道徳的運とは?同じ行動でも結果で責任は変わる?道徳的運の4つの種類をわかりやすく解説

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同じことをしたのに、結果が違うだけで責任まで変わるの?――偶然や状況が人への評価に入り込む「道徳的運」を、身近な例からやさしく考えます。

5秒でわかる「道徳的運」

道徳的運とは、自分では決められない「運」によって、その人へのほめ方や責め方まで変わることがある、という哲学の問題です。

たとえば、同じように危ないことをした二人でも、一人だけ事故を起こしたら、その人のほうを強く責めるかもしれません。

「たまたま結果が違っただけなのに、責任まで変わるの?」

これが、道徳的運を考える出発点です。

小学生にもわかるように言うと

二人の子が、同じように悪いことをしたとします。

一人は、何も起きませんでした。

もう一人は、たまたま誰かをケガさせてしまいました。

やったことは、ほとんど同じです。

でも、ケガをさせた子のほうを、

「こっちの子のほうが悪い」

と思うかもしれません。

でも、ちょっと待ってください。

その子は、

「今日は人にぶつかろう」

と思っていたわけではありません。

たまたま、そこに人がいたのです。

では、

たまたま起きたことまで、その人の「悪さ」に入れていいのでしょうか。

このように、

「自分では決められなかったことが、人をほめたり責めたりするときに関係してくるのはなぜだろう?」

と考えるのが、道徳的運です。

これは、

「何でも運のせいにしていい」

という意味ではありません。

自分で決めたことと、自分では決められなかったことを分けながら、その人の責任を考えるための問題です。

1|この記事は、こんな疑問を持ったあなたへ

「同じことをしたのに、結果が違うだけで責任まで変わるの?」

「失敗した人と、たまたま失敗しなかった人は、本当にそんなに違うの?」

「『運が悪かった』と言えば、責任はなくなるの?」

そんな疑問を持った人に向けて、この記事では「道徳的運」とは何なのかを、身近な例から少しずつ詳しく説明していきます。

読み進めると、

道徳的運の正しい意味、なぜ哲学で問題になるのか、どんな種類があるのか、そして私たちの日常とどうつながっているのか

がわかるようになります。

難しい哲学の話ですが、まずは一人の中学生が感じた小さな疑問から始めてみましょう。

2|疑問が生まれた物語

「どうして同じなのに?」

中学2年生のユウには、ずっと気になっていることがありました。

ある日の放課後。

友達のハルとソウタが、自転車で少しスピードを出して走っていました。

二人とも、同じくらい危ない走り方でした。

ハルは、そのまま何事もなく家に帰りました。

ところがソウタは、曲がり角から出てきた人とぶつかってしまいました。

幸い、大きなケガにはなりませんでした。

それでもソウタは、

「そんな危ないことをするからだ」

と強く責められました。

ユウも最初は、

「事故を起こしたんだから、ソウタが悪いよな」

と思いました。

けれど帰り道、ふとハルのことを思い出しました。

ハルも、ほとんど同じ走り方をしていました。

違ったのは、

ハルの前には人が出てこなかった。
ソウタの前には、たまたま人が出てきた。

それだけです。

ユウは急にわからなくなりました。

「二人とも危ないことをしたのは同じなのに、どうしてソウタのほうがずっと悪く感じるんだろう?」

「もしハルの前に人が出てきていたら、今度はハルが強く責められていたのかな?」

そして、もう一つ疑問が浮かびました。

「結果がたまたま違っただけでも、人の責任って変わるの?」

気になったユウは、この疑問について調べてみることにしました。

すると、哲学には、この疑問と深く関係する言葉があることを知ります。

それが、

「道徳的運」

でした。

けれど、名前を知っただけでは、まだよくわかりません。

なぜ「道徳」と「運」が一緒になるのでしょうか。

運が関係するなら、責任はなくなるのでしょうか。

そして、ハルとソウタは、本当に同じように考えてよいのでしょうか。

ユウがどんな答えにたどり着いたのかは、この記事の後半でもう一度この物語に戻って確かめます。

その前にまず、「道徳的運」とは哲学では正確には何を意味する言葉なのか。

ユウと一緒に、一つずつ確かめていきましょう。

3|道徳的運とは何か―ここから正式に説明します

「道徳的運」

ここからは、この言葉が哲学ではどのような意味で使われているのかを、もう少し正確に見ていきましょう。

道徳的運とは、本人には左右できなかった「運」が、その人や行動への道徳的な評価に関係してくる場合を表す言葉です。

英語では、moral luck(モラル・ラック、「道徳にかかわる運」)といいます。

ここでいう「道徳的に評価する」とは、難しいことではありません。

たとえば、

「この行動は悪かった」

「この人は責められる」

「これはよくやったことだ」

「この結果について、この人には責任がある」

と考えることです。

そして、ここでいう「運」は、宝くじに当たるような運だけではありません。

本人が自分の意思だけでは決められなかったことや、自分の力だけでは完全に左右できなかったことも含みます。

つまり、普通の言葉で言えば、

「自分では決められなかったことが関係しているのに、それによって人のほめられ方や責められ方まで変わることがある」

ということです。

先ほどのハルとソウタの物語で考えてみましょう。

二人とも、同じように危ない自転車の乗り方をしていました。

しかし、ハルの前には誰も現れず、ソウタの前にだけ、たまたま人が出てきました。

その結果、ソウタだけが人とぶつかりました。

ここで、

「二人とも危ない走り方をした」

という点は似ています。

一方で、

「その瞬間、目の前に人がいたかどうか」

は、二人が自由に決めたことではありません。

それでも事故が起きると、私たちはソウタのほうを強く責めるかもしれません。

このとき問題になっているのが、

本人には左右できなかった結果の違いを、その人への評価にどこまで含めてよいのか

ということです。

なお、ハルとソウタの物語は、哲学者が実際に使った例ではありません。道徳的運を身近に理解するために、この記事で作った例です。

では、この説明は哲学の専門的な説明とも合っているのでしょうか。

Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー、日本語では「スタンフォード哲学百科事典」)は、哲学の研究者によって執筆・編集され、スタンフォード大学で公開されている専門的なオンライン哲学事典です。

同事典では、道徳的運について、その人が評価される重要な部分が本人には左右できない要因に依存しているにもかかわらず、その人を道徳的判断の対象として正しく扱える場合という形で整理しています。

ただし、ここは大切です。

これは法律の条文のような「唯一の公式定義」ではありません。

Stanford Encyclopedia of Philosophy自身も、近年の道徳的運の研究者すべてが、この定義をそのまま採用しているわけではないと説明しています。

もう一つの専門的な資料である Internet Encyclopedia of Philosophy(インターネット・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー、「インターネット哲学百科事典」)では、道徳的運を、より広く「運によって道徳的な違いが生まれる場合」として説明しています。

ここでいう「道徳的な違い」には、責任の大きさだけでなく、その人や行動をどのように評価するのかという違いも含まれます。

そのため、この記事では、
「本人には左右できなかった運が、その人や行動への道徳的な評価に関係してくる場合」
を、道徳的運の基本的な意味として押さえておきましょう。

この問題を現代哲学で大きく取り上げた人物として、まず知っておきたいのが二人の哲学者です。

一人は、バーナード・ウィリアムズ(Bernard Williams、1929年〈昭和4年〉―2003年〈平成15年〉)です。

20世紀後半のイギリスを代表する倫理学者の一人です。

倫理学とは、人の行動の良し悪しや、私たちはどのように生きるべきなのかといった問題を考える哲学の分野です。

ウィリアムズは、人間の生き方や責任、道徳と人生との関係について幅広く考え、20世紀後半の倫理学に大きな影響を与えました。

Routledge Encyclopedia of Philosophy(ラウトレッジ・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー、「ラウトレッジ哲学百科事典」)によると、moral luck という表現を1976年(昭和51年)に導入したのがウィリアムズです。

もう一人は、トマス・ネーゲル(Thomas Nagel、1937年〈昭和12年〉生まれ)です。

アメリカの哲学者で、倫理学だけでなく、人間の心、知識、人生の意味など幅広い問題を研究してきました。2026年(令和8年)9月現在、ニューヨーク大学の公式サイトでは哲学・法学名誉教授として掲載されています。

1976年(昭和51年)、ウィリアムズとネーゲルの「Moral Luck」をめぐる論文は、イギリスの哲学学会 The Aristotelian Society(ジ・アリストテリアン・ソサエティ、「アリストテレス協会」)の補遺巻に掲載されました。

ネーゲルの論文はウィリアムズへの応答として書かれましたが、二人がまったく同じ主張をしたわけではありません。

Internet Encyclopedia of Philosophyも、二人の論文では重点の置き方がかなり異なると説明しています。

二人がそれぞれ何を考えたのかは、第6章で詳しく見ていきます。

では、道徳的運は、哲学ではどのような方法で考えられてきたのでしょうか。

ここで行われているのは、機械で数値を測ったり、大勢の人にアンケートをしたりする科学的な実験ではありません。

中心となるのは、哲学的な論証(ろんしょう)と事例の検討です。

「哲学的な論証」とは、ある考えが本当に成り立つのか、「なぜそう言えるのか」という理由を順番につなぎ、途中に矛盾や無理がないかを確かめることです。

そして「事例の検討」とは、実際にあった出来事や、「もし、こんなことが起きたら」と考えた具体的な場面に、その考えを当てはめてみることです。

なぜ、わざわざ具体的な場面を考えるのでしょうか。

それは、一見すると正しそうな考えでも、実際の場面に当てはめると、うまく説明できないことが見つかる場合があるからです。

たとえば、

「自分ではどうすることもできなかったことまで、その人を責めるのはおかしい」

と考えたとします。

この考えだけを見ると、とても自然に思えます。

では、

「ほとんど同じ危険な行動をした二人のうち、一人だけが偶然によって悪い結果を起こした」

という場合はどうでしょう。

二人が自分で選んだ行動はよく似ています。

違うのは、本人には決められなかった結果です。

それでも私たちは、悪い結果を起こした人のほうを強く責めることがあります。

こうして、一つの考えを具体的な事例に当てはめ、その考えを最後まで守ろうとすると何が起きるのかを確かめること自体が、哲学的な検討になるのです。

ただし、先ほど紹介したバーナード・ウィリアムズとトマス・ネーゲルが、まったく同じ方法で、同じ結論へ進んだわけではありません。

二人は同じ「道徳と運」の問題を扱いながら、それぞれ違った角度から考えました。

ウィリアムズは、具体的な人物をもとにした事例を使って考えました。

その代表的な例に、ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin、1848年〈嘉永元年〉―1903年〈明治36年〉)が登場します。

ゴーギャンはフランスの画家で、19世紀後半に活躍し、のちにタヒチなどで制作した作品でも知られる人物です。

ただし、ここで注意が必要です。

ウィリアムズは、実在したゴーギャンの人生をそのまま歴史的に説明しようとしたわけではありません。

実在のゴーギャンをもとに、哲学の問題を考えるための事例を組み立てました。Stanford Encyclopedia of Philosophyも、この人物を「ある程度フィクション化されたゴーギャン」と説明しています。

その事例では、ゴーギャンが家族との生活を離れ、タヒチ(南太平洋にある島)へ行って画家として生きる道を選びます。

しかし、決断した時点では、自分が画家として成功するのか失敗するのかはわかりません。

もし成功したなら、

「あの決断には、それだけの意味があった」

と後から考えられるかもしれません。

しかし、まったく同じ決断をして失敗したなら、同じように考えられるでしょうか。

ウィリアムズはこのような事例を使って、本人には前もって支配できなかった結果が、その人の決断を後からどう理解するかにまで関係してくるのではないかと考えました。

ここでいう「後からその決断を認められる」とは、単純に「成功した人なら、どんな行動をしても正しい」という意味ではありません。

「その人がその生き方を選んだことには、本当にそうするだけの理由があったと言えるのか」

という、もっと深い問題です。

ウィリアムズが何を「正当化」と考えていたのかについては、先ほど紹介した彼の思想を詳しく扱う第6章で、もう一度丁寧に確かめます。

ウィリアムズは、別の事例からも「運」と人間の関係を考えています。

それが、トラック運転手の例です。

運転手には落ち度がなかったのに、避けることのできない状況で子どもをひいてしまった、と考えます。

法律上や道徳上、その運転手に責任がないとしても、

「自分があの出来事を起こしてしまった」

という思いまで、何も関係のない第三者とまったく同じになるでしょうか。

ここからウィリアムズは、agent-regret(エージェント・リグレット、「行為者としての後悔」)という考えを示します。

これは、自分に落ち度がなかったとしても、自分自身がその出来事を起こした人だからこそ抱く、傍観者とは違う特別な後悔のことです。Stanford Encyclopedia of Philosophyも、何の落ち度もなく子どもをひいてしまった運転手を、この考えを説明する代表的な例として紹介しています。

この言葉が大切なのは、「責任があるか、ないか」だけでは、人と出来事との関係をすべて説明できないかもしれないことを示しているからです。

この「行為者としての後悔」についても、第6章でウィリアムズの考えを詳しく見るときに、ここでの基本説明を土台にしてさらに深めていきます。

一方、先ほど紹介したトマス・ネーゲルは、問題を別の方向へ広げていきました。

ネーゲルが出発点の一つとしたのは、

「人を道徳的に評価するなら、本人が自分で左右できたことをもとに評価するべきではないか」

という、とても自然に思える考えです。

ところが、この考えを実際の人間の行動へ当てはめていくと、問題が出てきます。

結果だけでなく、

どのような状況に置かれたのか。

どのような性格や性質を持つ人になったのか。

自分の選択そのものが、どのような過去の原因から生まれたのか。

こうしたものにも、本人には自由に決められなかった部分があります。

そこでネーゲルは、人間の行動や道徳的な評価に入り込む「運」を、四つの方向から区別して考えました。

それは、

結果がどうなったかにかかわる運。

どのような状況に置かれたかにかかわる運。

どのような性格や性質を持つ人になったかにかかわる運。

そして、自分の行動や選択が生まれる原因にかかわる運です。

現在の道徳的運の議論では、この四つを区別して説明するのが一般的です。

ただし、現在使われている四つの名称を、すべてネーゲル本人がそのまま名付けたわけではありません。 後の研究者によって名称が整理されたものもあります。

それぞれが「何の運なのか」「なぜ道徳的な評価に関係するのか」「互いに何が違うのか」は、第5章で一つずつ同じ順番で詳しく見ていきます。

ここまでを見ると、ウィリアムズとネーゲルが、ただ、

「運は責任に関係するのだろうか」

と漠然と考えただけではないことがわかります。

具体的な事例を用意し、私たちが普段もっともだと思っている考えをその事例へ当てはめ、最後までその考えを守ると何が起きるのかを確かめたのです。

そして、そこから、

「本人が決められなかったことを、人への評価から本当にすべて取り除けるのか」

という問題を深くしていきました。

ただし、ウィリアムズとネーゲルが同じ答えを出した、という意味ではありません。

二人は同じ問題に向き合いながら、注目したところも、議論の進め方も、そこから見えてきた問題も異なります。

先ほど紹介した二人の違いについては、第6章で、それぞれの考えを混ぜないように分けながら詳しく見ていきましょう。

ここまで正しい意味を確認したところで、誤解しやすい点も整理しておきましょう。

道徳的運という言葉を聞くと、

「それなら、悪い結果になっても『運が悪かった』と言えば責任はなくなるの?」

と思うかもしれません。

しかし、道徳的運は「何でも運のせいだから責任はない」と決める考えではありません。

反対に、

「悪い結果になったのだから、結果を出した人のほうが必ず道徳的にも悪い」

と決める考えでもありません。

なぜなら、道徳的運そのものが、

「本人が左右できなかったことを、人への評価にどこまで含めてよいのか」

をめぐって意見が分かれている哲学上の問題だからです。道徳的運を認める立場もあれば、そのように見える評価の違いを別の方法で説明しようとする立場もあります。

最後に、今回の正しい意味をもう一度確認しておきましょう。

道徳的運とは、本人には左右できなかった運が、その人や行動への道徳的な評価に関係してくる場合を表す言葉です。

そして、道徳的運について考えると、

「本人にはどうにもできなかったことなら、評価から外したほうがよさそうだ」

という考えと、

「それでも実際の私たちは、結果や状況によって人への評価を変えているように見える」

という考えが出会います。

先ほど紹介したユウが感じた、

「同じように危ないことをしたのに、どうして結果が違うと責められ方まで変わるんだろう?」

という疑問は、まさにこの問題につながっていました。

では、なぜこの二つの考えは、簡単には一緒に成り立たないのでしょうか。

その基本的な答えは、「本人が左右できたことだけを評価したい」という考えを守ろうとすると、私たちが実際に結果によって評価を変えているように見えることとの間に食い違いが生まれるからです。

次の章では、この食い違いそのものを詳しく見ながら、道徳的運がなぜこれほど難しい哲学の問題になるのかを、一緒にほどいていきましょう。

4|なぜ「道徳的運」は不思議なのか―二つの考えがぶつかる

第3章では、道徳的運とは、本人には左右できなかった運が、その人や行動への道徳的な評価に関係してくる場合を表す言葉だと確認しました。

では、なぜそれが哲学の問題になるのでしょうか。

答えを先に言うと、

「本人が自分で左右できたことだけをもとに評価したい」という考えと、「実際には本人が左右できなかったことも評価に影響しているように見える」という考えが、ぶつかるからです。

この二つを順番に見てみましょう。

一つ目は、「自分ではどうすることもできなかったことまで、その人を責めるのはおかしい」という考えです。

たとえば、歩いていた人が後ろから突然押され、そのはずみで別の人にぶつかってしまったとします。

自分からぶつかったわけでも、避けることができたわけでもありません。

事情を知れば、

「それなら、この人を責めるのは違うのではないか」

と思うでしょう。

このように、

人をほめたり責めたりするなら、本人が自分で選んだり左右したりできたことをもとにするべきだ

という考えがあります。

現在の道徳的運の議論では、こうした考えは Control Principle(コントロール・プリンシプル、「コントロール原理」)と呼ばれます。

ここでいう control(コントロール)は、本人が自分で選んだり、行動をある程度左右したりできることという意味です。

Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、コントロール原理は、本人がコントロールできることの範囲で道徳的な評価を行うべきだという考えとして整理されています。

ところが、ここでもう一つの事実にぶつかります。

私たちの実際の判断では、本人には左右できなかった結果や状況まで、人への評価に影響しているように見えることがあります。

第2章のハルとソウタを思い出してみましょう。

二人とも、同じように危ない自転車の乗り方をしていました。

しかし、ソウタの前にだけ人が現れ、事故になりました。

ハルには何も起こりませんでした。

「危ない走り方をした」という点では似ています。

それでも、ソウタについては、

「実際に人をケガさせてしまった」

という結果があります。

ここで大切なのは、「結果が違えば、必ずソウタのほうが道徳的に悪い」と決めることではありません。

哲学では、

「何について責任を負うのか」

と、

「どのくらい強く責められるのか」

を分けて考える立場もあります。

たとえば、ソウタには「実際に起きた事故」という結果についての責任があるとしても、ハルよりも人として悪い、あるいは必ず強く責められるべきだとは限らない、と考えることもできます。

この点そのものが、現在も議論されている問題です。Stanford Encyclopedia of Philosophyも、結果によって「何について責任を負うか」が違うことと、「どれほど非難されるべきか」が違うことは区別できると説明しています。

つまり、道徳的運の不思議さは、

「結果が違えば責任も必ず違う」という単純な話ではありません。

そうではなく、

本人が左右できなかったことは評価から外したいはずなのに、私たちの実際の道徳的な判断には、運が入り込んでいるように見える。

ここに問題があります。

整理すると、

① 本人が左右できなかったことでは、その人を道徳的に評価しないほうがよさそうだ。

ところが、

② 私たちは、本人が左右できなかった結果や状況によって、実際には評価を変えることがあるように見える。

この二つを同時に認めようとすると、うまくかみ合いません。

Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、道徳的運の問題は、このコントロール原理と、私たちの日常的な道徳判断との食い違いから生まれると整理されています。

ですから、道徳的運が哲学の問題になるのは、「人生には運があるから」だけではありません。

人生に運があること自体は、それほど不思議ではありません。

不思議なのは、

「運とは切り離して考えたいはずの責任や人の良し悪しにまで、運が関係してくるように見えること」

なのです。

そして、ここからさらに一つ疑問が生まれます。

「運が関係するのは、事故のような“結果”だけなの?」

答えは、いいえ。

トマス・ネーゲルは、運が入り込む場所は結果だけではないと考えました。

次は、その違いを四つに分けて見ていきましょう。

5|道徳的運には4つの種類がある

第3章で紹介したトマス・ネーゲルは、道徳的な評価に関係する運を、大きく四つの方向から区別しました。

現在の道徳的運の議論でも、この四つに分ける整理が広く使われています。

ただし、正確に理解するために一つ注意があります。

現在使われている四つの名称を、すべてネーゲル本人がそのまま名付けたわけではありません。

ネーゲル自身は四種類を区別しましたが、「状況的運」「因果的運」など、現在広く使われる名称の一部は後の研究で整理されました。Internet Encyclopedia of Philosophyや日本の倫理学研究でも、この区別が確認できます。

① Resultant Luck(リザルタント・ラック、「結果にかかわる運」)

結果にかかわる運とは、自分がしたことが、最終的にどんな結果になったのかにかかわる運です。

resultant(リザルタント)は、ここでは「結果として生じたもの」という意味です。

普通の言葉なら、

「同じようなことをしたのに、たまたま結果だけが違った」

という場合です。

ハルとソウタが、この記事でのわかりやすい例です。

二人とも危ない走り方をしました。

しかし、一人には何も起きず、もう一人だけが事故を起こしました。

この例は、ネーゲル本人が使ったものではなく、理解しやすくするためにこの記事で作った例です。

ここで考えるのは、

「本人には完全には決められなかった結果の違いを、その人への評価にどこまで含めてよいのか」

という問題です。

第4章で見た道徳的運の問題を、もっともイメージしやすい形で表しているのが、この「結果にかかわる運」です。Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、同じ意図や計画を持つ人が、本人には左右できない事情によって異なる結果を迎える場合が代表例として説明されています。

② Circumstantial Luck(サーカムスタンシャル・ラック、「状況にかかわる運」)

状況にかかわる運とは、その人が、そもそもどのような場面や問題に出会うことになったのかにかかわる運です。

circumstantial(サーカムスタンシャル)は、この場合「置かれた状況に関係する」という意味です。

結果にかかわる運との違いは、

結果の運が「行動したあと、どうなったか」なのに対して、状況の運は「そもそも、どんな選択を迫られる場所にいたのか」だということです。

たとえば、同じくらい正直な二人がいるとします。

一人だけが、誰にも見つからずにズルができる場面に出会いました。

もう一人は、そのような場面に一度も出会いませんでした。

一人目はそこでズルをするか、しないかを選ぶことになります。

二人目には、その選択をする機会自体がありません。

これはネーゲル本人の具体例ではなく、状況の運をわかりやすくするための記事上の例です。

ここで考えるのは、

「人を評価するとき、その人がたまたまどんな状況に置かれたのかまで、評価の違いにつながってよいのか」

という問題です。

もちろん、厳しい状況に置かれたからといって、悪い行動が自動的に許されるわけではありません。

問題なのは、人がどんな道徳的な選択を試されるか、その機会そのものにも運があるということです。

③ Constitutive Luck(コンスティテューティブ・ラック、「構成的な運」)

構成的な運とは、自分がどのような性格・能力・気質を持つ人になったのかにかかわる運です。

constitutive(コンスティテューティブ)は、ここでは「その人を形づくっている」という意味です。

結果の運や状況の運が、自分の外で起きることに注目していたのに対して、構成的な運では、

「そもそも自分自身が、どんな人として形づくられたのか」

が問題になります。

たとえば、

怒りやすい。

我慢強い。

怖がりやすい。

大胆である。

人の気持ちに気づきやすい。

こうした性格や傾向には、自分で選んで身につけた部分もあれば、自分では選べなかった部分もあります。

生まれつきの特徴だけでなく、育てられ方、周囲の人、経験した出来事なども、人の性格を形づくります。

もちろん、「性格は全部運で決まり、一生変えられない」という意味ではありません。

努力や経験によって、人が変わることもあります。

それでも、

「最初からどんな性格や能力を持つ人として生き始めるのかを、すべて自分で選んだわけではない」

という問題は残ります。

そこで、

「本人が選んだわけではない性格や気質が行動に影響しているなら、その行動をどこまで本人だけの責任として考えられるのか」

という疑問が生まれます。

Stanford Encyclopedia of Philosophyも、遺伝的な要因、育てた人、友人など、自分ではコントロールできない影響が人の性格や傾向を形づくることを、構成的な運の問題として説明しています。

④ Causal Luck(コーザル・ラック、「原因にかかわる運」)

原因にかかわる運とは、自分が何かを選んだり行動したりするまでの原因そのものにも、自分では選べなかったものが含まれているという問題です。

causal(コーザル)は、「原因と結果のつながりにかかわる」という意味です。

これは四つの中でも、少し難しい問題です。

たとえば、

「今日は勉強することにした」

と自分で決めたとします。

でも、

「なぜ自分はそう決めたのだろう?」

と一つ前へ戻ると、

自分の性格。

これまでの経験。

親や先生から言われたこと。

今までに身につけた知識。

その日の出来事。

など、さまざまな原因が見えてきます。

さらに、

「では、その性格や経験は、どうやってできたの?」

とさかのぼれば、自分では選んでいないものがさらに現れます。

そこで、

「自分が『自分で選んだ』と思っている選択そのものにも、自分では決められなかった原因が影響しているのではないか」

という問題が出てきます。

ここで関係してくるのが、自由意志(じゆういし)という哲学上の考えです。

自由意志とは、人間は自分の行動や選択を、どこまで自分自身の意思で選ぶことができるのかという問題です。

ネーゲル自身も、原因にかかわる運は、昔から議論されてきた自由意志の問題と深く重なると考えています。Stanford Encyclopedia of Philosophyも、この点を明確に説明しています。

なお、研究者の中には、

「原因にかかわる運を、ほかの種類とは別の第四の種類として数える必要が本当にあるのか」

と疑問を出す人もいます。

構成的な運と状況にかかわる運を組み合わせれば説明できるのではないか、という考えもあるためです。

そのため、ここでは、

「自分の選択が生まれる原因そのものにも、自分では選べなかったものが関係しているのではないか」

という基本だけ押さえておきましょう。

四つを並べると、違いが見えやすくなります。

結果にかかわる運は、「やったあと、どうなったか」。

状況にかかわる運は、「どんな場面に置かれたか」。

構成的な運は、「どんな自分として形づくられたか」。

原因にかかわる運は、「その選択が、どんな原因から生まれたか」。

つまり、運は最後の「結果」だけにあるのではありません。

結果にも、状況にも、自分自身の性格にも、さらには選択へ至る原因にも、本人には決められなかった部分がある。

ネーゲルが四つを区別したことで、道徳的運の問題が、事故の結果だけではなく、人間の行動そのものへ広がっていることが見えてきます。

では、このことから、

「人間には自分で決められることなんて、ほとんどない」

と結論づければよいのでしょうか。

いいえ。そこまでがネーゲルの議論から自動的に決まるわけではありません。

ここでわかったのは、

コントロールできることだけを道徳的評価の対象にしようとすると、運の影響をどこまで取り除けるのかという、とても大きな問題にぶつかる

ということです。

では、この問題を最初に大きく取り上げたウィリアムズとネーゲルは、それぞれ何を考えたのでしょうか。

6|ウィリアムズとネーゲルは何を考えたの?

第3章で紹介したバーナード・ウィリアムズとトマス・ネーゲル。

二人の違いを先に簡単に示すと、

ウィリアムズは、「人間の人生や決断を、運から完全に切り離して理解できるのか」という方向から問題を深めました。

一方で、

ネーゲルは、「本人がコントロールできたことだけを評価しようとすると、道徳的に評価できるものはどこまで残るのか」という方向から問題を深めました。

二人は同じ「道徳と運」の問題を扱いましたが、同じ結論を出したわけではありません。

1976年(昭和51年)、二人の Moral Luck(モラル・ラック、「道徳的運」)をめぐる論文は、第3章で紹介したイギリスの哲学学会「アリストテレス協会」の補遺巻(ほいかん)に掲載されました。Oxford Academicの書誌情報でも、B. A. O. Williams と T. Nagel の「Moral Luck」が同じ巻に掲載されたことを確認できます。

ネーゲルの論文は、ウィリアムズの論文への応答として始まったものです。

ただし、二人が同じ議論を繰り返したわけではありません。

Stanford Encyclopedia of Philosophyも、この二つの論文が一緒になって道徳と運の問題を新しい形で強く示した一方、それぞれの議論には違いがあることを説明しています。

ウィリアムズ――人生の決断は、結果と切り離して考えられるのか

第3章で紹介したウィリアムズは、実在した画家ポール・ゴーギャンをもとにした事例を使いました。

ここで登場するゴーギャンは、歴史上の本人の人生をそのまま再現した人物ではありません。

ウィリアムズが哲学の問題を考えるために、実在の人物をもとに組み立てた事例です。

この事例では、芸術家として生きることを目指す人物が、家族との生活を離れて、自分の芸術を追う道を選びます。

その決断をした時点では、画家として成功するのか、失敗するのかはわかりません。

未来の結果までは、自分で完全に支配できないからです。

ここでウィリアムズが考えたのは、

「その後に起きた結果が、過去の決断を本人自身がどう理解するかに影響することはないのだろうか」

という問題です。

もし芸術家として成功し、その仕事がその人の人生の中心になるなら、

「あの決断をしたことには、自分の人生にとって意味があった」

と振り返ることができるかもしれません。

反対に、計画が完全に失敗した場合には、同じように振り返ることができないかもしれません。

ここで大切なのは、

ウィリアムズが「芸術家として成功すれば、家族を離れたことまで道徳的に正しくなる」と言っているわけではない

ということです。

この点は、特に誤解しないようにしておきましょう。

ウィリアムズが主に検討しているのは、第3章で触れた「正当化」、つまり、

「その人自身の人生から振り返ったとき、その決断にはそれを選ぶだけの理由があったと言えるのか」

という問題です。

研究上も、ウィリアムズのゴーギャン論を「成功したから、その行為が道徳的に正しくなった」という単純な主張として読むのは正確ではありません。Stanford Encyclopedia of Philosophyは、ウィリアムズが結果による「合理的な正当化」を扱っていると整理しており、後の研究でも、道徳的な正しさとは区別して検討されています。

ウィリアムズの議論でもう一つ重要なのが、第3章で説明した agent-regret(エージェント・リグレット、「行為者としての後悔」)です。

先ほど説明したように、これは、

自分に落ち度がなかったとしても、自分自身がその出来事を起こした人だからこそ感じる、第三者とは違った後悔

のことでした。

ウィリアムズは、何の落ち度もないトラック運転手が、避けられない事故で子どもをひいてしまった例を使います。

その運転手に責任がないとしても、

「自分がこの出来事にかかわってしまった」

という思いまで、何も関係のない第三者と同じになるわけではありません。

Stanford Encyclopedia of Philosophyも、この例を「行為者としての後悔」を説明する重要な事例として紹介しています。

ここから見えてくるのは、

「責任があるか、ないか」だけでは、人と自分の行動や結果との関係をすべて説明できないかもしれない

ということです。

ウィリアムズは、道徳的運を単に、

「結果によって責任が変わるか」

という問題だけとして考えたのではありません。

人が自分の人生をどう受け止めるのか、自分の決断や行動とどう向き合うのか、その中から本当に運だけを取り除くことができるのか

という、より広い問題へつなげて考えました。

ただし、ウィリアムズの最終的な立場は簡単ではなく、研究上も複数の読み方があります。

そのため、

「ウィリアムズは道徳的運を全面的に認めた哲学者だ」と一言で決めてしまうのは正確ではありません。

ここでは、

ウィリアムズは、人間の人生や決断と運の関係を問い直した

と理解しておくのがよいでしょう。

ネーゲル――運を取り除いていくと、道徳的評価はどこまで残るのか

一方、第3章で紹介したネーゲルは、第4章で説明したコントロール原理の考えを、さらに広い範囲へ当てはめていきます。

「本人が自分で左右できなかったことについては、その人を道徳的に評価しない」

という考えを守るとします。

まず、結果には運が入ります。

それなら、

「結果ではなく、本人の意図を見ればいい」

と考えられるかもしれません。

しかし、第5章で見た「状況にかかわる運」を考えると、

そもそも、どんな意図や選択を試される状況に出会ったのか

にも運が関係しています。

では、本人の性格を見ればよいのでしょうか。

ところが、「構成的な運」を考えると、その性格や気質にも、自分では選べなかった部分があります。

さらに「原因にかかわる運」まで考えると、

自分が「自分で選んだ」と思っている選択そのものも、それ以前の原因から影響を受けているのではないか、という問題が出てきます。

こうして、

結果を取り除く。

状況を取り除く。

本人が選ばなかった性格や気質を取り除く。

さらに、選択を生み出した原因まで取り除く。

と考えていくと、

「本人が完全にコントロールしたことだけ」を道徳的な評価の対象にする場合、評価できる範囲がどんどん小さくなってしまいます。

Stanford Encyclopedia of Philosophyは、ネーゲルの議論をたどると、道徳的に正当に評価できる人間の行為の範囲が極端に小さくなっていくように見えると説明しています。

これがネーゲルの議論の大切なところです。

ネーゲルは単に、

「結果には運があります」

と指摘しただけではありません。

運の影響を一つずつ調べていくと、結果だけでなく、状況、性格、さらには自分の選択が生まれる原因にまで、本人がコントロールできないものが入り込んでいる。

では、

人を道徳的に評価できる根拠は、最後にどこまで残るのか。

そこまで問題を深めたのです。

これは「人間には責任がない」と証明した、という意味ではありません。

むしろ、

コントロールできることだけを責任の基準にする考えを最後まで貫くと、とても大きな問題が生まれる

ことを示したのです。

ここまでで、二人の違いをもう一度整理してみましょう。

ウィリアムズは、人生の決断や、自分とその結果との関係を、運から完全に切り離して考えられるのかを問い直しました。

ネーゲルは、本人がコントロールできたことだけを評価しようとすると、道徳的な評価の対象はどこまで残るのかを問い詰めました。

二人の問題意識は重なります。

しかし、同じ議論でも、同じ結論でもありません。

二人の議論によって見えてきたのは、

「人間の人生には運がある」という当たり前の事実だけではありません。

もっと難しいのは、

「運に左右される人間を、それでも私たちは責任ある存在としてどのように評価すればよいのか」

という問題です。

そして、ここまで読むと、次の疑問が出てくるはずです。

「そこまで運が関係するなら、結局、何をしても『運のせい』にできるの?」ここでの基本的な答えは、いいえ、そういう意味ではありません。

道徳的運の問題から、

「運がある」

ということはわかっても、

「だから責任はすべてなくなる」

という結論が自動的に出るわけではないからです。

むしろ次に必要なのは、

運の影響があることを認めたうえで、それでも人の責任をどのように考えればよいのかを確かめることです。

次の章では、

「だったら、全部“運のせい”でいいの?」

という、道徳的運を知ったときに生まれやすい疑問を正面から考えていきましょう。

7|じゃあ「全部、運のせい」でいいの?

ここまで読むと、

「結果にも、状況にも、性格にも、選択が生まれる原因にも運が関係するなら、結局は何をしても『運のせい』になるのでは?」

と思うかもしれません。

まず、正しい答えを先に確認しておきましょう。

道徳的運は、「何でも運のせいだから、本人には責任がない」とする考えではありません。

道徳的運によってわかるのは、

本人には選べなかったことも、人への道徳的な評価に関係しているように見える

ということです。

そこから、

「だから責任は全部なくなる」

という結論が自動的に出てくるわけではありません。

第2章のハルとソウタを思い出してみましょう。

二人とも危ない自転車の乗り方をしていました。

ハルには何も起きませんでした。

ソウタの前にだけ人が現れ、事故になりました。

この場合、

「ソウタの前に人が現れたことには運が関係していた」

ということと、

「二人とも危ない走り方を自分でしていた」

ということは、同時に成り立ちます。

つまり、運の影響を認めることと、本人が選んだ行動について責任を考えることは、同じではありません。

ここで、一つ大切な区別があります。

道徳的な責任について考えるときには、

「何について責任を負うのか」

と、

「どのくらい強く責められるのか」

を分けて考えることができます。

たとえばソウタには、実際に起きた事故があります。

ハルには、その事故はありません。

そのため、

「ソウタは実際に起きた事故について責任を負うが、ハルはその事故については責任を負わない」

と考えることはできます。

これは、責任の「範囲」――つまり、何について責任を負うのか――の違いです。

しかし、そこからすぐに、

「だからソウタは、ハルよりも人として悪い」

「だからソウタのほうを必ず強く責めるべきだ」

とまで言えるでしょうか。

これは別の問題です。

こちらは、責任や非難の「程度」――つまり、どのくらい強く責められるのか――の問題です。

道徳的運を研究する哲学者の中には、結果によって責任を負う対象は変わっても、本人の責められる程度まで変える必要はないと考える人もいます。

一方で、本人が危険を引き受け、その危険が実際に悪い結果につながったなら、結果も責められる程度に関係すると考える立場もあります。

Stanford Encyclopedia of Philosophy(第3章で紹介したスタンフォード哲学百科事典)でも、この「何について責任があるのか」と「どの程度責められるのか」は区別して議論されています。

では、

「運の影響を認めながら、それでも人には責任がある」

と考えることはできるのでしょうか。

これについても、哲学では一つの答えに決まっていません。

ただし、運の影響があるからといって、責任が必ずゼロになるわけではないと考える立場があります。

たとえば、

「自分がどんな家庭に生まれたか」

「過去にどんな出来事があったか」

「自分の性格がどう形づくられたか」

まで、すべて自分で決めていなければ責任を持てない、と考える必要はないのではないか。

そうではなく、

その場で理由を理解し、自分の行動をある程度選び、別の行動を考える力があったか

といったことを、責任を考えるうえで重視する立場もあります。

Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、自分の行動を生み出したすべての原因を本人が支配していなくても、必要な能力を使って行動できたなら責任を認められる、と考える立場が紹介されています。

つまり、現在の議論には、

運を理由に、道徳的な評価の違いをできるだけ認めない立場。

運によって、道徳的な評価が変わる場合があると認める立場。

運の種類や、何を評価するのかによって答えを分ける立場。

などがあります。

ここで大切なのは、どれか一つを急いで選ぶことではありません。

まず、

「運が関係している」という事実と、「だから責任がなくなる」という結論は別だと理解することです。

では、道徳的運を考えるとき、何を分ければよいのでしょうか。

少なくとも、

本人が自分で選んだことは何か。

本人には選べなかったことは何か。

実際にどんな結果が起きたのか。

そして今、その人の行動・結果・人柄のどれを評価しようとしているのか。

を分けて考える必要があります。

だから、道徳的運についての答えは、

「全部、本人の責任」

でも、

「全部、運のせい」

でもありません。

道徳的運とは、本人には選べなかった運や偶然、状況などが、その人や行動への道徳的な評価に関係してくる場合を表す言葉です。

そして、

「本人には選べなかったことが関係しているのに、それを人への評価にどこまで含めてよいのか」

を考えることが、道徳的運をめぐる哲学上の問題なのです。

これが、この章でまず持ち帰ってほしい答えです。

8|道徳的運を知ると、日常はどう見える?

ここからは、道徳的運を私たちの日常へ引き寄せてみましょう。

最初に、正確に区別しておきたいことがあります。

日常で起きる「運」のすべてが、道徳的運なのではありません。

道徳的運が問題になるのは、自分では決められなかったことが、「この人はよい・悪い」「ほめられる・責められる」といった道徳的な評価に関係してくるときです。

ここから紹介する例は、ウィリアムズやネーゲル本人が使ったものではありません。

ここまで学んだ考え方を、日常で理解しやすくするための記事上の例です。

たとえば、テストを考えてみましょう。

一生懸命勉強していた人のテストに、たまたま得意な問題がたくさん出ました。

点数は高くなりました。

これは「運」が関係した出来事です。

しかし、

得意な問題が出たことだけなら、まだ道徳的運の問題ではありません。

「点数が高かった」というのは、まず成績や能力についての話だからです。

ところが、その結果だけを見て、

「あの人は点数が高いから、努力のできる立派な人だ」

「点数が低い人は、きっと努力しなかったのだ」

と、その人の努力や人柄まで決め始めたらどうでしょう。

ここでは、

本人には選べなかった条件を、人への評価にどこまで含めてよいのか

という、道徳的運で学んだ問題とつながってきます。

学校生活でも同じです。

二人の生徒が、同じように確認を忘れました。

一人の場合には、たまたま何も起こりませんでした。

もう一人の場合だけ、そのミスが大きなトラブルにつながりました。

実際にトラブルが起きたなら、その対応をする必要があります。

これは無視できません。

しかし、

「大きな問題になったのだから、この人だけがとても不注意な人だ」

と、結果だけから人そのものを判断するなら、一度考えてみる必要があります。

本人が選んだ行動と、その後に偶然起きた結果は、同じものではないからです。

部活動でも考えられます。

二人が同じように安全確認を怠りました。

一人には何も起きず、もう一人のときだけ事故が起きました。

ここで道徳的運の視点を使うと、

「事故を起こした人だけが危険な行動をしていた」

とは限らないことに気づきます。

事故にならなかった人も、同じ危険を作っていたかもしれません。

悪い結果が起きなかったからといって、その前の行動まで安全だったことにはなりません。

これは、道徳的運を知ることで見えやすくなる大切な点です。

反対に、事故が起きた人についても、

「結果が大きかったから、その人はすべてにおいてより悪い」

と決めつけないようにできます。

つまり道徳的運は、

運よく問題にならなかった行動を見逃さないためにも、運悪く大きな結果になった人を結果だけで判断しないためにも使える視点

だと考えることができます。

受験や仕事、成功や失敗について考えるときには、さらに注意が必要です。

どんな問題が出たのか。

どんな先生や仲間に出会ったのか。

学べる環境があったのか。

その日の体調はどうだったのか。

こうしたものには、自分だけでは選べない部分があります。

しかし、こうした条件があること自体を「道徳的運」と呼ぶわけではありません。

それらをもとに、

「成功したから、人としてすぐれている」

「失敗したから、努力のできない人だ」

などと道徳的に評価するときに、道徳的運で考えてきた問題が関係してきます。

では、この考えを日常でどう役立てればよいのでしょうか。

ここからは、哲学者本人の結論ではなく、この記事で道徳的運を日常へ応用した考察です。

誰かの成功や失敗を見たとき、次の三つを分けて考えてみます。

「その人が自分で選べたことは何だっただろう?」

「その人には選べなかったことは何だっただろう?」

「私は今、行動を評価しているのか、結果を評価しているのか、それとも人そのものを評価しているのか?」

この三つを分けるだけでも、

「成功したのだから、全部その人の実力」

「失敗したのだから、全部その人の責任」

という見方から一歩離れることができます。

もちろん、

「だから誰も責めてはいけない」

という意味ではありません。

「努力なんて意味がない」

という意味でもありません。

本人が選んだことを正しく見るためにこそ、本人には選べなかったことも区別して見る。

道徳的運を知ることで、そんな見方ができるようになります。

誰かについて、

「結果はどうだった?」

だけで終わらず、

「その人は、どこまでを自分で選ぶことができたのだろう?」

と考えてみる。

それが、ここまで学んだ哲学を日常へ持ち帰る一つの方法です。

9|おまけコラム

成功の中にも「運」はある?

ここからは少し寄り道です。

最初に位置づけをはっきりさせておきましょう。

「成功には運も関係する」という話そのものが、すべて道徳的運なのではありません。

ここでは、道徳的運で学んだ

「自分で選べたことと、選べなかったことを分けて見る」

という視点を、成功について少し広げて考えてみます。

これは、ウィリアムズやネーゲルがこの形で直接示した結論ではなく、この記事上の考察です。

これまでの記事では、

事故。

失敗。

悪い結果。

責任。

といった話が多く出てきました。

でも、運について考えるなら、うまくいかなかったときだけを見る必要はありません。

うまくいったときにも、自分だけでは決められなかったことがあります。

たとえば、

テストで、たまたま得意な問題が多く出た。

大切な試合で、自分が得意な展開になった。

自分に合う先生や先輩に出会った。

挑戦した時期と、ちょうどよい機会が重なった。

こうしたことは、自分一人の努力だけでは完全には決められません。

では、

「成功は全部運だから、努力なんて意味がない」

のでしょうか。

もちろん、そういうことではありません。

勉強していなければ、得意な問題が出ても答えられなかったかもしれません。

練習していなければ、よい機会が来ても生かせなかったかもしれません。

つまり、

努力したことも本当。

そして、

自分では決められなかった条件に助けられたことも本当。

この二つは、どちらか一方だけを選ばなくても、同時に成り立ちます。

ここで少しだけ、道徳的運の話へ戻ってみましょう。

成功に運が関係していたとしても、それだけでは道徳的運ではありません。

しかし、その成功を理由に、

「成功した人は、失敗した人より人としてすぐれている」

「成功できなかった人は、努力や意志が足りなかった」

と評価するなら、

本人には選べなかった条件まで、人へのほめ方や責め方に入り込んでいないかを考えることができます。

ここで初めて、第3章から学んできた道徳的運の視点がもう一度役に立ちます。

だから、失敗したときだけ、

「運が悪かった」

と考えるのではなく、

うまくいったときにも、

「自分では選べなかった幸運はなかっただろうか?」

と考えてみることができます。

これは、自分の努力を小さく考えるためではありません。

成功したことを否定するためでもありません。

自分がした努力と、自分では用意できなかった幸運の両方を見るためです。

そう考えると、

「全部、自分の力でここまで来た」

という見方は、少し変わるかもしれません。

同時に、

「あの人がうまくいかなかったのは、全部その人のせいだ」

という見方にも、少し慎重になれるかもしれません。

このコラムから一つだけ持ち帰るなら、

失敗を全部「運のせい」にしない。
でも、成功を全部「自分だけの力」にもしない。

という見方です。

道徳的運を知ると、

人を責めるときだけではなく、

人をほめるとき。

自分が失敗したとき。

自分が成功したときにも、

「ここには、自分で選べたことと、選べなかったことが、それぞれどのくらいあったのだろう?」

と考えられるようになります。

哲学は、すぐに一つの答えをくれるとは限りません。

でも、今まで一つに見えていたものを、

「自分で選べたこと」と「自分では選べなかったこと」に分けて見られるようにしてくれる。

それだけでも、人や自分を見る目は少し丁寧になるのではないでしょうか。

10|さらに学びたい人へ

ここからさらに学びたい人に向けて、3冊紹介します。

難しさが違うので、今の自分に合いそうなところから選んでみてください。

【初学者・小学生にもおすすめ】
『子どものための哲学対話』 永井均 著 内田かずひろ 絵

「哲学って、難しい人の考えを覚えるものなの?」「自分で考えるって、どういうこと?」そんなところから始めたい小学生や、哲学をほとんど読んだことがない人に向いています。
本の特徴
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」「友だちは必要?」「うそをついてもいい?」
といった、子どもでも一度は考えたことがありそうな疑問をもとに、哲学を進めていきます。
登場するのは、「ぼく」と猫のペネトレです。二人の対話を読みながら、「本当にそうなのかな?」「別の考え方はないかな?」と、自分でも考えていける作りになっています。
おすすめ理由
この本の良いところは、哲学者の名前や難しい専門用語を覚えることから始めないところです。身近な疑問について、「当たり前だと思っていたけれど、本当にそうなの?」と考えるところから始まります。
この本は、「道徳的運」そのものを専門的に説明する本ではありませんが、
哲学とは、身近な疑問をそのままにせず、理由を考え、別の見方も確かめながら、自分で問い直していくものだ
という感覚をつかむのに向いています。

【中級者向け】
『道徳的な運――哲学論集一九七三~一九八〇』 バーナード・ウィリアムズ  著 伊勢田哲治 監訳

原著は Moral Luck: Philosophical Papers 1973–1980(モラル・ラック――フィロソフィカル・ペーパーズ、「道徳的な運――1973年から1980年の哲学論文集」)です。

「道徳的運という考えを生み出したウィリアムズ本人の文章を読んでみたい」という人向けです。哲学書を読むのが初めての場合には少し難しく感じる可能性があります。
本の特徴
この本は、ここまでの記事で何度も登場したバーナード・ウィリアムズ本人の論文を日本語で読める本です。
おすすめ理由
この本を読むと、「記事で説明されていたのは、この議論だったのか」とつながりやすくなります。ただし、ウィリアムズの文章は簡単な入門書ではありません。一度で全部理解しようとせず、まず第2章「道徳的な運」から読んで、わからないところはこの記事へ戻るくらいの読み方がおすすめです。哲学書は、一度読んですべてを理解しなければならない本ではありません。

【この記事を読んだ人全体に、いちばんおすすめ】
『バーナード・ウィリアムズの哲学――反道徳の倫理学』 渡辺一樹 著

「原典はいきなり難しそう。でも、この記事よりもう一段深く知りたい」という人に、特におすすめです。高校生以上はもちろん、大人の初学者にも読み進めやすい位置にある本です。
本の特徴
この本は、ウィリアムズの哲学全体を、人格。倫理。運。道徳。政治。といった問題からたどっていく入門書です。この記事で扱った「道徳的運」を、ウィリアムズの哲学全体の中に置いて理解できるところが大きな特徴です。
おすすめ理由
道徳的運だけを切り離して読むと、「ウィリアムズは、運によって責任が変わると言った人」という単純な理解になってしまうことがあります。しかし、第6章まで見てきたように、ウィリアムズが考えていたのはもっと広い問題でした。「人間の生き方を、運から完全に切り離して考えることが本当にできるのか」という問題です。この本は、そのつながりを日本語で追いやすいため、この記事を読んで「道徳的運って面白い」と思った人が、次に進む一冊として最もすすめやすい本です。

原典である『道徳的な運』を読む前の案内役として読んでもよいですし、原典を読んでから「自分の理解は合っていたかな」と確認するために読むこともできます。

三冊を読む順番に迷ったら、

『こども倫理学』
↓
『バーナード・ウィリアムズの哲学――反道徳の倫理学』
↓
『道徳的な運――哲学論集一九七三~一九八〇』

という順番がおすすめです。

最初に「倫理について考える」という感覚をつかむ。

次に、ウィリアムズが何を問題にしたのかを日本語の解説で理解する。

そして最後に、ウィリアムズ本人の文章へ進む。

そうすると、

「道徳的運という言葉を知っている」状態から、「なぜこの問題が哲学者を悩ませてきたのかを自分でも説明できる」状態へ、一歩ずつ進みやすくなります。

11|まとめ考察

道徳的運が私たちに問いかけていること

ここまで「道徳的運」について見てきました。

最後に、この考えを知ることで、私たちは人や自分をどう見られるようになるのかを考えてみましょう。

まず、この記事でわかったことを一つの言葉にまとめるなら、

人を評価するとき、私たちは「その人が自分で選んだこと」だけを見ているとは限らない。

ということです。

結果がどうなったのか。

どんな状況に置かれていたのか。

どんな性格や能力を持っていたのか。

そして、その行動に至るまでにどんな原因があったのか。

そこには、本人が自分では選べなかったものも混ざっています。

それでも私たちは、人をほめたり、責めたり、「この人はこういう人だ」と判断したりします。

だから道徳的運は、

「運があるか、ないか」を考える問題ではありません。

人生に運があること自体は、珍しいことではありません。

本当に難しいのは、

「自分では選べなかったことに左右されながら生きている人間を、それでも私たちはどのように責任ある存在として見るのか」

という問題です。

ここからは、これまで確認してきた哲学をもとにしたこの記事上の考察です。

道徳的運を知ると、人を見るときに二つの方向へ目を向けられるようになるのではないでしょうか。

一つは、

「その人には、どこまで選ぶことができたのだろう」

と考えること。

もう一つは、

「それでも、その人自身が選んだことは何だったのだろう」

と考えることです。

どちらか片方だけではありません。

「環境が悪かったのだから仕方がない」

だけでもなく、

「本人がやったのだから全部本人の責任だ」

だけでもない。

選べなかったものを見ながら、それでも選んだものを見る。

私は、ここに道徳的運という考えの面白さがあると思います。

少し大きな言い方をすれば、人間は、

自分の人生を完全には選べないのに、その中で何かを選びながら生きている存在

なのかもしれません。

生まれる場所は選べません。

最初から持っている性格や能力も、すべて自分で決めたわけではありません。

誰と出会うのか。

どんな出来事が起きるのか。

努力したことが、どんな結果になるのか。

そのすべてを思いどおりにはできません。

しかし、だからといって、私たちの選択にまったく意味がなくなるわけでもありません。

「自分では決められなかったもの」と「その中で自分が選んだもの」が重なって、私たちの人生はできている。

道徳的運は、その当たり前のようで不思議なことを、あらためて見せてくれる問題だと考えることができます。

こんな経験はありませんか。

友達と同じようなミスをしたのに、自分のときだけ大きな問題になってしまった。

反対に、自分も同じような失敗をしていたのに、たまたま何も起きなかった。

一生懸命準備して成功したけれど、振り返ってみれば、よい先生や仲間、タイミングにも恵まれていた。

誰かの失敗を見て、

「どうしてこんなことをしたんだろう」

と思ったけれど、その人の置かれていた状況を知ったあとで、少し見え方が変わった。

こうした経験のすべてが、そのまま「道徳的運」だというわけではありません。

しかし、本人が選べなかった条件と、その人への評価の関係を考えるきっかけにはなります。

ここで、この記事上の一つの考え方を試してみましょう。

私はこれを、わかりやすくするために、

「結果をいったん隠して見る」

と呼ぶことにします。

これは哲学上の正式な専門用語ではありません。

道徳的運を日常で考えやすくするための、この記事独自の見方です。

たとえば、誰かが大きな失敗をしたとします。

結果を知った私たちは、

「なんて悪い判断をしたんだ」

と思うかもしれません。

そこで一度だけ、その結果を頭の中から隠してみます。

そして、

「結果を知らない、その行動をする前の時点でも、私は同じようにこの人を評価するだろうか?」

と考えてみます。

もし評価が大きく変わるなら、

自分はその人の「選択」だけではなく、「結果」にもかなり影響されて判断していたことに気づけるかもしれません。

反対に、結果を隠して考えても、

「やはりこの行動は危険だった」

と思うなら、

問題だったのは結果だけではなく、その人が選んだ行動そのものだったと考えやすくなります。

これは、結果を無視するための方法ではありません。

結果と行動を、いったん分けて考えるための方法です。

事故が起きたなら、その被害への対応は必要です。

失敗によって誰かが困ったなら、その結果について考える必要があります。

しかし、

「悪い結果が起きたこと」と、「その人がどれくらい悪い判断をしたのか」を、最初から同じものにしない。

道徳的運を学ぶと、そんな見方ができるようになります。

では、あなたならどうでしょう。

同じように危険な行動をした二人のうち、一人だけが偶然事故を起こしたとき、二人を同じように責めますか。それとも、違うように責めますか。

この記事で確認してきた範囲では、この問いに哲学者全員が認める一つの答えがあるわけではありません。

ただし、考えるための手がかりはあります。

まず、

二人が自分で選んだ行動は、どこまで同じだったのか。

次に、

結果の違いのうち、本人には選べなかったものは何だったのか。

そして、

「何について責任を負うのか」と「どれくらい強く責められるのか」を分けて考えられないか。

この三つを確かめてみます。

そうすれば、

「事故を起こしたから全部悪い」

「偶然だったから何も悪くない」

という二つの極端な答えだけではなくなります。

道徳的運を知ることで得られるのは、

「誰が悪いのか」を簡単に決めるための公式ではありません。

むしろ、

人を簡単に決めつける前に、もう一つ見るべきものがあると気づくこと

なのではないでしょうか。

失敗した人を見るときには、

「この人が選べなかったものは何だったのだろう」

と考える。

成功した人を見るときには、

「この人が自分だけでは用意できなかったものは何だったのだろう」

と考える。

そして同時に、

「それでも、この人自身が選び取ったものは何だったのだろう」

と考える。

運を知ることは、責任をなくすことではありません。

むしろ、

責任について、結果だけを見るよりも丁寧に考えられるようになることです。

道徳的運が私たちに問いかけているのは、

「人生は運なのか、努力なのか」

という二択ではないのでしょう。

もっと難しく、そしてもっと身近な、

「自分では選べないものに囲まれながら、それでも私たちは、どのように選び、どのように互いを評価して生きていけばよいのか」

という問いなのだと考えることができます。

そして、その問いに向き合うとき、

人を見る目だけでなく、

自分自身の成功や失敗を見る目も、少しだけ変わってくるかもしれません。

12|疑問が解決した物語

「どうして同じなのに?」

あの日から、ユウはずっと考えていました。

ハルもソウタも、同じように危ない自転車の乗り方をしていました。

それなのに、事故を起こしたのはソウタだけでした。

でも、道徳的運について調べた今なら、ユウには少しわかります。

数日後の帰り道。

三人は自転車を押しながら歩いていました。

ハルが言いました。

「やっぱり、事故を起こしたソウタのほうが悪いってことなのかな」

ユウは少し考えてから答えました。

「全部がそうとは言えないと思う」

「二人とも危ない走り方をした。そこは同じだよね」

「でも、ソウタの前に人が出てきたことは、ソウタが決めたわけじゃない」

ソウタが言いました。

「じゃあ、事故は全部“運が悪かっただけ”ってこと?」

「それも違うと思う」

ユウは答えました。

「人が出てきたのは選べなかった。でも、危ない走り方をしたのは自分で選んだことだから」

ハルは少し黙ってから、

「じゃあ、俺も事故にならなかっただけで、危ないことをしてなかったことにはならないんだ」

と言いました。

ユウはうなずきました。

ユウは少し考えてから、二人に言いました。

「僕は、二人がまったく同じだとも、ソウタだけが全部悪いとも思わない。危ない走り方をしたことは、二人とも考えないといけない。でも、ソウタの前に人が出てきたことまで、ソウタが選んだわけじゃない。だから、自分で選んだことと、運でそうなったことを分けて考えるのが大事なんだと思う」

そう言葉にしてみると、ユウの中で、あの日からずっと引っかかっていた疑問が少しずつ整理されていきました。

ハルとソウタには、同じところと違うところがあります。

二人とも危ない走り方をした。

しかし、ソウタにだけ実際の事故が起きた。

その事故については、ソウタにはハルにはない対応が必要です。

けれど、

事故が起きたという結果だけで、ソウタという人間すべてをハルより悪いと決めることはできません。

結果の違いには、本人には選べなかった運も関係しているからです。

そして、

「運が関係したなら、責任はなくなるの?」

という疑問への答えもわかりました。

答えは、いいえです。

運が関係していても、自分で選んだ行動について考えることはできます。

大切なのは、

「自分で選べたこと」と「自分では選べなかったこと」を分けて考えることです。

その日から、ハルとソウタは以前より慎重に自転車に乗るようになりました。

ソウタは、

「全部、自分だけが悪かった」

とも、

「全部、運が悪かっただけ」

とも考えなくなりました。

ハルも、

「事故にならなかったから、自分には問題がなかった」

とは考えなくなりました。

ユウも、誰かが失敗したとき、すぐに結果だけでその人を判断するのではなく、

「その人が選んだことは何だろう」

「その人には選べなかったことは何だろう」

と考えるようになりました。

あの日の、

「結果がたまたま違っただけでも、人の責任って変わるの?」

という疑問。

今のユウなら、こう答えます。

結果が違えば、「何について責任を考えるのか」が変わることはあります。

でも、

結果が違うだけで、その人の悪さや責められる程度まで必ず同じように変わるとは限りません。

そこに本人には左右できなかった運がどれほど関係しているのかを、分けて考える必要があるからです。

では、あなたならどうでしょう。

ハルとソウタの友達だったら、二人をどう見ますか。

一つの考え方は、

危ない走り方については二人とも考える。
実際に起きた事故についてはソウタが向き合う。
でも、偶然起きた結果だけで、ソウタという人間全部をより悪いと決めない。

というものです。

道徳的運は、

「誰が悪いのか」をすぐに決めるための答えではありません。

道徳的運とは、本人には選べなかった運や偶然が、その人や行動への道徳的な評価に関係してくる場合を表す言葉です。

そして、

「本人が選んだこと」と「本人には選べなかったこと」を分けながら、責任や評価をどのように考えればよいのか。

それが、道徳的運をめぐって私たちが考えることになる問いなのです。

13|文章の締めとして

私たちは、誰かの失敗を見ると、

「もっとちゃんとすればよかったのに」

と思うことがあります。

誰かの成功を見ると、

「この人はすごい人なんだ」

と思うこともあります。

でも、その結果だけでは見えないものがあります。

その人が何を選べたのか。

何を選べなかったのか。

どんな偶然が重なったのか。

そして、その中で何をしようとしたのか。

道徳的運について考えると、人を見るときに、結果の少し手前まで戻って考えてみたくなります。

それは、人に甘くなるということではありません。

反対に、厳しくなることでもありません。

すぐに決めつける前に、その人が置かれていた場所まで少し想像してみること。

そんな小さな変化なのだと思います。

そして、その見方は他人だけではなく、自分にも向けることができます。

うまくいかなかったときに、何もかも自分のせいにしない。

うまくいったときに、何もかも自分一人の力だと思わない。

そのうえで、

「では、その中で自分は何を選ぶのか」

を考えていく。

哲学は、すべてをきれいに解決してくれるものではありません。

けれど、今まで一つに見えていた出来事の中に、いくつもの見方があることを教えてくれます。

今回の「道徳的運」も、そんな問いの一つでした。

補足注意

この記事は、筆者が個人で確認できる範囲で、哲学の専門資料や信頼できる情報をもとにまとめたものです。

道徳的運については、哲学者や研究者のあいだでもさまざまな立場や解釈があり、この記事で紹介した考えだけが唯一の答えではありません。

また、研究や議論が進むことで、新しい見方や解釈が示される可能性もあります。

🧭 本記事のスタンス

この記事は「これが正解」と決めるためではなく、道徳的運という問題に興味を持ち、自分でも考えたり調べたりするための入り口として書いています。

ぜひ、ここで紹介した考えだけでなく、さまざまな立場からの見方も大切にしながら、自分なりに考えてみてください。

もしこの記事で「道徳的運」を知る“運”に出会えたなら、その運を学びの縁に変えて、ぜひ文献や資料のその先へ――運を知るほど問いは深まり、問いを深めるほど、「道徳的運」はもっと奥深く、もっと面白く見えてくるはずです。

最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました。

道徳的運は、人生には自分で選べないことがあるからこそ、その中で自分が何を選ぶのかを丁寧に考えることの大切さを教えてくれているのかもしれません。

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