アパテイアとは?意味とストア派の考え方|感情に振り回されず理性的に生きる哲学

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怒り、不安、悲しみ、喜び。心が揺れるのは自然です。ストア派「アパテイア」から、感情をなくさず、その次の判断と行動を自分で選ぶ生き方をたどります。

心が揺れても、その次の一歩は自分で選べる――アパテイアから考える感情との付き合い方

代表例

こんなことはありませんか。

友達にLINEを送りました。

でも、なかなか返事がありません。

10分。30分。1時間。

「何か怒らせたかな?」

「嫌われたのかな?」

だんだん不安になってきます。

反対に、こんなこともあります。

誰かに褒められて、ものすごく嬉しくなる。

欲しかったものが手に入って、気分が高まる。

うまくいっているときには、

「この状態がずっと続いてほしい」

と思うこともあります。

私たちの心は、周りで起きた出来事によって大きく動きます。

怒る。

悲しむ。

怖くなる。

嬉しくなる。

楽しくなる。

では、こうした心の動きと、私たちはどのようにつき合えばよいのでしょうか。

感情のままに動くことと、自分で考えて行動することは同じなのでしょうか。

そして、心が大きく揺れているときにも、落ち着いて物事を見ることはできるのでしょうか。

2000年以上前のストア派の哲学者たちも、人間の心が外の出来事に動かされることについて深く考えました。

そこで大切になる言葉の一つが、

「アパテイア」

です。

アパテイアとは、いったいどのような状態なのでしょうか。

5秒でわかる「アパテイア」

アパテイアとは、心が動いても、その情念に支配されず、理性的に判断できる状態です。

まずは、この意味を覚えておけば大丈夫です。

小学生にもわかるように言うと

アパテイアとは

ゲームで負けて、

「くやしい!」

と思ったとします。

くやしい気持ちが生まれること自体は、おかしなことではありません。

でも、その勢いでコントローラーを投げたり、相手にひどいことを言ったりしたらどうでしょう。

反対に、ゲームで勝って、

「やった!」

と嬉しくなることもあります。

それも自然な心の動きです。

でも、嬉しさのあまり相手をばかにしたり、「自分は絶対に負けない」と調子に乗ったりすることもあるかもしれません。

大切なのは、

怒りや悲しみ、喜びなどが生まれても、その気持ちだけに自分の行動を決めてもらわないこと。

怒っている。

嬉しい。

悲しい。

それでも、

「では、自分はどうする?」

と考えることはできます。

アパテイアは、

心が動かなくなることではなく、心が動いているときにも、自分を見失わずにいられる状態

とイメージするとわかりやすくなります。

1.こんな経験はありませんか?

人から嫌なことを言われて、一日中その言葉が頭から離れない。

仕事で失敗して、落ち込んだ気持ちから抜け出せない。

まだ起きていないことを考えて、不安になる。

腹が立って、その場の勢いで言わなくてもいいことまで言ってしまう。

反対に、

褒められたことが嬉しくて、周りが見えなくなる。

成功した勢いで、「次も絶対にうまくいく」と無理な判断をする。

欲しいものを見つけて、「どうしても今すぐ欲しい」と頭がいっぱいになる。

私たちは、悲しみや怒りのような気持ちだけでなく、喜びや欲望によっても大きく心を動かされます。

では、

「感情豊かに生きること」と「感情に振り回されること」は、同じなのでしょうか。

ここが、今回一緒に考えたいところです。

ストア派が目指したのは、ただ無表情でいることではありません。

また、嫌なことが起きても「気にしない」と我慢するだけの考えでもありません。

この記事では、

アパテイアとは、本当はどのような状態なのか。

ストア派は、怒り・悲しみ・恐れ・欲望・喜びなどをどう考えたのか。

なぜ「理性的に生きること」が大切だと考えたのか。

そして、

その考えを、現代の私たちの日常にどう持ち帰れるのか。

を、哲学を初めて学ぶ人にもわかるように順番に見ていきます。

難しい言葉を覚えることだけが目的ではありません。

アパテイアを知ったあと、

「自分はいま、感情に動かされているのかな?」

「このまま行動していいのかな?」

と、自分自身に問いかけられるところまで一緒に進んでみましょう。

2.疑問が生まれた物語

「怒っている。でも、このまま送っていい?」

大学生のユウタは、友人と旅行へ行く約束をしていました。

ところが一週間前、

「ごめん。バイトの都合で行けなくなった」

と連絡が来ます。

ずっと楽しみにしていたユウタは腹が立ちました。

「もういい。二度と誘わない」

そう返信しようとして、ふと手が止まります。

怒っている。

それは本当です。

でも、

「怒っていること」と「怒りのまま行動すること」は、同じなのだろうか。

以前、授業で聞いた言葉を思い出しました。

「アパテイア」。

感情を我慢することなのか。

何も感じなくなることなのか。

それとも、まったく別の意味なのか。

ユウタは、その言葉を調べてみることにしました。

3.ここまで読めばわかる、アパテイアの結論

ここで、いちばん大切なところを整理しましょう。

このアパテイアを大切にしたのが、

「ストア派」

と呼ばれる古代ギリシアの哲学者たちです。

ストア派は、

「人は、どうすれば周りの出来事に振り回されず、よりよく生きられるのか」

を考え、理性や徳を大切にしました。

アパテイアは、そんなストア派の生き方を理解するための重要な考えの一つです。

アパテイアとは、情念に支配されず、理性に従って判断できる状態です。

ここで注意したいのが、

「情念」と「感情」は、まったく同じ意味ではないことです。

ストア派「パトス(pathos)」と呼んだ情念とは、簡単に言えば、

私たちを強く動かす、理性に従わないほど過剰になった心の動きで、その人の価値判断とも深く結びついたもの

です。

ストア派では、代表的なパトスとして、欲望・恐れ・快楽・苦悩などが考えられました。

だから、

「怒るのは全部悪い」

「悲しんではいけない」

「嬉しくなってはいけない」

という話ではありません。

人間である以上、出来事に心が動くことがあります。

突然の出来事に驚く。

怖い場面で胸がドキッとする。

大切なことがうまくいかず、悲しくなる。

嬉しいことがあって、心が明るくなる。

ストア派は、こうした心の動きを何もかも同じものとして否定したわけではありません。

実際、ストア派は、

「エウパテイアイ(eupatheiai)」

と呼ばれる、理性にかなった「よい感情」も認めています。

たとえば、理性的な喜びや、善いものを願うことなどです。

つまり、アパテイアで大切なのは、

感情があるか、ないかではありません。

その心の動きによって、理性的に考える力まで支配されてしまっているかどうかです。

では、なぜストア派は情念が人間を支配すると考えたのでしょうか。

ここでもう一つ、大切になるのが、

「自分が何を善いもの、悪いものだと判断しているか」

という問題です。

たとえば、

「人から悪く思われることは、絶対に避けなければならない」

と思っていれば、人の評価が少し変わっただけでも大きな恐れが生まれやすくなります。

「欲しいものを手に入れれば、自分は幸せになれる」

と強く考えていれば、それを失うことへの不安や、手に入れたいという欲望も大きくなるでしょう。

ストア派は、このように、

情念と、その人が何を善い・悪いと考えているのかには深い関係がある

と考えました。

ここで大切なのは、

「アパテイアとは、思い込みと事実を見分けることだ」とだけ理解しないことです。

事実と思い込みを分けて考えることは、ストア派を理解するうえで役立つ一つの視点です。

しかし、それだけではありません。

たとえ本当に嫌われていたとしても、

本当に失敗したとしても、

本当に大切なものを失ったとしても、

ストア派はさらに問いかけます。

「その出来事を、自分はどれほどの善や悪だと考えているのだろう?」

そして、

「その出来事に心を支配されたまま行動するのではなく、理性的に自分の生き方を選ぶことはできないだろうか?」

と考えます。

つまりアパテイアとは、

何も感じない人になることではなく、世の中の出来事によって心が動いても、情念に自分を支配させず、理性に従って生きられる状態。

まずは、そう理解しておきましょう。

では、ストア派はなぜこのような生き方を理想としたのでしょうか。

そして、

感情に振り回されずに生きることは、本当に私たちを幸福にするのでしょうか。

ここから、アパテイアのもう少し深いところへ進んでみましょう。

4.正確に知る――アパテイアとは何なのか

ここからは、アパテイアをもう一段深く見ていきましょう。

アパテイアは、古代ギリシア語の

「ἀπάθεια(apatheia/アパテイア)」

という言葉です。

ストア派(古代ギリシアで始まり、古代ローマにも広がった哲学の一派)は、

パトス(pathos)と呼ばれる「情念」に支配されない状態

を表します。

では、そもそも「情念」とは何なのでしょうか。

ここが、アパテイアを理解するうえで一番大切なところです。

パトスは、単に「強い感情」という意味ではない

ストア派が「パトス」と呼んだものは、私たちが普段「感情」と呼んでいるもの全部と同じではありません。

ストア派はパトスを、

何を本当の善・悪とするかについての誤った価値判断と結びついた、理性に従わないほど過剰な衝動

として考えました。

たとえば、試験に落ちたとします。

結果を見た瞬間、

「ショックだ」

と胸が沈むことはあるでしょう。

しかし、そこから、

「これで自分の人生は終わりだ」

「合格できない自分には価値がない」

「こんな結果は絶対に受け入れられない」

と考え始めたらどうでしょう。

ストア派が注目したのは、

心が動いたということだけではなく、その出来事を自分がどのような「善」や「悪」として判断しているのか

という部分です。

私たちは、出来事をただ受け取るだけではありません。

そこに、

「これは絶対に必要だ」

「これは絶対に失ってはいけない」

「こんなことは起きてはいけない」

という評価を加えることがあります。

そして、その判断を正しいものとして受け入れることで、欲望や恐れ、苦悩などが私たちを強く動かすことがある。

ストア派は、そこまで含めて「情念」の問題を考えました。

ここでいう「誤った判断」とは、怒りや悲しみそのものが偽物だ、という意味ではありません。

ストア派が問い直したのは、その感情の奥にある「何を本当に善いもの、悪いものと考えているのか」という価値判断です。

だから哲学するとは、

感情を力ずくで押さえ込むことではなく、

「私は、なぜこれほど怒っているのだろう」

「私は、何を失うことを恐れているのだろう」

「それは本当に、自分の人生を決めるほどの善や悪なのだろうか」

と、自分の判断を吟味していくことでもあるのです。

心が動くことと、情念に支配されることは同じではない

ここで、もう一つ大切な違いがあります。

突然、大きな音がしたら驚く。

危険を感じれば、胸がドキッとする。

大切な出来事があれば、心が揺れる。

こうした最初の反応まで含めて、ストア派がすべて取り除こうとした、と考える必要はありません。

後代のストア派では、

「プロパテイアイ(propatheiai)」=考えるより先に自然に起こる最初の心や体の反応

も区別されました。

たとえば、大きな音に驚いたり、危険を感じて胸がドキッとしたりする反応です。

つまり、

最初に心が動くことと、その感情に従って判断・行動することは別に考えられる

ということです。

アパテイアを、

「何も感じなくなること」ではなく、「心が動いても、そこから先を情念だけに任せない状態」

と考えると、ここまでの話がつながってきます。

「嬉しい」「楽しい」気持ちもなくなるの?

ストア派は、心の動きそのものをすべてなくすことを理想にしたわけではありません。

そのことをよく表しているのが、

「εὐπάθειαι(eupatheiai/エウパテイアイ)」

という考え方です。

これは、理性にかなった「よい感情」を表す言葉です。

ストア派では代表的に、

喜び――理性にかなった喜び

願い――本当に善いものを望むこと

慎重さ――本当に避けるべきものを理性的に避けようとすること

などが考えられました。

ここからわかるのは、

ストア派が目指した人間は、何を見ても何も感じない人ではないということです。

大切なのは、

「感情があるか、ないか」ではなく、その心の動きが正しい判断と調和しているかどうか。

ここに、アパテイアを理解する大きなポイントがあります。

アパテイアは「我慢すること」でもない

腹が立っているのに、

「怒ってはいけない」

と無理に押さえ込む。

悲しいのに、

「気にしてはいけない」

と言い聞かせる。

それだけでは、ストア派が考えたアパテイアには届きません。

ストア派が目を向けたのは、もっと奥です。

「私は、なぜこれほど心を乱されているのだろう?」

「私は、この出来事をどんな善や悪だと考えているのだろう?」

と、自分自身の判断まで確かめていく。

たとえば、誰かに悪く言われて腹が立ったとします。

そこで、

「怒らないようにしよう」

だけで終わるのではなく、

「なぜ私は、他人から悪く評価されることをこれほど恐れているのだろう」

と考えてみる。

すると、

他人の評価を、自分の人生を決めるほど大きなものとして扱っていたことに気づくかもしれません。

もちろん、誰かから傷つけられた事実や現実の被害まで「考え方の問題」で片づける必要はありません。

大切なのは、

現実をきちんと見たうえで、自分の判断まで情念に預けないことです。

アパテイアを一言で持ち帰るなら

ここまで少し深く見てきました。

最後に、もう一度まとめましょう。

アパテイアとは、心が動かないことではありません。

心が動いても、情念に支配されず、自分が何を善い・悪いと判断しているのかを吟味しながら、理性に従って生きられる状態です。

怒ったとき。

悲しくなったとき。

怖くなったとき。

嬉しくて舞い上がりそうになったとき。

そんなときに、

「この感情を消さなければ」

ではなく、

「私は、いま何を大切なものだと考えているのだろう?」

と問いかけてみる。

そこから、アパテイアは昔の哲学用語ではなく、

自分自身の生き方を考えるための問い

になっていきます。

5.なぜストア派はアパテイアを目指したのか

ここまで何度も、

「ストア派」

という名前が出てきました。

でも、そもそもストア派とは、どんな哲学なのでしょうか。

そして、なぜアパテイアを理解するために、ストア派について知る必要があるのでしょうか。

まず、そこからつなげてみましょう。

そもそも「ストア派」とは?

ストア派とは、

古代ギリシアで始まり、のちに古代ローマにも広がった哲学の一派

です。

始まりは紀元前300年ごろ。

日本列島では弥生時代にあたる頃です。

キティオン出身の哲学者、

ゼノン(Zeno of Citium/キティオンのゼノン)

がアテナイで教え始めたことから、ストア派の歴史が始まりました。

「ストア派」という名前は、ゼノンたちが哲学を語った場所に由来します。

その場所は、

ストア・ポイキレ(Stoa Poikile)

と呼ばれる、アテナイのアゴラにあった柱廊でした。

柱廊(ちゅうろう)とは、柱が並び、その上に屋根をかけた、歩いたり人が集まったりできる細長い通路や空間のことです。

古代ギリシアの「ストア」も、このような屋根付きの柱廊を指します。

「ストア」は柱廊、「ポイキレ」は彩色された・装飾されたという意味で、日本語では「彩色柱廊」などと訳されます。

壁画で飾られたこの柱廊にゼノンたちが集まり、哲学を教えていたことから、やがてその思想を受け継ぐ人々が「ストア派」と呼ばれるようになりました。

つまり、もともとは哲学者の名前ではなく、

「あの柱廊で哲学を学んでいる人たち」

という場所に由来する名前だったのです。

その思想は長く受け継がれ、古代ローマの時代になると、

セネカ、

エピクテトス、

ローマ皇帝でもあったマルクス・アウレーリウス

など、現在まで名前が残る思想家たちにもつながっていきました。

ストア派は一人の哲学者の考えだけではなく、

何百年にもわたって発展していった哲学の伝統

なのです。

ストア派は、何を考えた人たちなのか

ストア派は、感情だけについて考えていた人たちではありません。

論理学。

自然について考える哲学。

そして、人間はどう生きるべきかを考える倫理学。

こうした分野を互いに結びつけながら、世界と人間の生き方を大きな視点から考えました。

その中でも、今回の記事にとって特に重要なのが、

「人は、どうすればよく生きられるのか」

という問いです。

古代ギリシアでは、人生全体としてよく生きている状態を、

エウダイモニア(eudaimonia/)=人生全体としての幸福・よく生きている状態

という言葉で考えました。

ここでいう幸福は、

「今日は楽しかった」

「気分がいい」

という、一時的な気持ちだけを意味するものではありません。

人生全体を通して、人間としてよりよく生きている状態に近い意味です。

では、そのために何が大切なのでしょうか。

ストア派が特に重視したのが、

徳を備え、理性に従って生きること

です。

ここでいう「徳」は、

アレテー(aretē)=人間としての優れたあり方

を意味します。

少しかみ砕くと、

何がよいことなのかを考え、その状況でできるだけよい判断や行動を選べる、人間としての優れたあり方

と考えるとわかりやすいでしょう。

そして「理性に従う」とは、

怒りや欲望などを何も感じなくなることではありません。

心が動いているときにも、その気持ちだけで決めず、「本当にこの判断や行動でよいのだろうか」と考えること

です。

つまりストア派は、

「何が起きたか」だけで人生のよし悪しを決めるのではなく、その状況の中で自分がどう考え、どう行動するかを大切にした

のです。

では、アパテイアは、この考えとどのようにつながるのでしょうか。

だから「アパテイア」が重要になる

怒りや恐れ、欲望、苦悩などが、理性に従えないほど過剰な情念になれば、

自分が本当にどう判断し、どう行動するべきなのかを見失いやすくなります。

だからこそストア派では、

情念に支配されず、理性的に判断できる「アパテイア」という状態が重要になります。

ここで大切なのは、

アパテイアだけが人生の最終ゴールなのではない、

ということです。

ストア派が大きな目標として考えたのは、

徳と理性に従って、よく生きること。

アパテイアは、

そのような生き方と深く結びついた重要な状態

なのです。

ここまでつながると、

なぜアパテイアの記事で「ストア派」という言葉が何度も登場してきたのかも見えてきます。

アパテイアは、

「嫌な気持ちを消す方法」

「いつも冷静でいるためのテクニック」

として、それだけを切り離して理解するものではありません。

「人間はどうすれば幸福に、よりよく生きられるのか」というストア派の大きな哲学の中で理解するべき考え

なのです。

だからアパテイアを知ることは、

単に「感情をどう抑えるか」を知ることではありません。

感情のある人生の中で、それでも自分は何を大切にし、どう判断し、どう生きていくのか。

その問いを考えることにもつながっていきます。

「自然に従って生きる」とは?

ストア派には、もう一つ大切な考えがあります。

「自然に一致して生きる」

という考えです。

ここでいう「自然」は、

山や森のような自然環境や、

「無理をせず、自然体で生きよう」

という意味だけではありません。

ストア派が考えた「自然」とは、

世界全体を成り立たせている秩序と、人間が本来もっている理性や社会性を含んだもの

です。

人間には、物事を考える理性があります。

そして、一人だけで生きるのではなく、他者と関わりながら生きる性質もあります。

そのため、

「自然に従って生きる」とは、人間に備わった理性や社会性をよく働かせながら、世界の現実や秩序の中で、よりよく生きようとすること

と考えるとわかりやすいでしょう。

つまり、

「何でも思い通りにしよう」

とするのでもなく、

「どうせ変えられないから諦めよう」

とするのでもありません。

現実を受け止めながら、その中で自分はどう考え、どう行動するのがよいのかを選ぶ。

それが、ストア派のいう「自然に従って生きる」という考えにつながります。

だから、

「世界をすべて自分の思い通りにしたい」

と考えるのではなく、

現実を見ながら、

「この状況で、自分はどのように考え、どのように行動するのがよいのだろう?」

と問います。

起きた出来事を諦めて受け入れる、という意味ではありません。

大切なのは、

世界のすべてを支配しようとするのではなく、その状況の中で自分の理性をどう使うか

ということです。

「自分次第であるもの」に目を向ける

この考えを、とても印象的に伝えた人物が、

エピクテトス(Epictetus)

です。

エピクテトスは、西暦55年ごろから135年ごろ(日本列島では弥生時代にあたる頃)に生きた、古代ローマ時代のストア派の哲学者です。

現在のトルコにあたる地域のヒエラポリスで生まれ、若い頃にはローマで奴隷として暮らした時期がありました。その後、自由の身となり、哲学を教えるようになります。

エピクテトス自身が書いた本は残っていませんが、弟子のアリアノス(Arrian)がその教えを書き留めたことで、『語録』や、その内容を短くまとめた提要(Encheiridion/エンケイリディオン、「手引き・携帯できる教本」の意)』として現在まで伝わっています。

エピクテトスが特に重視したのは、

「自分が引き受けられる判断や選択」と、「自分だけでは決められない外の出来事」を区別すること

でした。

他人の評価や結果まですべて思い通りにしようとするのではなく、

自分がどう判断し、何を選び、どう行動するかに目を向ける。

この考えが、「自分次第であるもの」に目を向けるという教えにつながっていきます。

エピクテトス『提要(Enchiridion/エンケイリディオン)』の冒頭で、

「自分次第であるもの」「自分次第ではないもの」

を区別しています。

たとえば、

自分がどう判断するか。

何を選ぼうとするか。

どのような姿勢で行動するか。

こうした部分には、自分自身が深く関われます。

しかし、

他人が自分をどう評価するか。

努力した結果が必ず成功するか。

自分がいつまでも健康でいられるか。

世の中で何が起こるか。

こうしたことを、自分一人の意思だけで決めることはできません。

だからといって、

「結果なんてどうでもいい」という話ではありません。

試験なら勉強する。

病気なら治療を受ける。

困っている人がいれば助ける。

できることはします。

それでも、

最後の結果まですべて自分で決めることはできません。

そこでエピクテトスは、

自分では決められない結果だけに心を奪われるのではなく、自分がどう判断し、どう行動するかに目を向けること

を大切にしました。

そして、ここで改めて確認しておきたいのが、

エピクテトス自身も、ストア派を代表する哲学者の一人だということです。

そのため、この考えもエピクテトスだけに切り離されたものではなく、

理性を働かせながら、よりよく生きようとするストア派の哲学の中にある考え

として理解できます。

そして、

外の出来事や情念にそのまま振り回されるのではなく、自分の判断や行動に目を向けようとするところで、

エピクテトスの教えは、ストア派が大切にしたアパテイアの考えとも深くつながっています。

健康や家族を大切にしてもいい

ストア派の話を聞いていると、

「では、健康もお金も家族もどうでもいいの?」と思うかもしれません。

ストア派は、健康や財産、評判などを、人間そのものを善くする「徳」と同じものとは考えませんでした。

しかし、

健康なら病気より普通は望ましい。

生活が安定しているほうが望ましい。

大切な人が元気でいてくれるほうが望ましい。

ということまで否定したわけではありません。

こうしたものは、

「選好される無差別なもの」と呼ばれました。

少し難しい名前ですが、

「普通なら選びたいもの。でも、それを持っているかどうかだけで、人間としての善さや人生の幸福すべてが決まるわけではないもの」

と考えるとわかりやすいでしょう。

だからこそ、

自分の望んだ結果にならなかったときにも、

ストア派には最後まで残る問いがあります。

「この状況で、私はどのような人間でありたいのか?」

外の出来事は、すべて自分では決められません。

それでも、

どう考えるのか。

どう向き合うのか。

どう行動するのか。

そこには、自分が引き受けられる部分があります。

ストア派がアパテイアを大切にした理由も、ここにあります。

情念に自分を支配させるのではなく、どんな状況でも理性と徳に従って、自分の生き方を選び続けるためです。

そう考えるとアパテイアは、

ただ「感情に振り回されない」という言葉よりも、

もう少し大きな意味を持って見えてきます。

「何が起きるか」だけで自分の人生を決めるのではなく、「起きたことに対して、自分はどう生きるのか」を考える。

そこに、ストア派がアパテイアを大切にした理由があるのです。

6.感情に振り回されるまでに、心の中では何が起きている?

ここまで、

アパテイアとは何か。

なぜストア派がそれを大切にしたのか。

を見てきました。

では、もう一歩だけ、自分の心の中をのぞいてみましょう。

ストア派の考えで大切なのは、

何かが起きた瞬間に、私たちの判断や行動まで自動的にすべて決まるわけではない

ということです。

心に何かが現れたあと、

それをどう受け止めるのか。

ストア派は、そこをとても大切にしました。

まず心に「印象」が現れる

たとえば仕事で、上司から厳しい口調で、

「この資料は不十分です。もう一度作り直してください」

と言われたとします。

その言葉を聞いた瞬間、私たちの心には何かが現れます。

「失敗した」

「評価を下げられた」

「恥ずかしい」

と感じるかもしれません。

ストア派では、心に現れるこうした受け取りを、

ファンタシア(phantasia)=「印象」

と呼びます。

ここでいう「印象」は、

「なんとなくそう思った」

という日常語だけを意味するわけではありません。

物事が、自分の心にある姿で現れること

と考えるとわかりやすいでしょう。

ストア派によれば、印象そのものが現れることまで、いつでも自由に選べるわけではありません。

しかし、理性的な人間には、

その印象をそのまま正しいものとして受け入れるかどうかを吟味する働きがあります。

「そうだ」と受け入れる――同意

ここで出てくるのが、

シュンカタテシス(sunkatathesis)=「同意」

です。

簡単に言えば、

心に現れた印象について、

「そうだ。その通りだ」

と受け入れる働きです。

先ほどの上司の例なら、

「資料を作り直すように言われた」

ということが実際に起きています。

そして本当に、自分に改善すべきところがあったのかもしれません。

ストア派が問い直すのは、

現実を都合よく否定することではありません。

さらにその奥にある、

「評価を下げられることは、自分にとって耐えられないほど悪いことだ」

「失敗した自分には価値がない」

といった判断です。

たとえ出来事そのものが事実でも、その出来事を“どれほどの善や悪”と考えるかは、さらに吟味できます。

ここが大切です。

ストア派では、成人した理性的な人間には、印象に同意することも、いったん同意を保留することもできると考えられました。

同意すると「こうしたい」が生まれる

「これはひどいことだ」

「こんな扱いは許せない」

という印象に同意すると、

「言い返したい」

「逃げたい」

「仕返ししたい」

といった、行動へ向かう心の動きが生まれます。

ストア派では、行動へ向かうこの働きを、

ホルメー(hormē)=「衝動」

と呼びます。

理性的な人間の場合、実践的な印象への同意と、行動へ向かう衝動は深く結びついていると考えられました。

そして、ここまで学んできた、

パトス(pathos)=「情念」

も、この衝動と関係します。

ストア派がパトスと呼んだものは、

単に「感情が強い」というだけではありません。

何を本当の善・悪とするかについての誤った判断と結びついた、正しい理性に従わないほど過剰な衝動

です。

そのため、理解のために簡単に並べるなら、

出来事

印象――「こういうことが起きた・こう見える」

同意――「そうだ、その通りだ」と受け入れる

衝動――「こうしたい」と行動へ向かう

という流れで考えることができます。

ただし、

「衝動のあとに、別のものとして情念が生まれる」わけではありません。

ストア派では、パトスそのものが、誤った価値判断と結びついた過剰な衝動として考えられました。

では、どこで立ち止まれるの?

ここまで聞くと、

「そんなこと、怒っている最中に考えられるの?」

と思うかもしれません。

たしかに、いつでも簡単にできることではないでしょう。

ストア派も、哲学を一度知ればすぐ完璧な賢者になれるとは考えていません。

だからこそ、日々の訓練を重視しました。

たとえば、

「いま腹が立った」

と気づいたとき。

すぐに、

「怒ってはいけない」

と押さえ込むのではなく、

「私は、何をそんなに悪いことだと考えたのだろう?」

と問いかけてみる。

人から批判されたことなのか。

自分の思い通りにならなかったことなのか。

自分の評判が下がることなのか。

そして、

「それは本当に、自分という人間の善さまで決めるほどの悪なのだろうか?」

ともう一度考えてみる。

答えを都合よく変える必要はありません。

現実を見ながら、

自分の判断も見る。

「感じた」から、すぐに「その通りだ」「だからこうするしかない」へ進まない。

その小さな余地を育てることが、ストア派の実践につながります。

アパテイアを日常へ持ち帰るなら、

心が動いたときに、まずこんな問いを置いてみてください。

「いま私は、何を善いもの・悪いものだと判断しているのだろう?」

この問いが、自分の感情を消すためではなく、

自分の感情と一緒に、もう一度自分で考えるための場所

をつくってくれます。

7.ストア派の哲学者たちは、どう考えた?

ここまで私たちは、

「ストア派では……」

という言い方を何度もしてきました。

でも、ストア派は一人の哲学者が作った一枚岩の思想ではありません。

紀元前3世紀ごろから古代ローマ時代まで、数百年にわたって受け継がれ、発展した哲学の伝統です。

当然、その中には考え方の違いもありました。

ここでは名前や年代を暗記するのではなく、

「アパテイアについて考えるとき、この哲学者は何を教えてくれるのか」

という視点から、5人だけ見てみましょう。

ゼノン――「そもそも、どう生きるのがよいのか?」

最初は、

キティオンのゼノン(Zeno of Citium)

です。

紀元前334年ごろから紀元前262年ごろ(いずれも和暦成立以前)に生きたとされ、紀元前300年ごろにアテナイでストア派を始めた人物です。

ストア派の名前も、ゼノンたちが教えた、

ストア・ポイキレ(Stoa Poikile)=「彩色柱廊」

という場所に由来します。

ゼノンから始まる初期ストア派が考えた大きな問いは、

「人間は、どうすればよく生きられるのか」

というものでした。

そして、理性を働かせ、自然と調和して生きることを重視していきます。

つまりアパテイアも、

「嫌な感情をなくす方法」

として単独で考えられたものではありません。

よりよく生きるためには、どのような心のあり方が必要なのか。

その大きな問いの中にあります。

ゼノンから、私たちが持ち帰れる問いは、

「私は、ただ気分よく過ごしたいのか。それとも、どんな人間として生きたいのか?」

です。

クリュシッポス――「なぜ情念に振り回されるのか?」

次に知っておきたいのが、

クリュシッポス(Chrysippus)

です。

紀元前280年ごろから紀元前207年ごろ(和暦成立以前)に生きたとされ、ストア派の思想を大きく体系化した人物です。

彼自身の著作はほとんど残っていないため、現在の私たちは後世の引用や報告を通して、その思想をたどっています。

今回のアパテイアの記事で特に重要なのは、

情念を、判断や同意と結びついた過剰な衝動として考えるストア派の心理学を発展させた人物

だという点です。

クリュシッポスは、情念に動かされる人を、

走り出したあと、すぐには止まれなくなった走者にたとえました。

大切なのは、

「怒りという別の怪物が、理性を攻撃してくる」

と考えなかったことです。

私たち自身の判断が、情念に深く関わっている。

だからこそ、

判断を吟味することで、生き方も変えられる可能性がある

と考えられます。

クリュシッポスから持ち帰れる問いは、

「この感情の奥で、私は何を“本当の善・悪”だと考えているのだろう?」

です。

セネカ――「怒りを、どう扱えばよいのか?」

次は古代ローマの、

ルキウス・アンナエウス・セネカ(Lucius Annaeus Seneca)

です。

紀元前4年ごろから西暦65年(和暦成立以前)に生きたとされるストア派の哲学者です。

セネカは、

怒り。

悲しみ。

死への恐れ。

富や権力。

といった、実際の人生で私たちが苦しみやすい問題を数多く扱いました。

とくに『怒りについて』では、

正しい行動をするために、怒りに自分を支配させる必要はない

というストア派の考えを実践的に論じています。

さらにセネカは、突然の驚きなど、まず自然に生じる最初の反応と、そこから「これは悪だ」「仕返しすべきだ」と同意して本格的な怒りになることを区別しました。

だから、

「怒ってしまった。もうアパテイアから失敗した」

と考える必要はありません。

むしろ問いたいのは、

「この怒りを、そのまま次の行動の理由にするのか?」

ということです。

セネカから持ち帰れる問いは、

「怒っているから行動するのか。それとも、正しいと思うから行動するのか?」

です。

エピクテトス――「その印象を、そのまま信じる?」

次は、

エピクテトス(Epictetus)

です。

西暦55年ごろから135年ごろ(いずれも和暦成立以前)に生きたストア派の哲学者です。

奴隷身分を経験したのち、哲学教師として活動しました。

現在残る『語録』『提要(エンケイリディオン)』は、主に弟子アリアノスを通して伝えられています。

エピクテトスが繰り返し重視したことの一つが、

「印象を正しく使うこと」

でした。

何かが起きる。

心に印象が現れる。

そこで、

「そうに違いない」

とすぐ受け入れるのではなく、

一度吟味する。

さらに、

自分次第であるものと、

自分次第ではないものを区別する。

これは、

第6章で見てきた心の仕組みを、毎日の生き方へ変えていく考えでもあります。

エピクテトスから持ち帰れる問いは、

「いま私にできるのは、何を判断し、どんな行動を選ぶことだろう?」

です。

マルクス・アウレーリウス――哲学を、自分自身に使う

最後は、

マルクス・アウレーリウス(Marcus Aurelius)

です。

西暦121年から180年(いずれも和暦成立以前)に生き、西暦161年から180年までローマ皇帝を務めました。

そして、ストア哲学を自分自身の人生で実践しようとした人物でもあります。

現在『自省録』として知られる文章は、

他人にストア哲学を教えるための入門書として書かれたものではありません。

自分自身がどう生きるべきかを繰り返し確かめるために書かれた文章

と考えられています。

皇帝であっても、

人間関係に悩む。

腹が立つ。

病気や死を考える。

思い通りにならない出来事に直面する。

だからこそ、何度も自分の判断を見直す必要がありました。

ここには、今回のブログそのものにつながるヒントがあります。

哲学は、

一度意味を理解したら終わる知識ではありません。

わかっていても心が揺れるから、そのたびに何度でも自分へ問い直す。

マルクス・アウレーリウスから持ち帰れる問いは、

「今日の出来事を、少し落ち着いた自分ならどう見直すだろう?」

です。

5人から見えてくる「アパテイア」

ここまでを簡単に整理すると、

ゼノン→ 「どう生きるのがよいのか」という土台を考えた。

クリュシッポス→ 情念と判断の仕組みを深く考えた。

セネカ→ 怒りなど、現実の悩みの中でストア哲学を考えた。

エピクテトス→ 印象を吟味し、自分次第のことへ目を向ける実践を重視した。

マルクス・アウレーリウス→ その哲学を、自分自身の日常で何度も実践し直した。

同じストア派でも、見ている角度は少しずつ違います。

だからこそ、

アパテイアという一つの言葉から、

「何を善悪と考えるのか」

「自分の判断をどう扱うのか」

「怒りとどう向き合うのか」

「自分次第のことは何か」

「哲学を日々どう実践するのか」

という、いくつもの問いが広がっていきます。

哲学者の名前を覚えることがゴールではありません。

大切なのは、

彼らの問いを借りて、

「では、自分ならどう考える?」

と自分自身へ戻ってくることです。

8.アパテイアを日常へ持ち帰ってみよう

第6章では、

「心に印象が現れ、私たちはそれをどう判断するのか」

という心の仕組みを見ました。

第7章では、

ストア派の哲学者たちが、情念や判断、生き方についてどのように考えたのかを見てきました。

では、ここからはその哲学を、

私たち自身の日常へ持ち帰ってみましょう。

哲学は、昔の人の答えを覚えて終わるものではありません。

その考えを借りながら、

「この場合、自分ならどう考えるだろう?」

と問い直したとき、哲学は自分のものになっていきます。

ここでは、

SNS。

仕事。

人間関係。

三つの身近な場面から考えてみます。

① SNSの反応が気になってしまうとき

写真や文章を投稿しました。

でも、思ったほど「いいね」がつきません。

他の人の投稿には、たくさん反応があります。

すると、

「自分の投稿はつまらないのかな」

「自分は評価されていないのかな」

と気になってくることがあります。

そんなとき、ストア派の考えを借りるなら、

まず感情を消そうとする必要はありません。

「気になる」

「少し悲しい」

という心の動きに気づいたうえで、

「私は今、他人からの評価をどれほど大きなものとして見ているのだろう?」と考えてみます。

他人が「いいね」を押すかどうかは、自分だけでは決められません。

でも、

何を投稿するのか。

なぜ投稿するのか。

他人の反応を自分の価値とどこまで結びつけるのか。

そこには、自分で考えられる部分があります。

大切なのは、

反応を気にしない人になることではなく、反応だけに自分の価値を決めてもらわないこと。

そんな見方もできます。

② 仕事で失敗したとき

仕事でミスをしました。

上司から注意を受けます。

「失敗した」

という事実は変えられません。

落ち込むこともあるでしょう。

ここでアパテイアを考えるなら、

無理に、

「気にしない」

と思い込む必要はありません。

むしろ、

「この状況で、今の自分にできることは何だろう?」と考えてみます。

原因を確認する。

必要なら謝る。

修正する。

次に同じ失敗をしない方法を考える。

こうしたことには、自分が関われます。

一方で、

上司が自分をどう評価するか。

今回の失敗が将来どのように影響するか。

そこまですべてを自分だけで決めることはできません。

だから、

変えられない結果を何度も頭の中で動かすより、自分が引き受けられる判断と行動へ目を戻す。

これも、ストア派から持ち帰れる考え方です。

③ 人間関係で腹が立ったとき

友人から、嫌なことを言われました。

腹が立ちます。

傷つきます。

その反応が生まれたこと自体を、

「哲学を学んだのだから怒ってはいけない」

と否定する必要はありません。

ここで思い出したいのが、第6章で見た、

心が動くことと、その心の動きのまま行動することは同じではない

という考えです。

腹が立っている。

でも、

すぐに言い返す必要があるでしょうか。

その場を離れる。

少し時間を置く。

相手の意図を確認する。

嫌だったことを落ち着いて伝える。

必要なら距離を置く。

いくつかの行動を考えることができます。

アパテイアを日常に置き換えるなら、

感情をなくしてから行動するのではなく、感情がある状態でも「どう行動するか」を考える。

そこに一つの実践があります。

④ 心がいっぱいになったら、少し高いところから見てみる

もう一つ、第7章で紹介したマルクス・アウレーリウスから借りられる視点があります。

心が一つの問題でいっぱいになったとき、

想像の中で少し高いところへ上がってみます。

部屋の上から自分を見る。

町の上から見る。

国の上から見る。

さらに高く、地球の上から見る。

マルクス・アウレーリウスの『自省録』第7巻48節にも、

人間の営みを高い場所から見下ろすように眺める記述があります。

もちろん、

「宇宙から見れば小さな問題だから、悩む必要はない」

ということではありません。

大切なのは、

目の前の問題だけで視野がいっぱいになったとき、別の大きさから見直してみること。

です。

今日の失敗。

人から言われた一言。

SNSの反応。

今はとても大きく見えている問題でも、

一週間後。

一年後。

もっと広い人生の中では、少し違った姿に見えるかもしれません。

問題から逃げるためではなく、

問題を見る視点を一つ増やす。

そんな使い方ができます。

日常へ持ち帰ると、アパテイアはこう見えてくる

SNS。

仕事。

人間関係。

どの場面でも、

ストア派が求めたのは、

「何も感じない人になること」

ではありません。

日常に持ち帰るなら、大切なのは、

心が動いたときにも、その感情だけに判断と行動を任せないこと。

です。

何が起きたのか。

自分は何を大切なものとして見ているのか。

今の自分にできることは何なのか。

少し広い視点から見ると、どう見えるのか。

そうやって一度考えてから、

「では、自分はどうする?」

と選び直す。

アパテイアという2000年以上前の言葉は、

そこで初めて、

今日の自分の生き方を考えるための哲学

になっていきます。

9.アパテイア・アタラクシア・アパシーは何が違う?

ここまでアパテイアについて見てきました。

ここで一度、よく似た言葉との違いを整理してみましょう。

アパテイアについて調べていると、

「アタラクシア」

「アパシー」

という言葉に出会うことがあります。

どれも心の状態に関係する言葉ですが、

意味も、哲学の中で重視されるポイントも同じではありません。

まず、

アパテイア(apatheia)

です。

ここまで見てきたように、ストア派で重要になる、

パトスと呼ばれる情念に支配されず、理性と徳に従って生きられる状態

を表します。

ストア派が考えたのは、単に「心を静かにするにはどうすればよいか」だけではありません。

何を本当の善や悪と考えるのか。

心に現れた印象をどう判断するのか。

情念が生まれたときに、どのように行動するのか。

そうした、

「人間はどうすれば、よりよく生きられるのか」

という大きな問いの中にアパテイアがあります。

次に、

アタラクシア(ataraxia)

です。

古代ギリシア語では、

「乱されていないこと」「心の平静」

といった意味をもつ言葉です。

特にこの言葉と深く関係するのが、

エピクロス(Epicurus/紀元前341〜270年ごろ・日本列島では弥生時代にあたる頃)

という古代ギリシアの哲学者です。

エピクロスは、のちに

エピクロス派(Epicureanism)

と呼ばれる哲学の流れを始めました。

エピクロス本人が生きたのは紀元前341〜270年ごろですが、彼の死後もその思想は弟子たちに受け継がれ、エピクロス派として長く続いていきました。

そのエピクロス派で、幸福を考えるうえで重要になった言葉の一つが、

アタラクシア(ataraxia)=心が乱されていない平静な状態

です。

エピクロス派は、

死への恐れ。

神々への恐れ。

際限のない欲望。

そうした心を乱すものから自由になり、穏やかに生きることを幸福と深く結びつけて考えました。

アタラクシアという言葉はエピクロス派だけのものではなく、古代の懐疑主義やストア派でも使われます。

それでも最初に違いをつかむなら、

アパテイアは「情念に支配されないこと」、アタラクシアは「心が乱されていない平静な状態」に重点がある

と考えるとわかりやすいでしょう。

そしてもう一つ、

アパシー(apathy)

という言葉もあります。

アパシーという言葉自体は、現代になって突然生まれたものではありません。

語源をたどると、古代ギリシア語の

アパテイア(apatheia)

につながっています。

おおまかな言葉の流れを見ると、古代ギリシア語の「アパテイア」から、ラテン語やフランス語などを経て、英語の「アパシー」へとつながっていきました。

つまり、

アパシーとアパテイアは、語源では深くつながっている言葉

なのです。

では、なぜ現在では意味が違うのでしょうか。

言葉は、長い年月の中で使われる場面が変わると、意味も少しずつ変化していきます。

アパテイアにはもともと、

情念に支配されないこと

という哲学的な意味がありました。

しかし、長い歴史の中で言葉の使われ方が変わり、現在の英語で

アパシー(apathy)

というと、一般に、

感情や関心が乏しいこと、物事に対する無関心

という意味で使われます。

ここが、とても興味深いところです。

アパテイアとアパシーは、まったく無関係な言葉ではありません。

同じ語源につながっています。

しかし、

同じ語源をもつ言葉が、長い歴史の中で異なる意味へ分かれていった

のです。

そのため現在では、

ストア派の「アパテイア」=情念に支配されず、理性に従って生きられる状態

と、

現代英語の「アパシー」=感情や関心の乏しさ・無関心

は、同じ意味として扱わないことが大切です。

アパテイアが目指しているのは、「何にも関心を持たない人」になることではありません。

周りの出来事に関わりながらも、情念に自分を支配させず、自分がどう生きるのかを考え続けられること。

そこに、ストア派のアパテイアと、現代のアパシーとの大きな違いがあります。

アパテイアは、

世界に無関心になることではありません。

むしろ、

周りで何が起きても「どうでもいい」と考えるのではなく、

何が起きたのかを見て、自分はどう生きるべきなのかを理性的に考え続けられる状態

です。

三つの言葉を簡単に整理すると、

アパテイア= 情念に支配されず、理性的に生きる

アタラクシア= 心が乱されていない平静な状態

アパシー= 現代語では、感情や関心の乏しさ・無関心

です。

似た言葉と比べてみることで、

アパテイアが「無感情」という意味ではなく、

感情のある人生の中で、どう生きるかを考えるストア派の哲学

だということが、さらに見えやすくなります。

10.アパテイアを知ると、私たちの見方はどう変わる?

アパテイアという言葉を知ったからといって、

明日から怒らなくなるわけではありません。

悲しみがなくなるわけでも、

不安になる出来事が起こらなくなるわけでもありません。

それでも、

自分の感情や出来事を見るための「もう一つの視点」を持つことはできます。

ここまでの記事を通して見えてきた変化を、三つにまとめてみましょう。

一つ目は、「感情」と「行動」を同じものとして考えなくなることです。

腹が立つ。

悲しい。

怖い。

嬉しい。

そうした心の動きが生まれても、

「そう感じたのだから、このまま行動しなければならない」

とは限りません。

怒っている自分に気づきながら、

「では、どうする?」

と考えることもできます。

感情を消すのではなく、感情と行動の間に考える余地を持つ。

それが、ここまで何度も見てきたアパテイアの重要なところです。

二つ目は、「なぜこんなに心が動いたのか」を、もう一段深く考えられることです。

「失敗して悲しい」

だけではなく、

「私は、失敗することをどれほど悪いことだと思っているのだろう?」

「人から嫌われるのが怖い」

だけではなく、

「私は、他人から好かれることを自分の幸福にどれほど必要だと思っているのだろう?」

と考えてみる。

ストア派は、

情念の奥に、

「自分は何を本当の善・悪と考えているのか」

という問題を見ました。

だからアパテイアを知ることは、

自分の感情だけでなく、

自分がどんな価値観で生きているのかを見ること

にもつながります。

三つ目は、「結果」だけではなく「自分はどう生きるか」へ目を戻せることです。

努力しても、必ず成功するとは限りません。

誠実に接しても、相手が自分を好きになってくれるとは限りません。

健康に気をつけても、病気を完全に避けられるとは限りません。

それでも、

どう準備するか。

どう話すか。

どう向き合うか。

どんな行動を選ぶか。

そこには自分が関われる部分があります。

だから問いを、

「どうすれば全部思い通りになる?」

だけではなく、

「思い通りにならないこともある世界で、自分はどう生きたい?」

へ変えることができます。

ここまで来ると、

アパテイアは単なる「感情のコントロール法」ではなくなります。

感情がある。思い通りにならないこともある。それでも、自分はどう考え、どう生きるのか。

その問いを持ち続けるための哲学として見えてきます。

世界そのものが変わるわけではありません。

変わる可能性があるのは、

世界を見る自分の位置です。

感情の中だけから見るのではなく、

少し離れて自分の判断を見る。

結果だけを見るのではなく、

自分の行動を見る。

そして、

「では、自分はどう生きる?」

と問い直す。

アパテイアを知ることで得られるものがあるとすれば、

答えそのものより、

こうした新しい問い方なのかもしれません。

11.今日からできる「1分哲学」

ここまで読んで、

「わかった。でも、実際に心が乱れたときには何をすればいいの?」

と思った人もいるかもしれません。

そこで最後に、

ここまで学んできたことを、

三つの問い

にまとめてみましょう。

これは、古代ストア派が「1分哲学」という名前で行っていた方法ではありません。

この記事で見てきた、

印象。

判断。

価値観。

自分次第の行動。

といったストア派の考えを、

現代の日常で試しやすい形にまとめたもの

です。

心が大きく動いたら、

1分だけ、自分に問いかけてみてください。

①「何が起きて、私は今どう感じている?」

たとえば、

「友達から返事が来ない。不安になっている」

「仕事で注意された。恥ずかしくて腹も立っている」

「欲しかったものが売り切れた。ものすごく悔しい」

まずは、

起きたことと、

今の自分の心の動きを見てみます。

ここでは、

「こんなことで怒ってはいけない」

と判断する必要はありません。

まず自分の心が動いていることに気づく。

そこから始めます。

②「私は、何をそんなに善い・悪いものだと考えている?」

次に、一段だけ深く見ます。

なぜ、こんなに不安なのか。

なぜ、これほど腹が立ったのか。

なぜ、どうしても手に入れたいのか。

その奥には、

「人から嫌われることは耐えられない」

「失敗することは、自分の価値が下がることだ」

「これを手に入れなければ幸せになれない」

といった考えがあるかもしれません。

すぐに、

「その考えは間違っている」

と決める必要はありません。

まず、

「自分は、これほど大切なものだと思っていたんだ」

と気づいてみる。

そして、

「本当にそこまでの善や悪なのだろうか?」

と、もう一度考えてみます。

③「では、今の自分が選べる、よりよい行動は何?」

最後は、行動へ戻ります。

返事を待つ。

確認する。

謝る。

自分の考えを伝える。

少し時間を置く。

距離を取る。

もう一度挑戦する。

何もしないと決める。

状況によって答えは違います。

大切なのは、

感情が命じる最初の行動だけを、唯一の選択肢にしないこと。

今の自分が選べる中で、

「どれが一番、自分がよいと思う生き方に近いだろう?」

と考えてみます。

たった三つです。

何が起きて、私はどう感じている?

私は、何を善い・悪いものだと考えている?

では、今の自分が選べる、よりよい行動は何?

すぐに答えが出なくてもかまいません。

「よくわからない」

という答えになる日もあるでしょう。

それでも、

すぐに感情の勢いだけで決めず、

一度立ち止まって問いを置いた。

その瞬間、

少なくとも一つ、新しい選択肢が生まれています。

哲学は、

いつも正解を教えてくれるものではありません。

むしろ、

自分が当然だと思っていたことを、もう一度問い直すためのもの

でもあります。

今日もし、

怒ったとき。

悲しくなったとき。

不安になったとき。

嬉しくて舞い上がりそうになったとき。

この三つの問いを、一度だけ思い出してみてください。

そこで出てきた答えを、

2000年以上前のストア派と同じにする必要はありません。

ストア派の問いを借りながら、

最後に自分で考える。

そのとき、

アパテイアについて「知る」ことは、

あなた自身が哲学すること

へと変わっていきます。

12.おまけコラム

「ストイック」って、実はストア派から来ている?

ここまで少し難しい話もしてきました。

ここでは少し肩の力を抜いて、私たちが普段使っている言葉からストア派を見てみましょう。

「毎日欠かさずトレーニングしていて、ストイックだね」

「自分に厳しくて、ストイックな人だ」

こんなふうに、

「ストイック」

という言葉を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。

現在の日本語では、

「自分に厳しい」

「誘惑に負けず努力する」

「つらくても黙々と続ける」

といったイメージで使われることがあります。

実はこの「ストイック」という言葉、

この記事で何度も登場してきた「ストア派」と語源でつながっています。

少しだけ、言葉の時間を巻き戻してみましょう。

ストア派の始まりには、キティオンのゼノンが哲学を教えた

ストア・ポイキレ(Stoa Poikile「彩色柱廊」)

がありました。

この「ストア=柱廊」から、その場所に集まった哲学者たちの学派が「ストア派」と呼ばれるようになります。

そして古代ギリシア語では、ストアに属する人を表す言葉が生まれ、それがラテン語などを経て、英語の

Stoic(ストウイク/ストア派の人、のちに苦痛などに動じない人)

へとつながっていきました。

さらに長い時間の中で、

「苦しい状況でも取り乱さない」

「感情を表に出さず耐える」

といった一般的な意味でも使われるようになり、現在の私たちが使う「ストイック」という言葉にもつながっています。

言葉だけを見れば、

ストアという「場所」から始まった名前が、2000年以上の時間を旅して、私たちの日常の「ストイック」までやって来た

とも言えるのです。

ただし、ここで一つ面白い違いがあります。

現代の「ストイック」という言葉からは、

「自分を厳しく追い込む」

「欲しいものを我慢する」

といった姿を想像しやすいかもしれません。

でも、ここまで見てきたストア派が目指したのは、単に自分を苦しめたり、感情を押し殺したりすることではありませんでした。

情念に振り回されず、理性と徳に従って、よりよく生きること。

アパテイアも、その生き方の中で大切になる考えでした。

そう考えると、

「ストイックな人」と聞いたときの印象も、少し変わって見えるかもしれません。

ストア派らしい「ストイックさ」を考えるなら、

苦しいことをひたすら我慢することよりも、

心が揺れたときにも、理性と徳に従って自分が大切にしたい生き方へ戻ってこられること

のほうが、ストア派の考えに近いでしょう。

自分を追い込むことそのものが目的なのではありません。

どんな状況でも、自分の判断や行動をもう一度選び直し、よりよく生きようとすること。

そこに、古代ストア派から見えてくる「強さ」があります。

いつも何気なく使っていた一つの言葉の奥にも、2000年以上前の哲学が残っている。

そう思うと、

普段の言葉を少し立ち止まって眺めてみることも、

小さな哲学の始まりなのかもしれません。

13.さらに学びたい人へ

アパテイアとストア派をもっと楽しむ3冊

ここまで読んで、

「アパテイアをもう少し知りたい」

「ストア派そのものを学んでみたい」

「今度は自分で哲学の本を読んでみたい」

と思った人もいるかもしれません。

そこで最後に、今の理解度に合わせて読める3冊を紹介します。

小学生・哲学を初めて読む人に
『10歳の哲学 キミの人生につながる21の問い』齋藤孝

10歳前後の子どもにも読める哲学入門書です。

「こころとは何か」「お金はいちばん大切なのか」「何が善で、何が悪なのか」「自由とは何か」

など、身近だけれど簡単には答えられない21の問いから、自分で考えることへ進んでいきます。

この本は、アパテイアやストア派だけを詳しく説明する専門書ではありません。

哲学者の答えを暗記する前に、自分で問いを持つ楽しさを知りたい人におすすめです。

小学生なら一人で全部理解しようとせず、家族と「自分ならどう答える?」と話しながら読むのもよいでしょう。

この記事を読んだ人全体におすすめ
『ストア哲学 強く、しなやかに生きる知恵』ジョン・セラーズ 月沢李歌子訳

ストア哲学入門書です。

セラーズはストア哲学を研究・教育してきた哲学者で、本書では特に、

セネカ。エピクテトス。マルクス・アウレーリウス。

という、この記事でも登場した3人を通して、

逆境、人間関係、死、他人の評価、人生の時間といった問題をストア派がどう考えたのか

をたどっていきます。

この記事で、

「自分次第のものとは?」「ストア派は幸福をどう考えた?」「セネカやエピクテトスは実際に何を言った?」

と気になった人には、次の一冊として入りやすいでしょう。

アパテイアだけを切り離さず、「ストア派は人生全体をどう考えたのか」へ理解を広げたい人に、まずおすすめしたい一冊です。

もう一段深く学びたい人に
『哲人たちの人生談義 ストア哲学をよむ』國方栄二

著者の國方栄二は古代ギリシア哲学を専門とする研究者で、ストア派について長く研究してきました。

この本の出発点は、

「幸福とは何か」

という問いです。

そこから、古代ギリシアからローマへ続くストア哲学をたどりながら、

自然。自由。運命。理性と情念。人格と尊厳。

といった問題を考えていきます。

今回学んだアパテイア、パトス、理性、幸福といった考えを、「もう少し正確に、ストア哲学全体の中で理解したい」と思ったときに役立ちます。

「生き方のヒント」だけで終わらず、ストア派がなぜその結論にたどり着いたのかまで知りたい人

には、とても面白い一冊です。

どれから読むか迷ったら、

小学生や「哲学そのものが初めて」という人は、『10歳の哲学』。

今回の記事からそのままストア派へ進みたい人は、『ストア哲学 強く、しなやかに生きる知恵』。

「もっと正確に、深く知りたい」と思ったら、『哲人たちの人生談義 ストア哲学をよむ』。

この順番がおすすめです。

哲学の本は、最初からすべて理解できなくても大丈夫です。

一ページ読んで、

「これはどういうことだろう?」

と思ったなら、

それも立派な読書です。

むしろ今回の記事で何度も見てきたように、

哲学では、答えを一つ増やすこと以上に、自分の中に新しい問いが生まれることがあります。

アパテイアを知ったところから、

「幸福とは何だろう?」

「よい人間とは何だろう?」

「感情と理性は、本当に対立するものなのだろうか?」

と次の問いへ進んでいく。

一冊の本を読むことは、

その問いを2000年以上前の哲学者たちと、もう少し長く一緒に考えてみることなのかもしれません。

14.まとめ・考察

感情は「命令」ではなく、「知らせ」なのかもしれない

ここまでアパテイアについて考えてきて見えてくるのは、

感情が生まれることと、その感情のまま行動することは同じではないということです。

怒り、不安、悲しみ、喜び。

こうした感情は、私たちが何を大切にしているのかを知らせてくれることがあります。

たとえば怒りは、

「自分は何かを傷つけられたと感じている」

という知らせかもしれません。

不安は、

「何か大切なものを失うことを恐れている」

という知らせかもしれません。

だから、感情を無理になくす必要はありません。

ただし、

感情は「知らせ」ではあっても、必ず従わなければならない「命令」ではありません。

ここに、アパテイアのおもしろさがあるように思います。

こんな経験はないでしょうか。

腹が立ってメッセージを書いたけれど、すぐには送らなかった。

少し時間を置いて読み返したら、

「本当に伝えたいのは、これではないな」

と思って書き直した。

出来事も、最初に生まれた怒りも消えてはいません。

それでも、

感情と行動のあいだに、考えるための小さな余白が生まれています。

アパテイアを日常に持ち帰るなら、

「感情をなくそう」とするよりも、

心が大きく動いたときに一度だけ、

「この感情は、私が何を大切にしていると教えているのだろう?」

と考えてみる。

そして、

「では、その大切なものにふさわしい行動は何だろう?」

と問い直してみる。

感情に振り回されないことは、感情を大切にしないことではありません。

むしろ、

感情をきちんと受け止めたうえで、その次の一歩を自分で選ぶこと。

そこに、現代の私たちがアパテイアから持ち帰れる一つの知恵があるのかもしれません。

あなたなら、次に心が大きく揺れたとき、その感情から何を受け取り、どんな一歩を選びますか。

15.疑問が解決した物語

「怒っている。でも、このまま送らなくてもいい。」

ユウタは、友人への返信画面をもう一度開きました。

最初に打っていた言葉は、

「もういい。二度と誘わない」

でした。

旅行を楽しみにしていた。

予定まで空けていた。

それなのに、一週間前になって行けなくなったと言われた。

腹が立つのは当然だと思いました。

そして今も、

怒りが完全になくなったわけではありません。

でも、アパテイアについて調べたユウタには、一つだけ以前と違うところがありました。

「怒っていること」と、「怒りに次の行動まで決めてもらうこと」は別だ。

そう考えられるようになっていました。

ユウタは、少しだけ自分に問いかけてみます。

「自分は、何がそんなに嫌だったんだろう?」

旅行へ行けなくなったこと。

楽しみにしていた予定がなくなったこと。

そして何より、

「自分との約束を大切にしてもらえなかった」

ように感じたこと。

そこまで考えて、もう一つ気づきました。

本当に友人が自分を軽く扱ったのかは、まだわかりません。

でも、もし本当に相手の都合が急に変わったのだとしても、

その出来事にどう向き合うかは、自分でも選べる。

怒りのまま関係を切ることもできる。

理由を聞くこともできる。

残念だったことを伝えることもできる。

少し時間を置くこともできる。

ユウタは、最初に書いた文章を消しました。

そして、こう送りました。

「楽しみにしてたから、正直かなり残念だった。急に決まったの?」

しばらくして、返信が来ました。

友人のバイト先で急に人が足りなくなり、代わりに出なければならなくなったこと。

自分でも旅行を楽しみにしていて、断るのが申し訳なかったこと。

そして、

「本当にごめん。また予定合わせたい」

と書かれていました。

ユウタの怒りは、そこで魔法のように消えたわけではありません。

「もっと早く相談してほしかった」

という気持ちも残っていました。

でも、その気持ちをそのままぶつけるのではなく、

「次は、わかった時点で早めに教えてほしい」

と伝えることができました。

そのときユウタは、ようやく少しわかった気がしました。

アパテイアは、

何も感じなくなることではない。

怒りを我慢して、笑顔を作ることでもない。

心が動いているときにも、「では、自分はどうする?」と考えられること。

そして、

自分の感情を大切にしながら、その感情だけに自分の生き方を決めてもらわないこと。

それが、この記事を読む前より少しだけわかるようになっていました。

もちろん、いつでもこんなにうまく考えられるとは限りません。

怒りに任せて言ってしまう日もあるでしょう。

あとから、

「言わなければよかった」

と思うこともあるかもしれません。

それでも、

そのあとに、

「自分は何をそんなに悪いことだと思ったんだろう」

「次はどうしたいだろう」

と考え直すことはできます。

ユウタが学んだのは、

一度も心を乱さない方法ではなく、心が乱れたあとでも、自分の考えへ戻ってこられるということ

でした。

そしてユウタは、今回の出来事から、一つの考えを持つようになりました。

怒りや悲しみが生まれたとき、

その感情をすぐに消そうとする必要はない。

でも、

「そう感じているから、そのまま行動するしかない」と考える必要もない。

まず、

「自分はいま、なぜこんなに怒っているんだろう」

と考えてみる。

そこから、

「自分は何を大切にしていたんだろう」

「本当は相手に何を伝えたいんだろう」

と問い直す。

そして最後に、

「では、自分はどんな行動を選びたい?」

と考える。

それが、ユウタなりに見つけたアパテイアとの付き合い方でした。

ユウタにとってアパテイアは、

「感情をなくすための考え」ではなく、

感情があるときにも、その次の一歩を自分で選ぶための考え

になったのです。

そして、ここから先はユウタだけの問いではありません。

あなたが怒ったとき。

不安になったとき。

悲しくなったとき。

一度だけ、

「自分は何を大切にしているから、こんなに心が動いたんだろう?」

と考えてみる。

そして、そのあとに、

「では、自分はどんな行動を選びたい?」

と問いかけてみる。

ユウタは、感情を消すのではなく、

感情に気づき、その意味を考え、その次の行動を自分で選ぶ

という道を選びました。

あなたなら、心が大きく揺れたその次に、どんな一歩を選びますか。

16.文章の締めとして

ここまで、アパテイアという一つの言葉から、

感情とは何か。

人はなぜ心を乱されるのか。

自分にできることとは何か。

そして、よく生きるとはどういうことなのか。

いくつもの問いを一緒にたどってきました。

でも、この記事を閉じたあとも、私たちの日常は続いていきます。

嬉しいことがある日もあれば、

思い通りにならない日もあります。

腹が立ってしまう日も、

どうしても不安になる夜もあるでしょう。

そんなとき、

今日読んだことを全部思い出す必要はありません。

ただ一つ、

心が大きく動いたときに、

「では、自分はどうしたいだろう?」と、自分に問いかけてみてください。

すぐに答えが出なくても大丈夫です。

問いを持ったまま歩くことも、哲学の一つの姿です。

2000年以上前の人たちが考えていたことと、

今日を生きる私たちの悩みは、まったく同じではありません。

それでも、

人に傷つき、

未来を怖がり、

何かを欲し、

大切なものを失うことを恐れながら、

「それでも、どう生きようか」

と考えるところには、時代を超えて重なるものがあります。

アパテイアという言葉を忘れてしまっても、

この記事を読んだあとに、

自分の心をほんの少し立ち止まって見つめる瞬間が残ったなら、

それだけでも十分なのだと思います。

補足注意

この記事は、著者が個人で確認できる範囲の資料や文献をもとに、アパテイアやストア派の考えをできるだけわかりやすく整理したものです。

哲学にはさまざまな解釈や立場があり、ここで紹介した理解だけが唯一の正解というわけではありません。

また、古代の思想については、残された文献の読み方や今後の研究によって、新しい解釈や理解が示される可能性もあります。

🧭 本記事のスタンス

この記事が、

「もっと知りたい」「自分でも考えてみたい」と思うための入り口

になれば嬉しく思います。

ぜひ一つの見方だけに決めず、ほかの哲学者や研究者の考えにも触れながら、あなた自身の問いを深めてみてください。

アパテイアを知ったその先は、新たな問いへ――心の揺れに流されず、学びの流れには身をゆだねて、気になったことをさらに深い文献や資料の中へたどり、あなただけの哲学をもう一歩深めてみてください。

最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました。

アパテイアは、心が揺れないことよりも、心が揺れたときにもう一度「自分はどう生きたいか」と問い直せることの大切さを教えてくれているのかもしれません。

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