炎天下の労働後に幸せを噛みしめるくりまんじゅうと、映画の余韻に涙するちいかわ。同じ出来事を見ても感じ方は違う――ハチワレの言葉と距離感から、第369話に描かれた「心の動き」を読み解きます。
- 『ちいかわ』第369話「おつかれビール/映画」。
- 汗だくなのに「希望に満ちている」くりまんじゅう
- ハチワレは「人が何をしているか」ではなく「どんな気持ちでいるか」を見ている
- その「希望」の正体は、ビールとじゃがバターだった
- 幸せは、大きな目標でなくても人を動かす
- 過去一番ではと思うほどの「ハァーッ!」
- 「噛み締めてる、幸せ。」
- 夜になり、今度は映画を見る二人
- 同じ場所に集まって、それぞれが同じ映画を見る
- 劇中映画の「え?」は何だったのか
- 映画が終わったあと、ちいかわの中には何が残っていたのか
- 「感動」なのか「悲しみ」なのか――名前をつけられない涙
- 同じ映画を見ても、ハチワレとちいかわでは心の動き方が違う
- ちいかわは、物語の中の誰かの気持ちまで受け取ってしまったのかもしれない
- なぜ、ちいかわはハチワレに涙を見せたくなかったのか
- たった一言の「うん」に、整理できない感情がにじんでいる
- ハチワレは、ちいかわの様子をどこまで分かっていたのだろう
- ハチワレは「泣いている理由」を決めつけなかったのかもしれない
- 「何も聞かない」という寄り添い方
- 前半では心を言葉にし、後半では心を言葉にしないハチワレ
- 同じ気持ちになることだけが「共感」ではないのかもしれない
- コメント欄では、どのようなところが注目されていたのか
- 今回の動画が教えてくれるかもしれないこと
『ちいかわ』第369話「おつかれビール/映画」。
今回は、前半が暑い中で働くくりまんじゅうと、その後に待っていたビールとじゃがバター。後半が、ちいかわとハチワレによる夜の映画鑑賞という二本立てでした。
一見すると、「仕事終わりの一杯」と「映画を観て涙するちいかわ」という、まったく違う二つの話です。
けれど最後まで見てから振り返ってみると、この二つには意外なほど共通するものがあるように感じました。
それは、自分の心が動いた瞬間を、静かに噛みしめること。
そしてもう一つ、今回特に印象に残ったのが、そんな他人の感情をとても細かく見つめているハチワレの存在でした。
汗だくなのに「希望に満ちている」くりまんじゅう
冒頭の一枚絵では、くりまんじゅうが汗だくになりながらビールを飲んでいます。
そこから本編に入ると、強い日差しと熱気を思わせる描写の中、くりまんじゅうが草むしりをしています。
首には布のようなものを巻いているものの、頭には特に何もかぶらず、汗を流しながら黙々と作業を続けています。
映像として描かれているのは、かなり暑そうな労働です。
仕事を終えたらしいくりまんじゅうが歩いていくところを、ちいかわとハチワレが見つけます。
二人もまた汗だくです。
つまり、誰が見ても「暑い」。
そんな状況なのに、ハチワレはくりまんじゅうを見て、単に「暑そうだね」とは言いません。
「あれ?」
そして、
「すっごく暑いのに、目が希望に満ちてるよ」
と気づきます。
私は、このハチワレの観察の仕方がすごく面白いと思いました。
ハチワレは「人が何をしているか」ではなく「どんな気持ちでいるか」を見ている
普通なら、汗だくで歩いている相手を見れば、
「暑そう」
「疲れてそう」
「大変そう」
と考えそうです。
でもハチワレは、目を見ています。
しかも単に「目がキラキラしている」ではなく、
「希望に満ちている」
と表現します。
ここには、ハチワレというキャラクターの面白さがよく表れている気がします。
目の前の人が何をしているかだけではなく、その人の中にどんな感情があるのかまで想像している。
これは簡単なことのようで、実際にはなかなかできないことだと思います。
人はどうしても、他人の表面的な行動だけを見てしまいます。
でも同じ行動でも、その人が何を思っているかによって意味はまったく違う。
くりまんじゅうは暑い中で働いている。
その事実だけを見ると「つらい労働」です。
しかし本人の目は希望に満ちている。
つまり、いま目の前にある苦労だけでは、その人の気持ちは判断できないということなのかもしれません。
くりまんじゅうには、その先に楽しみが待っているからです。
その「希望」の正体は、ビールとじゃがバターだった
そして、くりまんじゅうが向かった先にはビールとじゃがバター。
しかも、じゃがバターにはマヨネーズまでかかっています。
さっきまで炎天下で草をむしっていたくりまんじゅうが、今度は嬉しそうにじゃがバターを食べる。
そして一口食べた後、すぐにビールを流し込みます。
ここまでを見ると、先ほどの「希望に満ちてる」の意味が一気に分かります。
くりまんじゅうは、この瞬間を楽しみに働いていたのかもしれません。
もちろん作品の中で明確にそう説明されているわけではありません。
でも、仕事中のあの輝いた目と、その後の飲みっぷりをつなげて考えると、どうしてもそう見えてきます。
そして私は、ここが今回の前半で一番好きなところです。
幸せの理由が、ものすごく小さい。
人生を変えるような出来事でもない。
何か大きな夢を叶えたわけでもない。
ただ、
仕事が終わった。
じゃがバターがある。
冷たいビールがある。
それだけです。
でも、本人にとっては十分に「希望」になっている。

幸せは、大きな目標でなくても人を動かす
この場面を見ていると、「何のために頑張るのか」ということについて考えてしまいます。
私たちは時々、頑張るためには立派な目標が必要だと思ってしまいます。
将来の夢。
仕事での成功。
大きな成果。
何か特別なもの。
もちろん、それも大切です。
でも実際の日常では、
「帰ったら好きなものを食べよう」
「今日は仕事のあとにゲームをしよう」
「週末は映画を観よう」
「帰ったら冷たい飲み物を飲もう」
そんな小さな楽しみのほうが、目の前の一日を支えてくれることもあります。
くりまんじゅうの「希望に満ちた目」は、そんな日常の仕組みをものすごく単純な形で見せているように感じました。
人生を頑張る理由なんて、必ずしも立派でなくていい。
自分にとって楽しみなら、それで十分に希望になる。
私はこの場面から、そんなことを感じました。
過去一番ではと思うほどの「ハァーッ!」
そしてビールを飲んだくりまんじゅう。
すぐに「ハァーッ!」とはいきません。
飲み込んで、
少し間がある。
ぐっと感情をためて、
そして、
「ハァァァァァ……!」
と吐き出します。
いつものくりまんじゅう以上に、今回は溜めが長く、勢いも強い。
さらに表情を見ると、目の周りや眉間にも力が入っています。
見ているだけで、
「これは相当うまかったんだろうな」
と思えてきます。
ここも面白いところです。
くりまんじゅうは、長い言葉で説明していません。
「今日も暑かったな」
「仕事大変だったな」
「でも頑張った後のビール最高だな」
なんて何一つ言わない。
それでも、あの一声だけで全部分かる。
疲労も、解放感も、美味しさも、達成感も、幸福も、全部あの「ハァーッ!」の中に入っている。
今回の声の演技が特に印象に残る理由は、そこにあるのだと思います。
「噛み締めてる、幸せ。」
そのくりまんじゅうを見て、またハチワレが言います。
「噛み締めてる、幸せ。」
この独特の語順もハチワレらしくて好きです。
普通なら、
「幸せを噛み締めてる」
と言いそうなところを、
「噛み締めてる、幸せ」
と言う。
先に目に入った動きを言葉にして、その正体を後から「幸せ」と名づけているようにも聞こえます。
そして、ここでもハチワレは「幸せ」という言葉を使っています。
先ほどは「希望」。
今度は「幸せ」。
私は、ハチワレは人の中にあるポジティブな感情を見つけるのがとても上手な子なのではないかと思いました。
「暑そう」
ではなく、「希望」。
「酒飲んでる」
ではなく、「幸せ」。
起きている現象ではなく、その人の中にある感情を見ている。
この視点は、とてもハチワレらしいと思います。
夜になり、今度は映画を見る二人
そして場面は一転します。
夜。
ちいかわとハチワレは、屋外のテーブルに座っています。
目の前にはポップコーンと飲み物。
その先には巨大なスクリーンがあり、大勢のモブたちも映画を観ています。
いわゆるナイトシアター、屋外映画館のような場所です。
私はここで、物語とは少し違うところも気になりました。
この巨大な映像、いったいどういう技術で映しているのでしょうか。
映像には大きなスクリーンが見えるものの、目立った上映機材が見当たりません。
もちろんアニメ上の省略なのかもしれません。
でも、考え始めると妙に気になります。
ちいかわの世界は、危険な討伐があったり、草むしりの仕事があったりする一方で、ビアガーデンのような場所もあり、屋外映画館まである。
かなり娯楽文化が発達している世界でもあるんですよね。
映画がある以上、当然ながら映画を作る人もいる。
俳優的な仕事があり、撮影や上映の技術があり、観客がお金を払って作品を見る文化があるはずです。
かわいいキャラクターたちの日常の背景に、意外としっかりした社会が存在している。
こういうところを考えるのも『ちいかわ』の面白さだと思います。
同じ場所に集まって、それぞれが同じ映画を見る
もう一つ、私がいいなと思ったのが、屋外映画館の空気です。
いろいろなモブたちが、仲間と一緒にポップコーンを食べながら映画を観ています。
同じスクリーンを大勢で見ている。
でも、それぞれ感じていることはきっと違う。
これは映画館という場所そのものの面白さでもあります。
同じ映画を観ても、泣く人がいる。
笑う人がいる。
怖いと思う人がいる。
そこまで心を動かされない人もいる。
そして、隣にいる人が自分と同じ感情になるとも限りません。
この後のちいかわとハチワレの違いを見ると、なおさらそう思います。
劇中映画の「え?」は何だったのか
スクリーンの中では、二人の登場人物らしき存在が泣きながら再会し、手を取り合っています。
ここだけを見ると、感動的な再会。
「よかったね」
と終わりそうな場面です。
ところが、その直後。
ちいかわとハチワレの表情が変わります。
少し怪訝そうな、驚いたような顔で、
「え?」
という反応。
私はここがとても気になりました。
映画の内容はすべて見せてくれません。
だからこそ、
「この直後に何があったのだろう?」
と想像したくなります。
再会した二人に、さらに悲しい出来事が起きたのか。
再会そのものに何か秘密があったのか。
それとも、一見幸せそうに見えて、実は別れを意味する再会だったのか。
明確な答えは分かりません。
でも、この答えを見せないこと自体が面白い。
私たちは、ちいかわとハチワレの表情だけから、スクリーンの中で起きたことを逆算しようとします。
つまりここでは、登場人物の感情が、描かれていない物語の続きを想像させているんですよね。
『ちいかわ』らしい余白の使い方だと思います。
映画が終わったあと、ちいかわの中には何が残っていたのか
映画が終わり、ハチワレが「帰ろっか」と声をかけます。
ちいかわも「うん」と答えます。
ところが、その後のちいかわは、ハチワレに正面を見せるようには歩きません。
少し顔をそらすように歩き、その横顔には涙が流れています。
ここで気になるのが、先ほどの劇中映画で二人が見せた「え……?」という表情です。
あの映画が単純なハッピーエンドではなかった可能性まで考えると、ちいかわの涙も、ただ「いい映画だった」と感動して流した涙とは言い切れないように思えます。
映画の中で起きた何かが、ちいかわの心に強く残ってしまった。
その感情を抱えたまま映画が終わり、ようやく外へ出たところで、抑えていた涙が出てしまった。
私はそんなふうにも見えました。
「感動」なのか「悲しみ」なのか――名前をつけられない涙
ちいかわの泣き方を見ていると、喜びで感極まったというよりも、何か胸の奥に残ったものを必死にこらえているようにも見えます。
口元をぐっと押さえるような表情。
声を上げるのではなく、涙を抑えようとする様子。
そして何より、ハチワレに顔を見せないように歩いていること。
ただし、だからといって「あれは悲しみの涙だった」と断定することもできません。
映画を見たときに流れる涙は、そもそも一つの感情だけでは説明できないことがあります。
嬉しい。
悲しい。
切ない。
安心した。
かわいそうだと思った。
再会できてよかったと思った。
でも、その先を考えると苦しくなる。
そうしたいくつもの感情が重なり、自分でも何を感じているのか分からないまま涙になることがあります。
今回のちいかわも、そうだったのかもしれません。
「感動した」という一言でも足りず、「悲しかった」という一言でも足りない。
映画によって心を大きく揺らされたものの、まだ自分自身でもその感情に名前をつけられない。
だからこそ、ちいかわは泣いている理由を誰かに話すこともなく、ただ静かに涙をこらえていたのではないでしょうか。
私は今回のちいかわを見て、
泣きたいから泣いているというより、泣かないようにしているのに涙が出てしまった
ように感じました。
そして、そこにこの場面の繊細さがあるように思います。

同じ映画を見ても、ハチワレとちいかわでは心の動き方が違う
そして興味深いのが、隣で同じ映画を見ていたハチワレです。
劇中映画の途中では、ハチワレもちいかわと同じように「え?」という表情をしています。
ですから、映画の展開そのものには二人とも驚いたのでしょう。
しかし上映後、ハチワレが涙を流している様子は描かれません。
一方で、ちいかわはその感情を持ち帰るように、映画が終わってからも泣いています。
同じものを見た。
同じ場面に驚いた。
それでも、その出来事がどれくらい深く心に残るかは人によって違う。
ここに、二人の感受性の違いが表れているように思います。
ハチワレは映画の中の出来事として受け止めることができたのかもしれません。
一方のちいかわは、登場人物の気持ちや、その後のことまで想像してしまった。
そして、映画が終わった後にも、その物語を心の中で考え続けていたのかもしれません。
私はここに、ちいかわの「繊細さ」がよく表れているように感じました。
ちいかわは、物語の中の誰かの気持ちまで受け取ってしまったのかもしれない
ちいかわは、自分に起きた出来事に対して感情豊かに反応するキャラクターです。
怖ければ泣く。
悔しくても泣く。
嬉しくても泣く。
しかし今回は、自分自身に何かが起きたわけではありません。
目の前のスクリーンで起きた、他人の物語です。
それなのに、映画が終わったあとまで感情が残っている。
私はここに、ちいかわのもう一つの繊細さを感じます。
自分とは直接関係のない物語でも、
「この人はどんな気持ちだったんだろう」
「この後、この二人はどうなるんだろう」
と想像してしまう。
物語の登場人物の感情を、自分の中にまで受け取ってしまう。
今回ちいかわは、ただ映画を「見た」のではなく、映画の中で起きたことを深く「受け取ってしまった」のではないでしょうか。
だからスクリーンの物語が終わっても、ちいかわの中ではまだ終わっていなかった。
私はそんなふうにも感じました。
なぜ、ちいかわはハチワレに涙を見せたくなかったのか
そしてもう一つ気になるのが、
なぜちいかわは、ハチワレに涙を見せないようにしたのか
ということです。
単純に「映画で泣いたことを見られるのが恥ずかしかった」という可能性も十分にあります。
ただ、今回の様子を見ていると、それだけではない理由も考えたくなります。
もしかすると、ちいかわ自身も、自分が何を感じているのかまだ整理できていなかったのではないでしょうか。
悲しいのか。
感動したのか。
切ないのか。
登場人物がかわいそうだったのか。
自分でもよく分からない。
そうした整理できていない感情を抱えた顔を、人に見られたくなかったのかもしれません。
あるいは、ハチワレに心配をかけたくなかったのかもしれない。
「映画なのにこんなに泣いている自分」を見せることに、少し照れがあったのかもしれない。
どれが正解かは分かりません。
でも、その理由を一つに決められないところに、この場面の面白さがあるように思います。
たった一言の「うん」に、整理できない感情がにじんでいる
ハチワレの「帰ろっか」に対して、ちいかわは「うん」と答えます。
ほんの一言です。
けれど、その声には何かをこらえているような響きがあります。
私はこの「うん」を、
映画によって生まれた感情を、まだ自分の中で処理しきれていない声
のように感じました。
悲しい。
でも言葉にできない。
泣きそう。
でも見られたくない。
帰ろうと言われたから返事はする。
けれど、いつものような「うん」にはならない。
そう考えると、この短い返事の中に、ちいかわの複雑な状態が凝縮されています。
そしてここで、前半のくりまんじゅうとの対比も見えてきます。
くりまんじゅうの「ハァーッ!」は、言葉にしなくても「うまい」「最高」「幸せ」がはっきり伝わってくる声でした。
対してちいかわの「うん」は、何を感じているのか一つの言葉では説明できない。
くりまんじゅうは、言葉にしなくても分かる幸福。
ちいかわは、言葉にしても説明しきれない感情。
どちらも短い声に心情が現れているのに、その中身はまったく違う。
これも前半と後半をつなぐ面白い対比だと思います。
ハチワレは、ちいかわの様子をどこまで分かっていたのだろう
そして、そのちいかわの少し後ろをハチワレが歩いていきます。
ここでハチワレは、
「泣いてる?」
「悲しかった?」
「映画、感動したね」
とは言いません。
代わりに、
「ポップコーンの中に、種とカプセルみたいなのだけ残っている」
という、映画とはまったく関係のない話を始めます。
私は「ハチワレは絶対にちいかわが泣いていることに気づいていた」とまでは断定できないと思います。
ただ、前半でくりまんじゅうの目の輝きから「希望」を読み取っていたハチワレです。
それほど相手の様子を細かく見ているハチワレが、目の前を歩くちいかわの変化をまったく感じ取っていなかったとも考えにくい。
少なくとも、
「いつものちいかわとは少し違う」
ということくらいは感じていたのではないでしょうか。
そして、そのうえで映画とは関係のない話題を選んだ。
私はそう考えたくなります。
ハチワレは「泣いている理由」を決めつけなかったのかもしれない
仮にハチワレが、ちいかわの涙に気づいていたとします。
それでも、
「感動したんだね」
とは言わなかった。
「悲しかったんだね」
とも言わなかった。
ここが大切なのだと思います。
今回のちいかわの涙は、そもそも一言では説明できないものだったのかもしれません。
だからこそハチワレが、その感情に名前をつけなかったことには意味があるように見えます。
何を感じたのかを無理に聞かない。
泣いている理由を自分の側から決めつけない。
ただ、普通に話しかける。
私はこれを、
相手の感情を勝手に解釈しない優しさ
とも考えられるのではないかと思いました。
「何も聞かない」という寄り添い方
ハチワレが選んだのは、ポップコーンの残り物という何でもない話題でした。
だからこそ、ちいかわは自分の感情について説明する必要がありません。
泣いている理由を話さなくてもいい。
映画の感想をまとめなくてもいい。
ただ、友達と一緒に歩いて帰ればいい。
これは「励ます」というほど強い行為ではありません。
「慰める」とも少し違います。
むしろ、
いつも通りでいることで、相手を一人にしない。
そんな寄り添い方なのだと思います。
相手の心を大切にすることは、必ずしも言葉をかけることだけではない。
何も聞かず、何でもない話をしながら隣にいることも、立派な優しさなのかもしれません。
前半では心を言葉にし、後半では心を言葉にしないハチワレ
こうして考えると、今回の前半と後半には、とても面白い対比があります。
前半のハチワレは、くりまんじゅうを見て、
「目が希望に満ちてる」
「噛み締めてる、幸せ」
と、その心を積極的に言葉にしています。
くりまんじゅうの気持ちは、とても分かりやすい。
だからハチワレも素直にそれを口にできる。
ところが後半のちいかわの感情は、簡単には分かりません。
感動なのか。
悲しみなのか。
切なさなのか。
いくつもの感情が混ざっているのか。
するとハチワレは、それを言葉にしない。
私はここに、今回の二本をつなぐ一つのテーマがあるように感じました。
分かる感情なら、一緒に言葉にする。
分からない感情なら、無理に名前をつけない。
相手の心を見るということは、何でも理解した気になることではないのかもしれません。
「この人はいま、何かを感じている」
そこまで気づいても、
「その中身までは自分には分からない」
と一歩引く。
そんな距離の取り方も、人を大切にすることなのだと思います。
同じ気持ちになることだけが「共感」ではないのかもしれない
今回の後半を見ていると、私はもう一つ考えさせられます。
それは、相手と同じ気持ちになることだけが、共感ではないのかもしれないということです。
ちいかわとハチワレは、同じ場所で、同じ映画を見ています。
けれど、映画が終わった後の反応は同じではありません。
ちいかわは涙を流す。
ハチワレは泣いている様子ありません。
それでもハチワレは、ちいかわの反応を不思議がったり、茶化したりしません。
ただ、いつものようにそばにいます。
自分には完全には分からない感情でも、
「この子はいま、何か大きなものを感じているのだろう」
と、そのまま受け止める。
そして必要以上に踏み込まない。
今回の二人の帰り道には、同じ気持ちになることとは少し違う、静かな理解の形が描かれているように私は感じました。
コメント欄では、どのようなところが注目されていたのか
今回のコメント欄では、前半のくりまんじゅうについては、暑い中で仕事をした後にビールとじゃがバターを楽しむ姿への共感が特に多く見られました。
「仕事終わりの一杯が分かる」「この一杯のために頑張れる」「自分を見ているようだ」と、くりまんじゅうを自分の日常と重ねるコメントが多く、「目が希望に満ちている」というハチワレの言葉にも多くの反応が集まっていました。
また、ビールを飲んだ後の長い「ハァーッ!」についても、「いつも以上に溜めが長い」「過去一番のハァーッではないか」「幸せを噛みしめていることが声だけで伝わる」といった、声の演技に注目するコメントが数多く見られました。
後半の映画の場面では、ちいかわが涙を隠そうとする姿と、それに対するハチワレの行動に注目したコメントが特に多くありました。
ちいかわについては、「映画を見て泣いているところが繊細」「涙を見られたくなくて顔をそらす気持ちが分かる」「『うん』という短い返事だけで泣いていることが伝わる」といった声が多く、表情だけでなく声の震えや間の取り方にも注目が集まっていました。
ハチワレについては、「いつものように『泣いちゃった』と言わない」「ちいかわの涙に触れず、ポップコーンの話をするのが優しい」「気づかないふりをして寄り添っているように見える」といった意見が多く見られました。
また、劇中映画そのものについても、「再会したように見えたのに、なぜ二人は『え?』という表情をしたのか」「本当にハッピーエンドだったのか」「再会したあとに何か悲しい出来事があったのではないか」と、映画の描かれていない結末を想像するコメントが複数ありました。
そのほかにも、ちいかわの世界に屋外映画館や俳優という仕事が存在していること、映画を見ながらポップコーンや飲み物を楽しむ文化があることなど、ちいかわ世界の暮らしや娯楽の広がりに注目した意見も見られました。
さらに、実際に『ちいかわ』の映画を観た人からは、「映画を観た後の自分と同じ」「自分もちいかわのように泣いた」と、今回のちいかわの姿を自分自身の映画体験と重ねるコメントも多く寄せられていました。
こうしてコメント全体を見ると、今回の話では、くりまんじゅうの「小さな幸せ」、ちいかわの「涙」、ハチワレの「接し方」、声優の細かな演技、劇中映画の結末、そしてちいかわ世界の暮らしまで、非常に幅広い部分が視聴者の関心を集めていたことが分かります。
今回の動画が教えてくれるかもしれないこと
今回の「おつかれビール/映画」を一本の話として振り返ってみると、私は、心が動く理由は人それぞれであり、その一つ一つを大切にしていいということが描かれているように感じました。
くりまんじゅうは、暑い中で働きながら、その先に待っている一杯を楽しみにしていました。
それはとてもささやかな楽しみです。
けれど、その小さな楽しみがあるだけで、目は「希望に満ちる」。
そして実際にその瞬間が訪れたときには、全身で幸せを噛みしめています。
一方、ちいかわは映画を見て、何かを強く感じ取っています。
それが感動なのか、悲しみなのか、切なさなのかは最後まで分かりません。
けれど、分からなくても、心が大きく動いたことだけは確かです。
この二人を並べてみると、心が動くものには決まった形などないのだと思えてきます。
おいしいものを食べることでもいい。
一日の仕事を終えることでもいい。
映画の中の誰かを思って涙することでもいい。
本人にとって大切なら、それは十分に大きな感情です。
そして、その感情は必ずしも誰かに説明する必要もありません。
くりまんじゅうのように全身で表してもいい。
ちいかわのように、胸の中にそっとしまっておいてもいい。
今回の二つの話には、そんな対照的な心の動きが描かれていたように思います。
私たちは毎日の中で、つい「大きな幸せ」や「分かりやすい理由」を求めてしまいます。
けれど実際には、一日を支えているのは、もっと小さな楽しみだったり、言葉にできないほど微妙な感情だったりするのかもしれません。
自分が何に心を動かされたのか。
何を楽しみにしているのか。
何を見て悲しくなったのか。
それを他人と同じように感じる必要はなく、自分自身がそう感じたということを大切にすればいい。
そして周りにいる人についても、「自分ならこう思うから、相手もそうだろう」と決めつけず、その人なりの感じ方があることを受け入れる。
前半の「目が希望に満ちている」くりまんじゅうと、後半の涙の理由を最後まで語らないちいかわ。
この二つを続けて描いた今回の動画は、
人にはそれぞれ、自分だけの幸せがあり、自分だけの心の動きがある。
その小さな感情を、無理に他人と同じ形にしなくてもいい。
そんなことを教えてくれているのかもしれません。



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