『中庸』は、何でも半分にしたり、無難な真ん中を選んだりする考えではありません。
アリストテレスが考えたのは、過剰と不足のあいだで、その人と状況にふさわしい「適切な中間」を見極めることでした。
この記事では、中庸の意味から、徳・実践的な知恵・習慣との関係、そして「人はどうすればよりよく生きられるのか」という問いまで、身近な例からわかりやすくたどります。
「ほどほど」ではない――アリストテレスが考えた“ふさわしい中間”とは?

代表例
頑張りすぎるのも、何もしないのも違う。では「ちょうどいい」はどこ?
「もっと頑張らなきゃ」
そう思って、疲れているのに無理をしてしまう。
反対に、
「失敗するくらいなら、やらないほうがいい」
と、できそうなことまで避けてしまう。

そんなことはありませんか?
頑張りすぎるのも苦しい。
でも、何もしなければ前に進めない。
では、その間のどこに「ちょうどいい」があるのでしょう。
この疑問を考えるヒントになるのが、古代ギリシャの哲学者アリストテレスが論じた「中庸(ちゅうよう)」です。
中庸で大切なのは、単純に真ん中を選ぶことではありません。
過剰と不足のあいだにある、その人と状況にふさわしい「適切な中間」を見つめる考え方です。
では、その「適切な中間」とは何なのでしょうか。
5秒でわかる結論
中庸とは、感情や行動の「やりすぎ」と「足りなさ」のあいだにある、その人と状況にふさわしい「適切な中間」のことです。
いつでも同じ真ん中になるわけではない。
ここが、中庸を理解する大切なポイントです。
小学生にもわかるように言うと?
たとえば、みんなの前で発表するのが怖いとします。
何も準備せず、
「怖くない! とにかくやってみる!」
と飛び込むのは、少し無茶かもしれません。
反対に、
「怖いから絶対にやらない」
と、できそうなことまで全部避けてしまうのも違いそうです。
そこで、
「練習してから挑戦しよう」
「わからないところは先生に相談しよう」
というやり方も考えられます。
この例で大切なのは、「挑戦する」と「逃げる」のちょうど半分を選ぶことではありません。
そのときの自分や状況に合った、やりすぎでも足りなさすぎでもない「ちょうどよいあり方」が中庸です。

だから中庸について考えるときには、
「やりすぎていないかな?」
「反対に、足りなすぎないかな?」
「今の場合は、どんなやり方がふさわしいかな?」
と考えてみます。
この「考えること」そのものが中庸なのではありません。
考えることで、その場にふさわしい中庸を見極めようとするのです。
- 代表例
- 5秒でわかる結論
- 小学生にもわかるように言うと?
- 第1章 中庸について、こんな疑問はありませんか?
- 第2章 疑問が生まれた物語
- 第3章 すぐにわかる結論
- 第4章 アリストテレスの『中庸(ちゅうよう)』とは
- 第5章 中庸で大切なのは「平均」ではなく「適切さ」
- 第6章 具体例から見えてくる、『中庸』の共通点
- 第7章 では、「適切な中間」をどう判断するのか
- 第8章 中庸は一度の正解では身につかない
- 第9章 アリストテレスは、なぜ『中庸』を考えたの?
- 第10章 私たちが読んできた『中庸』は、原典ではどう書かれている?
- 第11章 中庸はどこまで使える?
- 第12章 では、どう判断する?
- 第13章 おまけコラム
- 第14章 まとめ・考察
- 第15章 疑問が解決した物語
- 第16章 文章の締めとして
第1章 中庸について、こんな疑問はありませんか?
「中庸って言葉を聞いたことはあるけれど、結局どういう意味なんだろう?」
「“ほどほどが大切”という意味なの?」
「中庸って、実際にはどんなときに使える考え方なんだろう?」
そんな疑問を持って、この言葉を調べている人もいるのではないでしょうか。
「中庸」という言葉は知っていても、人に説明しようとすると意外と難しいものです。
なんとなく「真ん中」「ほどほど」「バランスが大切」といったイメージはあっても、
「では、何と何の間なの?」
「どこが“ちょうどいい”の?」
「人によって違ってもいいの?」
と考えていくと、次々に疑問が出てきます。
また、日常の中でも、
頑張り続けるべきか、それとも休むべきか。
怖くても挑戦するべきか、それとも今回は退くべきか。
怒るべきなのか、それとも落ち着いて受け流すべきなのか。
「どちらを選べばいいんだろう」と迷うことがあります。
そんなとき、「中庸」という言葉を知ると、いつもの悩みを少し違った角度から眺められるかもしれません。
この記事は、
「中庸という言葉を初めて知った人」
「意味を調べたけれど、いまひとつピンとこなかった人」
「アリストテレスはなぜ中庸を大切にしたのか知りたい人」
「哲学を日常の考え方につなげてみたい人」
に向けた記事です。
難しい哲学の話から始めるのではなく、まずは身近な場面から中庸を見ていきます。
そして記事を読み進めながら、
「中庸とは何なのか」
「“ほどほど”や“真ん中”とは何が違うのか」
「アリストテレスは何を伝えようとしたのか」
「私たちの日常では、どのように考えるヒントになるのか」
を一つずつ確かめていきます。
この記事を読み終えたとき、
「中庸とはこういうことか」と意味を理解するだけでなく、「では、自分の場合はどうだろう?」と考えられるようになること。
それが、この記事の目標です。
では、中庸についてもっと知りたくなる一つの物語から始めてみましょう。
第2章 疑問が生まれた物語
「挑戦することが、いつでも勇気なの?」

葵は、新しい仕事を頼まれると断るのが苦手でした。
「断ったら、逃げているみたいだ」
そう思い、不安でも引き受けてしまいます。
ある日、経験のない仕事まで一人で抱え込みました。
時間も足りません。
それでも、
「挑戦することが勇気なんだ」
と思って頑張りました。
ところが仕事は思うように進まず、ミスをして周りに助けてもらうことになりました。
それからの葵は、反対に新しい仕事を避けるようになります。
「もう失敗したくない」
そう思ったからです。
しばらくして、また挑戦する機会がやってきました。
今回は準備する時間があります。
相談できる人もいます。
でも、前の失敗が頭をよぎります。
挑戦するべきか。
断るべきか。
葵は考えました。
「挑戦すれば勇気がある、断ったら臆病。本当にそんなに簡単なのかな?」
そして、もう一つの問いにたどり着きます。
「今の私にとって、ふさわしい選び方って何だろう?」
この疑問をいったんここに置いておきましょう。
中庸の意味を知ったあと、記事の後半でもう一度、葵の選択に戻ります。
第3章 すぐにわかる結論
中庸とは「適切な中間」
ここまでで、中庸について覚えておきたいことは4つです。
① 中庸とは、過剰と不足のあいだにある「適切な中間」です。
感情や行動には、多すぎることも、足りなすぎることもあります。
中庸は、そのあいだにあるふさわしいあり方を指します。
② 中庸は「何でも50%」ではありません。
同じ人でも、相手や目的、時間、状況が変われば、ふさわしいあり方が変わることがあります。
中庸は、数字の中央ではなく、その場に応じた適切な中間です。
③ 中庸と「中庸を考えること」は別です。
中庸は「適切な中間」。
そして、
「今はやりすぎていないか」
「足りなすぎないか」
「何がふさわしいか」
と考えるのは、その中庸を見極めるための判断です。
④ 中庸は、自分が一番楽な場所という意味でもありません。
場合によっては、怖くても挑戦することがふさわしいかもしれません。
反対に、無理なことをきちんと断ることがふさわしい場合もあります。
大切なのは、
「自分が楽か」だけではなく、「この状況では何が適切か」を考えることです。

ここまでを一言でまとめるなら、
中庸とは、やりすぎと足りなさのあいだにある、その人と状況にふさわしい「適切な中間」のことです。
そして私たちは、その中庸を見極めるために考えます。
では、次の疑問です。
その「適切な中間」は、どうすれば見つけられるのでしょうか?
ここから先は、アリストテレスが考えた中庸の意味をもう少し深く知りながら、その答えを探していきましょう。
「なんとなくわかった」を、「自分の言葉で説明できる」へ
ここまで、中庸の大まかな姿を身近な例から見てきました。
ここからは少しだけ深く進みます。
目指すのは、難しい哲学用語を覚えることではありません。
「中庸って何?」と聞かれたときに、なぜそれが単純な真ん中ではないのかまで、自分の言葉で説明できるようになることです。
第4章 アリストテレスの『中庸(ちゅうよう)』とは
ここからは、中庸の意味をもう少し正確に見ていきます。
まず、いちばん大切なことを確認しておきましょう。
中庸とは、感情や行動の「過剰」と「不足」のあいだにある、その人と状況にふさわしい「適切な中間」のことです。
そしてアリストテレスは、この中庸と、人がよりよく生きるための「徳(とく)」を結びつけて考えました。
では、なぜ中庸と徳がつながるのでしょうか。
その理由を順番に見ていきましょう。
まず、「中間」には二つの意味があります。
アリストテレスが中庸について詳しく論じているのが、『ニコマコス倫理学』です。
『ニコマコス倫理学』は、アリストテレスの倫理思想を伝える代表的な著作で、
「人間にとって、よく生きるとはどういうことか」
「幸福とは何か」
「どのような人間のあり方が望ましいのか」
といった問題を考えています。
その第2巻で、アリストテレスは二つの「中間」を区別しています。
一つ目は、「物そのものの中間」です。
これは、両端から等しい距離にある、数字で求められる中間です。
たとえば2と10なら、中間は6です。
2から6までの差も4、6から10までの差も4なので、誰が計算しても同じ答えになります。
もう一つは、「私たちとの関係における中間」です。
こちらは、誰にとっても同じ位置になるわけではありません。
その人や状況にとって、多すぎず、少なすぎない「適切な中間」を意味します。
アリストテレス自身、食事の量を例にしています。
ある量の食事が、たくさん運動する熟練した選手には少なすぎても、運動を始めたばかりの人には多すぎるかもしれません。
つまり、人間について考える中庸では、
「ちょうど真ん中の数字はどこか」ではなく、「この人、この状況では何が適切か」が大切になります。
アリストテレスが中庸として重視したのは、この「私たちとの関係における中間」です。

ここで、ギリシャ語について少しだけ触れておきましょう。
『ニコマコス倫理学』では、「中間」を意味する meson(メソン)について、二つの種類が区別されています。
これは「中間」「中ほどにあるもの」といった意味で、
「物そのものについての中間」と、
「私たちとの関係における中間」
のどちらについても使われます。
そして、この「中間であること」「中間的なあり方」を表す言葉が、mesotēs(メソテース)です。
アリストテレスは後に、人格にかかわる徳を、このメソテースと結びつけて説明します。
そのとき重要になるのは、数字で求める「物そのものの中間」ではなく、その人と状況に応じた「私たちとの関係における中間」です。
つまり、アリストテレス倫理学で「中庸」を理解するときには、その場面にふさわしい適切な中間にあることが重要になってきます。
では、なぜここで「徳」が出てくるのでしょうか。
アリストテレスが知りたかったのは、
「一回だけ正しい行動をする方法」
だけではありませんでした。
もっと大きな問題を考えています。
人がよりよく生きるためには、どのような性格のあり方を身につければよいのか。
そこで重要になるのが「徳」です。
徳の原語は、ギリシャ語の aretē(アレテー)。
「徳」と訳されますが、日本語でいう「善良な人」「徳の高い人」という意味だけではありません。
アレテーには、「優れたあり方」「そのものが本来の働きをよく果たせる優秀さ」という意味があります。
アリストテレスは、よい目なら「よく見ることができる」、よい馬なら「馬としての働きをよく果たせる」というように、そのものをよい状態にし、その働きをよくするものを「徳・優秀さ」と考えます。
人間についても同じように、
人が感情や行動について、ふさわしく感じ、判断し、行動できるようになった性格のあり方
を人格にかかわる徳として考えました。
では、この「徳」と「中庸」の関係を、具体例で見てみましょう。
アリストテレスが人格的な徳の一つとして詳しく考えたのが、勇気です。
勇気は、ただ怖がらないことではありません。
必要以上に恐れて、するべきことまでできなくなることもあれば、反対に危険を軽く見すぎて、無謀に行動してしまうこともあります。
恐れるべきものを適切に恐れながら、必要なときには行動できること。
アリストテレスは、恐れすぎることと、危険を軽く見すぎることのあいだに、勇気と呼べる「適切な中間」があると考えました。
そして、そのような判断と行動が一度だけ偶然できるのではなく、繰り返し選べる性格として身についていることが、勇気という徳につながっていきます。
ここで、中庸と徳の違いを整理しておきましょう。
中庸は、感情や行動についての「適切な中間」。
徳は、その中庸にかなった感じ方や行動を、状況に応じて選べるようになった「身についた性格のあり方」です。
つまり、
「徳=中庸」とまったく同じ言葉として考えるより、
「人格的な徳は、中庸にかなったあり方を選べる性格として成り立っている」
と理解するとわかりやすいでしょう。
『ニコマコス倫理学』でも、人格的な徳は、単なる気分や一時的な行動ではなく、選択にかかわる、身についた状態として説明されています。
そして、中庸は「自分が心地よい場所」という意味でもありません。
「私にとってはこれくらいが楽だから、ここが私の中庸」
と決めればよいわけではありません。
アリストテレスがいう「私たちとの関係における中間」は、
その人だけでなく、
相手は誰なのか。
いつなのか。
何についてなのか。
何のためなのか。
どの程度なのか。
どのように行動するのか。
といった状況まで含めて考える中間です。
そのため、ときには怖くても行動することがふさわしい場合があります。
反対に、無理に進まず、立ち止まることがふさわしい場合もあります。
ここで大切になるのが、理性的に判断することと、その判断にもとづいて行動を選ぶことです。
『ニコマコス倫理学』では、中庸は logos(ロゴス) によって定められると説明されています。
ロゴスにはさまざまな意味がありますが、ここでは、「何がこの状況にふさわしいのかを見極めるための、理・理性的な基準や筋道」と考えるとわかりやすいでしょう。
つまり、ロゴスは中庸そのものではありません。
ロゴスを働かせて適切な中間を見極め、そのうえで実際にどの行動を取るかを選ぶ。
アリストテレスは、中庸にかなった行動を考えるうえで、この判断と選択の両方を重視しています。
つまり、
「なんとなくこっちが楽だから」
と選ぶのではありません。
状況を見て、「なぜこの行動がふさわしいのか」を考え、理由をもって選ぶ。
そのような判断が、中庸にかなった行動には必要になります。
ここまでを整理すると、次のようになります。
中庸=その人と状況にふさわしい「適切な中間」
中庸を判断すること=過剰や不足になっていないかを考え、何がふさわしいかを見極めること
徳=中庸にかなった感じ方や行動を、状況に応じて選べるようになった、身についた性格のあり方
この三つは、似ていますが同じものではありません。
そして、この違いがわかると、アリストテレスが中庸について考えた理由も見えてきます。
彼が目指していたのは、
「いつでも真ん中を選ぶ人」になることではなく、状況に応じて、ふさわしい感情や行動を選べる人になること。
中庸は、その「ふさわしいあり方」がどこにあるのかを考えるための、とても重要な考えだったのです。
第5章 中庸で大切なのは「平均」ではなく「適切さ」
ここからは、中庸の特徴をもう一歩深く見てみましょう。
中庸で目指すのは、「いつでも同じ真ん中」ではなく、その場面にふさわしい適切さです。
この違いがよくわかるのが、「怒り」です。
たとえば、
「怒りすぎるのはよくないから、いつでも少しだけ怒ろう」
と考えたとします。
一見すると、中庸らしく聞こえます。
しかし、アリストテレスの考えはもっと細かいものです。
彼が問題にするのは、
誰に怒るのか。
何について怒るのか。
いつ怒るのか。
どの程度なのか。
どのくらいの時間なのか。
ということです。
怒りの中庸とは、怒りをいつも弱くすることではなく、怒るべきことに、怒るべき相手へ、ふさわしい時・程度・方法で怒ることです。

大切な人が理不尽に傷つけられている。
そんな場面では、強く怒ることがふさわしい場合もあるでしょう。
反対に、ほんの小さな失敗に激しく怒り続ければ、その怒りは状況に釣り合っていないかもしれません。
Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科事典)も、アリストテレスの中庸について、状況によっては強い感情が適切になると説明しています。
中庸は「感情を半分に薄める考え」ではなく、「状況に釣り合った感情や行動」を考えるものなのです。
これは、怒りの強さだけに当てはまる話ではありません。
中庸では、二つの選択肢があるからといって、いつでもその「真ん中」を選ぶ必要はありません。大切なのは、その状況で何が最もふさわしいかを考えることです。
このことは、人と意見が対立したときにも考えるヒントになります。
AさんとBさんの意見が正反対だったとして、
「では、半分ずつ採用しましょう」
とすれば、形の上では真ん中です。
でも、それがいつも一番ふさわしい答えとは限りません。
Aさんの意見に十分な理由があるかもしれません。
Bさんの考えを優先すべき状況かもしれません。
あるいは、二人が考えていなかった別の答えが見つかるかもしれません。
中庸は、対立する二つの案を機械的に混ぜる「妥協」ではありません。
A、B、あるいは別の選択肢も含めて、その状況に最もふさわしいあり方を考えることが大切です。
だからこそ、中庸の考え方は「無難なほうを選び続けよう」という教えとも違います。
必要なら前に出る。
必要なら退く。
必要なら強く伝える。
必要なら静かに待つ。
大切なのは、「真ん中にいること」そのものではなく、その状況にふさわしい中間にあることです。
アリストテレスの倫理学が、あらゆる場面に使える機械的な判断ルールを示さないのも、このためです。
具体的な場面では事情が変わるため、その都度、何が最も理由にかなっているのかを見極める必要があります。
第6章 具体例から見えてくる、『中庸』の共通点
ここまで、勇気や怒りを例にしながら中庸を見てきました。
しかし、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で中庸との関係を考えた人格的な徳は、それだけではありません。
お金の使い方や、自分についてどう語るか、人とどう接するかなど、さまざまな感情や行動について「過剰・不足・中間」を考えています。
ここでは新しい例をいくつか比べながら、中庸に共通する形を探してみましょう。
お金――金額の「真ん中」を探すわけではない
アリストテレスは、財産を与えたり使ったりすることについても中庸を考えました。
その徳は、日本語では「気前のよさ」「寛大さ」などと訳されます。
必要な場面でもお金を出そうとしない。
反対に、相手や目的を考えず不適切に使ってしまう。
そのあいだで大切なのは、
「では、ちょうど真ん中の金額を使おう」
ということではありません。
ふさわしい相手に、ふさわしい量を、ふさわしい時に、ふさわしい仕方で与えたり使ったりできること。
そこに、お金についての適切な中間があります。
自分について語る――自慢と謙遜を半分ずつにするわけではない
自分についてどう語るかにも、中間があります。
自分を実際以上にすごく見せる。
反対に、本当は持っている能力まで必要以上に小さく見せる。
アリストテレスは、そのあいだに、自分について実際に即して語る誠実なあり方を考えました。
たとえば、できないことを「できます」と大きく見せるのでもなく、本当はできることを「私には何もできません」と必要以上に小さく見せるのでもありません。
自分について、それ以上にも、それ以下にも見せず、事実に即して語る。
ここで大切なのは、「自慢と謙遜を半分ずつ混ぜること」ではなく、自分について事実に即して示すことです。
この場合の中庸は、実際より大きく見せることと、小さく見せることのあいだにある、誠実な自己の示し方にあります。
こうして勇気、お金、自分について語ることを比べてみると、おもしろい共通点が見えてきます。
勇気では、
「恐れを半分にする」
わけではありませんでした。
お金では、
「使う金額を半分にする」
わけではありません。
自分について語るときも、
「自慢と謙遜を半分ずつ混ぜる」
わけではありません。
中庸で大切なのは、「真ん中の量」を探すことではなく、その場面で何が適切なのかを見極めることです。

そのために見るものも、一つではありません。
誰に対してなのか。
いつなのか。
何についてなのか。
何のためなのか。
どの程度なのか。
どのように行うのか。
アリストテレスは、こうした条件に応じて感情や行動がふさわしいものになることを重視しています。
『ニコマコス倫理学』でも、怒ったり、お金を使ったりすること自体は難しくなくても、ふさわしい相手に、ふさわしい時・程度・目的・方法で行うことは簡単ではないと論じられています。
ここまでの具体例から見えてくるのは、
中庸には一つの決まった形がない
ということです。
同じ人でも、相手や目的、状況が変われば、ふさわしい中間が変わることがあります。
だからこそ、中庸は「50」という答えを覚えれば終わる考えではありません。
それぞれの場面に「適切な中間」があるという見方を持ち、その場にふさわしいあり方を見極めることが大切になります。
では、ここで新しい疑問が生まれます。
人や状況によって適切な中間が変わるのなら、
「自分ではこれがちょうどいい」と思えば、それだけで中庸になるのでしょうか?
次は、中庸が単なる「人それぞれ」で終わらない理由を見ていきましょう。
第7章 では、「適切な中間」をどう判断するのか
ここまで、中庸は「いつでも同じ真ん中」ではなく、その人と状況にふさわしい適切な中間だと見てきました。
では、その「ふさわしい」は、どうやって判断すればよいのでしょうか。
アリストテレスは、この問題を考えるうえで phronēsis(フロネーシス) を重視しました。
フロネーシスは、日本語では「思慮」「実践的知恵」などと訳されます。
簡単にいえば、人がよりよく生きるために、具体的な状況をよく見て、何をするのがふさわしいのかを考え、判断する力です。

ここで大切なのは、フロネーシスが「中庸の答えを自動的に出してくれる公式」ではないことです。
アリストテレスの倫理学では、
「この場合は必ず30」
「この場合は必ず70」
というような、すべての場面に使える計算式は用意されていません。
なぜなら、実際の行動では、目の前の事情が一つひとつ違うからです。
『ニコマコス倫理学』第6巻でも、実践的な知恵は一般的な知識だけでなく、具体的な個々の事情を知る必要があると論じられています。
では、実際には何を考えるのでしょうか。
たとえば、新しい仕事を任されたとします。
「挑戦することはよいことだから、引き受けよう」
という一般論だけでは、まだ判断できません。
まず、
何のために引き受けるのか。
成長するためなのか。
誰かの役に立つためなのか。
それとも、断ったら悪く思われそうだからなのか。
目的を見る必要があります。
次に、目の前の事情を見ます。
自分には必要な知識があるのか。
準備する時間はあるのか。
助けを求められる人はいるのか。
失敗した場合、誰にどのような影響があるのか。
そして、そのうえで、
一人で引き受ける。
助けを求めながら挑戦する。
準備期間を相談する。
今回は断る。
といった複数の選択肢を考えます。
フロネーシスで重要なのは、「真ん中らしい答え」を探すことではなく、目的と具体的な事情を踏まえて、よりふさわしい行動を考えることです。
これは、第2章の葵が悩んでいた「挑戦するか、断るか」という問題にもつながります。
勇気がある人なら、いつでも仕事を引き受けるのでしょうか。
そうとは限りません。
十分な準備ができ、必要な助けも得られるなら、挑戦することがふさわしいかもしれません。
反対に、準備する時間もなく、自分一人では大きな損害を生む可能性が高いなら、いったん断ったり、条件を相談したりするほうが適切な場合もあります。
同じ「挑戦するか」という問題でも、具体的な事情が変われば、ふさわしい判断も変わりえます。
だからこそ、アリストテレスが考える実践的な知恵には、一般的なルールを知ることだけでは足りません。
実際の人や状況を見て、
何が重要なのか。
何を目的にするべきなのか。
どの選択肢がその目的にふさわしいのか。
を考える必要があります。
さらに、フロネーシスを理解するうえで、もう一つ大切な違いがあります。
「目的を達成するのが上手いこと」と、「よい目的に向かって、何をするのがふさわしいかを判断できること」は同じではありません。
アリストテレスは、目的を達成するための方法をうまく見つける能力を、deinotēs(デイノテース)という言葉で説明しています。
これは、「巧みさ」「目的を達成する能力」と考えるとわかりやすいでしょう。
たとえば、
「この目的を達成するには、どうすればよいか」
と考え、効率のよい方法を見つける。
これは一つの能力です。
しかし、その能力だけでは、アリストテレスのいう phronēsis(フロネーシス)――実践的な知恵 にはなりません。
なぜなら、方法がどれほど巧みでも、そもそも目指している目的がよいものなのかが重要だからです。
悪い目的を達成するためにも、頭を使って巧みな方法を考えることはできます。
けれども、それは「目的を達成するのが上手い」というだけで、フロネーシスとは区別されます。
アリストテレスの実践的な知恵では、「人としてよりよく生きる」という方向を見失わず、具体的な状況のなかで何をするのがふさわしいのかを判断することが大切です。
では、そもそも、
「人としてよりよく生きる」とは、どういうことでしょうか。
少し難しく聞こえますが、まずは身近に考えてみましょう。
私たちには、
「これがほしい」
「こうなりたい」
「これは怖い」
「腹が立つ」
「楽をしたい」
といった感情や欲望があります。
アリストテレスは、そうした感情や欲望をすべてなくせ、と考えたわけではありません。
大切なのは、感じたことや欲しいと思ったことに、そのまま動かされるだけで終わらないことです。
たとえば、
「成功したい」
と思うことはできます。
でも、
成功したいから、人をだましてもよいのでしょうか。
「腹が立つ」
こともあります。
でも、
腹が立ったから、相手をどこまでも傷つけてよいのでしょうか。
「失敗するのが怖い」
こともあります。
でも、
怖いから、挑戦できることまで全部避けるのがよいのでしょうか。
そこで人間は、考えることができます。
「私は何を目指しているのか」
「本当にそれは目指すに値するものなのか」
「自分だけでなく、相手や周りとの関係まで考えたとき、どんな行動がふさわしいのか」
「この選択を続けたら、自分はどんな人間になっていくのか」
そうやって考えながら、感情や欲望を適切に受け止め、何を目指し、何を選び、どう行動するのかを整えていく。
アリストテレスが考える「人としてよりよく生きる」を、まず噛み砕いて言えば、
自分の欲望をただ満たすことでも、自分を犠牲にして他人だけを優先することでもなく、よく考え、よく感じ、よく選び、よく行動しながら、自分の人生そのものをよりよいものにしていくことです。
そして、そのために必要になるのが、
勇気。
正義。
節制。
そして、これまで見てきた中庸や実践的な知恵です。
アリストテレスは、人間には理性を働かせて考え、選び、行動できる特徴があると考えました。
そして、その人間らしい働きを徳にかなったすぐれた仕方で発揮しながら、一つ一つの行動だけではなく人生全体をよく生きていくことを、人間の「善」や「幸福」と結びつけています。
つまり、
「よりよく生きる」とは、ただ長く生きることでも、楽しく生きることでも、自分の望みをすべてかなえることでもありません。
「自分が何を望んでいるのか」だけでなく、「そもそも何を目指すことがよいのか」「そのために、どう感じ、どう選び、どう行動することがよいのか」を、正義・勇気・節制などの徳に照らしながら考え、それを実際の生き方にしていくことなのです。
言い換えれば、アリストテレスが考える「よりよく生きる」とは、ただ生き残ることでも、自分の望みを上手にかなえることでもありません。
「どうすれば欲しいものを手に入れられるか」だけでなく、「そもそも何を望み、何を選ぶことが、人間の善につながるのか」まで問いながら生きることなのです。
この「人はどうすればよりよく生きられるのか」という大きな問いについては、後の章でもう少し詳しく見ていきます。
ここでは、そのことを頭に置いたうえで、デイノテースとフロネーシスの違いに戻ってみましょう。
デイノテースは、「ある目的を達成するための方法を見つけ、うまく実行する能力」です。
その目的がよいものであっても、悪いものであっても、目的を達成するための手段を巧みに考えることはできます。
一方、フロネーシスは、徳にかなった目的に向かって、具体的な状況のなかで何をするのがふさわしいのかを判断する実践的な知恵です。
ここには、大切な違いがあります。
アリストテレスの考えでは、フロネーシスだけが単独で、
「これがよい目的だ」
と決めるわけではありません。
正義・勇気・節制などの徳によって、何を目指すことがよいのかという方向が整えられ、フロネーシスによって、その目的に向かうために、この具体的な状況で何をするのがふさわしいのかを判断します。
ですから、
デイノテースは「目的を達成するのが上手いこと」。
フロネーシスは「徳にかなったよい目的に向かって、今ここで何をするのがふさわしいのかを判断できること」。

と考えると、違いが見えやすくなります。
ここでいう「よい目的」とは、
「自分が得をしたい」
「自分が楽になりたい」
「自分にとって都合のよい結果にしたい」
というだけの意味ではありません。
先ほど見たように、アリストテレスが考えているのは、もっと大きな、
「人はどうすればよりよく生きられるのか」
という問題です。
だからフロネーシスは、頭のよさを使って自分に有利な結果へ進むための能力ではありません。
自分の欲望だけを基準にせず、徳にかなった目的を見ながら、自分・相手・状況を考え、その場で何をするのがふさわしいのかを判断するための実践的な知恵なのです。
ここまで考えると、「自分にとっての中庸」の意味も、よりはっきりしてきます。
「私はこれが楽だから」
「私はこれが好きだから」
だけで決めるのではありません。
自分の状態、相手、目的、起こりうる結果など、具体的な事情を見ながら、よりよい行動を考えていく。
その判断に深くかかわる力が、フロネーシスです。
ただし、ここで新しい疑問が生まれます。
これほど多くの事情を考える必要があるのなら、フロネーシスは本を読んで知識を覚えるだけで身につくのでしょうか。
アリストテレスは、そう単純には考えませんでした。
実践的な知恵では、実際の具体的な場面を知ることが重要であり、そこには経験が深くかかわります。
そしてアリストテレスの倫理学では、もう一つ重要なものがあります。
それが、習慣です。
人格にかかわる徳は、一度だけ正しい行動をすれば完成するものではありません。
適切な行動を繰り返しながら、どのような人として生きるのかという性格そのものを形づくっていきます。
では、なぜ中庸を考えるうえで、習慣がそこまで重要なのでしょうか。
次の章では、中庸・徳・習慣がどのようにつながっているのかを見ていきましょう。
第8章 中庸は一度の正解では身につかない
「習慣」が徳を育てる
第7章では、具体的な状況を見ながら、何をするのがふさわしいのかを判断する phronēsis(フロネーシス)――実践的な知恵を見てきました。
では、一度だけ適切な判断ができれば、その人にはもう「徳」が身についているのでしょうか。
アリストテレスは、人格にかかわる徳は、適切な行動を繰り返すことを通して形成されていくと考えました。
『ニコマコス倫理学』第2巻で、アリストテレスは、知性にかかわる徳は主に教えによって育つ一方、人格にかかわる徳は「習慣」によって生じると説明しています。
そこで彼が出すのが、仕事や技術の例です。
建築する人は、実際に建築することを通して建築家になっていく。
竪琴を弾く人は、実際に弾くことを通して演奏できるようになっていく。
それと同じように、人も正しい行動を重ねることで正しい人へ、節度ある行動を重ねることで節度ある人へ、勇気ある行動を重ねることで勇気ある人へと育っていく、とアリストテレスは考えました。

ここで大切なのは、ただ同じ行動を何度も繰り返せば、自然に徳が身につくという意味ではないことです。
アリストテレス自身、建築でも上手に建てればよい建築家になり、悪く建て続ければ悪い建築家になるのと同じように、私たちの性格も、どのような行動を繰り返すかによって形づくられると説明しています。
つまり、
大切なのは「何回やったか」だけではなく、「どのような行動を繰り返しているか」です。
これは中庸ともつながります。
その場にふさわしい感情や行動を一度だけ偶然選べても、それだけで中庸にかなった性格が完成するわけではありません。
さまざまな場面で、過剰や不足に流されず、何がふさわしいのかを考え、選び、行動する。
そうした積み重ねによって、適切な判断や行動をより安定して選べる性格のあり方が育っていきます。
ただし、もう一つ重要な点があります。
アリストテレスは、外から見て「正しい行動」をしていれば、それだけで徳のある人だとは考えていません。
同じ行動でも、偶然そうなっただけかもしれません。
誰かに言われたから、そのとおりにしただけかもしれません。
『ニコマコス倫理学』第2巻では、徳にかなった行為をする人について、行為を理解していること、自分でその行為を選んでいること、そして安定した性格から行っていることが重要だと説明されています。
徳とは、一度だけ「正解の行動」ができたことではなく、ふさわしい行動を自分で選べるあり方が、性格として身についていることなのです。
だからこそ、アリストテレスにとって倫理学は、正しい答えを知識として覚えるだけの学問ではありませんでした。
彼は『ニコマコス倫理学』で、徳について研究する目的は、ただ徳とは何かを知るためではなく、私たち自身がよりよい人になるためだと述べています。
中庸について知ることも同じです。
「やりすぎと足りなさの間が中庸です」
と説明できるだけでは、まだ終わりではありません。
何を選ぶかを考え、その選択を実際の行動に移し、その積み重ねによって、自分の性格そのものを育てていく。
ここまで来ると、中庸は単なる「ちょうどいい答え探し」ではなくなります。
それは、
「この場面では何をするべきか」だけでなく、「私は、どのような人になっていきたいのか」
という問いにもつながっていくのです。
では、なぜアリストテレスは、一回の正しい行動ではなく、そこまで「どのような人になるか」を重視したのでしょうか。
その先には、彼の倫理学全体を貫いている、
「人はどうすれば、よりよく生きられるのか」
という大きな問いがあります。
第9章 アリストテレスは、なぜ『中庸』を考えたの?
ここまで、中庸とは何か、どう判断するのか、そして適切な行動を繰り返すことが徳とどうつながるのかを見てきました。
では、そもそもアリストテレスは、なぜここまで人の感情や行動について考えたのでしょうか。
その背景にある大きな問いは、「人間は、どうすればよりよく生きられるのか」です。
アリストテレスは『ニコマコス倫理学』のはじめから、人間が最終的に目指す「よいもの」について考えていきます。

そこで重要になる言葉が、eudaimonia(エウダイモニア)です。
日本語では一般に「幸福」と訳されます。
ただし、ここでいう幸福は、
「今日は楽しかった」
「欲しかったものが手に入った」
という一時的な気分だけを指す言葉ではありません。
人生全体を通して、人間としてよく生きること。
そのような意味を含んだ「幸福」です。
アリストテレスは、この幸福を、お金や名誉のように「何か別のものを得るため」に求めるものではなく、私たちが最終的に目指すものとして考えました。
そして、人間がよく生きるためには、ただ「徳を持っている」だけではなく、徳にかなって実際に生き、行動することが大切だと考えます。
ここで、これまで見てきた中庸につながります。
勇気。
お金の使い方。
怒り方。
自分についての語り方。
アリストテレスがこうしたことを細かく考えたのは、
「何でもほどほどにしておけば安全だから」
という理由ではありません。
人がよりよく生きるためには、感情や行動について、その場にふさわしいあり方を選べる人格が重要だと考えたからです。
恐れるべきときに恐れる。
必要なときには勇気をもって向き合う。
怒るべきことには適切に怒る。
与えるべき相手や目的を考えてお金を使う。
こうした人格にかかわる徳を説明するときに、「過剰」と「不足」のあいだにある適切な中間、つまり中庸が重要になってきます。
つまり、中庸そのものが人生の最終目的なのではありません。
中庸は、アリストテレスが
「どのような人格を身につけ、どのように行動すれば、人間としてよりよく生きられるのか」
を考えるなかで登場する重要な考え方なのです。
ここまでの章で見てきた、
「中庸」
「徳」
「実践的な知恵」
「習慣」
も、別々の知識ではありません。
適切な感情や行動を考える。
具体的な状況で何をするのかを判断する。
実際に選んで行動する。
その積み重ねによって人格が形づくられていく。
これらはすべて、「人はどうすればよりよく生きられるのか」という一つの大きな問いにつながっています。
ただし、アリストテレスは、
「徳のある人になれば、それだけで何が起きても必ず幸福になれる」と単純に考えていたわけでもありません。
『ニコマコス倫理学』では、友人や生活に必要なものなど、ある程度の外的な条件も幸福に関係すると考えています。
それでも、自分がどのような人となり、どのように行動するかは、「よく生きること」を考えるうえで中心的な問題でした。
だからこそ、中庸について考えることは、
「ちょうどいい場所はどこだろう?」
という問いだけでは終わりません。
その先には、
「私は、どのような人として生きていきたいのだろう?」
という、さらに大きな問いがあります。
第10章 私たちが読んできた『中庸』は、原典ではどう書かれている?

ここまでこの記事では、中庸を、
「その人と状況にふさわしい適切な中間」
と説明してきました。
では、この説明はアリストテレスの原典そのものにあるのでしょうか。
先に結論を言うと、ここまでの説明は『ニコマコス倫理学』の議論に沿っています。ただし、「その人と状況にふさわしい適切な中間」という一文が、そのまま原典に書かれているわけではありません。
原典にある複数の説明を、現代の日本語で理解しやすいようにまとめた表現です。
中庸について特に重要なのは、『ニコマコス倫理学』第2巻第6章です。
まずアリストテレスは、「物そのものにおける中間」と「私たちとの関係における中間」を分けて考えます。
数字なら、2と10の中間は6です。
しかし食事量については、誰にでも同じ6が適切になるわけではない。
アリストテレスは、当時有名だった競技者ミロンと、運動を始めたばかりの人を例にしています。
ここから確認できるのは、人間についての中間は、数字だけでは決められないということです。
さらに原典を読み進めると、この記事で使ってきた「状況にふさわしい」という言葉の中身が見えてきます。
アリストテレスは感情について、
いつなのか。
何についてなのか。
誰に対してなのか。
何のためなのか。
どのように感じるのか。
といった条件が適切であることを重視しています。
つまり、この記事で使ってきた、
「その人と状況にふさわしい適切な中間」
という表現は、このような原典の複数の条件を、初心者にもつかみやすい形にまとめたものです。
ここには、日本語の「中庸」という一語だけでは見えにくいところがあります。
「中庸」と聞くと、
「ほどほどにする」
「真ん中を取る」
というイメージを持ちやすいかもしれません。
しかし原典を読むと、アリストテレスが問題にしているのは、単に量を少なくしたり、両端から等距離のところへ移動したりすることではありません。
「この人、この相手、この目的、この時、この状況では、何が適切なのか」まで含めて考える中間です。
だからこそ、第5章で見たように、強く怒ることが適切な場面もありえます。
中庸だからといって、感情をいつも弱く保つ必要はありません。
もう一つ、原典を読むことで見えてくる重要な点があります。
アリストテレスは、徳を「私たちとの関係における中間」にあるものとして説明したあと、その中間は理性的な基準によって定められ、実践的に賢い人が判断するように定められると述べています。
ここからわかるのは、
「私たちとの関係における中間」=「本人が好きに決めてよい中間」ではない
ということです。
現代の日本語で「自分に合った」と言うと、
「自分が楽ならそれでいい」
という意味にも聞こえます。
しかしアリストテレスの原典では、中間は選択や理性的な判断と結びついています。
第7章で扱った phronēsis(フロネーシス)――実践的な知恵が重要になってくるのも、このためです。
そして原典には、中庸を「無難な真ん中」と考えていると理解しにくい、とても興味深い一文があります。
アリストテレスは、人格にかかわる徳について、
そのあり方を説明するなら「中間」だが、すぐれていること・正しさという点では「極」にある
と述べています。
これはどういうことでしょうか。
たとえば勇気は、臆病と無謀のあいだに位置します。
その意味では「中間」です。
しかし、
「臆病でも無謀でもないから、そこそこよい」
という話ではありません。
その状況で最もふさわしいところを選べているという意味では、それがすぐれた状態なのです。
ここでいう「極」とは、
「極端に行動する」
「できるだけ強く行動する」
という意味ではありません。
過剰と不足との位置関係で見れば「中間」にある。けれども、何が最もよく、最もふさわしいかという評価の面では、目指すべきすぐれた状態にある。
その意味で、アリストテレスは「極」と表現しているのです。
言い換えるなら、
位置としては中間でも、よさ・適切さという点では最善を目指している
ということです。

ここは、日本語の「中庸」から受ける印象と、原典との大きな違いの一つです。
中庸は「一番ではなく真ん中を選ぶ思想」ではありません。
適切さという点では、むしろ最善を目指す考えなのです。
原典には、もう一つわかりやすいイメージがあります。
アリストテレスは、適切な中間を選ぶ難しさを、的を射ることにたとえています。
外す方向はいくつもある。
しかし、狙うべきところへ当てるのは難しい。
この比喩から考えると、中庸は、
「二つの意見の真ん中に立っておけば安全」
というより、
「この場面で当てるべき場所を見極める」という考えに近いことがわかります。
ここまでの記事では、古代ギリシャの例をそのまま使うだけでなく、仕事、挑戦、人間関係など、現代の生活に置き換えた例も使ってきました。
それらはアリストテレス自身が書いた具体例ではありません。
原典にある考え方を、現代の読者が自分の生活と結びつけて理解するための例です。
たとえば第2章の葵の仕事の物語も、アリストテレスの原典にある話ではありません。
一方で、
過剰と不足を見ること。
単純な数字の真ん中にしないこと。
人や状況との関係を見ること。
理性的に判断すること。
人格や徳と結びつけて考えること。
という中心部分は、原典の議論をもとにしています。
原典と答え合わせをすると、「中庸」という言葉の見え方が少し変わってきます。
中庸とは、無難なところへ逃げることではなく、さまざまな事情のなかで「ここがふさわしい」と言える場所を見極めようとする考えです。
そして、その場所を見つけることは簡単ではない。
だからアリストテレスは、徳・選択・実践的な知恵・習慣まで含めて考えていたのです。
ただし、原典にはさらに重要な注意があります。
適切な中間が大切だからといって、すべての行為について「ほどほどならよい」と考えてよいわけではありません。
アリストテレス自身が、中間を考えることのできない行為や感情についても述べています。
次の章では、中庸の「例外」と限界を原典から確認していきましょう。
第11章 中庸はどこまで使える?
自分に都合のよい「真ん中」を作る考えではない
ここまで中庸について学んでくると、一つの疑問が生まれます。
その人と状況にふさわしい「適切な中間」を考えるのであれば、
「自分にとって一番都合のよい状態を作れば、それが中庸なのでは?」
と思うかもしれません。
中庸は、自分にとって都合のよい状態を作るための考えではありません。
そして、どのような行動でも「やりすぎなければよい」という考えでもありません。
ここには、アリストテレス自身が示している重要な限界があります。
『ニコマコス倫理学』第2巻第6章で、アリストテレスは、すべての感情や行動に中間があるわけではないと述べています。

原典では、悪意、無恥、嫉妬といった感情や、姦通、窃盗、殺人といった行為が例として挙げられています。
アリストテレスの考えでは、これらについて、
「適切な相手ならよい」
「適切な時ならよい」
「少しくらいならよい」
という中間を探すことはできません。
それ自体が悪いとされる行為については、「どの程度ならちょうどよいか」という問題にはならないのです。

ここは、中庸を現代の生活で考えるときにも大切なところです。
たとえば、
「自分がもっとよい立場になるために、同僚をだまして評価を下げよう」
と考えたとします。
そして、それによって自分が昇進し、以前より生活しやすくなったとしましょう。
だからといって、
「自分にとって一番よい状態になったから、これが私の中庸だ」
とはなりません。
中庸は、自分に利益がある結果を作れば成立するものではないからです。
ここで、第7章で見た phronēsis(フロネーシス)――実践的な知恵の話がつながってきます。
アリストテレスは、目的を達成するための方法をうまく見つける能力と、実践的な知恵を区別しています。
目的達成のための巧みさは、deinotēs(デイノテース)と呼ばれます。
先ほどの例でいえば、同僚をだます方法を巧みに考え、その結果として自分が昇進できたとしても、それは「目的を達成する巧みさ」を示しているにすぎません。
アリストテレスが考える実践的な知恵では、目的を達成できたかどうかだけでなく、徳にかなった目的に向かって、その状況で何をするのがふさわしいのかを判断することが重要です。
ここでいう「よい目的」とは、単に「自分が得をする目的」や「自分が楽になる目的」という意味ではありません。
人としてよりよく生きるという方向のなかで、正義や勇気などの徳にかなった、目指すに値する目的であることが大切です。
だからこそ、自分に利益をもたらしたとしても、他人を不当に傷つけたり、だましたりすることで得た結果を、それだけで「自分にとっての中庸」とすることはできません。
アリストテレスは、人格にかかわる徳が目的を正しい方向へ導き、実践的な知恵が、その目的に向かって具体的に何をするのがふさわしいのかを判断するという関係を考えています。
悪い目的のために方法を巧みに考えられても、それだけではフロネーシスとはいえません。
つまり、中庸を考えるときに大切なのは、
「自分にとって何が一番得か」ではなく、「よりよく生きるという方向のなかで、この状況では何をすることがふさわしいのか」です。
だからといって、
「自分も相手も、みんな必ず得をする場所を探せばよい」
という意味でもありません。
ときには、相手が聞きたくないことでも伝える必要があるかもしれません。
自分が損をしてでも、約束を守ることが重要な場合もあるでしょう。
逆に、自分を犠牲にし続けることが、いつでも正しいわけでもありません。
自分だけを見るのでも、相手だけを見るのでもなく、自分・相手・目的・時・状況などを踏まえながら、何がふさわしいのかを判断する。
そこに、中庸を考える難しさがあります。
ちょっと考えてみよう 復讐して不正を正せば、それも中庸になる?

ここまで読んで、
「でも、悪いことをした相手に仕返しをすることが、結果としてよいことにつながる場合もあるのでは?」
と思った人もいるかもしれません。
たとえば、自分の親が誰かに不当に陥れられたとします。
その人は強く怒り、
「親を陥れた相手を、今度はこちらが陥れてやる」
と復讐を決意しました。
そして実際に復讐した結果、その相手は社会的な立場を失ったとします。
すると、こんな考え方もできそうです。
「不正をした人がいなくなったから、周囲にとってもよかった」
「親の無念を晴らせたから、自分にとってもよかった」
「不正を正すことができたのだから、これは正義なのでは?」
では、自分にとっても周囲にとってもよい結果になったのなら、その復讐は中庸なのでしょうか。
結果として自分や周囲に利益が生まれたというだけでは、それを中庸と判断することはできません。
ここで大切なのは、
「不正を正すこと」と、「相手を苦しませること自体を目的にすること」は同じではない
という点です。
親が不当な被害を受けたのであれば、
「何もしない」
ことだけが正しいとは限りません。
事実を明らかにする。
失われたものを取り戻そうとする。
相手に適切な責任を求める。
同じ被害が繰り返されないようにする。
こうした行動が必要になることもあるでしょう。
中庸は、怒らずに何もしないことを勧める考えではありません。
しかし反対に、
「相手が苦しめば自分の気が晴れる」
「相手も同じ目に遭わせなければ納得できない」
と考え、相手を苦しませることそのものが目的になっているなら、話は変わってきます。
たとえその結果として周囲に何らかの利益が生まれたとしても、
「結果がよかったから、そこへ至る目的や手段もすべてよかった」とは限りません。
中庸を考えるときには、
「結果として誰が得をしたか」
だけを見るのではなく、
「私は何を目的にしているのか」
「不正を正したいのか、それとも相手を苦しませたいのか」
「怒りの強さは、この状況にふさわしいものなのか」
「選ぼうとしている手段そのものは、徳にかなっているのか」
というところまで考える必要があります。
たとえば、
「何もしない」か「徹底的に復讐する」かの真ん中を選べば、それが中庸になるわけでもありません。
中庸は、二つの行動を半分ずつ混ぜる考えではなかったからです。
大切なのは、過剰と不足のあいだで機械的な真ん中を探すことではなく、
「この状況で、本当に正すべきものは何なのか。そのために、どのような感情を持ち、どのような方法で行動することがふさわしいのか」
を考えることです。
だから、
「復讐して自分は満足した」
「悪い人を排除できたから周囲にも利益があった」
という理由だけで、
「だからこれは私にとっての中庸だった」と決めることはできません。
中庸は、自分が納得できる答えを正当化するための言葉ではないのです。
むしろ、
自分では「これが正しい」と強く思っているときほど、その目的・感情・手段まで問い直してみる。
そこにも、中庸を考える意味があります。
では、もし本当に自分が強い怒りや復讐心を抱えていたら、中庸の考えからはどう行動できるのでしょうか。
ここで考えられるのは、
「何もしない」ことと「徹底的に復讐する」ことの真ん中を取る、という方法ではありません。
まず、不正そのものを放置する必要はありません。
怒るべきことなら怒ってよいでしょう。
被害を受けたのであれば、事実を明らかにしたり、失われたものを取り戻したり、相手に適切な責任を求めたりする必要があるかもしれません。
しかし、そのとき目的を、
「相手も同じだけ苦しませたい」
から、
「本当に正すべきものは何なのか」
へ変えて考えてみます。
名誉を回復したいのか。
被害を取り戻したいのか。
事実を明らかにしたいのか。
責任を取ってもらいたいのか。
それとも、同じ被害をもう起こさせないことが大切なのか。
目的が見えてくれば、必要な行動も考えやすくなります。
たとえば、事実や証拠を整理する。
信頼できる第三者に相談する。
必要であれば正式な方法で責任を求める。
自分や大切な人を守るために距離を取る。
再び同じことが起きない方法を考える。
こうした選択肢もあります。
中庸の視点から大切なのは、「どれだけ仕返しをすれば気が済むか」ではなく、「何を正すために、どこまで行動することがふさわしいのか」と考えることです。
怒りをなかったことにする必要もありません。
しかし、怒りにすべてを任せる必要もありません。
怒るべきことには怒りながら、不正を放置せず、それでも復讐そのものを目的にしない。
そして、被害の回復や責任、再発防止のために必要な行動を選んでいく。
これは、アリストテレスが現代の私たちにそのまま示した手順ではありません。
けれども、ここまで見てきた中庸や実践的な知恵を現代の生活に当てはめるなら、こうして「感情・目的・手段・状況」を一緒に見直すことが、一つの中庸的な考え方になるでしょう。
ここまでの復讐の例からも、中庸が単なる「ほどほど」や「妥協点」ではないことが見えてきました。
そこで改めて、第10章で見た「極」という考え方を思い出してみましょう。
徳は、過剰と不足との関係では「中間」にありますが、よさ・適切さという点では、目指すべきすぐれた状態にあります。
つまり、中庸は「そこそこ無難な場所」ではありません。
たとえば勇気は、臆病という不足と、無謀という過剰のあいだにあります。
その意味では「中間」です。
しかし勇気は、
「臆病と無謀を半分ずつ混ぜた、そこそこよい状態」
ではありません。
その状況で恐れるべきものを適切に恐れ、必要なときには行動できるという点で、勇気は目指すべきすぐれたあり方です。
「中間だから、ほどほどによい」のではありません。
過剰でも不足でもない適切なあり方だからこそ、よさという点では最もすぐれている。
つまり
位置としては中間
でも
評価としては最善
ということです。
それが、アリストテレスが「中間でありながら、よさの点では極にある」と述べる意味です。
だから中庸は、「最高を目指さず真ん中で妥協する」という思想でもありません。
過剰と不足のあいだにありながら、適切さという点では、よりすぐれたあり方を目指す考えなのです。
そしてアリストテレスは、過剰や不足そのものについて、さらに「ほどよい中間」を作るわけでもないと述べています。
無謀が勇気に対する過剰だからといって、
「少しだけ無謀ならちょうどよい」
とは考えません。
臆病が不足だからといって、
「ほどほどに臆病なら徳になる」
とも考えません。
中庸とは、悪いものを少し薄めれば正しくなるという考えではないのです。
ここまで整理すると、中庸の使える範囲が見えてきます。
中庸は、
「自分に都合のよい場所を探すこと」
でも、
「悪いことでも少しなら許されること」
でも、
「自分と相手の利益を半分ずつにすること」
でもありません。
よりよく生きるという方向を見失わず、その行為や感情について何がよいのかを考えたうえで、過剰や不足が問題になる場面では、その人と状況にふさわしい中間を判断する。
そこまで含めて、アリストテレスの中庸を理解する必要があります。
ただし、ここにも一つ注意があります。
アリストテレスが何を「よい」「悪い」と判断したのかは、紀元前4世紀の古代ギリシャ社会の中で考えられたものです。
その具体的な価値判断を、現代の私たちがすべてそのまま受け入れなければならない、という意味ではありません。
現代の私たちが中庸から学べる大切な点の一つは、
「自分に都合のよい答えを中庸と呼ぶ前に、そもそもその目的や行動は、よりよく生きることにつながっているのかを問い直す必要がある」
ということです。
では、この限界まで理解したうえで、現代の私たちは中庸をどう使えばよいのでしょうか。
仕事。
勉強。
人間関係。
怒り。
休むこと。
挑戦すること。
次の章では、ここまで学んできた中庸・徳・実践的な知恵・習慣を使って、
「自分の悩みなら、実際に何から考えればよいのか」
を具体的な順番にして考えてみましょう。
第12章 では、どう判断する?
「適切な中間」を見つけるための7つの観点
では、実際に自分が迷ったとき、どうすれば「その状況にふさわしい中間」を考えられるのでしょうか。
最初に、大切なことがあります。
中庸には、「この順番で考えれば、必ず正解が出る」という完全な公式はありません。
人が違えば、状況も違います。
同じ行動でも、相手・目的・時・程度が違えば、ふさわしい答えも変わります。
だからこそ、アリストテレスの倫理学では、具体的な状況を見ながら判断する phronēsis(フロネーシス)――実践的な知恵が重要になります。
それでも、
「何を見ればいいのか、まったくわからない」
というわけではありません。
ここでは、自分に都合のよい答えを中庸だと思い込まないために、7つの観点から判断を整理してみます。
これは、アリストテレス自身が「7つの手順」として示したものではありません。
ここまで見てきた中庸・徳・実践的な知恵の考え方をもとに、現代の私たちが使いやすい形に整理したものです。
まずは、第2章で登場した葵の仕事の悩みを使って、この7つを確かめてみましょう。
そして最後に、第11章で考えた復讐のような、自分では「自分こそ正しい」と強く思いやすい問題でも、この判断のしかたが使えるのかを試してみます。
① まず、「どうしたいか」より「何が実際に起きているか」を見る
最初に見るのは、自分の気持ちではありません。
「今、実際にはどんな状況なのか?」
です。
第2章の葵は、新しい仕事を任されそうになっていました。
以前の葵なら、
「怖い」
「でも断ったら臆病だと思われるかもしれない」
という気持ちから、すぐに、
「引き受けるか」
「断るか」
を考えていたでしょう。
でも、まず見るべきなのは事実です。
たとえば、
自分にはどのくらい経験があるのか。
締め切りまでどのくらい時間があるのか。
仕事の難しさはどの程度なのか。
一人で行う必要があるのか。
助けてもらえる人はいるのか。
失敗した場合、どの程度の影響があるのか。
こうしたことを確認します。
なぜ、最初に事実を見るのでしょうか。
それは、
自分の感情と、実際の状況は同じではないからです。
「怖い」と感じていても、実際には十分な準備時間と支援があるかもしれません。
反対に、
「絶対にできる」
と思っていても、経験が足りず、期限も短く、失敗すれば大きな問題になるかもしれません。
中庸を考える最初の一歩は、
「私はどう感じている?」と「実際にはどうなっている?」を分けることです。
② 「何がしたい?」ではなく、「この状況で何を守る・実現する必要がある?」と考える
次に、目的を考えます。
ただし、
「私は何がしたい?」
だけでは足りません。
なぜなら、
「褒められたい」
「負けたくない」
「復讐したい」
「自分だけ得をしたい」
も、すべて「したいこと」にはなるからです。
そこで問いを少し変えます。
「この状況で、本当に守るべきもの、実現すべきものは何だろう?」
葵なら、
仕事をきちんと完成させること。
必要な経験を積むこと。
周囲へ大きな迷惑をかけないこと。
自分の能力を少しずつ伸ばすこと。
などが考えられます。
ここで、
「勇気がある人だと思われたい」
という気持ちがあったとしても、それと、
「仕事をきちんと完成させながら成長したい」
という目的は分けて考えられます。
目的を考えるとは、自分の欲求に名前をつけるだけではありません。
この状況で、
「本当に何を守り、何を実現する必要があるのか」
を整理することです。
③ その目的は、「目指すに値するもの」なのかを見る
しかし、
「目的が決まった」
だけでは、まだ十分ではありません。
目的そのものが間違っていることもあるからです。
たとえば、
「自分が昇進する」
という目的を持つこと自体は、必ずしも悪いことではありません。
しかし、
「そのためなら同僚をだまして評価を下げてもよい」
となれば、第11章で見た問題が出てきます。
そこで、
「その目的は、徳にかなった、目指すに値するものだろうか?」
と考えます。
ここでいう「よい目的」は、
「自分が得をする目的」
という意味ではありません。
「自分も相手も必ず幸せになる目的」
という意味でもありません。
見るべきなのは、
その目的が、正義・勇気・節制など、アリストテレスが「人間がよく生きるために必要だ」と考えた徳と両立するものなのか、ということです。
ここでいう「人間がよく生きる」とは、単に「本人が満足できる」「自分が勝てる」「生物として生き残り、子孫を残せる」という意味ではありません。
アリストテレスは、人間に特徴的なのは理性を働かせて生きることだと考え、その働きを徳にかなった仕方で十分に発揮することを、人間の善や幸福と結びつけました。
だから、
「私はこれを正義だと思う」
「私にとっては、これがよい生き方だ」
という本人の思いだけで、目的がよいものになるわけではありません。
正義なら、他者との関係で不公平になっていないか。
勇気なら、恐れるべきものと恐れなくてよいものを、状況に応じて適切に判断しているか。
節制なら、欲望にただ振り回されていないか。
そのように、それぞれの徳が何をすぐれたあり方としているのかまで考える必要があります。
ただし、ここにも注意があります。
アリストテレスが考えた「人間にとってのよい生き方」そのものを、現代の私たちが無条件に受け入れなければならないわけではありません。
大切なのは、「自分がよいと思ったから正しい」で終わらず、「そもそも、なぜそれを『よい』と言えるのか」まで問い直すことです。
現代の私たちが考えるなら、
「誰かを不当に傷つけること自体が目的になっていないか」
「嘘や不正を前提にしなければ達成できない目的になっていないか」
「ただ自分が勝つことだけを目的にしていないか」
「この選択を何度も繰り返したら、自分はどんな人になっていくだろうか」
と問い直すことができます。
葵なら、
「失敗する人だと思われたくない」
だけを目的に仕事を引き受けるのか。
それとも、
「責任を果たしながら、新しい経験を積みたい」
と考えるのか。
同じ「挑戦する」でも、そこには違いがあります。
中庸を考えるときには、行動だけではなく、その行動が何を目指しているのかまで見る必要があります。
④ 「何についての過剰と不足なのか」を具体的にする
ここで、ようやく「過剰」と「不足」を考えます。
ただ、
「やりすぎ」
「足りなさすぎ」
と言うだけでは、まだ曖昧です。
まず、
「今回は、何についての過剰と不足を考えているのか?」
をはっきりさせます。
葵の問題なら、
挑戦する度合い。
危険を引き受ける程度。
一人で責任を抱える程度。
助けを求める程度。
などが考えられます。
たとえば、
経験がなくても、何でも一人で引き受ける。
これは過剰になるかもしれません。
反対に、
少しでも失敗の可能性があれば、何も挑戦しない。
これは不足になるかもしれません。
ここで大切なのは、
過剰と不足を見つける目的は、0と100の中央を計算するためではない
ということです。
自分がどちら側に寄りすぎている可能性があるのか。
どんな種類の「やりすぎ」「足りなさすぎ」が起きているのか。
それを知るための目印です。
⑤ 「真ん中はどこ?」ではなく、「状況に釣り合っている?」と考える
では、過剰と不足が見えたら、その中央を選べばよいのでしょうか。
そうではありません。
ここで大切になるのが、
「この反応は、実際の状況に釣り合っているだろうか?」
という問いです。
葵に、
ほとんど経験がない。
締め切りは明日。
一人で担当しなければならない。
失敗すると大きな損害が出る。
という条件がそろっているなら、
「勇気を出して全部一人で引き受ける」
ことは、無謀に近づくかもしれません。
しかし、
ある程度の経験がある。
準備期間も十分にある。
経験者の支援も受けられる。
失敗しても修正できる。
という状況なら、
「怖いから断る」
よりも、挑戦することがふさわしいかもしれません。
つまり、同じ葵でも、
状況が変われば、ふさわしい中間も変わります。
ここで見るのは、
誰に対してなのか。
いつなのか。
何についてなのか。
何のためなのか。
どの程度なのか。
どのような方法なのか。
です。
そして、
問題の重大さ。
危険の大きさ。
自分の能力。
時間。
周囲への影響。
なども見ます。
中庸は、
「いつでも弱めの反応をすること」
ではありません。
重大な問題であれば、強い対応がふさわしいこともあります。
反対に、小さな問題へ必要以上に強く反応すれば、過剰になるかもしれません。
適切な中間を探すときには、「ちょうど50%」ではなく、「この状況の重大さに対して、この感情や行動は釣り合っているか」を見る。
これが大きな判断の手がかりになります。
⑥ 目的だけでなく、「その方法でよいのか」を考える
次に、目的と手段を分けます。
目的がよくても、
そのためなら何をしてもよい、
とはなりません。
葵なら、
「仕事を完成させながら成長したい」
という目的があったとします。
では、そのためには、
「一人で全部抱え込む」
しかないのでしょうか。
そうとは限りません。
経験者に助けを求める。
期限を相談する。
仕事の一部分を担当する。
必要な準備時間をもらう。
という方法もあります。
ここで大切なのは、
必ずAでもBでもないCを見つけなければならない、という意味ではない
ことです。
十分考えた結果、
本当にAかBしかない場合もあります。
ただ、
「引き受けるか、断るか」
と最初から二択だと思い込む前に、
同じ目的へ向かう、もっとふさわしい方法はないか
を一度探します。
中庸は、
AとBを半分ずつ混ぜることではありません。
場合によっては、
最初には見えていなかった別の方法のほうが、その状況にふさわしいことがあります。
⑦ 最後は、「自分が納得できる理由」ではなく、「その判断は別の角度から見ても耐えられるか」を確かめる
ここが、とても重要です。
最後に、
「なぜ私はこれが正しいと思うの?」
と聞くだけでは十分ではありません。
なぜなら、
人は自分の行動に、それらしい理由をつけることができるからです。
「相手が悪いから」
「自分は被害者だから」
「成長するためだから」
「みんなのためだから」
と言えば、どんな行動でも正しく見えてしまうことがあります。
そこで、
自分の理由を、自分だけで採点しない
ようにします。
たとえば、
「自分に都合の悪い事実も含めて考えている?」
「自分と相手の立場が逆でも、同じ基準を使える?」
「怖さや怒りが少し落ち着いたあとでも、同じ判断をする?」
「必要な程度を超えて、自分の感情を満たそうとしていない?」
「信頼できる第三者に、都合の悪いことも隠さず説明したら、どう見える?」
「この選択を繰り返したら、自分はどんな性格の人になっていく?」
と確かめます。
葵なら、
「私は挑戦したいから、きっと大丈夫」
だけで決めるのではありません。
経験のある人に、
「この条件で一人で担当するのは現実的ですか?」
と聞いてみる。
もし自分が上司なら、同じ経験しかない人にこの仕事を一人で任せるか考えてみる。
逆に、
「怖いから無理」
と思っているなら、
本当に能力が足りないのか。
それとも失敗するのが怖いだけなのか。
を考えてみます。
自分の考えを否定するためではなく、自分では見えていない偏りを確かめるために、別の角度から見る。
それが最後の確認になります。

ここまでの7つを、短くするとこうなります。
① 事実――実際には何が起きている?
② 課題――何を守る・実現する必要がある?
③ 目的――その目的は、徳にかなった目指すに値するもの?
④ 過剰と不足――何について、やりすぎ・足りなさすぎが起きている?
⑤ 釣り合い――その状況の重大さに対して、感情や行動はふさわしい?
⑥ 手段――その目的へ向かう方法そのものもふさわしい?
⑦ 検証――自分に都合のよい理由になっていないか、別の角度から確かめた?
ここまでなら、日常の仕事の悩みでも使いやすそうです。
でも、本当に難しいのは、
自分が「絶対に自分は正しい」と思っているときではないでしょうか。
そこで、第11章の復讐の例でも確かめてみましょう。
応用して考えてみよう|「これは正義だ」と思っているときにも使える?
たとえば、親が誰かに不当に陥れられたとします。
あなたは相手を強く憎み、
「同じように陥れ返してやる」
と考えています。
しかも、
「これはただの復讐ではない」
と思っています。
「悪い人に責任を取らせるのだから正義だ」
「相手がいなくなれば、周囲の人も安全になる」
「親の無念も晴らせる」
「だから、自分にも周囲にもよい結果になる」
と考えているとします。
こうなると、
自分のなかではかなり筋が通っているように感じるかもしれません。
だからこそ、先ほどの7つを使います。
まず、①事実。
「相手は悪人だ」
という評価から始めるのではありません。
本当に何をしたのか。
証拠はあるのか。
どの程度の被害を与えたのか。
自分が知らない事情はないのか。
を確認します。
次に、②課題と③目的。
本当に回復したいのは何でしょうか。
親の名誉なのか。
失ったものなのか。
事実なのか。
再発を防ぐことなのか。
それとも、
「相手にも同じ苦しみを味わわせたい」
ということなのか。
ここを分けます。
「不正を正すこと」と、
「相手を苦しませて自分が満足すること」
は同じではありません。
そして、④過剰と不足、⑤釣り合い。
何もしないことで被害が続くなら、
何もしないことがふさわしいとは限りません。
強く抗議したり、責任を求めたりする必要がある場合もあります。
しかし、
必要な責任を超えて、
相手の人生そのものを破壊することを目的にするなら、
実際に起きたことと反応の大きさが釣り合っているのかを考える必要があります。
重大な不正なら、強い対応が必要になることがあります。
だから、
「強い行動=過剰」ではありません。
見るべきなのは、
その強さが、実際の問題にふさわしいかどうかです。
次に、⑥手段。
「不正を正したい」
という目的だったとしても、
そのために嘘を作り、
相手を陥れ返すことまで正しくなるわけではありません。
事実を明らかにする。
被害の回復を求める。
第三者に相談する。
正式な方法で責任を求める。
再発を防ぐ。
という方法もあります。
目的がよいからといって、
手段まで自動的によいものになるわけではありません。
最後に、⑦検証。
「相手が悪いから」
だけで判断を終わらせません。
もし立場が逆だったとしても、
同じ責任の求め方を公平だと思えるか。
怒りが少し収まったあとでも、
同じ行動が必要だと思うか。
信頼できる第三者に、
自分に不利な事実もすべて話したとしても、
「その対応は必要な程度だ」
と言えるか。
そこまで確かめます。
こうして見ていくと、
中庸は、
「何もしない」
と、
「徹底的に復讐する」
の中央ではないことが、よりはっきりします。
また、
「自分は正義だと思っている」
というだけで、中庸になるわけでもありません。
何が実際に起きているのかを見て、何を守り回復する必要があるのかを考え、目的・感情・手段・行動の強さが、その状況にふさわしく釣り合っているかを判断する。
それでも、
「これが絶対の正解だ」
とは言い切れない場合があります。
ここが、中庸の難しいところです。
この7つは、
正しい中庸を自動的に計算するための公式ではありません。
具体的な状況は、一つひとつ違うからです。
同じ怒りでも、
何が起きたのか。
誰に対するものなのか。
どのくらい重大なのか。
何を目的としているのか。
によって、ふさわしい程度は変わります。
だからこそ、実践的な知恵が必要になります。
では、この7つには何の意味があるのでしょうか。
この7つは、「正解を自動的に出すため」ではなく、「自分に都合のよい答えを中庸だと思い込まないため」の判断の手がかりです。
中庸を見極めるときには、
いきなり、
「真ん中はどこ?」
と探すのではありません。
まず事実を見る。
何を守るべきかを考える。
目的を確かめる。
何について過剰や不足があるのかを見る。
事態との釣り合いを考える。
手段を確かめる。
そして、自分の判断を別の角度からもう一度見る。
そうして、
「この人、この時、この目的、この状況では、どのような感情と行動がふさわしいのか」
を判断していきます。
中庸とは、この7つの問いそのものではありません。
中庸は、過剰と不足のあいだにある、その人と状況にふさわしい「適切な中間」です。
この7つは、その中庸を見極めるための手がかりなのです。
そして、一度判断したら終わりでもありません。
実際に行動したあと、
「少し強すぎたかもしれない」
「もっと早く動くべきだった」
「一人で抱え込まず、助けを求めてよかった」
「目的はよかったけれど、方法はもっと考えられた」
と振り返ることがあります。
中庸は、一度で完璧な答えを当てて終わるものではありません。
実際に行動し、振り返ることで見えてくることもあります。
考える。
選ぶ。
行動する。
振り返る。
そして、次に生かす。
その積み重ねが、よりふさわしい判断へ近づく経験となり、これまで見てきた習慣・徳・実践的な知恵にもつながっていきます。
第13章 おまけコラム
同じ「中庸」でも同じ意味じゃない?――儒教の『中庸』

ここまでの記事で扱ってきたのは、アリストテレスの「中庸」です。
ところが、日本語で「中庸」と調べてみると、もう一つ有名な「中庸」が出てきます。
それが、中国の儒教で重要な書物となった『中庸(ちゅうよう)』です。
同じ「中庸」という言葉なので、
「アリストテレスと儒教は、同じ考えをしていたの?」
と思うかもしれません。
実は、同じ「中庸」という言葉で表されていても、二つは同じ思想ではありません。
では、儒教の『中庸』とは、どんな考えなのでしょうか。
儒教の『中庸』は、もともと中国の古典『礼記(らいき)』の一篇として伝えられてきた文章です。
伝統的には、孔子の孫である子思(しし)に結びつけられてきましたが、現在の文章を子思一人がそのまま書いたと断定できるわけではありません。
その後、南宋の儒学者である朱熹(しゅき/1130~1200年)が、『論語』『孟子』『大学』とともに『中庸』を重視し、「四書」の一つとして大きな影響力を持つようになりました。
では、「中庸」という二文字には、どのような意味があるのでしょうか。
まず「中」です。
ここでの「中」は、単純に、
「左と右の真ん中」
「50対50」
という意味ではありません。
偏りすぎず、過ぎることも足りないこともなく、その時その場にふさわしいあり方にかなっていることが大切になります。
そして、もう一つが「庸」です。
儒教、とくに朱熹の解釈では、「庸」は「平常」――日常のなかで当たり前に行われることという意味で説明されます。
別の儒学の伝統では、「変わらず保たれる」「常である」という意味も重視されてきました。
つまり「中庸」は、
一度だけ絶妙な答えを当てればよい、という考えではありません。
その時その場にふさわしい「中」を、日々の生活のなかで実践していくことまで含んでいます。
たとえば、朱熹の説明にはこんな例があります。
暑い夏なら、薄着をして涼しく過ごす。
寒い冬なら、厚着をして暖かく過ごす。
夏と冬では、することは正反対です。
でも、どちらもその時の状況にふさわしい。
だから「中」にかなっています。
そして、それは特別な奇抜な行動ではなく、その時なら当然行う「平常」のことでもあります。
このように考えると、
「中」=その時にかなった適切さ。
「庸」=その適切さを、日常の道として行うこと。
と考えるとわかりやすいでしょう。
だから儒教の「中庸」も、
「いつでも同じ真ん中にいる」
という思想ではありません。
後の儒学で重視された「時中(じちゅう)」という考え方では、
その時、その状況に応じて「中」にかなうこと
が大切だとされます。
昨日ふさわしかった行動が、今日も必ずふさわしいとは限りません。
相手が変われば、対応も変わるかもしれません。
状況が変われば、言うべきことや行動の程度も変わります。
変わる状況のなかで、その時にかなった適切さを見つけ、それを日々の生き方として実践する。
そこに、儒教の「中庸」という言葉の大切な意味があります。
『中庸』の冒頭では、そのことを考える入り口として、
喜び・怒り・悲しみ・楽しみ
といった感情が出てきます。
感情がまだ表に現れていない状態を「中」。
感情が生じたとき、それぞれがふさわしい節度にかなっている状態を「和」。
と説明します。
ここだけを見ると、
「儒教の中庸って、怒りなどの感情を上手にコントロールする考えなの?」
と思うかもしれません。
でも、怒りはあくまで一つの例です。
儒教の『中庸』が考えている範囲は、もっと広いものです。
どのように感情を表すのか。
どのように人と関わるのか。
自分自身をどのように修めるのか。
家族や社会の中でどう振る舞うのか。
自分の心と行動をどのように整えるのか。
そうしたものを考えるうえで、儒教の『中庸』では「道(みち)」や「和(わ)」という考えも大切になります。
ここでいう「道」とは、単なる道路のことではありません。
かなり噛み砕いて言えば、「人がどのように生き、どのように振る舞うのがよいのかという、生き方の筋道・道理」のことです。
『中庸』では、人に与えられた「性(せい)」――その人に本来的に備わっている性質やあり方――に従って生きることを「道」と呼び、その道は日常のなかで離れることのできないものだと考えます。
そして「和」は、ただ「みんな仲良くする」という意味ではありません。
感情が動いたときに、それがその場にかなった適切な形で表れ、調和していることを表します。
つまり儒教の『中庸』では、自分の心や行動、人との関わりを、「どのように生きるのが道にかなっているのか」「感情や行動をどう表せば和につながるのか」というところまで含めて考えていきます。
たとえば、誰かから失礼なことを言われたとします。
儒教の中庸だから、
「怒ってはいけない」
というわけではありません。
反対に、
「腹が立ったのだから、好きなだけ怒っていい」
というわけでもありません。
何が起きたのか。
誰との関係なのか。
どのような場面なのか。
今ここで、どのように感情を表すことがふさわしいのか。
そうしたことを考えながら、感情や行動がその場にかなった形で表れることを重視します。

ここで、「和」について一つ注意しておきたいことがあります。
「誰とも争わない」
「何でも相手に合わせる」
という意味ではありません。
必要なことを言うべき場面では、言う必要があるでしょう。
ただし、自分の感情だけに流されず、人との関係やその場のあり方まで含めて、ふさわしい形を探していく。
そこに儒教の中庸らしさがあります。
では、アリストテレスの中庸と何が違うのでしょうか。
似ているところはあります。
アリストテレスも、
「怒るならいつでも弱く怒る」
とは考えていませんでした。
誰に。
いつ。
何について。
何のために。
どの程度。
どのように。
という具体的な状況に応じて、感情や行動の適切さを考えます。
その意味では、両方とも、
「数字上の真ん中ではなく、その場に応じたふさわしさを考える」という点で、似て見える部分があります。
しかし、思想全体を見ると違いがあります。
アリストテレスでは、感情や行動の過剰と不足のあいだにある適切な中間と、それを選べる徳ある人格
が大きな問題になっていました。
勇気なら、
臆病という不足と、
無謀という過剰のあいだで、
その状況にふさわしい勇気を考える。
そして、そうした判断や行動を繰り返し選べる人格を徳として考える。
これまでの記事で見てきた中庸です。
一方、儒教の『中庸』は、「二つの悪徳のあいだを探す」という形だけで理解するものではありません。
人間の本性。
人としての道。
自分を修めること。
人との関係。
感情と行動。
そして「和」。
そうしたものが大きくつながっています。
つまり、かなり簡単に整理すると、
アリストテレスの中庸は、「過剰と不足のあいだで、徳にかなった適切な中間をどう選ぶか」という問題が中心。
儒教の中庸は、「自分の心・感情・行動・人との関係を、その時その場にふさわしく整え、人としての道と和にかなう生き方をどう実現するか」という、より広い問題につながっています。
もちろん、これは比較するための大まかな整理です。
どちらの思想も、実際にはもっと深い内容を持っています。
では、儒教の中庸が考える、
「その時、その場にふさわしい生き方」とは何でしょうか。
一言でいえば、
自分の感情や欲望だけに流されず、かといって感情をすべて押し殺すのでもなく、人との関係やその時の状況を見ながら、道にかなったふさわしい行動を選び、それを「和」へつなげていく生き方
と考えることができます。
だから、中庸は「何もしない人」になるための思想ではありません。
その場に応じて、
言うべきことを言う。
譲るべきところでは譲る。
行動すべきときには行動する。
感情を表すべきときには表す。
しかし、偏りや過不足に流されない。
いつでも同じ答えを選ぶのではなく、その時にかなった答えを選ぶこと。そこに儒教の「中庸」の大切な一面があります。
そして、ここで一つ面白いことがあります。
なぜ、アリストテレスの思想と儒教の思想が、日本語ではどちらも「中庸」と呼ばれているのでしょうか。
実は、儒教の『中庸』は日本語に翻訳されて「中庸」になったわけではありません。
「中庸」は、もともと中国で使われていた言葉です。
一方、アリストテレスが使ったギリシャ語の mesotēs(メソテース=中間性・中間にあること) などを日本語で表すときにも、「中庸」という語が使われています。
つまり、
儒教の「中庸」が先にあり、アリストテレスの「中間」の思想を日本語で表すときにも、同じ「中庸」という漢語が使われるようになった
という違いがあります。
なぜ同じ語が使いやすかったのでしょうか。
二つの思想には、
「極端へ偏らない」
「過ぎることと足りないことを問題にする」
「単純な数字の中央ではなく、ふさわしさを重視する」
といった、似て見える部分があります。
そのため、日本語でアリストテレスの「中間」の思想を表すときにも、「中庸」という言葉が理解しやすい訳語として使われてきたと考えることができます。
ただし、
同じ「中庸」という日本語になったからといって、二人がまったく同じ思想を考えていたわけではありません。
むしろ面白いのは、
同じ「中庸」という言葉を入り口にして、
古代ギリシャでは、
「徳にかなった適切な中間とは何か」
を考え、
古代中国の儒教では、
「人の心や行動が、その時その場にかなって和へ向かうとはどういうことか」
を考えていたことです。
同じ二文字なのに、その奥には二つの異なる哲学があります。
「中庸」という言葉を知ることは、“真ん中”を一つ覚えることではなく、人間はどうすれば状況にふさわしく生きられるのかという、二つの大きな問いへの入口でもあるのです。
第14章 まとめ・考察
「ちょうどいい」は、いつも同じ場所にはない
ここまで、アリストテレスの「中庸」について見てきました。
中庸とは、
感情や行動の過剰と不足のあいだにある、その人と状況にふさわしい「適切な中間」です。
ただし、それは数字で測れる50%地点ではありません。
自分にとって楽な場所でもありません。
自分だけが得をする場所でもなく、誰かと誰かの意見を半分ずつ混ぜた妥協点でもありません。
そのときの相手。
目的。
状況。
程度。
方法。
そうしたものを見ながら、何がふさわしいのかを判断する必要があります。
考えてみると、私たちは普段から、
「少しやりすぎたかもしれない」
「もう少しやっておけばよかった」
と感じることがあります。
仕事を引き受けすぎて疲れてしまった。
失敗が怖くて、挑戦しなかった。
言いたいことを我慢し続けて、あとから苦しくなった。
反対に、腹が立って言いすぎてしまった。
こんな経験は、誰にでもあるかもしれません。
そんなとき中庸を知っていると、
ただ、
「次はほどほどにしよう」
と考えるだけではなく、
「何について、やりすぎたのだろう?」
「何が足りなかったのだろう?」
「あの状況では、どのくらいがふさわしかったのだろう?」
と考えることができます。
ここで、中庸について一つおもしろいことがあります。
私たちは「ちょうどいい」と聞くと、
どこかに一つの正解があって、
そこを見つければ終わりだと思いがちです。
でも、中庸はそうではありません。
昨日ふさわしかったことが、今日もふさわしいとは限りません。
経験が増えれば変わります。
立場が変われば変わります。
相手が変われば変わります。
状況が重大になれば、以前より強く行動することがふさわしい場合もあります。
中庸は固定された「真ん中」ではなく、変化する状況のなかで、そのつど見極める必要がある「適切な中間」です。

だから、中庸を知ることは、
「人生ではいつも真ん中を選びましょう」
という教訓を覚えることではないのでしょう。
むしろ、
「自分が今選ぼうとしているものは、本当にこの状況にふさわしいのか」
と考えるための視点を持つことなのだと思います。
そしてそれは、最初に「これが正しい」と思った答えを、そのまま最終的な答えにしないことでもあります。
状況や目的をもう一度見直してみると、最初には見えていなかった「ふさわしい選び方」が見つかることもあるからです。
あなたにも、
「これくらいが自分にはちょうどいい」
と思っているものはありませんか。
仕事。
勉強。
人間関係。
怒ること。
休むこと。
挑戦すること。
その「ちょうどいい」は、
本当に今のあなたと、その状況にふさわしいものでしょうか。
それとも、
昔からそうしてきたから、
なんとなく「ちょうどいい」と思っているだけでしょうか。
あなたが今「ちょうどいい」と思っているものは、本当に“ちょうどいい”のでしょうか。
第15章 疑問が解決した物語
「挑戦するか、断るか」だけじゃなかった
あの日から、葵はもう一度考えていました。
目の前には、新しい仕事があります。
以前の葵なら、
「引き受けるか」
「断るか」
の二つだけを考えていたでしょう。
挑戦すれば勇気がある。
断れば逃げている。
そう思っていたからです。
でも今回は、すぐに答えを出しませんでした。
まず、今の状況を見てみました。
前回とは違って、準備する時間があります。
わからないことを相談できる人もいます。
仕事のすべてを、一人で抱える必要もありません。
不安はあります。
でも、
「不安があるから無理」
とも、
「怖くても全部一人でやるのが勇気」
とも思わなくなっていました。
葵は、自分に問いかけます。
「私は、何のためにこの仕事を引き受けたいんだろう?」
勇気があると思われたいから?
断った人だと思われたくないから?
それとも、
きちんと仕事を完成させながら、自分も新しい経験を積みたいから?
考えてみると、葵が本当にしたかったのは、
「無理をして一人で頑張ったことを証明すること」ではありませんでした。
仕事をきちんとやり遂げること。
そして、できることを少しずつ増やしていくこと。
それが、今の葵にとって目指したいことでした。
そこで葵は、上司にこう伝えました。
「挑戦してみたいです。ただ、最初の部分だけ経験のある方に確認してもらえますか?」

以前なら、そんなことを言うのは、
「弱さを見せること」
のように感じていたかもしれません。
でも今は違います。
何でも一人で抱え込むことが、必ず勇気になるわけではない。
反対に、怖いからすべて避けることが、慎重さになるわけでもない。
今の自分の経験、準備できる時間、周囲の助け、仕事の責任まで見たうえで、何がふさわしいのかを考える。
葵は、そこに以前とは違う選び方があることに気づきました。
仕事が始まってからも、不安がなくなったわけではありません。
途中でわからないこともありました。
そのたびに確認し、ときには助けを求めました。
そして、最後まで仕事を終えたとき、葵は思いました。
「挑戦したから正解だった、ということでもないんだ」
もし準備する時間がなかったら。
相談できる人がいなかったら。
失敗したときの影響がもっと大きかったら。
そのときは、断ることや延期を相談することのほうが、ふさわしかったかもしれません。
葵が見つけたのは、
「挑戦すると勇気、断ると臆病」という答えではありませんでした。
そして、
「挑戦」と「断る」のちょうど50%にある答えでもありませんでした。
そのときの自分と状況を見ながら、理由を持って選べる「ふさわしさ」がある。
それが、葵が中庸を知ってわかったことでした。
最初に葵が抱えていた、
「挑戦することが、いつでも勇気なの?」
という疑問。
今なら、こう答えられそうです。
いいえ。挑戦すること自体が、いつでも勇気なのではありません。
怖さ、危険、目的、自分の力、周囲の状況を見ながら、
必要なときに進み、
必要なときには助けを求め、
必要なら断る。
その状況にふさわしい行動を選べることが、勇気や中庸を考えるうえで大切なのです。
そして、もう一つの問い。
「今の私にとって、ふさわしい選び方って何だろう?」
この問いには、いつでも同じ答えがあるわけではありません。
だからこそ葵は、これからも迷うでしょう。
でも、以前とは一つ違います。
すぐに、
「やるか、やらないか」
だけで決めるのではなく、
「今の状況では、何がふさわしいだろう?」
と考えられるようになりました。
では、あなたならどうでしょうか。
今、
「やるべきか、やめるべきか」
「言うべきか、黙るべきか」
「頑張るべきか、休むべきか」
と迷っていることはありませんか。
その二つのあいだで、ただ真ん中を探すのではなく、
今のあなたと、その状況にふさわしい選び方は何でしょうか。
第16章 文章の締めとして

中庸について考えていると、私たちはつい、
「正しい答えを見つけたい」
と思ってしまいます。
けれども、人生の中には、すぐに答えを決められないこともあります。
進んだほうがいいのか。
立ち止まったほうがいいのか。
言ったほうがいいのか。
黙っていたほうがいいのか。
頑張ったほうがいいのか。
休んだほうがいいのか。
そんなとき、最初に思いついた答えだけで決めず、
「今、この状況では何がふさわしいのだろう」
と、もう一度考えてみる。
その小さな立ち止まりが、これまでとは少し違う選択につながることもあるのだと思います。
中庸は、迷わなくなるための答えではないのかもしれません。
むしろ、迷ったときに自分の感情や目的、相手や状況をもう一度見つめるための、一つの手がかりなのではないでしょうか。
この記事を読み終えたあと、あなたの日常のどこかで、
「これは本当に、今の自分にふさわしいだろうか」
と考える瞬間が一度でも生まれたなら、中庸という哲学は、少しだけ身近なものになったのかもしれません。

補足注意
この記事は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』の原文・翻訳や、信頼できる研究・解説をもとにや、著者が個人で確認できる範囲の情報を整理し、初心者にもわかりやすい形でまとめたものです。
哲学には、一つの言葉や文章について複数の解釈があり、研究者によって見方が異なる場合もあります。また、この記事で紹介した日常の具体例や判断のしかたには、原典の内容をもとに現代の生活へ応用して考察した部分も含まれています。
そのため、この記事の説明が唯一の正解というわけではありません。
今後、研究や翻訳、原典の解釈がさらに深まることで、これまでとは違う理解や新しい視点が示される可能性もあります。
🧭 本記事のスタンス
この記事は、「これが答えです」と考えるためではなく、「もっと知りたい」「自分ならどう考えるだろう」と哲学を始めるための入り口として書いています。
ぜひ、ほかの解釈や異なる立場にも触れながら、あなた自身でも考え続けてみてください。
このブログで「中庸」に興味がわいたなら、ここで学びを“中途”にせず、「中庸」の“中”からさらに奥へ――原典や文献にも触れながら、あなた自身の問いとともに、その意味を深く、学びも深く、掘り下げてみてください。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
アリストテレスの中庸は、「正解の真ん中」を探すことよりも、変わり続ける自分と状況のなかで、そのつど何がふさわしいのかを考え続けることの大切さを教えてくれているのかもしれません。


コメント