「人はいつか死ぬ」と知っているのに、なぜ自分の死は遠く感じられるのでしょうか。ハイデガーの「死への存在」を通して、死と生き方の関係を、身近な例から丁寧に読み解きます。

5秒でわかる結論
『死への存在』とは、いつ訪れるかわからない自分の死と、切り離せずに生きている人間のあり方を表す哲学の考え方です。
噛み砕いて言うと
私たちは、今度の休みに何をしようか、来月はどこへ行こうかと、これからの予定を考えながら暮らしています。
そのとき、これからも自分の毎日が続いていくことを、ごく自然に思い浮かべているのではないでしょうか。

けれども、人間の命には必ず終わりがあり、それがいつ訪れるのかは誰にもわかりません。
そして、自分の人生を、ほかの誰かに代わって生きてもらうこともできません。
ドイツの哲学者マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger、1889〜1976年)は、人間が生きることと、自分の死という避けられない可能性は、切り離して考えられないと捉えました。
ここで大切なのは、毎日死を怖がったり、死ぬことばかり考えたりするという意味ではないことです。
いつか自分も死ぬということを、ただの知識ではなく、自分自身に関わることとして受け止める。そのことが、自分はどう生きるのかを考えることにもつながるのです。
この記事を読むとわかること
昔の写真を見返して、「あれから、もうこんなに時間がたったのか」と驚いたことはありませんか。
あるいは、誰かが亡くなったという知らせを聞いて、「自分の人生にも、いつか終わりが来るんだな」と、ふと考えたことはないでしょうか。
普段はあまり考えないことなのに、そんな瞬間には、自分が生きている時間について不思議な気持ちになるかもしれません。
また、進路や仕事など、大切なことを決めるときに、「みんながそうしているから」と選んだあとで、「本当は自分はどうしたかったのだろう」と感じることもあるでしょう。
こうした疑問は、一見すると別々の問題に見えます。
しかし、ハイデガーの哲学では、人間がいつか死ぬということと、自分自身の生き方をどう引き受けるかということが、深く関係しています。
この記事では、次の疑問を一つずつ解き明かしていきます。
「死への存在」とは、どういう意味なのか? なぜ人間は、自分の死という可能性と切り離して生きることができないのか。
ハイデガーは、なぜ人間の死を重要な問題として考えたのか? 自分の死が誰にも代わってもらえないことは、人間の存在とどのように関係しているのか。
なぜ私たちは、自分の死を遠い未来の出来事として考えるのか? ハイデガーが考えた「ダス・マン」とは何か。世間一般の考え方と、自分自身の生き方にはどのような関係があるのか。
「死への存在」は、人生を大切にするという教えなのか? 死を恐れることや、後悔しない人生を送ろうとすることと、ハイデガーの哲学にはどのような違いがあるのか。
この記事の主役は、ハイデガーが『存在と時間』で論じた「死への存在」という哲学の考え方です。
自分の死がなぜ人間の存在を理解するうえで重要なのかを学びながら、死と向き合うことが、自分自身の生き方を考えることとどのようにつながるのかを、一緒に考えていきましょう。
疑問が生まれた物語
10年後の自分に手紙を書くなら
放課後の教室で、小学5年生の結菜(ゆな)と陸(りく)は、「10年後の自分へ」という手紙を書いていました。
「10年後かあ。わたし、どんな大人になっているんだろう」
結菜は、白い便せんを見つめながら考えています。
「ぼくは世界中を旅行していたいな。いろんな国に行って、見たことのない景色を見たい!」
陸は楽しそうに鉛筆を走らせました。
結菜も笑いながら、将来やってみたいことを書き始めます。
けれども、途中でふと手を止めました。
「ねえ、陸。10年後って、当たり前に来ると思っているけど、10年後の自分が必ずいるとは限らないんだよね」
「えっ? どういうこと?」
「だって、人間はいつか死ぬでしょう。でも、それがいつなのかは誰にもわからないよね」
陸は、書きかけの手紙に目を落としました。

「そうか……。ぼく、10年後も普通に生きていると思って書いていたよ」
少し考えてから、陸が尋ねました。
「でもさ、いつか死ぬってことは、誰でも知っているよね。それをわざわざ考えることに、何か意味があるのかな?」
「わたしも、それが気になる。自分がいつか死ぬって考えると、今の生き方も変わるのかな?」
二人は、その疑問について調べてみることにしました。
学校の図書室で哲学の入門書を開くと、そこにはドイツの哲学者ハイデガーが考えた「死への存在」という言葉が紹介されていました。
「死への存在……?」
陸はその言葉をゆっくり読みます。
「人間はいつか死ぬっていう意味なのかな?」
結菜は、もう一度その言葉を見つめました。
「でも、それだけなら、みんな知っているよね。どうして哲学者は、わざわざこんな言葉を使って考えたんだろう?」
「死への存在」とは、いったい何を意味するのでしょうか。
そして、自分の死を考えることは、今を生きている私たちと、どのように関係しているのでしょうか。
1 『死への存在』とは?
「死への存在」とは、人間が、生きている今も、自分の死という避けられない可能性と関わりながら存在していることを表す哲学の考え方です。
この言葉は、ドイツ語の Sein zum Tode(ザイン・ツム・トーデ、「死に向かう存在」という意味に近い言葉)から来ています。
日本語では「死への存在」のほかに、「死に臨む存在」などとも訳されます。
ここでいう「存在」とは、ただ物がそこにあるという意味ではありません。
私たち人間が、何かを考えたり、行動したり、これからどう生きるかを選んだりしながら、この世界で生きていることに関係しています。
では、「死への存在」の「死」は、どのように関わってくるのでしょうか。
例えば、私たちは新しいことを学んだり、将来やってみたいことを考えたりします。
それは、自分がこれからも生きて、何かをできると思っているからです。
しかし、死を迎えれば、それまでのように新しいことを学んだり、自分で何かを選んだりして生き続けることはできなくなります。
ハイデガーは、死を単に命が終わる出来事としてだけでなく、自分がこれから生きて何かをすること、そのものができなくなる可能性としても考えました。
ここでいう「可能性」とは、死ぬか死なないかがわからないという意味ではありません。死は誰にも避けられず、いつ訪れるかもわかりません。
そして大切なのは、死が訪れるその瞬間だけでなく、まだ生きている今も、私たちはその可能性と切り離されていないということです。

だからこそ、「死への存在」は、死が近づいた人や、死について考えている人だけを指す言葉ではありません。
また、「死に向かう」という表現も、死ぬことを目標にしたり、早く死のうとしたりする意味ではありません。
つまり、「死への存在」とは、いつか死ぬという知識だけではなく、自分の死という可能性が、今を生きている自分にも関わっているという、人間のあり方を表す言葉です。
さらにハイデガーは、自分の死を、ただ「誰もがいつか死ぬ」という一般的な話として済ませるのではなく、誰にも代わってもらえない自分自身の可能性として引き受けることを重要視しました。
自分の死をそのように引き受けることは、周囲の人々の考えにただ従うのではなく、自分がどう生きるかを、自分自身の問題として引き受ける可能性を開くと考えたのです。
ただし、死を意識すれば必ず望みどおりの人生を送れるという意味ではありません。この関係については、後の章で詳しく説明します。
次の章では、この考えを論じたマルティン・ハイデガーが、どのような人物だったのかを紹介します。
2 マルティン・ハイデガーとは?
マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger)は、「存在するとはどういうことなのか」という根本的な問いに取り組んだ、20世紀のドイツの哲学者です。

1889年(明治22年)9月26日、現在のドイツ南西部にあるメスキルヒという小さな町に生まれ、1976年(昭和51年)5月26日、ドイツのフライブルクで亡くなりました。
ハイデガーは、キリスト教の一つであるカトリックの信仰が身近にある家庭で育ちました。
父親は、木のたるを作る職人であると同時に、地元の教会で礼拝の準備や建物の世話などをする仕事にも携わっていました。
ハイデガーも若いころは、教会で宗教的な仕事をする道を考えていました。
1909年(明治42年)、ドイツ南西部のフライブルク大学に入り、神学(しんがく)などを学び始めます。
神学とは、神や信仰、宗教の教えについて研究する学問です。
その後、ハイデガーは哲学や数学、自然科学などへも学びを広げ、1913年(大正2年)には哲学の研究で博士号を取得しました。博士号とは、大学が専門的な研究成果を認めて授けるものです。
では、ハイデガーは哲学で何を知ろうとしたのでしょうか。
彼が中心的な問題として考えたのは、私たちが普段当たり前のように使っている「存在する」「ある」ということが、そもそも何を意味しているのかという問いでした。
このような問題を考える哲学の分野を、存在論(そんざいろん)といいます。
存在論は、単に何が存在しているのかを調べるだけではありません。
例えば、「教室に机がある」という事実を確認することと、そもそも机や人間が「存在する」とはどういうことなのかを考えることは、違う問いです。
ハイデガーは、こうした「存在する」ということ自体の意味を問い直そうとしました。
その研究で重要になったのが、現象学(げんしょうがく)という哲学の方法です。
現象学とは、私たちが物事を実際にどのように経験し、どのようなものとして理解しているのかを、丁寧に調べる哲学の方法です。
身近な例として、鉛筆を考えてみましょう。
鉛筆の長さや重さを調べることもできますが、普段の私たちは、鉛筆を文字や絵を書くための道具として使っています。
このように、物事が私たちの日常生活の中でどのような意味を持ち、どのように関わっているのかを考えることも、ハイデガーの研究を理解する手がかりになります。
これは説明のための例であり、ハイデガー本人がこの鉛筆の例を使ったという意味ではありません。
ハイデガーは、現象学を発展させた哲学者エトムント・フッサール(Edmund Husserl、1859年〈安政6年〉4月8日〜1938年〈昭和13年〉4月27日)のもとでも研究しました。
フッサールは、ドイツで活躍し、物事が私たちの経験にどのように現れるのかを研究した人物です。ハイデガーは1919年(大正8年)から、フライブルク大学でフッサールの助手として働きました。
その後、1923年(大正12年)にはドイツ中部のマールブルク大学で哲学を教えるようになります。
そして1927年(昭和2年)、代表作『存在と時間』(Sein und Zeit〈ザイン・ウント・ツァイト〉、「存在と時間」という意味)を発表しました。
『存在と時間』は、人間が日常生活の中でどのように生き、時間とどのように関わっているのかを詳しく考えることで、「存在する」ということの意味を明らかにしようとした哲学書です。
今回の記事で紹介する「死への存在」も、この本の中で論じられています。
翌1928年(昭和3年)、ハイデガーはフライブルク大学に戻り、哲学の教授として研究と教育を続けました。
ただし、彼の生涯には、哲学上の業績とは別に、見過ごすことのできない歴史的な問題もあります。
1933年(昭和8年)、ハイデガーはナチ党に入党し、フライブルク大学の総長になりました。
ナチ党とは、当時のドイツで独裁政治を進め、ユダヤ人をはじめとする人々への差別や迫害を行った政党です。
ハイデガーは総長として、大学をナチ党の方針に沿わせる動きに関わりました。
1934年(昭和9年)には総長を辞任しましたが、ナチ党には1945年(昭和20年)の政権崩壊まで所属していました。
こうした政治的な関わりは歴史的な事実であり、彼の哲学とどのような関係があるのかについても、現在まで研究や議論が続いています。
ハイデガーは、人間が日常生活で何を経験し、どのように生きているのかを手がかりに、「存在するとは何か」を問い直した哲学者です。
そして、その研究の中で、人間の存在を理解するには、自分の死という避けられない可能性についても考える必要があると論じました。
では、なぜ人間の存在を理解するために、死を考える必要があったのでしょうか。
次の章では、『存在と時間』でハイデガーがどのように考えを進めたのかをたどりながら、その理由を詳しく説明します。
3 ハイデガーはなぜ自分の死を重要だと考えたのか?
ハイデガーが死を重要な問題と考えたのは、人間の存在を理解するには、今の姿だけでなく、これから生きる可能性と、その終わりまで含めて考える必要があると捉えたからです。
ハイデガーは『存在と時間』の中で、私たち人間の存在を調べるために、「現存在(げんそんざい)」という言葉を使いました。
現存在は、ドイツ語の Dasein(ダーザイン、一般には「存在していること」を意味する言葉)を訳したものです。
ハイデガーがこの言葉で表そうとしたのは、単に体を持って生きている人間ではありません。
私たちは、自分がどのように生きているのか、これからどう生きていくのかという問題に関わりながら存在しています。
例えば、私たちは学生や社会人など、今の立場だけで生きているわけではありません。
これまでの経験をもとに、今できることに取り組み、これから何ができるのかという可能性を持って生きています。
将来について深く考えていないときでも、私たちは何かをしながら、次にできることへと向かっています。
ハイデガーは、このような人間の存在のあり方を、現存在という言葉で考えようとしました。
さらに、人間は周囲の世界と切り離されているわけではありません。
そこで重要になるのが、「世界内存在(せかいないそんざい)」という考え方です。
原語は In-der-Welt-sein(イン・デア・ヴェルト・ザイン、「世界の中に存在すること」という意味)です。
ここでいう「世界」とは、単に地球や、私たちがいる場所を指すのではありません。
人間は、周囲の人や物事と関わり、それぞれの活動に意味を見いだしながら生きている、ということです。
例えば、学校で友達と壁新聞を作る場面を考えてみましょう。
友達と相談し、必要な資料を集め、記事を書き、完成した新聞を誰かに読んでもらおうとします。
そこでは、友達や道具との関わりだけでなく、完成させたいという目的や、これから行うことも、今の活動につながっています。
これは世界内存在を理解するための、この記事独自の例です。

このように考えると、人間は今この瞬間の姿だけでなく、まだ実現していない未来の可能性とも関わりながら生きていることがわかります。
しかし、ここで一つの難しい問題が生まれます。
まだ未来に向かって生きている人間の存在を、死という可能性まで含めて理解するには、どう考えればよいのでしょうか。
ハイデガーは『存在と時間』で、この「人間の存在の全体」を理解する問題に取り組みました。
ここでいう「全体」とは、生まれてから死ぬまでの出来事を順番に並べることではありません。また、立派な人生を完成させるという意味でもありません。
これまでの経験や今置かれている状況があり、これからの可能性に向かって生きている人間を、死という避けられない可能性も含めて理解することが問題なのです。
生きている間、人間にはまだ「これから」が残っています。
けれども、死を迎えたときには、その人自身が生きながら、自分の人生の終わりを振り返ることはできません。
ほかの人の死を見届けても、それは自分自身の死を経験したことにはなりません。
そこでハイデガーは、死んだ後の人間を調べるのではなく、まだ生きている人間にとって、死がどのような可能性なのかを考えました。
そのとき重要になるのが、自分の死は誰にも代わってもらえないという特徴です。
例えば、病気の人を治療したり、危険から助けたりすることはできます。
しかし、どれほど大切な人であっても、その人自身がいつか死を迎えるということまで、代わりに引き受けてなくすことはできません。
自分自身についても同じです。
また、死は避けられないものでありながら、いつ訪れるかはわかりません。
ハイデガーは、こうした死を、単に命の働きが終わる出来事としてだけではなく、自分がこれから生きていくこと自体ができなくなる可能性として考えました。
これは、死因を調べたり、死ぬ時期を予測したりする研究とは違います。
生きている人間の存在を、その終わりまで含めて理解しようとする哲学上の考察です。
つまり、ハイデガーが死を重要視したのは、誰にも代わってもらえない自分の死という可能性が、人間の存在を全体として理解するために欠かせないからです。
しかし、私たちは普段、自分の死をこのような問題として受け止めているとは限りません。
次の章では、なぜ私たちは自分の死を遠い未来の出来事として考えやすいのか、ハイデガーが考えた日常の人間のあり方から説明します。
※「死への存在」について、さらに詳しく学びたい方へ。
この記事の後半にある
では、哲学を初めて学ぶ方から原典を読んでみたい方まで、理解の深さに合わせた4冊の本を紹介しています。
興味のある方は、そちらも参考にしてみてください。
4 なぜ人は自分の死を遠い話だと考えるのか?
ハイデガーは、私たちが「人は誰でもいつか死ぬ」と知っていても、それを世間一般の出来事として受け止め、自分自身の死という問題から目をそらしてしまうことがあると考えました。
では、なぜそのようなことが起こるのでしょうか。
ハイデガーは、その理由を考えるうえで、人間が普段どのように物事を理解し、行動しているのかに注目しました。
そこで重要になるのが、「ダス・マン」という考え方です。
ダス・マンは、ドイツ語の das Man(ダス・マン)という言葉で、日本語では「世人(ひと)」などと訳されます。
ドイツ語の man は、「人は普通こうする」というように、特定の誰かを指さずに人々の行動を表すときに使われる言葉です。
ハイデガーは、この言葉を使って、私たちの日常生活を形づくっている世間一般の考え方や習慣に注目しました。
ダス・マンとは、特定の誰かではなく、私たちが普段「普通はこうする」「一般にはこう考える」と受け止めている、世間で共有された考え方に従って生きる人間のあり方に関わる言葉です。
例えば、図書館に入ると、私たちは自然と声を小さくします。
誰かに毎回注意されなくても、「図書館では静かにするものだ」と知っているからです。
このように、私たちは周囲の人々と共有している習慣や考え方を使って、普段の生活を送っています。
これは、ダス・マンを理解しやすくするための、この記事独自の例です。

ただし、ダス・マンは、単に決まりを守ったり、ほかの人と同じ行動をしたりすることだけを意味するわけではありません。
私たちが何を当たり前だと考え、何を普通のこととして受け止めるのかにも、世間一般の考え方は関わっています。
ハイデガーは、こうした日常的なあり方を、それ自体が悪いことだと説明したわけではありません。
私たちは、周囲の人々と考え方や習慣を共有することで、日常生活を送ることができているのです。
しかし、このような物事の受け止め方は、自分自身の死について考えるときにも影響します。
例えば、「人間は誰でもいつか死ぬ」という言葉を考えてみましょう。
この言葉は、間違っていません。
自分自身も、その「誰でも」の中に含まれています。
けれども、「人はいつか死ぬ」と一般的な話として考えるだけなら、「そうだね。でも、自分のこととして考えるのは、まだ先でいいだろう」と受け止めることもできます。
つまり、誰もが死ぬという事実は認めながら、自分自身の死については、今は考えなくてもよいことのように扱ってしまうのです。
ハイデガーは『存在と時間』第51節で、こうした「人は死ぬ」という日常的な言い方に注目しました。
「人は死ぬ」という正しい知識を持っていても、その「人」がほかの誰でもない自分自身であることを、十分に受け止めているとは限らないのです。
ここに、ハイデガーが考えた重要な違いがあります。
死を、誰にでも起こる一般的な出来事として知ることと、自分自身にも避けられない可能性として関わっていることを受け止めるのは、同じではありません。
ただし、これは「常に死について考えなければいけない」という教えではありません。
また、周囲の人々に合わせて暮らすこと自体を否定するものでもありません。
ハイデガーが明らかにしようとしたのは、私たちが普段、世間一般の見方を通して物事を理解するために、自分自身にしか引き受けられない死という問題さえも、一般的な話として受け止めてしまうことがあるという人間のあり方です。
では、自分自身の死を、ただ遠い未来の出来事として考えるのではなく、自分の問題として引き受けるとは、どういうことなのでしょうか。
次の章では、ハイデガーの「死への先駆」と「本来的な生き方」という考えを紹介し、自分の死と向き合うことが、今の自分の生き方とどのように関係するのかを説明します。
5 死と向き合うことが、なぜ自分の生き方につながるのか?
ハイデガーは、自分の死という避けられない可能性を引き受けることで、世間一般の考え方に任せるだけではなく、自分の生き方を自分自身の問題として引き受ける可能性が開かれると考えました。
前の章では、私たちが「人は誰でも死ぬ」と知りながら、自分の死を遠い出来事として受け止めてしまうことがあると説明しました。
では、自分の死を、自分自身の問題として引き受けるとは、どういうことなのでしょうか。
ハイデガーは『存在と時間』の中で、これを考えるために「死への先駆(しへのせんく)」という言葉を使いました。
原語はドイツ語の Vorlaufen(フォーアラウフェン、「先へ進む」「先駆ける」という意味を持つ言葉)です。
ただし、ここでいう「先へ進む」とは、早く死のうとすることでも、自分がいつ死ぬのかを予想することでもありません。
死への先駆とは、自分の死を、まだ生きている今から、いつか必ず訪れる自分自身の可能性として見据えるあり方です。
ここでいう「見据える」とは、死ぬ瞬間を何度も思い浮かべることではありません。
自分には、これから学んだり、人と関わったり、新しいことを始めたりする可能性があります。
しかし、それらがいつまでも続くわけではありません。
自分の死という可能性から目をそらさず、これから生きていく自分自身の存在には、避けられない終わりがあることを引き受けるのです。
では、なぜそれが、自分の生き方と関係するのでしょうか。
それは、自分の死は、世間一般の考え方でも、ほかの誰かの判断でも、代わりに引き受けてもらうことができないからです。
私たちは普段、「普通はこうする」「みんながそうしている」という考え方を手がかりに生活しています。
しかし、自分の死については、「誰でもいつか死ぬ」という一般的な話にしても、自分自身が死ぬという可能性はなくなりません。
そのことを引き受けるとき、世間で当たり前とされている生き方だけに、自分自身の存在を任せきりにはできないことが見えてきます。
ここで重要になるのが、ハイデガーの「本来的な生き方」という考え方です。
哲学では、これを「本来性(ほんらいせい)」と呼びます。
原語はドイツ語の Eigentlichkeit(アイゲントリヒカイト、「自分自身に固有のもの」という意味に関わる言葉)です。
本来的な生き方とは、周囲の人々や社会との関わりの中で、自分の存在を、ほかの誰かに任せきりにせず、自分自身のものとして引き受けるあり方です。
ただし、これは心の奥に隠れている「本当の自分」を発見することではありません。
また、好きなことだけをしたり、ほかの人とは違う道を選んだりすることでもありません。
例えば、学校で委員会の活動を選ぶ場面を考えてみましょう。
友達が図書委員を選んだから、自分も同じ委員会に入ることにしたとします。
その選択自体が、間違っているわけではありません。
しかし、友達に合わせたということだけで終わるのではなく、「自分はこの委員会で何に取り組もうか」「どのように役割を果たそうか」と考えることもできます。
同じ委員会を選んだとしても、自分の置かれた状況や、そこでできることへの向き合い方には違いがあります。
これは、自分の選択や役割を引き受けることを理解しやすくするための、この記事独自の例です。

もちろん、委員会を自分で選んだからといって、それだけでハイデガーのいう本来的な生き方になるわけではありません。
ハイデガーが問題にしたのは、単に自分で決断することではなく、死という避けられない限界を持つ自分自身の存在を、どのように引き受けるのかということだからです。
ハイデガーは、この問題をさらに考える中で、「決意性(けついせい)」という言葉も使いました。
原語は Entschlossenheit(エントシュロッセンハイト)です。
ここでいう決意性は、一度決めたことを何があっても守り抜くという意味ではありません。
自分には選べなかった条件や、今置かれている状況も含めて受け止め、そこで自分に開かれている生き方の可能性に向き合うあり方に関係します。
ハイデガーは、死への先駆と決意性を結びつけながら、人間が自分自身の存在を本来的に引き受けることについて考えました。
ただし、死を意識しただけで、誰もが必ず本来的に生きられるというわけではありません。
また、ハイデガーが、どのような人生を選べば正しいのかという答えを決めていたわけでもありません。
死への先駆が開くのは、自分の人生には避けられない終わりがあると見据えながら、今の自分のあり方と、これからの可能性を、自分自身のものとして引き受けて生きることなのです。
では、ここまで学んだ「死への存在」を、どのような意味に受け取ってもよいのでしょうか。
次の章では、ハイデガーが考えた意味を取り違えないために、誤解しやすい点を一つずつ整理します。
6 死への存在について誤解しやすいこと
「死への存在」は、死ぬことを望む考えでも、誰にでも当てはまる正しい生き方を教える考えでもありません。ハイデガーが明らかにしようとしたのは、死という避けられない可能性と切り離せずに生きている、人間の存在のあり方です。
ここまで、「死への存在」「死への先駆」「本来的な生き方」について説明してきました。
しかし、これらの言葉は、普段使っている意味のまま受け取ると、誤解してしまうことがあります。
ここでは、特に間違えやすい五つの点を整理していきましょう。
まず大切なのは、「死への存在」は、死を目指したり、自分から命を終わらせようとしたりすることではないという点です。
「死に向かう」という言葉から、死ぬことを目的にして生きるという意味を想像するかもしれません。
しかし、ハイデガーが問題にしたのは、死を実現することではありません。
人間が生きている間にも、自分の存在そのものが終わる可能性と切り離されていないことです。
そのため、死への存在は、死を迎えようとする行動ではなく、生きている人間のあり方を説明する考え方なのです。
次に、死と向き合うことは、毎日死を怖がったり、死について考え続けたりすることでもありません。
例えば、死を考えると怖くなり、何度も自分が死ぬ場面を想像してしまうことがあるかもしれません。
しかし、死について考える時間が長いほど、ハイデガーのいう死への先駆に近づくというわけではありません。
反対に、普段は家族や友達と楽しく過ごし、自分の死について考えていない時間があるからといって、それだけで間違った生き方になるわけでもありません。
大切なのは、死について何回考えたかではなく、自分の死という避けられない可能性を、どのように受け止めているのかということです。
三つ目は、「死への先駆」は、自分がいつ死ぬのかを予測することではないという点です。
例えば、「自分は何歳まで生きられるだろう」「あと何年生きられるのだろう」と考えることはできます。
しかし、その答えを考えたり、死ぬ時期を予想したりすることが、死への先駆なのではありません。
ハイデガーは『存在と時間』第53節で、死を将来起こる出来事として予想することと、死への先駆を区別しています。
死への先駆で重要なのは、死がいつ訪れるのかを知ることではなく、その可能性が、生きている今の自分にも関わっていることです。
四つ目は、「本来的な生き方」は、自分勝手に生きたり、ほかの人との関係を断ったりすることではないという点です。
自分の人生を自分自身のものとして引き受けると聞くと、「何でも自分の好きなように決めればいい」と思うかもしれません。
しかし、私たちは家族や友達、社会の中で、さまざまな人と関わりながら生きています。
本来的に生きることは、そうした関係をすべて捨てることではありません。
例えば、学校の行事で友達と協力して準備を進めるときも、自分がどのような役割を引き受け、どう取り組むのかを考えることができます。
これは理解を助けるための、この記事独自の例です。
もちろん、自分で考えて行動すれば、それだけで本来的な生き方になるという意味ではありません。
ハイデガーが考えた本来性には、自分の死という限界を見据えながら、自分の存在を引き受けることが関わっています。
最後に、特に気をつけたいのは、「死への存在」は、単に「命を大切にしよう」「後悔しない人生を送ろう」という人生訓ではないという点です。
人生訓とは、日々の生活でどう行動すればよいかを教えたり、よりよく生きるための心がけを伝えたりする言葉です。
もちろん、命を大切にすることや、後悔を減らそうと考えることには意味があります。
しかし、ハイデガーが『存在と時間』で取り組んだのは、人間の存在を理解するという哲学上の問題でした。
彼は、人間が自分の死という可能性とどのように関わって存在しているのかを考え、そこから本来的な生き方について論じました。
だからといって、必ず夢を追うべきだとか、安定した生活を選ぶべきではないといった、具体的な人生の正解を示したわけではありません。
また、死と向き合えば、誰もが後悔のない人生を送れると証明したわけでもありません。
つまり、「死への存在」とは、死を恐れずに生きるための方法や、人生を成功させるための教えではなく、死という避けられない可能性が、今を生きる人間の存在にどのように関わっているのかを明らかにしようとする哲学の考え方なのです。
その意味を理解したうえで、自分の限りある時間をどう受け止めるのかは、私たち自身が考えることのできる問題です。
次の章では、ここまで学んだハイデガーの考えを整理し、そこから私自身が何を感じ、どう受け止めたのかを、哲学上の説明とは区別しながら考えていきます。
7 まとめ・考察
「死への存在」とは、人間が、生きている今も、自分の死という避けられない可能性と切り離されずに存在していることを表す哲学の考え方です。
ハイデガーは『存在と時間』で、自分の死を自分自身の可能性として見据えることが、世間一般の考え方に任せるだけではなく、自分の存在を自分自身のものとして引き受ける可能性を開くと考えました。
これは、死を恐れずに生きる方法でも、後悔しない人生を送るための教えでもありません。
ここまでが、ハイデガーの哲学から確認できる基本的な考え方です。
ここからは、私自身の考察です。
私がこの考えから特に感じたのは、自分の存在の「かけがえのなさ」ということでした。
例えば、一日の終わりに「今日は何もできなかったな」と感じることはありませんか。
やりたいことが進まず、誰かと比べて落ち込む日もあるかもしれません。
けれども私は、人生の価値は、何かを成し遂げたかどうかだけでは決まらないと思うのです。
うまくいかなかった日も、誰かと笑った時間も、ただ静かに過ごした時間も、ほかの誰かに代わって生きてもらうことのできない、自分自身の時間だからです。

もちろん、そう考えたからといって、後悔や悩みがなくなるわけではありません。
それでも、限りある人生を自分のものとして引き受けるとは、思いどおりにならなかった日も含めて、これからどう生きるのかを考えていくことではないでしょうか。
そして、自分の人生がかけがえのないものなら、ほかの人が生きる時間も、その人にとって代わりのないものなのだと思います。
自分の時間を大切に思うことは、ほかの人の時間を大切にすることにもつながるのではないでしょうか。
もし、自分の人生にはいつか終わりが来ることを、今より少し身近に感じたとしたら、あなたは今日という一日をどう受け止めるでしょうか。
何か新しいことを始めるのも、大切な人との時間を過ごすのも、今日はゆっくり休むのも、一つの選択です。
私は、そのどれかが必ず正しいのではなく、自分が何を大切にしたいのかを考え、その選択に向き合うことに意味があると思います。
「死への存在」は、私にとって、死を恐れながら生きるためではなく、今ここにいる自分自身の存在を、もう一度見つめ直すきっかけになる言葉です。
そして、自分の死を考えるときに生まれる「怖れ」や「不安」についても、ハイデガーは重要な違いを考えました。
続くおまけコラムでは、その違いをわかりやすく説明します。
おまけコラム
「怖れ」と「不安」は何が違う?ハイデガーが考えた心の不思議
ハイデガーは、何か特定のものを怖がる「怖れ」と、自分自身がこの世界で生きていることに関わる「不安」を、哲学的に区別しました。
私たちは普段、「怖い」と「不安」という言葉を、似たような意味で使うことがあります。
しかし、ハイデガーの『存在と時間』では、この二つには重要な違いがあります。
まず、「怖れ」は、ドイツ語の Furcht(フルヒト、「恐れ」という意味)に当たる言葉です。
例えば、道を歩いているとき、突然、大きな犬がこちらに向かって吠え始めたとしましょう。
そのときに感じる怖さには、「こちらに向かって吠えている犬」という、はっきりした対象があります。
ハイデガーは、私たちの身の回りにある、何か特定のものが危険として現れるときの怖れを考えました。
一方、「不安」は、ドイツ語の Angst(アングスト、「不安」という意味)という言葉です。
ハイデガーが考えた不安は、単に何が怖いのかわからない気持ちではありません。
普段は当たり前のように感じている周囲の世界や、自分がそこで生きていることの意味が、いつものようには感じられなくなるあり方に関係しています。
例えば、毎日学校へ通い、友達と話し、将来のことを考えているとします。
ところが、ふとした瞬間に、それまで当たり前だった毎日が、急に当たり前ではないように感じられたらどうでしょうか。
目の前に何か危険なものがあるわけではないのに、自分がこの世界で生きていること自体が、不思議で、落ち着かないことのように感じられるかもしれません。
これは理解を助けるための、この記事独自の例です。こう感じたら必ずハイデガーのいう不安に当てはまる、という意味ではありません。

ハイデガーは『存在と時間』第40節で、不安を通して、私たちが普段の生活で当たり前にしている世界との関わりや、自分自身の存在のあり方が見えてくると考えました。
では、この不安は、今回学んだ「死への存在」とどう関係するのでしょうか。
ハイデガーは、不安を、自分が生きていく可能性には避けられない終わりがあることを、より根本的に明らかにするものとしても考えました。
例えば、死を「痛そうで怖い出来事」として想像することと、自分がこれから生きて何かをする可能性そのものに終わりがあると向き合うことは、同じではありません。
前者では、死に伴う具体的な苦痛や出来事を怖れているのに対し、後者では、自分が存在し続けられなくなるという可能性そのものが問題になっています。
ただし、ハイデガーのいう不安は、医学や心理学で扱う不安の症状と、そのまま同じ意味ではありません。
また、不安を強く感じれば、必ず本来的に生きられるということでもありません。
ハイデガーが不安を重要視したのは、不安が単なる嫌な気分ではなく、普段は意識していない自分自身の存在のあり方を明らかにする手がかりになると考えたからです。
私たちは、怖れや不安を、できれば感じたくないものとして考えがちです。
しかし、ハイデガーの哲学を知ると、不安という言葉にも、人間が自分の存在を理解するための深い意味があることに気づかされます。
更に学びたい人へ
「死への存在」についてもっと学びたい方へ、初心者から原典を読んでみたい方まで、理解の深さに合わせた4冊を紹介します。
小学生・初学者向け
『10歳の哲学 キミの人生につながる21の問い』 著者: 齋藤孝
小学生や、哲学を初めて学ぶ方。
本の特徴
「死とは何か」「自分とは何か」など、身近な21の疑問から哲学について考える本です。
おすすめ理由
ハイデガーの専門書ではありませんが、今回の記事の出発点となる「人間が生きることや死ぬこと」を、自分自身の疑問として考える入口になります。
全体におすすめ
『ハイデガー哲学入門──『存在と時間』を読む』 著者: 仲正昌樹
今回の記事を読んで、ハイデガーの哲学をもう少し詳しく知りたい方。
本の特徴
「現存在」「世人」「死に向かう存在」「時間」など、『存在と時間』の重要な問題を順番に解説しています。
おすすめ理由
今回の記事で学んだ内容と直接つながるため、最初に読むハイデガーの解説書としておすすめです。
中級者向け
『ハイデガーの哲学 『存在と時間』から後期の思索まで』 著者: 轟孝夫
『存在と時間』だけでなく、ハイデガーの哲学全体や、その後の研究の歩みまで学びたい方。
本の特徴
初期から晩年までの思想の変化を紹介し、ナチスへの関与という歴史的問題についても検討しています。
おすすめ理由
「死への存在」がハイデガーの研究全体の中でどのような位置にあるのかを、より広い視点から理解できます。
原典を読みたい人向け
『存在と時間6』 著者: マルティン・ハイデガー 翻訳者: 中山元
ハイデガー本人の文章から「死への存在」を学びたい方。
本の特徴
『存在と時間』第45〜60節を収録し、「死への先駆」や「決意性」についての議論と、翻訳者による詳しい解説を読むことができます。
おすすめ理由
今回の記事の中心となる考え方を、ハイデガー自身がどのように論じたのか、原典で確かめられます。
「死への存在」を理解するために、最初から難しい哲学書を読む必要はありません。
まずは気になった一冊から、「自分の死と、今の生き方はどう関係しているのだろう」という疑問を、少しずつ深めてみてはいかがでしょうか。
本を読み進めるうちに、同じ疑問でも、これまでとは少し違った答えが見えてくるかもしれません。
疑問が解決した物語
10年後の自分へ、もう一度
翌日の放課後。
小学5年生の結菜(ゆな)と陸(りく)は、昨日の続きの手紙を書くため、教室に残っていました。
二人の机には、「10年後の自分へ」と書かれた便せんが置かれています。
「ねえ、結菜。昨日、図書室で調べた『死への存在』のこと、少しわかった気がするよ」
陸が、鉛筆を置いて言いました。
「ぼく、最初は『人間はいつか死ぬ』っていう、当たり前の話だと思ってたんだ」
「うん。でも、それだけじゃなかったね」
結菜は、白い便せんを見つめながら答えました。
「いつか死ぬって知っていることと、それが自分自身にも関わることだって受け止めるのは、同じじゃないんだよね」
陸は、昨日書いた手紙を読み返しました。
「ぼく、10年後は世界中を旅行していたいって書いたでしょう」
「うん。すごく楽しそうだった!」
「でも、10年後に絶対そうなっているとは限らないし、いつかできると思っているだけじゃなくて、今から何か始めてもいいのかなって」
陸は少し考えてから、手紙に一文を書き足しました。
「ぼく、今日から世界のいろんな国について調べてみるよ。まずは図書室で旅行の本を借りてみる!」
結菜は、その文字を見てほほえみました。
「わたしも、10年後に何をしているかは、まだわからないな」
そして、ゆっくり鉛筆を動かします。
『10年後のわたしへ。今はまだ、将来何になりたいのか決まっていません。でも、人に合わせるだけじゃなく、自分が何を大切にしたいのかも考えていきたいです。』
「ねえ、陸。自分の死について考えるって、今すぐ何かすごいことをしなきゃいけないって意味じゃないんだよね」
「うん。いつ死ぬかを当てることでもないしね」
陸は、少し考えてから続けました。
「自分の人生は、誰かに代わって生きてもらえない。だから、これからどう生きるかも、自分のこととして考えるんだよね」
「そうだね。でも、一人で全部決めたり、何でも思いどおりにしたりすることとも違うんだと思う」
二人は顔を見合わせて、うなずきました。

10年後の自分がどうなっているのか、今はまだわかりません。
それでも、二人は自分の未来について、昨日より少しだけ違った気持ちで手紙を書き終えました。
大切なのは、未来を思いどおりにすることではなく、自分の限りある人生を、ほかの誰かに任せきりにせず、自分自身の問題として考えていくこと。
それが、二人が「死への存在」という言葉から学んだことでした。
もし、あなたが10年後の自分へ手紙を書くとしたら、どんなことを伝えたいでしょうか。
大きな夢を書いてもいいでしょう。まだ夢が見つかっていないなら、今、大切にしたいことを書いてみるのも一つの答えです。
未来がどうなるのかはわからなくても、今の自分が何を考え、何を大切にして生きていくのかは、これから少しずつ向き合っていける問題なのです。
文章の締めとして
10年後の自分がどのような毎日を過ごしているのか、今は誰にもわかりません。
けれども、まだ見ぬ未来を思い描きながら、今日も誰かと笑い、悩み、ときには立ち止まりながら、私たちは生きています。
この記事が、そんな何気ない毎日を、いつもとは少し違った目で見つめるきっかけになればうれしく思います。

補足注意
この記事は、筆者が個人で確認できる範囲の哲学書や研究資料をもとに、「死への存在」についてまとめたものです。
ハイデガーの思想には研究者による解釈の違いもあり、この記事の説明が唯一の答えではありません。
今後の研究によって、新たな解釈や理解が示される可能性もあります。
🧭 本記事のスタンス
この記事は、ハイデガーの考えを唯一の正解として押しつけるものではなく、読者が「死への存在」という哲学に興味を持ち、自分自身で考え、学びを深めるための入り口として書いています。
原典で論じられた内容と筆者自身の考察を区別しながら、さまざまな研究や異なる立場からの見方も大切にしていただければ幸いです。
「死」を知ることから、「生」を問うことへ――今回の「死への存在」との出会いを入り口に、原典やさまざまな研究に触れながら、現在(げんざい)を生きる自分の存在(そんざい)について、さらに深く考えてみてはいかがでしょうか。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
「死への存在」という考え方は、いつか訪れる終わりを恐れるためではなく、今ここにある何気ない時間にも、静かに目を向けることの大切さを教えてくれているのかもしれません。

内容をさらに確かめたい方へ|公開資料の案内
「死への存在」については、無料で公開されている哲学の専門事典などでも解説されています。
今回の記事で紹介した考え方や、ハイデガーの人物像をさらに詳しく確かめたい方は、次の資料も参考になります。
Stanford Encyclopedia of Philosophy(スタンフォード哲学百科事典)
「Martin Heidegger」「Authenticity」の項目では、死への存在や本来性について、研究者による解釈も含めて詳しく紹介されています。
Internet Encyclopedia of Philosophy(インターネット哲学百科事典)
「Martin Heidegger」の項目では、ハイデガーの生涯や『存在と時間』の基本的な考え方を学べます。
ドイツ歴史博物館(LeMO)
「Martin Heidegger」の人物紹介では、生涯や大学での活動、ナチ党との関わりなどの歴史的な情報を確認できます。
※いずれも無料で閲覧できますが、英語またはドイツ語による資料です。この記事の説明も、研究によるさまざまな解釈のうちの一つとして、さらに調べていただければ幸いです。


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