5秒でわかる結論
『無知の知(むちのち)』とは、自分が知らないことを「知っている」と思い込まず、知らないと自覚していることです。
噛み砕いて言うと
例えば、友達からこんな質問をされたとします。
「この漢字って、どういう意味なの?」
その漢字は読めます。でも、意味まで正しく説明できるかは分かりません。
そんなとき、
「読めるから、意味も知っているよ」
と決めつけるのではなく、
「読み方は知っている。でも、意味はまだよく分からないな」
と考えてみます。
自分が分かっていることと、まだ分かっていないことを、きちんと分けて考えるのです。
そうすると、次に何を調べればよいのかが見えてきます。
漢字の意味が分からなければ、辞書で調べたり、先生に質問したりできますよね。
ここで大切なのは、知らないこと自体が立派だということではありません。
知らないことに気づけば、知っているつもりのままで終わらず、さらに確かめることができます。
これが、無知の知を身近に考えるための一つの例です。
導入
「知っているつもり」に気づいたことはありませんか?
「テスト勉強は、何度もノートに書くのが一番いいよ」
例えば、友達にそう勧めたとします。
自分はその方法で勉強してきたし、実際に覚えられた経験もあります。
だから、きっとこの方法が一番いい。
そう思っていたところ、友達からこんな質問をされました。
「本当に? ほかの勉強方法とも比べてみた?」
そう聞かれると、すぐには答えられません。
自分がその方法で勉強してきたのは確かです。でも、ほかの方法と比べたことはありませんでした。
「一番いい」と自信を持って話したのに、その理由を聞かれると、思っていたほど説明できなかったのです。
皆さんにも、そんな経験はありませんか?
普段は当たり前だと思っていることでも、誰かに「どうして?」と聞かれると、答えに迷ってしまうことがあります。
では、私たちはどこまで理解していれば、「知っている」と言えるのでしょうか。
自分が知らないことに気づくのは、なぜ「知恵」と関係があるのでしょうか?
この記事では、古代ギリシャの哲学者ソクラテス(Socrates/ソクラテス、紀元前469年ごろ〜紀元前399年)が、知恵について問い続けた理由をたどりながら、「無知の知」の意味や、その考え方が私たちの日常とどのようにつながるのかを学んでいきます。
まずは、私たちの身近なところで起こりそうな、もう一つの出来事から考えてみましょう。
疑問が生まれた物語|「知っている」って、どこまで?
放課後、悠斗は文化祭で紹介するカードゲームを、美咲たちと試していました。
「このゲームなら何度もやってるよ。ルールは全部知ってるから、説明は任せて!」
悠斗が自信満々に話すと、美咲が尋ねました。
「じゃあ、最後に二人が同じ点数だったら、どっちが勝つの?」
「えっ? それは……」
悠斗は答えられませんでした。
いつも勝ち負けがはっきり決まっていたので、同点になった場合のルールを確かめたことがなかったのです。
「僕、全部知ってるつもりだったのに……」
少し恥ずかしくなった悠斗に、美咲はルールの説明書を差し出しました。
「じゃあ、一緒に調べてみようよ」
二人で説明書を確認しながら、悠斗はふと考えました。
「知らないことがあったのに、どうして僕は全部知っていると思っていたんだろう?」
家に帰ってからも、その疑問が気になりました。
そこで「知っているつもり」について調べてみると、「無知の知」という不思議な言葉に出会います。
「知らないことに気づくのが、どうして知恵と関係あるんだろう?」
悠斗は、その意味をもっと詳しく知りたくなりました。
では、哲学における「無知の知」とは、どのような考え方なのでしょうか。
第1章|哲学における「無知の知」とは?
無知の知(むちのち)とは、自分が知らないことを、知っていると思い込まず、知らないと自覚していることです。
「自覚」とは、自分自身で気づいていることを意味します。
つまり、「自分は何を知っていて、何をまだ知らないのか」を、できるだけ正しく理解しようとする考え方です。
この考えは、古代ギリシャの哲学者ソクラテス(Socrates/ソクラテス、紀元前469年ごろ〜紀元前399年)と深い関係があります。
ソクラテスは、古代ギリシャの都市国家アテナイ(現在のギリシャの首都アテネにあたる場所)で、人々と質問を交わしながら、知恵や人間の生き方について考えた人物です。
特に、人間にとって何がよいことなのか、正しく生きるとはどういうことなのか、といった問題を大切にしていました。
「無知の知」という言葉はどこから生まれたのか?
無知の知を理解するうえで重要なのが、古代ギリシャの哲学者プラトン(Plato/プラトン、紀元前427年ごろ〜紀元前347年ごろ)の著作『ソクラテスの弁明(そくらてすのべんめい)』です。
プラトンはソクラテスから学んだ人物で、この作品には、裁判にかけられたソクラテスが、自分の考えや行動について説明する姿が描かれています。
その21d(古典の文章の場所を示す番号)に、古代ギリシャ語で次の表現があります。
ἃ μὴ οἶδα οὐδὲ οἴομαι εἰδέναι
(ハ・メー・オイダ・ウーデ・オイオマイ・エイデナイ。読み方は目安です)
日本語では、おおよそ次のような意味になります。
「自分が知らないことについては、知っているとも思わない」
この部分でソクラテスは、ある人物と自分の知恵を比べています。
どちらも、人間にとって何がよいことなのかといった大切な事柄について、十分に知らないように思える。
しかし、相手は知らないことを知っていると思っているのに対し、自分は知らないことを知っているとは思っていない。
その違いにおいて、自分の方が少しだけ知恵があるのではないかと考えたのです。
ここで大切なのは、ソクラテスが「自分は何も知らない」と、あらゆる知識を否定していたわけではないことです。
実際に知っていることまで否定する必要はありません。
知らない事柄について、知っていると思い込まないことが重要なのです。
なお、「無知の知」は、このようなソクラテスの考えを説明するために、日本で広く使われている呼び方です。
古代ギリシャ語の原典に、「無知の知」という決まった名前の言葉が、そのまま登場するわけではありません。
知らないことに気づくのは、なぜ大切なのか?
例えば、「勇気とは何か」と尋ねられたとしましょう。
ある人は、こう答えるかもしれません。
「勇気とは、怖がらないことだよ」
ところが、こんな質問をされたらどうでしょうか。
「怖いと思いながらも、困っている人を助けようとする人には、勇気がないのかな?」
最初の説明だけでは、うまく答えられないかもしれません。
ここで考えたいのは、勇気の正しい定義を決めることではありません。
自分では意味を理解していると思っていた言葉にも、まだ十分に考えていない部分があった、と気づくことです。
これは無知の知を理解するための例であり、ソクラテスがこのとおりに話したという意味ではありません。
自分はもう分かっていると思っていたら、その答えが本当に正しいのか、改めて確かめようとは思わないかもしれません。
けれども、十分に分かっていないと気づけば、別の例を考えたり、相手の意見を聞いたり、自分の説明を見直したりできます。
知らないことを認めるのは、考えることを諦めるためではなく、もっと確かな理解を求めるための出発点になるのです。
もちろん、知らないと気づくだけで、すぐに知恵のある人になれるわけではありません。
その後も、何が正しいのかを問い、理由を確かめていく必要があります。
なお、ソクラテスのこの考えは、「不知の自覚(ふちのじかく)」とも説明されます。
「不知」とは知らないこと、「自覚」とは自分自身で気づいていることです。
つまり、自分が知らないことを、自分で認めているという意味です。
ただし、「無知の知」と「不知の自覚」という二つの表現をどう使い分けるべきかについては、哲学研究者による議論があります。
この違いについては、後の章でさらに詳しく見ていきましょう。
哲学における無知の知とは、知らないことを知っていると思い込まず、自分の理解を確かめながら、知恵を求めていくことの大切さを考えさせる言葉なのです。

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