PR

煩悩とは?108の意味と欲望・執着が苦しみを生む理由を仏教から解説

学ぶ
当サイトでは広告・アフィリエイトプログラムを利用しています。

「煩悩は108個ある」は本当? 欲しいと思うことは悪いこと? 煩悩の意味や三毒、渇愛と執着の違いを、釈迦の教えと身近な例から読み解きます。

5秒でわかる結論

煩悩(ぼんのう)とは、欲しいものへの執着や怒り、物事を正しく理解できない思い込みなど、私たちの心を惑わせ、苦しみを生み出す心の働きのことです。

仏教では、こうした煩悩が人間の苦しみと深く関係していると考えます。

噛み砕いて言うと

例えば、お菓子を一つもらって喜んでいたのに、友達が二つもらっているのを見ると、「自分も二つ欲しかった!」と不満に思うことはありませんか?

さっきまではうれしかったはずなのに、人と比べた途端に、なんだか損をした気持ちになってしまう。

そんなふうに、「もっと欲しい」「自分の思いどおりになってほしい」という気持ちに心が振り回されることが、煩悩を理解するための身近な例です。

ただし、何かを欲しいと思うことが、すべて悪いわけではありません。

仏教で問題になるのは、欲しいものに強くとらわれたり、思いどおりにならないことに怒ったりする心の働きなのです。

この記事を読むとわかること

「欲しいものが手に入らなくて、イライラしてしまった」

「友達や周りの人と比べて、自分が持っているものに満足できなくなった」

「もう十分なはずなのに、もっと欲しいと思ってしまう」

そんな経験はありませんか?

私たちは毎日の生活の中で、何かを欲しがったり、誰かに腹を立てたり、失いたくないものを心配したりしています。

こうした気持ちは、どうして生まれるのでしょうか。

そして、なぜ欲望や執着が、私たちの苦しみにつながるのでしょうか。

さらに、お寺で大晦日に鳴らされる除夜の鐘には、人間の煩悩にちなんで108回鳴らすという伝統があります。

でも、少し不思議ではありませんか?

「人間には、本当に108個もの煩悩があるの?」

「煩悩を捨てれば、苦しまずに生きられるの?」

「そもそも、欲しいと思う気持ちをなくすことなんてできるの?」

この記事では、仏教を開いた釈迦(しゃか)の教えを手がかりに、煩悩の本当の意味、108という数字の由来、欲望と苦しみの関係をわかりやすく解説します。

さらに、煩悩に振り回されずに生きるとはどういうことなのか、私たちの日常生活にも目を向けながら、一緒に考えていきましょう。

疑問が生まれた物語

108回の鐘と、不思議な古い絵巻

大晦日の夜。

結衣(ゆい)は、弟の湊(みなと)と一緒に、近所のお寺へやって来ました。

冷たい空気の中、境内には大きな鐘の音が響いています。

ゴォーン……。

「お姉ちゃん、この鐘って108回も鳴らすんだよね?」

湊が不思議そうに尋ねました。

「うん。人間には108の煩悩があるからって聞いたことがあるよ」

「ぼんのう? それって何?」

「欲張ったり、怒ったりする気持ちのことらしいけど……」

結衣も、詳しいことはわかりません。

「じゃあ、鐘を108回鳴らしたら、欲張りじゃなくなるの?」

「どうなんだろうね」

二人は顔を見合わせました。

しばらくして、お堂の中に飾られた古い絵巻に目を留めます。

そこには、色とりどりの布や果物が並ぶ、遠い昔の市場が描かれていました。

「わあ、きれい。昔のインドの町みたい!」

結衣が絵巻をのぞき込むと、不思議なことが起こりました。

ふわり、と絵の中の景色が広がったのです。

気がつくと、二人は古代インドを思わせる、にぎやかな市場に立っていました。

道には人々が行き交い、商人たちの声が響いています。

目の前では、一人の男性が美しい布を欲しそうに見つめていました。

けれども、値段を聞くと、がっかりした顔で立ち去ってしまいます。

少し離れた店では、品物の値段をめぐって、商人と客が怒った声で言い合っていました。

「ねえ、お姉ちゃん。あの人たち、どうしてあんなに怒っているの?」

「欲しいものが買えなかったり、思いどおりにならなかったりしたから……かな?」

湊は首をかしげます。

「でも、欲しいって思うのは悪いことなの? 僕だって、おいしいものが食べたいし、おもちゃも欲しいよ」

結衣は、すぐには答えられませんでした。

欲しいものを手に入れたら、うれしい。

でも、手に入らないと悲しくなったり、腹が立ったりすることもある。

「欲しいと思うことが、苦しみの原因なのかな? それとも、思いどおりにならないことに心がとらわれてしまうからなのかな?」

結衣がそう考えたとき、遠くから、どこか聞き覚えのある鐘の音が響いてきました。

ゴォーン……。

その音は、二人がいたお寺の鐘の音によく似ていました。

結衣と湊は、まだ知らない煩悩の意味を探すように、にぎやかな市場を見渡しました。

二人の疑問は、ここから始まります。

1 煩悩とは?意味をわかりやすく解説

煩悩(ぼんのう)とは、人間の心を迷わせ、物事を正しく理解することや、苦しみから離れることを妨げる心の働きをまとめた言葉です。

この言葉は、古代インドで生まれた仏教(ぶっきょう)で使われてきました。

仏教は、人間がなぜ苦しむのか、そして、その苦しみからどのように解放されるのかを大切な問題として考えてきた宗教・思想です。

仏教では、人間が苦しむ原因の一つとして、外側で起こる出来事だけではなく、その出来事に対して、私たちの心がどのように働くのかにも目を向けます。

例えば、誰かに注意されたとき、相手が自分を助けようとして言ってくれたのかもしれないのに、「自分を嫌っているから注意したんだ」と決めつけ、怒り続けてしまうことがあります。

これは、煩悩の働きを理解するために考えた身近な例です。

相手の本当の気持ちはわからないのに、自分の思い込みや怒りによって、物事を落ち着いて考えられなくなっているのです。

このように、煩悩には、何かを強く欲しがる気持ちだけでなく、怒りや、物事のあり方を正しく理解できない心の働きも含まれます。

煩悩は、単に「欲があること」の別名ではないのです。

では、なぜこのような心の働きを「煩悩」と呼ぶのでしょうか。

「煩悩」という日本語は、もともとインドの仏教で使われていた言葉を、漢字に訳したものです。

その言葉の一つが、サンスクリット語の kleśa(クレーシャ、「苦しみ」「悩ませるもの」などを意味する言葉)です。

サンスクリット語は、古代インドの宗教や哲学の文献などで使われてきた言語です。

現在のデーヴァナーガリー文字(インドでサンスクリット語などを書き表す文字の一つ)では、次のように書きます。

क्लेश(クレーシャ)

ただし、この文字の形が釈迦の生きた時代から使われていたわけではありません。これは、後の時代に発展した文字による表記です。

また、古い仏教の教えを伝える文献で使われてきたパーリ語(古代インドの言語の一つ)では、kilesa(キレーサ)と呼ばれます。

デーヴァナーガリー文字では「किलेस」と表すことができます。

どちらも仏教では、単なる苦痛だけでなく、欲望や怒り、物事への誤った理解など、人の心を惑わせ、苦しみにつなげる働きを表す言葉として使われています。

仏教の用語や教えを専門家が解説する『新纂浄土宗大辞典』(しんさんじょうどしゅうだいじてん)でも、煩悩は心や体を悩ませ、苦しみの原因となる心の働きとして説明されています。

ここで、もう一つ大切な違いがあります。

仏教では、何かを望む気持ちのすべてが、悪いものとされているわけではありません。

例えば、「勉強ができるようになりたい」「困っている人を助けたい」と思うことがありますね。

こうした、何かをしようとする気持ちを「意欲(いよく)」といいます。

仏教にも、よい行いに向かう意欲を大切にする考え方があります。

一方で、「絶対に自分が一番でなければ気が済まない」と考え、ほかの人の成功をねたんだり、思いどおりにならないことに怒り続けたりする場合はどうでしょうか。

そこには、ある結果や考えに強くとらわれ、なかなか心を離せなくなる「執着(しゅうちゃく)」が関わっていると考えられます。

ただし、怒ったり、悲しくなったりしたというだけで、すべてを同じ煩悩として決めつけられるわけではありません。

また、病気やけがなど、私たちが経験するあらゆる苦痛が、本人の煩悩によって起こるという意味でもありません。

煩悩とは、私たちの心を迷わせ、苦しみにつなげる働きのことです。大切なのは、欲望や感情があるかどうかだけではなく、どのような心の働きが人を迷わせるのかを理解することです。

そして仏教では、そうした煩悩をいくつかの種類に分けて考えてきました。

その代表的なものを知ると、煩悩が単なる欲張りな気持ちではないことが、さらによくわかります。

2 煩悩にはどんな種類がある?

三毒の意味

仏教では、数ある煩悩の中でも、特に根本的な三つを「三毒(さんどく)」と呼びます。

それが、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)です。

この三つが「根本的」とされるのは、人を迷わせるほかのさまざまな心の働きや、よくない行動にも深く関わると考えられているからです。

「毒」というのは、実際に体を傷つける毒ではありません。心を乱し、自分や周りの人を苦しめる原因になることを、毒にたとえた名前です。

では、それぞれどのような心の働きなのでしょうか。

① 貪(とん)――欲しいものに強くとらわれる心

貪とは、自分が好きなものや心地よいものを強く求め、それを手に入れたり、持ち続けたりすることに心がとらわれる働きです。

第1章で紹介したサンスクリット語では、rāga(ラーガ、「強い欲求・執着」などを意味する言葉)と呼ばれます。

例えば、大好きな限定グッズをすでに何個も持っているのに、「もっと欲しい。ほかの人の分まで全部自分のものにしたい」と考えてしまうことがあります。

これは貪の働きを理解するための身近な例です。

貪で問題になるのは、単に何かを欲しがることではなく、欲しいものへの強い気持ちに心が支配されてしまうことです。

② 瞋(じん)――嫌なものに対して怒りや憎しみを抱く心

瞋とは、自分にとって嫌なことや気に入らない相手に対して、怒りや憎しみ、強い拒絶の気持ちを抱く心の働きです。

サンスクリット語では、dveṣa(ドヴェーシャ、「嫌悪・憎しみ」などを意味する言葉)と呼ばれます。

例えば、スポーツの試合で負けたとき、悔しさから相手を憎むようになり、「いつか仕返しをしてやりたい」と考え続けてしまうことがあります。

これは瞋の働きを理解するための例です。

ただし、試合に負けて悔しいと思うことや、不当な扱いに対して問題があると判断することと、憎しみに心を支配されることは同じではありません。

瞋とは、嫌なものを退けようとする怒りや憎しみが、心を惑わせる働きなのです。

③ 痴(ち)――物事の本当のあり方を理解できない心

痴とは、物事がどのように成り立ち、変化し、どのような原因から結果が生まれるのかという、現実のあり方を正しく理解できない心の働きです。

サンスクリット語では、moha(モーハ、「迷い・無知」などを意味する言葉)と呼ばれます。

ここでいう「無知」は、学校の勉強が苦手だったり、知らないことが多かったりすることではありません。

仏教が重視する、物事の本当のあり方を理解できていない状態を指しています。

例えば、とても仲のよい友達がいたとします。

しかし、人の気持ちや考え方は、経験や環境によって変わることがあります。

それなのに、「友達なら、いつでも必ず自分と同じ考えでいてくれるはずだ」と決めつけ、相手にも自分とは違う考えがあるという現実を理解しようとしなかったらどうでしょうか。

これは、変化する物事のあり方を正しく見ようとしない、痴の一面を理解するための例です。

もちろん、一度勘違いしただけで、それが仏教のいう痴のすべてを表すわけではありません。

痴で重要なのは、物事の本当のあり方を理解できない迷いが、欲望や怒りを生み出すことにも関わるという点です。

この三つの心の働きは、古い仏教の経典にも登場します。

『如是語経(にょぜごきょう)』は、古代インドで仏教を開いたとされる釈迦(しゃか)の教えとして伝えられてきた、短い教えを集めた経典の一つです。

経典(きょうてん)とは、宗教の教えを記した文献のことです。

その第50経には、貪り・憎しみ・迷いという三つが、よくない行いを生み出す根本的な原因になるという教えが記されています。

これは、人間の行動を科学的な実験で調べた結果ではなく、仏教の経典に伝えられている教えです。

ここまでの三つを整理すると、次のようになります。

  • 貪: 好きなものや欲しいものを強く求め、とらわれる心。
  • 瞋: 嫌なものや相手に対して、怒りや憎しみを抱く心。
  • 痴: 物事の本当のあり方を理解できず、迷ってしまう心。

例えば、自分だけが何かを手に入れたいという貪が強くなり、それを邪魔する相手に瞋を抱くことがあります。

さらに、その背景には、自分の望みが叶わなければ幸せになれないという、現実の捉え方の誤りが関わっているかもしれません。

このように、三つの煩悩は別々に分類されていますが、互いに関係しながら働く場合もあります。

三毒とは、私たちの心を惑わせる煩悩の中でも、特に根本的な三つの働きを表したものなのです。

ただし、煩悩が三種類しかないという意味ではありません。

仏教では、煩悩をさらに細かく分類する考え方も発展してきました。

その代表的な数字の一つが「108」です。

この108は、一人ひとりの煩悩を実際に測定した数ではなく、仏教で伝えられてきた分類に基づく数字です。

次は、なぜ108という数が使われるようになったのか、その理由を詳しく見ていきましょう。

3 煩悩の数は108個って本当?

仏教には、煩悩を108種類に分ける伝統的な考え方があります。しかし、すべての人の心に、必ず108個の煩悩があるという意味ではありません。

108という数字は、仏教で煩悩を細かく分類する中で用いられてきたものです。

この分類は「百八煩悩(ひゃくはちぼんのう)」と呼ばれています。

第2章では、代表的な煩悩として、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)の三毒を学びましたね。

では、三つだった煩悩が、どうして108種類になるのでしょうか。

実は、108の数え方には複数の説があり、分類する方法によって、その説明も異なります。

108の数え方①――98種類と10種類を合わせる

代表的な説の一つが、98種類の「随眠(ずいめん)」と、10種類の「纏(てん)」を合わせる方法です。

第1章で紹介した仏教の専門辞典『新纂浄土宗大辞典』でも、この分類が説明されています。

まず、随眠とは何でしょうか。

随眠は、サンスクリット語の anuśaya(アヌシャヤ、仏教で「煩悩」や「心に潜む煩悩」などを指す言葉)に当たります。

仏教の学派(教えを研究する人々の集団)によって解釈は異なりますが、煩悩そのものを意味する場合と、表には現れていなくても心の中に潜んでいる煩悩を意味する場合があります。

古代インドの仏教学派の一つである「説一切有部(せついっさいうぶ)」では、随眠を煩悩として細かく分類しました。

まず、貪・瞋・痴などを含む10種類の基本的な煩悩を考えます。

そして、それぞれについて、仏教が説く三つの生存世界のどこに属するのか、また、どのような理解や修行によって断ち切るのかを区別します。

ここでいう三つの生存世界とは、仏教が生き物の存在のあり方を三段階に分けて考えるものです。

その分類によって、教えの真理を見きわめることで断つとされる88種類と、さらに修行を重ねることで断つとされる10種類に整理されます。

88種類 + 10種類 = 98種類の随眠

これが「九十八随眠(きゅうじゅうはちずいめん)」です。

つまり、最初から98個の煩悩を一人ずつ調べて見つけたのではなく、基本となる煩悩を、仏教の世界観や修行の考え方に従って細かく分類した結果なのです。

次に、纏について見てみましょう。

纏は、サンスクリット語の paryavasthāna(パリヤヴァスターナ、「心にまとわりつき、束縛する働き」などを意味する言葉)に当たります。

仏教では、心にまとわりついて迷わせる煩悩の働きを表します。

そのうちの10種類を「十纏(じってん)」と呼びます。

例えば、他人の幸せをねたむ「嫉(しつ)」や、自分のものを惜しんで分け与えたがらない「慳(けん)」などが含まれます。

このように、98種類の随眠に10種類の纏を加えると、

98種類の随眠 + 10種類の纏 = 108種類の煩悩

となります。

これが、百八煩悩の代表的な数え方の一つです。

108の数え方②――六つの感覚から数える

もう一つ、人間の感覚の働きから108を数える説もあります。

私たちは、目で物を見たり、耳で音を聞いたり、鼻で匂いを感じたりしますね。

仏教では、こうした働きを六つに分け、「六根(ろっこん)」と呼びます。

六根とは、目・耳・鼻・舌・身体・心の六つです。

目で見る、耳で聞く、鼻で嗅ぐ、舌で味わう、身体で触れる、そして心で考えるという働きに関係しています。

この六つについて、心に生じる反応を「快い」「不快」「どちらでもない」の三つに分けます。

さらに、それぞれを、煩悩に染まっている状態の「染(ぜん)」と、清らかな状態の「浄(じょう)」に分けます。

そして、過去・現在・未来という三つの時間に当てはめます。

すると、

6(感覚の働き)× 3(心の反応)× 2(染と浄)× 3(過去・現在・未来)= 108

となります。

こちらも、実際に108個の感情を測定した結果ではありません。

人間の心の働きを、仏教の考え方に従って分類したものです。

このように、108という数字には複数の説明があります。

大切なのは、108をすべての人に共通する固定された煩悩の個数と考えるのではなく、人間の心にある多様な迷いを整理するために使われてきた数字だと理解することです。

なぜ除夜の鐘は108回鳴らすの?

この108という数字は、日本の大晦日にお寺で鐘を鳴らす「除夜の鐘(じょやのかね)」とも結びついています。

除夜の鐘には、人間の108の煩悩を取り除き、清らかな心で新しい年を迎えたいという願いが込められていると説明されます。

東京都台東区の浅草にある寺院、浅草寺(せんそうじ)の公式案内でも、108回という数字について、煩悩を取り除くという説が紹介されています。

ただし、浅草寺は、108という数の由来には別の説もあると説明しています。

また、鐘を鳴らす行為は、仏教の信仰や願いに関わるものです。

鐘を108回鳴らせば、自動的に心から108種類の煩悩が消えるという意味ではありません。

除夜の鐘の音を聞きながら、この一年に自分が何に怒り、何を欲しがり、どんなことに心をとらわれていたのかを振り返ってみる。

そのように考えることも、煩悩という言葉を日常生活に引き寄せる一つの方法ではないでしょうか。

ここまでで、煩悩の数が108といわれる理由がわかりました。

では、そもそも仏教では、なぜ人間の迷いや苦しみから離れることを、それほど重要な問題として考えてきたのでしょうか。

その背景を知るために、次は仏教を開いた釈迦が、なぜ人間の苦しみから逃れる道を求めたのかを見ていきましょう。

4 釈迦はなぜ人間の苦しみについて考えたのか?

釈迦が人間の苦しみから逃れる道を求めたのは、どれほど恵まれた暮らしをしていても、老いや病気、死といった、人間には避けられない問題があると考えたからです。

人は誰でも年を重ね、病気になる可能性があり、いつか命を終えます。

お金や地位があっても、こうした現実を完全になくすことはできません。

では、人間に避けられない苦しみがあるなら、私たちは一生、苦しみにとらわれ続けるしかないのでしょうか。

釈迦は、この問題に向き合い、人はどうすれば根本的な苦しみから解放されるのかという答えを求めたと、仏教の経典に伝えられています。

ここでいう苦しみからの解放は、病気にならない身体を手に入れたり、永遠に若く生きたりすることではありません。

当時のインドには、死後も生まれ変わりを繰り返す「輪廻(りんね)」という考え方がありました。仏教でも、苦しみからの解放は、目の前の悩みをなくすことだけでなく、生まれ変わりを繰り返す状態から離れることに関わっています。

それでは、釈迦はどのようにして、その答えを探していったのでしょうか。

釈迦とは、どのような人物だったのか?

釈迦(しゃか)は、紀元前5世紀ごろの古代インドで活動したと考えられている、仏教の開祖(かいそ)、つまり仏教を開いた人物です。

サンスクリット語では Siddhārtha Gautama(シッダールタ・ガウタマ)と表され、日本語ではゴータマ・シッダールタとも呼ばれます。

「釈迦」という呼び名は、彼が属していた「釈迦族(しゃかぞく)」という人々の集団に由来します。

生まれたのは、現在のインドとネパールの国境付近にあたる地域で、釈迦族の有力な家の出身だったと考えられています。

ただし、正確な生年や没年については研究上の議論があり、紀元前5世紀ごろという年代も目安です。

仏教の伝承では、若いころの釈迦は、王子として豊かな生活を送っていたとされています。

そんな釈迦が、なぜ、それまでの暮らしを離れてまで、人間の苦しみについて考えるようになったのでしょうか。

老い・病・死に気づいた「四門出遊」の物語

仏教には、釈迦が人間の苦しみに気づいたきっかけとして、「四門出遊(しもんしゅつゆう)」という有名な物語が伝えられています。

四門出遊とは、王子として暮らしていた釈迦が、城の四方にある門から外へ出て、四つの光景に出会ったという伝承です。

釈迦が目にしたとされるのは、年老いた人、病気の人、亡くなった人、そして修行する人の姿でした。

年老いた人を見て、人はいつまでも若くはいられないことを知ります。

病気の人を見て、健康な身体も病によって苦しむことがあると気づきます。

亡くなった人を見て、どんな人にも死が訪れるという現実を知ります。

そして最後に、それまでの暮らしを離れ、苦しみから抜け出す道を求める修行者と出会います。

その姿を見た釈迦は、自分も苦しみから離れる道を探そうと決意した、と伝えられています。

ただし、この四門出遊は仏教に伝わる物語であり、釈迦が実際に四つの門を出て、これらの人物に出会ったことが歴史的に確認されているわけではありません。

実際、古い仏教経典の『長部(じょうぶ)』第14経では、似た物語が、釈迦より前に悟りを開いたと伝えられるヴィパッシンという仏について語られています。

『長部』とは、比較的長い教えを集めた仏教経典のことです。

そのため、四門出遊は、釈迦の人生で起きたと確定している出来事というよりも、仏教が重視する老い・病・死の問題をわかりやすく伝える物語として理解することが大切です。

釈迦は何を求めて出家したのか?

四門出遊は伝承ですが、釈迦が人間の苦しみから離れる道を求めたことは、初期の仏教経典にも記されています。

その一つが、『中部(ちゅうぶ)』第26経の『聖求経(しょうぐきょう)』です。

『中部』とは、古い仏教の教えのうち、中くらいの長さのものを集めた経典群です。全部で152のお経があり、第26経はその26番目という意味です。

『中部』の第26経にあたる『聖求経』は、釈迦の教えとして伝えられてきたもので、人間が何を求めるべきなのか、そして苦しみからの解放をどのように求めるのかという問題を扱っています。

この経典では、釈迦が自分自身も老い、病気になり、死を迎える存在であることを考え、同じように変化し、失われていくものばかりに幸せを求めることを問い直した、と語られています。

例えば、お金や大切な持ち物は、私たちの生活を豊かにしてくれます。

しかし、それらも永遠に失われないものではありません。

釈迦が求めたのは、こうしたものを増やすことだけでは解決できない、もっと根本的な苦しみからの解放でした。

そこで釈迦は、家族との暮らしを離れ、修行に専念する「出家(しゅっけ)」の道を選んだと伝えられています。

出家とは、それまでの家庭生活や社会的な立場を離れ、宗教的な教えを学び、修行する生き方に入ることです。

釈迦が出家したのは、単に嫌な現実から逃げるためではなく、人間が避けられない苦しみについて、根本的な解決の道を求めるためだったのです。

なぜ釈迦は厳しい苦行をやめたのか?

出家した釈迦は、まず修行の指導者たちから、心を集中させる方法などを学んだと伝えられています。

しかし、それだけでは求めていた苦しみからの解放に至らないと考え、さらに厳しい修行へと進みました。

その一つが「苦行(くぎょう)」です。

苦行とは、食事を極端に減らしたり、身体に強い苦痛を与えたりして、宗教的な目標に近づこうとする修行のことです。

当時のインドには、身体を厳しく苦しめることで、精神的な解放に近づこうとする修行者たちがいました。

釈迦も、そうした方法を試みたと経典に記されています。

『中部』第36経の『大サッチャカ経(だいサッチャカきょう)』には、釈迦が自分の苦行の経験を振り返る形で、その様子が語られています。

この経典によると、釈迦は呼吸を強く抑える修行や、食事を極端に減らす修行を行いました。

身体はひどく衰弱し、骨が浮き出るほどやせ細ったとされています。

それほど厳しい苦行を続けたにもかかわらず、釈迦は求めていた悟りに到達できなかったと語っています。

では、釈迦はなぜ苦行をやめ、別の方法を探そうとしたのでしょうか。

実は、『大サッチャカ経』には、その考えを変えるきっかけとなった出来事も記されています。

釈迦は、幼いころ、木陰で静かに心を集中させていた経験を思い出したと語っています。

そこには、欲しいものを手に入れて喜ぶような楽しさとは違う、心を落ち着け、集中することで得られる穏やかな喜びがありました。

この経験を思い出した釈迦は、身体を苦しめ続けることではなく、こうした落ち着いた集中の中にこそ、悟りへ向かう道があるのではないかと考えたのです。

しかし、身体がひどく衰弱したままでは、十分に心を集中させることもできません。

そこで釈迦は、食事を取り、身体の力を回復させました。

経典によれば、それまで釈迦と一緒に修行していた五人の仲間は、食事を取る姿を見て、釈迦が厳しい修行をあきらめたと思い、彼のもとを去ってしまいました。

それでも釈迦は、身体を苦しめる方法へ戻るのではなく、新しい道を進みました。

そして「瞑想(めいそう)」、つまり心を静め、集中を深めながら、物事のあり方をよく見きわめようとする修行を進めたと伝えられています。

その結果、釈迦は「悟り(さとり)」を得たと経典では説かれています。

仏教でいう悟りとは、単に新しい知識を得ることではありません。物事の本当のあり方を深く理解し、苦しみからの解放に至ることに関わる境地です。

釈迦が苦行をやめたのは、努力を放棄したからではありません。身体を極端に苦しめる方法では悟りに至らないと考え、心を集中させる別の道を見いだしたからです。

この経験は、釈迦が後に説いた「中道(ちゅうどう)」という教えを理解するうえでも重要です。

中道とは、ここでは、快楽にふける生活にも、身体を極端に苦しめる修行にも偏らず、悟りへ向かう正しい道を歩むという考え方です。

単に二つの生き方の中間を取ればよいという意味ではありません。

こうして釈迦は、人間の苦しみから離れる道を求める中で、それまでの修行方法を見直し、悟りに至ったと伝えられています。

ただし、ここまで紹介した経典は、釈迦の教えとして後世に伝えられてきた文献です。記されている会話や心の動きのすべてが、歴史上そのまま起きたと確認できるわけではありません。

それでも、これらの経典からは、釈迦の教えが、人間の苦しみをどう理解し、そこからどのように離れるのかという問いを中心にしていることがわかります。

では、釈迦が向き合った苦しみには、私たちの欲望や執着がどのように関わっているのでしょうか。

次は、その苦しみが生まれる原因について、さらに詳しく見ていきましょう。

5 なぜ欲望や執着が苦しみを生むのか?

仏教では、何かを望むこと自体ではなく、欲しいものや望む状態に強くとらわれる心の働きが、苦しみを生む重要な原因になると考えます。

その違いを理解するために、「欲望」「渇愛」「執着」という三つの言葉を見てみましょう。

欲望――何かを望み、求める気持ち

欲望とは、何かを手に入れたい、ある状態になりたいという気持ちです。

第1章でも説明したように、仏教では望みや意欲のすべてを悪いものとは考えません。

仏教で「欲」と訳される言葉の一つに、chanda(チャンダ、「何かをしようと望む意欲」)があります。これは、よい行動に向かう場合もあります。

例えば、「もっと勉強したい」「誰かを助けたい」という気持ちも、何かを望む心です。

渇愛――欲しいものや状態を強く求める心

渇愛(かつあい)は、サンスクリット語の tṛṣṇā(トリシュナー、「渇き」)、パーリ語の taṇhā(タンハー、「渇き」)に当たります。

喉が渇いて水を求めるように、心地よいものや望む状態を強く求める心の働きです。

例えば、新しい自転車が欲しいと思ったとします。

買えなくて残念に思うだけなら、それだけで渇愛に強くとらわれているとはいえません。

しかし、「あの自転車がなければ幸せになれない」と考え、ほかのことまで楽しめなくなってしまう。

これは渇愛を理解するための身近な例です。

執着――物や考えなどを強くつかみ、手放せなくなる心

第1章でも紹介した執着と深く関わるのが、仏教でいう「取(しゅ)」です。

取とは、物や自分の考えなどに強くしがみつき、手放せなくなる心の働きを意味します。

サンスクリット語・パーリ語では upādāna(ウパーダーナ)といい、「つかみ取ること」「しがみつくこと」などを意味します。

例えば、自転車を手に入れたあと、「絶対に傷つけたくない」と強くとらわれ、失う不安ばかり感じるようになったとします。

大切なものを丁寧に扱うことは問題ではありません。しかし、それにしがみつくあまり、心が苦しくなってしまうことがあります。

また、執着は物だけでなく、「自分の考えは絶対に正しい」といった思い込みにも向けられます。

つまり、渇愛は強く求める働き、取は対象をつかんで離さない働きです。両者は関係していますが、同じ意味ではありません。

仏教の古い教えをテーマごとに集めた『相応部(そうおうぶ)』第12・2経でも、渇愛を条件として取が生じると説かれています。

これは仏教が説明する苦しみの成り立ちであり、科学的な実験によって確認された心理法則ではありません。

渇愛は、物欲だけではない

さらに、『相応部』第56・11経では、渇愛を三つに分けています。

欲愛(よくあい):kāma-taṇhā(カーマ・タンハー)。おいしいものや心地よい刺激など、感覚的な楽しみを強く求めること。

有愛(うあい):bhava-taṇhā(バヴァ・タンハー)。自分の存在が続くことを強く求めること。

無有愛(むうあい):vibhava-taṇhā(ヴィバヴァ・タンハー)。自分の存在がなくなることを強く求めること。

この三つからわかるのは、仏教の渇愛が、欲しい物だけでなく、人間の存在そのものにまで関わるということです。

第4章で紹介した、生まれ変わりを繰り返す「輪廻」の問題にも、渇愛は深く関係すると説かれています。

仏教が問題にするのは、欲しいものがあることだけではありません。何かを強く求め、しがみつくことで、心が苦しみにとらわれることなのです。

ここまで読んで、「煩悩や欲望について、仏教ではほかにどんなことが説かれているのだろう?」と興味を持った方もいるかもしれません。

そんな方に向けて、この記事の後半では、初めて仏教を学ぶ方から、実際の経典を読んでみたい方まで、それぞれに合った日本語の本を紹介しています。

煩悩と仏教をもっと学べる、おすすめの本はこちら

さて、欲望や執着による苦しみから離れるために、釈迦はどのような道を説いたのでしょうか。

次は、苦しみ・その原因・苦しみの終わり・解放への道という四つの真理をまとめた「四諦(したい)」を見ていきましょう。

6 釈迦は苦しみから逃れる方法をどう説いた?

四諦の教え

仏教では、苦しみには原因があり、その原因がなくなることで、苦しみから解放される道があると説きます。

この考え方を四つの真理に整理したのが、第5章の最後で紹介した「四諦(したい)」です。

「諦」とは、ここでは「真理」、つまり物事の本当のあり方という意味です。

四諦は、釈迦が悟りを開いたあと、初めて説いたと伝えられる『転法輪経(てんぽうりんきょう)』に登場します。

「転法輪」とは、仏教の教えを説き始めることを、車輪を回すことにたとえた言葉です。

この教えは、第5章でも紹介した『相応部』の第56・11経に収められています。

それでは、四つの真理を順番に見ていきましょう。

① 苦諦(くたい)――人間の生には苦しみがある

仏教でいう「苦」は、パーリ語の dukkha(ドゥッカ、「苦しみ」「満たされなさ」などを意味する言葉)に当たります。

身体の痛みや悲しみだけでなく、老いや死、大切なものを失うこと、思いどおりにならないことなども含まれます。

苦諦とは、人間の生には、避けられない苦しみや満たされなさがあるという真理です。

ただし、人生には楽しいことが一つもない、という意味ではありません。

② 集諦(じったい)――苦しみには原因がある

集諦とは、苦しみが生じる原因についての真理です。

『転法輪経』では、その重要な原因として、第5章で説明した「渇愛」が挙げられています。

欲しいものや望む状態を強く求める心が、苦しみを生む原因になると説かれているのです。

③ 滅諦(めったい)――苦しみの原因はなくすことができる

滅諦とは、苦しみの原因である渇愛が完全に止むことで、苦しみからの解放に至るという真理です。

ここでいう解放は、身体の痛みや病気がすべて消えるという意味ではありません。

渇愛にとらわれる状態が終わり、仏教が目指す根本的な苦しみから解放されることを意味します。

④ 道諦(どうたい)――苦しみから離れるための道がある

道諦とは、苦しみの原因をなくすための実践の道についての真理です。

その道が「八正道(はっしょうどう)」です。

八正道とは、物事の正しい見方や考え方、言葉や行動、心の集中など、八つの面から生き方と修行を整える道です。

四諦を整理すると、次のようになります。

苦しみを理解する → 原因を知る → 原因がなくなることを知る → そのための道を実践する。

これは科学的な実験で証明された法則ではなく、仏教の経典に説かれる教えです。

四諦とは、苦しみをただ我慢するのではなく、その原因を理解し、そこから解放されるための道を示した教えなのです。

では、なぜ私たちは、変わっていくものに「ずっと同じであってほしい」と願い、苦しむのでしょうか。

次は、変化するものと煩悩の関係を考えてみましょう。

7 諸行無常とは?

変わるものに執着すると苦しくなる理由

諸行無常(しょぎょうむじょう)とは、原因や条件によって成り立つものは、永遠に同じ状態ではなく、変化していくという仏教の教えです。

「諸行」とは、さまざまな原因や条件によって生じたもの。「無常」とは、いつまでも変わらないものではない、という意味です。

例えば、花は日光や水などの条件によって育ち、やがて枯れていきます。

人間の身体や気持ち、周りの人との関係も、さまざまな条件によって変化します。

古い仏教の教えを短い詩にまとめた経典『ダンマパダ』(Dhammapada。「教えの句」という意味で、日本語では『法句経』とも呼ばれる書物)の第277偈(げ・詩の一節)にも、次のように記されています。

sabbe saṅkhārā aniccā(サッベー・サンカーラー・アニッチャー、「条件によって成り立つものは、すべて無常である」)。

では、この教えは煩悩とどう関係しているのでしょうか。

例えば、仲のよかった友達と、進学によって会う機会が減ってしまったとします。

寂しいと感じるのは自然なことです。

しかし、「絶対に昔と同じ関係でなければ嫌だ」と考え、変化した現実を受け入れられずにいると、その思いが自分をさらに苦しめることがあります。

これは、諸行無常と第5章で説明した執着の関係を、日常に置き換えた例です。

諸行無常とは、変わるものには価値がないという意味ではありません。

友達との関係が変わっても、一緒に過ごした時間の大切さまで失われるわけではないのです。

変化する現実を理解することと、大切なものを大切に思うことは両立できます。

仏教が問題にするのは、変化そのものだけではなく、変化するものに強くしがみつき、思いどおりにならない現実に心がとらわれることです。

では、こうした執着から離れるために、仏教ではどのような実践の道が示されているのでしょうか。

次は、中道と八正道について見ていきましょう。

8 煩悩を捨てるには?中道と八正道から学ぶ

仏教では、煩悩から離れるために、欲望を無理に押さえつけるだけでなく、物事の見方や行動、心の働きを整える修行の道が説かれています。

第4章では、釈迦が厳しい苦行を続けても悟りに至らず、別の修行方法を見いだしたことを紹介しました。

その経験ともつながるのが、第4章で説明した「中道(ちゅうどう)」です。

中道とは、ここでは快楽にふける生活と、身体を極端に苦しめる修行の、どちらにも偏らず、苦しみからの解放を目指す道です。

単に両者の中間を取って、ほどほどに生活すればよいという意味ではありません。

では、具体的にどのような道を歩むのでしょうか。

第6章で紹介した『転法輪経』では、中道の具体的な内容として「八正道(はっしょうどう)」が説かれています。

八正道とは、苦しみから解放されるための八つの実践の道です。

ここでいう「正」とは、単に自分が正しいと思うことではなく、仏教が目指す苦しみからの解放にかなうことを意味します。

その八つを見ていきましょう。

  1. 正見(しょうけん):第6章で学んだ四諦など、苦しみとその原因、解放への道を正しく理解すること。
  2. 正思惟(しょうしゆい):欲へのとらわれや憎しみから離れ、他人を傷つけない方向へ心を向けること。
  3. 正語(しょうご):うそや仲違いを生む言葉、人を傷つける言葉などを慎むこと。
  4. 正業(しょうごう):命を奪うことや盗み、不適切な性的行為などを避けること。
  5. 正命(しょうみょう):不正な方法や人を害する仕事を避け、適切な方法で生活を営むこと。
  6. 正精進(しょうしょうじん):よくない心の働きを防ぎ、すでに生じたものを減らし、よい心の働きを育てること。
  7. 正念(しょうねん):自分の身体や感じ方、心の状態などに注意を向け、その働きに気づき続けること。
  8. 正定(しょうじょう):瞑想によって心を深く集中させ、安定した集中の状態を育てること。

これらは、八つを一回ずつ行えば修行が終わるというものではありません。

物事の理解、言葉や行動、心の修行を互いに支え合うものとして実践することが、八正道の大切な特徴です。

また、第5章で紹介した、よい行動に向かう意欲まで捨てる必要はありません。

八正道に「正精進」が含まれることからも、仏教が努力や意欲のすべてを否定しているわけではないとわかります。

例えば、怒りを感じたとき、ただ我慢するのではなく、自分の怒りに気づき、相手を傷つける言葉を避けようとする。

これは八正道の考え方を日常に引き寄せた例です。

ただし、八正道が目指すのは、一時的に気持ちを落ち着けることだけではなく、煩悩にとらわれる状態から根本的に解放されることです。

では、避けられない苦しみが生じたとき、人はその苦しみに、さらに心の苦しみを重ねてしまうことがあるのでしょうか。

次は、仏教に伝わる「二本の矢」のたとえから考えてみましょう。

9 二本の矢のたとえ

日常の煩悩とどう向き合う?

仏教では、身体の痛みに、怒りや嘆きなどの心の苦しみが重なることを「二本の矢」にたとえています。

この教えは、第5章で紹介した『相応部』の第36・6経に記されています。「矢の経」とも呼ばれる、釈迦の教えとして伝えられた経典です。

例えば、ある人が一本の矢で射られたとします。

その人は、身体に強い痛みを感じるでしょう。

さらに、もう一本の矢で射られたら、痛みは重なってしまいます。

経典では、この二本の矢を、次のようにたとえています。

  • 一本目の矢: 身体に生じる痛み。
  • 二本目の矢: その痛みに対して生じる怒りや嘆きなど、心に重なる苦しみ。

例えば、けがをして足が痛むとします。

痛みそのものがつらいだけでなく、「どうして自分ばかりこんな目に遭うのだろう」と怒りや不安にとらわれることもあるでしょう。

経典では、痛みを強く嫌って反発したり、快楽に逃れようとしたりする心の働きも問題にしています。

一方、仏教の教えを身につけた人も身体の痛みは感じますが、そこに心の苦しみを重ねないと説かれています。

大切なのは、身体の痛みそのものと、その痛みに対して心がどのように反応しているのかを区別することです。

では、この教えを日常生活に引き寄せると、どうでしょうか。

例えば、テストで思うような点数が取れず、悔しいと感じたとします。

その出来事に加えて、「自分は何をやっても駄目だ」「次も絶対に失敗する」と決めつけ、自分を責め続けてしまうことがあります。

これは経典に登場する話ではなく、二本の矢の考え方を理解するための記事上の応用例です。

そんなときは、まず「実際に何が起きたのか」と「自分はその出来事をどう考えているのか」を分けてみることが、一つの手がかりになります。

第8章で紹介した「正念」のように、自分の心の動きに気づくことも役立つでしょう。

ただし、悲しみや不安を感じること自体が悪いわけではありません。心の苦しみを簡単に消せるという意味でもありません。

身体の痛みに治療が必要なように、つらいときには休んだり、人に相談したりすることも大切です。

煩悩と向き合う一つの手がかりは、つらさを無理に消そうとするのではなく、そのつらさに自分の心がどのように反応しているのかを理解することです。

心が揺れたとき、どう向き合えばよいのか。

実は、古代ギリシアの哲学者たちも、似た問いを考えてきました。

仏教の教えと同じものではありませんが、感情に振り回されない生き方を別の角度から考えてみたい方は、

「アパテイアとは?意味とストア派の考え方」

も読んでみてください。

それでは、仏教の教えに話を戻し、煩悩と関係の深い言葉をもう少し見ていきましょう。

10 煩悩と間違えやすい言葉、知っておきたい仏教の教え

ここまで、煩悩の意味と、苦しみから離れるための仏教の教えを見てきました。

実は、煩悩と関係が深くても、同じ意味ではない言葉があります。

もう少しだけ、仏教の世界をのぞいてみましょう。

「煩悩」と「業(カルマ)」は何が違う?

業(ごう)は、サンスクリット語の karman(カルマン、「行為」)、パーリ語の kamma(カンマ、「行為」)に当たります。

仏教では特に、自分の意志による心の働きや、言葉・身体の行為を意味します。

例えば、怒りにとらわれて相手を傷つける言葉を口にした場合、怒りは煩悩、その怒りから生じた発言は業として考えられます。

煩悩は心を惑わせる働き、業は意志に基づく行為であり、同じものではありません。

また、業には善いものも悪いものもあります。

『増支部(ぞうしぶ)』という、釈迦の教えを項目の数に従って集めた初期仏教経典の第6・63経でも、行為のもととなる意志が重視されています。

さらに、悪い出来事がすべて過去の業によって起こると考えるのも正確ではありません。『相応部』第36・21経では、身体の状態や気候など、さまざまな原因が挙げられています。

「涅槃(ねはん)」とは、死ぬことなの?

涅槃とは、煩悩の火が消えたような、苦しみから解放された境地を意味します。

サンスクリット語の nirvāṇa(ニルヴァーナ、「吹き消すこと」に由来する言葉)を漢字の音で表した言葉です。パーリ語では nibbāna(ニッバーナ)といいます。

これと関係する「解脱(げだつ)」は、煩悩や輪廻による束縛から解き放たれることを意味します。

涅槃は釈迦の死について使われることもありますが、もともと単に死ぬことを意味する言葉ではありません。

仏教では、生きている間に煩悩から解放される境地も説かれています。

「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」とは?

少し不思議な言葉ですが、後世の大乗仏教(だいじょうぶっきょう・釈迦の時代より後に発展した仏教の大きな流れ)には、「煩悩即菩提」という考え方があります。

「菩提」は、サンスクリット語の bodhi(ボーディ、「目覚め」「悟り」)に由来する言葉です。

煩悩即菩提とは、煩悩と悟りを、完全に切り離された別々のものとは考えないという教えです。

煩悩も、悟りに至るための手がかりになり得ると説かれます。

ただし、欲望のままに行動すれば、それだけで悟れるという意味ではありません。

これは第4章から紹介してきた初期仏教の教えを、そのまま別の言葉で表したものではなく、後世の仏教思想で発展した考え方です。

このように、煩悩を理解するには、心の働きだけでなく、行為や悟りとの関係を知ることも役立ちます。

仏教には長い歴史があり、煩悩についても、さまざまな角度から考えられてきたのです。

11 まとめ・考察

煩悩を知ることは、自分の心を知ること

煩悩とは、単に何かを欲しがることではなく、欲望や怒り、思い込みなどによって心が乱れ、苦しみにつながる働きです。

仏教では、煩悩を三毒などに分類し、108という数字でも表してきました。ただし、108は人間の心を科学的に数えた結果ではなく、伝統的な教えに基づく数え方です。

釈迦の教えでは、苦しみの重要な原因として渇愛が挙げられ、その原因から離れるために中道や八正道が説かれています。

つまり、仏教は苦しみの原因を知るだけでなく、そこから解放される道も考えてきたのです。

ここからは、これまでの教えをもとにした私自身の考察です。

例えば、誰かに認められたいと思って、一生懸命努力した経験はありませんか。

認められたいという気持ちが、努力するきっかけになることもあります。

しかし、いつの間にか「認められなければ、自分には価値がない」と考えるようになったら、どうでしょうか。

自分の価値を、他人の評価だけで決めてしまうことになります。

私は、ここに煩悩を考える面白さがあると思います。

「欲しい」と思うことと、「それがなければ幸せになれない」と思い込むことは、同じではないのです。

自分の心は、知らないうちに「こうでなければ幸せになれない」という条件を作っているのかもしれません。

だからこそ、何かを強く望んだときには、自分自身にこう問いかけてみたいのです。

「私は何を望んでいるのだろう。そして、それが手に入らなかったら、何を失うと感じているのだろう?」

例えば、目標が達成できなければ残念でしょう。しかし、その結果だけで自分自身の価値まで失われるわけではありません。

もちろん、こう考えただけですべての苦しみが消えるわけではなく、仏教が目指す悟りとも同じではありません。

それでも、煩悩を知ることは、欲しい気持ちを否定するためではなく、自分が何に心をとらわれているのかを知る手がかりになると私は考えます。

何を手に入れたいのかだけでなく、何に振り回されているのか。

その違いに気づくことが、自分の心を知る最初の一歩になるのではないでしょうか。

もう一つ、自分の心を知るための興味深い視点があります。

「こうなりたい自分」と「今の自分」の違いに苦しむのは、なぜなのでしょうか。

仏教の煩悩とは異なる心理学の視点から考えてみたい方には、

「理想自己と現実自己の違いとは?」

という記事もおすすめです。

おまけコラム

「我慢」は、もともと「耐えること」ではなかった?

「お菓子をもう一つ食べたい。でも、ここは我慢!」

こんな経験、ありませんか?

実は、この「我慢」という言葉。仏教では、今とはずいぶん違う意味で使われていました。

仏教でいう「我慢(がまん)」は、自分への強いこだわりから生まれる、思い上がりの心を意味する煩悩の一つです。

サンスクリット語では asmi-māna(アスミ・マーナ、「私はある」という自己意識に結びつく慢心)に当たります。

例えば、「自分の考えこそ絶対に正しい」「自分のほうが偉い」と思い込み、他人を見下してしまう心です。

ところが時代が進むにつれ、「我を張る」「強情」といった意味を経て、現在の「耐え忍ぶ」という意味で使われるようになったと説明されています。

つまり、今では褒め言葉になる「我慢強い」も、もともとの仏教語の意味とは大きく違うのです。

これは、ちょっと面白い変化ですよね。

ここからは、日常に引き寄せた私の考察です。

誰かと言い争ったとき、「自分は絶対に間違っていない!」と意地を張ってしまうことはありませんか?

そんなとき、本当に難しいのは、怒りを我慢することよりも、自分の正しさにしがみつく心を手放すことなのかもしれません。

何気なく使っている一つの言葉にも、人間の心を見つめてきた仏教の歴史が隠れているのですね。

さらに学びたい人へ

煩悩と仏教をもっと知るために

煩悩や釈迦の教えについて、もう少し知りたくなった方へ。

ここでは、理解を深められる日本語の本と、仏教の文化や修行に触れられる場所を紹介します。

書籍紹介

初学者・小学生にもおすすめ
『悩みや不安にふりまわされない! こどもブッダのことば』 監修:齋藤孝

子どもと一緒に学びたい方、難しい説明が苦手な方。
本の特徴: ブッダの教えを子ども向けの言葉とイラストで紹介。
おすすめ理由: 自分の心との向き合い方を、身近な出来事から考えられます。

中級者・経典を読んでみたい人向け
『ブッダのことば スッタニパータ』 訳:中村元

初期仏教の教えを、もう一歩深く知りたい方。
本の特徴: 古い仏教経典の一つ『スッタニパータ』を日本語で読める翻訳書。
おすすめ理由: 欲望や執着、人間の生き方について、経典に伝えられた言葉から考えられます。

幅広い読者・大人の学び直しにもおすすめ
『眠れなくなるほど面白い 図解 仏教』 著:渋谷申博

仏教全体を楽しく知りたい方。
本の特徴: 仏教の誕生から、日本の寺院や仏像、文化まで図解で紹介。
おすすめ理由: この記事で学んだ仏教の考え方が、日本の生活や文化とどうつながっているのか、視野を広げられます。

実際に訪れて、仏教に触れてみたい方へ

仏教の教えは、本を読むだけでなく、お寺を訪れて体験することでも親しめます。

ここでは、全国各地から四つの寺院を紹介します。

【東北地方・岩手県】中尊寺(ちゅうそんじ)

岩手県平泉町にある、金色堂で知られるお寺です。

お経を一文字ずつ書き写す「写経(しゃきょう)」や、静かに座って心を見つめる「坐禅(ざぜん)」を体験できます。

おすすめの人: 仏教の歴史や文化に触れながら、心静かな時間を過ごしてみたい方。

【北陸地方・福井県】大本山永平寺(だいほんざんえいへいじ)

福井県永平寺町にある、曹洞宗(そうとうしゅう)という禅を重視する仏教宗派の大本山です。

現在も僧侶たちが修行を続けており、一般向けの坐禅体験も案内されています。

おすすめの人: 静かな環境の中で、仏教の修行がどのようなものなのか体感したい方。

【近畿地方・和歌山県】高野山・金剛峯寺(こんごうぶじ)

和歌山県高野町にある、高野山真言宗(こうやさんしんごんしゅう)の総本山です。

「阿字観(あじかん)」という、真言宗に伝わる瞑想法を体験できます。

これは、仏教の教えを象徴する文字「阿」を心に思い浮かべ、呼吸や心を整える修行です。

おすすめの人: 普段の生活を離れて、仏教の瞑想に触れてみたい方。

【九州地方・福岡県】妙楽寺(みょうらくじ)

福岡県福岡市にある、臨済宗(りんざいしゅう)という禅を重視する仏教宗派のお寺です。

初心者向けの坐禅体験が案内されており、住職から作法を教わることができます。

おすすめの人: 坐禅を初めて体験したい方、身近な場所で仏教文化に触れたい方。

近くのお寺で体験してみたい方へ

紹介した寺院は全国にある体験先の一例です。

曹洞宗の公式サイトでは、全国の坐禅会を行うお寺を都道府県ごとに探すことができます。

なお、写経や坐禅などの開催日、参加条件、予約方法は寺院によって異なります。訪れる前に必ず公式案内をご確認ください。

本を読んで知ることも、お寺で静かな時間を過ごすことも、仏教への理解を深めるきっかけになります。

自分に合った方法で、煩悩や心の働きについて、もう一歩学んでみてはいかがでしょうか。

疑問が解決した物語

108回の鐘と、二人が見つけた答え

古代インドを思わせる、にぎやかな市場。

結衣(ゆい)と湊(みなと)は、美しい布を買えずに立ち去った男性を見つめていました。

「お姉ちゃん。欲しいって思うことは、悪いことなの?」

結衣は首を横に振りました。

「違うよ。煩悩は、欲しいと思う気持ちだけじゃないんだって」

「じゃあ、何なの?」

「欲しいものにしがみついたり、思いどおりにならなくて怒ったり、思い込みで心が乱れて苦しくなったり。そういう心の働きのことなんだよ」

「そっか。欲しいって思ったとき、自分が何にこだわっているのか考えてみるといいんだね」

そのとき、遠くから鐘の音が響きました。

ゴォーン……。

市場の景色がふわりと消え、気づけば二人は、元のお寺に戻っていました。

目の前には、あの古い絵巻。

「そうだ! 鐘を108回鳴らしたら、煩悩はなくなるの?」

湊の質問に、結衣は答えます。

「108は煩悩を表す伝統的な数え方なんだって。鐘を鳴らすだけで心が変わるわけじゃないけど、自分の心を見つめ直すきっかけにはできると思うよ」

帰り道、湊は屋台のお菓子を見つけました。

「わあ、食べたい! ……でも、お小遣いが足りないや」

湊は少し残念そうでしたが、やがて笑いました。

「欲しかったけど、買えないからって、今日が全部つまらなくなるわけじゃないよね」

結衣もうなずきました。

欲しい気持ちを消さなくても、その気持ちに振り回されずに、どう行動するかを選ぶことはできる。

二人は、そんなことを少しだけ理解できた気がしました。

もし、あなたにも何かが思いどおりにならない日があったら、どうしますか?

例えば、「何が欲しかったのかな」「どうしてこんなに悔しいのかな」と、自分の心に問いかけてみるのも一つの方法です。

煩悩を知ることは、自分の心を責めるためではなく、心の働きを理解するための手がかりになるのです。

ゴォーン……。

二人は鐘の音を背に、冬の夜道を並んで歩いていきました。

文章の締めとして

夜空に響く鐘の音は、やがて静かに消えていきます。

それでも、その音に耳を傾けた時間や、そこで感じた思いは、心のどこかに残るかもしれません。

この記事で出会った言葉や考え方が、何気ない日常の中で、ふと思い出せる小さなきっかけになればうれしく思います。

補足注意

この記事は、筆者が確認できる仏教経典や専門資料をもとに、煩悩の意味や釈迦の教えをわかりやすく整理したものです。

仏教には長い歴史があり、時代や宗派によって考え方や解釈が異なる場合があります。また、歴史研究や文献研究が進むことで、これまでの理解が見直されたり、新しい発見が加わったりする可能性もあります。

そのため、この記事の説明が、煩悩についてのすべての答えを示しているわけではありません。

🧭 本記事のスタンス

この記事は、唯一の正解を示すものではなく、煩悩や仏教の教えに興味を持ち、自分自身で考え、さらに学ぶための入り口として書いています。

古くから伝わる教えを大切にしながらも、異なる時代や宗派の考え方にも目を向け、ご自身の疑問を深めるきっかけにしていただければ幸いです。

鐘の音から、心の奥へ――煩悩を知り、自分を知る旅の続きを、ぜひ経典や専門書をひもときながら、さらに深く味わってみてください。

最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました。

108回の鐘の音は、心が揺れ動くことを恐れず、その時々の自分と向き合いながら、新しい一日を迎えることの大切さを教えてくれているのかもしれません。

参考になる資料・調べるための手がかり

この記事で紹介した煩悩や仏教の教えについては、次のような経典や専門辞典などを通じて、さらに詳しく調べることができます。

以下は、興味を持った方が学びを深めるための資料案内です。筆者がすべての原典や書籍を通読したことを示すものではありません。

【仏教の専門辞典】

『新纂浄土宗大辞典』

煩悩、三毒、百八煩悩、涅槃など、仏教の専門用語の意味や、伝統的な解釈を調べることができます。公式WEB版も公開されています。

【初期仏教の経典】

  • 『如是語経』第50経:貪・瞋・痴という三つの根本的な心の働き。
  • 『長部』第14経、『中部』第26・36経:釈迦の生涯に関する伝承や、出家・修行について。
  • 『相応部』第12・2経、第56・11経:渇愛と執着、四諦、中道、八正道について。
  • 『相応部』第36・6経、第36・21経:二本の矢のたとえや、苦痛の原因について。
  • 『増支部』第6・63経:業と意志の関係について。
  • 『ダンマパダ(法句経)』第277偈:諸行無常の教えについて。

これらは、釈迦の教えとして伝えられてきた経典です。日本語訳の書籍や、経典を公開している資料などを通じて、内容を調べることができます。

【仏教の言葉や文化について】

仏教宗派による公式解説や仏教用語辞典などでは、「我慢」の本来の意味や、除夜の鐘、写経、坐禅といった仏教文化についても学ぶことができます。

仏教には長い歴史があり、宗派や研究者によって解釈が異なる場合もあります。気になる言葉や教えがあれば、一つの説明だけでなく、さまざまな資料を読み比べてみることもおすすめします。

コメント

タイトルとURLをコピーしました