人はなぜ権威の指示に従い、ときには拒否するのでしょうか。
心理学者スタンレー・ミルグラムが服従研究に至るまでの歩みをたどり、アイヒマン裁判や「悪の凡庸さ」をめぐる議論、実験で確かめられたことと残された問いを、歴史資料と後の研究を通して読み解きます。

「自分の判断」と「権威の指示」がぶつかったら、どうする?
- 代表例
- 5秒でわかる結論
- 小学生にもわかりやすく言うと
- 1.スタンレー・ミルグラムとはどんな人物だったのか?
- 2.最初から心理学者だったわけではない
- 3.服従実験の前にあった「同調」の研究
- 4.では、なぜ「服従」を研究する必要があると思ったのか?
- 5.アドルフ・アイヒマンとは何者だったのか?
- 6.逃亡から裁判へ――世界が注目したアイヒマン裁判
- 7.「悪の凡庸さ」とは何だったのか
- 8.アイヒマン裁判を見て、ミルグラムは服従実験を思いついたのか?
- 9.ミルグラムは「服従」をどうやって実験にしたのか?
- 10.結果を見たミルグラムは、何を考えたのか?
- 11.ミルグラムの説明が、最後の答えだったわけではない
- 12.ミルグラムは何を問い、心理学に何を残したのか?
- 13.おまけコラム
- 14.さらに学びたい人へ
- 15.まとめ・考察
- 16.文章の締めとして
代表例
「自分なら、誰かを傷つけるようなことを求められても、きっと断れる」
そう思う人は多いのではないでしょうか。
では、その場所が有名な大学の実験室で、実験を担当する人から「続けてください」と繰り返し求められたらどうでしょう。
相手が苦しんでいると思っていても、それでもすぐに「やめます」と言えるでしょうか。
この難しい問題を、実際に人に参加してもらう心理学実験として研究した人物が、Stanley Milgram(スタンリー・ミルグラム、1933~1984年)です。
ミルグラムは、アメリカの社会心理学者でした。
では、なぜ彼は、「人は権威のある人から求められたとき、どこまで従うのか」という問いを、本当に実験して確かめようとしたのでしょうか。
この記事では、服従実験を生み出した研究者であるミルグラム自身に目を向け、その答えをたどっていきます。
5秒でわかる結論
スタンリー・ミルグラムは、「人は権威にどこまで従うのか」を服従実験で研究した中心人物です。
小学生にもわかりやすく言うと
たとえば、あなたが「これはやりたくない」と思っているのに、先生のような立場の人から「続けてください」と言われたとします。
そんなとき、人は自分の考えを優先して断れるのでしょうか。それとも、相手の立場に押されて続けてしまうのでしょうか。
ミルグラムは、この「人は命令や指示を受けたとき、実際にはどう行動するのだろう」という疑問を、実験で確かめようとしました。
だからこそ、ミルグラムは服従実験を理解するうえで欠かせない心理学者なのです。
では、彼はどのような人生を歩み、なぜ「服従」という問題にたどり着いたのでしょうか。
ここから、スタンリー・ミルグラムという人物をもう少し詳しく見ていきましょう。

- 代表例
- 5秒でわかる結論
- 小学生にもわかりやすく言うと
- 1.スタンレー・ミルグラムとはどんな人物だったのか?
- 2.最初から心理学者だったわけではない
- 3.服従実験の前にあった「同調」の研究
- 4.では、なぜ「服従」を研究する必要があると思ったのか?
- 5.アドルフ・アイヒマンとは何者だったのか?
- 6.逃亡から裁判へ――世界が注目したアイヒマン裁判
- 7.「悪の凡庸さ」とは何だったのか
- 8.アイヒマン裁判を見て、ミルグラムは服従実験を思いついたのか?
- 9.ミルグラムは「服従」をどうやって実験にしたのか?
- 10.結果を見たミルグラムは、何を考えたのか?
- 11.ミルグラムの説明が、最後の答えだったわけではない
- 12.ミルグラムは何を問い、心理学に何を残したのか?
- 13.おまけコラム
- 14.さらに学びたい人へ
- 15.まとめ・考察
- 16.文章の締めとして
1.スタンレー・ミルグラムとはどんな人物だったのか?
スタンレー・ミルグラムは、服従だけでなく、「人は周りの人や集団、社会の状況からどのような影響を受けるのか」を、さまざまな方法で研究したアメリカの社会心理学者です。
まず、人物としての基本情報を確認しておきましょう。
正式名:Stanley Milgram(スタンレー・ミルグラム)
生年月日:1933年(昭和8年)8月15日
没年月日:1984年(昭和59年)12月20日
出生地:アメリカ・ニューヨーク市。伝記資料ではブロンクス生まれとされています。
主な分野:社会心理学。服従、同調、人と人とのつながり、都市での人間行動などを研究しました。

イェール大学図書館に残されているミルグラムの研究資料では、1933年8月15日にニューヨーク市で生まれたことが確認できます。伝記資料では、より詳しくニューヨーク市のブロンクスで生まれたとされています。ブロンクスは、ニューヨーク市を構成する五つの行政区の一つです。
ミルグラムは、東ヨーロッパからアメリカへ移住したユダヤ系の両親のもとに生まれました。
父のSamuel Milgram(サミュエル・ミルグラム)は、パンやケーキを作る職人でした。母のAdele Milgram(アデル・ミルグラム)は、家庭を支えながら店の仕事も手伝っていました。ミルグラムは3人きょうだいの2番目として育ちました。
ただし、ここは注意が必要です。
家庭の背景と、研究者として「服従」を研究するまでの道のりは、分けて考える必要があります。なぜ服従研究へ進んだのかは、これから彼の学歴や、それ以前に行っていた研究を順番に見ていくことで確かめていきます。
では、ミルグラムの専門だったsocial psychology(ソーシャル・サイコロジー、「社会心理学」)とは、どのような学問なのでしょうか。
社会心理学とは、人の考え方や行動が、周りにいる人、集団、社会的な立場、その場の状況などによって、どのような影響を受けるのかを研究する心理学です。
たとえば、「一人ならこう判断するのに、周りの人が全員違う答えを選んでいたら、自分もそちらへ合わせるのか」といった問題も社会心理学の研究対象になります。アメリカ心理学会も、社会心理学を、人と人との関係や集団が人間の行動へ与える影響を研究する分野として説明しています。
そして、ミルグラムの研究は服従実験だけではありませんでした。
服従実験より前には、周囲の人に合わせて自分の判断や行動を変える「同調」を研究しています。
その後には、人から人へ知り合いの関係をたどったとき、離れた相手までどのくらい少ないつながりで届くのかを調べる「スモールワールド研究」にも取り組みました。
さらに、大都市という環境の中で人が他人とどのように関わり、行動するのかを考える「都市心理学」、人と人との情報の伝わり方、テレビで見た暴力と行動との関係なども研究しています。イェール大学に保存されている資料にも、服従、都市心理学、テレビ暴力、社会の中でのコミュニケーションなど、ミルグラムが幅広い問題を研究していた記録が残されています。
つまり、ここで覚えておきたいのは、スタンレー・ミルグラムは「服従実験だけを行った心理学者」ではなかったということです。
人は周囲の人にどこまで合わせるのか。
権威のある人にはどこまで従うのか。
遠く離れた人同士は、人間関係をたどるとどれくらい近くつながっているのか。
大都市という環境は、人の行動にどのような影響を与えるのか。
研究テーマは違っていても、ミルグラムは長いあいだ、「人は他者や社会との関係の中で、どのように行動するのか」という問題を、実験や実際の社会での調査によって確かめようとしました。これは複数の研究を並べたときに見えてくる、ミルグラムという研究者を理解するための重要な特徴です。
1984年(昭和59年)12月20日、ミルグラムはニューヨークで51歳の生涯を閉じました。ハーバード大学の人物資料では、死因は心臓発作だったとされています。
では、後にこれほど有名な社会心理学者となったミルグラムは、最初から心理学者を目指していたのでしょうか。
実は、大学時代の専攻は心理学ではありませんでした。
この少し意外な経歴をたどると、ミルグラムがどのように社会心理学へ進み、やがて「服従」という問題へ近づいていったのかが見えてきます。
2.最初から心理学者だったわけではない
ミルグラムが心理学へ進むまで
後に世界的に知られる社会心理学者となったミルグラムですが、大学時代から心理学を専門にしていたわけではありません。
第1章で紹介したミルグラムは、ニューヨーク市ブロンクスで育ち、James Monroe High School(ジェームズ・モンロー高校)を1950年(昭和25年)に卒業しました。
その後に進んだのが、ニューヨークにあるQueens College(クイーンズ・カレッジ)です。
1954年(昭和29年)に同大学を卒業しました。伝記資料によると、大学での専攻はpolitical science(ポリティカル・サイエンス、「政治学」)でした。
政治学とは、政治の制度だけを覚える学問ではありません。国や社会がどのように動くのか、人々が政治や組織とどう関わるのかなどを研究する分野です。
ただし、「政治学を学んだから、後に服従実験を考えた」と結びつけることはできません。
政治学を専攻していたことは経歴として確認できますが、それだけで後の研究動機まで説明できるわけではないからです。
そして1954年、ミルグラムはHarvard University(ハーバード大学)のDepartment of Social Relations(デパートメント・オブ・ソーシャル・リレーションズ、「社会関係学部門」)へ進みました。
これは、心理学だけを学ぶ組織ではありません。
当時のハーバードでは、社会心理学や発達・人格心理学に加え、社会学や社会人類学などを組み合わせ、「人間を、その人一人だけではなく、社会や周囲との関係まで含めて研究しよう」とした学際的な組織でした。
イェール大学に保存されている資料によると、ミルグラムはFord Foundation(フォード財団)の行動科学フェロー(研究支援を受けて研究する人)として、イェール大学で研究を始めています。
行動科学とは、人間が実際にどのように考え、選び、行動するのかを、心理学や社会学など複数の分野から研究する考え方です。
ここには、少し意外な事実があります。
ハーバード大学によると、ミルグラムは入学した時点で、大学で心理学の授業を一つも履修していませんでした。
つまり、後に心理学史に残る実験を行う人物が、大学時代から心理学一筋だったわけではなかったのです。

ハーバードでミルグラムは、ここから本格的に社会心理学を学んでいきます。
そして、その後の研究を考えるうえで特に重要な人物と出会います。
それが、「人は周りの人と意見が違うとき、自分の判断をどこまで変えるのか」を研究していた社会心理学者、ソロモン・アッシュでした。
ミルグラムが服従を研究するまでの道のりを理解するには、まず、このアッシュから受けた影響と「同調」という研究を見る必要があります。
3.服従実験の前にあった「同調」の研究
アッシュとの出会い
ミルグラムは、いきなり「人は命令に従うのか」を研究し始めたわけではありません。その前に、「人は周りの人からどのような影響を受けるのか」を、同調という問題から研究していました。
その流れを理解するうえで重要な人物が、Solomon E. Asch(ソロモン・E・アッシュ、1907年〈明治40年〉~1996年〈平成8年〉)です。
アッシュは、ヨーロッパ生まれで、のちにアメリカで活動した社会心理学者です。特に、conformity(コンフォーミティ、「同調」)の研究で知られています。アメリカ心理学会にも、20世紀を代表する心理学者の一人として記録されています。
ここでいう同調とは、周りの人たちの意見や行動に合わせて、自分の判断や行動を変えることです。
アッシュは、この力を実験で確かめました。
代表的な実験では、参加者に線を見せて、「見本と同じ長さの線はどれか」を答えてもらいます。
問題そのものは難しくありません。
ところが、参加者と一緒に答える人たちは実験者に協力しており、ある場面では全員そろって、わざと間違った答えを言います。
すると、本当の参加者の中にも、自分では違うと思っていても、多数派と同じ間違った答えを選ぶ人が現れました。

ただし、これは「人は必ず周りに流される」という実験ではありません。
アッシュが調べたのは、自分の判断と集団の判断が食い違ったとき、人がどのような条件で周囲に合わせ、どのような条件では自分の判断を保つのかという問題でした。
第2章でハーバード大学へ進んだミルグラムは、このアッシュから強い影響を受けました。
イェール大学に残る資料によると、ミルグラムはハーバードでアッシュに学び、助手も務めています。さらに後には、アッシュの研究を手伝うため、プリンストンにあるInstitute for Advanced Study(インスティテュート・フォー・アドバンスト・スタディ、「高等研究所」)でも研究助手として働きました。
そしてミルグラム自身の博士研究でも、アッシュの同調実験の考え方が使われました。
ミルグラムは1957年(昭和32年)から、ノルウェーとフランスで実験を行います。
参加者には音を聞いてもらい、その長さを判断してもらいました。そして、録音された「ほかの参加者の答え」を聞かせ、多数派が間違った答えを示したとき、本人がどの程度そこへ合わせるのかを調べました。
その結果、当時の実験条件では、フランスよりノルウェーの参加者の方が、多数派へ合わせる割合が高くなりました。
ただし、この結果だけから「ノルウェー人は同調しやすく、フランス人は同調しにくい」と国民全体について決めつけることはできません。
特定の時代、参加者、実験条件で得られた結果だからです。
ここで、後の服従実験につながる大切な違いが見えてきます。
同調では、周りの人たちに直接命令されるわけではありません。多数派と違うことへの圧力が問題になります。
それに対して服従では、権威のある人物から直接「こうしてください」と求められたとき、従うかどうかが問題になります。
同調では、周囲から直接命令されなくても、「みんなと違いたくない」「自分だけ間違っているかもしれない」という圧力から、周りに合わせることがあります。
一方の服従では、先生や上司など、権威のある人から「こうしてください」と直接求められ、その指示に従うかどうかが問題になります。
つまり、同調は「周囲に合わせること」、服従は「権威からの指示に従うこと」が中心です。
どちらも社会生活には必要ですが、行きすぎると、同調では自分の意見を言えなくなり、服従では「上の人に言われたから」と自分の判断や責任を弱く感じてしまう危険があります。
ミルグラムはまず同調を研究し、その後、社会から受ける影響についての問いを、集団から権威へと広げていきました。 ハーバード大学も、博士研究で同調を調べたミルグラムが、その後イェール大学で権威への服従研究へ進んだことを紹介しています。
服従実験は、突然生まれた奇抜な発想ではありません。その前には、「人は他人からどのような影響を受けるのか」を実験で確かめてきた研究の積み重ねがあったのです。
4.では、なぜ「服従」を研究する必要があると思ったのか?
ミルグラムが「服従」を重要な研究問題として取り上げた背景には、第二次世界大戦とナチ・ドイツによる大量殺害の歴史がありました。
まず、歴史的な事実から確認しましょう。
Holocaust(ホロコースト、「ヨーロッパのユダヤ人に対する組織的・国家的な迫害と大量殺害」)とは、1933年(昭和8年)から1945年(昭和20年)にかけて、ナチ・ドイツ政権とその同盟国・協力者によって進められた迫害と殺害です。約600万人のヨーロッパのユダヤ人が殺害されました。
その背景には、反ユダヤ主義や人種差別の思想、差別的な法律、戦争、行政組織、軍や警察、鉄道による移送、さらに各地での協力や積極的な加担など、さまざまな要因がありました。
したがって、ホロコーストを「人々が命令に従ったから起きた出来事」と、服従だけで説明することはできません。
では、ミルグラムはこの歴史をどのように見ていたのでしょうか。
ここからは、ミルグラム本人が「何を問題だと考え、何を心理学で確かめようとしたのか」を見ていきます。
1963年(昭和38年)の論文『Behavioral Study of Obedience(ビヘイビアラル・スタディ・オブ・オビーディエンス、「服従行動の研究」)』で、ミルグラムはナチ体制下の大量殺害を取り上げ、巨大な政策を実行するには、多くの人々が組織の中で命令に従うことが必要だった、と論じました。
そしてミルグラムは、服従を「一人ひとりの行動を、権威や組織の目的につなげる心理的な仕組み」と捉えました。
これは、ホロコーストについて歴史学が確定した唯一の説明ではありません。ミルグラムが「なぜ服従を心理学で研究する必要があるのか」を説明するために示した見方です。
またミルグラム自身も、服従そのものを悪いものだとは考えていませんでした。
人が共同生活をするには、ある程度、規則や権威に従うことが必要です。教育や助け合いのように、服従が社会に役立つ場合もあると彼は論文で述べています。
だからこそ、ミルグラムが確かめようとしたのは、「服従は悪いのか」ではなく、「権威から有害なことを求められたとき、人はどこまで従ってしまうのか」という問題でした。

なお、第1章で紹介したように、ミルグラム自身はユダヤ系の家庭に生まれています。しかし、その家庭背景だけを理由に「だから服従実験を行った」と結論づけることはできません。
ここまで確認できるのは、ミルグラムが同調研究から人への社会的影響を研究してきたこと、そして本人の1963年論文でも、ナチ体制下の大量殺害を服従研究の重要な背景として取り上げていることです。
そして、この時代に「命令に従ったことは、自分がしたことへの責任をなくすのか」という問題を世界に強く意識させた人物の一人が、アドルフ・アイヒマンでした。
5.アドルフ・アイヒマンとは何者だったのか?
アドルフ・アイヒマンは、ホロコーストの方針を一人で決めた最高指導者ではありません。しかし、ヨーロッパ各地のユダヤ人をゲットーや殺害施設などへ強制移送する仕事を組織した、ナチ体制の中心的な実行者の一人でした。
まず、人物としての基本情報を確認しておきましょう。
正式名:Adolf Otto Eichmann(アドルフ・オットー・アイヒマン。一般にはアドルフ・アイヒマン)
生年月日:1906年(明治39年)3月19日
没年月日:1962年(昭和37年)6月1日
出生地:ドイツ・ゾーリンゲン
主な立場:ナチ党・SSの一員として、ユダヤ人の強制移住・強制移送を組織した人物

ドイツの学術的人物事典Deutsche Biographie(ドイチェ・ビオグラフィー、「ドイツ人物事典」)では、Adolf Otto Eichmannという名で記録され、国家保安本部で「ユダヤ人問題」を担当したSS将校として紹介されています。
アイヒマンはドイツ西部のゾーリンゲンで生まれ、1914年(大正3年)に家族とともにオーストリアのリンツへ移りました。
学校卒業後には機械工学を学びましたが修了せず、労働者や事務職などを経験したあと、石油会社の営業員として働きました。
つまり、若いころから政治家や軍の最高幹部になる道を歩んでいた人物ではありませんでした。
その人生が大きく変わったのが、1932年(昭和7年)です。
アイヒマンは知人のErnst Kaltenbrunner(エルンスト・カルテンブルンナー)の勧めを受け、ナチ党とSS(Schutzstaffel〈シュッツシュタッフェル、「親衛隊」〉)に入りました。
SSは当初、ナチ党指導者の警護組織として始まりましたが、その後は警察、情報機関、強制収容所などを支配し、ホロコーストの実行を担う巨大な組織へと拡大していきます。
1934年(昭和9年)、アイヒマンはSSの情報機関へ入り、その後、ユダヤ人に関する情報や政策を扱う仕事を担当するようになります。
そして1938年(昭和13年)、ナチ・ドイツがオーストリアを併合すると、ウィーンでユダヤ人移住中央局を組織しました。
ユダヤ人移住中央局とは、ナチ体制のもとで、ユダヤ人をオーストリアから国外へ追い出すための手続きを集中的に進めた組織です。
「移住」という言葉から、自由に外国へ移る制度のように見えるかもしれませんが、実際には違います。
ユダヤ人から財産を奪い、出国に必要な行政手続きを一か所に集め、国外への移住を強制的に進める仕組みでした。
1938年8月から1939年6月までに、およそ11万人のオーストリアのユダヤ人が国外へ移住させられました。この方法は効率的だと評価され、「ウィーン・モデル」としてほかの地域にも広げられました。
ここが、アイヒマンがナチ体制の中で重要性を高めていった大きなポイントです。
彼は、ユダヤ人を追放する政策を自分一人で決定した人物ではありません。
一方で、すでに決められた政策を実行するために、行政手続きや移送を効率よく組織する実務能力を発揮し、その経験によって、より大きな仕事を任されるようになりました。
第二次世界大戦が始まると、ナチ体制の政策は、ユダヤ人を国外へ追い出すことから、占領地域への強制移送、そして殺害へと進んでいきます。
1939年(昭和14年)にRSHA(Reichssicherheitshauptamt〈ライヒスジッヒャーハイツハウプトアムト、「国家保安本部」〉)が作られると、アイヒマンはユダヤ人の移送を担当する部署で地位を高めました。
1941年(昭和16年)には、国家保安本部のIV B 4「ユダヤ人問題」担当部署の責任者になります。
IV B 4とは、国家保安本部の中で、ユダヤ人の追放や移送などを担当していた部署です。
ここでいう「ユダヤ人問題」は、中立的な研究テーマの名前ではありません。ナチ体制がユダヤ人を社会から排除し、迫害する政策の中で使っていた表現です。
ここでの仕事は、単に上から届いた命令書を読むことではありませんでした。
アイヒマンとその部下たちは、どの地域から何人を、いつ、どの列車で、どこへ移送するのかを計画し、警察や鉄道、各地の行政機関などと調整していました。
アメリカ合衆国ホロコースト記念博物館が公開する「ホロコースト百科事典」によると、アイヒマンはこの立場から、ヨーロッパ各地の150万人を超えるユダヤ人を、ゲットー、殺害施設、殺害現場へ移送するうえで中心的な役割を果たしました。
1942年(昭和17年)1月20日には、ヨーロッパのユダヤ人殺害をどのように組織的に進めるかを政府機関などの間で調整したWannsee Conference(ヴァンゼー会議)にも参加しています。
アイヒマンは最高位の政策決定者として参加したのではなく、上司ラインハルト・ハイドリヒのための資料を準備し、その後、会議で示された計画を各地の担当者へ伝え、移送を実行する側の重要人物でした。
さらに1944年(昭和19年)のハンガリーでは、アイヒマン自身が現地へ入りました。
4月末から7月上旬までに、アイヒマンとその部下たちは約44万人のハンガリーのユダヤ人を移送し、その多くがアウシュヴィッツへ送られました。
このハンガリーでの行動は、アイヒマンが単なる事務連絡の担当者ではなく、現地で大量移送そのものを直接進めたことを示しています。
では、なぜアイヒマンは、ここまで大きな役割を担う人物になったのでしょうか。
この問いを「もともと残酷な性格だったから」「命令には絶対に逆らえない人だったから」と、一つの性格や心理だけで説明することはできません。
歴史資料から確認できるのは、ナチ党とSSへ入り、ユダヤ人政策を担当し、強制移住を効率よく進める仕組みを作り、その経験と実績によって、より大規模な強制移送を任される立場へ進んでいった、という過程です。
つまり、ここで事実として見えてくるのは、アイヒマンが「命令されたことを何も考えずに行っただけの人物」だった、という単純な姿ではありません。
彼はナチ体制という巨大な組織の中にいましたが、その中で与えられた政策を具体的な移送計画へ変え、部下や他機関を動かし、実行する役割を積極的に担っていました。
1945年(昭和20年)にナチ・ドイツが敗れると、アイヒマンはアメリカ軍に拘束されましたが、1946年(昭和21年)に収容先から逃亡しました。
その後は身分を隠して生活し、1950年(昭和25年)にはアルゼンチンへ渡ります。
そこでRicardo Klement(リカルド・クレメント)という偽名を使い、ブエノスアイレス周辺で家族と暮らしながら、工場などで働いていました。
しかし1960年(昭和35年)、イスラエルの情報機関の要員によってアルゼンチンで拘束され、イスラエルへ移送されます。
そして翌1961年(昭和36年)、エルサレムで裁判にかけられることになりました。
この裁判で大きな問題になったのが、「組織の命令を実行した人物は、自分の行為にどこまで責任を負うのか」という問いでした。
それは、第4章で見たミルグラムの「服従」という研究テーマとも重なる問いです。
ただし、アイヒマン本人の行動を、そのままミルグラムの服従実験で説明できるわけではありません。
まずは、アイヒマンが裁判で自分の行為をどのように説明し、裁判所がその説明をどう判断したのかを、実際の裁判記録と歴史資料から見ていく必要があります。
6.逃亡から裁判へ――世界が注目したアイヒマン裁判
アイヒマン裁判で大きく問われたのは、「上から命令されていた」という事実が、自分で実行した行為への責任をどこまで軽くするのか、という問題でした。
第5章で見たように、アイヒマンは戦後、アルゼンチンでRicardo Klement(リカルド・クレメント)という偽名を使って暮らしていました。
1960年(昭和35年)5月11日、イスラエルの情報機関モサドの要員が、ブエノスアイレス近郊でアイヒマンを拘束します。
11日後、アイヒマンは秘密裏にイスラエルへ移送されました。
ただし、この方法には大きな問題がありました。
アルゼンチン政府の正式な手続きを通さず国外へ連れ出したため、アルゼンチンは自国の主権を侵害されたとして国連安全保障理事会へ訴えました。国連安全保障理事会も1960年6月23日の決議138で、この問題を扱っています。
つまり、「重大な犯罪の容疑者を裁く必要がある」という問題と、「他国の領域で勝手に人を拘束してよいのか」という問題は、別々に考える必要があったのです。
実際、この問題は国連まで持ち込まれましたが、最終的には国家間の問題として解決され、アイヒマン本人の裁判を無効にする理由とはされませんでした。
その後、1961年(昭和36年)4月11日、エルサレムのBeit Ha’am(ベイト・ハアム、「人民の家」)で裁判が始まりました。
アイヒマンは15の訴因で起訴されました。
その中には、ユダヤ人に対する犯罪、人道に対する罪、戦争犯罪、犯罪組織への所属などが含まれていました。
裁判に向けて、イスラエル警察は特別捜査班を作り、約1600点の文書を選びました。その多くにはアイヒマン自身の署名がありました。
さらに、108人のホロコースト生存者が証人として準備され、実際の法廷では多くの生存者が、自分や家族に何が起きたのかを語りました。
ここが、この裁判の大きな特徴です。
ニュルンベルク裁判などでは、ナチ体制が残した文書が非常に重要な証拠となりました。
それに対してアイヒマン裁判では、被害を受け、生き残った人たち自身の言葉が、裁判の中心に大きく置かれました。

イスラエル国内ではラジオで法廷の様子が生中継され、海外でも映像や新聞報道を通して裁判が大きく伝えられました。
数百人の記者が世界各地から集まり、この裁判をきっかけに、ホロコーストについて改めて知る人も増えていきました。現在の研究でも、アイヒマン裁判はホロコーストに対する社会的な関心を大きく高めた出来事の一つとされています。
では、アイヒマン自身は、自分の責任をどのように説明したのでしょうか。
アイヒマン側は、自分をナチ体制の政策を決めた中心人物ではなく、上から決められた政策を実行する組織の一員として説明しました。
弁護側は、彼を国家機構の中の「小さな歯車」として描き、重要な決定を行ったのはヒトラーやナチ体制上層部であり、アイヒマンには上官の命令へ逆らうことができなかった、と主張しました。
この弁明が、日本ではしばしば、
「命令に従っただけだった」
と短く表現されます。
ただし、これはアイヒマン本人が裁判で一度だけ発した決まり文句を、そのまま日本語へ訳したものではありません。
実際には、「自分は政策の決定者ではなかった」「組織の階級の中で命令を受ける側だった」といった複数の主張をまとめて表した言い方だと理解する方が正確です。
では、なぜアイヒマンはこのように自分を説明したのでしょうか。
ここでは、事実と解釈を分けなければなりません。
事実として確認できるのは、アイヒマンと弁護側が、彼自身の決定権と責任を小さく位置づけようとしたことです。
一方で、それが本当に本人の心からの自己理解だったのか、それとも刑事責任を軽くするための裁判上の戦略だったのかを、本人の内面だけから断定することはできません。
そこで裁判所が重視したのは、本人の自己説明だけではなく、実際に何をしたのかを示す文書と証言でした。
第5章で見たように、アイヒマンはユダヤ人の移送をただ機械的に処理しただけではありません。
移送を調整し、関係機関を動かし、数十万人規模の強制移送に直接責任を負っていました。
裁判では、とくに戦争末期の1944年に、ハンガリーのユダヤ人をアウシュヴィッツへ送り続けることに強い意欲を示していたことなども重視されました。
そのため裁判所は、「影響力のない小さな歯車として、受動的に命令へ従っただけだった」という弁護側の人物像を認めませんでした。
1961年(昭和36年)12月13日、エルサレム地方裁判所はアイヒマンを起訴内容の大部分について有罪と認定しました。
そして12月15日、死刑を言い渡します。
アイヒマン側はイスラエル最高裁判所へ上訴しましたが、1962年(昭和37年)5月29日、最高裁判所は下級審の判断を維持しました。
アイヒマンはさらに大統領へ恩赦を求めましたが、認められませんでした。
そして1962年5月31日から6月1日にかけての夜、ラムラ刑務所で絞首刑に処されました。遺体は火葬され、遺灰はイスラエルの領海外の海へまかれました。
ただし、裁判が終わったからといって、「アイヒマンとは結局どのような人物だったのか」という議論まで終わったわけではありません。
裁判当時には、自分を「小さな歯車」と説明するアイヒマンの姿が世界へ広く知られました。
その後は、戦時中の記録や裁判資料、アルゼンチンにいた時期の発言なども含めて研究が進み、「ただ命令に逆らえなかった官僚だった」という人物像だけでは、アイヒマンの行動全体を説明できないという見方が強く重視されるようになっています。
ヤド・ヴァシェムは、アイヒマンをどのような人物として理解するかについて複数の解釈が生まれたことを紹介しています。
Yad Vashem(ヤド・ヴァシェム、「世界ホロコースト記念センター」)は、イスラエルのエルサレムにある、ホロコーストの記録・研究・教育・犠牲者の追悼などを行う機関です。
その一方で、アイヒマンがナチ体制によるユダヤ人絶滅政策の実行に、熱心かつ効率的に関わったこと自体は疑えないと整理しています。
ここで重要なのは、「命令を受けていた」という事実と、「自分の行為に責任がない」という結論は同じではないということです。
アイヒマンが上官のいる組織の中で行動していたことは事実です。
しかし同時に、裁判で示された資料からは、その組織の中で自ら移送を組織し、実行を進めたことも確認されました。
だからこそ、裁判所は「命令された」という説明だけで個人の責任がなくなるとは認めなかったのです。
そして、この裁判を実際に傍聴し、後にアイヒマンについて世界的な議論を引き起こす考えを示した人物がいます。
Hannah Arendt(ハンナ・アーレント、1906年〈明治39年〉~1975年〈昭和50年〉)です。
アーレントはドイツ生まれのユダヤ系政治思想家で、ナチ政権下のドイツを離れ、のちにアメリカで活動しました。
彼女はアイヒマン裁判を取材し、のちに「悪の凡庸さ」という有名な表現を使います。
しかし、その言葉は「アイヒマンはただ普通の人だった」という単純な意味ではありません。
次に、アーレントが実際には何を見て、何を問題にしたのかを確認していきましょう。
7.「悪の凡庸さ」とは何だったのか
アイヒマン裁判が生んだ議論
「悪の凡庸さ」とは、「普通の人なら誰でも、命令されれば残虐なことをする」という意味ではありません。
この言葉を広く知られるものにしたのが、Hannah Arendt(ハンナ・アーレント、1906年〈明治39年〉10月14日~1975年〈昭和50年〉12月4日)です。
アーレントはドイツのハノーファーに生まれたユダヤ系の政治思想家です。1933年(昭和8年)、ナチ政権の成立後にドイツを離れ、フランスを経て1941年(昭和16年)にアメリカへ渡りました。政治、全体主義、人間の判断や責任について考えた、20世紀を代表する政治思想家の一人です。
第6章で見たアイヒマン裁判が始まると、アーレントはアメリカの雑誌The New Yorker(ザ・ニューヨーカー)のために1961年(昭和36年)にエルサレムへ行き、裁判を取材しました。
その報告は1963年(昭和38年)に同誌で連載され、同年、『Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil(アイヒマン・イン・エルサレム――悪の凡庸さについての報告)』として出版されました。現在の日本語版は、みすず書房から『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』という題名で刊行されています。
ここで登場するのが、banality of evil(バナリティ・オブ・イーヴル、「悪の凡庸さ」。「悪の陳腐さ」とも訳される)という表現です。
では、「悪の凡庸さ」とは、具体的にどういう意味なのでしょうか。
「悪の凡庸さ」とは、恐ろしい犯罪を行う人物が、必ずしも特別に悪魔的な人物とは限らず、自分の行為の善悪を根本から問い直さないまま、重大な悪を進めてしまうことがある、というアーレントがアイヒマン裁判を通して見いだした問題を表す言葉です。
ここでいう「凡庸」とは、「ありきたりで、特別な深みがない」という意味です。
アーレントが「凡庸」と表現したのは、犯罪そのものではありません。重大な犯罪を進めたアイヒマンの考え方や動機に、彼女が見いだした浅さのことでした。
アーレントは、裁判でアイヒマンが決まり文句やありきたりな表現を繰り返し、他人の立場から物事を考え直せないように見えたことに注目しました。
そこで重要になるのが、thoughtlessness(ソートレスネス、「思慮の欠如」)です。
ここでいう思慮の欠如とは、単に「何も考えていない」「知能が低い」という意味ではありません。
自分の役割や組織の考え方から離れて、自分の行為が他人にとって何を意味するのかを考え直し、判断することができていない状態を指します。

アーレントはアイヒマンを、「上からの命令に従っただけの小さな歯車」だと考えていたわけではありません。
Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー、日本語では「スタンフォード哲学百科事典」)は、専門の研究者によって執筆・編集され、スタンフォード大学が公開している哲学事典です。
同事典によると、アーレントは、アイヒマンがユダヤ人の移送を積極的に進め、ときには命令に反してまで政策を進めたことも認識していました。
つまり、組織の中で仕事を進める能力があることと、その仕事が他人に何をしているのかを根本から問い直すことは、別なのです。
そして、「悪の凡庸さ」は、アイヒマンの責任を軽くするための考えでもありません。
アーレントは、アイヒマンが単なる「歯車」ではなく、自分の行為に責任を負う人物だと考えていました。
ただし、アーレントが描いたアイヒマン像が、歴史研究で確定した唯一の人物像なのではありません。
後の研究者からは、アイヒマンの反ユダヤ主義的な思想や、ナチ体制への積極的な関与を、アーレントは小さく見すぎたのではないかという批判も出ています。スタンフォード哲学百科事典も、こうした批判を紹介しています。
そのため、「悪の凡庸さ」は、心理学実験によって証明された人間の法則ではありません。アイヒマン裁判での観察や資料をもとに、アーレントが示した政治思想上の解釈です。
ここは、ミルグラムの研究とは分けて考える必要があります。
アーレントは、裁判でのアイヒマンの言葉や行動、裁判資料などをもとに、人間の思考・判断・責任について考察しました。
一方、ミルグラムは心理学実験によって、権威のある実験者から続行を求められたとき、参加者がどこまで行動を続けるのかを調べました。
二人は、扱った問題も、調べる方法も異なっていました。
それでも、権威や組織のもとで、人がどのように行動するのかを考えるうえでは、二人の議論を結びつけて考える意味があります。
そして、二人の関係を考えるときには、時系列にも注意が必要です。
アーレントの「悪の凡庸さ」を読んで、ミルグラムが服従実験を思いついたわけではありません。
アーレントが『エルサレムのアイヒマン』を発表したのは1963年です。
しかしミルグラムは、それより前の1961年1月には、服従実験の装置や手続き、最初の結果を全米科学財団(アメリカの科学研究を支援する政府機関)に報告していました。 このことは、ミルグラム自身の1963年の論文にも記されています。
アイヒマン裁判がエルサレムで始まったのは、その後の1961年4月11日です。
ただし、二人の研究がまったく無関係だったわけでもありません。
実際、ミルグラムの1963年の論文では、アーレントが1958年に発表した、権威についての論考が参考文献に挙げられています。これは、1963年の「悪の凡庸さ」とは別の文章です。
では、ミルグラムはどのような問題意識から服従研究を始めたのでしょうか。
次は、当時の歴史的な背景と研究の時系列をたどりながら、その問いを確認します。
8.アイヒマン裁判を見て、ミルグラムは服従実験を思いついたのか?
結論から言うと、「アイヒマン裁判を見たミルグラムが、そこで初めて服従実験を思いついた」という説明は、確認できる時系列と合いません。
ミルグラムは、1961年4月の裁判開始より前から、服従実験を構想し、予備実験まで行っていました。
しかし、アイヒマンの事件が研究にまったく関係しなかった、とも言い切れません。
なぜなら、アイヒマンの拘束は裁判開始より前に報道されており、ミルグラムが実験を構想していた時期とも重なるからです。
では、実際にはどのような順番で出来事が進んだのでしょうか。
まずは、歴史資料と心理学の研究資料から確認できる時系列を並べてみましょう。
【アイヒマンの事件とミルグラムの服従研究の時系列】
- 1960年春ごろ(構想時期の推定):ミルグラムが、アッシュの同調研究を発展させ、命令に従って他人に電気ショックを与えるような実験を構想していたと考えられる時期。
- 1960年5月11日・23日:アイヒマンがアルゼンチンで秘密裏に拘束され、23日にイスラエル政府が拘束と裁判予定を公表。
- 1960年10月14日:ミルグラムが、電気ショックを使って服従を調べる具体的な研究計画書を作成。
- 1960年11月ごろ:ミルグラムと学生たちが予備実験を実施。
- 1961年1月25日:ミルグラムが、実験方法や予備的な結果を盛り込んだ研究計画書を全米科学財団(アメリカの科学研究を支援する政府機関)へ提出。
- 1961年4月11日:エルサレムでアイヒマン裁判が始まる。
- 1961年8月〜1962年5月:ミルグラムの本格的な服従実験で、23の実験条件が実施される。
- 1963年:アーレントが『The New Yorker』でアイヒマン裁判の報告を発表し、同年に『エルサレムのアイヒマン』を出版。ミルグラムも服従実験の論文を発表。
この時系列で大切なのは、「実験を考え始めた時期」「予備実験を行った時期」「本格的な実験を行った時期」が違うということです。

ミルグラムの生涯や服従実験について研究した人物社会心理学者のトーマス・ブラス(Thomas Blass、1941〜2021)は、服従実験の着想が生まれた時期を、1960年3月から6月ごろと推定しています。
また、ミルグラム自身が「1960年春」と記した初期の電気ショック装置のスケッチも、後の研究で紹介されています。
ただし、何月何日に最初の着想が生まれたのかまでは分かっていません。
一方、アイヒマンは第二次世界大戦後、身元を隠して逃亡していました。戦争犯罪への関与から追跡されていましたが、1960年5月11日にアルゼンチンで拘束されます。
その拘束は当初秘密にされていました。
しかし、同月23日、イスラエルの首相ベン=グリオンが国会で、アイヒマンを拘束しており、近く裁判にかける予定であることを公表しました。このニュースは海外でも大きく報道されました。
つまり、ミルグラムが服従実験を考え始めたと推定される時期と、アイヒマン拘束のニュースが世界に広まった時期は重なっていたのです。
そのため、ミルグラムがこの報道を知り、「人はなぜ権威の命令に従うのか」という問題への関心を深めた可能性は考えられます。
ブラスは、アイヒマンの拘束が、ミルグラムが実験の構想に「命令」という要素を取り入れるきっかけになった可能性を指摘しています。
しかし、この段階でミルグラムが実際に報道を見聞きしたのか、それによって実験を思いついたのかは確認できません。
構想が拘束発表より前に始まっていた可能性もあります。
一方、1960年10月には具体的な研究計画が作られ、11月ごろには学生たちによる予備実験が行われていました。
そして1961年1月25日には、実験の手続きや最初の結果を含む研究計画書が作成されています。ミルグラム自身の1963年の論文にも、1961年1月には実験装置の設計や写真、方法、最初の結果を全米科学財団に報告していたことが記されています。
アイヒマン裁判が始まる前に、服従実験は単なるアイデアではなく、実際に試されていたのです。
では、ミルグラムがアイヒマンの事件を意識していたことを示す資料はないのでしょうか。
ここには、興味深い記録があります。
ニュージーランド出身の社会学・犯罪学の研究者、ネスター・ラッセル(Nestar John Charles Russell)は、ミルグラムの服従実験がどのように生まれたのかを研究し、2011年の論文で当時の手紙を紹介しています。
1961年6月27日、ミルグラムは研究助手のアラン・エルムズに送った手紙で、実験参加者を集める仕事を、アイヒマンが担った役割になぞらえる表現を使っていました。
これは、少なくとも1961年6月の時点で、ミルグラムがアイヒマンを念頭に置いていたことを示す資料です。
ただし、この手紙は実験を始めた理由を説明したものではありません。そのため、アイヒマンの事件が最初の着想を生み出した証拠にはなりません。
ここで、もう一つ確認しておきたい資料があります。
現在のハーバード大学心理学部の公式サイトには、ミルグラムの服従研究について、アーレントによるアイヒマン裁判の報告から着想を得たという趣旨の説明があります。
しかし、これを「アーレントの『悪の凡庸さ』を読んで、ミルグラムが服従実験を始めた」という意味に受け取ると、時系列に矛盾が生じます。
アーレントが「悪の凡庸さ」を論じた裁判報告を発表したのは1963年です。
その時点でミルグラムの服従研究は、すでに予備実験と本格的な実験を終えていました。
したがって、1963年のアーレントの報告が、1960年に始まった研究の最初の着想を生み出した、とは言えません。
ハーバード大学の人物紹介が、なぜこのような説明を採用したのか、その執筆者の意図や根拠となった資料までは確認できません。
大学の公式サイトに書かれていることは重要な情報ですが、その記述が歴史的事実として正しいかどうかは、当時の資料と照らし合わせて判断する必要があります。
なお、ミルグラムの1963年の論文には、アーレントが1958年に発表した権威についての論考『What Was Authority?(権威とは何だったのか)』が参考文献として挙げられています。
これは、1963年の『エルサレムのアイヒマン』とは別の文章です。
ただし、ミルグラムがこの1958年の論考をいつ読んだのかまでは、この参考文献の記載だけでは分かりません。
では、ここまでの資料から、どのようなことが言えるのでしょうか。
ミルグラムの服従研究は、アッシュから続く同調研究や、ナチ体制下の犯罪と権威への服従という問題意識を背景に、アイヒマン裁判の開始前から進められていました。
実際、ミルグラム自身も1963年の論文で、ナチ体制下で多くの人々が命令に従い、重大な犯罪に関わったことを取り上げています。
また、研究を進めていた時期に、ミルグラムがアイヒマンを意識していたことを示す手紙も残されています。
しかし、アイヒマンの拘束や裁判の報道が、服従実験を最初に思いつく直接のきっかけになったかどうかは、確認できる資料からは断定できません。
同じ時期に二つの出来事が起きたことと、一方がもう一方の原因になったことは、別だからです。

つまり、アイヒマンの事件とミルグラムの研究には歴史的な接点がありました。しかし、その接点が研究の構想にどのような影響を与えたのかについては、分かっていない部分も残っています。
ここまでで、ミルグラムが服従を研究した背景と、アイヒマン裁判との関係をたどってきました。
では次に、彼は「人は権威にどこまで従うのか」という問いを、実際にどうやって心理学の実験に変えたのでしょうか。
9.ミルグラムは「服従」をどうやって実験にしたのか?
「記憶と学習の研究」という仕掛け
ミルグラムが工夫したのは、「あなたは権威に従いますか?」と質問するのではなく、権威のある人物から続行を求められる状況を作り、参加者がどこまで指示に従うのかを実際の行動から調べられるようにしたことです。
1963年(昭和38年)の論文で報告された実験では、ニューヘイブン周辺に住む20〜50歳の男性40人を、新聞広告や郵送によって募集しました。
参加者は、イェール大学で行われる「記憶と学習の研究」に参加するのだと考えていました。実験室ではさらに、「罰を与えることが学習にどのような影響を与えるのかを調べる」と説明されます。
参加者は、もう一人の人物とくじを引き、「教師役」と「学習者役」を決めます。
しかし、くじには仕掛けがありました。
本当の参加者は必ず教師役になり、学習者役は実験者に協力している人物になるよう、最初から決められていたのです。
ここで、三つの役割を区別しておきましょう。
教師役は、本当の実験参加者です。学習者役に問題を出し、間違えるたびに電気ショックを与えるよう指示されます。
学習者役は、実験者に協力している人物で、電気ショックを受けているふりをします。
そして実験者は、灰色の技術者用コートを着て研究を進め、教師役に指示を出す人物です。
つまり、この実験で参加者が従うかどうかを調べられたのは、教師役からの命令ではなく、研究を進める実験者からの指示でした。

教師役は学習者に単語の組み合わせを覚える問題を出し、間違えるたびに、電気ショックを一段階強くするよう求められました。
装置には30個のスイッチが並び、15ボルトから450ボルトまで、15ボルトずつ強くなるよう表示されていました。
さらに、教師役自身には実験開始前に、本物の45ボルトの試験ショックが与えられました。装置が実際に電気を流すものだと信じやすくするためです。
ただし、学習者役には実際の電気ショックは流れていませんでした。
参加者には、そのことも、本当は服従を調べていることも知らされていません。
このように、研究の本当の目的を隠したり、事実とは違う説明をしたりする方法を、**deception(ディセプション、「欺瞞【ぎまん】」)**といいます。
では、参加者は途中で「もうやめたい」と拒否することができたのでしょうか。
実際に拒否することはできました。しかし、自由に拒否しやすい状況だったわけではありません。
有名な1963年の実験条件では、300ボルトに達すると、学習者役が壁をたたき、その後は問題に答えなくなりました。315ボルトでも再び壁をたたき、それ以降は反応しなくなります。
それでも実験者は、回答がない場合も間違いとして扱い、電気ショックを続けるよう指示しました。
参加者がためらったり、やめたいと示したりすると、実験者はあらかじめ決められた順番で続行を求めました。
最初は「続けてください」という言葉でしたが、それでも拒否すると、「実験を続ける必要があります」「続けることが絶対に必要です」と、さらに強く求めました。
最後には、**「ほかに選択肢はありません。続けなければなりません」**という言葉も用意されていました。
それでも参加者が拒否した場合、実験は終了する決まりでした。
実際、40人のうち14人は450ボルトに到達する前に続行を拒否し、残る26人(65%)は450ボルトまで進みました。
つまり、参加者は実験を途中でやめることができました。しかし、やめたいと伝えても実験者から続行を求められたため、その圧力のなかで、拒否する意思を示し続ける必要があったのです。

なお、参加者には、実験に来たことに対する報酬として4ドル50セントが支払われました。この報酬は、実験が始まってから何が起きても受け取れると説明されていました。
一方、1963年の論文からは、実験開始前に「いつでも自由にやめられます」と明確に説明していたことまでは確認できません。
このように、参加者が強い緊張を感じたり、やめたいと思っても続行を求められたりする状況は、後に研究倫理をめぐる大きな議論を呼びました。
アメリカの心理学者ダイアナ・バウムリンド(Diana Baumrind、1927〜2018)は、1964年(昭和39年)、参加者に与える心理的な苦痛や、研究者に対する信頼を傷つける可能性などを問題として、この研究を批判しています。
では、ミルグラムは、この実験で何を測ったのでしょうか。
主な測定値は、参加者が続行を拒否するまでに、最大で何ボルトのショックを与える操作をしたかでした。最後まで拒否しなかった人については、450ボルトまで進んだことが記録されました。
つまりミルグラムは、「服従しやすい性格かどうか」を診断したのではありません。
権威のある実験者から続行を求められる状況で、参加者がどこまで行動を続け、どの段階で拒否したのかを観察することで、服従を実験で調べられる形にしたのです。
ただし、この実験で観察されたのは、参加者がどこまで行動を続けたかという結果です。なぜ続けたのか、その原因まで一つに決まったわけではありません。
では、その結果を見たミルグラム自身は、なぜ人がそこまで従ったと考えたのでしょうか。
10.結果を見たミルグラムは、何を考えたのか?
ミルグラムは、実験結果を「残酷な人が多かったから」と説明しませんでした。彼が注目したのは、権威のある状況に置かれることで、人の判断や責任の感じ方がどう変わるのかという問題でした。
まず、実験で実際に観察された事実があります。
1963年(昭和38年)の論文では、参加者の中に、汗をかく、震える、言葉につまる、唇をかむ、うめく、神経質に笑うといった強い緊張を示す人がいたと報告されています。最大のショックまで進んだ参加者の中にも、強いストレスを示す人がいました。
つまり、「相手を苦しめても平気だったから続けた」と一括りにはできません。
ミルグラム自身も1963年の論文で、参加者の発言や行動から、相手を傷つけることに反対しながら、それでも実験者の指示に従う人がいたと述べています。さらに、イェール大学という場所への信頼や、「科学に役立つ研究だ」という目的の正当性など、状況そのものが服従を強めた可能性を考えました。
その説明をさらに体系化したのが、1974年(昭和49年)の著書『Obedience to Authority: An Experimental View(オビーディエンス・トゥ・オーソリティー――アン・エクスペリメンタル・ビュー、「権威への服従を実験から考察した本」)』です。
そこでミルグラムが示した中心的な考えの一つが、agentic state(エージェンティック・ステート、「自分を、権威の指示を実行する立場として捉える状態」)でした。
普通なら「自分が決めて、自分が行動している」と考えるところを、正当な権威のもとでは、「自分はこの人の指示を実行している」と捉え、自分自身が行為の出発点だという感覚や責任を弱めることがあると、ミルグラムは考えたのです。APAの心理学辞典でも、この言葉は、組織の上下関係の中で上位の権威の命令に従う心理的状態として説明されています。
ここで大切なのは、agentic stateそのものが実験で直接測定され、証明されたわけではないということです。
脳を測って発見した状態でもありません。
これは、観察された服従を説明するためにミルグラムが提案した理論です。

またミルグラムは、相手を傷つけたくない気持ちと、権威に従おうとする力がぶつかったときに生じる緊張をstrain(ストレイン、「心理的な緊張や葛藤」)として論じました。そこから抜け出す一つの方法が、最終的に権威へ逆らい、実験をやめることだと考えました。
したがって、ミルグラム自身の説明では、人は何も感じずに機械のように従うのではなく、強い葛藤を抱えながら、それでも権威との関係から抜け出せないことがあるという点が重要でした。
ただし、これが服従についての最後の答えになったわけではありません。
後の研究者からは、agentic stateだけでは実験結果を十分に説明できないという批判も出ています。
ミルグラムが示した説明は重要な出発点ですが、それ自体も後に検討され直していく理論の一つなのです。
11.ミルグラムの説明が、最後の答えだったわけではない
ミルグラムが示した説明は重要ですが、服従実験の結果そのものと、その結果をどう説明するかは別の問題です。
第10章で見たように、ミルグラムは権威との関係によって責任の感じ方が変わる可能性を考えました。
しかし後の研究者からは、別の説明も提案されています。
2012年の研究では、参加者は単に権威へ機械的に従ったのではなく、「科学研究を成功させることには意味がある」と感じ、実験者や研究の目的に自分を重ねたために協力を続けた可能性が論じられました。これは有力な再解釈の一つですが、現在の唯一の答えではありません。
ところで、参加者は本当に、学習者役が電気ショックを受けていると信じていたのでしょうか。
実は、実験後に行われた質問調査では、ショックが本物だと完全に信じていた人だけでなく、本当かどうか疑っていた人もいたことが分かっています。
こうした回答をもとに、ミルグラムの研究助手が1962年に行った未公表の分析を、後の研究者たちが再分析し、2020年に論文として発表しました。
その結果、23の実験条件のうち18条件で、ショックが本物だと完全に信じていた参加者の方が、そうではない参加者よりも、平均すると低い段階で実験をやめる傾向が見られました。
つまり、参加者が学習者役の苦痛をどこまで本物だと信じていたかも、実験結果に関係していた可能性があります。
ただし、疑いを持っていたからといって、実験の仕掛けをすべて見抜いていたとは限りません。また、実験後の回答だけで当時の気持ちを正確に判断することにも限界があります。

では、ここまでの研究から、結局何が言えるのでしょうか。
ミルグラムの服従実験は、権威のある人物から続行を求められる状況では、人はためらいながらも行動を続けることがあり、その行動は実験の条件によっても変わることを示しました。
しかし、なぜ参加者が行動を続けたのかについては、複数の説明が考えられ、権威からの命令だけが唯一の原因だったとは断定できません。
そのため、これだけで服従実験の結果全体を説明できるわけではありません。
イェール大学には現在も、実験記録、参加者の資料、音声、実験後の面接などが保存されています。こうした資料が調べ直されることで、倫理面も含め、ミルグラム自身が最初に示した説明より複雑な姿が見えてきました。
だから、服従実験で実際に観察された「参加者がどこまで行動を続けたか」という結果と、「なぜ参加者はそこまで続けたのか」という原因についての説明を、同じものとして扱ってはいけません。
実験から確認できるのは、権威のある実験者から続行を求められた状況で、多くの参加者が行動を続けたということです。
しかし、「権威から命令されたから、それだけが原因で従った」と実験そのものが証明したわけではありません。
なぜ続けたのかについては、第10章で見たミルグラム自身の説明だけでなく、科学への信頼、研究目的への共感、実験者への信頼、状況をどこまで本物だと信じていたかなど、後の研究で複数の可能性が検討されています。
「命令のある状況で行動を続けた」ことは結果として観察できる。しかし、「なぜ続けたのか」を命令だけで説明することはできないということです。
ここで一つ、誤解しやすい点があります
ここまで読むと、
「普通の人でも権威に従うことがあるのなら、第5~7章で見たアイヒマンも、命令に従っただけだったと考えてよいのではないか」
と思うかもしれません。
しかし、ミルグラムの実験から、その結論を出すことはできません。
服従実験が示したのは、特定の状況では、権威から続行を求められることで、普通の参加者でも自分の良心に反するような行動を続けることがある、ということです。
それは、特定の歴史上の人物がなぜ行動したのか、どれほど自分から関与したのか、その人にどの程度の責任があるのかまで説明する実験ではありません。
アイヒマンについては、裁判や歴史資料をもとに、実際にどのような役割を担い、どのような行動をしたのかを別に確かめる必要があります。
したがって、
「人は権威から強く影響を受けることがある」という心理学上の問題と、「その人が自分の行為について責任を負うか」という問題は、同じではありません。
むしろミルグラムの研究が突きつけたのは、「命令されたから責任がなくなる」という答えではなく、人は権威に影響されうる存在だからこそ、その中で自分の判断と責任をどう保つのかという問題だと考える方が適切です。
ミルグラムは重要な問いを実験にしました。
しかし、その実験が何を意味するのかという問いは、今も研究され続けているのです。
服従実験やミルグラム自身の考えを、もう少し深く知りたい方へ。
この記事の後半にある「さらに学びたい人へ」では、心理学の入門書からミルグラム本人の著書まで、理解を深めるための3冊を紹介しています。
12.ミルグラムは何を問い、心理学に何を残したのか?
ミルグラムが心理学に残した大きな功績の一つは、「人は権威にどこまで従うのか」という問いを、実際の行動から調べられる研究にしたことです。
彼が服従という問題に関心を向けた背景には、大学院時代に取り組んだ同調研究や、ナチ体制下の犯罪と権威への服従という、当時の歴史的な問題がありました。
実際、ミルグラム自身も1963年の論文で、ナチ体制下で多くの人々が命令に従い、重大な犯罪に関わったことを取り上げています。
ただし、彼が服従実験を最初に思いついた理由を、特定の出来事だけに結びつけることはできません。
それでも、彼が向き合った問いには、重要な特徴があります。
人が権威に従うかどうかを、本人の考えや性格について尋ねるだけでなく、実際に指示を受ける状況を作り、その行動を観察しようとしたことです。

その結果、権威のある人物から続行を求められる状況で、人がためらいながらも行動を続ける場合があることや、実験の条件によって結果が変わることが示されました。
しかし、なぜ参加者が従ったのかについては、後の研究者たちからも異なる説明が示されています。
ここからは、これまでの研究を振り返った、この記事としての考察です。
私には、ミルグラムが心理学に残した重要な視点は、人の行動をその人の性格だけで判断するのではなく、その人がどのような状況に置かれていたのかにも目を向けたことにあるように思えます。
例えば、ある人が権威からの指示に従ったとしても、それだけで「もともと従いやすい人だった」と結論づけることはできません。
逆に、ある状況で指示を拒否できたとしても、その人がどのような状況でも同じように拒否できるとは限りません。
ミルグラムの研究は、人の行動を理解するには、その人自身だけでなく、周囲の状況や、他者との関係も考える必要があるのではないかという問いを、私たちに投げかけているように感じます。
もちろん、これは研究を振り返った私自身の解釈であり、ミルグラムがこの考えを唯一の研究目的として掲げていたという意味ではありません。
また、ミルグラムは服従だけを研究した人物でもありません。同調研究や、人と人とのつながりを調べるスモールワールド研究など、異なる問題にも取り組んでいます。
ただし、それらすべてに一つの共通した目的があったと、本人の考えとして断定することはできません。
そして、ミルグラムの研究を評価するときには、参加者に強い心理的負担を与えた実験方法への批判も忘れてはいけません。
研究の重要性を認めることと、その研究方法に問題がなかったと考えることは別です。
こうして振り返ると、ミルグラムは、人間が権威から影響を受けることを示しただけの心理学者ではなかったように思います。
「人はなぜ権威に従うのか。そして、どのような状況で従い、どのような状況で拒否するのか」という問題を、実験によって調べられる形にし、その答えをめぐる研究や議論が続くきっかけをつくった人物だったのではないでしょうか。
そこに、スタンレー・ミルグラムという研究者が心理学に残した、大きな意味があると私は考えます。
13.おまけコラム
なぜ日本では「アイヒマン実験」とも呼ばれるの?
ミルグラムの服従実験を日本語で調べると、「アイヒマン実験」という名前を見かけることがあります。

これは日本で使われてきた通称で、ミルグラム自身が1963年の論文につけた正式名称ではありません。
国立国会図書館の記録では、1975年(昭和50年)の日本語資料に、すでに「アイヒマン実験」という表記が確認できます。現在も、日本では服従実験を指す通称として使われることがあります。
では、なぜアイヒマンの名前なのでしょうか。
第5~8章で見てきたように、アイヒマン裁判では、権威や組織の命令のもとで行われた行為と、個人の責任をどう考えるかが大きな問題になりました。
一方、ミルグラムも、権威から続行を求められたときに人がどう行動するのかを研究しました。
そのため、アイヒマンをめぐる「命令と責任」の問題と、ミルグラムの「権威への服従」の研究が結びつけて受け取られ、「アイヒマン実験」という呼び名が使われてきたと理解できます。
ただし、この呼び名が最初に誰によって、どのような経緯で作られたのかまでは、今回確認した資料だけから断定できません。
そして、名前からもう一つ誤解してはいけないことがあります。
「アイヒマン実験」と呼ばれていても、アイヒマン本人を対象にした実験でも、アイヒマン裁判を再現した実験でもありません。
第8章で確認したように、ミルグラムの服従研究そのものも、裁判開始より前から準備が進んでいました。
1963年(昭和38年)に発表された原論文の題名は、Behavioral Study of Obedience(ビヘイビアラル・スタディ・オブ・オビーディエンス、「服従行動の研究」)です。
つまり、「アイヒマン実験」は日本で使われてきた通称であり、研究そのものの正式名称ではないと分けて覚えるのが正確です。
14.さらに学びたい人へ
おすすめ書籍
ここまで読んで、「服従実験だけでなく、人が集団や権威から影響を受ける仕組みをもっと知りたい」と思った人へ、次の3冊をおすすめします。
小学校高学年から中学生、心理学を初めて読む人
『まんがでわかる社会心理学』 北村英哉 監修/小日向淳 シナリオ・文/松岡リキ 作画
本の特徴
マンガと解説を組み合わせ、同調圧力、企業不正、SNSの炎上など、身近な出来事から社会心理学を説明しています。
おすすめ理由
この記事で扱った「人は周囲の状況からどう影響を受けるのか」という問いを、学校やインターネットなど身近な場面へ広げて考えられます。文章だけの心理学書がまだ難しく感じる人の最初の一冊に向いています。
この記事を読んだ人全体
『図解 人の心と行動がわかる社会心理学』 北村英哉 監修
本の特徴
「なぜ周囲と同じ意見を言ってしまうのか」「なぜ個人では悪いと思うことに組織では加担してしまうのか」といった身近な疑問を、社会心理学のトピックとして図解しています。
おすすめ理由
ミルグラムだけに限らず、同調・集団・人間関係など、この記事の背景にある社会心理学全体を見渡せるからです。「服従実験は心理学の中でどこに位置する研究なのか」を知りたい人にも向いています。
もう一段深く学びたい人
『服従の心理』 スタンレー・ミルグラム 著/山形浩生 訳
本の特徴
ミルグラム本人が、服従実験の方法や条件を変えた実験、結果、なぜ服従が起こるのかという自身の考察、緊張と拒否、研究方法をめぐる問題などをまとめた本です。
おすすめ理由
この記事では、ミルグラムの考えと後世の研究者による解釈を分けてきました。この本を読むと、「ミルグラム本人は、自分の実験を実際にどう説明したのか」を日本語で直接たどれます。
ただし、第11章で見たように、ミルグラム自身の説明が現在の唯一の答えになったわけではありません。
そのことを意識しながら読むと、単に有名な実験を知るだけでなく、「研究結果」と「その結果をどう解釈するか」は別の問題なのだという、心理学の面白さまで見えてきます。
15.まとめ・考察
「自分なら断れる」と思う前に考えたいこと
ここまでミルグラムをたどってきて見えてきたのは、人の行動は、その人の性格だけでは説明できないということです。
私たちは一人で判断しているつもりでも、集団、権威、役割、「これは大切な目的のためだ」という感覚など、周囲の状況から影響を受けています。
ただし、これは「人は命令されれば必ず従う」という意味ではありません。
服従実験でも拒否した人はいましたし、第11章で見たように、なぜ参加者が行動を続けたのかについても、現在まで複数の説明が検討されています。
ここからは、この記事を通しての考察です。
私がこの研究で特に重要だと感じるのは、「権威に従うこと」そのものより、「自分の判断をどこで手放してしまうのか」という問題です。
私たちが生活する社会では、先生、医師、上司、専門家、法律など、誰かの指示や社会の決まりに従う場面があります。
それ自体が悪いわけではありません。多くの場合、役割やルールがあるからこそ、社会は動いています。
だから、服従の反対を単純に「何でも逆らうこと」と考えるのも違うでしょう。
大切なのは、従っている最中にも「自分はいま何をしているのか」「誰かが傷ついていないか」「『指示されたから』だけで自分の行為を正当化していないか」と考える余地を残すことではないでしょうか。

これは、ある意味で「自由」の少し変わった見方でもあります。
自由とは、好き勝手に行動することだけではなく、周囲から強く求められているときにも、自分の行為について考えることをやめないことなのかもしれません。
日常に引き寄せてみると、似た経験はないでしょうか。
たとえば、クラスのみんなが一人の人をからかっていて、本当は嫌だと思いながら笑ってしまった。
部活動やアルバイトで、先輩から「昔からこうしている」と言われ、疑問を感じながらそのまま従った。
インターネットで多くの人が誰かを批判していて、詳しい事情を知らないまま自分も同じ言葉を書きそうになった。
これらはミルグラムの実験と同じ状況ではありません。あくまで、今回の研究を日常へ引き寄せて考えるための記事上の例です。
それでも、「周囲がそうしている」「偉い人がそう言った」「自分は言われた通りにしただけ」という言葉が頭に浮かんだとき、少しだけ立ち止まるきっかけにはできます。
ミルグラムの研究から持ち帰りたいのは、
「自分なら絶対に大丈夫」と安心することではありません。
むしろ、
「自分も状況から影響を受ける人間かもしれない。だからこそ、判断を手放していないか確かめよう」
と考えることではないでしょうか。
あなたなら、誰かから「そのまま続けて」と強く求められたとき、自分の判断を取り戻すために、どんな問いを自分自身へ投げかけますか。
16.文章の締めとして
スタンレー・ミルグラムが投げかけた問いは、半世紀以上が過ぎた今でも、完全に過去のものにはなっていません。
それは、特別な研究室の中だけにある問いではなく、私たちが誰かの言葉を信じたり、周囲に合わせたり、役割の中で行動したりする日常のすぐ近くにもあります。
だからこそ、服従実験を知ることは、「昔こんな実験があった」と覚えることだけではないのでしょう。
自分とは違う時代、違う場所にいた人々の行動を見ながら、いつの間にか私たちは、**「自分だったらどうするだろう」**と自分自身について考え始めます。
そして、その問いに一度で正しい答えを出せなくてもかまいません。
大切なのは、誰かの言葉や社会の流れの中にいるときにも、自分が何をしているのかを考える問いを失わないことなのだと思います。

補足注意
本記事は、公開されている書籍・大学や公的機関などの資料をもとに、作者が個人で確認できる範囲で内容を整理したものです。
ミルグラムの服従研究には、研究結果の意味やその解釈、研究倫理などについて、現在もさまざまな議論があります。この記事で紹介した説明だけが、唯一の答えというわけではありません。
また、心理学や歴史研究は、新しい資料の発見や研究方法の進歩によって、これまでの理解が見直されることがあります。
そのため、本記事の内容についても、今後の研究によって新しい解釈や発見が加わる可能性があります。
🧭 本記事のスタンス
この記事は、「これが唯一の正解です」と答えを決めるためではなく、ミルグラムや服従という問題について興味を持ち、自分でも調べ、考えていくための入り口として書いています。
一つの研究や一人の研究者についても、見る資料や立場によって、注目する点や解釈が異なることがあります。
この記事で得た知識を出発点にしながら、異なる研究や意見にも触れ、「なぜそう考えられているのか」を自分でも確かめていく姿勢を大切にしていただければと思います。
ここで知った答えにただ「従う」のではなく、そこから生まれた問いを「辿る」――ミルグラムが人と権威、人と人との「つながり」を追い続けたように、興味が芽生えたなら、今度はあなた自身が文献から文献へ、問いから問いへとつながりながら、その先にある心理学の世界をさらに深く探ってみてください。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
ミルグラムの研究は、人は周囲から影響を受ける存在だからこそ、自分の行動について考え続けることの大切さを教えてくれているのかもしれません。



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