記憶とは何か?なぜ忘れ、覚えているのに思い出せないのかを心理学でやさしく解説

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顔は分かるのに、名前が出てこない。昨日の出来事なのに、家族と記憶が食い違う。そんな身近な疑問を入り口に、覚える・保つ・思い出す仕組みと、記憶が変化する理由を心理学からやさしくひも解きます。

心理学における『記憶』とは?覚える・保つ・思い出す仕組みをやさしく解説

代表例

顔は分かるのに、名前が出てこない

道を歩いていると、向こうから知っている人が近づいてきました。

顔を見れば、以前どこで会った人なのかは分かります。

一緒に話した場面も思い出せます。

ところが、肝心の名前だけが出てきません。

「ここまで分かっているのに、どうして名前だけ思い出せないのだろう?」

そんな経験はありませんか?

これは、私たちの記憶が、単に「覚えているか、忘れているか」だけでは説明できないことを示す身近な例です。

記憶には、情報を頭に入れる働きだけでなく、それを保ち、必要なときに取り出す働きもあります。

では、心理学では「記憶」をどのように考えているのでしょうか。

5秒で分かる結論

心理学における記憶とは、経験した情報を取り込み、時間がたっても保ち、必要なときに利用する一連の働きです。

この一連の過程は、代表的な整理では次の3つに分けられます。

  • 情報を取り込む「符号化」
  • 情報を保つ「貯蔵」
  • 情報を取り出す「検索」

さらに記憶には、感覚記憶、短期記憶、長期記憶といった時間による分類や、出来事、知識、技能など、内容による分類があります。心理学では、記憶を一つの箱ではなく、複数の働きや仕組みが関係するものとして考えます。

そのため、何かを思い出せないときも、必ずしも記憶が完全に消えたとは限りません。

最初から十分に覚えられていなかった場合もあれば、覚えていても、その場でうまく取り出せなかった場合もあります。

小学生にも分かる答え

記憶とは、見たり聞いたりしたことを頭の中に入れ、あとまで覚えておき、必要なときに思い出す働きです。

学校の図書室にたとえてみましょう。

本を図書室へ運ぶことが、情報を頭に入れることです。

本を本棚に置いておくことが、覚えた情報を保つことです。

そして、読みたいときに目的の本を探し出すことが、思い出すことです。

けれども、本の名前をよく見ないまま図書室へ持っていったり、でたらめな場所へ置いたりすると、あとで見つけにくくなります。

記憶も同じように、よく見たり、意味を考えたり、知っていることと結びつけたりすると、あとで思い出すための手がかりが増えます。

ただし、頭の中に本当の図書室があるわけではありません。

これは、記憶の働きを分かりやすくするためのたとえです。

記憶は一つの場所だけで働くものではなく、覚える内容や思い出し方によって、複数の仕組みが関係しています。

1.記憶って不思議

このようなことはありませんか?

「昨日覚えたはずなのに、もう思い出せない」

「顔は分かるのに、名前が出てこない」

「昔の歌は歌えるのに、昨日の夕食は思い出せない」

私たちの生活には、記憶について不思議に感じる場面がたくさんあります。

よくある記憶の不思議

このような経験に、心当たりはありませんか?

  • 教科書を読んでいるときは分かるのに、テストでは答えられない
  • 英単語を何度も書いたのに、次の日には忘れている
  • 久しぶりに会った人の顔は分かるのに、名前だけ出てこない
  • 部屋へ何かを取りに来たのに、何を取りに来たのか忘れる
  • テストが終わった直後に、思い出せなかった答えが浮かぶ
  • 昨日の出来事はあいまいなのに、子どものころの出来事を覚えている
  • 自転車の乗り方を言葉で説明するのは難しいのに、体は動かせる
  • 好きな歌の歌詞は、意識しなくても自然に出てくる
  • においや音をきっかけに、昔の出来事を急に思い出す
  • 同じ出来事を経験した人同士で、思い出している内容が違う

これらはすべて、「記憶」という一つの言葉に関係しています。

しかし、その中で起きていることは同じではありません。

人の名前や学校で習った知識を思い出すことと、自転車に乗ることでは、関係する記憶の種類が異なります。

また、情報を見て「知っている」と感じることと、何も見ずに自分で答えることにも違いがあります。

記憶の疑問を表すキャッチフレーズ

「覚えているはずなのに、なぜ出てこない?――記憶の検索とは?」

「昨日のことは忘れるのに、昔の歌はなぜ残る?――長期記憶とは?」

「顔は分かるのに、名前が出ないのはなぜ?――覚えることと思い出すことの違いとは?」

「自転車には乗れるのに、乗り方を説明しにくいのはなぜ?――記憶には種類がある?」

「同じ出来事なのに、人によって思い出が違うのはなぜ?――記憶は録画ではない?」

心理学では、記憶を「頭の中に情報をしまっておく能力」だけとは考えません。

情報を受け取り、意味のある形にし、時間を超えて保ち、必要な場面で利用するまでの働き全体を研究します。

さらに、記憶には一つの種類しかないわけではありません。

短いあいだだけ残る記憶もあれば、何年も保たれる記憶もあります。

意識して思い出せる記憶もあれば、練習によって身についた技能のように、行動として表れる記憶もあります。

この不思議な記憶には、どのような仕組みがあるのでしょうか。

「覚えた」「忘れた」という言葉の奥にある、私たちの心の働きを一緒に探っていきましょう。

この記事を読むメリット

この記事を読むことで、次のことが分かります。

  • 心理学でいう「記憶」の意味
  • 覚える・保つ・思い出すという働きの違い
  • 感覚記憶・短期記憶・長期記憶の基本
  • 出来事の記憶、知識の記憶、技能の記憶の違い
  • 覚えているのに思い出せないことがある理由
  • 同じ出来事について、記憶が人によって異なる理由
  • 記憶が思い出すたびに再構成される可能性
  • 勉強した情報を残しやすくするための考え方

記憶の仕組みを知ることは、テストの点数を上げるためだけに役立つものではありません。

人の名前が出てこないとき、過去の出来事を振り返るとき、誰かと記憶が食い違ったときにも、

「記憶とは、過去をそのまま再生するものではないのかもしれない」

と、一度立ち止まって考えられるようになります。

そして、勉強したことを忘れたときにも、

「自分には記憶力がない」

とすぐに決めつけるのではなく、

「取り込み方、保ち方、思い出し方のどこを変えられるだろう」

と考える手がかりになります。

2.疑問が浮かんだ物語

昨日の出来事なのに、思い出が違う

日曜日、小学6年生のソウタさんは、家族と動物園へ出かけました。

夕食のとき、ペンギンを見た場面について話していると、ソウタさんが言いました。

「ペンギンが水に飛び込んだとき、お父さんの服に水がかかったよね」

すると、お父さんは首をかしげました。

「水がかかったのは、ソウタだっただろう?」

妹も話に入ります。

「誰にもかかっていなかったと思うよ」

3人とも、同じ場所で同じ出来事を見ていたはずです。

それなのに、覚えている内容が少しずつ違います。

写真を見直すと、水しぶきを避けるお父さんと、笑っているソウタさんが写っていました。

しかし、誰の服がぬれたのかまでは分かりません。

「僕は、お父さんに水がかかったと思っていたのに……」

ソウタさんは不思議になりました。

「同じものを見たのに、どうして記憶が違うのだろう?」

「記憶は、見たことをそのまま残しているんじゃないの?」

昨日の出来事でさえ、人によって思い出し方が違うことがあります。

私たちの記憶は、カメラのように出来事をそのまま保存しているのでしょうか。

それとも、覚えている情報を使いながら、思い出すたびに出来事を組み立て直しているのでしょうか。

その答えに近づくために、心理学における記憶の基本的な働きを見ていきましょう。

3.すぐに分かる結論

お答えします

心理学における記憶とは、経験した情報を取り込み、しばらく保ち、必要なときに思い出して利用する働きです。

代表的には、次の3つの過程から考えます。

  • 情報を取り込む「符号化」
  • 情報を保つ「貯蔵」
  • 情報を取り出す「検索」

つまり、記憶は「覚えること」だけではありません。

きちんと覚えたつもりでも、必要なときに取り出せなければ、思い出せないことがあります。

同じ出来事なのに、記憶が違うのはなぜ?

私たちは、見たり聞いたりしたことのすべてを、そのまま覚えているわけではありません。

同じ場所にいても、何に注目したか、何を大切だと感じたかは、人によって異なります。

さらに、あとから聞いた話や、自分なりの考えが、思い出す内容に影響することもあります。

そのため、同じ出来事を体験した人同士でも、記憶の細かい部分が違うことがあります。

ただし、記憶が変化することがあるからといって、すべての記憶が間違っているわけではありません。

正確に残る部分もあれば、あいまいになったり、あとから変化したりする部分もあるのです。

噛み砕いていうなら

記憶は、出来事をそのまま撮影するカメラとは少し違います。

私たちは、見たものの中から一部を受け取り、それまでに知っていたことと結びつけながら覚えます。

そして思い出すときにも、残っている情報や手がかりを使って、出来事を組み立て直すことがあります。

だから、ソウタさんと家族のように、同じペンギンを見ていても、覚えている内容が少しずつ違うことがあるのです。

また、人の名前やテストの答えが出てこない場合も、記憶が完全に消えたとは限りません。

最初に十分覚えられていなかったり、その場で思い出すための手がかりを見つけられなかったりする可能性があります。

記憶には、短いあいだ残るもの、長く残るもの、出来事や知識として残るもの、体で覚える技能など、さまざまな種類があります。

では、情報はどのように記憶へ取り込まれ、保たれ、思い出されるのでしょうか。

次の章から、心理学における記憶の基本的な仕組みを、順番に詳しく見ていきましょう。

4.心理学における『記憶』とは?

第3章までは、心理学における記憶の全体像を、身近な例から簡単に見てきました。

ここからは一区切りつけて、専門用語の意味や研究上の考え方まで、一つずつ詳しく確かめていきます。

心理学でいう記憶とは、昔の出来事を思い出すことだけではありません。

学習した知識、人の顔、言葉の意味、家までの道、自転車の乗り方など、過去の経験を、現在の理解や行動に役立てる働き全体が関係します。

そのため、記憶は一つの箱や、一つの能力だけで説明できるものではありません。

心理学の入門的な整理では、記憶を次の三つの過程から考えます。

符号化――経験を記憶として扱える形にする

符号化は、英語で「encoding(エンコーディング)」といいます。

見たり、聞いたり、感じたりした情報を、あとで利用できる形にする過程です。

日本語の心理学文献では、「記銘」と表現されることもあります。

ただし、文献によっては「記銘」を、情報を覚え込む働き全体に近い意味で使い、「符号化」を、情報を一定の表現へ変換する過程として使い分ける場合があります。

初心者向けには、まず、

符号化とは、経験を記憶の入口へ取り込む働き

と考えると分かりやすいでしょう。

たとえば、初めて会った人から名前を聞いたとします。

そのときに別のことを考えていたら、音は耳に届いていても、名前を十分に覚えられないことがあります。

反対に、

「家族と同じ名前だ」

「この漢字には、このような意味がある」

と、すでに知っていることへ結びつけると、あとで思い出すための手がかりを増やせる場合があります。

つまり、「見た」「聞いた」ことと、「記憶として十分に取り込めた」ことは同じではありません。

貯蔵――情報を時間を超えて利用できる状態に保つ

貯蔵は、英語で「storage(ストレージ)」といいます。

符号化された情報を、ある期間、あとから利用できる状態に保つことです。

日本語では「保持」と表現されることもあります。

ただし、記憶はパソコンのファイルのように、いつまでも同じ形で一か所へ置かれているとは限りません。

覚えたあとに経験した出来事や、似た情報、現在の知識などが、後の記憶に影響することがあります。

時間がたつにつれて細部が思い出しにくくなり、大まかな意味だけが残ることもあります。

「貯蔵」という言葉から、記憶が脳内の倉庫へ保管される様子を想像するかもしれません。

しかし実際には、複数の神経回路が関わる動的な仕組みとして研究されています。

検索――必要なときに記憶を利用する

検索は、英語で「retrieval(リトリーバル)」といいます。

保たれている情報を、必要な場面で取り出して利用する過程です。

日本語では「想起」と表現されることもあります。

テストで答えを書く、人の名前を思い出す、旅行の出来事を話すといった行為が検索にあたります。

何かを思い出せないとき、記憶が完全に失われたとは限りません。

最初に十分符号化されていなかった可能性もあります。

情報はある程度残っていても、取り出すための手がかりを、その場で利用できなかった可能性もあります。

顔は分かるのに名前が出てこないという現象も、名前が十分に符号化されていなかった場合と、一時的に検索できない場合の両方が考えられます。

三つの過程は、別々に動くわけではない

符号化・貯蔵・検索は、記憶を理解するための代表的な整理です。

ただし、三つが完全に独立して、決まった順番だけで動くわけではありません。

どのように符号化したかによって、あとで使える検索の手がかりが変わります。

一度思い出すことによって、その後の記憶が強まったり、内容が変化したりすることもあります。

つまり、思い出すことは、完成済みの記憶を読み出すだけの作業ではありません。

記憶そのものへ再び働きかける過程でもあるのです。

『memory』と『retrieval』の意味

「memory(メモリー)」という英語には、覚えている内容だけでなく、情報を取り込み、保ち、利用する能力や仕組みという意味もあります。

日本語では、文脈に応じて「記憶」「記憶内容」「記憶力」などと訳されます。

「retrieval(リトリーバル)」には、保管されているものを探し出して取り戻すという意味があります。

そのため、記憶研究では「検索」や「想起」と訳されています。

心理学における記憶は、「頭の中に入っている情報」だけを意味するのではありません。

情報を覚え、保ち、現在の行動へ利用するまでの仕組み全体を表す言葉なのです。

では、この目に見えない記憶を、人はどのように科学の対象として調べ始めたのでしょうか。

次の章では、記憶研究の歴史を変えた心理学者と、その実験を見ていきます。

5.記憶はどのように研究されてきたのか

記憶を定義した人物はいるの?

心理学における記憶を、一人で発見したり、現在の形に定義したりした人物がいるわけではありません。

現在使われている「情報を取り込み、保ち、必要なときに利用する働き」という記憶の考え方は、多くの研究者による実験と理論の積み重ねから形作られてきました。

たとえば、ヘルマン・エビングハウスは、記憶と忘却を実験によって数量的に調べました。

リチャード・アトキンソンとリチャード・シフリンは、感覚記憶・短期記憶・長期記憶を含む代表的な記憶モデルを示しました。

エンデル・タルヴィングは、経験した出来事に関するエピソード記憶と、一般的な知識に関する意味記憶を区別しました。

アラン・バドリーとグレアム・ヒッチは、情報を一時的に保ちながら考えるワーキングメモリのモデルを提案しました。

このように、記憶研究は一人の研究者によって完成したものではありません。

異なる研究者が、記憶という大きな謎を別々の方向から調べることで、現在の理解が少しずつ築かれてきたのです。

人は古くから、「なぜ覚え、なぜ忘れるのか」を考えてきました。

しかし、記憶を実験で測定し、数値を使って確かめる研究が本格的に進んだのは、19世紀後半です。

まずは、記憶を科学的に測ろうとした先駆者、ヘルマン・エビングハウスの研究から見ていきましょう。

ヘルマン・エビングハウス――記憶を数値で調べた先駆者

ドイツの心理学者ヘルマン・エビングハウスは、1850年(嘉永3年)に生まれました。

記憶と忘却を、自ら実験して数量的に研究した先駆者として知られています。

当時、人間の心のような複雑なものを、自然科学のように実験で調べるのは難しいと考えられていました。

とくに、意味のある単語を使うと、その人がすでにもっている知識や思い出が結果へ影響します。

たとえば「犬」という言葉を覚える場合、人によって飼っていた犬や、犬を怖いと感じた経験など、結びつく情報が異なります。

そこでエビングハウスは、既存の知識による影響を減らすため、子音・母音・子音を組み合わせた、意味をもちにくい音節を利用しました。

そして、自分自身が音節のリストを覚え、時間を空けてから、同じリストをもう一度学び直しました。

「どれだけ早く学び直せたか」で記憶を測った

エビングハウスの研究で重要なのが、「節約法」です。

英語では「savings method(セービングス・メソッド)」と呼ばれます。

一度目の学習にかかった時間と、あとで同じ内容を学び直すのにかかった時間を比べます。

たとえ内容を自力で思い出せなくても、二度目に学ぶ時間が短くなっていれば、最初の学習の影響が残っていると考えられます。

つまり、

思い出せないように感じても、記憶の影響が完全に消えているとは限らない

ことを、再学習にかかる時間から測ろうとしたのです。

エビングハウスは1885年(明治18年)、研究成果を『記憶について』として発表しました。

この研究は、記憶を実験と数値によって調べられることを示した重要な仕事となりました。

忘却曲線は「全員が同じ割合で忘れる」という意味ではない

エビングハウスの研究では、学習後の早い時期に忘却が大きく進み、その後は変化が緩やかになる傾向が示されました。

この時間経過に伴う保持の変化が、一般に「忘却曲線」と呼ばれています。

後年に行われた再現研究でも、エビングハウスの基本的な結果に近い忘却の傾向が確認されています。

ただし、

「20分後には必ず何%忘れる」

「1日後には全員が同じ割合で忘れる」

という意味ではありません。

忘れ方は、教材に意味があるか、どれほど理解したか、もともと何を知っていたか、どのように復習したかによって変わります。

エビングハウスの結果は、特定の条件で本人を対象に行った実験です。

忘却曲線は、すべての人に共通する正確な時刻表ではなく、時間とともに記憶の利用しやすさが変化する代表的な傾向として理解することが大切です。

アトキンソンとシフリン――複数の記憶システムを考える

1968年(昭和43年)、心理学者リチャード・アトキンソンとリチャード・シフリンは、人間の記憶を説明するモデルを発表しました。

一般に「アトキンソン=シフリン・モデル」または「多重貯蔵モデル」と呼ばれます。

英語では「multi-store model(マルチ・ストア・モデル)」と表現されます。

入門的には、記憶に関係するシステムを、

  • 感覚記憶
  • 短期記憶
  • 長期記憶

の三つに分けて説明します。

ただし、もとの理論は、情報が三つの箱を自動的に順番どおり通過するだけの単純な説明ではありません。

注意を向けること、繰り返すこと、情報をまとめること、検索することなど、学習者が行う「制御過程」も重視されていました。

教科書で簡略化された図だけを見ると、

感覚記憶から短期記憶へ入り、繰り返せば長期記憶へ移る

という一本道に見えることがあります。

しかし実際には、既存の長期記憶が新しい情報の理解へ影響するなど、記憶システム同士には相互作用があります。

バドリーとヒッチ――短期記憶を「作業する仕組み」として考える

短期記憶を、情報を一時的に置いておくだけの場所と考えると、暗算、文章理解、推理などを十分に説明できません。

暗算では、途中の数字を短時間保ちながら、同時に計算しなければなりません。

文章を読むときにも、少し前の内容を覚えながら、次の文との関係を考えます。

1974年(昭和49年)、アラン・バドリーとグレアム・ヒッチは、情報を一時的に保ちながら操作する「ワーキングメモリ」の複数成分モデルを提案しました。

ワーキングメモリは、英語で「working memory(ワーキング・メモリー)」といいます。

のちに発展したモデルでは、主に次の働きが示されています。

音韻ループ「おんいんループ」

「phonological loop(フォノロジカル・ループ)」といいます。

言葉や音声に関する情報を、一時的に保つ働きです。

聞いた電話番号を頭の中で繰り返す場面などに関係します。

視空間スケッチパッド

「visuospatial sketchpad(ビジュオスペーシャル・スケッチパッド)」といいます。

形、位置、動きなどの視覚的・空間的な情報を一時的に扱う働きです。

頭の中で道順を思い浮かべるときなどに関係します。

中央実行系

「central executive(セントラル・エグゼクティブ)」といいます。

注意を振り分け、必要な処理を調整する役割として考えられています。

ただし、脳内に一人の司令官がいるという意味ではありません。

複数の注意・制御機能を説明するための理論上の概念です。

エピソード・バッファ

2000年(平成12年)、バドリーは「episodic buffer(エピソディック・バッファ)」をモデルへ追加しました。

音声、視覚、長期記憶などから得られた異なる情報を、一時的にまとめて一つのまとまりとして扱う仕組みです。

ワーキングメモリ研究は、短期的な記憶が単なる保管場所ではなく、理解や思考を支える働きであることを示しました。

記憶の理論は、一人の研究者が完成させて終わったものではありません。

新しい実験や患者の事例によって、何度も見直されてきたのです。

では、感覚記憶、短期記憶、長期記憶には、具体的にどのような違いがあるのでしょうか。

6.感覚記憶・短期記憶・長期記憶の違い

記憶を、情報が保たれる時間や働きから整理すると、代表的には感覚記憶、短期記憶、長期記憶が挙げられます。

ただし、これらは脳の中に物理的な三つの箱があるという意味ではありません。

記憶の性質を理解するための、代表的な分類です。

感覚記憶――消えかけた感覚を一瞬だけ保つ

感覚記憶は、目や耳、触覚などから入った情報が、非常に短い時間だけ残る仕組みです。

目の前の景色は、視線を動かすたびに完全に途切れているようには感じません。

音も、発せられた瞬間にすべて消えてしまったら、言葉をまとまりとして理解するのが難しくなります。

感覚記憶は、流れ続ける感覚情報を理解するための、ごく短い橋渡しをしていると考えられます。

アイコニック記憶――視覚情報が一瞬だけ残る

視覚に関する感覚記憶は、「iconic memory(アイコニック・メモリー)」と呼ばれます。

日本語では「アイコニック記憶」や「視覚的感覚記憶」と表現されます。

非常に短い時間だけ、見た情報の痕跡が利用できる仕組みです。

研究では、アイコニック記憶は一般に数百ミリ秒程度の短い時間で変化すると考えられています。

花火の光が残って見える現象は、感覚記憶をイメージする例としては分かりやすいものです。

ただし、強い光による生理的な残像と、心理学でいうアイコニック記憶は、完全に同じ現象ではありません。

そのため、

目から入った情報が、刺激が消えたあともごく短時間だけ利用できる

と説明する方が正確です。

エコーイック記憶――音の余韻を一時的に保つ

聴覚に関する感覚記憶は、「echoic memory(エコーイック・メモリー)」と呼ばれます。

日本語では「エコーイック記憶」や「聴覚的感覚記憶」と表現されます。

相手の話を聞き逃したと思い、

「今、何て言った?」

と聞き返した直後に、言葉の内容が急に分かることがあります。

音が消えたあとも、ごく短時間だけ聴覚情報が利用できるためだと考えられます。

感覚記憶は、目や耳に入ったすべての情報を長く保存する仕組みではありません。

その多くは、注意を向けられないまま短時間で利用できなくなります。

短期記憶――限られた情報を一時的に保つ

短期記憶は、英語で「short-term memory(ショートターム・メモリー)」といいます。

情報を短い時間だけ利用できる状態に保つ働きです。

聞いた電話番号を、入力するまで覚えておく場面が分かりやすい例です。

ただし、別の会話を始めたり、ほかの数字を聞いたりすると、最初の番号を思い出しにくくなることがあります。

短期記憶には、保持できる時間と情報量に限りがあります。

古い入門書では、短期記憶の容量を「7±2項目」と説明することがあります。

これはジョージ・ミラーが1956年(昭和31年)に示した有名な考え方です。

しかし現在では、課題の種類や情報のまとまり方によって容量は変わり、単純な項目数としては、より少ない数を想定する研究もあります。

そのため、

短期記憶には限界があり、意味のあるまとまりとして整理すると扱いやすくなる

と理解する方が適切です。

チャンク化――複数の情報を一つのまとまりとして扱う

情報を意味のあるまとまりへ整理することを「chunking(チャンキング)」といいます。

日本語では「チャンク化」と呼ばれます。

たとえば、

2・0・2・6・0・7・1・9

という八つの数字よりも、

2026年・7月・19日

とまとめた方が覚えやすく感じられます。

数字の数が減ったわけではありません。

意味のある三つのまとまりとして扱えるようになったのです。

ただし、何を一つのチャンクとして扱えるかは、その人の知識や経験によって変わります。

短期記憶とワーキングメモリは同じ?

短期記憶とワーキングメモリは、近い関係にありますが、完全に同じ意味ではありません。

短期記憶は、主に情報を短時間保つ働きに注目した概念です。

ワーキングメモリは、短時間保ちながら、情報を並べ替えたり、計算したり、理解したりする働きまで含みます。

短期記憶を、ワーキングメモリを構成する一部として説明する考え方もあります。

長期記憶――過去の経験を時間を超えて利用する

長期記憶は、英語で「long-term memory(ロングターム・メモリー)」といいます。

短時間を超えて利用できる記憶です。

数分後に思い出せる情報から、何十年も残る経験まで含まれます。

自分の名前、言葉の意味、家までの道、学校で習った知識、子どものころの出来事などが例です。

ただし、「長期記憶」という名前は、永久に消えないことを意味しません。

長期記憶に関係する情報であっても、思い出しにくくなったり、似た情報と混ざったり、細部が変化したりすることがあります。

短期記憶を繰り返せば、そのまま長期記憶になる?

反復は、情報を短時間保ち、学習の機会を増やすうえで役立ちます。

しかし、

短期記憶の中で何度も繰り返せば、その情報がそのまま長期記憶へ移動する

とだけ説明するのは単純すぎます。

意味を考えること、既存の知識と結びつけること、自分で思い出すこと、時間を空けて学び直すことなども、長期的な保持に関係します。

また、短期記憶と長期記憶は、完全に独立した一方通行の箱ではありません。

文章を理解するときも、すでにもっている長期記憶の知識を使いながら、目の前の言葉を処理しています。

記憶を時間から分けると、感覚記憶、短期記憶、長期記憶という違いが見えてきます。

しかし、同じ長期記憶の中でも、「昨日の動物園」と「自転車の乗り方」は同じ性質ではありません。

次の章では、長期記憶を内容と使われ方から分類します。

7.長期記憶にはどのような種類がある?

長期記憶は、一つの巨大な保管庫ではありません。

何を覚えているのか、どのような形で利用するのかによって、複数の記憶システムに分けて考えられています。

代表的な整理では、長期記憶を大きく、

  • 宣言的記憶
  • 非宣言的記憶

に分けます。記憶は単一の能力ではなく、異なる特徴と脳内基盤をもつ複数のシステムから成るという考え方は、神経心理学研究によって支持されています。

宣言的記憶――意識して思い出せる事実や出来事

宣言的記憶は、英語で「declarative memory(デクララティブ・メモリー)」といいます。

「宣言できる」、つまり言葉や意識的な報告として表しやすい記憶です。

「explicit memory(エクスプリシット・メモリー)」、日本語では「顕在記憶」や「明示的記憶」と関連づけて説明されることもあります。

宣言的記憶は、代表的にはエピソード記憶と意味記憶に分けられます。

エピソード記憶――自分が体験した出来事

エピソード記憶は、英語で「episodic memory(エピソディック・メモリー)」といいます。

自分が経験した出来事に関する記憶です。

たとえば、

  • 昨日、家族と動物園へ行った
  • 入学式の日に雨が降っていた
  • 初めて自転車に乗れたとき、父親が隣を走っていた

といった記憶です。

出来事の内容だけでなく、

「いつ」

「どこで」

「自分がどのように体験したか」

という感覚が関係します。

カナダの心理学者エンデル・タルヴィングは、1972年(昭和47年)、出来事に関するエピソード記憶と、一般知識に関する意味記憶を区別しました。

タルヴィングは、その後、エピソード記憶を、過去の出来事を自分自身の経験として心の中で再体験する働きとして発展させました。

ただし、エピソード記憶は過去の完全な録画ではありません。

そのときに注意を向けた情報や、現在の知識を使いながら再構成される場合があります。

意味記憶――言葉や世界についての知識

意味記憶は、英語で「semantic memory(セマンティック・メモリー)」といいます。

言葉の意味、概念、一般的な知識に関する記憶です。

たとえば、

  • 日本の首都は東京である
  • ペンギンは鳥の仲間である
  • 三角形には三つの辺がある

といった知識です。

「日本の首都は東京」と知っていても、それを初めて習った授業の日を覚えているとは限りません。

この場合、知識そのものは意味記憶として利用できても、学んだ日のエピソード記憶は思い出せないことがあります。

ただし、エピソード記憶と意味記憶は、完全に切り離されたものではありません。

自分の体験から一般的な知識を学ぶこともあれば、もっている知識によって出来事の意味を理解することもあります。

両者が相互に関係することは、現在の研究でも重視されています。

非宣言的記憶――言葉で思い出す以外の形で表れる記憶

非宣言的記憶は、英語で「nondeclarative memory(ノンデクララティブ・メモリー)」といいます。

「implicit memory(インプリシット・メモリー)」、日本語では「潜在記憶」や「非明示的記憶」と関連づけて説明されることもあります。

意識的に出来事や事実を思い出さなくても、行動や反応に過去の経験が表れる記憶です。

ただし、「非宣言的記憶」と「潜在記憶」は、研究文脈によって完全に同じ範囲を指すとは限りません。

入門的には、意識的な思い出しとは異なる形で経験の影響が現れる記憶、と理解するとよいでしょう。

手続き記憶――説明するより、実行する記憶

手続き記憶は、英語で「procedural memory(プロシージャル・メモリー)」といいます。

技能や習慣に関係する記憶です。

たとえば、

  • 自転車に乗る
  • 泳ぐ
  • 靴ひもを結ぶ
  • キーボードを打つ
  • 楽器を演奏する

といった行動です。

自転車の乗り方を言葉で説明することはできます。

しかし、説明を暗記しただけで、すぐ上手に乗れるわけではありません。

手続き記憶は、実際の練習を通して技能として身につき、毎回すべての手順を意識しなくても実行しやすくなる点に特徴があります。

そのため、「言葉にできない記憶」と説明されることがあります。

ただし、まったく説明できないという意味ではありません。

言葉として知っていることと、技能として実行できることが同じではない、という意味です。

プライミング――以前の経験が、後の反応へ影響する

プライミングは、英語で「priming(プライミング)」といいます。

以前に見たり聞いたりした情報が、意識的に思い出されなくても、その後の判断や反応へ影響する現象です。

たとえば、一度見た単語を、あとで素早く認識できることがあります。

本人は最初に見たことを思い出していなくても、以前の経験が処理へ影響している場合があります。

条件づけや習慣も記憶に関係する

非宣言的記憶には、手続き記憶やプライミングのほか、条件づけ、習慣化なども含めて説明されます。

したがって、

長期記憶は宣言的記憶と手続き記憶の二つだけである

と説明するのは正確ではありません。

この記事では、日常生活で理解しやすい代表例として、エピソード記憶、意味記憶、手続き記憶を中心に紹介しています。

記憶を内容から見ると、出来事、知識、技能では、性質が異なることが分かりました。

では、これらの記憶は、脳のどこで支えられているのでしょうか。

次の章では、一つの「記憶中枢」を探すのではなく、記憶を支える脳のネットワークを見ていきます。

8.記憶するとき、脳では何が起きているのか

「記憶は、脳のどこに保存されているのでしょうか?」

そう聞かれると、脳の中に一つの記憶倉庫があるように想像するかもしれません。

しかし現在の神経科学では、記憶は一つの場所だけで作られ、同じ場所へすべて保管されるものとは考えられていません。

記憶の種類や、符号化・保持・検索といった段階に応じて、複数の脳領域と神経回路が協力します。

ここで紹介する脳領域は、「その記憶だけを保存する専用の箱」ではありません。

それぞれが多くの働きをもち、ネットワークの一部として記憶を支えています。

海馬――出来事の要素を結びつける重要な構造

海馬は、英語で「hippocampus(ヒポキャンパス)」といいます。

左右の側頭葉の内側に位置する、湾曲した脳の構造です。

「hippocampus」という名称は、古代ギリシャ語で海の生き物を表す言葉に由来し、その形がタツノオトシゴに似ていることから使われるようになりました。

海馬は、新しい出来事や事実に関する宣言的記憶の形成、空間に関する記憶、経験の異なる要素を結びつける働きなどに重要です。

たとえば動物園の思い出には、

  • ペンギンを見た
  • 家族と一緒だった
  • 日曜日だった
  • 水しぶきが上がった

という複数の要素があります。

海馬とその周辺の内側側頭葉は、こうした要素を一つの経験として関係づける働きに重要だと考えられています。

ただし、

海馬にすべての記憶が永久保存される

という説明は正確ではありません。

長期的な記憶には、大脳皮質を含む広いネットワークが関係します。

また、海馬そのものの働きについても、記憶の形成、検索、空間認知など、複数の理論から研究が続いています。

患者H.M.――記憶が一つの能力ではないと示した事例

記憶と内側側頭葉の関係を理解するうえで、患者H.M.の事例は非常に重要です。

H.M.の本名はヘンリー・グスタフ・モレゾンです。

治療が難しいてんかん発作を軽減するため、1953年(昭和28年)、左右の内側側頭葉の一部を切除する手術を受けました。

手術は発作の軽減を目的としたものでしたが、その後、H.M.は新しい出来事を長期的に覚えることに、深刻で持続的な困難を示しました。

1957年(昭和32年)、神経外科医ウィリアム・スコヴィルと神経心理学者ブレンダ・ミルナーが、この症例を報告しました。

H.M.は、会話の内容などを短時間保つことや、知的課題の多くを行うことはできました。

一方で、新しい日常の出来事を、時間を超えて意識的に思い出せる形で保つことが困難でした。

さらに重要なのは、H.M.が新しい運動技能を練習によって上達できたことです。

本人は以前に練習したことを意識的に思い出せなくても、課題の成績は改善しました。

この結果は、

出来事や事実を意識的に覚える記憶と、練習によって技能を身につける記憶は、同じ仕組みだけでは支えられていない

ことを示す重要な証拠となりました。

H.M.の事例を単純化しすぎない

H.M.について、

海馬だけを取り除いたため、すべての長期記憶を失った

と説明するのは正確ではありません。

手術では海馬だけでなく、その周辺を含む内側側頭葉の組織も影響を受けました。

また、手術以前の記憶がすべて完全に保たれていたわけではなく、手術に近い時期の過去の記憶にも障害がありました。

一方、幼少期などの古い記憶の多くは比較的保たれていました。

その後の画像・解剖学的研究でも、損傷範囲は当初考えられていたより複雑だったことが確認されています。

H.M.の事例から分かったのは、「記憶の場所が一つ見つかった」ということではありません。

記憶には複数の種類と段階があり、内側側頭葉が、とくに新しい宣言的記憶の形成に重要だということです。

大脳皮質――記憶の内容に応じて広く関わる

大脳皮質は、英語で「cerebral cortex(セレブラル・コーテックス)」といいます。

脳の表面を広く覆う領域です。

視覚、聴覚、言語、身体感覚、運動、判断など、多様な情報処理に関係します。

長期的な記憶を思い出すときには、その内容に対応する複数の皮質領域が再び関わると考えられています。

たとえば、風景を思い出すときには視覚情報に関係する領域、声を思い出すときには聴覚情報に関係する領域が、記憶ネットワークの一部として働く可能性があります。

記憶は、一つの場所に小さく保存されるというより、経験を構成した情報に関係する神経ネットワークによって支えられていると考える方が近いでしょう。

扁桃体――感情によって記憶の残り方を調整する

扁桃体は、英語で「amygdala(アミグダラ)」といいます。

脳の左右にある、アーモンド形にたとえられる構造です。

脅威、報酬、興奮など、感情的に重要な出来事の処理に関係します。

強い感情を伴った出来事が印象深く残ることがあります。

これは、感情的な覚醒に関係する神経・ホルモンの働きが、記憶の形成や固定を調整するためだと考えられています。

扁桃体は、海馬などほかの脳領域の記憶関連の働きへ影響します。

ただし、

感情が強ければ、記憶は必ず正確になる

という意味ではありません。

出来事の中心部分は強く残っていても、周辺の細部があいまいな場合があります。

鮮明さや自信の強さと、細部まで客観的に正しいことは、必ずしも同じではありません。

大脳基底核――習慣や技能学習に関係する

大脳基底核は、英語で「basal ganglia(ベーサル・ギャングリア)」といいます。

脳の深部にある複数の神経核の集まりです。

運動の選択、習慣、報酬に基づく学習、技能の獲得などに関係します。

繰り返し練習した行動が、毎回細かく考えなくても実行しやすくなる過程にも関わります。

ただし、大脳基底核だけに手続き記憶が保存されているわけではありません。

運動皮質、小脳、感覚系など、課題に応じた複数の領域が協力します。

小脳――動きの調整と運動学習を支える

小脳は、英語で「cerebellum(セレベラム)」といいます。

脳の後ろ側、下方に位置しています。

動きのタイミングや正確さを調整し、運動学習にも重要な役割をもちます。

自転車、スポーツ、楽器などの技能では、同じ動作を繰り返す中で、ずれを修正し、動きを滑らかにしていく必要があります。

小脳は、このような誤差の修正や運動の調整に関係します。

「体が覚える」という表現は便利ですが、筋肉そのものが出来事を記憶しているという意味ではありません。

脳と身体の感覚・運動系が、練習を通して変化しているのです。

神経可塑性――経験によって神経回路が変化する

神経可塑性は、英語で「neural plasticity(ニューラル・プラスティシティ)」といいます。

学習や経験などに応じて、神経細胞同士のつながりや、信号の伝わり方、神経回路の働きが変化する性質です。

記憶の形成には、このような神経系の変化が関係すると考えられています。

神経細胞同士の接合部分は「synapse(シナプス)」と呼ばれます。

学習によって、特定のシナプスで信号が伝わりやすくなったり、回路の働き方が変わったりする現象が研究されています。

ただし、

一つの記憶が、一つのシナプスへそのまま保存される

と単純に考えることはできません。

記憶の神経基盤には、細胞、シナプス、回路、脳領域同士の相互作用など、複数の水準が関係します。

エングラム――記憶の痕跡を探す研究

エングラムは、英語で「engram(エングラム)」といいます。

経験によって変化し、その記憶の形成や検索に関係する神経細胞集団や神経回路を表す概念です。

現在は主に動物研究を通して、特定の経験に関わった細胞集団を識別し、再び活動させたときに記憶に関係する行動が現れるかを調べる研究が進められています。

ただし、エングラムは、映像や文章がそのまま記録された小さなデータファイルではありません。

記憶に関係する神経細胞や回路の変化を理解するための研究概念です。

ここまで見てきたように、記憶は、海馬だけでも、神経細胞一つだけでも説明できません。

経験の内容、感情、技能、時間の経過などに応じて、複数の脳領域と神経回路が働きます。

そして、この複雑な仕組みだからこそ、記憶は長く残ることもあれば、思い出せなくなったり、内容が変わったりすることもあります。

次の章では、「忘れた」ときに何が起きているのかを、符号化不足、干渉、検索の失敗などの違いから詳しく見ていきましょう。

9.なぜ忘れるのか

消えたのか、取り出せないのか

ここまで、記憶には複数の種類があり、さまざまな脳領域や神経回路によって支えられていることを見てきました。

それでは、私たちはなぜ忘れてしまうのでしょうか。

「忘れた」という同じ言葉を使っていても、心の中で起きていることは一つではありません。

心理学では、いくつかの可能性を分けて考えます。

最初から十分に取り込まれていなかった

初めて会った人から名前を聞いたのに、少しすると出てこなくなった。

この場合、一度できあがった記憶が消えたのではなく、最初から十分に符号化されていなかった可能性があります。

名前を聞いた瞬間に、

  • 次に何を話そうか考えていた
  • 周囲の音へ注意が向いていた
  • 相手の服装や表情を見ていた

ということがあるかもしれません。

音が耳に届いていても、名前へ十分な注意を向けていなければ、あとで利用できる形として取り込まれにくくなります。

つまり、

見たことや聞いたことと、記憶として覚えたことは同じではありません。

記憶力の問題だと思っていた出来事が、実は注意や符号化の問題だった、という場合もあるのです。

時間がたつと利用しにくくなる

長いあいだ使わなかった情報は、思い出しにくくなることがあります。

ただし、

時間がたった分だけ、記憶が機械的に消える

と考えるのは単純すぎます。

同じ一週間でも、その間に復習したか、何度思い出したか、似た情報を新しく学んだかによって、思い出しやすさは変わります。

エビングハウスの忘却研究では、学習後の早い段階で保持成績が大きく変化し、その後は変化が緩やかになる傾向が示されました。

しかし、忘却曲線は、すべての人が同じ時刻に同じ割合で忘れることを示すものではありません。

教材の意味、理解度、事前知識、復習方法などによって、忘れ方は変わります。

似た情報がじゃまをする――干渉

古い暗証番号が浮かんで、新しい暗証番号を思い出せない。

以前覚えた人の名前と、新しく会った人の名前を混同する。

このように、複数の記憶が互いの学習や検索をじゃまする現象は「干渉」と呼ばれます。

英語では「interference(インターフィアレンス)」といいます。

干渉には、代表的に二つの方向があります。

順向干渉

順向干渉は、英語で「proactive interference(プロアクティブ・インターフィアレンス)」といいます。

以前に覚えた情報が、新しい情報の学習や検索をじゃますることです。

古い暗証番号が、新しい暗証番号を思い出すじゃまをする例が当てはまります。

逆向干渉

逆向干渉は、英語で「retroactive interference(レトロアクティブ・インターフィアレンス)」といいます。

新しく覚えた情報が、以前の情報を思い出すじゃまをすることです。

新しい住所を覚えたあと、以前住んでいた家の番地が出にくくなる場合などが例として考えられます。

ただし、すべての忘却を干渉だけで説明できるわけではありません。

似た情報が多いほど、目的の情報を見分けたり、適切に取り出したりするのが難しくなることがある、と理解するとよいでしょう。

思い出すための手がかりが見つからない

情報がある程度残っていても、その場では取り出せないことがあります。

人の名前が出てこなかったのに、家へ帰った瞬間に思い出す。

昔の曲を聴いたとき、そのころの景色や気持ちまで急によみがえる。

このような出来事には、「検索手がかり」が関係している可能性があります。

検索手がかりは、英語で「retrieval cue(リトリーバル・キュー)」といいます。

場所、音、におい、写真、会話の一部などが、記憶へたどり着く手がかりになることがあります。

旅行の出来事を思い出せないときでも、当時の写真を見ることで、場面や会話が次々に浮かぶ場合があります。

そのため、

思い出せないから、記憶が完全に消えた

とは限りません。

情報へたどり着くための手がかりを、その場では利用できなかった可能性もあるのです。

「知っているのに出てこない」舌先現象

意味や最初の音は分かるのに、肝心の言葉だけが出てこない。

この状態は「舌先現象」と呼ばれます。

英語では「tip-of-the-tongue phenomenon(ティップ・オブ・ザ・タング・フェノメノン)」といいます。

舌先現象では、その言葉について何も覚えていないわけではありません。

意味、音の一部、文字数に近い感覚など、周辺の情報は利用できても、完全な言葉の形へたどり着けないことがあります。

このとき、似た別の言葉が繰り返し浮かぶと、目的の言葉を検索しにくくなる場合があります。

ただし、少し休めば必ず思い出せる、という単純な法則ではありません。

思い出そうとするのを一度やめたあと、別の手がかりによって言葉が浮かぶこともある、と考えるのが適切です。

忘れることは、すべて悪いのか

忘却は不便です。

約束や勉強したことを忘れれば、困る場面もあります。

一方で、毎日目にする景色や音、すべての会話が同じ強さで意識に浮かび続けたら、現在必要な情報を選ぶのは難しくなるでしょう。

近年の研究では、不要になった情報の影響を弱めることが、状況に合った判断や学習を助ける可能性も検討されています。

ただし、

忘れることは脳に必要だから、どのような物忘れも心配ない

という意味ではありません。

物忘れの程度や原因は、人によって異なります。

睡眠不足、疲労、ストレス、気分の落ち込み、薬の影響、身体の病気などが関係する場合もあります。

また、

  • 日常生活や仕事へ大きな支障が出る
  • よく知っている場所で迷う
  • 同じ質問を何度も繰り返す
  • 時間や場所を判断しにくくなる
  • 判断力や行動の変化が続く

といった場合は、一般的な物忘れだけでは説明できない可能性があります。

気になる変化が続く場合は、「年齢のせい」「記憶力が悪いだけ」と自己判断せず、医療機関へ相談することが大切です。

忘れることには、符号化不足、干渉、検索手がかりの不足など、複数の原因が考えられます。

そして記憶には、もう一つ不思議な特徴があります。

思い出した内容が、最初に経験した出来事と完全に同じとは限らないことです。

次の章では、ソウタさん一家の動物園の思い出へ戻り、記憶の「再構成」を見ていきましょう。

10.記憶は録画ではない

思い出はどのように変わるのか

ソウタさん、お父さん、妹は、同じ場所で同じペンギンを見ていました。

それなのに、

「お父さんに水がかかった」

「ソウタに水がかかった」

「誰にもかかっていない」

と、覚えている内容が違っていました。

誰か一人が、わざとうそをついているとは限りません。

同じ場所にいても、それぞれが注意を向けた部分は違っていた可能性があります。

さらに、思い出すときに、残っている情報や現在の知識を使って、出来事を組み立て直した可能性もあります。

記憶の構成と再構成

私たちは、出来事のすべてを同じ詳しさで覚えているわけではありません。

何に注意を向けたか。

どの部分に驚いたか。

その出来事をどのように理解したか。

こうした違いによって、最初に符号化される情報が変わります。

そして過去を思い出すときには、残っている情報を手がかりに、出来事を再び組み立てることがあります。

このような記憶の性質は、「再構成」と呼ばれます。

英語では「reconstruction(リコンストラクション)」や「reconstructive memory(リコンストラクティブ・メモリー)」と表現されます。

記憶は、再生ボタンを押すと過去の映像がそのまま流れる録画装置とは異なります。

思い出す時点の知識、感情、質問のされ方、あとから知った情報などが、記憶の報告へ影響する場合があります。

記憶が再構成されるなら、すべて信用できないの?

ここは、最も誤解されやすい部分です。

記憶が再構成されるからといって、

人間の記憶は、すべて間違っている

という意味ではありません。

正確に保たれている情報もあります。

長期間、一貫して思い出せる部分もあります。

一方で、本人が強い自信をもっていることと、すべての細部が客観的に正しいことは、必ずしも同じではありません。

記憶は、

  • 完全に正確
  • すべて誤り

という二つだけに分けられるものではないのです。

エリザベス・ロフタス――質問の言葉と記憶を研究した心理学者

アメリカの心理学者エリザベス・ロフタスは、目撃者記憶や、出来事のあとに与えられた情報が記憶報告へ及ぼす影響を研究してきました。

1974年(昭和49年)、ロフタスとジョン・パーマーは、交通事故の映像を見た参加者へ、車の速度を尋ねる実験を発表しました。

質問には、衝突の強さについて異なる印象を与える英語の動詞が使われました。

たとえば、

  • contacted(コンタクテッド)
  • hit(ヒット)
  • collided(コライディッド)
  • bumped(バンプト)
  • smashed(スマッシュト)

などです。

「smashed(スマッシュト)」のように、より激しい衝突を連想させる言葉で尋ねられた参加者は、比較的高い速度を答える傾向を示しました。

さらに別の実験では、「smashed(スマッシュト)」を使って質問された参加者の方が、実際の映像にはなかった割れたガラスを見たと報告しやすくなりました。

この結果は、質問に含まれる言葉が、出来事についての判断や、その後の報告へ影響する可能性を示しています。

ただし、

一つの言葉だけで、元の記憶が完全に別の記憶へ置き換えられた

とまで断定するのは慎重であるべきです。

参加者が質問者の意図を推測した可能性や、元の情報とあとから与えられた情報の両方が残り、回答時に一方を選んだ可能性など、複数の説明が研究されています。

事後情報効果・誤情報効果とは

出来事を経験したあとに与えられた情報が、その出来事についての記憶報告へ影響する現象は、「事後情報効果」や「誤情報効果」と呼ばれます。

英語では「misinformation effect(ミスインフォメーション・エフェクト)」といいます。

たとえば、事故を目撃した人へ、

「青い車が信号を無視しましたね」

と尋ねたとします。

実際の車が緑色であっても、質問に含まれた「青い車」という情報が、その後の回答へ影響する可能性があります。

ただし、誰もが同じように影響されるわけではありません。

元の出来事をどれほど覚えていたか。

事後情報をどれほど信頼したか。

二つの情報の違いに気づいたか。

質問から回答までにどれほど時間がたったか。

こうした条件によって、影響の大きさは変わります。

動物園の記憶が違った理由

ソウタさんは、水が誰にかかったのかへ注意を向けていたかもしれません。

お父さんは、服をぬらさないように後ろへ下がることへ注意を向けていたかもしれません。

妹はペンギンを見ていて、水しぶきの行方を詳しく見ていなかった可能性があります。

さらに夕食で互いの話を聞いたことで、思い出す内容が影響を受けた可能性もあります。

つまり、家族の記憶が違った理由としては、

  • 最初から注目した情報が違った
  • 一部を十分に覚えていなかった
  • あとから聞いた話が影響した
  • 残っている情報から出来事を再構成した

といった複数の可能性が考えられます。

この物語だけでは、誰の記憶が正しかったのかを決めることはできません。

誘導を減らすには、どのように尋ねればよい?

記憶が質問の影響を受ける可能性を知ることは、相手の話を疑うためではありません。

質問方法を慎重に考えるためです。

たとえば、

「赤い車がぶつかったところを見ましたか?」

という質問には、車が赤かったことと、車がぶつかったことが前提として含まれています。

一方で、

「覚えている範囲で、何が起きたか教えてください」

という尋ね方なら、相手が自分の記憶から自由に話しやすくなります。

最初から答えを含む質問を重ねるのではなく、誘導の少ない自由回答から始めることが重要です。

記憶の知識を利用した危険な行為

記憶の変化しやすさを利用して、

  • 自分に都合のよい答えへ誘導する
  • 同じ話を何度も聞かせる
  • 本人が覚えていない出来事を断定する
  • 「本当はこうだった」と繰り返し押しつける
  • あいまいな記憶を理由に相手を責める

といった行為は危険です。

特に、事件、虐待、事故、医療、家庭内の争いなどでは、記憶に関する断定が重大な影響を与えることがあります。

一方で、

記憶は変化するのだから、被害や証言は信用できない

と決めつけることも不適切です。

記憶報告は、記録、写真、物的証拠、ほかの証言などと合わせて慎重に検討する必要があります。

心理学の知識は、人の経験を否定するための道具ではありません。

人の記憶を尊重しながら、質問や判断の限界を理解するために使うべきものです。

記憶が完全な録画ではないと知ることは、思い出を軽く扱うことではありません。

むしろ、自分の記憶にも見落としや変化があるかもしれないと、一度立ち止まるための知識です。

次の章では、こうした記憶の特徴を、勉強や仕事へ安全に生かす方法を見ていきましょう。

11.記憶を実生活へ生かす方法

記憶の仕組みを知っても、一度見ただけで何でも覚えられるようになるわけではありません。

しかし、

何度勉強しているのに、なぜ覚えられないのだろう

という悩みを、努力不足だけで説明しなくて済むようになります。

学習では、費やした時間だけでなく、

  • どのように理解したか
  • どのように思い出したか
  • どれほど間隔を空けたか
  • 間違いを確認したか

も重要です。

まず内容を理解する

検索練習は有効な学習法ですが、意味の分からない内容を、何も知らない状態から思い出そうとするだけでは十分ではありません。

まずは、教材を読み、基本的な意味や全体の流れを理解します。

分からない言葉があれば調べます。

図や例を使い、何について学んでいるのかをつかみます。

そのうえで教材を閉じ、自分で思い出す練習へ進みます。

読み返すだけでなく、思い出す

教科書を読んだあと、一度本を閉じてみましょう。

そして、

「何が書かれていただろう?」

「大切な点を三つ挙げるなら何だろう?」

と、自分へ問いかけます。

記憶から情報を取り出す練習は、「検索練習」や「想起練習」と呼ばれます。

英語では「retrieval practice(リトリーバル・プラクティス)」といいます。

2006年(平成18年)、ヘンリー・ローディガーとジェフリー・カーピックは、文章を繰り返し学習する条件と、学習後にテスト形式で思い出す条件を比較しました。

学習直後に近いテストでは、繰り返し読んだ条件の方が成績が高くなる場合がありました。

しかし、時間を空けたテストでは、思い出す練習を行った条件の方が、文章の内容をよく保持していました。

これは、テストが学習結果を測るだけでなく、記憶を強める学習活動にもなり得ることを示しています。

検索練習の具体例

英単語

英単語と意味を何度も眺めるだけでなく、片方を隠します。

「apple(アップル)」を見て「りんご」と答えるだけでなく、「りんご」を見て「apple(アップル)」と答える練習も行います。

漢字

見本を見ながら練習したあと、見本を隠して書きます。

間違えた場合は、どの部分を間違えたのかを確認します。

歴史

出来事の名前だけでなく、

「なぜ起きたのか」

「その後、何が変わったのか」

を、教科書を閉じて説明します。

読書

一つの章を読み終えたら、

「この章で最も重要なことは何か」

を、自分の言葉でまとめます。

答えられない部分を見つけることは、失敗ではありません。

次に学び直す場所を見つけたということです。

答え合わせまでを一つの練習にする

検索練習のあとは、正解を確認しましょう。

自信をもって答えた内容でも、細部を間違えている場合があります。

また、何度考えても答えが出ない状態を続けるだけでは、正しい知識を学べません。

基本の流れは次のとおりです。

  1. 教材を理解する
  2. 教材を閉じる
  3. 自分で思い出す
  4. 正解と比べる
  5. 間違いの原因を確認する
  6. 時間を空けて再び思い出す

答えを見ること自体が悪いのではありません。

自分で考える前に答えを写すのではなく、一度検索したあとで確認することが重要です。

フィードバックは、誤った答えを修正し、自分の理解度を判断する助けになります。

一度に詰め込まず、間隔を空ける

同じ日に続けて何度も学ぶより、時間を空けて複数回学ぶ方法を「分散学習」と呼びます。

英語では「distributed practice(ディストリビューテッド・プラクティス)」や「spaced practice(スペースト・プラクティス)」といいます。

多くの実験をまとめた研究でも、学習を時間的に分散させることは、長期的な保持に役立つと報告されています。

ただし、

翌日、3日後、7日後に復習すれば、誰でも必ず覚えられる

という決まった法則があるわけではありません。

適した間隔は、

  • いつまで覚えておきたいか
  • 教材がどれほど難しいか
  • すでにどれほど理解しているか
  • 前回どれほど思い出せたか

によって変わります。

初めて取り入れる場合は、

  • 学んだ日の最後
  • 翌日
  • 数日後
  • 1週間ほどあと

というように間隔を広げながら、思い出せるかを確認する方法が考えられます。

これは科学的に固定された万能日程ではなく、自分の復習計画を作るための実践例です。

よく思い出せる内容は間隔を広げ、難しい内容は早めに再確認しましょう。

意味を考え、知っていることと結びつける

新しい情報を、意味を考えず音だけで繰り返しても、利用しやすい記憶にならない場合があります。

そこで、すでに知っていることと結びつけます。

たとえば、

  • 自分の体験に置き換える
  • 似た概念との違いを考える
  • 原因と結果をつなげる
  • 図や表にまとめる
  • 自分で具体例を作る
  • 小学生にも分かる言葉で説明する

といった方法があります。

複数の意味や手がかりを結びつけることで、あとから情報へたどり着きやすくなる可能性があります。

再認と再生を使い分ける

選択肢を見て、

「これが正解だ」

と判断することは、「再認」に近い課題です。

英語では「recognition(レコグニション)」といいます。

何も見ずに答えを思い出すことは、「再生」に近い課題です。

英語では「recall(リコール)」といいます。

教科書を何度も読むと、

「見たことがある」

「よく分かっている」

と感じることがあります。

しかし、見覚えがあることと、自分の言葉で説明できることは同じではありません。

記述式の試験で答える必要があるなら、学習するときにも、教材を見ずに説明する練習を取り入れましょう。

技能は実際に練習する

水泳、スポーツ、楽器、タイピングなどは、説明を読むだけでは十分に身につきません。

実際に動き、結果を確認し、ずれを修正する必要があります。

技能の学習では、

  • 実際に行う
  • 結果を確認する
  • 誤りを修正する
  • 適切な間隔で繰り返す

ことが重要です。

知識として手順を覚えることと、実際に技能として実行できることは異なります。

危険を伴う技能は、専門家の指導や安全な環境で練習しましょう。

「できた気がする」に注意する

同じ文章を繰り返し読むと、文字をすらすら読めるようになります。

すると、

「もう覚えた」

と感じやすくなります。

しかし、読みやすくなったことと、あとで自分の力で思い出せることは同じではありません。

そこで、

教材を閉じても説明できるか

を確かめます。

検索練習や分散学習には研究上の裏づけがありますが、その効果は教材、目的、年齢、実施方法などによって変わります。

一つの学習法だけへ頼らず、理解、検索、答え合わせ、間隔を組み合わせることが大切です。

記憶研究を学習へ生かすメリット

記憶の仕組みを意識すると、

  • 読んだ状態と、思い出せる状態を区別できる
  • 理解があいまいな部分を見つけやすい
  • 復習すべき内容を絞りやすい
  • 一度の詰め込みで終わらせずに済む
  • 「才能がない」と決めつける前に、方法を見直せる

ようになります。

記憶法の負担と限界

検索練習は、読み返すだけの場合より難しく感じます。

答えられないと、落ち込むこともあるでしょう。

しかし、答えが出ない部分を知ることは、学習の弱点を見つけることでもあります。

一方で、難しすぎる問題へ挑戦し続け、毎回ほとんど答えられない状態も効率的とは限りません。

必要に応じて、

  • ヒントを使う
  • 問題を小さく分ける
  • 教材を読み直す
  • 正解を確認する
  • 難易度を調整する

ことが大切です。

記憶法は、努力を不要にする魔法ではありません。

同じ努力を、より学びへ結びつけやすくするための道具です。

次の章では、記憶について広まりやすい誤解を整理し、心理学の知識を安全に扱うためのポイントを確認します。

12.記憶について誤解されやすいこと

記憶は身近なため、分かりやすい説明が広まりやすいテーマです。

しかし、短く単純化された説明が、科学的な事実とは異なる「思い込み」へ変わることもあります。

ここでは、記事全体で学んだ内容を使い、代表的な誤解を整理します。

誤解1 繰り返せば、必ず長期記憶になる

反復は、学習の機会を増やすうえで役立ちます。

しかし、意味を考えずに同じ文字を何度も写せば、必ず長く覚えられるとは限りません。

長期的な保持には、

  • 内容を理解する
  • 知っていることと結びつける
  • 時間を空けて復習する
  • 自分で思い出す
  • 正解を確認する

といった活動も関係します。

重要なのは、繰り返した回数だけではなく、どのように繰り返したかです。

誤解2 短期記憶を繰り返せば、自動的に長期記憶へ移る

感覚記憶、短期記憶、長期記憶という分類は、記憶を理解するための代表的なモデルです。

しかし、情報が脳内の三つの箱を自動的に移動するわけではありません。

短期的に繰り返した情報が、すべて長期的に残るとも限りません。

注意、意味づけ、既存知識、検索、学習間隔など、複数の要因が関係します。

誤解3 長期記憶になれば、一生忘れない

「長期」は「永久」という意味ではありません。

長期記憶に関係する情報であっても、干渉、手がかりの不足、ほかの情報の影響などによって、思い出しにくくなる場合があります。

一方で、思い出せないからといって、情報が完全に消えたとは限りません。

誤解4 記憶はカメラの映像と同じである

私たちは、出来事のすべてを同じ正確さで取り込んでいるわけではありません。

注意を向けた部分、感情、既存知識などによって、最初に覚える内容が変わります。

さらに、思い出すときには、残っている情報から出来事を再構成する場合があります。

ただし、

記憶は録画ではないから、すべて信用できない

という意味でもありません。

正確に保たれる部分と、変化する可能性のある部分が含まれています。

誤解5 自信の強い記憶ほど正しい

本人が強い自信をもっていることは、重要な情報です。

しかし、自信の強さと、細部の客観的な正確さが、常に一致するとは限りません。

特に感情の強い出来事では、中心的な場面が強く印象に残る一方、周辺の細部があいまいになる場合があります。

重要な判断では、記憶だけでなく、写真、記録、物的証拠なども合わせて確認することが大切です。

誤解6 海馬が、すべての記憶を保存している

海馬は、新しい宣言的記憶の形成や、出来事の要素を結びつける働きに重要です。

しかし、記憶には、

  • 大脳皮質
  • 扁桃体
  • 大脳基底核
  • 小脳
  • 感覚や運動に関係する領域

など、複数の脳領域と神経回路が関係します。

「記憶の場所は海馬だけ」とする説明は、単純化しすぎです。

誤解7 体が覚えるとは、筋肉に記憶が保存されることだ

「体が覚えている」という表現は、技能が自然に行える感覚を表すには便利です。

しかし、自転車や楽器の技能が、筋肉だけに出来事として記録されているわけではありません。

脳の運動系、感覚系、小脳、大脳基底核などが、身体と協力しながら技能を支えます。

運動による筋肉の変化と、心理学における手続き記憶は、分けて考える必要があります。

誤解8 心理学を使えば、相手の記憶を自由に操作できる

質問の表現や事後情報が、記憶報告へ影響する場合があります。

しかし、

特定の言葉を使えば、誰にでも好きな記憶を植えつけられる

という意味ではありません。

元の記憶の強さ、個人差、情報源への信頼、事実との違いに気づいたかなど、さまざまな条件が関係します。

記憶が影響を受ける可能性と、自由に操作できることは別です。

誤解9 記憶が変化するなら、目撃者や被害者の話は信用できない

これは危険な誤解です。

記憶に変化の可能性があることは、すべての証言を否定する理由にはなりません。

目撃証言や被害の申告は、重要な情報になり得ます。

一方で、質問方法や事後情報の影響を考え、ほかの証拠と合わせて慎重に確認することも必要です。

心理学の知識は、証言する人を攻撃するためではなく、より公正な聞き取りと判断を行うために使うべきです。

誤解10 物忘れは、すべて年齢や認知症のせいである

物忘れには、さまざまな原因があります。

睡眠不足、疲労、ストレス、注意不足、薬の影響、気分の落ち込み、身体疾患などが関係する場合もあります。

年齢とともに言葉を思い出すのが少し遅くなることはあります。

しかし、日常生活へ支障が出る変化を、「年齢だから」と放置することも適切ではありません。

日常的な活動が難しくなるなど、気になる変化が続く場合は、医療機関へ相談しましょう。

誤解を避けるための五つのポイント

記憶について調べるときは、次の点を意識しましょう。

  1. 一つの研究だけで、記憶全体を説明しない
  2. 「必ず」「絶対」「一瞬で覚えられる」という表現を疑う
  3. 個人の体験談と、統制された研究結果を区別する
  4. 記憶が変化することと、すべて誤りであることを混同しない
  5. 心配な物忘れを、自己流の記憶法だけで解決しようとしない

心理学における記憶の研究は、自分や他人の間違いを探すためのものではありません。

私たちの心が、経験をどのように取り込み、保ち、使い、ときには変化させるのかを理解するためのものです。

誤解と注意点を整理したところで、次は、記憶が実際の行動へどのようにつながるのかを見てみましょう。

方法やルールを「知っている」ことと、それを迷わず「できる」ことは同じではありません。

次の章では、タイピングを中心に、宣言的記憶として覚えた知識を手がかりに練習し、手続き記憶に支えられた技能が育っていく過程を考えます。

知識はどのようにして技能へ結びつき、練習した動作はなぜ行いやすくなるのでしょうか。

13.おまけコラム

「知っている」は、どうすれば「できる」に変わる?

ここまで、長期記憶には、出来事や知識を意識的に思い出す記憶と、練習によって行動として表れる記憶があることを見てきました。

では、方法を「知っている」状態から、実際に「できる」状態へは、どのように近づいていくのでしょうか。

身近なタイピングを例に考えてみましょう。

最初は、覚えたルールを一つずつ思い出す

タイピングを始めたころは、

「この文字は、どのキーを押すのだろう」

「小さい『っ』は、どう入力するのだろう」

と、覚えたルールを一つずつ思い出しながら指を動かします。

このように、文字や操作方法について、意識して思い出したり、言葉で説明したりできる知識には、宣言的記憶が関係します。

宣言的記憶は、英語で「declarative memory(デクララティブ・メモリー)」といいます。

たとえば、

  • 「Aのキーは、この位置にある」
  • 「ローマ字入力では、この文字を組み合わせる」
  • 「変換するときは、このキーを押す」

と説明できる知識です。

この段階では、知識を意識的に思い出しながら、一つずつ操作しています。

練習すると、言葉で確認しなくても指が動きやすくなる

何度もタイピングを練習していると、よく使うキーの位置を、毎回言葉で確認しなくても入力しやすくなります。

「Kはどこだったかな」と考える前に、指が目的の位置へ動くように感じることもあるでしょう。

このように、練習によって身につき、実際の行動として表れる技能には、手続き記憶が関係します。

手続き記憶は、英語で「procedural memory(プロシージャル・メモリー)」といいます。

手続き記憶は、

方法を言葉で知っている記憶

というより、

練習した動作を、実際に行うための記憶

です。

タイピングのほか、自転車に乗る、泳ぐ、楽器を演奏する、靴ひもを結ぶといった技能にも関係します。

宣言的記憶が、手続き記憶へ変身するの?

ここは、少し注意が必要です。

技能が上達する流れを、

最初は宣言的記憶だったものが、練習すると手続き記憶へ変わる

と説明すると、分かりやすく感じるかもしれません。

しかし、宣言的記憶そのものが、形を変えて手続き記憶になると断定するのは正確ではありません。

より正確には、

宣言的記憶として覚えた知識を手がかりに練習し、その経験を通して、技能を支える手続き記憶が形成されていく

と考えます。

最初に、

「どのキーを押せばよいか」

という知識を学びます。

その知識を使いながら、実際に指を動かします。

入力結果を見て、間違っていれば修正します。

この経験を繰り返すことで、毎回すべてを言葉で考えなくても実行できる部分が増えていくのです。

つまり、

「知っている」が、そのまま「できる」に変わるのではありません。

知っていることを使って実際に練習することで、「できる」を支える新しい学習が進むのです。

上達すると、宣言的記憶は必要なくなる?

タイピングが上達しても、宣言的記憶が消えるわけではありません。

普段使わない記号を入力するときには、操作方法を意識的に思い出すことがあります。

人へタイピングを教えるときには、キーの位置や指の使い方を言葉で説明します。

入力を間違えたときには、

「なぜ間違えたのだろう」

と、知識を使って原因を考えます。

つまり、上達後も、

  • 宣言的記憶による知識
  • 手続き記憶に支えられた技能
  • 注意
  • 視覚
  • 運動
  • ワーキングメモリ

などが、状況に応じて協力しています。

技能の上達とは、宣言的記憶がなくなり、手続き記憶だけになることではありません。

知識と技能を、必要な場面に応じて効率よく使えるようになることなのです。

「自動化」とは何?

練習によって、以前より少ない意識的な負担で動作を行えるようになることを「自動化」と表現します。

英語では「automaticity(オートマティシティ)」といいます。

タイピングを始めたころは、キーを探すことだけで注意の多くを使います。

慣れてくると、キーを押す動作へ向ける注意が少なくなり、その分、文章の内容を考えることへ注意を向けやすくなります。

ただし、自動化とは、

完全に何も考えなくなること

ではありません。

普段と違うキーボードを使うときや、正確さが特に求められる場面では、慣れた人でも意識的な確認が必要です。

また、自動化された動作でも、注意が下がりすぎると間違いにつながることがあります。

楽器でも、知識だけでは演奏できない

楽譜の読み方や指の置き方を覚えることには、宣言的記憶が関係します。

しかし、楽譜について説明できるだけでは、曲をなめらかに演奏できません。

実際に音を出し、

「指の移動が遅れた」

「音が強すぎた」

「リズムがずれた」

と結果を確かめながら、動きを修正する必要があります。

練習を続けると、一音ずつ指の動きを言葉で確認しなくても、演奏しやすくなる部分が増えます。

このような技能には、手続き記憶が関係します。

それでも、難しい部分の演奏方法を考えたり、曲の意味を理解したりするときには、宣言的記憶も必要です。

スポーツでも、説明と実行は違う

ボールの投げ方を本で読めば、基本的な方法は理解できます。

しかし、説明を暗記しただけで、狙った場所へ正確に投げられるとは限りません。

実際に投げて、

  • ボールがどこへ飛んだか
  • 力を入れすぎていないか
  • 体の向きは適切だったか
  • タイミングは合っていたか

を確認し、次の動きを調整します。

知識は、正しい練習の方向を示します。

手続き記憶に関係する技能は、実際に行い、その結果を受け取ることで形成されていきます。

そろばんでも、知識と技能が協力している

そろばんを習い始めたころは、

「この数なら、どの珠を動かすのか」

「繰り上がりでは、どの順番で計算するのか」

と、一つずつ手順を思い出します。

こうした計算方法についての知識には、宣言的記憶が関係します。

練習を重ねると、毎回すべての手順を言葉で確認しなくても、以前より速く珠を動かせるようになる場合があります。

この技能には、手続き記憶が関係します。

さらに熟達した人の中には、実物のそろばんがなくても、頭の中に珠の配置を思い浮かべて計算する人がいます。

このような暗算では、手続き記憶だけでなく、視空間的なイメージ、注意、数についての知識、ワーキングメモリなども関係すると考えられます。

そろばんも、知識が消えて指だけが動く技能ではありません。

見る、考える、動かす、結果を確認するという複数の働きが協力しています。

手続き記憶に関係する技能は、忘れにくいの?

久しぶりに自転車へ乗っても、基本的な動作を行える人は少なくありません。

このような経験から、

体で覚えたことは、頭で覚えたことより忘れにくい

と感じることがあります。

実際に、十分に練習された技能は、出来事や言葉の細部とは異なる形で長く保たれる場合があります。

毎回すべてを意識的に思い出さなくても、動作として実行できることがあるためです。

しかし、

手続き記憶になれば、絶対に忘れない

という意味ではありません。

長期間使わなければ、

  • 動作が遅くなる
  • 正確さが低下する
  • タイミングがずれる
  • 以前より疲れやすくなる
  • 元の水準へ戻るまで再練習が必要になる

ことがあります。

技能の保たれ方は、

  • どれほど十分に練習したか
  • 技能がどれほど複雑か
  • 使わなかった期間
  • 途中で似た技能を学んだか
  • 再び練習する機会があるか

などによって変わります。

「忘れにくいことがある」と「絶対に失われない」は、同じではありません。

技能を長く保ちやすくするには

技能を身につけ、長く保ちやすくするには、ただ回数を重ねるだけでなく、練習の内容が重要です。

正しい方法を理解する

最初に、基本的なルールや安全な方法を学びます。

ここでは、宣言的記憶としての知識が役立ちます。

実際に行う

説明を読むだけで終わらず、自分の身体を使って実行します。

この経験を通して、技能に関係する学習が進みます。

結果を確認する

正しくできたか、どこを間違えたかを確かめます。

結果が分からなければ、誤った動きを繰り返してしまう可能性があります。

誤りを修正する

先生や指導者から助言を受けたり、自分の動きを見直したりして、次の練習へ反映します。

時間を空けて繰り返す

一日に大量の練習をして終えるより、適切な間隔で再び練習する方が、技能の保持に役立つ場合があります。

少し違う状況でも試す

いつも同じ条件だけで練習すると、状況が変わったときに対応しにくいことがあります。

基本が身についたあと、安全を確保しながら少し異なる条件でも練習すると、技能を柔軟に利用しやすくなります。

「知っている」と「できる」の間を埋めるもの

タイピングのルールを説明できることと、文章を素早く入力できることは同じではありません。

楽譜を読めることと、曲を演奏できることも異なります。

泳ぎ方を知っていることと、実際に水の中で泳げることも同じではありません。

宣言的記憶は、

何をすればよいのかを理解する

ために役立ちます。

手続き記憶は、

練習した動作を実際に行う

ことを支えます。

そして、その間をつなぐのが、

知識を使って実際に行い、結果を確認し、間違いを修正する練習

です。

技能の上達は、宣言的記憶が手続き記憶へ完全に入れ替わることではありません。

最初に知識を学び、その知識を手がかりに練習することで、手続き記憶に支えられた技能が育っていきます。

上達したあとも、知識と技能は状況に応じて協力します。

「知っている」ことが、練習を通して「できる」ことへ近づく。

その変化こそ、記憶が私たちの行動を作り変えていく、興味深い一面なのです。

次の章では、記憶についてさらに体系的に学びたい人へ向けて、おすすめ書籍を目的別に紹介します。

14.関連するおすすめ書籍

ここでは、おすすめ書籍三冊を、目的別に紹介します。

初めて認知心理学を学ぶ人向け
『基礎から学ぶ認知心理学――人間の認識の不思議 改訂版』著者:服部雅史・小島治幸・北神慎司

見る、覚える、忘れる、考える、判断するといった、人間の認知の働きを幅広く学べる入門書です。

記憶だけを独立した能力として学ぶのではなく、知覚、知識、判断などとのつながりから理解したい人に向いています。

記憶を基本から専門的に学びたい人向け
『記憶の心理学――基礎と応用』著者:ガブリエル・A・ラドヴァンスキー

記憶研究の基礎理論から、日常生活や社会への応用までを体系的に扱う専門的な教科書です。

この記事で紹介した、「なぜ人の名前が出てこないのか」「なぜ同じ出来事の記憶が食い違うのか」「目撃証言はどこまで正確なのか」といった疑問を、実験や理論まで含めて深く学びたい人に向いています。

初めて心理学を読む人には少し専門的ですが、記憶を中心に一冊を読み進めたい人には、有力な選択肢です。

心理学全体を体系的に学びたい人向け
『心理学 第5版補訂版』編者:鹿取廣人・杉本敏夫・鳥居修晃・河内十郎

記憶だけでなく、心理学全体の基本を体系的に学べる教科書です。

この記事を読んで、「記憶は、感情や発達、知覚、社会行動とどのようにつながるのか」「心理学全体の中で、記憶研究はどの位置にあるのか」まで学びたくなった人に向いています。

記憶だけを深く扱う本ではありませんが、心理学の全体像を見失わずに学べる点が特徴です。

どの本を選べばよい?

心理学を初めて学び、記憶を知覚や思考とのつながりから理解したいなら、『基礎から学ぶ認知心理学――人間の認識の不思議 改訂版』が向いています。

記憶そのものを、研究や実験まで含めて詳しく学びたいなら、『記憶の心理学――基礎と応用』が適しています。

記憶だけでなく、心理学全体を体系的に学びたいなら、『心理学 第5版補訂版』が選択肢になります。

一度読んで分からなかった部分も、別の章を読んだあとに戻ると、以前とは違ったつながりが見えることがあります。

理解し、忘れ、思い出し、もう一度結びつける。

記憶について本を読むこと自体が、この記事で学んできた記憶の働きを体験する機会になるのです。

15.まとめ・考察

記憶を知ることは、自分の過去との付き合い方を知ること

この記事では、心理学における記憶について、さまざまな角度から見てきました。

記憶とは、情報をただ頭の中へ入れることではありません。

経験した情報を取り込み、時間を超えて保ち、必要な場面で利用する一連の働きです。

代表的には、

  • 情報を取り込む「符号化」
  • 情報を保つ「貯蔵」
  • 情報を取り出す「検索」

という過程から整理できます。

しかし、実際の記憶は、三つの箱へ順番に情報を入れるような単純な仕組みではありません。

注意、知識、感情、時間、周囲の情報、思い出すときの状況などが、互いに影響しています。

記憶は、一つの能力ではない

記憶には、感覚記憶、短期記憶、長期記憶といった、保たれる時間や働きによる違いがあります。

長期記憶の中にも、

  • 自分が経験した出来事に関するエピソード記憶
  • 言葉や一般知識に関する意味記憶
  • 練習によって身についた技能に関する手続き記憶

などがあります。

そのため、

「昨日の夕食は思い出せないのに、自転車には乗れる」

ということは、矛盾ではありません。

同じ「記憶」という言葉で呼ばれていても、出来事を思い出す働きと、技能を実行する働きには異なる特徴があるからです。

また、タイピングや楽器のような技能では、最初に宣言的記憶として方法やルールを学びます。

その知識を手がかりに練習を重ねることで、手続き記憶に支えられた技能が育っていきます。

宣言的記憶が、そのまま手続き記憶へ変身するわけではありません。

「知っていること」を使って実際に行い、結果を確かめ、修正する経験によって、「できること」が少しずつ増えていくのです。

思い出せないことは、すべて忘れたことではない

人の名前が出てこないとき、私たちはすぐに、

「記憶から消えてしまった」

と思うことがあります。

しかし、思い出せない理由は一つではありません。

最初に十分な注意を向けず、情報を符号化できていなかったのかもしれません。

似た情報が、目的の記憶をじゃましているのかもしれません。

覚えていても、取り出すための手がかりが見つからないのかもしれません。

つまり、

思い出せないことと、記憶が完全に存在しないことは、同じではありません。

この違いを知ると、物忘れをした自分に対して、少し違った見方ができるようになります。

「自分は記憶力がない」と決めつける前に、

「最初にきちんと注意を向けていただろうか」

「思い出す手がかりを作れていただろうか」

「似た情報が混ざっていないだろうか」

と考えられるからです。

記憶は、過去をそのまま映す鏡ではない

ソウタさんと家族は、同じ動物園で同じペンギンを見ていました。

それでも、誰に水がかかったのかについて、覚えている内容が違っていました。

これは、誰かがうそをついたことを意味するとは限りません。

最初から見ていた部分が違った可能性があります。

あとから聞いた話が、思い出す内容へ影響した可能性もあります。

残っている情報から、出来事の細部を組み立て直した可能性もあります。

記憶は、過去をそのまま保存して再生する録画装置ではありません。

私たちは、過去の情報を使いながら、現在の自分の中で思い出を再構成することがあります。

ただし、

記憶は再構成されるから、すべて信用できない

という意味ではありません。

正確に保たれる部分もあります。

大切なのは、自分の記憶をすべて疑うことではなく、自分が確信していることにも、見落としや変化の可能性があると知ることです。

記憶の違いは、争う理由にも、理解するきっかけにもなる

家族や友人と昔の話をしていて、

「そんなことは言っていない」

「確かに聞いた」

と意見が食い違った経験はないでしょうか。

そのとき私たちは、

「どちらかが間違っている」

「どちらかがうそをついている」

と考えやすくなります。

もちろん、事実を確認しなければならない場面もあります。

しかし日常の小さな食い違いでは、

相手は、自分とは違う部分に注意を向けていたのかもしれない

と考えることもできます。

記憶の仕組みを知ることは、真実をあきらめることではありません。

自分の視点だけを、唯一の見方だと思い込まないための知識です。

同じ出来事にも複数の見え方があると分かれば、記憶の違いは争いの種だけでなく、相手の経験を聞くきっかけにもなります。

記憶は、過去の倉庫ではなく、現在を作る編集者なのかもしれない

記憶というと、過去を保管する倉庫を想像するかもしれません。

けれども記憶は、過去の情報をただ積み上げるだけではありません。

今の状況に必要な情報を選び、意味を与え、これからの行動へ結びつけています。

昨日の失敗を思い出すから、今日は方法を変えられます。

大切にされた経験を覚えているから、誰かへ同じように接することができます。

危険だった出来事を覚えているから、次は避けることができます。

記憶は、過去を保存する倉庫であると同時に、現在の自分を作る編集者のような働きもしているのではないでしょうか。

ただし、その編集者は完璧ではありません。

大切な部分を残す一方で、細部を省き、別の情報と結びつけ、現在の視点から意味を与え直すこともあります。

私たちは、過去そのものを抱えて生きているというより、過去を現在の自分がどのように受け取り直しているかとともに生きているのかもしれません。

このような経験はありませんか?

昔は苦手だった出来事を、今振り返ると、

「あの経験があったから、今の考え方ができた」

と思えることがあります。

出来事そのものが変わったわけではありません。

しかし、知識や経験が増えたことで、その出来事へ与える意味が変わったのでしょう。

反対に、家族から昔の話を聞いて、

「自分の覚えている内容と違う」

と驚いたこともあるかもしれません。

写真を見て、覚えていなかった表情や場所に気づくこともあります。

昔の音楽やにおいから、忘れていた場面が突然よみがえった経験をもつ人もいるでしょう。

それは、記憶が単独で眠っていたというより、その音やにおいが検索手がかりとして働き、過去の情報へたどり着きやすくなった可能性があります。

記憶の仕組みを意識して生活してみたら

たとえば、人の名前を覚えるときに、

「聞くだけで終わらせず、会話の中でもう一度使う」

ことを意識すると、思い出すための手がかりを増やせるかもしれません。

本を読んだあとに、

「何が書かれていただろう」

と一度思い出してみると、読んだだけでは気づかなかった理解の穴が見つかるかもしれません。

誰かと記憶が食い違ったときに、

「自分が正しくて、相手が間違っている」

とすぐに決めず、

「それぞれ何を見ていたのだろう」

と尋ねてみれば、会話の流れが変わるかもしれません。

心理学の知識は、日常を特別なものへ変える魔法ではありません。

けれども、いつもの出来事を別の角度から見る、小さなきっかけにはなります。

忘れたことは、努力が無駄だった証拠ではない

勉強した内容を思い出せないと、

「自分には才能がない」

「時間をかけたのに無駄だった」

と感じることがあります。

しかし、思い出せないことは、努力がすべて消えた証拠とは限りません。

一度学んだことは、再学習すると以前より理解しやすい場合があります。

また、検索練習、分散学習、意味づけ、フィードバックなどを取り入れることで、学習方法を変えることもできます。

忘れることは、自分の能力についての最終判決ではありません。

次は、どのように取り込み、どのように思い出そうか

と考えるための情報でもあります。

記憶研究の価値は、何でも忘れない人になる方法を教えることだけではありません。

忘れたときに、自分を必要以上に責めず、次の学び方を考えられるようにする点にもあるのです。

記憶の不完全さは、人間の弱点だけなのか

記憶が完全な録画でないことは、不便に感じられます。

しかし、もし私たちが、見聞きしたすべての情報を同じ強さで保ち続けたら、どうなるでしょうか。

今必要な情報と、不要になった細部を区別することが難しくなるかもしれません。

過去の出来事が常に同じ鮮明さで浮かび続ければ、現在へ注意を向けにくくなる可能性もあります。

忘却や記憶の変化には問題があります。

一方で、情報を整理し、一般化し、現在に必要な意味を見つけることにも関係しているのかもしれません。

人間の記憶の不完全さは、単なる故障ではなく、限られた注意と時間の中で生きるための仕組みの一部とも考えられます。

もちろん、これは記憶の誤りを正当化するという意味ではありません。

重要な場面では、記録や証拠を残し、記憶だけに頼らない工夫が必要です。

不完全だからこそ、記憶を大切にしながら、同時に記録で支えることが重要なのです。

あなたなら、記憶の知識をどう生かしますか?

次に人の名前を聞いたとき、どのような手がかりをつけますか?

勉強したあと、読み返すだけでなく、何も見ずに思い出してみますか?

家族や友人と昔の記憶が食い違ったとき、どのように話を聞きますか?

自分にとって大切な出来事を、写真、文章、日記などで残してみますか?

そして、忘れてしまった自分に対して、どのような言葉をかけますか?

記憶を知ることは、過去を完璧に保存することではありません。

覚え、忘れ、思い出し、ときには意味を変えながら生きている自分を、少し深く理解することです。

私たちは、記憶をもっているだけではありません。

記憶によって学び、選び、人とつながりながら、今の自分を作り続けています。

あなたなら、今日の経験を、未来の自分へどのように残したいでしょうか。

16.疑問が解決した物語

昨日の出来事なのに、思い出が違う――その理由が分かった

動物園へ行った次の日、ソウタさんは、家族で話したペンギンの出来事をまだ気にしていました。

「お父さんに水がかかったと思っていたのに、みんなの記憶は違っていた」

「いったい、誰の記憶が正しかったのだろう」

そんな疑問をきっかけに、ソウタさんは記憶について調べてみました。

すると、記憶は出来事をそのまま保存するカメラではないことが分かりました。

人は、目や耳に入ったすべての情報を同じように覚えているわけではありません。

何に注意を向けたか、何を大切だと感じたかによって、最初に取り込まれる情報が変わります。

さらに、思い出すときには、残っている情報や、あとから聞いた話を使いながら、出来事を組み立て直すこともあります。

夕食のとき、ソウタさんは家族にそのことを話しました。

「もしかしたら、僕たちは同じペンギンを見ていたけれど、見ていた部分は少しずつ違ったのかもしれないね」

お父さんは、写真を見ながらうなずきました。

「お父さんは、水がかからないように下がることで精いっぱいだったから、誰に水がかかったかまでは見ていなかったかもしれないな」

妹も言いました。

「私は、ペンギンが泳ぐところばかり見ていたよ。水しぶきのことは、あまり覚えていないかも」

3人の記憶が違っていたのは、誰かがうそをついていたからとは限りません。

最初から注目した部分が違っていたり、思い出すときに残っている情報を組み合わせたりした可能性があります。

ソウタさんは、それを知って少し安心しました。

「じゃあ、誰か一人の記憶が全部間違っていると決めなくてもいいんだね」

「でも、自分が強く覚えているからといって、細かいところまで必ず正しいとは限らないんだ」

お父さんは答えました。

「そうだね。大切なことなら、記憶だけで決めずに、写真や記録も確かめた方がよさそうだ」

写真には、水しぶきを避けるお父さんと、笑っているソウタさんが写っています。

それでも、誰の服がぬれたのかは、最後まで分かりませんでした。

以前のソウタさんなら、正しい答えを一つに決めたくなったかもしれません。

しかし今は、分からないことを、無理に分かったことにしないのも大切だと考えました。

「写真で分かることもあるけれど、写真だけでは分からないこともあるんだね」

「覚えていない部分を、想像だけで決めないようにしよう」

それから家族は、誰が正しかったかを争うのではなく、それぞれが何を見ていたのかを話しました。

お父さんは、水しぶきを避けた瞬間の驚きを話しました。

妹は、水の中を勢いよく泳ぐペンギンの姿を話しました。

ソウタさんは、家族が笑っていたことを思い出しました。

同じ出来事でも、三人が覚えていたものを合わせると、一人の記憶だけでは見えなかった動物園の様子が浮かんできました。

記憶の違いは、争う理由だけではありません。

相手が自分とは違うものを見て、違うことを感じていたと知るきっかけにもなります。

ソウタさんが変えたこと

ソウタさんは、記憶の仕組みを知ってから、日常の行動も少し変えることにしました。

人の名前を聞いたときには、ただ聞き流さず、

「学校の先生と同じ名前だ」

と、知っていることへ結びつけるようにしました。

勉強したあとは、教科書を閉じて、

「何を覚えているだろう」

と、自分で思い出してみることにしました。

家族と昔の出来事について意見が違ったときには、すぐに、

「それは間違っている」

と言わず、

「どの部分を覚えているの?」

と尋ねるようにしました。

また、大切な予定や出来事は、記憶だけに頼らず、ノートや写真へ残すようにしました。

記憶を信用しなくなったからではありません。

記憶には正確に残る部分もあれば、忘れたり、変化したりする部分もあると分かったからです。

物語から分かったこと

記憶とは、過去をそのまま再生する録画ではありません。

私たちは、出来事の一部へ注意を向け、それを覚え、必要なときに手がかりを使って思い出します。

そのため、同じ出来事を経験した人同士でも、記憶の細部が異なることがあります。

しかし、記憶が変化する可能性があるからといって、すべての思い出が間違っているわけではありません。

大切なのは、

  • 自分の記憶だけを絶対だと思わないこと
  • 相手の記憶をすぐに否定しないこと
  • 分からない部分を想像だけで決めないこと
  • 重要な出来事は記録や証拠と合わせて確かめること
  • 覚えたいことは、注意し、結びつけ、思い出す練習をすること

です。

動物園で生まれた疑問は、ソウタさんに、記憶の不思議だけでなく、人の話をどのように聞けばよいかも教えてくれました。

記憶の違いを知ることは、誰かの間違いを探すことではありません。

自分と相手が、同じ出来事を違う角度から経験していた可能性に気づくことなのです。

あなたにも、家族や友人と、同じ出来事について覚えている内容が違った経験はありませんか?

そのとき、どちらが正しいかを決める前に、

「自分は何を見ていたのだろう」

「相手は何に注目していたのだろう」

と考えてみると、これまでとは少し違った答えが見えてくるかもしれません。

17.文章の締めとして

私たちは、覚えたことだけで生きているわけではありません。

忘れたこと、うまく思い出せなかったこと、誰かとは違う形で覚えていたことも含めて、今の自分を形作っています。

記憶は、いつでも正確に過去を映し出すものではありません。

それでも、懐かしい音に足を止めたり、大切な人との時間を思い出したり、以前の失敗を次の行動へ生かしたりできるのは、記憶があるからです。

思い出せない自分を責めすぎず、自分の記憶だけを絶対だと思わず、誰かの思い出にも静かに耳を傾ける。

記憶の仕組みを知ることは、過去を完璧に保存するためではなく、過去と少しやさしく付き合うためなのかもしれません。

補足注意

今回の内容は、作者が個人で調べられる範囲の情報をもとにまとめたものです。

できる限り正確で分かりやすい説明を心がけていますが、心理学における記憶には複数の理論や解釈があり、この記事の内容だけが唯一の答えではありません。

また、心理学や脳科学の研究は現在も進められています。今後の研究によって、これまでの説明が見直されたり、新たな仕組みや発見が示されたりする可能性もあります。

この記事の内容は、医療上の診断や治療に代わるものではありません。物忘れや認知機能の変化によって日常生活に支障がある場合は、自己判断だけで済ませず、医療機関などの専門家へ相談してください。

🧭 本記事のスタンス

この記事は、「これが唯一の正解」と結論づけるためのものではありません。

読者が記憶の不思議に興味をもち、自分で考え、さらに調べるための入り口として書いています。

一つの説明だけで判断せず、異なる研究や立場からの見方も大切にしながら、記憶について理解を深めていただければ幸いです。

このブログをきっかけに記憶への興味が生まれたなら、次は書籍や論文を新たな手がかりに、さらにその世界を探ってみてください。

知るほどに記憶の世界は広がり、調べるほどに理解は深まります。今日生まれた一つの疑問が、明日の新しい発見へたどり着くための手がかりになるのかもしれません。

最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました。

記憶は、同じ出来事の中にも一人ひとり異なる景色があり、その違いを知ることが自分と誰かを理解する第一歩になることを教えてくれているのかもしれません。

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