哲学の『可能世界』とは?「もし、あのとき違っていたら?」から意味・可能・必然をわかりやすく解説

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「もし、あのとき違う選択をしていたら?」――そんな身近な“もしも”から、哲学の可能世界をやさしく読み解きます。可能・必然・偶然・反事実の違い、ライプニッツ、クリプキ、デイヴィッド・ルイスの考えをたどりながら、「現実にそうであること」と「そうでなければならないこと」は同じなのかを考えてみましょう。

「もしも」から始める、可能世界の哲学

代表例

「今日が晴れだった世界も、ありえた?」

楽しみにしていた遠足の日。

ところが朝から大雨です。

空を見ながら、あなたはこんなことを考えます。

「もし今日、晴れていたら?」

現実では雨が降っています。

でも、今日が晴れになることまで不可能だったわけではありません。

では、

「実際には雨だったけれど、晴れていることもありえた」

というとき、その「ありえた」とは何なのでしょうか。

ここから、哲学の可能世界という考え方が始まります。

5秒でわかる結論

可能世界とは、「現実とは違うけれど、そうなることもありえた世界のあり方」です。

可能世界とは、「自分が別の選択をした世界」だけではなく、天気や他人の行動、出来事なども含めて、世界全体が現実とは別の仕方でありえたとしたら、その“ありえた世界の姿”を考えるものです。

小学生にもわかるように言うと?

今日の遠足は雨でした。

これが、実際に起こったことです。

でも、

「今日は晴れていたかもしれない」

と考えることはできます。

そこで、二つに分けて考えてみましょう。

今の世界
→遠足の日に雨が降っている。

ありえた別の世界
→遠足の日に晴れている。

実際に起きたのは「雨の世界」です。

でも、「晴れていることもありえた」と考えるなら、哲学ではそのような世界の別のあり方を考えることができます。

これが、可能世界を理解する最初の一歩です。

「もし晴れていたら、公園でお弁当を食べていたかもしれない」

「外で遊んでいたかもしれない」

「撮った写真も違っていたかもしれない」

一つのことが違えば、そのあとに起こることも変わっていきます。

だから可能世界は、ただ「雨を晴れに取り替えた」というだけではありません。

もう少し正確に言うと、

「世界全体が、今とは別の仕方であったとしたら、どのようになっていたか」

を考えるものです。

ただし、この段階では、

「晴れている別の宇宙が、本当にどこかに存在している」

と考える必要はありません。

まずは、

可能世界=「現実とは違うけれど、ありえた世界のあり方」

と覚えておけば大丈夫です。

「その可能世界は本当に存在するの?」

という疑問は、もう少し先で哲学者たちと一緒に考えていきましょう。

第1章 こんなこと、ありませんか?

可能世界という言葉は難しそうですが、私たちは普段から、それにとても近いことを考えています。

テストの結果を見て、

「あと一問正解していたら、合格していたかもしれない」

と思う。

友だちとけんかしたあと、

「あの一言を言わなければ、けんかにならなかったかもしれない」

と考える。

進学や就職を決めたあと、

「別の学校や会社を選んでいたら、今とは違う生活をしていたのかな」

と思う。

どれも、実際には起こらなかったことです。

しかし、私たちはそれらすべてを「絶対に不可能だった」と考えているわけではありません。

ここには、大切な違いがあります。

「実際には起こらなかったこと」と「起こることが不可能だったこと」は、同じではありません。

たとえば、今日は雨が降らなかったとしても、

「今日、雨が降ることは絶対に不可能だった」

とは限りません。

現実になったのは一つでも、別のことが起こる可能性までなくなるわけではないのです。

すると、もっと根本的な疑問が出てきます。

そもそも「可能である」とは、どういうことなのでしょうか?

まだ起こっていない未来の話だけではありません。

過去についても、

「あのとき、別のことが起こる可能性があった」

と言えます。

では、その「可能性」を私たちは何について語っているのでしょう。

ここから、可能世界の哲学が始まります。

第2章 疑問の生まれた物語

 「あのくじを選んでいたら?」

小学6年生のミオさんは、席替えの日を楽しみにしていました。

仲のよいユウタさんの近くになれたらいいな、と思っていたからです。

くじを引く直前、ミオさんは迷いました。

右のくじにしようか。

左のくじにしようか。

少し迷った末、右を選びました。

結果は教室の一番後ろ。

ユウタさんとは離れた席でした。

「左を取ればよかったな」

そう思ったところで、ミオさんは不思議なことに気づきました。

「でも、“左を選んでいたら違う結果になった”って、どうして言えるんだろう?」

実際には左を選んでいません。

もう一度同じ瞬間に戻って確かめることもできません。

それでも、

「違うくじを選ぶこともできた」

とは言えそうです。

疑問は、さらに広がっていきます。

「別の学校に通うこともありえた?」

「今の友だちと出会わない人生もありえた?」

「そもそも、私が生まれていない世界もありえたの?」

そして最後には、とても大きな問いにたどり着きます。

「今の世界は、このようでなければならなかったの?」

実は、このような「世界は別の仕方でもありえたのではないか」という問題を、哲学者たちも長く考えてきました。

その歴史の重要人物の一人が、ドイツの哲学者・数学者であるゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ〔1646(正保3)年―1716(享保元)年〕です。

ライプニッツは、「可能世界」という言葉を哲学上の専門的な概念として用いた最初の哲学者とされています。

ただし、彼が考えた可能世界と、現代哲学で使われる可能世界の考え方には違いがあります。

この違いは、もう少し先で詳しく見ていきましょう。

今、大切なのは一つです。

ミオさんが席替えで感じた、

「別の結果になることもできたのでは?」

という小さな疑問は、

やがて、

「可能とは何か?」

という哲学の大きな問いにつながっていくのです。

第3章 すぐに分かる結論

お答えします――可能世界とは何なのか?

ここまでの疑問に、まず一番大切な答えを出しましょう。

可能世界とは、「世界全体が、現実とは別の仕方でありえたとしたら、どのようであったか」を表す考え方です。

哲学では、こうした可能世界を使うことで、

「何が可能なのか」

「何が必ずそうでなければならないのか」

を整理して考えることができます。

たとえば、形而上学的な可能性を可能世界で説明する代表的な考え方では、

少なくとも一つの可能世界で成り立つことを「可能」

と考えます。

そして、

すべての可能世界で成り立つことを「必然」

と考えます。

少し難しくなってきましたので、今はこう考えてください。

現実は、

「実際にどうなっているか」

を示します。

可能世界について考えると、

「どうなることができたのか」

まで考えられるようになります。

ここが大切です。

可能世界を知ることで、私たちは現実を否定するのではありません。

むしろ、

「現実であること」と「そうでなければならないこと」を分けて考えられるようになります。

「今こうなっているから、こうなるしかなかった」

とは限りません。

では、その「ありえた世界」とは、いったい何なのでしょうか。

単なる考え方なのでしょうか。

何か抽象的なものなのでしょうか。

それとも、本当に存在するのでしょうか。

ここについては、哲学者の答えは一つではありません。

そして後に、アメリカの哲学者デイヴィッド・ルイス〔1941(昭和16)年―2001(平成13)年〕は、

可能世界は、単なる思考上の道具ではなく、私たちの世界と同じ意味で具体的に実在する

という、哲学者の間でも強い議論を呼んだ大胆な立場を本格的に擁護しました。

しかし、それは「可能世界」という言葉そのものの意味ではなく、

「可能世界とは結局、何なのか?」という問いに対する一つの答えです。

席替えの、

「もし、違うくじを引いていたら?」

から始まった小さな疑問。

それを追いかけていくと、

「可能とは何か」
「必然とは何か」
「現実はなぜ現実なのか」

という問題へ進んでいきます。

そして、ここから可能世界の話は、もう一段深くなります。

第4章 可能世界とは、本当はどういう意味?

ここまでは、

「もし遠足の日が晴れていたら」

「もし違うくじを選んでいたら」

という身近な「もしも」から、可能世界を見てきました。

ここからは、もう一段だけ正確に考えてみましょう。

可能世界とは、現実全体が「今とは別の仕方でありえた」と考えるとき、その“ありえた世界のあり方”を表すために使われる哲学上の概念です。

大切なのは、「自分が別の選択をした世界」だけを意味する言葉ではないことです。

人の選択だけでなく、天気、出来事、歴史、存在する人や物なども含めて、

「世界全体が、どのようであることもできたのか」

を考えるところに、可能世界の特徴があります。

「可能世界」は英語で possible world(ポッシブル・ワールド)といいます。

possible(ポッシブル)は「可能な」「ありうる」、world(ワールド)は「世界」という意味です。

日本語では、そのまま「可能世界」と訳されます。

似た言葉に、

possible worlds semantics(ポッシブル・ワールズ・セマンティクス/可能世界意味論)

があります。

semantics(セマンティクス)は「意味論」という意味です。

この二つは区別しておきましょう。

「可能世界」は、世界がどうでありえたかを考えるときに使う概念です。

それに対して「可能世界意味論」とは、いくつもの「ありえた世界」を比べながら、「可能である」「必ずそうである」といった言葉の意味を、よりはっきり考えるための方法です。

可能世界という考え方は、20世紀に可能世界意味論が発展したことで、現代哲学の中でさらに重要な位置を占めるようになりました。

その大きな理由は、それまで扱いにくかった「可能である」「必ずそうである」という言葉を、いくつもの可能世界で何が成り立つかを比べることで、より明確に分析できるようになったからです。

さらに、この方法は「可能」「必然」だけでなく、知識、信念、時間、義務などの問題にも応用され、可能世界は現代哲学や論理学のさまざまな分野で使われる重要な考え方になっていきました。

では、なぜ「可能な出来事」ではなく「可能“世界”」なのでしょうか。

遠足の日を思い出してみましょう。

現実では雨でした。

でも、

「晴れていたこともありえた」

と考えたとします。

ここで可能世界として考えるのは、

「雨」という一部分だけを「晴れ」に取り替えた言葉ではありません。

晴れていた世界では、遠足が予定どおり行われていたかもしれません。

公園でお弁当を食べていたかもしれません。

もちろん、晴れたからといって、それらが必ず起こるとは限りません。

重要なのは、

「晴れていた」という違いも含め、その世界全体がどのようであったのかを考える

ということです。

哲学では、可能世界を「現実全体がそうであることもできた一つの完全なあり方」として説明することがあります。

「完全な」といっても、「完璧で素晴らしい世界」という意味ではありません。

ここでいうのは、

世界の一部分だけを切り取った場面ではなく、世界全体について考える

という意味です。

たとえば、

「私はB高校へ進学していたかもしれない」

という可能性を考えるとします。

それは単に、学校名だけをA高校からB高校へ書き換えるということではありません。

B高校へ通っているなら、通学路も違うでしょう。

出会う友人や先生も違うかもしれません。

経験する出来事も変わる可能性があります。

そして、それらを含めて、

「B高校へ進学している世界全体は、どのようなあり方をしていただろう」

と考えることができます。

だから可能世界は、

「違う選択肢」ではなく、「その違いを含んだ世界のありえた一つのあり方」

なのです。

ただし、ここで一つ大切なことがあります。

「ありえた世界」とは結局、どのようなものなのかについて、哲学者の答えは一つではありません。

世界について考えるための抽象的な対象として理解する立場もあります。

そして後に登場するデイヴィッド・ルイスのように、可能世界を私たちの世界と同じように具体的な世界として認める哲学者もいます。

ですから、この段階で、

「可能世界とは、本当にどこかに存在する別宇宙のことだ」

と決める必要はありません。

まず覚えておきたいのは、

可能世界とは、「現実とは別に、世界全体がどのようでありえたか」を考えるための哲学上の概念である

ということです。

「その世界は本当に存在するのか」という問題は、この基本を理解したあとに考える、さらに深い問いなのです。

では、この「可能世界」という言葉を哲学で使うようになったのは誰なのでしょうか。

歴史をたどると、非常に重要な人物が現れます。

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ〔1646(正保3)年―1716(享保元)年〕です。

ライプニッツは、神聖ローマ帝国の時代に活躍した哲学者・数学者で、論理学や数学、形而上学など幅広い問題を研究しました。

Stanford Encyclopedia of Philosophyでは、ライプニッツは「possible world(可能世界)」という表現を哲学上の専門用語として最初に用いた哲学者とされています。

ただし、これは、

「ライプニッツ以前の人々は可能性について考えていなかった」

という意味ではありません。

可能・不可能・必然についての哲学的な問いは、それよりはるか以前から存在します。

ライプニッツの重要性は、「可能世界」を単なる“もしもの世界”としてではなく、「なぜこの世界が現実なのか」「何が可能で、何が必然なのか」といった、世界の根本的な仕組みを説明するための重要な考えとして用いたことにあります。

ライプニッツにとって可能世界は、現代のSF作品でいう「どこかで同時進行している別宇宙」とは違います。

彼が考えたのは、簡単に言えば、

「神が創造することのできた、世界全体の別のあり方」

でした。

ライプニッツは、いくつもの可能世界を考え、その中から一つの世界が神によって現実のものとして創造されたと考えます。

つまり彼の場合、

「可能である世界」と「実際に現実となった世界」を区別する

ことが重要でした。

さらにライプニッツの可能世界には、そこに存在するものだけではなく、その世界を成り立たせる自然法則なども関係します。

ただし、このライプニッツ独自の考え方については、後の章で人物像とともに詳しく見ていきます。

ここでは、

ライプニッツは可能世界という言葉を哲学上の重要な専門概念として用いた歴史的な人物であり、現代の可能世界論はその後さらに大きく発展していった

と理解しておけば十分です。

ここまで見てきたように、可能世界は、身近な「もし、違っていたら?」から始まる考え方です。

ただし哲学では、「もしもの世界」を想像するだけで終わりません。

「その違いは本当に可能だったのか」「どんな場合でも変わらないことは何なのか」まで考えることで、可能世界は「可能」「必然」「偶然」「不可能」を整理するための哲学的な道具になります。

私たちは可能世界を考えることで、

「そうなることもできた」

「必ずそうでなければならない」

「現実ではそうなっているけれど、違うこともありえた」

「そのようになることはできない」

という違いを考えられるようになります。

つまり、可能世界を理解する次の鍵は、

「可能」「必然」「偶然」「不可能」は、何が違うのか

を理解することです。

では、「もしもの世界」を哲学の道具として使うと、この四つの違いはどのように見えてくるのでしょうか。

第5章 「可能」「必然」「偶然」「不可能」を可能世界で考える

第4章では、可能世界とは「世界全体が、現実とは別の仕方でありえた、そのあり方を考えるための哲学上の概念」だと見てきました。

では、なぜ哲学者はわざわざ「ありえた世界」を考えるのでしょうか。

その大きな理由の一つが、

「可能」「必然」「偶然」「不可能」を区別するためです。

哲学では、「〜かもしれない」「必ず〜である」といった、物事のあり方に関する性質を modality(モダリティ/様相) と呼びます。

難しい言葉に見えますが、私たちも毎日使っています。

「明日は雨かもしれない」

「これは絶対にありえない」

「あのとき違う選択もできた」

こうした言葉はすべて、ただ「現実がどうなっているか」ではなく、世界がどうでありうるのかについて語っています。

ここでは、まず形而上学的な可能性を、可能世界で捉える代表的な説明を使って整理してみましょう。

metaphysical possibility(メタフィジカル・ポシビリティ/形而上学的可能性)とは、簡単に言えば、「世界や物事の根本的なあり方から考えて、本当にそうであることができたのか」という意味での可能性です。

ここでいう形而上学とは、「何が存在するのか」「物事がそれであるためには何が必要なのか」「世界は根本的にどのように成り立っているのか」といった問題を考える哲学の分野です。

たとえば、

「今日は別の服を着ていたかもしれない」

「私は今朝、30分遅く起きていたかもしれない」

といったことは、通常、形而上学的に可能だと考えられます。

一方で、「あるものが、それ自身であるために絶対に必要な性質まで失って、それでもまったく同じものだと言えるのか」といった問題になると、形而上学的可能性について哲学的な議論が生まれます。

つまり、ここで考える「可能」は、単に「頭の中で想像できる」という意味ではありません。

「世界が本当にそのようであることもできたのか」を考える意味での可能性です。

そのうえで、可能世界を使った代表的な説明では、

「可能」とは、少なくとも一つの形而上学的に可能な世界で成り立つことです。

たとえば現実では、遠足の日に雨が降りました。

しかし晴れていたこともありえたのなら、

「遠足の日が晴れている」

ことは可能だった、と考えられます。

現実にならなかったからといって、不可能だったことにはなりません。

反対に、「必然」とは、すべての可能世界で成り立つことです。

「必然」とは、簡単に言えば、世界の出来事や状況が別の仕方でありえたとしても、同じ意味・同じ内容のまま考えるかぎり、それでも成り立つことです。

可能世界を使った代表的な説明では、すべての形而上学的に可能な世界で成り立つことを「必然」と考えます。

たとえば、今日の天気は雨でも晴れでもありえます。ですから、「今日は雨である」は現実では真でも、必然ではありません。

一方、必然とは、雨か晴れか、人の行動や出来事が違っていても、それでも変わらず成り立つ内容を指します。

ここで大切なのは、可能世界ごとに言葉や記号の意味まで自由に変えて比べるわけではない、ということです。同じ内容について、「世界が違っていても、それでも真か」を考えます。

つまり、

可能=そうである世界が少なくとも一つある。

必然=世界が別の仕方でありえても、それでもそうである。

と覚えると分かりやすいでしょう。

つまり、

「実際にそうだった」

よりも、ずっと強い意味を持っています。

ここでぜひ覚えてほしいのが、

「現実であること」と「必然であること」は違う

という点です。

今日、雨が降った。

これは現実の事実です。

しかし、

「今日という日は、どうしても雨でなければならなかった」

とは限りません。

晴れでもありえたなら、雨だったという事実は現実では真でも、必然ではないのです。

そして、ここで登場するのが contingent(コンティンジェント/偶然的・非必然的) という言葉です。

哲学でいう「偶然的」は、日常会話の「偶然ばったり会った」という意味とは少し違います。

ここでまず大切なのは、「可能」と「偶然的」は反対の言葉ではないということです。

「可能」とは、そうである可能世界が少なくとも一つあること。

それに対して、

「偶然的」とは、そうである可能世界もあれば、そうでない可能世界もあることです。

たとえば、

「私は今日、青い服を着ている」

ということを考えてみましょう。

青い服を着ている可能世界があるなら、

「私は今日、青い服を着ている」ことは可能です。

しかし同時に、

「私は今日、赤い服を着ている」

という可能世界もありえるとします。

すると、

「私は今日、青い服を着ている」は、青であることもできたし、青でないこともできたことになります。

このように、そうであることも、そうでないこともありえるものを「偶然的」と呼びます。

つまり、「青い服を着ている」は、

可能であり、なおかつ偶然的でもある

のです。

ここでの「偶然的」は、「理由もなく、たまたま起こった」という意味ではありません。

「現実ではそうなっているけれど、そうでないこともありえた」

という意味です。

これに対して、

必然――どの可能世界でもそうである。

不可能――そうである可能世界が一つもない。

と考えます。

したがって、四つの言葉は次のように整理すると分かりやすくなります。

可能――そうである世界が少なくとも一つある。

その可能なものの中で、

必然――どの可能世界でもそうである。

偶然的――そうである世界と、そうでない世界の両方がある。

そして、

不可能――そうである世界が一つもない。

という違いがあります。

ただし、「どんな可能世界を数えるのか」は、何についての可能性を考えているかによって変わることがあります。

この問題は第7章で詳しく見ていきましょう。

今は一つだけ覚えてください。

実際に起こったことは、それだけでは「そうなるしかなかった」ことを意味しません。

この違いが見えてくると、私たちが普段何気なく使っている、

「もし、あのとき……」

という言葉も、急に哲学的に見えてきます。

では、その「もし」も可能世界で考えられるのでしょうか。

第6章 「もし〜だったら」を可能世界で考えてみる

朝、家を出るのが少し遅くなり、会社に5分遅刻してしまったとします。

帰り道、あなたはこう考えます。

「もし一本早い電車に乗っていたら、遅刻しなかっただろうな」

よくある言葉です。

しかし、少し考えてみると不思議です。

実際には、一本早い電車には乗っていません。

過去へ戻って、

「では、本当に遅刻しなかったか」

と確かめることもできません。

それでも私たちは、

「もし現実とは違っていたら、その場合はどうなっていただろう」

と考えることができます。

このような、

「実際にはAではなかったけれど、もしAだったなら、Bだっただろう」

という形の文を、哲学や論理学では counterfactual conditional(カウンターファクチュアル・コンディショナル/反事実条件文) と呼びます。

counterfactual(カウンターファクチュアル)は、ここでは「実際の事実とは異なる条件を仮定する」という意味です。

では、

「もし一本早い電車に乗っていたら、遅刻しなかっただろう」

という文を、可能世界を使って考えてみましょう。

ここで大切なのは、

一本早い電車に乗っている可能世界が一つ見つかれば、それだけでこの文が正しいことになるわけではない

ということです。

なぜなら、

一本早い電車に乗ったけれど、途中で電車が故障して遅刻した世界。

一本早い電車に乗ったけれど、駅で転んで遅刻した世界。

一本早い電車に乗り、予定どおり会社に到着した世界。

など、いくつもの可能世界を考えられるからです。

つまり、

「一本早い電車に乗ることが可能だった」

ということと、

「一本早い電車に乗っていたなら、遅刻しなかった」

ということは、同じではありません。

前者は、

「ほかにどのようでありえたか」

についての話です。

後者ではさらに、

「その別の可能性が現実になっていた場合、何が成り立っていただろうか」

まで考えています。

そこで、反事実条件文を可能世界で分析する代表的な考え方では、

「Aが成り立っている可能世界のうち、現実世界に重要な点で近い世界では、Bも成り立っているだろうか」

と考えます。

ここでいう「近い」は、宇宙空間の距離ではありません。

現実と比べて、必要以上に多くのことが違っていない、という意味での近さです。

この考え方を発展させた重要人物が、アメリカの哲学者ロバート・スタルネイカーと、すでに登場したデイヴィッド・ルイスです。

スタルネイカーは1968(昭和43)年、ルイスは1973(昭和48)年に、可能世界を使った反事実条件文の重要な分析を発表しました。

二人の理論には、「どの世界を近いと考えるのか」などについて違いがあります。

ただ、大まかな発想をつかむなら、

「現実にできるだけ近いAの世界を考え、そこでBも成り立つかを見る」

と理解するとよいでしょう。

この考え方は、私たちの日常の「もし」を見直すうえでも面白い視点を与えてくれます。

「あの会社に入っていたら、絶対に幸せだった」

「あの人と付き合っていたら、人生はうまくいっていた」

「あの失敗さえなければ、すべて成功していた」

私たちは、ときどき一つの出来事だけを変えて、その後には自分の望む結果が続くと考えてしまいます。

しかし本当に「もし」を考えるのであれば、

「その一つを変えたとき、ほかには何が変わるだろう」

ということも考えなければなりません。

たとえば、別の会社に入っていれば、給料は高かったかもしれません。

しかし、そこで出会う人、住む場所、生活時間、経験する失敗や成功まで変わっていたかもしれません。

ですから、

「別のこともありえた」ことと、「その別の世界なら、自分の望んだ結果になった」ことは同じではありません。

可能世界を使った反事実の分析は、過去を後悔するためだけのものではありません。

むしろ、

「もし」と考えるとき、自分は何を変え、何を変わらないものとして考えているのか

を見直す手掛かりにもなります。

すると、さらに別の疑問が出てきます。

ドラゴンがいる世界。

魔法が使える世界。

自然法則が違う世界。

四角い円がある世界。

私たちは、さまざまな世界を言葉にすることができます。

しかし、

言葉にできることと、本当に「可能である」ことは同じなのでしょうか。

では、想像したり言葉にしたりできる世界なら、何でも可能世界として認められるのでしょうか。

第7章 想像できれば、何でも可能世界になるの?

結論から言えば、

「想像できるように思えること」と「哲学的に可能であること」は、必ずしも同じではありません。

その理由の一つは、哲学で使われる「可能」には、いくつか異なる基準があるからです。

まず分かりやすいのが、

logical possibility(ロジカル・ポシビリティ/論理的可能性)

です。

これは、簡単に言えば論理法則と矛盾しない可能性です。

たとえば、

「明日は雨が降る」

という文そのものには、論理的な矛盾はありません。

しかし、同じ時点・同じ意味で、

「雨が降っている」と「雨が降っていない」が両方とも真である、

とするなら通常の古典論理では矛盾します。

論理的可能性では、まずこのように論理との両立可能性を考えます。

次が、

physical possibility(フィジカル・ポシビリティ/物理的可能性)

です。

これは、現在の自然法則と両立するかを基準にする可能性です。

「明日、今日より気温が5度下がる」

ことは、自然法則そのものには反しません。

一方、現在の物理法則を前提にすれば、質量をもつ物体を真空中で光速そのものまで通常の方法で加速する、といったことには物理的な制約があります。

つまり、

論理的には矛盾していなくても、現在の自然法則のもとでは物理的に不可能

ということがありえます。

そして、可能世界の哲学で特に重要になるのが、

metaphysical possibility(メタフィジカル・ポシビリティ/形而上学的可能性)

です。

metaphysics(メタフィジックス/形而上学)とは、「何が存在するのか」「物事がそれであるためには何が必要なのか」「世界は根本的にどのように成り立っているのか」といった問題を考える哲学の分野です。

そのため、形而上学的可能性とは、簡単に言えば、

「世界や物事の根本的なあり方から考えて、本当にそうであることができたのか」

という意味での可能性です。

この形而上学的可能性を、可能世界を使って表す伝統的な考え方があります。

たとえば、

「遠足の日は晴れていたこともありえた」

という可能性を、

「遠足の日が晴れている可能世界が少なくとも一つある」

という形で表します。

つまり、可能世界を使った代表的な説明では、

「少なくとも一つの形而上学的に可能な世界で真なら、そのことは形而上学的に可能である」

と表すのです。

ただし、ここで注意したいのは、これは「なぜそれが可能なのか」を証明しているわけではないということです。

「それは可能である」ということを、「それが成り立つ可能世界がある」という形に置き換えて表しているのです。

可能世界はこのように、「可能」「必然」「偶然」といった違いを、さまざまな世界を比べる形で整理するために使われます。

たとえば、「遠足の日が晴れていたこともありえた」と言えるのは、遠足の日が晴れている可能世界が少なくとも一つ認められるからです。

と考えます。

たとえば、

「あなたが今朝、30分遅く起きていた」

ことは、通常、世界の根本的なあり方に反するとは考えません。

しかし、

「あるものは、それ自身であるために絶対に欠かせない性質まで失っても、同じものなのか」

となると問題は難しくなります。

ここから「本質とは何か」「別の可能世界にいる私は、本当に私なのか」という、後の章の問題につながっていきます。

なお、形而上学的可能性を何によって説明すべきかについては哲学的な議論が続いており、可能世界を使う説明だけが唯一の定義というわけではありません。

もう一つ、私たちが日常で非常によく使っているのが、

epistemic possibility(エピステミック・ポシビリティ/認識的可能性)

です。

epistemic(エピステミック)は「知識・認識に関する」という意味です。

こちらでは、世界そのものがどうであるかだけではなく、

「今持っている情報から、その可能性を排除できるか」

が問題になります。

たとえば、家の鍵が見つからないとします。

「机の上かもしれない」

「バッグの中かもしれない」

と言うとき、

あなたは「鍵が机の上に存在することが宇宙の根本原理から可能だ」と主張しているわけではありません。

今持っている情報では、まだ机の上という可能性を除外できない

という意味です。

情報が増えれば、認識的に可能な世界は減っていきます。

実際に机を見て鍵がなければ、「机の上にある」という可能性を候補から外せるわけです。SEP(Stanford Encyclopedia of Philosophy/スタンフォード哲学百科事典)でも認識的可能性は、利用できる証拠によって排除できない世界という形で説明されています。

このように、「可能ですか?」という一つの質問の中にも、

論理に反しないのか。

自然法則に反しないのか。

物事の本質から見てありうるのか。

単に今の知識では否定できないのか。

という、別々の問いが隠れています。

だから哲学では、

「可能かどうか」だけでなく、「どの意味で可能なのか」を問うことが大切です。

可能世界は、何でも好きに想像するための言葉ではありません。

むしろ、私たちが「ありえる」と言うとき、何を根拠にそう判断しているのかをはっきりさせるための道具のです。

そして20世紀になると、この「可能」「必然」を、より厳密なルールで扱う研究が急速に発展していきます。

可能世界はここで、哲学的な発想から現代論理学の強力な道具へと姿を変えていきます。

第8章 可能世界はどうやって現代哲学の道具になった?

ここまで読んで、

「可能世界という考え方は面白いけれど、本当に哲学で役に立つの?」

と思った人もいるかもしれません。

その答えは、

可能世界を使うことで、「可能」「必然」という言葉を、より明確なルールのもとで分析できるようになった

というところにあります。

ここから、可能世界の歴史は大きく動きます。

第4章で登場したライプニッツは、17〜18世紀に可能世界という考えを自らの形而上学の中で重要な概念として用いました。

しかし、現在の可能世界意味論がそのままライプニッツから完成した形で伝わってきたわけではありません。

その間には、論理学の大きな発展がありました。

20世紀初頭、アメリカの哲学者・論理学者クラレンス・アーヴィング・ルイス〔1883(明治16)年―1964(昭和39)年〕、一般にC・I・ルイスと呼ばれる人物が、1918(大正7)年ごろから現代的な様相論理の体系化を進めました。

ここでいう modal logic(モーダル・ロジック/様相論理) とは、

「可能である」「必然である」といった表現が、どのような推論の規則に従うのかを研究する論理学

です。

なお、C・I・ルイスと、後に登場するデイヴィッド・ルイスは別人です。

その後、ドイツ出身の哲学者・論理学者ルドルフ・カルナップ〔1891(明治24)年―1970(昭和45)年〕は、1947(昭和22)年の研究などで、文を一つの現実だけではなく、さまざまな「状態記述」において評価する意味論を発展させました。

これは現在の可能世界意味論と完全に同じものではありませんが、文を複数のありうる状態に照らして評価するという重要な先駆けでした。SEPも、カルナップの研究を後の現代的な可能世界意味論につながる重要な仕事として位置づけています。

そして1950年代後半から1960年代初めにかけて、さらに大きな進展が起こります。

スティグ・カンガー、ヤッコ・ヒンティッカ、リチャード・モンタギュー、アーサー・プライアーなど、複数の論理学者が「可能」「必然」を世界の違いによって捉える意味論を研究しました。

その中でも非常に大きな影響を与えた人物が、アメリカの哲学者・論理学者ソール・アーロン・クリプキ〔1940(昭和15)年―2022(令和4)年〕です。

クリプキは1959(昭和34)年に様相論理の完全性に関する重要な論文を発表し、1963(昭和38)年には、世界を「評価するための点」として扱い、世界同士の関係を組み込んだ意味論を体系的に発展させました。

ただし、現代の可能世界意味論はクリプキ一人が突然発明したものではありません。

カンガーは1957(昭和32)年、ヒンティッカは1961(昭和36)年など、同時期に関連する重要な研究を行っています。

そのうえでクリプキの体系では、それまでの重要な要素が非常に明確な形でまとめられ、さまざまな様相論理を体系的に扱えるようになりました。

では、このpossible worlds semantics(ポッシブル・ワールズ・セマンティクス/可能世界意味論)では何をするのでしょうか。

考え方の中心は意外とシンプルです。

ある世界を基準にして、

「どの世界を可能性の候補として考えるのか」

を決めます。

そして、

少なくとも一つの適切な世界で成り立つなら「可能」

基準となる世界から考慮すべきすべての世界で成り立つなら「必然」

と評価します。

クリプキ型の意味論では、どの世界をどの世界から評価対象にするのかを表す関係を、

accessibility relation(アクセシビリティ・リレーション/到達可能関係)

と呼びます。

ここでの「到達可能」は、別世界へ旅行できるという意味ではありません。

「この世界を基準にしたとき、どの世界を可能性の候補として考えるか」を表す論理上の関係です。

この仕組みが重要だったのは、世界同士の関係にどんな条件を置くかによって、さまざまな様相論理の違いを明確に表せるようになったからです。

つまり可能世界は、

「もし別の人生だったら」

と想像するためだけの言葉ではなく、

「可能」や「必然」がどんな条件で成り立つのかを、論理的に分析するための道具

にもなったのです。

そして、ここで非常に大切な区別があります。

可能世界を論理学の道具として使えることと、可能世界が本当に具体的な世界として存在することは、別の問題です。

可能世界意味論では、可能世界を、「ある文が真か偽かを確かめるための評価地点」のように扱うことができます。

ここでいう「文」とは、単なる文字ではなく、

「今日は雨が降っている」

「私は明日学校へ行く」

のような、真か偽かを考えることのできる内容をもった文のことです。

たとえば、「今日は雨が降っている」という文は、雨の可能世界では真ですが、晴れの可能世界では偽になります。

このように、同じ文をそれぞれの可能世界で評価することで、「可能」「必然」などを考えていくのです。

その方法がうまく働くからといって、それだけで、

「だから別の宇宙が本当に存在する」

と結論できるわけではありません。

ここで、可能世界の問題は二つに分かれます。

一つは、

「可能世界を使うと、何を説明できるのか」

という問題。

もう一つは、

「その可能世界とは、結局何なのか」

という問題です。

前者について、20世紀の論理学は大きく発展しました。

しかし後者については、哲学者の答えは一つではありません。

その答えを考える前に、まず可能世界という言葉を哲学の歴史の中で重要な概念として用いた人物――

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ

が、そもそも何を考え、なぜ「可能世界」を必要としたのか。

次の章で、人物そのものに近づいてみましょう。

第9章 可能世界を哲学に持ち込んだ『ライプニッツ』とは?

ここまで、可能世界を使うと「可能」「必然」「偶然」を区別でき、「もし〜だったら」という反事実まで考えられることを見てきました。

では、そもそもなぜ哲学者は「可能世界」という考えを必要としたのでしょうか。

その歴史をたどるうえで欠かせない人物が、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(Gottfried Wilhelm Leibniz)〔1646(正保3)年―1716(享保元)年〕です。

ライプニッツは、現在のドイツにあたる地域で活躍した哲学者・数学者で、論理学、数学、自然学、法学、形而上学など幅広い問題に取り組みました。

しかし、ここで重要なのは「何でも研究したすごい人物だった」ということではありません。

可能世界を理解するために知りたいのは、

「ライプニッツは、何を説明したくて可能世界を考えたのか?」

という点です。

ライプニッツが重視した大きな問いの一つは、

「なぜ、世界はこのようになっているのか?」

という問いでした。

今日、雨が降った。

あなたはこの学校へ進学した。

この国にはこの歴史がある。

それらはすべて現実です。

しかし、ここまで読んできたように、

「現実にそうなった」ことと、「そうなるしかなかった」ことは同じではありません。

では、世界が別の仕方でもありえたのなら、

なぜ別の世界ではなく、この世界が現実になったのでしょうか。

この問いと深く関係するのが、ライプニッツの有名な充足理由律です。

英語では Principle of Sufficient Reason(プリンシプル・オブ・サフィシェント・リーズン/充足理由律) と呼ばれます。

簡単に言えば、

「なぜそうであって、そうでないのではないのかには、十分な理由がある」

と考える原理です。

ライプニッツにとって、「たまたまこの世界になった」で説明を終えるわけにはいきません。

この世界が現実であるなら、

「なぜ、この世界なのか?」

を問わなければならなかったのです。

そこでライプニッツは、神が創造しうる複数の可能世界を考えます。

ただし、何でも自由に組み合わせれば一つの可能世界になるわけではありません。

ここで重要になるのが、

compossibility(コンポッシビリティ/共可能性・両立可能性)

という考えです。

簡単に言えば、

「それらは同じ一つの世界の中で、一緒に成り立つことができるのか?」

ということです。

あるものと別のものが、それぞれ単独では可能に思えても、両方を同じ世界に入れると両立しないことがあります。

ライプニッツにとって可能世界とは、互いに両立できるものがまとまり、一定の法則のもとで成り立つ世界全体の一つのあり方でした。

自然法則も世界の選択に関係しており、ライプニッツは世界の秩序を、単に「何が存在するか」だけではなく「どのような法則のもとで世界が成り立っているか」まで含めて考えています。

そしてライプニッツは、さらに大胆な問いへ進みます。

「完全に善く、完全に賢い神が世界を創造するなら、どの可能世界を選ぶのか?」

ライプニッツの答えは、

神は可能な世界の中から最善の世界を現実化する

というものでした。

これが有名な「最善可能世界」の考えです。

ライプニッツは1710(宝永7)年に刊行した『弁神論』で、神の善、人間の自由、そして世界に存在する悪や苦しみをどう両立して考えられるのかを本格的に論じました。

ただし、

「最善可能世界」とは、「この世界では何も悪いことが起きない」という意味ではありません。

ライプニッツ自身、苦痛、悪、罪が現実に存在することを前提にしています。

彼が考えた「最善」は、一つ一つの出来事だけを見て、

「この出来事はうれしいから良い」

と採点するものではありません。

世界全体の秩序、豊かさ、調和などを含めて、

「世界全体として、神が創造しうるものの中で最も優れたものはどれか」

という問題です。

もちろん、

「本当にこの世界が最善なのか」

という主張そのものは、後世から多くの批判や議論を受けています。

ですから、ここで覚えておきたいのは、

「この世界が最善であることが哲学によって証明された」ということではなく、ライプニッツが神・世界・可能性・悪を一つの体系として説明するために到達した哲学的立場である

ということです。

そして、ライプニッツと後に登場するデイヴィッド・ルイスには決定的な違いがあります。

ライプニッツにとって、現実に創造されている世界は一つです。

ほかの可能世界が、この世界と同じ意味で具体的な宇宙として並行して存在している、と考えたわけではありません。

ライプニッツにとって、実現されなかった可能世界は神の知性における可能な世界であり、私たちの現実世界と同じ仕方で具体的に実在しているわけではありません。

つまりライプニッツにとって可能世界とは、

「別宇宙はどこにあるのか」を考えるためではなく、「この世界はなぜ現実なのか」「何が必然で、何が別様でもありえたのか」を考えるための重要な哲学的概念だったのです。

そしてライプニッツは、「なぜほかの可能世界ではなく、この世界が現実なのか」という問いにも答えを出しました。

それが、ここまで見てきた、

「完全な知恵と善性をもつ神が、可能な世界の中から最善の世界を選び、現実の世界として創造した」

という考えです。

ここで重要なのは、

「この世界が現実になった」ことと、「この世界以外は不可能だった」ことは同じではない

という点です。

ライプニッツにとって、現実にならなかった可能性も可能性として残っています。

だからこそ、

「現実にそうなった」ということと、「そうなるしかなかった」ということを区別して考える

必要がありました。

この意味で、可能世界はライプニッツにとって、

「なぜ現実はこのようになっているのか」を問いながら、同時に「現実になったものすべてが必然なのか」を問い直すための概念でもあった

と見ることができます。

ところが20世紀になると、この「可能世界」について、ライプニッツとは驚くほど違う答えを出す哲学者が現れます。

彼が問い直したのは、

「“ありえた世界”と言うけれど、その世界はいったい何なのか?」

という問題でした。

第10章 「可能世界は本当に存在する」――『デイヴィッド・ルイス』とは?

デイヴィッド・ケロッグ・ルイス(David Kellogg Lewis)〔1941(昭和16)年―2001(平成13)年〕は、20世紀後半のアメリカを代表する分析哲学者の一人です。

可能性や必然性だけでなく、因果関係、自然法則、心、言語、知識など幅広い問題を論じました。

しかし可能世界の記事で彼が特に重要なのは、

「可能世界とは、結局何なのか?」

という問いに、非常に大胆な答えを出したからです。

第8章まで、私たちは何度も、

「雨が降っている可能世界」

「一本早い電車に乗った可能世界」

「違う学校へ進学した可能世界」

と考えてきました。

便利です。

でも、ここでルイスなら問い返します。

「では、その“可能世界”とは何として存在しているのでしょう?」

ただの想像でしょうか。

文章の集まりでしょうか。

便利な計算道具でしょうか。

ルイスが擁護した答えは、

可能世界は、私たちの現実世界に劣らず存在する

というものでした。

この立場は一般に、

modal realism(モーダル・リアリズム/様相実在論)

と呼ばれます。

さらに、ルイスのように可能世界具体的な世界として認める点を強調して、具体的様相実在論と呼ぶと、より正確です。

ルイスは1986(昭和61)年の代表作、

On the Plurality of Worlds(オン・ザ・プルラリティ・オブ・ワールズ/直訳すれば「世界の複数性について」)

で、この立場を本格的に擁護しました。

ルイスにとって可能世界は、単なる「世界についての説明文」ではありません。

その世界には、その世界の人や物や出来事があります。

そして私たちの世界と、ほかの可能世界は、互いに同じ時空を共有せず、時空的・因果的に隔てられています。

ここは、とても大切です。

ルイスの可能世界は、「選択するたびに新しい世界が生まれる」という理論ではありません。

今日あなたが右の道を選んだから、

その瞬間に「左を選んだ世界」が枝分かれして誕生する――

という話ではありません。

また、量子力学で議論されるMany-Worlds Interpretation(メニー・ワールズ・インタープリテーション/多世界解釈)とも別の理論です。

多世界解釈とは、量子力学をどのように理解するかについての解釈の一つで、ヒュー・エヴェレット3世が1957(昭和32)年に示した「相対状態」の考えに由来します。

ここでいうrelative state(レラティブ・ステート/相対状態)とは、簡単に言えば、「観測者がどの結果を見ているかに応じて、その観測者に対応する対象の状態を考える」という考え方です。

たとえば、ある測定について「結果Aを見る観測者」と「結果Aになっている対象」が対応し、同時に「結果Bを見る観測者」と「結果Bになっている対象」も、全体の量子状態の中で対応していると考えます。

エヴェレットは、このような考え方によって、観測のたびに一つの結果だけが残ると仮定しなくても、量子測定を説明しようとしました。

多世界解釈とは、非常に簡単に言えば、量子力学で複数の結果が生じうるとき、一つの結果だけが残り、ほかが消えると考えるのではなく、それぞれの結果に対応する「枝」を含む形で量子状態を捉える考え方です。

ただし、これは「人間が右を選んだ瞬間に、左を選んだ別宇宙が新しく生まれる」という単純な話ではありません。

そして、ルイスの可能世界論とも目的が違います。

多世界解釈は、量子力学における世界や測定結果をどう理解するかという問題です。

それに対してルイスが考えているのは、

「可能であるとは何なのか」「現実ではない可能世界とは何なのか」

という形而上学的な問題です。

つまり、名前やイメージは似ていても、多世界解釈とルイスの可能世界論は別の理論なのです。

ルイスの理論では、可能世界は私たちの決断によって作られるものではありません。

さらに面白いのが、

actual(アクチュアル/現実の)

という言葉についての考え方です。

普通は、

「この世界だけが本当に現実で、ほかの可能世界は非現実なのでは?」

と思います。

しかしルイスは、「actual」という言葉を、

「ここ」や「いま」のような、話している位置によって指すものが変わる言葉

として捉えます。

たとえば東京にいる人が、

「ここ」

と言えば東京を指します。

大阪にいる人が、

「ここ」

と言えば大阪を指します。

同じように、私たちが、

「現実世界」

と言えば、私たちがいるこの世界を指します。

もし別のルイス的可能世界に住人がいるなら、その住人が「現実世界」と言うときには、その人自身がいる世界を指します。

つまりルイスにとって、私たちの世界だけが特別な「存在の仕方」を与えられているわけではありません。

では、なぜルイスは、これほど多くの世界を認めるような大胆な理論を選んだのでしょうか。

理由の一つは、可能世界を認めることで、さまざまな哲学上の問題を一つの体系の中で説明できると考えたからです。

たとえば、

「何が可能で、何が必然なのか」

「もし別のことが起きていたら、どうなっていたのか」

「あるものが、実際とは違う性質を持つことはできたのか」

さらには、命題や性質といった問題まで、可能世界やそこに存在するものを使って統一的に分析することができます。

ルイスにとって重要だったのは、単に「説明に便利だから」というだけではありません。

「可能である」ということを説明するために、さらに別の「可能」という言葉を持ち出すのではなく、具体的な世界とそこに存在するものを使って、可能性そのものをできるだけ基礎的な形で説明しようとしたのです。

ルイスは、こうした理論の広い説明力と統一性を大きな利点だと考えました。

もちろん、

「多くの問題を説明できるからといって、本当にそれほど多くの具体的な世界の存在まで認めてよいのか?」

という反論があります。

そのため、ルイスの具体的様相実在論は、可能世界についての有力で影響力の大きい立場の一つではありますが、哲学者の共通見解ではありません。

可能世界を、ルイスのような具体的世界ではなく、抽象的な対象として理解する立場もあります。

ここで大切なのは、

「可能世界」という概念そのものと、「可能世界とは具体的に何なのか」という問いにルイスが出した答えを分けること

です。

そして、ルイスの答えを受け入れると、さらに不思議な問題が出てきます。

別の可能世界に、

あなたによく似た人物がいるとします。

その人物は、本当に、

「別世界のあなた」なのでしょうか。

第11章 別の可能世界の「あなた」は、本当にあなた?

「私は別の仕事に就くこともできた」

「私は別の学校へ進学することもできた」

私たちは自然にこう言います。

すると、

「別の可能世界には、別の人生を送っている私がいる」

と考えたくなるかもしれません。

しかし、ここでは慎重に分ける必要があります。

可能世界を使う哲学者すべてが、「同じ一人のあなたが複数の世界に存在する」と考えているわけではありません。

ここで大切なのは、「同じ人物」とは、「すべての性質がまったく同じ人物」という意味ではないことです。

たとえば、

「私は今日、青い服ではなく赤い服を着ることもできた」

と考えてみましょう。

赤い服を選んだだけで、あなたがまったく別人になるとは普通は考えません。

つまり私たちは、

「同じ一人の人物でも、実際とは違う性質を持つことができた」

と考えることがあります。

そこで可能世界について、

「別の可能世界でも、その“同じ人物”が違う性質を持って存在できるのか」

という問題が生まれます。

この問題に関わるのが、

transworld identity(トランスワールド・アイデンティティ/通世界的同一性)

です。

これは、同じ一人の個体が、複数の可能世界にまたがって存在すると考えられるのかという問題です。

たとえば、現実世界では会社員であるあなたが、別の可能世界では料理人である。

職業は違っていても、どちらも数的には「同じ一人のあなた」だと考えることができるのか、という問いです。

一方、デイヴィッド・ルイスは、このように同じ一人の個体が複数の世界に存在するとは考えません。

ルイスの理論では、普通の個体は一つの世界に属します。

そこで必要になるのが、

counterpart(カウンターパート/対応者)

という考えです。

ルイスは1968(昭和43)年の論文、

Counterpart Theory and Quantified Modal Logic(カウンターパート・セオリー・アンド・クオンティファイド・モーダル・ロジック/対応者理論と量化様相論理)

で、対応者理論を本格的に提示しました。

たとえば、今のあなたが会社員だとします。

それでも、

「私は料理人になることもできた」

と言えそうです。

ルイスなら、

「別の世界に、今ここにいるあなた本人がそのまま存在して料理人をしている」とは考えません。

そうではなく、

別の可能世界に、あなたに対応する人物がいて、その人物が料理人である

ことによって、あなたが料理人になる可能性を分析します。

その別世界の人物が、あなたの対応者です。

では、何が似ていれば「対応者」なのでしょうか。

顔でしょうか。

性格でしょうか。

身体でしょうか。

人生でしょうか。

ルイスの理論は、単純に、

「90%以上同じなら対応者」といった基準を置きません。

どのような類似を重視するかは、私たちが何について可能性を考えているのかという文脈にも左右されます。

ある場面では身体的な類似が重要かもしれません。

別の場面では、人生の経歴や役割の類似が重要かもしれません。

ルイスは、この対応関係の文脈依存性を理論の弱点ではなく、私たちの「何がそのものにとって本質なのか」という判断の揺れを説明できる特徴として利用しました。

ここから、とても面白い問いが生まれます。

髪型だけが違うあなたなら、

「そんな自分もありえた」

と思えるでしょう。

では、職業が違ったら?

性格が大きく違ったら?

住んでいる国が違ったら?

両親まで違ったら?

どこまで変わっても、

「私はそうなることができた」

と言えるのでしょうか。

ここで登場するのが、

本質的性質偶然的性質という考えです。

簡単に言えば、

本質的性質とは、それを失ったなら、そのものが同じものとして存在できないと考えられる性質。

一方、

偶然的性質とは、それが違っていても、そのものが同じものとして存在できると考えられる性質。

「今日、青い服を着ている」は、あなたの本質ではなさそうです。

では、

生まれた場所は?

両親は?

身体は?

記憶は?

人格は?

問いを続けていくと、

「私は何によって私なのか」

という問題に近づいていきます。

ただし、ここで一つ区別しておきましょう。

「別の可能世界にいる人物は、本当に同じ自分なのか」という問題は、transworld identity(トランスワールド・アイデンティティ/通世界的同一性)と呼ばれます。

これは、一人の同じ個体が、複数の可能世界にまたがって存在すると考えられるのかという問題です。

一方、これとは別に、

「子どものころの自分と、今の自分は、なぜ同じ一人の人だと言えるのか」

という問題もあります。

こちらは personal identity(パーソナル・アイデンティティ/人格の同一性) と呼ばれ、時間が経ち、身体や記憶、性格が変化しても、何をもって同じ人だと言えるのかを考える哲学的問題です。

つまり、

通世界的同一性=「別の可能世界でも同じ自分なのか」

人格の同一性=「時間が経っても同じ自分なのか」

という違いがあります。

似ているように見えますが、哲学では別の問題として扱われます。

しかし両方とも、

「何が変わっても、それを同じものと言えるのか?」

という問いを共有しています。

可能世界を考えていたはずが、

いつの間にか、

「私とは何なのか」

という問いにたどり着く。

ここまで来ると、可能世界が単なる「もしもの世界」の話ではないことが、かなり見えてきたのではないでしょうか。

第12章 可能世界を知ると、日常の見方はどう変わる?

ここまで、かなり深いところまで進んできました。

ライプニッツは、

「なぜ、この世界が現実なのか」

を考えました。

デイヴィッド・ルイスは、

「可能世界とは、結局何として存在するのか」

を突き詰めました。

そして対応者理論から、

「別の可能世界の私は、本当に私なのか」

という問いまで生まれました。

では、この哲学を知ることは、日常生活とどうつながるのでしょうか。

ここからは、ライプニッツやルイス本人が人生訓として主張した内容ではなく、可能世界の考え方から私たちが引き出せる、一つの思考上の応用として考えてみましょう。

その中心にあるのは、

「今そうであること」と「そうでなければならないこと」を分けて考える

という視点です。

仕事で、

「この方法は昔から決まっているから、変えられない」

と言われたとします。

そこで、一つ問いを置いてみます。

「この方法でなければ、仕事そのものが成り立たないのでしょうか?」

別の方法でも目的を達成できるのであれば、

現在の方法は「今そうしている方法」ではあっても、

「それ以外は絶対に不可能な方法」ではありません。

もちろん、

「別の方法が可能だから、すぐ変えるべきだ」

という結論にはなりません。

費用、安全性、法律、人員、経験など、現実には多くの条件があります。

可能世界的な問いが教えてくれるのは、

「変えられるかもしれない」と「変えるべきだ」を分けながら、まず本当に必然なのかを考える

ことです。

人間関係でも考えてみましょう。

「あの人は冷たい人だ」

「あの人とは絶対に分かり合えない」

そう感じることがあります。

しかし、

状況が違っていたら?

立場が逆だったら?

相手が知っている情報が違ったら?

自分の言い方が違っていたら?

同じ結果になったでしょうか。

これは、

「あの人は本当は良い人だ」

と無理に考えるための方法ではありません。

受けた傷や問題をなかったことにするものでもありません。

ただ、

「実際にこの行動をした」ということと、「どんな状況でも必ず同じ行動をする人である」ということは同じではない

と区別するための問いにはなります。

そして最も身近なのが、自分自身です。

「私は人前で話せない人だから」

「私は勉強が苦手だから」

「私はこういう性格だから仕方がない」

私たちは、自分についても、

「今そうである」と「必ずそうである」を混ぜてしまうことがあります。

そこで、

「環境が違っていたら?」

「練習を続けていたら?」

「別の経験をしていたら?」

と考えてみる。

すると、

自分にとって本当に変えにくいものと、

現在そうなっているだけかもしれないものを、

少し分けて考えられるようになります。

ただし、可能世界は、

「望めば何にでもなれる」という考えではありません。

人には身体的、経済的、社会的、時間的な制約があります。

変えられない過去もあります。

だから大切なのは、

「何でも可能だ」と思うことではなく、「何が本当に不可能で、何がまだ別のあり方を考えられるのか」を吟味すること

なのです。

社会について考えるときにも、この区別は役立ちます。

「昔からこうだった」

「世の中とはこういうものだ」

「みんなそうしている」

という言葉を聞くと、現在の制度や習慣まで、自然法則のように変えられないものに感じることがあります。

でも、

「現在そうなっている」という事実だけから、「ほかの仕組みは不可能だ」という結論は出ません。

別の制度を持つ社会が実際に存在するなら、それだけでも「別のあり方」を考える材料になります。

すると、

「別の制度にしたら何が良くなる?」

「逆に何が失われる?」

「現在の仕組みには、どんな理由がある?」

という、もう一段深い問いへ進めます。

可能世界的に考えることは、

現実を捨てて空想の世界へ逃げることではありません。

別のあり方と比べることで、今の現実がなぜこの形なのかを、かえって詳しく見ることでもあります。

ここには、哲学のおもしろさがあります。

私たちは、

「普通だから」

「昔からそうだから」

「私はこうだから」

と考えます。

哲学は、そこへ小さな問いを置きます。

「それは本当に、そうでなければならないのでしょうか?」

考えた結果、

「やはり変えられない」

という答えになることもあります。

それでも意味があります。

なぜなら、

人から言われた「仕方がない」をそのまま受け取ることと、

自分で考えた末に「ここは変えられない」と判断することは、同じではないからです。

可能世界を知ったから、現実が突然変わるわけではありません。

それでも、

「現実である」と「必然である」の間にある違い

を意識できるようになります。

その小さな違いの中から、

「なぜ?」

「本当に?」

「別の場合なら?」

という問いが生まれます。

そして、その問いを自分で考え始めたとき、

可能世界は難しい哲学用語から、

自分と世界を、もう一度吟味するための思考の道具

へと変わっていくのです。

第13章 可能世界の「よくある間違い」

可能世界についてここまで詳しく見てきましたが、この言葉は「パラレルワールド」「もしもの世界」といった言葉と結びつきやすいため、知らないうちに別の考えと混ざってしまうことがあります。

ここでは、可能世界について特に起こりやすい間違いを取り上げながら、哲学ではどのように考えるのが正確なのかを整理しておきましょう。

よくある間違い①
「可能世界とは、宇宙のどこかに本当に存在するパラレルワールドのことである」

これは、可能世界一般の意味としては違います。

正しくは、可能世界とは「世界がどのようでありえたか」を考えるために使われる哲学上の概念です。

その可能世界が「本当は何なのか」については、哲学者によって考えが違います。

抽象的な対象として理解する立場もあれば、第10章で紹介したデイヴィッド・ルイスのように、私たちの世界と同じような具体的世界として実在すると考える立場もあります。

つまり、

「可能世界について考えること」と「別宇宙が実在すると考えること」は同じではありません。

可能世界を具体的世界と考えるルイスの立場は、可能世界についての一つの理論なのです。

よくある間違い②
「人が選択するたびに、新しい可能世界が枝分かれして生まれる」

これも、哲学における可能世界の一般的な考え方ではありません。

たとえば、

「私は右のくじを選んだけれど、左を選ぶこともできた」

と考えることはできます。

しかし、それは、

「右を選んだ瞬間、左を選んだ宇宙が新しく誕生した」

という意味ではありません。

可能世界は、ある選択をした瞬間に生成される世界を意味する言葉ではなく、「別の仕方であることもできた」という可能性を考えるための世界です。

デイヴィッド・ルイスの具体的様相実在論でも、可能世界は私たちの選択によって次々と作られる世界ではありません。

量子力学で論じられる「多世界解釈」や、物語で使われる「世界線の分岐」とも区別して考える必要があります。

よくある間違い③
「可能世界を考えた哲学者はデイヴィッド・ルイスである」

ルイスは可能世界論の非常に重要な哲学者ですが、可能世界という考えの出発点ではありません。

「possible world(ポッシブル・ワールド/可能世界)」という表現を哲学上の専門語として最初に用いた哲学者とされるのは、ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツです。

ただし、ライプニッツと現代哲学では可能世界の使い方も考え方も同じではありません。

ライプニッツは、神が創造しうる複数の世界を考えました。

20世紀には、可能世界を使って「可能」「必然」を分析する意味論が発展しました。

そしてルイスは、

「では、その可能世界は何として存在するのか?」

という問題に対して、「具体的な世界として存在する」という大胆な答えを擁護しました。

つまり、

ライプニッツが可能世界を哲学上の重要な概念として用い、

現代の論理学者たちがそれを分析の道具として発展させ、

ルイスがその存在の仕方について独自の答えを出した、

と整理すると分かりやすいでしょう。

よくある間違い④
「想像できる世界なら、何でも可能世界になる」

これも単純には言えません。

人間は言葉を使えば、

「四角い円」

「同じ意味・同じ時点で、完全に存在していて完全に存在していないもの」

といった表現も作れます。

しかし、言葉にできるからといって、それが論理的に可能になるわけではありません。

第7章で見たように、

論理的可能性、

物理的可能性、

形而上学的可能性、

認識的可能性など、

「可能」という言葉には、何を基準に可能と判断するのかという違いがあります。

ですから大切なのは、

「想像できるか」ではなく、「どの意味で可能なのか」を考えることです。

哲学は「そんな世界も面白そうですね」で終わらず、「その世界は本当に可能と言えるのでしょうか」ともう一度問い直します。

よくある間違い⑤
「別の可能世界には、必ずもう一人の“自分本人”がいる」

これも、哲学者によって答えが違います。

可能世界をまたいで人や物をどのように考えるのか自体が、哲学上の問題です。

同じ一人の人物が複数の可能世界に存在すると考える立場は、

transworld identity(トランスワールド・アイデンティティ/通世界的同一性)

と呼ばれます。

一方、デイヴィッド・ルイスは、

今ここにいる本人は一つの世界に属し、別世界にはその人の counterpart(カウンターパート/対応者)がいる

と考えます。

ですから、

「可能世界=もう一人の自分が暮らしている世界」と一つの答えに決めることはできません。

「別の可能性にいる私は、本当に私なのか?」その疑問そのものが哲学なのです。

ここまでの間違いには、一つ共通点があります。

それは、

「可能世界という概念」と、「可能世界を何だと考えるかという個々の哲学理論」を混ぜてしまうことです。

可能世界は、「世界がどうでありえたか」を考えるための概念です。

その世界を、

抽象的なものと考えるのか。

具体的に実在すると考えるのか。

同じ人物が別世界にもいると考えるのか。

対応者がいると考えるのか。

そこから先は、哲学者によって答えが分かれます。

だからこそ可能世界は面白いのです。

一つの定義を暗記して終わるのではなく、

「この哲学者は、可能世界を使って何を説明しようとしているのだろう?」

と考える。

そこまで進むと、可能世界は単なる哲学用語ではなく、いくつもの哲学的な問いが集まる場所に見えてきます。

第14章 おまけコラム

クリプキから見る「可能世界」

ここまで、ライプニッツデイヴィッド・ルイスという二人の哲学者を見てきました。

二人とも「可能世界」について考えましたが、二人が答えようとした問いは同じではありません。

ライプニッツが考えた大きな問いの一つは、

「なぜ、ほかの世界ではなく、この世界が現実なのか」

というものでした。

そしてライプニッツは、完全な知恵と善性をもつ神が、創造可能な世界の中から世界全体として最善のものを選び、それを現実の世界として創造したからだと考えました。

つまりライプニッツにとって、

「なぜ、この世界なのか」には十分な理由がある

と考えられていたのです。

一方、デイヴィッド・ルイスが突き詰めたのは、

「では、その“ありえた世界”そのものは、いったい何なのか」

という問いでした。

そしてルイスは、

可能世界は単なる想像上の道具ではなく、私たちの世界と同じように具体的に実在する

という大胆な答えを出しました。

では、可能世界について考えられる問いは、この二つだけなのでしょうか。

ここで、もう一人の哲学者を見てみましょう。

ソール・アーロン・クリプキ(Saul Aaron Kripke)〔1940(昭和15)年―2022(令和4)年〕です。

クリプキはアメリカの哲学者・論理学者で、様相論理、言語哲学、形而上学などに大きな影響を与えました。

クリプキを見ると、可能世界について別の問いが見えてきます。

それは、

「可能世界を使うと、『可能』『必然』といった言葉が、どのような条件で成り立つのかを、どう明確に表せるのか」

という問題です。

可能世界意味論では、可能世界を、

「ある文や命題が、そこで真なのか偽なのかを評価するための点」

として扱います。

たとえば、

「今日は雨が降っている」

という文を考えてみましょう。

雨が降っている可能世界では、この文は真です。

晴れている可能世界では、この文は偽です。

このように、それぞれの世界で何が真になるのかを比べることで、

「可能」=考慮する世界のうち、少なくとも一つで真である。

「必然」=考慮するすべての世界で真である。

「偶然的」=真になる世界もあれば、真にならない世界もある。

というように整理できます。

つまり、「可能」「必然」といった言葉を、ただ「なんとなくありえそう」「絶対そうだ」と感覚的に使うのではなく、

「どの世界で真になるのか」

という条件に置き換えて分析できるわけです。

では、

「どの可能世界を考慮するのか」

は、どのように表すのでしょうか。

そこで登場するのが、

accessibility relation(アクセシビリティ・リレーション/到達可能関係)

です。

「到達可能」と聞くと、

「その世界へ移動できるということ?」

と思うかもしれません。

しかし、そういう意味ではありません。

ここでいう到達可能関係とは、

「ある世界を基準にしたとき、どの世界を可能性として考慮するのか」

を表す論理上の関係です。

クリプキの1959(昭和34)年、1963(昭和38)年の仕事は、このような様相論理の意味論を発展させるうえで重要な役割を果たしました。

ただし、クリプキ一人が可能世界意味論を突然発明したわけではありません。

カンガー、ヒンティッカ、モンタギュー、プライアーなど、同じ時代の研究者たちも重要な仕事をしています。

つまりクリプキの重要性の一つは、

「可能世界が本当は何なのか」という存在論だけでなく、可能世界を使って「可能」「必然」を論理的に分析する方法を重要な形で発展させたこと

にあります。

しかし、クリプキの面白さはこれだけではありません。

もう一つ、とても興味深い問いがあります。

それは、

「別の可能性について語るとき、私たちは誰について語っているのか?」

という問題です。

クリプキは、1970(昭和45)年に行った講義をもとにした『Naming and Necessity(ネーミング・アンド・ネセシティ/名指しと必然性)』で、

rigid designator(リジッド・デジグネーター/固定指示子)

という考えを有名にしました。

たとえば、

「徳川家康が関ヶ原の戦いで敗れていたかもしれない」

と考えてみましょう。

このとき私たちは、

「徳川家康」という名前を持つ、家康によく似た別人が敗れた

と言いたいわけではありません。

考えているのは、

あの徳川家康本人が、実際とは違う結果を迎えていた可能性

です。

現実では家康は関ヶ原の戦いに勝ちました。

しかし、

「敗れていたかもしれない」

と考えるときも、話題になっているのは徳川家康本人です。

クリプキの固定指示子という考えを非常に簡単に言えば、

普通の固有名は、その人物や物が存在する別の可能性について語るときにも、同じ対象を指す

ということです。

ここで、第11章のデイヴィッド・ルイスを思い出してみましょう。

ルイスは、普通の個体が複数の可能世界にまたがって存在するとは考えません。

ルイスの対応者理論では、

「徳川家康が敗れていたかもしれない」

という可能性を考えるとき、別の可能世界にいるのは徳川家康本人ではなく、

徳川家康のcounterpart(カウンターパート/対応者)

として分析されます。

一方、クリプキの議論では、ルイスのように必ず対応者へ置き換えなくても、

「徳川家康本人が敗れていたかもしれない」

という形で、同じ人物について実際とは違う可能性を語ることができます。

ただし、

「クリプキは、同じ一人の人物が複数の世界に文字どおり存在すると証明した」という意味ではありません。

通世界的同一性をどのように理解するのかについては、哲学的な議論があります。

ここで大切なのは、

同じ「可能世界」という考えを使っていても、哲学者によって、それを使って答えようとした問いが違う

ということです。

最後に、三人を並べてみましょう。

ライプニッツは、
「なぜ、この世界が現実なのか」
と問い、完全な知恵と善性をもつ神が、可能な世界の中から最善の世界を選んだからだと考えました。

クリプキは、
「何が可能で、何が必然なのかを、可能世界を使ってどう明確に考えられるのか」
を研究しました。

そして、いくつかの可能世界を比べ、「どの世界でその内容が成り立つのか」を見ることで、「可能」や「必然」を論理的に整理する方法を発展させました。

このような、「可能」「必然」といった言葉がどのような条件で成り立つのかを考える仕組みを、様相論理の意味論と呼びます。

さらに、
「現実とは違う可能性について考えるとき、同じ人物や物についてどのように語れるのか」
という問題にも大きな影響を与えました。

つまりクリプキは、「可能・必然をどう整理するか」と、「同じものが別の仕方でありえたとはどういうことか」を考えるうえで重要な哲学者です。

デイヴィッド・ルイスは、
「その可能世界そのものは何なのか」
と問い、可能世界は単なる想像上の道具ではなく、私たちの世界と同じように具体的に実在するという大胆な答えを出しました。

三人とも「可能世界」について考えています。

しかし、

三人は、同じ質問に同じ答えを出していたわけではありません。

ライプニッツは、「なぜこの世界なのか」を問い、

クリプキは、「可能や必然をどう明確に語るのか」を問い、

ルイスは、「可能世界そのものは何なのか」を問い詰めました。

同じ「可能世界」という言葉でも、哲学者によって、それを必要とした問いが違うのです。

ここが、このおまけコラムで一番面白いところです。

哲学者の名前や専門用語だけを見ていると、

「難しい知識を覚えなければならない」

ように感じるかもしれません。

しかし、その哲学者が抱えていた問いまで戻ってみると、

「なぜ、この世界なのか」

「ほかのあり方は本当に可能なのか」

「何が必然なのか」

「同じ人が別の生き方をしていたとは、どういうことなのか」

「そもそも“ありえた世界”とは何なのか」

という、私たち自身にもつながる問いが見えてきます。

そして、一人の哲学者が答えを出すと、

別の哲学者が、

「でも、本当にそうなのだろうか?」

と問い直す。

そこから、また新しい考え方が生まれます。

一つの答えが、新しい問いの始まりになる。

これも、哲学の面白さの一つです。

だから哲学を読むときには、

「この哲学者は何と答えたのか」だけでなく、「そもそも何を問題にして、その答えを必要としたのか」

まで考えてみる。

そうすると、「可能世界」は単なる難しい専門用語ではなく、

「何が現実なのか」「何が可能なのか」「何が必然なのか」「同じものが別の仕方でありえたとはどういうことなのか」を、さまざまな角度から問い直すために使われてきた哲学の概念

として見えてきます。

つまり、このおまけコラムで一番伝えたいのは、

同じ「可能世界」という考えを使っていても、哲学者によって、それを必要とした「問い」が違う

ということです。

そして哲学の面白さは、答えだけでなく、

「なぜ、その答えが必要になるような問いが生まれたのか」

までたどってみるところにもあるのです。

――この先は、興味に合わせて第15章「応用編」へ。

ここまでに出てきた「可能」「必然」「偶然」「現実」「反事実」「可能世界」。

似ているようで少しずつ違う言葉を整理すると、可能世界はもっと身近な思考の道具になります。

「もし〜だったら」「これは仕方がない」「そんなこともありえる」といった日常の感覚を、もう少し正確に、自分の言葉で語れるようになってみましょう。

第15章 応用編

似ている言葉を分けると、可能世界がもっと分かる

可能世界について学ぶと、「可能」「必然」といった言葉を今までより注意して見るようになります。

すると、日常ではほとんど同じ意味で使っていた言葉が、哲学では別の問いを表していることに気づきます。

ここでは、特に間違えやすい言葉をいくつか比べてみましょう。

「可能性」と「確率」は、同じものではありません。

possible(ポッシブル/可能な) probable(プロバブル/起こりそうな・確からしい)は、似ていますが違います。

たとえば、100万分の1で当たるくじがあるとします。

当たる確率は非常に低い。

しかし、当選すること自体が仕組み上ありうるなら、

「起こる可能性はあるが、起こる確率はとても低い」

と言えます。

可能性が問題にするのは、まず「それはありうるのか」。

確率が問題にするのは、一定のモデルや情報のもとで「どの程度起こりやすいのか」です。

ですから、

「可能である」からといって、

「起こりそうだ」

とは限りません。

可能世界でいう「可能」は、まず“ありうるかどうか”についての言葉です。

確率の高低とは分けて考えると、日常の「可能性がある」という言葉もずっと正確に使えるようになります。

「現実」と「可能」も、単純な反対語ではありません。

ここは意外と大切です。

「現実に起きたこと」と「可能だったこと」を、

現実 対 可能

という反対の組み合わせのように感じるかもしれません。

しかし、標準的な可能世界の考え方では、現実に起きていることも、もちろん可能なことに含まれます。

今日、実際に雨が降っているなら、

「今日、雨が降ること」は少なくとも不可能ではありません。

実際に起こっているからです。

つまり、

actual(アクチュアル/現実の)possible(ポッシブル/可能な)は、「現実か空想か」という単純な反対語ではありません。

より正確には、

現実であるかどうかと、

可能であるかどうかは、

別の軸の問いなのです。

この区別が分かると、

「現実ではなかったから、不可能だった」

という考え方も避けられるようになります。

では、「必然」と「偶然」は反対語なのでしょうか。

ここも少し注意が必要です。

哲学でいう necessary(ネセサリー/必然的) とは、考慮しているすべての可能世界で成り立つことです。

一方、contingent(コンティンジェント/偶然的・非必然的) とは、ある可能世界では成り立ち、別の可能世界では成り立たないことです。

ですから、

「今日、私は白いシャツを着ている」

ことが現実では真でも、黒いシャツを着ていることもできたなら、それは偶然的に真です。

ただし、

「必然の反対=偶然」

とだけ覚えると、少し粗くなります。

命題全体を分類するなら、

必然的に真

偶然的――真にも偽にもなりうる

不可能――必然的に偽

と区別できます。

ですから、「偶然的」は日常語の「たまたま」より、

「別様でもありえた」

という意味で理解すると分かりやすくなります。

「仮定」と「反事実」も、まったく同じではありません。

たとえば、

「もし明日雨が降ったら、家で本を読もう」

と言ったとします。

まだ明日になっていないので、雨が降るかどうかは分かりません。

これは「もし」という仮定ですが、必ずしも反事実ではありません。

一方、

「もし昨日雨が降っていなかったら、遠足に行けただろう」

と、実際には雨だったことを知りながら考える。

こちらは典型的な、

counterfactual(カウンターファクチュアル/反事実的な)

考え方です。

つまり、

「もし〜なら」という文がすべて反事実条件文になるわけではありません。

実際とは異なる条件を置いて、

「そうだったなら何が起こっただろう」

と考えるところに、反事実の特徴があります。

なお、条件文をどこまで「反事実」「仮定法」などに分けるべきかについては、言語学・哲学で細かな議論があります。日本語では英語のように文法形式だけで区別できない場合もあり、文脈が重要になります。

そして最後に、

「想像できる」と「可能である」も同じではありません。

英語では「想像・思考できること」を conceivability(コンシーヴァビリティ/思考可能性・想像可能性) と呼んで議論することがあります。

私たちは何かが可能か考えるとき、

「それを想像できるか」

を手掛かりにすることがあります。

これは自然な方法です。

しかし哲学では、

「想像できたように思えることから、本当に形而上学的に可能だと言えるのか」

が問題になります。

私たちが十分に細部を理解していないため、矛盾に気づかず「想像できた」と感じている可能性もあるからです。

そのため、

想像可能性は、可能性を考える手掛かりにはなっても、それだけで可能性を自動的に決定するとは限りません。

こうして言葉を分けてみると、

「ありえる」

という一言の中にも、

「不可能ではない」

「確率は低いが起こりうる」

「今の知識では否定できない」

「現実とは違うが別様でもありえた」

と、さまざまな意味があることが分かります。

可能世界を学ぶ意味の一つは、難しい専門用語を増やすことではありません。

自分が「ありえる」「仕方がない」「絶対だ」と言ったとき、本当は何を意味しているのかを、もう一度考えられるようになることです。

言葉が少し正確になると、考え方も少し正確になります。

そして考え方が正確になると、

「これは本当に不可能なのか」

「それとも、ただ起こりにくいだけなのか」

「現実にそうなっているだけなのか」

「本当に必然なのか」

と、これまで見えなかった問いが見えてきます。

第16章 さらに学びたい人へ

可能世界についてもっと知りたくなったら、いきなり難しい哲学書へ進む必要はありません。

ここでは、おすすめ書籍を2冊紹介いたします。

この記事を読んだ人全体におすすめ
『可能世界の哲学――「存在」と「自己」を考える』三浦俊彦著

タイトルどおり、「可能世界とは何なのか」「なぜ現実以外の世界を考えるのか」「可能世界は本当に存在するのか」「自己とは何なのか」という、この記事で扱ってきた問題を正面から考えます。

哲学の専門書ほど形式的ではありませんが、内容はきちんと可能世界論へ踏み込みます。

「可能世界は単なるパラレルワールドの話ではない」

「可能性と自己の問題はつながっている」

と面白く感じた人なら、その続きを考える一冊になります。

中級者へ
『デイヴィッド・ルイスの哲学――なぜ世界は複数存在するのか』野上志学著

デイヴィッド・ルイスの考えを、もっと深く知りたい人におすすめです。

中心となるのは、「なぜルイスは、可能世界が具体的に存在するという大胆な理論を本気で採用したのか」という問いです。

可能世界だけでなく、可能性・必然性、後悔、フィクション、自己などへ話が広がり、ルイスの哲学が単なる「変わった世界観」ではなく、多くの問題を一つの理論で説明しようとする体系だったことが見えてきます。

「ルイスはなぜ、そんなにたくさんの世界を認める必要があると思ったのだろう?」

という疑問が残った人に、特に向いています。

2冊は難易度も目的も違います。

可能世界そのものをもっと知りたいなら『可能世界の哲学』。

ルイスの答えを本格的に理解したいなら『デイヴィッド・ルイスの哲学』。

今の自分が一番「続きを知りたい」と思ったところから選んでみてください。

哲学では、一冊読めばすべての疑問が消えるとは限りません。

むしろ、

一つ分かったことで、今まで見えなかった問いが一つ増える。

その「もう少し考えてみたい」が、次の哲学の入口になります。

その「もう少し考えてみたい」が、次の哲学の入口になります。

第17章 まとめ・考察

「ありえた世界」を考えることは、「今の世界」を見直すこと

ここまで、「可能世界」という一つの言葉から、ずいぶん遠くまで歩いてきました。

最初にあったのは、

「もし、あのとき違っていたら?」

という、とても身近な疑問でした。

そこから、

「可能とは何か」

「必然とは何か」

「現実になったことは、本当にそうなるしかなかったのか」

「可能世界は本当に存在するのか」

「別の可能世界の私は、本当に私なのか」

という問いへ進んできました。

ここまでを一つにまとめるなら、

可能世界とは、現実とは別に世界がどうでありえたのかを考えることで、「現実」「可能」「必然」を区別するための哲学的な考え方です。

そして、ライプニッツ、クリプキ、デイヴィッド・ルイスを見てきたように、

可能世界を何だと考えるのか、その世界を使って何を説明するのかについて、哲学者の答えは一つではありません。

だからこそ、可能世界は「正解を一つ覚えれば終わる言葉」ではないのです。

ここからは、この記事を通して可能世界を考えてきたうえでの一つの考察です。

私がこの考え方で特に興味深いと思うのは、

「別の世界について考えているはずなのに、最後には今の現実がよく見えるようになる」

というところです。

可能世界という名前だけを見ると、現実から遠ざかる哲学に思えるかもしれません。

しかし、実際には逆の使い方ができます。

「別の仕方でもありえた」と考えることで、

今あるものの中から、

変えられないものと、たまたま現在そうなっているものを分けて見ることができるからです。

たとえば、

「この会社では、昔からこの方法だから」

「普通はこうするものだから」

「私はこういう人間だから」

「この人とはこういう関係だから」

という言葉があります。

それらが間違っているとは限りません。

けれど、

「今までそうだった」という事実は、それだけでは「これからも必ずそうでなければならない」という証明にはなりません。

可能世界の考え方は、その二つの間にある小さな違いを見つける道具になりえます。

こんな体験はないでしょうか。

ずっと、

「自分にはできない」

と思っていたことがあった。

ところが環境が変わったり、教えてくれる人が変わったりすると、思っていたよりできるようになった。

そのとき、

「できない人間だった」

のではなく、

「これまでの条件では、できなかった」

だけだったのかもしれない、と気づくことがあります。

人間関係でも似たことがあります。

「この人とは絶対に合わない」

と思っていたのに、立場が変わったり、一対一で話したりすると、今までとは違う面が見えた。

もちろん、すべての関係が改善するわけではありません。

しかし、

一つの現実しか経験していないことと、それ以外のあり方が不可能であることは別です。

この区別を意識するだけでも、自分の判断を少しだけ丁寧に見直せることがあります。

日常の小さな場面でも試せます。

たとえば何かに失敗したとき、

「あのとき別の選択をしていれば、全部うまくいったのに」

と思うことがあります。

そんなとき、可能世界の考え方を思い出してみます。

別の選択をした世界では、別の結果になったかもしれません。

しかし、そこではまた別の出来事が起きていたはずです。

第6章で見たように、

一つの条件だけを都合よく変えて、そのほかはすべて現在と同じだと考えてよいとは限りません。

そう考えると、

「あの選択さえ変えていれば、完璧だった」

という後悔を、少し違う角度から見ることもできます。

これは過去の後悔を消す方法ではありません。

ただ、

「私が頭の中で作っている理想の“もしも”は、本当に公平な比較なのだろうか」

と問い直すことはできます。

私はここに、可能世界の少しユニークな使い方があると思います。

可能世界は「別の人生を夢見るため」だけではなく、

自分が作った“理想の別世界”に、現実を必要以上に負けさせないためにも使える

のです。

さらに考えてみると、可能世界には少し不思議なところがあります。

私たちは実際には、一つの人生しか生きられません。

選ばなかった進路を同時に生きることも、

昨日へ戻って同じ一日をやり直すこともできません。

それでも人間は、

「そうではない世界」を考えることができます。

ここには、人間の思考の面白さがあります。

現実から離れて考えることで、

現実そのものを比較できる。

今ある世界を唯一の基準にしないことで、

今ある世界の特徴が見えてくる。

その意味では、可能世界は「現実から逃げる哲学」というより、

現実を絶対視しすぎないための哲学

とも言えるのかもしれません。

そして、この記事を通して特に残したいのは、

「現実である」と「必然である」は違う

という考えです。

今そうなっている。

みんなそうしている。

昔からそうだった。

自分は今までそうだった。

それらは、現実についての大切な情報です。

しかし、その情報だけで、

「ほかはありえない」

ところまで進んでしまっていないでしょうか。

可能世界を考えることは、

何でも変更できると思い込むことでも、

現実を否定することでもありません。

むしろ、

変えられないものは変えられないものとして認めながら、本当に変えられないのか分からないものまで「必然」にしてしまわないこと

なのだと思います。

その違いを考えられるところに、哲学が人を少し自由にする可能性があります。

では、あなた自身について考えてみてください。

今、

「こうするしかない」

「私はこういう人だから」

「もう変わらない」

と思っていることはあるでしょうか。

もしあるなら、一度だけ問いを置いてみてください。

「これは本当に、どの“ありえた世界”でも同じなのでしょうか?」

そしてもう一つ。

もし今とは少し違う世界がありえたとしたら、そこでも変わらず残っている“あなたらしさ”とは何でしょうか。

可能世界についての話は、ここで終わります。

けれど、その問いに答えようとした瞬間から、

次の哲学が始まります。

第18章 疑問が解決した物語

ミオさんが見つけた「ありえた」の意味

席替えの日から、しばらくたった放課後。

ミオさんは、自分の席から教室を見渡していました。

一番後ろの席にも、もうすっかり慣れています。

ユウタさんとは離れてしまいましたが、近くの席になった子と話すことも増えました。

あの日、ミオさんは何度も考えていました。

「もし左のくじを選んでいたら、違う席になっていたのかな?」

そして、もう一つ。

「でも、“左を選んでいたら違った”って、どうして言えるんだろう?」

あのときは、うまく言葉にできませんでした。

けれど、可能世界について知った今なら、少しだけ分かります。

ミオさんは机の上のノートを見ながら、心の中で考えました。

「右を選んだことが現実。でも、右を選ぶしかなかった、という意味じゃないんだ。」

実際に選んだのは右のくじです。

その過去は変わりません。

でも、くじを引く前には左を選ぶこともできた。

だから、

「左を選ぶこともありえた」

と考えることはできます。

ただし、もう一つ分かったことがあります。

左を選んでいたからといって、必ずユウタさんの近くの席になったとは限りません。

違う席になったかもしれない。

もっと遠くなったかもしれない。

つまり、

「別のこともありえた」ということと、「そちらなら必ず自分の望んだ結果になった」ということは違う。

そこまで考えると、ミオさんは少しだけ気持ちが軽くなりました。

「左を選んでいれば絶対によかったのに」

と、選ばなかった方を特別によい世界として考え続ける必要はないのだと思ったからです。

その日の帰り道、ユウタさんが言いました。

「次の席替えでは、近くになれるといいな」

ミオさんは笑って、

「うん。でも、どのくじなら正解かなんて、引く前には分からないよね」

と答えました。

「お、なんか難しいこと言うようになったな」

ユウタさんも笑いました。

数日後、今度はクラスで係を決めることになりました。

ミオさんは、いつもなら避けていた「発表係」を見つめました。

人前で話すのは苦手です。

以前なら、

「私には無理」

と、そのまま候補から外していたかもしれません。

でも今回は、少しだけ考えました。

「苦手なのは本当。でも、“できない”と決まっているわけではないのかもしれない。」

うまくいく保証はありません。

失敗するかもしれません。

それでも、

「うまくいくか分からない」ことと、「できるはずがない」ことは同じではありません。

ミオさんは、少し迷ってから手を挙げました。

可能世界を知ったからといって、未来が分かるようになったわけではありません。

正しい選択が必ず分かるようになったわけでもありません。

ただ、

「実際にそうなったこと」と、「そうなるしかなかったこと」を、前より少し分けて考えられるようになりました。

過去については、

「別の道もありえた。でも、そちらが必ず幸せだったとは限らない。」

未来については、

「今までこうだった。でも、これからも必ず同じとは限らない。」

そう考えられるようになったのです。

前は、ミオさんはこう思っていました。

「今の世界は、このようでなければならなかったの?」

今なら、こう答えるでしょう。

「今こうなっている。でも、だからといって、これ以外は絶対にありえなかったとは限らない。」

それが、ミオさんが可能世界について学んで見つけた、一つの答えでした。

現実を否定するのではありません。

選ばなかった道を美しく想像し続けるのでもありません。

「今そうである」と「そうでなければならない」を、いったん分けて考えてみる。

それだけで、「どうせ無理」「こうするしかない」と思っていたことの中に、まだ問い直せるものが見つかることがあります。

ミオさんはランドセルを背負い、ユウタさんと一緒に教室を出ました。

右のくじを選んだ過去は変わりません。

でも、これから先のすべてまで、その瞬間に決まってしまったわけではありません。

では、あなたならどうでしょう。

今、

「もう、こうするしかない」

と思っていることはありませんか。

それは本当に、ほかではありえないのでしょうか。

それとも――

まだ気づいていない「別のあり方」があるのでしょうか。

第19章 文章の締めとして

「もしも」の向こうに、今の世界が見えてくる

私たちは、選ばなかった道を歩くことはできません。

昨日に戻って、別の言葉を言い直すこともできません。

あの日、右を選んだ自分と、左を選んだ自分を同時に生き比べることもできません。

私たちが実際に生きられるのは、いつも一つの現実です。

それでも人間は、ときどき立ち止まって考えます。

「もし、あのとき違っていたら」

「もし、ここから別の道を選んだら」

「もし、今とは違う自分もありえたら」

そんな「もしも」は、ときに後悔になります。

ときに希望になります。

そして、ときには哲学になります。

可能世界について考えてきて、少し不思議なのは、

現実ではない世界を考えれば考えるほど、最後には今いるこの世界へ戻ってくる

ということです。

別の世界を考えるからこそ、

「今はなぜこうなっているのだろう」

と問い直せます。

違う自分を考えるからこそ、

「では、今の自分を自分らしくしているものは何だろう」

と考えられます。

起こらなかった出来事を考えるからこそ、

「実際に起きたことには、どんな意味があるのだろう」

という問いも生まれます。

可能世界は、現実の代わりに住む場所ではありません。

むしろ、

現実を「これしかないもの」として眺めるのではなく、「なぜこのようになっているのか」と、もう一度見つめるための小さな窓

なのかもしれません。

そして、もしかすると哲学そのものも似ています。

哲学は、すぐに正しい道を教えてくれる地図ではありません。

人生の答えを一つに決めてくれるものでもありません。

けれど、

「本当に?」

「なぜ?」

「ほかではだめなの?」

と、一度立ち止まる場所をつくってくれます。

その一瞬があるだけで、

昨日まで「仕方がない」と思っていたものが、少し違って見えることがあります。

逆に、いろいろ考えた末に、

「これは大切にしたい」

「やはり自分はこの道を選びたい」

と、以前より納得して現実へ戻ってくることもあります。

別の可能性を考えることは、いつも現実を否定することではありません。

別のあり方も考えたうえで、それでも今ここにあるものを見つめ直すこと。

そこにも、哲学する意味があるのだと思います。

あなたがこれから、

「あのとき別の選択をしていたら」

「どうして自分はこうなんだろう」

「本当にこれしか方法はないのかな」

と考える日があったなら、

この記事で出会った「可能世界」という言葉を、ほんの少し思い出してみてください。

すぐに答えが出なくても構いません。

問いが一つ生まれた時点で、

昨日まで当たり前だった世界に、小さな隙間ができています。

その隙間から、

今まで見えなかった可能性や、

今まで気づかなかった現実の大切さが、

見えてくることがあるかもしれません。

補足注意

本記事は、可能世界について、筆者が個人で確認できる範囲で哲学・論理学の文献や信頼できる資料をもとに、初めて触れる方にも分かりやすい形でまとめたものです。

ただし、可能世界をどのように理解するかについては、哲学者によって異なる立場や議論があります。この記事で紹介した考え方が、唯一の答えというわけではありません。

また、哲学や論理学の研究は現在も続いており、研究の進展や新しい議論によって、これまでの解釈が見直されたり、新たな視点が加わったりする可能性もあります。

🧭 本記事のスタンス

この記事が「答えを覚えるための終着点」ではなく、「自分でもう少し調べてみたい」「別の考え方も知りたい」と思うための入り口になれば幸いです。

一つの立場だけで決めつけず、さまざまな考え方に触れながら、ぜひあなた自身でも「可能とは何だろう?」と考えてみてください。

このブログで「可能世界」に少しでも心が動いたなら、次は文献や資料の扉を開き、「ありえた世界」から「ありうる問い」へ、問いを深めて世界を広げ、世界を広げて哲学を深める――その先にある、まだ知らない“可能な学び”を探してみてください。

最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました。

可能世界という考えは、「今こうである」ことの中にも、まだ問い直せる余白があることを教えてくれているのかもしれません。

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