メロンを分け合う優しさ、強くても謙虚なラッコ先生、自由なのに仲間を待つうさぎ、そして「ジューシー」のすれ違いから見えてくるハチワレの思いやり。何気ない仕草や会話に込められた、それぞれの関係性と優しさを丁寧に考察します。
- 『ちいかわ』第373話「メロン当選②」
- 剣でメロンを切るラッコ先生――強さが日常の優しさに使われる面白さ
- 「いいのか、いただいて」――ラッコ先生の格好良さは強さよりも謙虚さにある
- すぐ食べそうなのに、ちゃんと待つうさぎ
- メロンを食べるだけで、みんなの性格が見えてくる
- メロンのヘタが「王冠」になる不思議な戴冠式
- うさぎはメロンのネットをかなり気に入っていた?
- シーサー登場――同じ「ジューシー」なのに話がまったく違う
- みんなが話しているのに、蝶々しか見ていないうさぎ
- 「おにぎりにもできて」で、ようやく違和感が生まれる
- ハチワレは「違う」と言う前に、相手の世界へ入ろうとする
- 正しさを教えることより、相手を理解しようとすること
- 「ジューシー」という一つの言葉から沖縄へつながっていく
- 話を聞いていなさそうなうさぎは、最後に誰へ手を挙げたのか
- ただメロンを食べただけなのに、これほど仲の良さが伝わってくる
- 今回のコメント欄では、こんなところが多く注目されていました
- 今回の動画が教えてくれるかもしれないこと
『ちいかわ』第373話「メロン当選②」
今回の話は、当選したメロンをみんなで食べるという、とても穏やかなところから始まります。
大きな事件が起こるわけでもなく、誰かが危険な目に遭うわけでもありません。
それでも見終わってみると、ラッコ先生の人柄、うさぎの意外な一面、ハチワレの考え方、そしてシーサーとの少し不思議な会話まで、それぞれのキャラクターらしさがぎゅっと詰まった回だったように感じました。
特に今回は、「言葉が完全には噛み合っていなくても、相手を理解しようとすることはできる」ということが、さりげなく描かれていたように思います。
剣でメロンを切るラッコ先生――強さが日常の優しさに使われる面白さ
冒頭では、ラッコ先生が両手にメロンを持っているイラストから始まります。
そして次の瞬間、メロンが空中へ投げられ、「シャキン」という音とともにラッコ先生が剣を振るいます。
メロンは見事に切り分けられます。
討伐などで使っているであろう剣を、今回はメロンを切るために使っているわけです。
ここがまず面白いところです。
ラッコ先生の剣は、本来であれば危険な存在と戦うためのものです。
しかし今回は、その力が「みんなでおいしいものを食べるため」に使われています。
強さというものは、敵を倒すときだけに現れるものではないのかもしれません。
誰かのために自分の能力を使うこと。
それもまた、ラッコ先生らしい強さの見せ方なのだと思いました。
しかも、切り分け方もきれいです。
ちいかわ、ハチワレ、うさぎ、そしてラッコ先生。
みんなが同じようにメロンを手にしている姿を見ると、それだけでなんだか微笑ましくなります。
「いいのか、いただいて」――ラッコ先生の格好良さは強さよりも謙虚さにある
メロンを切ったラッコ先生は、自分の分を当然のように取るのではなく、「いいのか、いただいて」というように確認します。
私はここが、とてもラッコ先生らしい場面だと思いました。
自分がメロンを切ったのだから、一切れくらいもらって当然だと考えても不思議ではありません。
ましてラッコ先生は、ちいかわたちにとって憧れの存在であり、戦いの実力も高い人物です。
それでも、自分より小さな相手に対してきちんと確認する。
ここには、「強いから偉い」という意識がほとんど感じられません。
むしろ、相手を一人の存在として尊重しているように見えます。
本当に格好いい人というのは、自分の強さを見せつける人ではなく、自分が強いからこそ相手に丁寧に接することができる人なのかもしれません。
ちいかわとハチワレが笑顔で応じている様子からも、ラッコ先生に対する信頼が伝わってきます。
そしてハチワレはちいかわに対して「ありがとう」という気持ちを伝え、ちいかわも嬉しそうに応えています。
当選したメロンを独り占めせず、みんなで分ける。
そこには「自分が得た幸運を誰かと共有する」という、ちいかわらしい優しさも表れているように感じました。
すぐ食べそうなのに、ちゃんと待つうさぎ
一方、うさぎはメロンを前にして舌を出し、今にも食べてしまいそうな表情をしています。
いかにもうさぎらしい姿です。
「早く食べたい」という気持ちが、そのまま顔や仕草に出ています。
ところが、実際にはすぐに食べません。
ちいかわ、ハチワレ、ラッコ先生と一緒に、みんなが食べるタイミングまでちゃんと待っています。
ここは何気ない描写ですが、私はかなり好きです。
自由奔放で、思いついたらすぐ行動してしまいそうなうさぎにも、「みんなで食べる」という場面ではちゃんと周囲を見る感覚があるのでしょう。
そして四人が同時にメロンへかぶりつきます。
その瞬間まで待ったあと、うさぎはものすごい勢いで食べ、あっという間に完食します。
待つべきところでは待つ。
でも食べ始めたら全力。
この両方が同居しているところが、まさにうさぎです。
私はこの姿を見ると、「自由であること」と「周囲を大切にしないこと」は別なのだと思わされます。
うさぎは自由です。
しかし、自由だからといって仲間を無視しているわけではありません。
むしろ、普段は好き勝手に振る舞えるくらい、ちいかわやハチワレとの関係に安心しているのかもしれません。
メロンを食べるだけで、みんなの性格が見えてくる
メロンを食べたちいかわとハチワレは、目元が緩み、とても幸せそうな表情を見せます。
そしてラッコ先生も、普段の凜々しい表情から一転して、目を輝かせます。
甘いものが好きなラッコ先生にとって、このメロンはかなりおいしかったのでしょう。
強くて格好いいラッコ先生が、おいしいものを食べた途端に純粋に喜ぶ。
この落差がとても可愛らしく感じられます。
一方でうさぎは、やはりものすごい速さで食べ終わります。
同じメロンを食べているだけなのに、四人それぞれの反応が違います。
静かに喜ぶちいかわ。
口にメロンをつけながら喜ぶハチワレ。
目を輝かせるラッコ先生。
勢いよく食べ切るうさぎ。
「おいしい」という同じ感情でも、表し方はそれぞれ違います。
こうした小さな違いを見せることで、それぞれのキャラクター性が自然に伝わってくるのも『ちいかわ』の面白さだと思います。
メロンのヘタが「王冠」になる不思議な戴冠式

メロンを食べ終わったあと、画面には「ヘタ」という文字とともに、切り取られたメロンのヘタが映ります。
そしてラッコ先生は、そのヘタをちいかわの頭にそっと乗せます。
しかも「ありがとう」という言葉とともに。
ここで流れる音楽が、妙に重厚です。
ちいかわも片膝をつくような姿勢で受け取り、ハチワレはその様子を拍手しています。
うさぎも後ろから興味深そうに覗き込んでいます。
どう見ても、ただメロンのヘタを頭に乗せているだけです。
それなのに演出全体が、まるで王冠を授ける戴冠式のようになっています。
私はこの場面が本当に『ちいかわ』らしいと思いました。
意味だけを考えれば、かなり不思議です。
しかし本人たちは真剣です。
だからこそ面白く、しかも不思議と尊い場面になっています。
もしかするとラッコ先生なりの「ありがとう」の表現だったのでしょう。
言葉だけではなく、何かを相手に返したかった。
そこで目の前にあったメロンのヘタを、ちいかわの頭に乗せた。
そこに深い意味はないのかもしれません。
でも、ちいかわが嬉しそうならそれでいい。
私はそこにも、この作品の優しさがあるように感じます。
意味のあるものだけが大切なのではなく、「相手が喜んでくれた」という結果そのものが大切なのかもしれません。
うさぎはメロンのネットをかなり気に入っていた?
場面が変わり、ちいかわ、ハチワレ、うさぎが歩いています。
ハチワレは先ほどのメロンを思い出しながら、「ジューシーだったね」と話します。
そしてうさぎを見ると、頭にはまたメロンのネットを被っています。
さらに額にはシールまで、またつけています。
メロンを食べるときには外していたように見えるので、わざわざもう一度つけたのでしょうか。
そう考えると、相当気に入っているようにも見えます。
うさぎはこういうところでも面白いです。
最初はその場のノリで被っただけのように見えても、実は本人なりに気に入っている。
誰かに「似合う」と言われたからでもなく、流行しているからでもない。
自分が気に入ったから被っている。
こういうところにも、うさぎの「自分の好きなものは自分で決める」という強さが表れているように思います。
シーサー登場――同じ「ジューシー」なのに話がまったく違う
そこへシーサーが現れます。
ハチワレの「ジューシー」という言葉を聞いたシーサーは、「ジューシー、大好きでーす」と嬉しそうに反応します。
ハチワレも「いいよね」というように応じます。
ここだけを見ると、話は完全に噛み合っています。
しかし実際には、二人が考えている「ジューシー」は別のものです。
ハチワレが話しているのは、メロンが「みずみずしくておいしい」という意味でのジューシー。
一方、シーサーが話しているのは沖縄料理の「ジューシー」です。
同じ音の言葉なのに、頭の中にあるものが違う。
ここから少しずつ会話がずれていきます。

みんなが話しているのに、蝶々しか見ていないうさぎ
そしてこの会話の横で、うさぎはシーサーのほうをほとんど見ていません。
蝶々を見ています。
しかもかなり真剣に。
ハチワレとシーサーが話している横で、ずっと蝶々を目で追っています。
これだけ見ると、
「自分には関係ない話」
と思っているようにも見えます。
あるいは単純に、シーサーより蝶々のほうに興味があるのでしょう。
うさぎが蝶々を見る場面はこれまでもありますが、なぜこれほど蝶々に惹かれているのでしょうか。
ファンの間では「うさぎと蝶々には何か関係があるのでは」と想像したくなるような見方もあります。
もちろん、今回の場面だけで「うさぎは蝶々だった」といった説を裏付けることはできません。
ただ、物語とは直接関係のないところで、うさぎがこれほど蝶々を見つめ続けていると、「蝶々はうさぎにとって何なのだろう」と考えたくなるのも確かです。
単に好きなだけなのか。
本能的に追っているのか。
あるいは何か別の意味があるのか。
本筋とは関係のない小さな動きから、こうした想像が広がっていくのも『ちいかわ』を見る楽しさの一つだと思います。
「おにぎりにもできて」で、ようやく違和感が生まれる
シーサーはそのままジューシーについて話します。
「おいしくて」と話している間、ちいかわは「うんうん」と納得しているように見えます。
まだ話は通じています。
しかし、シーサーが「おにぎりにもできて」という話をしたところで空気が変わります。
ちいかわの表情が少し曇ります。
「おにぎり?」
という疑問が顔に出ています。
ハチワレも「どういうことだろう」と考え始めます。
ここで面白いのは、二人ともすぐに、
「いや、それは違うよ」
と言わないことです。
自分たちが話していたジューシーと、シーサーが話しているジューシーは違う。
それでも、相手を否定するより先に、「相手は何を言っているんだろう」と考えています。
私はここに、ハチワレというキャラクターの大切な性格が出ているように思います。
ハチワレは「違う」と言う前に、相手の世界へ入ろうとする
シーサーも、ちいかわたちの反応を見て少し困ったような表情になります。
そして「冷めてもおいしいでーす」と説明します。
するとハチワレは、その言葉から考えます。
冷めてもおいしい。
おにぎりにもできる。
そこから、
「炊き込みご飯みたい」
という答えにたどり着きます。
するとシーサーの表情がぱっと明るくなります。
ここが今回、私が一番興味深く感じた場面です。
ハチワレは、自分が最初に考えていた「ジューシー」に固執していません。
「ジューシーっていうのは、メロンみたいに水分が多いっていう意味だよ」
と訂正することもできたはずです。
でもそうしません。
シーサーの言葉を一つずつ聞きながら、
「この子が言っているジューシーって、何なんだろう」
と考えています。
つまり、自分の世界に相手を引きずり込むのではなく、一度相手の世界に入ろうとしているのです。
私はここに、ハチワレのコミュニケーションの優しさがあるように感じます。
正しさを教えることより、相手を理解しようとすること
日常の会話でも、相手と自分の認識が違うことがあります。
そんなとき私たちは、つい、
「それ違うよ」
と言いたくなります。
もちろん訂正が必要な場面もあります。
しかし、今回のハチワレはそうではありません。
まず、
「どういうことなんだろう?」
と考えています。
そして相手の言葉の中からヒントを拾っていく。
「おにぎりにできる」
「冷めてもおいしい」
その情報をつなぎ合わせた結果、「炊き込みご飯」という場所で、二人の認識が初めてつながります。
結果として、ハチワレが最初に思っていたジューシーと、シーサーが話しているジューシーは別物のままです。
それでも会話は成立しています。
これはとても面白いことです。
完全に同じものを考えていなくても、人は通じ合うことができる。
むしろ、
「自分とは違うものを見ているらしい」
と気づいたところから、本当の会話が始まるのかもしれません。
「ジューシー」という一つの言葉から沖縄へつながっていく
後から調べてみると、シーサーが話している「ジューシー」は、実際に沖縄で食べられている料理です。
沖縄風の炊き込みご飯などを指す言葉として使われています。
だからこそ、「おにぎりにもできる」「冷めてもおいしい」というシーサーの説明から、ハチワレの「炊き込みご飯みたい」という答えにつながったのでしょう。
私はここも面白いと思いました。
アニメの短い会話一つから、
「沖縄ではジューシーって料理があるんだ」
と知ることができます。
シーサーは、ただ可愛いキャラクターとして存在しているだけではありません。
シーサーが登場すると、自然に沖縄の言葉や料理、文化が作品の世界へ入ってきます。
「今日は沖縄文化について勉強しましょう」と説明されるのではなく、物語を楽しんでいるうちに知らなかったことを知る。
こういう知識の広がり方は、とても楽しいものです。
話を聞いていなさそうなうさぎは、最後に誰へ手を挙げたのか
そしてシーサーは「またねー」と言って、みんなに手を振ります。
ちいかわとハチワレはシーサーのほうを見て応えています。
一方、うさぎも手を挙げています。
ただ、その様子をじっくり見ていると、その方向が少し気になります。
シーサーに向かって手を振ったようにも見えます。
しかし、画面上の位置関係を考えると、先ほどまで見ていた蝶々のほうへ手を挙げているようにも見えます。
ここは断定できません。
だからこそ面白いところです。
普通に考えれば、別れ際なのでシーサーへ挨拶したと見るのが自然でしょう。
そうだとすれば、ずっと話を聞いていなさそうだったうさぎも、最後にはちゃんとシーサーを仲間として認識していたことになります。
それはそれで、とてもいい場面です。
一方、本当に蝶々へ手を挙げていたのだとすれば、それはそれであまりにもうさぎらしい。
シーサーとの会話よりも、最後まで蝶々。
どちらとも取れるところが、私は面白いと思いました。
うさぎは感情をすべて分かりやすく説明してくれるキャラクターではありません。
だからこそ、
「あの行動はどういう意味なんだろう」
とこちらが考える余白があります。
その余白こそ、うさぎというキャラクターの魅力なのかもしれません。
ただメロンを食べただけなのに、これほど仲の良さが伝わってくる
今回を最初から振り返ると、本当に大きな出来事は起きていません。
ラッコ先生がメロンを切る。
みんなで分ける。
一緒に食べる。
ちいかわがヘタを頭に載せてもらう。
歩きながらメロンの話をする。
シーサーと少し噛み合わない会話をする。
そして「またね」と別れる。
それだけです。
しかし、その「それだけ」の中に、関係性がたくさん詰まっています。
ちいかわは幸運をみんなと分ける。
ラッコ先生は強いのに偉ぶらない。
ハチワレは相手を否定せず理解しようとする。
うさぎは自由だけれど、食べ始めるときにはみんなを待つ。
シーサーは自分の好きなものを楽しそうに話す。
誰も同じではありません。
性格も、興味も、話し方も違います。
それでも一緒にいられます。
私は今回、そのことがとても心地よく感じました。
今回のコメント欄では、こんなところが多く注目されていました
今回のコメント欄を見てみると、実際に多く挙げられていたのは、まずシーサーの「またね〜」という言い方の可愛さや、シーサーが登場するだけで平和な気持ちになるという感想でした。
また、ラッコ先生については、「いいのか、いただいて」という丁寧な言葉遣いから謙虚さを感じたという声、メロンを食べて目を輝かせる姿が可愛いという声、剣でメロンを切る姿が格好いいという反応が目立っていました。
メロンのヘタをちいかわの頭に載せる場面については、「戴冠式のようだ」「王冠を授けているように見える」という意見が多く、ちいかわが片膝をついて受け取り、ハチワレが拍手していることも注目されていました。
うさぎについては、メロンを食べたそうにしているのに全員が食べ始めるまで待っていること、メロンのネットとシールを食後にもまた身につけていること、蝶々をずっと目で追っていること、そして最後にシーサーへ手を振ったように見えることなど、細かな行動への反応が非常に多くありました。
また、うさぎの勢いのあるメロンの食べ方を志村けんさんのスイカの食べ方に重ねる声も多く見られました。
ハチワレとシーサーの会話については、「話が噛み合っていないのに結果的に正解へたどり着くのが面白い」「平和なすれ違いコントのようだ」という意見がありました。
そして「ジューシー」が沖縄の郷土料理であることをこの回で初めて知ったという人も多く、作品をきっかけに沖縄の食文化へ興味を持ったという反応も見られました。
全体としては、「平和な回で安心する」「ずっとこんな時間が続いてほしい」「みんなが可愛くて癒される」という感想がとても多かったように感じます。
今回の動画が教えてくれるかもしれないこと
今回の「メロン当選②」を見て、私は「相手と完全に同じでなくても、一緒にいられる」ということを改めて考えました。
ラッコ先生とちいかわたちは、立場も強さも違います。
うさぎはみんなが会話している横で蝶々を見ています。
ハチワレとシーサーに至っては、「ジューシー」という同じ言葉を使いながら、最初はまったく違うものを考えています。
それでも、この世界では誰かが「違うから」と追い出されるわけではありません。
ハチワレはシーサーを否定するのではなく、シーサーが何を言おうとしているのかを考えます。
ラッコ先生は自分が強いからといって偉そうにせず、小さな相手にも丁寧に接します。
うさぎは自由に振る舞いながらも、みんなが食べるまで待っています。
そして最後には、それぞれのやり方で「またね」と別れます。
人は、何もかも分かり合わなければ仲良くできないわけではないのだと思います。
相手が自分とは違うことを認めたうえで、
「それってどういうことなんだろう」
と少し考えてみる。
相手が喜んでいるなら一緒に喜ぶ。
おいしいものがあれば分け合う。
帰るときには手を振る。
そのくらいのことで、人と人との距離は少しずつ近づいていくのかもしれません。
そして幸せというものも、特別な出来事だけではないのでしょう。
おいしいものを誰かと一緒に食べられたこと。
何でもないことで笑えたこと。
自分の好きなものを好きなままでいられたこと。
誰かと少し話がずれても、最後には笑顔になれたこと。
そして「またね」と言える相手がいること。
今回の動画は、そんな小さな時間こそが実はとても大切であり、すべてを完全に理解し合えなくても、相手を否定せず理解しようとする気持ちがあれば、優しい関係は作っていけるのだということを教えてくれているのかもしれません。


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