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実存は本質に先立つとは?意味と具体例をわかりやすく解説|サルトルの自由と責任

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人間は、生まれたときから「どんな人間になるか」が決まっているのでしょうか。サルトルの「実存は本質に先立つ」を身近な例から読み解き、自由と責任、そして未来の自分について一緒に考えます。

5秒でわかる結論

『実存は本質に先立つ』とは、人間は最初から生き方や役割が決まっているのではなく、選択や行動を通して自分がどのような人間なのかを形づくっていく、というサルトルの考えです。

かみ砕いて言うと

例えば、いすは人が座るために作られます。

作る人は、最初から「人が座れるものを作ろう」と考えているのです。

でも、人間はどうでしょうか。

生まれたときから「あなたはこの仕事をするために生まれました」と、人生の目的が決められているわけではありません。

将来の夢がまだ決まっていなくても、何を大切にし、どう行動するかを考えることはできます。

そして、その選択や行動を通して、自分がどのような人間なのかが形づくられていく。

フランスの哲学者サルトルは、そのように考えました。

ただし、何でも自分の思いどおりにできるという意味ではありません。

この記事を読むとわかること

「自分は昔からこういう性格だから、きっとこれからも変わらない」

「周りの人は将来の目標が決まっているのに、自分はまだ何をしたいのかわからない」

「本当は違うことをしてみたいけれど、今までの自分を変えるのは難しいのかな?」

そんなふうに考えたり、悩んだりしたことはありませんか。

私たちは毎日の生活の中で、自分がどのような人間なのか、これからどう生きていきたいのかを考えることがあります。

でも、そもそも人間の生き方や、自分がどのような人間になるのかは、生まれたときから決まっているのでしょうか。

この疑問を考える手がかりになるのが、フランスの哲学者ジャン=ポール・サルトルが広く知られるようにした「実存は本質に先立つ」という言葉です。

この記事では、次の疑問を一つずつ考えていきます。

「実存は本質に先立つ」とは、どのような意味なのか。
サルトルは、なぜこのように考えたのか。その時代には、どのような背景があったのか。
「即自存在」「対自存在」「自由の刑に処せられている」とは、何を意味するのか。
当時と現在では、何が違うのか。この哲学は今、どのように理解されているのか。
自分の性格や将来について悩んだとき、この言葉から何を考えることができるのか。

この言葉は、誰もが好きな人生を自由に実現できる、という意味ではありません。

それでは、サルトルは人間の自由と生き方について、何を伝えようとしたのでしょうか。

身近な例から、その意味を一緒に考えていきましょう。

疑問が生まれた物語

小学5年生の陽菜(ひな)と蒼太(そうた)は、学校の授業で「未来の自分」というポスターを作っていました。

陽菜は楽しそうに、絵を描いています。

「私、大人になったら動物のお医者さんになりたいんだ。だから、こんなポスターにしてみたよ!」

ところが、隣に座っている蒼太の紙は、まだほとんど白いままでした。

「いいなあ、陽菜は。僕は何になりたいのか、まだわからないんだ」

「でも、蒼太はいろんなことに興味があるじゃない。理科も好きだし、料理も楽しそうにやってるよね」

「うん。でも、何か一つに決めなきゃいけないのかな。それに、もし夢が変わったら、今考えている自分とは違う人になるのかな?」

陽菜も手を止めました。

「そう言われると不思議だね。将来の仕事が決まったら、どんな人間になるかも決まるのかな?」

その日の放課後、2人は図書室で「自分とは何か」について調べてみることにしました。

そこで見つけた哲学の本に、不思議な言葉が書かれていました。

「実存は本質に先立つ」

「じつぞん……? ほんしつ……? 何のことだろう?」

蒼太は首をかしげます。

「もしかして、自分がどんな人間になるのかっていう疑問と関係があるのかな?」

自分がどんな人間なのかは、生まれたときから決まっているのでしょうか。それとも、生きていく中で決まっていくのでしょうか。

2人は、その言葉の意味をもう少し調べてみることにしました。

1 『実存は本質に先立つ』とは?

「実存は本質に先立つ」とは、人間には生まれる前から決められた本質があるのではなく、実際に生きていく中で、自分がどのような人間なのかを形づくっていくという、サルトルの考え方です。

この言葉を理解するためには、まず「実存」「本質」「先立つ」という3つの言葉を知る必要があります。

一つずつ確認していきましょう。

「実存」とは?

実存(じつぞん)とは、現実に存在していることを表す哲学の言葉です。

ただし、サルトルの哲学では、単に「そこに存在している」ということだけを意味するわけではありません。

私たち人間は、現実の世界で生活しながら、さまざまなことを考えたり、迷ったり、行動したりしています。

「これから何をしようか」

「自分はどうしたいのだろう」

そんなふうに、自分のこれからについて考えることもあります。

サルトルが重視したのは、こうして現実の世界に存在し、自分の生き方に向き合いながら生きている人間のあり方です。

人間は、ただそこにあるだけでなく、これからどのように生きるかという問題にも向き合う存在なのです。

「本質」とは?

本質(ほんしつ)とは、そのものが何であるかを決める、基本的な性質やあり方のことです。

例えば、冒頭で紹介したいすには、人が座るための物として、作る人があらかじめ考えた目的や形があります。

つまり、作られる前から「どのような物なのか」という考えがあるのです。

では、人間にも同じように、最初から決められた本質があるのでしょうか。

サルトルは、人間には、生まれる前から決められた目的や、人間はこういう存在であると定める本質があるわけではない、と考えました。

これは、生まれ持った体の特徴や、育つ環境などが存在しないという意味ではありません。

人間にも、生まれたときから自分では選べない条件があります。

しかし、そうした条件があることと、「人間は最初からこういう生き方をする存在だ」と決まっていることは別の問題です。

サルトルが否定したのは、私たちが生き始める前から、人間としてのあり方や目的があらかじめ定められているという考え方なのです。

「先立つ」とは?

先立つ(さきだつ)とは、あることが、別のことよりも先にあるという意味です。

ただし、「実存は本質に先立つ」という言葉では、単に「先に生まれて、あとから性格が決まる」という時間の順番だけを表しているのではありません。

サルトルは、人間について考えるとき、最初から決められた本質を出発点にするのではなく、まず現実に生きている人間がいて、その人の選択や行動によって、自分が何者であるかが形づくられていくと考えました。

例えば、「人に優しくできる人になりたい」と考えたとします。

そう思っていても、実際に誰かが困っている場面では、声をかけようか迷うこともあるでしょう。

そんなとき、どのように考え、何を選び、どう行動していくのか。

その一つひとつの選択や行動が、自分がどのような人間になっていくのかに関わっていきます。

もちろん、一度の行動だけで、その人のすべてが決まるわけではありません。

大切なのは、「こういう人間になりたい」と思うことだけではなく、現実の中でどのように生きていくのかということです。

これは、サルトルの考え方を理解しやすくするために、身近な生活に置き換えた例です。

3つの言葉を合わせると、何がわかるのでしょうか?

ここまでの説明を整理してみましょう。

人間は、まず現実の世界に存在しています。

そして、さまざまな経験をしながら、自分で選び、行動することを通して、自分がどのような人間なのかを形づくっていきます。

サルトルは、人間を、最初から決められた本質に従って生きるだけの存在だとは考えませんでした。

つまり、「実存は本質に先立つ」とは、あらかじめ決められた人間の本質が先にあるのではなく、現実に生きる人間が、選択と行動を通して自分のあり方を形づくっていく、という考え方なのです。

この言葉を本でもう少し詳しく確かめてみたい方は、記事の後半にある

「さらに学びたい人へ」で、

読みやすい入門書やサルトル自身の著作も紹介しています。

では、サルトルはなぜ、人間についてこのように考えたのでしょうか。

その背景には、サルトルが人間の存在について考えるときに大切にした哲学的な問題や、彼が生きた時代があります。

次の章では、サルトルという人物と、その考えが広く知られるようになった背景をたどっていきましょう。

2 『サルトル』とはどんな哲学者?

なぜこの言葉を大切にしたのか?

ジャン=ポール・サルトルは、人間の自由や、自分で選んだ行動に伴う責任について深く考えた、20世紀フランスの哲学者・作家です。

正式な名前は、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)。

1905年(明治38年)6月21日にフランスの首都パリで生まれ、1980年(昭和55年)4月15日に同じパリで亡くなりました。

哲学の研究だけでなく、小説や舞台で上演する劇も書き、人間が生きることについて、さまざまな形で問いかけた人物です。

特に、実存主義(じつぞんしゅぎ)を代表する哲学者として知られています。

実存主義とは、人間を最初から決められた性質だけで説明するのではなく、現実に生きている一人ひとりに目を向け、自由や選択、責任などを考える哲学の流れです。

ただし、実存主義にはさまざまな考え方があり、すべての哲学者がサルトルと同じ立場だったわけではありません。

なぜサルトルは、人間の本質について考えたのか?

その考えを理解するうえで重要なのが、サルトルの無神論(むしんろん)という立場です。

無神論とは、神は存在しないと考える立場のことです。

サルトルは、神が人間を作り、人間はどのような存在であるべきかを、あらかじめ決めているとは考えませんでした。

少し身近な例で考えてみましょう。

物語を書く作家は、登場人物に役割を与えたり、その人物がどのような人生を歩むのかを決めたりできます。

しかし、現実の人間についても、物語の作者のように、その生き方をあらかじめ決めている存在がいるのでしょうか。

サルトルは、人間の本質や生き方を最初から決めた神が存在するとは考えませんでした。

そのため、人間がどう生きるべきかについても、神が用意した答えに従えばよいとは考えなかったのです。

では、人間は何をもとに自分の生き方を決めるのでしょうか。

サルトルは、人間自身が現実の状況の中で選び、行動し、その選択に責任を負うことを重視しました。

この考えが、第1節で説明した「実存は本質に先立つ」という主張を支える重要な部分になっています。

なお、これはサルトルの哲学上の立場です。神の存在について証明された事実という意味ではなく、実存主義の哲学者にも神を信じる立場の人がいました。

この考えが広まった時代には、何があったのか?

サルトルが研究を進めていた20世紀前半には、第二次世界大戦(1939〜1945年)が起こりました。

フランスもドイツ軍による占領を経験し、多くの人々が戦争の影響を受けました。

サルトル自身も軍隊に動員され、1940年(昭和15年)にはドイツ軍に捕らえられ、捕虜(ほりょ)となりました。

捕虜とは、戦争で相手の軍隊に捕らえられ、自由に帰ることができなくなった人のことです。

このような時代は、人間が自分の思いどおりに生きられるとは限らない現実を、強く意識させる時代でもありました。

ただし、「実存は本質に先立つ」という考えが、戦争によって初めて生まれたわけではありません。

サルトルは戦争前から、人間の意識や存在について研究を続けていました。

そして1943年(昭和18年)、『存在と無(そんざいとむ)』という哲学書を出版します。

これはサルトルが、人間の意識は物の存在とどのように違うのか、人間はなぜ自由なのか、といった問題を詳しく論じた本です。

さらに、第二次世界大戦が終わった1945年(昭和20年)10月29日、サルトルはパリで実存主義について講演しました。

当時、実存主義に対しては、「人間の暗い面ばかりを見ているのではないか」「何をしても自由だという考えになってしまうのではないか」といった批判がありました。

サルトルは、そのような批判に答えるため、自分の考える実存主義がどのような哲学なのかを説明したのです。

彼が強調したのは、実存主義は人間が何もせずに悩んでいるだけの考え方ではなく、自分の行動を通して生き方を形づくり、その行動に責任を持つことを重視する哲学であるという点でした。

この講演の記録は、翌1946年(昭和21年)にフランスで書籍として刊行され、日本では『実存主義とは何か(じつぞんしゅぎとはなにか)』という題で知られています。

これは、サルトルが実存主義に寄せられた批判に答えながら、その考えを一般の人々にも伝えようとした内容を収めた本です。

こうして、サルトルの実存主義は広く知られるようになりました。

サルトルが、この言葉を通して伝えたかったこと

ここまでを振り返ると、サルトルがなぜ人間の自由や生き方を重視したのかが見えてきます。

サルトルは、神によって決められた人間の本質を前提にするのではなく、現実の世界で生きる人間自身の選択や行動から、そのあり方を考えようとしました。

そして、自由を単に「好きなことができる」という意味ではなく、責任とも結びつけて考えたのです。

つまり、サルトルは、人間が自分の置かれた状況の中でどう選び、行動し、その責任にどう向き合うのかを大切にした哲学者だったのです。

では、サルトルは、物が存在していることと、人間が自分や世界について意識しながら存在していることを、どのように区別したのでしょうか。

次は、物がそれ自体として存在するあり方を表す「即自存在」と、自分や世界に向き合う意識のあり方を表す「対自存在」について、詳しく見ていきましょう。

3 『即自存在』と『対自存在』

サルトルは、物がそれ自体として存在するあり方を「即自存在」、物事に気づき、今ある状態とは違う可能性にも向かう意識のあり方を「対自存在」と呼び、区別しました。

これは、サルトルが著書『存在と無』で詳しく論じた、人間の存在を理解するための重要な考え方です。

ここで考えたいのは、単に「物と人間は何が違うのか」ということだけではありません。

物がそこに存在していることと、人間が何かを意識しながら存在していることには、どのような違いがあるのか。

その違いを、一つずつ見ていきましょう。

『即自存在』とは?|物がそれ自体として存在するあり方

即自存在(そくじそんざい)とは、私たちが何かを考えたり、意識したりすることとは別に、物がそれ自体として存在しているあり方です。

フランス語では être-en-soi(エートル・アン・ソワ、おおよそ「それ自体としてある存在」)といいます。

例えば、校庭に一つの石が落ちているとします。

その石には形や重さがあり、誰かが見ていなくても、そこに存在しています。

雨が降ればぬれることもありますし、誰かが拾えば場所が変わることもあります。

しかし、石自身が、

「今日はここにいたくないな」

「明日は別の場所に行こうかな」

と考えて、自分のあり方を選んでいるわけではありません。

石は周りの出来事によって変化することはあっても、自分自身について考えたり、今の自分とは違う可能性を思い描いたりするわけではないのです。

サルトルがいう即自存在は、このような、物がそれ自体として存在しているあり方を表しています。

ここで注意したいのは、即自存在とは「人間が作った物」や「変化しない物」という意味ではないことです。

自然にある石も例になりますし、石の形が変わっても、それだけで人間の意識のようなあり方になるわけではありません。

『対自存在』とは?|今ここにないものにも気づく意識

一方、サルトルは、人間の意識には、物が存在するあり方とは違う特徴があると考えました。

対自存在(たいじそんざい)とは、物事や自分自身に向かい、今ある状態だけでなく、そこにないものや、まだ実現していない可能性にも関わる意識のあり方です。

フランス語では être-pour-soi(エートル・プール・ソワ、おおよそ「自分自身に対してある存在」)といいます。

「意識(いしき)」とは、例えば、目の前に何があるかに気づいたり、音を聞いたり、何かを考えたりしている働きのことです。

ただし、サルトルが考えた意識は、自分のことをじっくり考える働きだけではありません。

ここで、身近な例を考えてみましょう。

放課後、友達と教室で待ち合わせをしていたとします。

約束した時間に教室へ行くと、机やいすはいつもどおり並んでいます。

けれども、待ち合わせをした友達の姿が見当たりません。

そのとき、あなたは、

「友達がいないな」

と気づくでしょう。

目の前には机やいすがありますが、あなたが気づいたのは、そこにいるはずの友達が「いない」ということです。

サルトルは『存在と無』の中で、喫茶店に待ち合わせ相手がいないことに気づく例を使い、このような意識の働きを考えています。

ここでは、その考えをわかりやすくするために、学校の場面に置き換えました。

では、友達がいないと気づいたあと、どうなるでしょうか。

「もう少し待ってみよう」

「別の場所にいるのかもしれない」

そんなふうに、今の状況とは違う可能性を考えることもできます。

サルトルが重視したのは、意識が目の前にある物事に向かうだけでなく、「そこにはない」「まだそうなっていない」ということにも関わる点です。

哲学では、このような「ない」ということを考える際に、「無(む)」や「否定(ひてい)」という言葉が使われます。

ここでの「無」は、世界に何も存在しないという意味ではありません。

また、「否定」は、相手の意見を悪く言うという意味でもありません。

目の前にあるものに対して、「ここには友達がいない」「今はまだ約束を果たせていない」というように、現実にないものや、現実とは違う状態を捉えることが関係しているのです。

サルトルは、こうした意識の働きを、人間の自由を考えるための重要な手がかりにしました。

人間は、対自存在だけで説明できるの?

ここで、もう一つ大切なことがあります。

即自存在と対自存在は、単純に「物」と「人間」を二つに分けるための名前ではありません。

対自存在が表すのは、特に人間の意識のあり方です。

しかし、人間には意識だけでなく、体があり、これまでに経験した過去もあります。

例えば、昨日転んでけがをしたという事実は、今日「けがをしなかったことにしよう」と考えるだけでは変えられません。

私たちには、このように、すでに起きていて、自分の考えだけでは変えられない事実もあるのです。

そのため、人間のすべてを対自存在だけで説明することはできません。

それでも、私たちは今の状態に気づき、そこから何ができるかを考えることがあります。

サルトルは、今ある事実に囲まれながらも、意識が現在の状態だけにとどまらず、別の可能性に向かうことを重視しました。

もちろん、可能性を思い描けることと、そのすべてを実現できることは別の問題です。

即自存在と対自存在の違いから、何がわかるのか?

ここまでの内容を整理しましょう。

即自存在とは、物がそれ自体として存在するあり方です。

対自存在とは、物事に向かい、今あるものだけでなく、そこにないものや、まだ実現していない可能性にも関わる意識のあり方です。

この違いは、第1節で紹介した「実存は本質に先立つ」という考え方にも関わっています。

サルトルは、人間の意識を、決められた性質を持つ物のように、今の状態だけで完全に説明できるものとは考えませんでした。

意識は、自分の現在の状態にも向き合い、そこから違う可能性を考えることができるからです。

つまり、サルトルが区別した即自存在と対自存在からわかるのは、人間の意識には、今ある現実に向き合いながら、まだ実現していない可能性へ向かうという特徴があることです。

しかし、可能性を考えられることと、実際に何を選ぶかは別の問題です。

自分で選ぶということには、どのような責任が伴うのでしょうか。

次は、サルトルが語った「自由の刑に処せられている」という言葉から、自由と責任の関係を詳しく見ていきましょう。

4 『自由の刑に処せられている』とは?

「人間は自由の刑に処せられている」とは、人間は自分が生まれることを選んだわけではないのに、生きていく中で自ら判断し、選んだ行動の責任に向き合わなければならないという、サルトルの考え方です。

「自由」と聞くと、好きなことができたり、自分で何かを決められたりする、うれしいものだと感じるかもしれません。

それなのに、なぜサルトルは「刑」という言葉を使ったのでしょうか。

なぜ自由であることが「刑」なのか?

サルトルは、第2節で紹介した『実存主義とは何か』の中で、人間は自由の刑に処せられていると述べています。

ここでの「刑」は、何か悪いことをした罰という意味ではありません。

自分が自由な存在であることを、自分の意思でやめることはできない。

その避けられない自由を、まるで背負わされたもののように表現しているのです。

私たちは、自分がこの世界に生まれることを選んだわけではありません。

それでも、この世界で生きている以上、何を大切にし、どう行動するかという問題に向き合うことになります。

誰かに相談することも、周囲の意見を参考にすることもできます。

しかし、サルトルの考えでは、人間がどう生きるべきかについて、最初から用意された絶対的な答えがあるわけではありません。

だからこそ、人間は自分の判断や行動に責任を持つ存在だと、サルトルは考えたのです。

サルトルが紹介した、戦争中の青年の悩み

では、自分で選ぶことには、どのような難しさがあるのでしょうか。

サルトルは『実存主義とは何か』の講演で、自分に相談してきたという一人の青年の話を紹介しています。

第二次世界大戦中、その青年は二つの選択の間で悩んでいました。

一つは、フランスを占領したドイツ軍と戦うため、自由フランス軍に加わることです。

自由フランス軍とは、当時、ドイツ軍によるフランスの占領に対抗して戦っていた人々の軍隊です。

もう一つは、家に残って母親を支えることでした。

青年の母親は、すでにもう一人の息子を戦争で亡くしており、残された青年を心の支えにしていました。

青年には、国のために戦いたいという思いも、母親を一人にしたくないという思いもあったのです。

国のために戦うことと、母親のそばで支えること。どちらにも、青年が大切だと考える理由がありました。

では、青年は何を選べばよかったのでしょうか。

サルトルがこの話を紹介したのは、どちらか一方が必ず正しいと教えるためではありません。

人を大切にするという考え方があっても、実際の生活では、何を優先すべきか簡単に決められない場合があります。

青年は、自分が大切にしたいことを考え、どちらかの道を選ばなければなりませんでした。

サルトルは、このような選択において、誰もが従えば必ず正しい答えにたどり着けるような決まりが、あらかじめ与えられているわけではないと考えました。

そして、何を選ぶのかを考え、その選択を引き受けることが、人間の自由に伴う責任なのです。

自由に伴う「責任」とは?

ここでいう責任は、失敗したら罰を受けるという意味だけではありません。

サルトルは、人間が何かを選ぶとき、自分がどのような生き方を大切にするのかも、その選択によって示していると考えました。

先ほどの青年の例に戻ってみましょう。

国のために戦う道を選んだ場合、そこには、国のために行動することを大切にしたいという考えがあります。

母親のそばに残る道を選んだ場合には、目の前の大切な人を支えることを重視する考えがあります。

もちろん、どちらかを選んだからといって、もう一方を大切に思っていないとは限りません。

それでも、実際に何を選ぶかには、その人が何を大切にしようとしているのかが表れます。

サルトルはさらに、人間の選択は自分一人だけの問題ではないと論じました。

自分の行動は、「人間はどのように生きるべきか」という考えにも関わるため、他の人々に対する責任も伴うと考えたのです。

これは、誰もが自分と同じ選択をしなければならない、という意味ではありません。

自分がよいと考えて選ぶ生き方には、自分だけでなく、人間の生き方全体に関わる意味もあるという、サルトルの主張です。

なぜ、自由には不安も伴うのか?

サルトルは、自分の選択を最初から正しいと保証してくれる答えがない中で、責任を引き受けることに伴う不安を重視しました。

ここでいう「不安」は、単に何かが怖いという気持ちだけではありません。

例えば、高い場所に立っていて、落ちてしまうことが怖いと感じる場合があります。

それに対して、自分がどう行動するかを決めなければならないと気づいたときには、別の種類の不安が生まれることがあります。

「自分は、何を選ぶのだろう」

「この選択を、自分は本当に引き受けられるのだろうか」

そのように、自分自身が選ぶ立場にあり、その選択を他の誰かに完全に任せることはできないと気づくことが、サルトルの考えた不安と深く関わっています。

先ほどの青年にも、どちらを選べば間違いなくよい結果になるか、わかっていたわけではありません。

だからといって、何も考えずに選べばよいということでもありません。

自分が大切にすることを考えながら、選択に向き合う必要があるのです。

ただし、サルトルが不安を重要な問題として考えたからといって、不安を感じること自体がよい生き方の条件になるわけではありません。

また、不安があるから何もできない、という意味でもないのです。

サルトルは、人間が不安を抱えながらも、現実の中で行動することを重視しました。

自由とは、何でも思いどおりにできることなのか?

ここで、誤解しないために大切なことがあります。

サルトルのいう自由は、何でも好きなことを選べて、望んだ結果を必ず実現できるという意味ではありません。

第3節では、人間には体があり、過去の出来事など、自分で変えられない事実もあることを説明しました。

サルトルの哲学には、こうした、すでに与えられている現実の条件を表す「事実性(じじつせい)」という言葉があります。

例えば、どこで生まれたのか、これまで何を経験してきたのかは、自分の考えだけで変えることはできません。

また、病気や経済的な事情、社会の制度などによって、実際に選べる行動が大きく限られることもあります。

サルトルの自由論では、こうした現実の条件の中で、人間が何を目指し、どのように行動するのかが問題になります。

自分で選べない条件があることと、その条件の中で何を選べるのかを考えることは、区別する必要があります。

ここで注意したいのは、この哲学を「何が起きてもすべて本人の責任だ」という考えにしてしまわないことです。

例えば、他人から傷つけられたり、自分では避けられない不利益を受けたりした人に、「あなたが自由に選んだ結果でしょう」と責任を押しつけるのは適切ではありません。

これはサルトルの自由と責任を現代の生活で紹介するときに、誤解を避けるための大切な注意点です。

自由について考えるときには、本人が実際に選べたことと、本人には選べなかったことを丁寧に区別する必要があります。

自由の刑に処せられているとは、結局どういうこと?

ここまでを振り返ると、サルトルがなぜ自由を「刑」という言葉で表現したのかがわかります。

人間は、自分が生まれることを選んだわけではありません。

それでも、現実の中でどう生きるかという問題に向き合い、自分の選択や行動の責任を引き受ける存在だと、サルトルは考えました。

その選択には、あらかじめ絶対の答えがあるとは限らず、不安が伴うこともあります。

つまり、「自由の刑に処せられている」とは、人間は自由であることを避けられず、自分がどう生きるかという選択と、その責任に向き合わなければならないという、サルトルの考えを表した言葉なのです。

では、こうした自由と責任の考え方は、今を生きる私たちにも、どのような関係があるのでしょうか。

次は、サルトルが生きた時代と現在の違いを踏まえながら、この哲学を私たちの日常に引き寄せて考えていきましょう。

5 今の生活とどうつながる?

「実存は本質に先立つ」という言葉は、今までの経験や周りからの期待だけで、これからの自分を決めつけていないか、考える手がかりになります。

私たちは、生活の中で「自分はこういう人間だ」と考えることがあります。

それは、これまでの経験から自分を知るために役立つこともあるでしょう。

けれども、今までの自分の姿が、これからの自分のすべてを決めているのでしょうか。

サルトルの哲学を知ると、そんな身近な疑問についても、違う角度から考えることができます。

サルトルが生きた時代と今では、何が違うのか?

第2節で紹介したように、サルトルが実存主義について講演したのは、第二次世界大戦が終わった1945年(昭和20年)のことでした。

戦争や占領を経験した当時のフランスでは、人間の自由や責任について考えることが、切実な意味を持つ時代でもありました。

一方、現在の日本で生活する私たちが直面する問題は、学校、仕事、家族との関係など、当時とは異なる場合も多くあります。

では、時代が変わったことで、サルトルの考え方も変わったのでしょうか。

サルトルが1945年に伝えた「実存は本質に先立つ」という言葉は、時代が変わったからといって、別の意味になったわけではありません。

ただし、サルトル自身の研究は、その後も続きました。

初期には人間の自由を強く論じていたサルトルですが、その後は、社会の仕組みや歴史、生活の条件が、人間の選択にどのように関わるのかも、さらに詳しく考えるようになりました。

例えば、自分が何かをしたいと思っても、家庭の事情やお金の問題、社会の決まりなどによって、実際にできることが限られる場合があります。

このような問題も、人間の自由を考えるうえで重要なのです。

なお、サルトルが以前の考え方を大きく変えたのか、それとも、もともとの考えをさらに深めたのかについては、研究者の間でも議論があります。

大切なのは、自由について考えるとき、自分の意思だけでなく、実際に置かれている状況にも目を向けることです。

現在も、こうした自由と社会の関係は、哲学で考え続けられている問題の一つです。

それでは、これまで学んだサルトルの哲学を、私たちの生活に置き換えると、どのようなことが考えられるでしょうか。

ここから紹介するのは、サルトル本人が直接述べた例ではなく、この記事で日常へのつながりを考えるために作った例です。

「自分には向いていない」と思ったとき

例えば、学校の図工の授業で、思ったように作品を作れなかったとします。

「やっぱり自分は不器用なんだ」

そんなふうに感じることがあるかもしれません。

でも、一度うまくできなかったことだけで、これからもずっと同じ結果になると決まっているのでしょうか。

もう一度挑戦してみることも、先生や友達に教えてもらうこともできます。

別の作り方を試したり、自分が得意なことを見つけたりする道もあるでしょう。

もちろん、どれを選んでも必ずうまくいくとは限りません。

苦手なことが残る場合もあります。

それでも、「今は苦手だ」という事実と、「これからも自分は絶対に変わらない」という決めつけは、同じではありません。

サルトルの哲学を日常に引き寄せるなら、今までの経験を大切にしながらも、それだけで未来の自分まで決めていないか、と考えることができます。

周りから期待される自分と、やりたいことが違ったとき

例えば、学校のグループ活動で、いつも絵を描く役を任されている子がいたとします。

周りの友達は、「絵が得意だから、今回もお願いね」と言ってくれます。

けれども、その子は今回は文章を書く役にも挑戦してみたいと思っていました。

そんなとき、どう考えればよいのでしょうか。

「みんなが期待しているから、いつもどおりにしよう」と考えることもあるでしょう。

一方で、「今回は文章も書いてみたい」と、自分の気持ちを伝えてみることもできます。

友達と相談して、役割を分ける方法もあるかもしれません。

ここで考えたいのは、周りの期待に従うことが必ず間違いだ、ということではありません。

周りから期待されている役割だけが、自分のすべてを決めるわけではないということです。

自分がどうしたいのかを考えながら、友達の気持ちやグループの事情にも目を向ける。

そうすることで、自分にとって何を大切にしたいのか、少しずつ見えてくることもあるでしょう。

これから何をしたいのか、まだわからないとき

例えば、学校で新しいクラブ活動を選ぶことになったとします。

運動するクラブも楽しそうですし、絵を描くクラブにも興味があります。

けれども、どちらが自分に合っているのか、まだわかりません。

そんなとき、すぐに一つの答えを見つけなければならないのでしょうか。

実際には、活動内容を調べたり、先生に聞いたり、見学できるなら見学してみたりする方法があります。

その中で、思っていたことと違うと気づくこともあるでしょう。

また、参加してみて初めて、自分が好きなことに気づく場合もあるかもしれません。

自分が何をしたいのか、最初からすべてわかっている必要はありません。

ただし、これもサルトルが「迷ったときは必ず試してみなさい」と教えた、という意味ではありません。

わからないことを調べ、周りの人の話を聞き、今の状況でどのような選択ができるのかを考える。

そうした過程も、自分の生き方について考える手がかりになるのではないでしょうか。

この言葉を知った私たちは、何を考えればよいのか?

ここまで、3つの身近な場面から考えてきました。

どの場面にも共通しているのは、今までの経験や周りの意見が、自分のこれからを考えるうえで大切な材料になるということです。

しかし、それらが、これからの自分のすべてを決めるわけではありません。

サルトルの哲学は、人生の悩みに必ず正しい答えを出してくれる方法ではありません。

また、何かに挑戦することだけが正しく、今のままでいることが間違いだという意味でもありません。

自分で選べることが限られる場合もあれば、周りの助けが必要な場合もあります。

だからこそ、今の自分や置かれた状況を見つめながら、「自分は何を大切にしたいのだろう」と考えることが、一つの手がかりになります。

私は、この哲学を日常に引き寄せることで、「今の自分を知ること」と「これからの自分を決めつけること」は違うのではないかという問いを持つことができると考えます。

これは、サルトル本人の言葉をそのまま言い換えたものではなく、彼の考えをもとにした記事上の受け止め方です。

つまり、「実存は本質に先立つ」という言葉は、今までの自分だけでこれからの可能性を決めつけず、現実の状況や周りの人との関係にも目を向けながら、自分がどう生きたいのかを考える手がかりになるのです。

ただし、この言葉を正しく理解するには、間違えやすい考え方にも注意する必要があります。

次は、「実存は本質に先立つ」について、特に誤解されやすい点を一つずつ確認していきましょう。

6 よくある誤解

「実存は本質に先立つ」を正しく理解するには、人間の自由を大切にしながらも、現実の条件や、選択に伴う責任を区別して考えることが重要です。

ここまで、サルトルが考えた人間の存在や自由について紹介してきました。

しかし、この言葉は「何にでもなれる」「自分の好きなように生きればよい」といった意味に受け取られてしまうことがあります。

そこで、特に間違えやすい5つの点を確認しておきましょう。

人間は、何も持たずに生まれてくるという意味?

人間には生まれ持った特徴や、最初から置かれている環境があります。「実存は本質に先立つ」は、それらが存在しないという意味ではありません。

例えば、私たちは自分が生まれる場所や、生まれ持った体の特徴を自由に決められるわけではありません。

育つ環境や、これまで経験してきた出来事も、その人に影響を与えます。

サルトルが問題にしたのは、そうした特徴や条件があるかどうかではありません。

人間には、最初から「こういう存在でなければならない」と決められた本質があるのか、ということです。

生まれ持った特徴や環境があることと、人間としてのあり方が最初からすべて決まっていることは、別の問題なのです。

自由なのだから、努力すれば誰でも何にでもなれる?

サルトルの自由は、努力すれば必ず望みどおりになれるという意味ではありません。

例えば、泳ぐことが好きで、大会に出たいと思ったとします。

一生懸命練習することはできますが、体の状態や練習できる環境などによって、出場が難しい場合もあります。

努力が大切であっても、その結果が必ず約束されるわけではありません。

サルトルが重視したのは、何でも実現できる能力ではなく、現実の状況の中で、人間が何を目指し、どう行動するのかという自由です。

自分で何かを選ぶことと、選んだ結果を必ず実現できることは違います。

自由なのだから、何をしても許される?

サルトルは、人間の自由を、他人のことを考えずに好き勝手に行動してよいという意味では考えませんでした。

サルトルは『実存主義とは何か』の中で、自分の自由を大切にしようとするとき、他の人の自由も大切にしなければならないと論じています。

なぜ、他の人の自由まで関係するのでしょうか。

私たちは、自分一人だけで生活しているわけではありません。

例えば、友達と遊ぶとき、自分がやりたい遊びだけを押し通せば、友達がやりたいことを選ぶ機会を奪ってしまうかもしれません。

自分の希望を伝えることも、友達の希望を聞くことも大切です。

もちろん、この遊びの例はサルトル自身の説明ではなく、理解を助けるために考えたものです。

サルトルは、自由をめぐる問題を、自分一人の生き方だけでなく、他の人々との関係にも結びつけて考えました。

自分の自由を大切にすることは、他の人の自由を無視してよいということではないのです。

人生の目的を早く決めなければならない?

「実存は本質に先立つ」は、将来の夢や人生の目的を早く決めなければならないという教えではありません。

将来やりたいことが、すでに決まっている人もいるでしょう。

反対に、いろいろなことに興味があり、まだ一つに決められない人もいると思います。

サルトルは、人間のあり方を、最初から決められた目的だけで説明できるとは考えませんでした。

そして、人間が実際にどう生きるのか、どのような選択や行動をするのかを重視しました。

だからといって、早く目標を見つけなければならないという決まりが生まれるわけではありません。

ただし、目標を決めていなくても、日々の生活の中で何かを選び、行動していることはあります。

将来の目標が決まっているかどうかだけで、その人がどのような人間なのか、すべてが決まるわけではありません。

これは、サルトルの哲学を日常に引き寄せたときに考えられることです。

つらい状況も、すべて自分で選んだ結果なの?

サルトルが強く論じた選択への責任と、本人が選んでいない出来事まで、すべて本人のせいにすることは区別する必要があります。

ここは、特に注意したい部分です。

サルトルは『実存主義とは何か』の中で、人間は自分が行うことに責任を負うと、非常に強い言葉で述べています。

また、置かれた状況をどう受け止め、何を選ぶのかという問題も重視しました。

これは、サルトルの自由について考えるうえで欠かせない主張です。

しかし、その考えを現実の生活に当てはめるときには、慎重さも必要です。

例えば、誰かからひどい言葉を言われたり、不公平な扱いを受けたりした場合を考えてみましょう。

その出来事にどう対応するかを考えることと、その出来事が起きた原因をすべて本人に求めることは違います。

病気や貧困、他人から受けた被害などには、自分では選べなかった事情や、社会の仕組みが関係している場合もあります。

サルトルの自由論は、人間にどこまで責任を求めるのかという点で、現在も研究や議論の対象になっています。

そのため、ここからはこの記事としての注意点です。

人間の自由を考えることは、他人の苦しみを本人の責任だと決めつける理由にはなりません。

実際に選べたことと、本人には選べなかったことを区別し、その人が置かれている状況にも目を向ける必要があります。

これは、サルトル本人がこの形で述べた結論ではなく、彼の哲学を現代の日常に結びつける際に、この記事が大切にしたい考え方です。

よくある誤解を整理すると

ここまで、5つの間違えやすい点を確認してきました。

サルトルは、人間が自分の生き方を選ぶ自由を持つことを重視しました。

しかし、それは何でも思いどおりにできるという意味ではありません。

また、人間には自分では選べない条件があり、自由と責任をどう理解するべきかについても、さまざまな議論があります。

つまり、「実存は本質に先立つ」を理解するには、人間は現実の条件の中で選択し、行動を通して自分のあり方を形づくるという、サルトルの考えを押さえることが大切なのです。

ここまで、言葉の意味から、サルトルの考え、自由と責任、日常とのつながり、そして誤解しやすい点までをたどってきました。

次は、これらの内容を振り返りながら、この哲学を知ったことで私自身がどのようなことを考えたのか、お伝えしたいと思います。

7 まとめ・考察

今回紹介した「実存は本質に先立つ」は、人間には生まれる前から決められた本質があるのではなく、現実の中で選び、行動することを通して、自分のあり方を形づくっていくというサルトルの考え方でした。

そして、サルトルは、その自由には責任や不安も伴うと考えました。

ただし、私たちは何でも思いどおりにできるわけではありません。生まれた環境や過去など、自分では選べない条件もあります。

こうした考え方を知ったとき、私は「自分がどのような人間なのか」という問いについて、もう一つ違った見方ができるのではないかと考えました。

ここからは、サルトルの哲学をもとにした、私自身の考察です。

自分を説明する言葉と、実際の行動は同じなのだろうか?

例えば、誰かから「あなたはどんな人ですか?」と聞かれたとします。

「私はおとなしい人です」

「私は約束を大切にする人です」

そんなふうに、自分の性格や大切にしていることを答えるかもしれません。

けれども、「私は約束を大切にする人です」と考えていることと、実際に約束を大切にして行動することは、同じなのでしょうか。

例えば、友達との約束に遅れそうになったとき。

相手に連絡をするのか、何も言わずにいるのか。

事情によっては、連絡することさえ難しい場合もあるでしょう。

それでも、実際にどのような状況で、何を考え、どう行動したのかは、その人のあり方を考えるうえで大切なことだと思います。

もちろん、一度約束を守れなかったからといって、その人のすべてが決まるわけではありません。

私は、ここに「実存は本質に先立つ」という哲学の興味深さがあるように感じます。

自分がどのような人間なのかは、自分につけた言葉だけでなく、現実の中で何を大切にし、どう行動するかにも表れるのではないでしょうか。

自分だけでなく、他人を見る目も変わるかもしれない

もう一つ、私が考えたことがあります。

それは、この哲学が自分自身だけでなく、他の人をどう見るかという問題にもつながるのではないか、ということです。

例えば、誰かが一度失敗した姿を見て、「あの人はいつも失敗する人だ」と考えてしまったことはないでしょうか。

その人が実際に失敗したという事実は変わりません。

けれども、その一度の出来事だけで、これからのその人のすべてが決まっていると言えるのでしょうか。

反対に、いつも頼りにしている人にも、苦手なことや、助けが必要なときがあるかもしれません。

私たちは、自分自身についてだけでなく、他の人についても、これまでに見てきた姿から「こういう人だ」と考えることがあります。

もちろん、過去の行動を無視してよいわけではありません。

相手の行動によって傷つけられたなら、距離を置いたり、自分を守ったりすることも大切です。

それでも私は、今までに知っているその人の姿だけで、これからの可能性まで決めつけないという見方もできるのではないかと考えます。

これはサルトル自身が、この形で伝えた教えではありません。

人間のあり方は、最初から決められたものではないという考えを、他人との関わりにも広げてみた、私自身の受け止め方です。

この言葉を知った私たちは、何を考えられるのだろうか?

「自分はこういう人間だから」

そう思うことが、これからもあるかもしれません。

そのとき、少しだけ考えてみたいことがあります。

「その言葉は、今までの自分を理解するための言葉だろうか。それとも、これからの自分まで決める言葉にしているのだろうか?」

私は、まずこの二つを分けて考えてみることが、一つの手がかりになると思います。

今までの自分を否定する必要はありません。

無理に新しいことへ挑戦したり、すぐに生き方を変えたりする必要もないでしょう。

ただ、自分がどのような状況にいて、何を大切にしたいのかを考えてみる。

そして、自分が実際に選べることがあるなら、その選択が自分や周りの人にとって、どのような意味を持つのかにも目を向けてみる。

そのように考えることで、これまでとは少し違う形で、自分の生き方を見つめられるかもしれません。

つまり、私が「実存は本質に先立つ」という言葉から考えたのは、人間は過去や現在の姿だけで説明しきれる存在ではなく、現実の条件の中で何を選び、どう行動するかという問いを持ち続けられるのではないか、ということです。

それは、自分自身にも、他の人にも向けられる問いなのだと思います。

おまけコラム

サルトルが断ったノーベル文学賞

世界的に有名な賞に選ばれたら、あなたならどうしますか?

きっと驚いたり、喜んだりする人も多いのではないでしょうか。

ところが、哲学者ジャン=ポール・サルトルは、世界でも特に有名な賞の一つである「ノーベル文学賞」に選ばれながら、その受け取りを断った人物なのです。

しかも、その理由を調べてみると、単に「賞には興味がなかった」という話ではありませんでした。

世界的な賞に選ばれたのに、なぜ断ったの?

1964年(昭和39年)、サルトルはノーベル文学賞に選ばれました。

ノーベル文学賞とは、小説や詩、劇などを含む文学の分野で、優れた功績を残した人をたたえる国際的な賞です。

サルトルは哲学書だけでなく、小説や劇も書いており、その作品や思想が世界に与えた影響を高く評価されました。

ところが、サルトルは賞を受け取らないと表明したのです。

実は、彼は受賞者が発表される前から、自分が選ばれるかもしれないことを知っていました。

そして、賞を選ぶスウェーデン・アカデミーという機関に、自分を選ばないでほしいという手紙まで送っていたのです。

スウェーデン・アカデミーとは、スウェーデンにある、ノーベル文学賞の受賞者を選ぶ役割を持つ団体です。

しかし、手紙が届いたときには、すでに選考が進んでおり、受賞者の決定を変えることはありませんでした。

サルトルは、賞の発表を止めることができなかったのです。

「ノーベル賞作家」という肩書がつくのを望まなかった

では、なぜサルトルは、それほど大きな賞を断ろうとしたのでしょうか。

本人は当時の声明で、二つの種類の理由を説明しています。

一つは、作家としての自分の考え方です。

サルトルは、1945年(昭和20年)にも、フランスの国家的な勲章であるレジオン・ドヌール勲章(Légion d’honneur)を辞退していました。

つまり、ノーベル賞だけを特別に嫌っていたわけではなく、以前から公的な名誉を受け取ることに慎重だったのです。

サルトルが心配していたのは、作家が立派な肩書を持つことで、その人の書いた文章が、肩書の力によって受け止められるようになることでした。

例えば、同じ意見でも、普通の作家が述べた場合と、「ノーベル賞作家」が述べた場合では、読む人の感じ方が変わるかもしれません。

サルトルは、作家が自分の言葉によって意見を伝えることを重視していました。

自分の文章は、賞の権威によってではなく、文章そのものとして読まれるべきだ。

彼の説明からは、そのような考え方を読み取ることができます。

もう一つは、当時の政治や文化をめぐる事情です。

1964年は、アメリカとソビエト連邦を中心とする東西の陣営が、政治や考え方の違いから対立していた「冷戦(れいせん)」の時代でした。

サルトルは、自分の政治的な意見が、特定の権威ある団体の立場と結びついて見られることも避けようとしていました。

ただし、サルトルはノーベル賞そのものを否定していたわけではありません。

すでに賞を受け取った作家たちへの尊敬も、声明の中で語っています。

実は、賞金については悩んでいた

ここで、もう一つ意外な事実があります。

サルトルは、賞金を受け取るかどうかについても悩んでいました。

当時のノーベル賞には、25万スウェーデン・クローナの賞金がありました。

スウェーデン・クローナとは、スウェーデンのお金の単位です。

サルトルは、そのお金を受け取り、自分が大切だと考える社会的な活動を支えるために使うことも考えていたのです。

しかし、賞金を受け取ることは、賞そのものを受け入れることにもつながります。

そのため、最終的には賞金も辞退しました。

つまり、彼は何の迷いもなく、簡単に大きな賞を断ったというわけではありません。

自分の考えを守りたいという思いと、賞金を役立てられるかもしれないという思い。その間で悩んだことも、本人の声明から確認できるのです。

断ったのに、今も「受賞者」になっている?

そして、この出来事には、もう一つ面白い点があります。

サルトルはノーベル文学賞を辞退しましたが、ノーベル賞の公式サイトでは、現在も1964年の文学賞受賞者として記録されています。

サルトルは正式発表の前に、自分を選ばないでほしいという手紙を送っていましたが、選考結果を変えるには間に合いませんでした。そのため、本人は賞を受け取らなかったものの、1964年のノーベル文学賞受賞者として名前が公式記録に残り、辞退した事実も公式記録に明記されています。

つまり、サルトルは賞の受け取りを断りましたが、賞を授与する側が行った受賞者の決定そのものが消えたわけではないのです。

これは、少し不思議な話ではないでしょうか。

この出来事から、何を考えられるだろう?

ここからは、今回の実話を読んで考えた、おまけの考察です。

普通ならうれしいと思えるような賞でも、別の人にとっては、簡単には受け取れない理由があるのかもしれません。

そして、サルトルのように強い考えを持っていた人でも、その決断の中には迷いがありました。

もちろん、ノーベル賞を断ったことが正しかったのか、受け取ったほうがよかったのかについては、人によって意見が違うでしょう。

私が興味深いと感じたのは、世界的に有名な哲学者にも、自分が大切にしたいことを考えながら、難しい決断をした現実の姿があったということです。

哲学書の中では難しい言葉を使って人間の自由について考えていたサルトル。

その一方で、彼自身の人生にも、こうした意外な出来事があったのですね。

さらに学びたい人へ

「実存は本質に先立つ」という考え方について、もっと知りたいと思った方へ。

哲学を初めて学ぶ子どもから、サルトル本人の言葉を読んでみたい大人まで、理解を深めるための3冊を紹介します。

初学者・小学生にもおすすめ
『自由って、なに?[新版]』 著者:オスカー・ブルニフィエ 翻訳:西宮かおり 監修:重松清

小学生や、身近な疑問から哲学に触れたい人。
本の特徴
「したいことは何でもできる?」「みんながいると自由にできない?」など、自由についての6つの問いを、イラストを交えながら考える本です。
おすすめ理由
今回の記事で紹介した「自由とは何か」という疑問を、子どもにも身近な出来事から考えるきっかけになります。サルトルの専門書ではありませんが、自由にはどのような意味があるのか、親子で話し合うのにもおすすめです。

中級者向け|サルトル本人の言葉を読む
『実存主義とは何か』 著者:ジャン=ポール・サルトル 翻訳:伊吹武彦、海老坂武、石崎晴己

この記事を読んで、サルトル自身がどのように説明したのかを確かめたい人。
本の特徴
第二次世界大戦後に行われたサルトルの講演と討論を収めた本です。「実存は本質に先立つ」「自由の刑に処せられている」といった考え方について、サルトル自身の説明を読むことができます。
おすすめ理由
今回の記事で紹介した哲学の根拠を、本人の言葉から確かめられることが最大の魅力です。専門的な表現もありますが、解説書から一歩進んで原典に触れてみたい方におすすめします。

全体におすすめ|サルトルの生涯と思想を知る
『新装版 人と思想 34 サルトル』 著者:村上嘉隆

サルトルがどんな人生を歩み、どのように哲学を考えていったのかを知りたい人。
本の特徴
サルトルの生涯と思想を紹介する一冊です。「実存は本質に先立つ」に関係する無神論的実存主義や、今回の記事で説明した「即自存在」「対自存在」などについても扱っています。
おすすめ理由
サルトルの考えだけでなく、その人生や時代とのつながりも知ることで、今回の言葉への理解をさらに深められます。
今回の記事を読み終えた大人の方が、サルトルについて次に学ぶ一冊として、特におすすめです。

哲学をもっと学びたいと思ったとき、最初から難しい本を読む必要はありません。

まずは身近な疑問を考える本から始めてもよいですし、哲学者の人生を知ってから、本人の書いた言葉に進んでもよいでしょう。

一つの言葉を理解することから、別の疑問が生まれ、さらに考えが広がっていく。

そんな読書の楽しみも、今回の「実存は本質に先立つ」という言葉を知ったことで、味わっていただけたらうれしく思います。

疑問が解決した物語

翌日の授業。

小学5年生の陽菜(ひな)と蒼太(そうた)は、もう一度「未来の自分」のポスターに向かっていました。

「ねえ、蒼太。昨日、図書室で調べた言葉、少しわかった気がするよ」

陽菜が話しかけます。

「うん。『実存は本質に先立つ』って、生まれたときから自分の生き方が全部決まっているわけじゃない、ということなんだよね」

「そうそう。でも、何でも自分の思いどおりにできるって意味じゃないんだよね」

蒼太は、まだ白い部分が残っているポスターを見つめました。

「僕、将来の夢が決まっていないことが、少し心配だったんだ。でも、今すぐ一つに決めなくても、これから何を大切にしたいかは考えられるんだね」

そう言うと、蒼太はポスターに理科の実験道具と、料理をしている人の絵を描き始めました。

そして、その下に小さく書きました。

「まだ将来の仕事は決まっていない。でも、好きなことをもっと調べてみたい」

それを見た陽菜が、にっこり笑います。

「いいね! 私も動物のお医者さんになりたい気持ちは変わらないけど、もし将来、別の夢ができても、今までの自分が全部なくなるわけじゃないんだよね」

「うん。今まで経験したことも大切だけど、それだけで未来の自分が全部決まるわけじゃないんだと思う」

陽菜は、自分のポスターに書かれた動物のお医者さんの絵を見ながら言いました。

「じゃあ、私は今から、動物のことをもっと勉強してみようかな」

「僕も、理科と料理について、まずは図書室で本を探してみるよ!」

二人は、それぞれのポスターを見つめました。

将来の仕事が決まっている陽菜も、まだ決まっていない蒼太も、これからどんな人間になっていくのか、すべてがわかっているわけではありません。

それでも、今の自分にできることを考え、少しずつ行動することはできます。

「未来の自分」は、最初から決められた答えを見つけるだけではなく、現実の中で選び、行動しながら形づくっていくものなのかもしれません。

もし、あなたも「自分はこういう人間だから」と考えることがあったら、それは今までの自分を表す言葉でしょうか。それとも、これからの自分まで決める言葉になっているでしょうか。

すぐに答えを出す必要はありません。

まずは、今の自分が置かれている状況を知り、何を大切にしたいのか、実際にどのようなことができるのかを考えてみる。

そんなところから、自分自身の未来について考え始めることもできるのではないでしょうか。

文章の締めとして

「将来、どんな自分になっているのだろう」

そんなことを考えても、今はまだ、はっきりした答えが見つからないかもしれません。

これまで大切にしてきたものが、何年たっても変わらないこともあれば、思いがけない出来事や出会いによって、新しいことに興味を持つ日が来るかもしれません。

私たちは、これからの人生に何が待っているのか、すべてを知ることはできません。

けれども、未来がまだわからないからといって、今の自分に何もないわけではないのだと思います。

好きなこと、苦手なこと、これまでに経験してきたこと。そして、これから大切にしてみたいと思うこと。

その一つひとつに目を向けながら、まだ知らない自分について考えてみるのも、素敵なことではないでしょうか。

陽菜と蒼太が描いていた「未来の自分」のポスターのように、私たちの未来にも、まだ何も描かれていない余白が残っているのかもしれません。

その余白を、今すぐ全部埋める必要はないのでしょう。

これからどんな景色に出会い、どんなことを考え、何を大切にしていくのか。

そんな未来への小さな好奇心を、これからも持ち続けていきたいですね。

補足注意

この記事は、筆者が個人で調べられる、確認できる範囲の資料をもとに、サルトルの「実存は本質に先立つ」という考え方をわかりやすく紹介したものです。

サルトルの哲学にはさまざまな解釈や議論があり、この記事で紹介した理解がすべてではありません。

今後、新たな資料の発見や研究の進展によって、これまでの解釈が深まったり、見直されたりする可能性もあります。

🧭 本記事のスタンス

この記事は、サルトルの哲学について「これが唯一の正解」と伝えるためのものではありません。

難しい哲学を理解するきっかけとなり、読者自身が疑問を持ち、さらに調べ、考えるための入り口となることを目指しています。

一つの考え方だけにとらわれず、ほかの哲学者や研究者の視点にも触れながら、自分なりに理解を深めていただけたらうれしく思います。

「実存は本質に先立つ」――ならば、「問いは学びに先立つ」のかもしれません。心に芽生えたその小さな疑問を道しるべに、サルトルの原典や専門書をひもとき、まだ知らない考えに出会う楽しさを、さらに深く味わってみてください。

最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました。

「実存は本質に先立つ」という言葉は、まだ答えの見えない未来にも、新しい自分と出会う可能性があり、日々の選択や行動を通して自分のあり方を形づくっていくことの意味を教えてくれているのかもしれません。

参考資料・文献

この記事は、サルトルの著作や講演、専門的な哲学事典、公式記録など、筆者が個人で確認できる範囲の情報をもとに作成しました。

以下は、今回の内容を確認したり、さらに詳しく調べたりする際に参考となる主な資料です。すべての文献を全文通読したという意味ではありません。

ジャン=ポール・サルトル『実存主義とは何か』(人文書院・日本語訳)
「実存は本質に先立つ」、自由、選択、責任についての講演と討論。

ジャン=ポール・サルトル『存在と無』(1943年刊行・日本語訳あり)
即自存在・対自存在、人間の意識と自由について論じた哲学書。

スタンフォード哲学百科事典「Jean-Paul Sartre」(英語)
サルトルの生涯と思想、自由と現実の条件についての専門的な解説。

第一学習社『テオーリア』関連の哲学・倫理用語解説(日本語)
実存主義やサルトルの哲学用語を確認できる資料。

フランス国立図書館のサルトル関連資料(フランス語)
1945年の講演や『実存主義とは何か』の刊行に関する記録。

ノーベル賞公式記録(英語)・サルトルの1964年の辞退声明(英語訳資料あり)
ノーベル文学賞の辞退と、その理由について確認できる資料。

これらの資料には、無料で公開されている専門的な解説や公式情報も含まれています。

今回の記事が、サルトルの哲学に興味を持つ一つの入り口となり、さらに原典やさまざまな研究者の考えに触れながら、ご自身の理解を深めるきっかけになれば幸いです。

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