5秒でわかる結論
ソクラテス(紀元前469年ごろ〜399年)は、古代ギリシアのアテナイで、人々との対話を通して「知恵とは何か」を問い続けた哲学者です。
彼について書き残した哲学者プラトンの『ソクラテスの弁明』には、知らないことを知っていると思い込まない姿勢が描かれています。
この姿勢が、後世「無知の知」と呼ばれる考え方を理解するうえで、重要な手がかりになるのです。
噛み砕いて言うと
たとえば、友達が「この問題の答えは絶対にこれだよ」と言ったとします。
そこで「どうしてそう思うの?」と聞かれたら、うまく説明できないかもしれません。
ソクラテスは、こうした「本当にわかっているのかな?」という問いを、人々との会話の中で大切にした人物です。
知らないことに気づくのは、恥ずかしいことではありません。そこから、もう一度考え始められるからです。
「無知の知」を理解するには、問い続けたソクラテス自身を知ることが、大切な手がかりになります。
導入
「無知の知」という言葉を調べていると、何度も登場する名前があります。
ソクラテス。
古代ギリシアの哲学者ですが、なぜこの人が「無知の知」と結びついているのでしょうか。
そもそも、なぜ人間の知恵について考え、人々に質問を繰り返したのでしょうか。
もし誰かに「本当にそう言えるの?」と聞かれたら、あなたはどう答えますか。
ソクラテスは、そうした問いを人々との対話で重ねた人物として伝えられています。
しかも、紀元前399年、彼は裁判にかけられ、死刑判決を受けました。
なぜ問い続けた哲学者が、裁かれることになったのでしょうか。
今回は古代アテナイへと想像の中でさかのぼり、当時の社会、ソクラテスの生き方、神託(神からのお告げとされた言葉)への疑問、対話、そして裁判をたどります。
「無知の知」という言葉だけでは見えにくい、一人の人物の姿を探していきましょう。
疑問が生まれた物語
放課後の図書室で、悠斗は開いていた哲学の本から顔を上げました。
「美咲、『無知の知』を調べていたら、ソクラテスって名前が何度も出てくるんだ」
「昔の哲学者だよね。何をした人なの?」
「人に質問をしていたみたい。でも、どうして『無知の知』と関係があるのか、まだよくわからない」
美咲は隣に座り、本をのぞき込みました。
「でも、どうしてその人がそんなに重要なの?」
悠斗が次のページをめくると、そこには「紀元前399年、ソクラテスの裁判」と書かれていました。
「えっ、裁判? 質問していた人が、どうして?」
「それだけが理由だったのかな。そもそも、どんな時代に生きていた人なんだろう」
二人は古代アテナイの絵を眺めました。
「もし、その時代へ行けたら、何かわかるかもしれないね」
本のページをめくる音が、いつしか遠い昔の街のざわめきに変わっていくような気がしました。
もちろん、これは二人の想像の旅です。
けれど、手がかりになるのは実際に残された古代の記録。
ソクラテスとは何者だったのか。なぜ人々に問い続け、その姿が「無知の知」と結びつくのか。
二人はまず、裁判の行われた紀元前399年のアテナイを目指すことにしました。
その前に、旅の手がかりとなる「無知の知」の意味を、少しだけ確かめておきましょう。
1.無知の知とは?
「無知の知」とは、自分が知らないことを、知っていると思い込まず、「自分はまだ知らない」と気づく姿勢を説明する言葉です。
たとえば、「勇気とは、怖がらないことだ」と答えたとします。
ところが、「怖くても友達を助けようとするのは、勇気ではないの?」と聞かれたら、最初の答えを考え直す必要があります。
これは考え方を理解するための例で、ソクラテス本人が使った言葉ではありません。
大切なのは、何も知らないと決めつけることではなく、自分が説明できることと、まだ説明できないことを区別することです。
この考え方を理解するうえで重要なのが、ソクラテス(紀元前469年ごろ〜399年)です。
ソクラテスは、古代ギリシアの都市アテナイ(現在のギリシャの首都アテネ)で、人々に質問を重ねながら、何を本当に知っていると言えるのか、どう生きるべきなのかを問い続けた哲学者です。
彼と交流した哲学者プラトン(紀元前427年ごろ〜347年ごろ)は、著作『ソクラテスの弁明(べんめい)』に、裁判で自分の考えを説明するソクラテスの姿を描きました。
『ソクラテスの弁明』の21bには、ソクラテスが、自分には知恵がないと思っているのに、神のお告げでは自分が最も知恵のある人物だとされたことに、疑問を抱く場面があります。
そして21dには、知恵があると評判の人物と対話したあと、**「知らないことを知っているとも思わない」**という趣旨の考えを述べる場面があります。
なお、「21b」「21d」は、古い版の本のページ番号と、そのページのどの部分なのかを示す記号です。現在も、プラトンの著作のどこに書かれているかを示すために使われています。
ただし、「無知の知」はソクラテス自身が付けた名前ではありません。後世に彼の姿勢を説明するために使われる表現であり、その解釈については研究上の議論もあります。
ソクラテスが「無知の知」を理解するうえで重要なのは、この言葉を発明したからではなく、人は何を本当に知っているのかを問い続けた姿が、古代の著作に残されているからです。
その人物の生き方と、問い続けた理由を知るために、まずは彼が裁判にかけられた紀元前399年のアテナイへ向かいましょう。
2.紀元前399年、裁判の場面へ
想像の旅でたどり着いたのは、紀元前399年のアテナイです。
この年、およそ70歳になっていたソクラテスは、裁判にかけられました。
当時のアテナイでは、市民たちが裁判で訴えを聞き、罪があるかどうかを判断していました。
ソクラテスは、なぜ裁判にかけられたのでしょうか。
その答えは、第1章で紹介したプラトンの『ソクラテスの弁明』24b〜24cに記されています。
ソクラテスに向けられた主な訴えは、次の二つでした。
一つは、若者を悪い方向へ導いたという疑いです。
もう一つは、アテナイの人々が公に認めていた神々を認めず、代わりに新しい神的なものを信じているという疑いです。
ここでいう「神的なもの」とは、神に関係する存在や働きのことです。当時のアテナイでは、神々への信仰は個人だけの問題ではなく、都市の行事や社会の仕組みとも深く関わっていました。
ただし、これはソクラテスが訴えられた内容です。
実際に若者を悪い方向へ導いたことや、訴えられたとおりの信仰を持っていたことが、歴史的事実として確かめられたわけではありません。
プラトンの『ソクラテスの弁明』には、ソクラテスが自分を訴えた相手に質問しながら反論する場面があります。
まず、若者を悪い方向へ導いたという疑いについては、「周囲の人を悪くすれば、自分もその人から害を受けるおそれがある。それなのに、なぜわざとそんなことをするのか」という考え方で反論しました。
さらに、もし本人が知らないうちに悪い影響を与えているのなら、裁判にかける前に、何が悪いのかを教えるべきだとも述べています(25d〜26a)。
神々については、神に関係する存在や働きを認めている人を、神をまったく信じていない人だとするのは、話が食い違っていると反論しました(26b〜27e)。
つまりソクラテスは、相手の訴えをただ否定するのではなく、質問を重ね、その主張が本当に成り立つのかを確かめようとしたのです。
しかし、市民たちの判断によって有罪となり、最終的に死刑を言い渡されました。
つまり、ソクラテスが裁かれた直接の理由は、若者への影響と、都市の神々に対する信仰をめぐる告発でした。
では、なぜそのような疑いを向けられたのでしょうか。
その背景を理解するには、当時のアテナイの政治や宗教、そしてソクラテスが人々とどのように関わっていたのかを知る必要があります。
ただし、裁判に至った事情のすべてを、一つの理由だけで説明することはできません。
そこで、いったん裁判の場面を離れ、時代をさかのぼってみましょう。
ソクラテスとは、そもそもどのような人物だったのでしょうか。
次は、彼が生きたアテナイの社会と、その人生をたどっていきます。
3.ソクラテスとはどんな人物?
紀元前399年の裁判から、さらに時代をさかのぼってみましょう。
ソクラテスは、古代ギリシアのアテナイで生まれ育ち、人々との対話を通して、知恵や人間の生き方について考え続けた哲学者です。
彼は、どのような家庭に生まれ、どのような時代を生きたのでしょうか。
まずは、一人の人間としてのソクラテスを知るところから始めましょう。
ソクラテスの名前と生涯
ソクラテスの名前は、古代ギリシア語で**Σωκράτης(ソークラテース)**と書きます。
これは本人の名前を当時の言葉で表したもので、日本語では一般に「ソクラテス」と呼ばれています。
生まれたのは紀元前469年ごろ、亡くなったのは紀元前399年です。
正確な誕生日や亡くなった月日は、確実にはわかっていません。
当時は、現在の日本人のように名字と名前を組み合わせるのではなく、必要に応じて父親の名前や所属する地区を使って人物を区別していました。
ソクラテスの場合は、**「ソプロニスコスの息子で、アロペケーに属するソクラテス」**というように説明できます。
アロペケーとは、古代アテナイにあった地区の名前です。ソクラテスは、この地区に所属するアテナイ市民でした。
ただし、正確にどの家で生まれたのかまではわかっていません。
ソクラテスは、どのような家庭に生まれたのか
父親の名前はソプロニスコスです。
石を加工する職人だったと伝えられていますが、仕事の詳しい実態まで確実にわかっているわけではありません。
母親はパイナレテという女性です。
第1章で紹介した哲学者プラトンの著作『テアイテトス』には、母親が産婆(さんば)だったという話が登場します。
『テアイテトス』は、「知識とは何か」を登場人物同士の会話を通して考える哲学書です。
産婆とは、赤ちゃんが生まれるときに母親を助ける仕事で、現在の助産師に近い役割です。
また、ソクラテス自身も、クサンティッペという女性と結婚し、3人の息子がいたと伝えられています。
プラトンの『ソクラテスの弁明』34dには、裁判当時、息子の一人は青年になりかけており、残る二人はまだ幼かったと描かれています。
ソクラテスもまた、家族と暮らし、子どもを育てる立場にあったのです。
ソクラテスが生きたアテナイは、どのような社会だったのか
ソクラテスが生きた紀元前5世紀のアテナイでは、市民が集まり、政治について話し合う仕組みが発達していました。
これは**民主政(みんしゅせい)**と呼ばれ、市民が政治の決定に参加する仕組みです。
ただし、現在の民主主義とは大きな違いがありました。
政治に参加できたのは、主に一定の条件を満たした成人男性の市民です。
女性や奴隷、外国から移り住んだ人々には、同じ政治参加の権利がありませんでした。
つまり、アテナイは人々が政治について話し合う社会である一方、誰もが平等に参加できる社会ではなかったのです。
さらに、ソクラテスが生きた時代には、大きな戦争も起こりました。
**ペロポネソス戦争(紀元前431年〜404年)**です。
これは、アテナイとスパルタという二つの有力な都市を中心に、それぞれの仲間となった都市も加わって争った戦争です。
ソクラテス自身も、アテナイ側の兵士として戦いに参加しました。
プラトンの『ソクラテスの弁明』28eには、ソクラテスがポティダイア、アンフィポリス、デリオンという戦いの行われた場所で、兵士として任務に就いたことが記されています。
彼は、遠くから社会を眺めているだけの哲学者ではありませんでした。
家族を持ち、都市の一員として暮らし、戦争にも参加した人物だったのです。
では、ソクラテスは何を大切にしていたのでしょうか。
プラトンの著作には、ソクラテスが人々に質問を重ねながら、勇気や正しさ、善く生きることについて考える姿が描かれています。
ここでいう「善く生きる」とは、単にお金をたくさん持ったり、有名になったりすることではありません。
何が正しい行いなのかを考え、自分がどのような人間として生きるべきかを問い直すことです。
ソクラテスは、相手が知っていると考えていることについて質問し、その説明が本当に成り立つのかを確かめようとしました。
これは科学的な実験ではなく、会話の中で答えの理由を尋ね、ときには反対の例を示して、考えを確かめていく哲学的な方法です。
ただし、ソクラテス自身が哲学について書いた著作は残っていません。
そのため、私たちが知るソクラテスの姿は、プラトンなど、彼について書き残した人々の著作を通したものです。
また、彼が若いころからどのような経験を重ねて哲学に関心を深めたのか、その詳しい道のりもすべてわかっているわけではありません。
それでも、古代の記録から見えてくるのは、自分や他人が本当に何を知っているのか、そして人はどう生きるべきなのかを問い続けた人物の姿です。
では、そのソクラテスは、なぜ人間の知恵をそれほど重要な問題として考えたのでしょうか。
その理由を知る手がかりとして、プラトンの著作に登場するのがデルフォイの神託です。
デルフォイとは、古代ギリシアで神のお告げを受ける場所として知られていた土地です。
神託(しんたく)とは、神からの答えや意思として人々に伝えられたお告げを意味します。
次は、ソクラテスがこの神託について何を疑問に思い、なぜ知恵のある人々を訪ねるようになったのかをたどっていきましょう。
4.なぜソクラテスは神託の意味を確かめようとしたのか
ソクラテスが裁判で神託の話を持ち出したのは、自分がなぜ知恵のある人物だと評判になり、同時に人々の反感を買うようになったのかを説明するためでした。
第2章で紹介した二つの告発とは別に、ソクラテスについては、以前からさまざまな噂が広まっていたといいます。
第1章で紹介したプラトンの『ソクラテスの弁明』18b〜19cには、「天や地下の不思議なことを調べている」「言い分が弱くても、話し方によって正しく見せる」といった噂があったと記されています。
ただし、これはソクラテスが実際にそのようなことをしていたという証拠ではありません。むしろ、彼が裁判で反論しようとした評判です。
では、なぜソクラテスには、そのような評判が生まれたのでしょうか。
その理由を説明するために、ソクラテスが語ったのが、第3章で紹介したデルフォイの神託の話でした。
『ソクラテスの弁明』20e〜21bによると、ソクラテスには**カイレフォン(古代ギリシア語:Χαιρεφῶν〈カイレポーン〉)**という、若いころからの友人がいました。
カイレフォンはアテナイの市民で、ソクラテスと長く交流していた人物です。
あるとき彼はデルフォイを訪れ、神のお告げを伝える女性の神官に、ソクラテスより知恵のある人がいるかを尋ねました。
すると、**「ソクラテスより知恵のある人はいない」**という意味の答えが返ってきたとされています。
しかも、ソクラテスは裁判で、すでに亡くなっていたカイレフォンに代わり、その兄弟がこの話を確かめられると述べています。
ここで注目したいのは、神託を聞いたソクラテス自身の反応です。
彼は、自分には特別な知恵があるとは思っていませんでした。
しかし、神が嘘をつくはずはないとも考えていました。
そのため、自分の考えと神託の言葉をどう理解すればよいのか、長い間答えが見つからなかったと語っています(21b)。
そして、迷った末に選んだのが、自分より知恵のある人物を探すという行動でした。
もし、そのような人が見つかれば、神託の言葉に反論できると考えたのです(21c)。
そこでソクラテスは、知恵があると評判の人物を訪ね、実際に会話を交わすことにしました。
これは科学的な実験ではありません。人々に質問し、その答えや理由を確かめながら、相手が本当に何を知っているのかを考える哲学的な方法です。
ここから見えてくるのは、自分を優れた人物だとする言葉であっても、意味がわからなければ確かめようとするソクラテスの姿です。
ただし、神託がいつ伝えられたのかは正確にはわかっていません。また、この出来事だけが、ソクラテスが哲学に関心を持った原因だったと断定することもできません。
ここまでの話は、プラトンの著作に描かれた、裁判でのソクラテス自身の説明に基づいています。
そして、この話にはもう一つ重要な意味がありました。
ソクラテスは、自分がなぜ人々に質問を重ねるようになったのかを、裁判で説明しようとしていたのです。
しかし、その活動は、すべての人から歓迎されたわけではありませんでした。
次は、ソクラテスの対話が周囲にどう受け止められ、なぜ人々の反感や若者たちの関心を集めたのかをたどっていきましょう。
5.ソクラテスの対話は、人々にどう受け止められたのか
ソクラテスの対話は、人々の関心を集める一方で、反感を招くこともありました。そして、その活動が彼の評判に影響したと、プラトンの『ソクラテスの弁明』には描かれています。
第4章で紹介したように、ソクラテスは神託の意味を確かめようとして、知恵があると評判の人々を訪ねました。
その相手には、政治家や詩人、職人などがいました。
ソクラテスは相手に質問を重ね、答えの理由を尋ねながら、本当にその説明でよいのかを確かめようとしました。
しかし、そのような対話が、誰にとっても歓迎されるわけではありませんでした。
『ソクラテスの弁明』21d〜21eには、ソクラテスがある政治家と話し、相手が十分に理解していないことを示そうとしたところ、本人だけでなく、周囲で聞いていた人々からも反感を買ったと語る場面があります。
人々から知恵があると思われていた人物が、ほかの人の前で自分の考えを十分に説明できない。
そのような場面は、相手にとって受け入れにくいものだったとも考えられます。
一方、対話を見ていた人々の中には、相手の説明の問題点を指摘するソクラテス自身を、知恵のある人物だと思う人もいたとされています(23a)。
つまり、同じ対話でも、相手に疑問を投げかけられる人と、それを見ている人とでは、受け止め方が違うことがあったのです。
そして、ソクラテスのまわりには、若者たちも集まるようになりました。
『ソクラテスの弁明』23c〜23dによると、特に裕福な家庭で、自由な時間の多かった若者たちが、自分からソクラテスについて回ったと語られています。
彼らは、人々が質問を受けて答えに困る様子を興味深く感じていました。
そして、ソクラテスの質問の仕方をまねて、自分たちもほかの人に質問するようになったといいます。
ところが、若者たちから質問された人々の中には、ソクラテス本人に怒りを向ける人もいました。
若者がまねをしているのは、ソクラテスの対話の仕方だったからです。
ソクラテスは、こうした反感が積み重なり、**「若者を悪い方向へ導いている」**という非難につながったと、裁判で説明しています。
ここで、第2章で紹介した告発とのつながりが見えてきます。
ただし、若者が質問の仕方をまねたことと、実際に若者を悪い方向へ導いたことは、同じではありません。
では、ソクラテスは若者たちを集め、自分の考えを教えていたのでしょうか。
『ソクラテスの弁明』33a〜33bでは、ソクラテスは自分について、誰かの教師になったことはなく、特定の人に知識を教えると約束したこともないと述べています。
そして、若者でも年配の人でも、裕福な人でも貧しい人でも、話を聞きたい人や質問したい人には応じていたと説明しています。
お金を払った人だけに話をする、というやり方でもなかったのです。
これは、ソクラテスが裁判で述べた、自分の活動についての説明です。
実際に彼が周囲の人々からどのように受け止められていたのか、そのすべてをこの説明だけで確定することはできません。
また、人々の反感が裁判にどの程度影響したのかについても、当時の政治や宗教などの背景を含めて考える必要があります。
それでも、古代の記録からは、一人の人物の姿が浮かび上がります。
ソクラテスは、人々と対話することで関心を集め、同時に反感も買いながら、アテナイの社会で問い続けた人物として伝えられているのです。
では、周囲の人々から知恵のある人物だと思われることもあったソクラテス自身は、自分の知恵をどう考えていたのでしょうか。
次は、その答えをたどりながら、ソクラテスと「無知の知」との関係をさらに深く見ていきましょう。

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