
だから帰ります。
それだけです。
鎧さんの距離感は、実はかなり健全なのかもしれません
この場面を見ていると、鎧さんの良さは単なる「優しさ」だけではないと思えてきます。
相手には応じます。
でも、必要以上には入り込みません。
拒否されたら、それを拒否として受け取ります。
「本当は欲しいんじゃない?」
と深読みして、さらに世話を焼いたりしません。
相手の感情を全部理解しようとはしないのです。
これは人間関係でも案外大切なことなのではないでしょうか。
相手のことを理解しようとするのは大切です。
しかし、すべて理解することなどできません。
「きっと本当はこう思っている」
と勝手に深読みしすぎると、逆に相手を自分の想像の中に閉じ込めてしまうこともあります。
鎧さんは、
「わからないものは、わからないまま」
ある程度受け止めています。
だからモモンガとも付き合っていけるのかもしれません。
しかし本当に持っていかれると困るモモンガ
そして鎧さんが本当に立ち去ろうとすると、モモンガは突然態度を変えます。
「チョコは置いてきな!」
さっきまで小さく震えていたかわいい存在が、一瞬で追い剥ぎになります。
ここが今回最大の笑いどころの一つでした。
鎧さんも、
「どっちなんだ」
と言いたくなるでしょう。
でも、私はここを何度か見ているうちに、
「実はモモンガ本人の中では矛盾していないのではないか」
と思うようになりました。
モモンガが欲しいものは一つではありません
モモンガが本当に欲しいものは、
チョコだけではありません。
「かわいく拒否している自分」も欲しいのです。
つまり、
物も欲しい。
かわいさも欲しい。
相手の反応も欲しい。
全部欲しいのです。
だから一度は拒否します。
そして「かわいい拒否」を成功させます。
でも、本当にチョコまで失うのは困ります。
だから、
「チョコは置いてきな!」
となります。
表面だけを見ると矛盾しています。
しかし、欲望が二つあると考えれば、意外なほど一貫しています。
ここにモモンガらしさがあります。
モモンガは欲張りなのです。
単純に食べ物だけが欲しいのではありません。
「自分はかわいい」と確認できる体験まで欲しがっています。
「かわいさ」は誰のものなのでしょうか
ここまで考えていくと、今回のモモンガの話には、
「かわいさとは何なのか」
という少し面白い問いまで見えてきます。
かわいい見た目をしていれば、かわいいのでしょうか。
かわいい行動をすれば、かわいいのでしょうか。
性格が多少わがままでも、動きや声がかわいければかわいいのでしょうか。
モモンガを見ていると、これがわからなくなります。
やっていることだけを冷静に並べると、かなり面倒です。
人に何かを要求します。
受け取るふりをして拒否します。
相手が帰ろうとすると「置いていけ」と命令します。
ほとんどカツアゲです。
それでも、目をうるうるさせて小さく震えたり、チョコをぺっちょぺっちょ食べたりすると、
「かわいい」
と思ってしまいます。
これはある意味、
人は中身だけではなく、見せ方にも強く影響される
ということなのかもしれません。
もちろん、そんな大げさな教訓として描かれているわけではないでしょう。
でも、モモンガというキャラクターが強烈なのは、その「見た目と中身のズレ」を徹底的に見せてくるからだと思います。
「嫌いなのにかわいい」が成立するキャラクター
モモンガに対しては、
「かわいい」
という気持ちと、
「いや、でもこいつ……」
という気持ちが同時に生まれます。
これが他のキャラクターにはあまりない面白さです。
ちいかわは基本的に応援したくなります。
ハチワレは優しくて好感を持ちやすいです。
ラッコ先生は格好いいです。
しかしモモンガは違います。
好きか嫌いかを簡単に決めさせてくれません。
かわいいです。
でも腹が立ちます。
面倒です。
でも見てしまいます。
あざといです。
でもそのあざとさ自体が面白いです。
その感情の揺れこそが、モモンガというキャラクターの魅力なのではないでしょうか。
ラッコ先生とモモンガを同じ回に置く意味
そして今回、もっとも興味深いと思ったのが、ラッコ先生とモモンガの二つの話が同じ回に収められていることです。
ラッコ先生は、
「好き」が他人には理解されません。
モモンガは、
「欲しい」が他人には理解されません。
ハチワレはラッコ先生を見て、
「全然わかんない!」
と言います。
鎧さんはモモンガを見て、
「どっちなんだ」
となります。
つまり、どちらの話も、
他者を完全には理解できない
というところでつながっています。
しかし、その「わからなさ」は否定されていません。
ハチワレにはわかりません。
でもラッコ先生は楽しそうです。
鎧さんにはわかりません。
でもモモンガは満足そうにチョコを食べています。
誰かに理解してもらえなくても、その人の中にはちゃんと理由があります。
今回の二つの話は、そのことをまったく違う形で見せているように思えます。
そして前半と後半には「音」という共通点もあります
もう一つ気づいたのは、今回の二つの話では「音」が妙に重要だということです。
前半では、ラッコ先生が車のドアの開閉音に、
「いい音だ」
と反応します。
後半では、モモンガの、
「おろ……」
「ふる……ふる……」
「ぺっちょぺっちょ」
といった声が、アニメならではの面白さを生み出しています。
つまり前半ではキャラクターが「音を楽しみ」、後半では私たち視聴者が「音を楽しんでいます」。
これは偶然かもしれません。
しかしアニメとして見ると、二つの話の間に思わぬつながりが生まれています。
ラッコ先生がドアの音を何度も聞いてしまうように、私たちもモモンガの「おろろろ」や「ぺっちょぺっちょ」を何度も聞きたくなります。
そう考えると、
「ラッコ先生の気持ちは全然わかんない」
と言っていた側の私たちも、実は似たことをしているのかもしれません。
ここまで考えると、前半の「全然わかんない」が少し自分にも返ってくるようで面白いです。
コメント欄では、こんなところに注目が集まっていました
今回のコメント欄では、やはりラッコ先生が車のドアの開閉音を何度も聞いていることへの反応が非常に多く、洗車や走行動画なら理解できても「ドアの開閉音はかなりマニアック」という声がある一方、実際の車好きからは「わかる」「高級車のドア音はいい」という共感もあり、まさにハチワレ側とラッコ先生側に分かれているのが印象的でした。
また、その動画を撮影して投稿している『ちいかわ』世界の謎の動画投稿者や、空が見える「インターネットのところ」の構造、画面の中でひたすらドアを開け閉めしているモブのかわいさなど、背景の細部にも多くの関心が集まっていました。
後半では、モモンガの「おろおろ」「ふるふる」といったかわいらしい仕草や声と、「チョコは置いてきな!」という急に治安が悪くなる言い方との落差を面白がる声が非常に多く見られました。
声がついたことで原作以上にモモンガのあざとさやかわいさが増したという意見も目立ち、その一方で、これまでの物語を知っているためモモンガを素直に好きになれないという声もあり、「腹が立つのにかわいい」「めんどくさいのに憎めない」という複雑な感情を持つ人が多いこともよくわかりました。
また、そんなモモンガに怒らずチョコまで差し出し、拒否されたらあっさり立ち去ろうとする鎧さんについては、「優しい」「包容力がある」「距離感がいい」といった反応が多く、今回の短い話の中でも、それぞれのキャラクターの個性が非常に濃く表れていたのだと思います。
今回の物語が教えてくれているのかもしれないこと
今回の「車動画/拒否するか」を見て私が一番強く感じたのは、他人の内側にある「好き」や「欲しい」は、外から見ただけでは全部はわからないということでした。
ラッコ先生がドアの開閉音に何を感じているのか、ハチワレにはわかりません。
モモンガがなぜ拒否しながらチョコを欲しがるのか、鎧さんにもわかりません。
でも、それぞれの中には本人なりの理由があります。
私たちも同じで、誰かには理解されないものを大切にしていたり、矛盾した感情を同時に抱えていたり、人からどう見られるかを気にしながら自分を作ったりしています。
だから人は、簡単には一つの言葉で説明できません。
そして、全部理解できなくてもいいのだと思います。ハチワレのように「全然わかんない」と思いながら見ていることもできますし、鎧さんのように「どっちなんだ」と困惑しながらも相手と付き合うことはできます。
理解できないことと、否定することは同じではありません。
今回の動画は、ラッコ先生の「いい音だ」とモモンガの「チョコは置いてきな!」というまったく違う二つの言葉を通して、人にはそれぞれ、自分にしか見えていない世界があること。そして、その世界を完全に理解できなくても、面白がったり、見守ったり、一緒に生きていくことはできる――そんなことを私たちに教えてくれているのではないでしょうか。


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