PR

バーナード・ウィリアムズとトマス・ネーゲルの「道徳的運」は何が違う?同じ問いから二人が違う方向へ進んだ理由をわかりやすく解説

学ぶ
当サイトでは広告・アフィリエイトプログラムを利用しています。

同じ「道徳的運」を考えたウィリアムズとネーゲルは、なぜ違う方向へ議論を深めたのでしょうか。
二人の共通点と違いをたどりながら、「運の中で生きる人間」と「運の中で人を道徳的に評価すること」という二つの視点から、道徳と運の難しい関係をやさしく読み解きます。

同じ「道徳的運」から、なぜ二人は違う問いへ進んだのか

代表例

「道徳的運」を調べると、二人の哲学者の名前がよく出てきます。

Bernard Williams(バーナード・ウィリアムズ、1929年〈昭和4年〉~2003年〈平成15年〉)は、道徳や人間の生き方を考えたイギリスの哲学者です。

Thomas Nagel(トマス・ネーゲル、1937年〈昭和12年〉生まれ)は、道徳だけでなく、意識や自由意志なども幅広く考えてきたアメリカの哲学者です。

二人はどちらも、本人にはコントロールできない「運」が、人の行為や道徳的な評価にどう関わるのかを考えました。

ところが、同じ問題を考えながら、二人が強く注目した場所には違いがあります。

この記事では、「何が同じで、何が違ったのか」を一つずつたどっていきます。

5秒でわかる結論

二人の違いは、「運を認めるかどうか」ではなく、運が入り込んだときに何を強く問題にしたかです。

ウィリアムズは「運の中で選び、生きる人間」を、ネーゲルは「運の中で人を道徳的に評価すること」を、より強く掘り下げました。

これは二人を完全に二つへ分ける説明ではなく、議論の重点の違いをつかむための整理です。

小学生にもわかりやすく言うと?

これは、二人の違いをつかみやすくするための、この記事で作った例です。

同じように廊下を走った二人がいたとします。

一人は誰にもぶつかりませんでした。

もう一人は、たまたま角から出てきた人にぶつかり、けがをさせてしまいました。

二人がした「廊下を走る」という行動は同じでも、結果は大きく違います。

ここで、ウィリアムズの方向から見ると、

「けがをさせてしまった本人は、その出来事を自分が起こしたものとして、どう受け止めて生きていくのだろう?」

ということが気になります。

本人にとっては、「たまたまだった」で簡単に終わらないことがあるからです。

一方、ネーゲルの方向から見ると、

「そこに人がいたかどうかは自分だけでは決められなかったのに、結果が違ったという理由で、二人を違って評価してよいのだろう?」

ということが気になります。

さらにネーゲルは、「本人には決められなかったもの」を評価から外していくと、最後にどこまで本人を正当に評価できるのか、と考えていきます。

つまり、とても簡単にまとめると、

ウィリアムズは「運で起きたことを、その人がどう背負って生きるのか」。

ネーゲルは「運で変わったことまで、その人の評価に入れてよいのか」。

この違いを入り口にすると、同じ「道徳的運」を考えた二人が、なぜ少し違って見えるのかが分かりやすくなります。

1.疑問が生まれた物語

中学2年生の悠斗は、「道徳的運」について調べていました。

すると、バーナード・ウィリアムズとトマス・ネーゲルの名前が、何度も一緒に出てきます。

「どうして、この二人はいつも一緒に出てくるんだろう?」

さらに調べると、1976年(昭和51年)、二人の Moral Luck(モラル・ラック、「道徳的運」)という論考が、同じ『アリストテレス協会補遺巻』第50巻に掲載されていました。

『アリストテレス協会補遺巻』は、哲学者たちの専門的な論考を掲載する学術誌の補遺巻です。

しかも、ネーゲルの論考は、ウィリアムズの議論への応答として始まっています。

それなら、二人はほとんど同じことを考えていたのでしょうか。

調べていくと、そう単純ではありませんでした。

二人は同じ「道徳的運」の問題を考えながら、特に深く見ようとした場所が少し違っていたのです。

悠斗はノートに一つの問いを書きました。

「ウィリアムズとネーゲルは、同じ道徳的運の何を見て、どこから違う方向へ議論を深めていったのだろう?」

その違いを知るには、まず二人が共通して考えていた「道徳的運」とは何なのかを確かめる必要があります。

2.そもそも「道徳的運」とは何なのか

第1章で、ウィリアムズとネーゲルが同じ「道徳的運」の問題を考えていたことを見ました。

道徳的運とは、本人にはコントロールできないことが大きく関わっているのに、それでもその人を責任・非難・称賛などの道徳的な評価の対象として扱うことが正しいと考えられる場合を指します。

ここでいう「道徳的な評価」とは、「責任がある」「責められる」「ほめられる」などと、その人や行為を判断することです。

この問題を理解する鍵が、Control Principle(コントロール・プリンシプル、「コントロール原理」)です。

これは、「人を道徳的に評価するなら、その人がコントロールできたことをもとにするべきだ」という考えです。

ただし、コントロール原理は、道徳的運そのものではありません。

私たちは一方で、

「自分ではどうすることもできなかったことまで理由にして、人を責めるのはおかしい」

と考えます。

ところが実際には、本人には決められなかった運が関わっているのに、それでも責任や非難、称賛の対象として人を評価することがあります。

「コントロールできたことだけで評価したい」のに、「コントロールできなかった運まで評価に関わってくる」。

この二つがぶつかるところに、道徳的運の問題があります。

Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー、「スタンフォード哲学百科事典」)は、哲学研究者が執筆・編集し、スタンフォード大学で公開されている専門的な哲学事典です。同事典も、この衝突を道徳的運の中心的な問題として整理しています。

これは、「運が関わっているなら責任は全部なくなる」という意味ではありません。

むしろ問題になるのは、運の影響を道徳的な評価から外そうとしたとき、何を正当に評価できるものとして残せるのかということです。

この同じ問題を、ウィリアムズとネーゲルは、それぞれ違う方向から深く考えていきました。

3.まず二人は、どんな哲学者だったのか

第2章までで、ウィリアムズとネーゲルが同じ「道徳的運」の問題を考えていたことが分かりました。

ここでは比較へ進む前に、二人がどのような哲学者だったのかを、同じ順番で確認しておきましょう。

Bernard Arthur Owen Williams(バーナード・アーサー・オーウェン・ウィリアムズ、1929年〈昭和4年〉9月21日~2003年〈平成15年〉6月10日)は、イギリスの哲学者です。

イングランド東部のエセックス州ウェストクリフ=オン=シーに生まれ、オックスフォード大学で学びました。その後、ロンドン大学、ケンブリッジ大学、カリフォルニア大学バークレー校、オックスフォード大学などで研究と教育に携わりました。

専門の中心は倫理学です。

普通の言葉でいえば、「人はどう生きるべきか」「道徳は、人間の感情や人生の選択をどこまで説明できるのか」といった問題を考えた哲学者です。

人格、感情、個人の大切な計画、責任なども幅広く論じ、倫理を一つの整った規則だけですべて説明しようとする考え方には批判的でした。

今回の比較で特に重要なのは、ウィリアムズが、現実に選び、その結果を自分の人生として引き受けて生きる人間を強く見ていたことです。

一方、Thomas Nagel(トマス・ネーゲル、1937年〈昭和12年〉7月4日生まれ)は、アメリカの哲学者です。

当時のユーゴスラビアのベオグラード、現在のセルビアの首都で生まれ、1944年(昭和19年)からアメリカ国籍を持っています。

コーネル大学、オックスフォード大学、ハーバード大学で学び、カリフォルニア大学バークレー校、プリンストン大学を経て、1980年(昭和55年)からニューヨーク大学で研究と教育に携わってきました。現在は同大学の哲学・法学名誉教授です。

ネーゲルも倫理学を重要な研究分野としましたが、それだけではありません。

政治哲学、法哲学、人間の意識を考える心の哲学、知識とは何かを考える認識論、人生の意味など、幅広い問題を研究してきました。

そして彼の哲学では、「自分自身の立場から見ること」と、「自分から距離を取り、できるだけ客観的に見ること」の間にある緊張が、重要なテーマの一つです。2008年(平成20年)にネーゲルへ道徳哲学部門のバルザン賞を授与した財団も、この点を彼の哲学の中心的特徴として挙げています。

ただし、「ウィリアムズはこういう人物だったから道徳的運をこう考え、ネーゲルはこういう人物だったから別の答えになった」と単純に原因を決めることはできません。

ここで確認できるのは、二人が同じ道徳的運を考えながらも、哲学全体では重視していた問題や視点に違いがあった、ということです。

その違いを頭に置いたうえで、次は二人が「道徳的運」について、まず何を共通の出発点としていたのかを見ていきましょう。

4.二人の出発点は、実はかなり近かった

第3章では、ウィリアムズとネーゲルが、それぞれどのような哲学者だったのかを見ました。

哲学全体では関心の向け方に違いがあります。

しかし、道徳的運について二人が向き合った問題の土台は、かなり近いところにありました。

その土台にあるのが、

「本人にはどうすることもできない運によって、人の道徳的な価値まで変わってよいのだろうか」

という問題です。

この考えを理解する手がかりになるのが、Immanuel Kant(イマヌエル・カント、1724年〈享保9年〉~1804年〈文化元年〉)です。

カントは、18世紀から19世紀初めのプロイセンで活躍し、知識や道徳について大きな影響を与えた哲学者です。

カントは、行為がたまたま成功したかどうかよりも、その人がどのような意志で行為しようとしたのかを重視しました。

その考えを表す重要な言葉の一つが、「善い意志」です。

これは単に「よい結果にしたいと思う気持ち」という意味ではありません。

簡単にいえば、結果によって得をするからではなく、「それが自分のするべき正しいことだから」と行おうとする意志そのものに道徳的な価値がある、という考えです。

そのため、本人には決められない偶然によって結果が失敗しても、善い意志そのものの価値まで失われるわけではない、とカントは考えました。

先ほど紹介したネーゲルは、Moral Luck(モラル・ラック、「道徳的運」)の冒頭で、このカントの考えを取り上げています。

ウィリアムズも同じ論考で、道徳的な価値は運の影響から守られている、という考えを重要な問題として検討しました。

二人が行ったのは、科学的な実験ではありません。

「道徳的な価値は運から独立している」という考えを出発点に、具体的な例や理由を使い、その考えを最後まで貫くと本当に成り立つのかを確かめる哲学的な論証です。

そして二人とも、運を人間の生や道徳的な評価から完全に切り離すことは、思っているほど簡単ではないことを浮かび上がらせました。

ただし、二人がそこから同じ結論へ進んだわけではありません。

ウィリアムズは後年の追記で、自分の最初の論文には誤解を招きうる表現があったことも認めています。

ですから、二人を単純に「カントに反対した二人」とまとめるのも正確ではありません。

共通していたのは、「道徳と運を本当に切り離せるのか」という問題です。違ったのは、その問題をどの方向へ深く追いかけたのかでした。

次は、その違いをまずウィリアムズの側から見ていきましょう。

5.ウィリアムズが見たもの――運の中で「生きる人間」

第4章で見た共通の問題から、ウィリアムズは、運の中で実際に選び、その選択や出来事とともに生きる本人に何が起こるのかを深く考えていきました。

その特徴がよく表れているのが、二つの例です。

一つ目は、Paul Gauguin(ポール・ゴーギャン、1848年〈嘉永元年〉~1903年〈明治36年〉)というフランスの画家をもとにした思考例です。

思考例とは、ある場面を想定し、「この考えは本当に成り立つだろうか」と確かめる哲学上の方法です。ウィリアムズの「ゴーギャン」は、実在した本人の人生をそのまま説明したものではありません。

この例のゴーギャンは、家族への責任を残しながら、画家として生きる道を選びます。

しかし、その選択が本当に実を結ぶかは、選んだ時点では分かりません。

ウィリアムズが注目したのは、画家としての才能が実際に開花するかなど、その計画そのものに関わる運によって、「あの選択には自分なりの筋の通った理由があった」と後から言えるかどうかまで左右されうることです。どんな偶然でも、結果がよければ正当化されるという話ではありません。

二つ目が、agent-regret(エージェント・リグレット、「行為者としての後悔」)です。

ウィリアムズは、落ち度がないのに子どもをひいてしまったトラック運転手を例にしました。

運転手に責められるべき過失がなくても、「自分がその事故を起こした人である」という関係は残ります。

そのため、何もしていない第三者とは違う、特別な後悔を感じることがありうるとウィリアムズは考えました。

これは、「責任がないのに、本当は有罪だ」という意味ではありません。

大切なのは、道徳的に責められるかどうかと、その出来事が自分の人生にどのような意味を残すかは、同じ問題ではないということです。

この二つの例から見えてくるのは、ウィリアムズが運を外から評価するだけでなく、運の中で選び、結果を受け止め、その後も生きていく「行為者」の側を強く見ていたことです。

だから彼の議論は、単なる感情の話ではありません。

人生の選択をどう正当化できるのか、そして運によって起きた出来事と本人がどう関わり続けるのかまで含めた、人間の生き方の問題なのです。

6.ネーゲルが見たもの――運を除いたら「評価」は何が残る?

第5章で見たウィリアムズが、運の中で選び、その出来事とともに生きる「行為者」を強く見たのに対して、ネーゲルは、本人にコントロールできないものを評価から外していくと、何を正当に道徳的評価できるのかを追いました。

第2章で説明したコントロール原理は、「人を道徳的に評価するなら、その人がコントロールできたことをもとにするべきだ」という考えでした。

ネーゲルは、科学的な実験をしたのではありません。

具体例を使いながら、「これは本人にコントロールできたのか」と同じ基準を一つずつ当てていく哲学的な論証によって、この考えを確かめました。

すると、運は「結果」だけにはとどまりません。

ネーゲルの議論は、現在では主に次の四つの方向に整理されています。

① 結果――行為がどう終わったか

同じように不注意な運転をしても、たまたま進路に子どもがいたかどうかで、事故の結果は変わります。

② 状況――どんな場面に置かれたか

同じような人でも、1930年代のナチス・ドイツで悪事に加わる状況に置かれるか、そうした状況から離れて暮らすかによって、実際にする行為が変わりえます。

③ 人となり――どんな性格や気質を持つ人なのか

性格、能力、気質そのものにも、本人が自分で選んだわけではない部分があります。

④ 原因――自分の行為が、どんな原因から生まれたか

さらにさかのぼると、自分の意志や行為も、それ以前の自分では選べなかった原因とつながっています。ここは、自由意志の問題とも深く関係します。

なお、ネーゲルは四つの方向を区別しましたが、現在使われる四分類の名称をすべて本人が付けたわけではありません。「結果に関わる運」などの名称には、後の研究者が整えたものもあります。

こうして同じコントロールの基準を広げていくと、結果だけでなく、状況、人となり、さらに行為が生まれる原因まで、運が入り込んでいるように見えてきます。

そのため、運を道徳的評価から取り除こうとするほど、「これは本人がコントロールしたことだから評価できる」と言える範囲が小さくなっていくのです。

これは、「だから誰にも責任はない」という結論ではありません。

ネーゲルが浮かび上がらせたのは、本人にコントロールできないものでは評価しない、という考えを一貫して守ろうとすると、今度は道徳的に評価できるものそのものが、ほとんど残らないように見えてくるという難しさです。

ここで、第5章との違いがはっきりします。

ウィリアムズは「運の中で生きる行為者」を強く見た。

ネーゲルは「運の中で人を道徳的に評価すること」を、どこまで成り立たせられるのかと問い詰めた。

二人は同じ道徳的運から出発しながら、ここで少しずつ、問いを深める方向の違いが見えてくるのです。

7.なぜ、同じ問いから二人は違う方向へ進んだのか

第5章と第6章までで、二人の違いが少し見えてきました。

では、なぜ同じ「道徳的運」から、問いを深める方向に違いが生まれたのでしょうか。

この問いについて、二人自身が「この理由で別の方向へ進んだ」と、一つの原因を説明しているわけではありません。

そのため、ここでは二人の Moral Luck と、それぞれの哲学全体を比べて、何を特に問題として前に出したのかという違いから考えます。

ウィリアムズが強く見たのは、道徳の理屈だけでは収まりきらない、現実に生きる人間の側でした。

第5章のゴーギャンの思考例では、大きな人生の選択を後から正当化できるかどうかに、運が入り込みます。

「行為者としての後悔」では、責められる過失がなくても、自分が起こした出来事が本人の人生に特別な意味を残します。

つまり、ウィリアムズの方向から見ると、

「人間の生から運を取り除けないのに、道徳だけを運から完全に守ろうとすると、実際に選び、生きる人間の大切な部分を取りこぼしてしまわないか」

という問題が見えてきます。

これは、彼が倫理を一つの整った理論ですべて説明しようとすることに批判的だった哲学全体ともつながっています。

一方、ネーゲルが強く追ったのは、本人にコントロールできないことでは人を評価しない、という考えを一貫させたら何が起きるのかです。

第6章で見たように、運は結果だけでなく、状況、人となり、行為が生まれる原因にまで入り込みます。

それらをすべて評価から外そうとすると、

「では、本人について正当に道徳的評価できるものは、いったいどこまで残るのか」

という問題が現れます。

ネーゲルは、コントロールを重視する考えと、実際には運に左右されたことまで道徳的に評価している私たちの判断を並べ、その二つを同時に保つことの難しさを押し広げました。

ここで、二人の違いを一度まとめてみましょう。

ウィリアムズは、運が「人間の生き方」に入り込むことを強く見た。

ネーゲルは、運が「人への道徳的評価」に入り込むことを広く追った。

ただし、これは二人を完全に二つへ分ける分類ではありません。

また、「ウィリアムズは運を認めた人、ネーゲルは運を否定した人」という違いでもありません。

二人が共有していたのは、道徳と運を簡単には切り離せないという問題です。

違ったのは、そこから何を最も深刻な問題として追いかけたのかでした。

だからこそ、同じ Moral Luck という題名から始まった二人の議論は、重なりながらも同じものにはならなかったのです。

8.ウィリアムズから見たネーゲル、ネーゲルから見たウィリアムズ

第7章までで、ウィリアムズとネーゲルは、同じ「道徳と運を本当に切り離せるのか」という問題から出発しながら、違う方向へ問いを深めていったことが分かりました。

では、二人は実際に、相手の議論をどのように見ていたのでしょうか。

ここで最初に押さえておきたいのは、二人の関係は左右対称ではないということです。

「ネーゲルがウィリアムズをどう受け取ったのか」は、比較的はっきり確認できます。

一方で、「ウィリアムズがネーゲルの『道徳的運』をどう評価したのか」については、同じ形の直接的な応答が確認できるわけではありません。

この違いを分けて見ていきましょう。

まず、ネーゲルから見たウィリアムズです。

第1章で説明したように、1976年(昭和51年)、二人の Moral Luck は同じシンポジウムで発表され、同じ『アリストテレス協会補遺巻』第50巻に掲載されました。

しかも、ネーゲルの論考は、ウィリアムズの同名の論考への応答として始まったものです。

第2章で紹介したスタンフォード哲学百科事典も、ネーゲルの論考がウィリアムズへの応答として始まり、この二つの論考が一緒になって、現代の道徳的運の問題を強く形づくったと説明しています。

では、ネーゲルはウィリアムズの問題を、そのまま繰り返したのでしょうか。

そうではありません。

ネーゲルは、ウィリアムズが示した問題を受け取りながら、「運の影響は、もっと広いところまで及んでいるのではないか」と議論を押し広げました。

第5章で見たウィリアムズは、ゴーギャンの選択や「行為者としての後悔」を通して、運が人の選択や人生に入り込むことを考えました。

それに対して第6章で見たネーゲルは、結果だけでなく、置かれた状況、人となり、さらには行為が生まれる原因まで、本人が完全にはコントロールできないことを指摘していきます。

そして、

「コントロールできなかったことを道徳的評価から外していったら、そもそも何を正当に評価できるのか」

というところまで問題を広げました。

専門的な解説でも、二人の論文は同じ問題を共有しながら、重点はかなり異なると整理されています。

つまり、ネーゲルから見たウィリアムズの議論は、単に「賛成する相手の説」だったと考えるより、

道徳と運の衝突を考えるための直接的な出発点であり、そこからさらに道徳的評価全体へ問題を広げるきっかけになった

と理解するのが適切です。

では次に、ウィリアムズから見たネーゲルを見てみましょう。

ここでは、先ほどと同じ強さでは言えません。

ウィリアムズが、ネーゲルの Moral Luck に対して「私はこう評価する」と、対応する形で詳しく答えた論考があるわけではないからです。

ただし、二人の哲学上の距離を知る手がかりはあります。

ウィリアムズは1976年(昭和51年)の別の論文 Persons, Character and Morality(パーソンズ・キャラクター・アンド・モラリティ、おおまかには「人格・性格・道徳」)で、当時の道徳哲学について論じています。

この論文は、人が持つ性格や大切にしている計画・人間関係を、道徳理論がどのように扱えるのかを考えた文章です。

そこでウィリアムズは、ネーゲルを含む当時の哲学者たちについて、第4章で紹介したカントから強い影響を受けた哲学の流れに位置づけています。

ただし、ここは誤解しないことが大切です。

ウィリアムズは、「ネーゲルはカントと同じことを言っている」と述べているわけではありません。

むしろ、そこには重要な違いがあり、純粋なカント哲学そのものではないことも認めています。

したがって、この資料から確認できるのは、

ウィリアムズがネーゲルを、自分とは無関係な哲学者として見ていたのではなく、カントから影響を受けた同時代の道徳哲学の重要な流れの中に位置づけていた

というところまでです。

ここからさらに、

「ウィリアムズはネーゲルの道徳的運を否定していた」

「二人は哲学上のライバルだった」

「互いに相手を批判的に評価していた」

とまで言うことはできません。

また、二人が個人的に相手をどう評価していたのか、仲がよかったのか悪かったのかも、ここで確認した資料だけから判断することはできません。

この章で扱っているのは、あくまで論文から確認できる哲学上の関係です。

ここまでを整理すると、二人の関係には少し面白い「非対称」があります。

ネーゲルからウィリアムズへ――ウィリアムズの「道徳的運」は、ネーゲルが直接応答し、自分の問題へ広げていく出発点になった。

ウィリアムズからネーゲルへ――ネーゲルの「道徳的運」への直接的な返答が確認できるわけではないが、ウィリアムズは別の論文で、ネーゲルをカントの影響を受けた同時代の道徳哲学の流れの中に位置づけていた。

つまり二人は、単純な「賛成する人」と「反対する人」ではありません。

そして、「同じ問いに同じ答えを出した二人」でもありません。

ウィリアムズが道徳と運のあいだにある亀裂を見せ、ネーゲルがその亀裂を道徳的評価のさらに広い範囲へ追っていった。

そう捉えると、なぜ同じ Moral Luck から二つの異なる議論が生まれたのか、そしてなぜ今でも二人が一緒に読まれているのかが、よりはっきり見えてきます。

9.おまけコラム

同じ「道徳的運」が、同じ夜に並んだ

ここまで少し難しい話が続いたので、二人にまつわる小さな話を見てみましょう。

1976年(昭和51年)7月10日の夜。

イギリスのウォーリック大学で開かれた哲学者たちの合同会合で、“Moral Luck”(モラル・ラック、「道徳的運」)というシンポジウムが開かれました。

その登壇者として並んでいたのが、

バーナード・ウィリアムズとトマス・ネーゲルです。

そして、そのときの二人の論考は、『アリストテレス協会補遺巻』第50巻に、同じ Moral Luck という題名で続けて掲載されました。

つまり二人は、後になって偶然「道徳的運の哲学者」として並べられたわけではありません。

最初から同じテーマをめぐる一つのシンポジウムで、それぞれの考えを示していたのです。

それでも、ここまで見てきたように、二人が深く見た場所は同じではありませんでした。

同じ夜、同じ題名、同じ「道徳的運」から始まりながら、ウィリアムズは「運の中で生きる人間」を、ネーゲルは「運の中で人を道徳的に評価すること」を、それぞれ違う方向から深く考えていきました。

だからこそ、この二人を一緒に読むことで、「道徳的運」という一つの問題が、人間の生き方と道徳的評価という二つの方向から、より立体的に見えてくるのです。

10.もっと深く知りたい人へ――「道徳的運」を3つの方向からたどる

ここまでで、ウィリアムズとネーゲルが同じ「道徳的運」をどこから見て、どのように違う方向へ問いを深めていったのかが見えてきました。

この記事だけでも、二人を比較するための基本的な内容は理解できるようにしてきました。

そのうえで、さらに深く知りたい人には、次の3つの記事があります。

道徳的運そのものを、もっと深く知りたい人へ

→ 道徳的運とは?同じ行動でも結果で責任は変わる?道徳的運の4つの種類をわかりやすく解説

「道徳的運とは、そもそも何なのか」を最初から詳しく知りたい人向けの記事です。

本人にはコントロールできないことが関わっているのに、なぜ責任・非難・称賛などの道徳的な評価が変わることがあるのか。

今回の記事の土台になっている、道徳的運そのものの意味・問題・考え方を、より詳しくたどることができます。

バーナード・ウィリアムズを、もっと深く知りたい人へ

→ バーナード・ウィリアムズとは?「道徳的運」で何を問い、なぜ重要なのかをやさしく解説

「ウィリアムズは、なぜ道徳的運にとって重要なのか」を詳しく知りたい人向けの記事です。

ゴーギャンの思考例や「行為者としての後悔」を通して、運が人生の選択や、その出来事を本人がどう受け止めるかにまで入り込むことを考えます。

今回の記事で見た、「運の中で生きる人間」を重く見るウィリアムズの考え方を、より詳しくたどることができます。

トマス・ネーゲルを、もっと深く知りたい人へ

→ トマス・ネーゲルとは?『道徳的運』で何を問題にした哲学者なのかをわかりやすく解説

「ネーゲルは、なぜ道徳的運にとって重要なのか」を詳しく知りたい人向けの記事です。

結果・状況・人となり・原因へと広がる運の問題を通して、本人にコントロールできないものを評価から外していくと、何を正当に道徳的評価できるのかを考えます。

今回の記事で見た、「運の中で人を道徳的に評価すること」を問い詰めたネーゲルの考え方を、より詳しくたどることができます。

道徳的運そのものを知るか、ウィリアムズから深めるか、ネーゲルから深めるか。

入り口は違っても、どの道から進んでも、「本人にはコントロールできない運と、人への道徳的な評価はどのように関わるのか」という同じ大きな問いへつながっています。

11.さらに学びたい人へ

ここまで読んで、「道徳的運について、もう少し自分で考えてみたい」と感じた人へ、今回の記事とつながる3冊を紹介します。

初学者・小学校高学年からおすすめ
『哲学するってどんなこと?』 金杉武司 著

どのような人向けか:哲学を初めて読む人や、「哲学ではどうやって問いを考えるの?」というところから知りたい人向けです。
本の特徴:問いの立て方や、思考実験を使って考える方法などを、練習問題とともに学べます。「善悪」を題材にした思考実験も扱われています。
おすすめ理由:道徳的運そのものの解説書ではありませんが、今回の記事でウィリアムズやネーゲルが行った、「例を使って、当たり前に見える考えが本当に成り立つか確かめる」という哲学の方法を理解しやすくなります。

少し学んだ人におすすめ
『バーナード・ウィリアムズの哲学: 反道徳の倫理学』 渡辺一樹 著

どのような人向けか:今回の記事でウィリアムズに興味を持ち、「道徳的運だけでなく、彼の哲学全体から理解したい」と感じた人向けです。
本の特徴:ウィリアムズの人格、倫理、運、政治などを日本語で解説した入門書です。第3章では「倫理は運を超えるのか」というテーマで、道徳的運の問題も詳しく扱われています。
おすすめ理由:今回の記事で説明した、なぜウィリアムズが「運の中で生きる人間」を重く見たのかを、道徳的運だけに切り離さず、彼の哲学全体の中で理解できます。

今回の記事全体をさらに深めたい人におすすめ
『新装版 コウモリであるとはどのようなことか』 トマス・ネーゲル 著/永井均 訳

どのような人向けか:今回の記事を読んで、ネーゲル本人の文章に触れながら、道徳的運をさらに深く考えてみたい人向けです。
本の特徴:ネーゲルの論文集 Mortal Questions の日本語版で、第3章に「道徳における運の問題」が収録されています。新装版には、この論文を理解するための古田徹也による新しい解説も加えられています。
おすすめ理由:今回の記事で見てきた、結果・状況・人となり・原因へと広がっていく運の問題を、ネーゲル本人の議論まで戻って確かめられる一冊です。また、道徳的運だけでなく、人生の意味、意識、主観と客観なども扱われているため、「ネーゲルはなぜこのような問いを考えた哲学者なのか」まで見えてきます。

まず哲学の考え方を身につける。次にウィリアムズの哲学全体を見る。そしてネーゲル本人の論文へ進む。

この順番で読むと、今回の記事で見てきた二人の違いが、単なる知識ではなく、「同じ問いを別の方向から考える哲学の面白さ」として、さらに見えやすくなります。

12.まとめ・考察

「その人だけ」を見て、人を判断できるのか

ここまで見てきたことを、一度まとめましょう。

ウィリアムズとネーゲルの違いは、運を認めるかどうかではありません。

ウィリアムズは、運の中で選び、その結果とともに生きていく人間を強く見ました。

ネーゲルは、本人にはコントロールできない運が入り込むなかで、人を道徳的に評価することがどこまで成り立つのかを深く追いました。

二人を一緒に読むことで見えてくるのは、道徳的運が単に「運がよかった、悪かった」という話ではないことです。

私たちは運に左右されながら生きている。それでも、自分や他人の行為を評価せずにはいられない。

この二つを、どう一緒に考えるのか。

そこに道徳的運の難しさがあります。

ここからは、これまでの議論を日常に引き寄せた、この記事としての考察です。

たとえば、こんな経験はないでしょうか。

友人と同じようにふざけていたのに、自分のときだけ物が壊れてしまった。

仕事や学校で同じようなミスをしたのに、たまたま大きな問題につながった人だけが強く責められた。

反対に、自分の判断がうまくいったけれど、振り返ると実力だけではなく、偶然に助けられていた。

こうした場面で道徳的運を知っていると、すぐに「悪い結果を出した人=より悪い人」「成功した人=すべて本人の力」と結びつける前に、本人が選べたことと、本人には選べなかったことを分けて考えることができます。

ただし、これは「運が関係したのだから、その人には何の責任もない」という意味ではありません。

ここでいう責任とは、法律上の「有罪・無罪」だけを指す言葉ではありません。

道徳的運で問題になるのは主に、その人の行為について、どこまで非難したり称賛したりできるのか、そして本人がその出来事とどのように関わるべきなのかという、道徳的な責任の問題です。

法律では、法律に違反したか、どのような条件なら処罰の対象になるかなど、法律で定められた基準によって有罪・無罪が判断されます。

一方、ここで考えている道徳的な責任は、それとは同じではありません。

法的には責任を問われなくても、自分が起こした出来事について特別な後悔を抱くことがあります。反対に、悪い結果が起きたからといって、その結果のすべてを本人の道徳的な責任にすることもできません。

第5章で見たウィリアムズの「行為者としての後悔」は、まさにこの違いを理解する助けになります。

過失のない運転手が偶然の事故で子どもを死なせてしまった場合、ウィリアムズは、その人が道徳的に有罪だから後悔すると考えたのではありません。

責められる過失がなくても、「自分がその出来事を起こした人である」という事実によって、特別な後悔が生まれることがある。

責任・非難・後悔は、すべて同じものではないのです。

だから道徳的運を考えるときには、

「結果が悪かった」
→「本人に責任がある」
→「本人を強く責めてよい」
と一直線につなげないことが大切です。

まず、その人が何を選べたのか。

何が本人には選べなかったのか。

本人に過失や意図があったのか。

そして、その結果がどこまで本人の行為によるものなのか。

こうした点を分けて考える必要があります。

運の影響を認めることと、責任をすべて消してしまうことは同じではありません。

むしろ難しいのは、運の影響を認めながら、それでもその人が実際に選んだことについて、どこまで責任を問えるのかを考えることです。

私は、ここに二人を一緒に読む価値があると考えます。

ウィリアムズだけを見ると、「その出来事を背負って生きる本人」の側がよく見えてきます。

ネーゲルだけを見ると、「そもそも私たちは何を根拠にその人を評価しているのか」がよく見えてきます。

二人を重ねると、「人を道徳的に評価すること」と「その人が出来事を自分の人生の一部として受け止めること」は、同じ問題ではないと気づくことができます。

これが、この記事から引き出せる一つの重要な考察です。

そして、もう一つ面白い見方があります。

道徳的運を意識すると、失敗した人を見る目だけではなく、成功した自分を見る目も変わります。

うまくいかなかった人に対しては、「本人だけの責任だったのか」と考えられる。

うまくいった自分に対しても、「すべて自分だけの力だったのか」と考えられる。

すると道徳的運は、人への責任追及を弱めるためだけの考えではなく、他人への厳しさと、自分への過大評価の両方を見直すための視点にもなります。

では、あなたなら道徳的運を知ったあと、人を見るときに何を確かめるでしょうか。

この記事で示せる答えは、まず次の二つです。

「その人が自分で選べたことは何だったのか」

「その人には選べなかったことが、結果にどこまで関わっていたのか」

そのうえで、意図や過失、実際に選んだ行為を見ながら、どこまで道徳的な責任を問えるのかを考える。

さらにウィリアムズの視点を加えれば、責任とは別に、本人がその出来事を自分の人生の中でどう受け止めるのかも見ることができます。

責任をすべて消すことでも、結果だけで責任を決めることでもない。運・選択・意図・過失・その後の向き合い方を分けながら考える。

道徳的運を知ることで身につくのは、そのような、人間を一つの結果だけで決めつけないための見方なのです。

13.疑問が解決した物語

第1章で、悠斗はノートにこう書いていました。

「ウィリアムズとネーゲルは、同じ道徳的運の何を見て、どこから違う方向へ議論を深めていったのだろう?」

記事を最後まで読み終えた悠斗は、もう一度そのページを開きました。

そして、問いの下に答えを書き加えます。

「二人は別々の問題を考えていたわけではない。同じ『道徳と運を本当に切り離せるのか』という問題を、違う場所から深く見ていたんだ。」

ウィリアムズが強く見ていたのは、運の中で選び、その結果を自分の人生の一部として受け止めながら生きる人間でした。

ネーゲルが強く見ていたのは、本人にはコントロールできない運が関わっているのに、人を道徳的に評価することがどこまで正当なのかという問題でした。

悠斗は、最初に抱いていた「同じ題名なら、ほとんど同じことを言っているのではないか」という疑問が、ようやく解けたと感じました。

同じ問いでも、「その出来事を生きる本人」を見るのか、「その人を評価する側」を見るのかで、見えてくる問題は変わるのです。

その数日後、学校で友人が係の仕事を失敗しました。

友人の確認不足もありましたが、直前に予定が変わったことも、失敗を大きくしていました。

悠斗は以前なら、「失敗したのだから、その人が悪い」と考えていたかもしれません。

でも今回は、すぐに一つの結論へ飛びつきませんでした。

まず、

「この人が自分で選べたことは何だったのだろう」

と考えました。

そのうえで、

「この人にはどうすることもできなかったことは、どこまで結果に関わっていたのだろう」

とも考えました。

だからといって、「運が悪かったから責任はない」と決めたわけではありません。

確認できたはずのことには、その人なりの責任があるかもしれません。

一方で、本人には変えられなかった事情まで、すべてその人の責任にするのも違います。

さらに悠斗は、ウィリアムズの議論を思い出しました。

「責任がどこまであるか」と、「その出来事を本人がどう受け止めているか」は、同じ問題ではない。

友人は失敗を気にしていました。

そこで悠斗は、ただ責めるのでも、簡単に「気にしなくていい」と言うのでもなく、

「次に自分で変えられるところは、一緒に考えよう」

と声をかけました。

悠斗が道徳的運から学んだのは、人を評価しないことではありません。評価する前に、運と選択を分けて考えることでした。

そしてもう一つ、

人について考えるときには、「どこまで責任があるか」だけでなく、「その出来事と本人がこれからどう向き合っていくのか」も見る必要がある

と分かりました。

では、あなたなら誰かの失敗を見たとき、最初に何を確かめるでしょうか。

この記事から考えられる一つの答えは、

「本人が選べたこと」と「本人には選べなかったこと」を、まず分けてみることです。

そのうえで、選べたことについては責任を考え、選べなかったことまで本人だけのせいにしない。

そして必要なら、その人が結果とどう向き合い、次に何を変えられるのかを見る。

道徳的運を知るということは、人を簡単に責めなくなることでも、何でも運のせいにすることでもありません。

結果だけを見るのではなく、選択・運・責任・その後の向き合い方を分けながら、その人をより丁寧に見ることなのです。

14.文章の締めとして

私たちは、誰かの行動を見るとき、つい目の前にある「結果」から、その人のことまで判断してしまいます。

けれど、その結果にたどり着くまでには、本人が選んだこともあれば、本人には選べなかった偶然もあります。

そして、その出来事を外から評価することと、その出来事を自分の人生の一部として引き受けながら生きていくことも、同じではありません。

ウィリアムズとネーゲルの「道徳的運」を一緒にたどると、人間は、結果だけでも、意図だけでも、責任だけでも説明しきれない存在なのだと見えてきます。

だからこそ、誰かを判断するときも、自分自身を振り返るときも、少しだけ余白を残しておくことが大切なのだと思います。

その人が選んだこと。

その人には選べなかったこと。

そして、その出来事をこれからどう受け止めて生きていくのか。

そこまで見ようとすると、同じ出来事でも、少し違った姿に見えてくるかもしれません。

補足注意

この記事は、筆者が個人が確認・調査できる範囲で、原典や信頼できる専門資料を参照しながら整理した内容です。

できる限り正確さを重視していますが、すべての研究や解釈を網羅できているわけではありません。

また、哲学には一つの読み方だけがあるとは限らず、ウィリアムズやネーゲルの議論についても、異なる解釈や立場があります。

今後、研究や議論が進むことで、新しい資料が見つかったり、これまでとは異なる理解が示されたりする可能性もあります。

🧭 本記事のスタンス

この記事は「これが唯一の正解」と示すものではなく、道徳的運に興味を持ち、自分でも考えたり調べたりするための一つの入り口として書いています。

ぜひ、ほかの資料や異なる立場からの考え方にも触れながら、あなた自身の問いを深めてみてください。

このブログを入り口に、さらに深い文献へ進み、「運」を読み、「運」を問い、その運の向こうにいる人間までたどってみてください――ウィリアムズとネーゲルの「道徳的運」は、知れば知るほど「運」だけでは片づけられない問いへ、私たちを連れていってくれます。

最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました。

人を一つの結果だけで決めつけず、その人の選択と、その人を取り巻いていた運の両方を見ることの大切さを、ウィリアムズとネーゲルの「道徳的運」は教えてくれているのかもしれません。

コメント

タイトルとURLをコピーしました