オデがようやく見つけた「居場所」は、実は鎧さんの大切な店。そして「いきアップ」の意味が分からなくても、ハチワレの気持ちを理解しようとするちいかわ。かわいくて笑える二つの物語から、「本当の居場所とは何か」「人と分かり合うとはどういうことなのか」を考察します。
- 『ちいかわ』第364話「居場所/いきアップ」
- ご飯粒をつけたまま「また来まーす」――何でもない仕草が記憶に残る
- 気がつけば大繁盛――オデには本当に才能があるのかもしれない
- 「見つかったかも、オデの居場所」
- ところが、その「居場所」は誰かの居場所だった
- 「居場所」は自分一人では決められないのかもしれない
- 善意だけでは解決できないこともある
- だからこそ、この後が描かれないのが面白い
- そして突然、ちいかわとハチワレのゲームへ
- 「いきアップ!」――ハチワレの独特な言葉
- 相手を動かすのではなく、相手を応援する
- 自分のことのように喜ぶハチワレ
- ちいかわは「いきアップ」をどう理解したのか
- 言葉を理解することと、気持ちを理解することは少し違う
- 正しさよりも、伝わったことのほうが大切なのかもしれない
- 「いきアップ」は子供のころの言葉の覚え方にも似ている
- 「居場所」と「いきアップ」は、本当に別々の話なのか
- オデに足りなかったものと、ちいかわとハチワレが持っているもの
- 何も起きない時間が、なぜこれほど安心するのか
- コメント欄では「かわいい」の奥に、さまざまな見方があった
- 今回の物語が教えてくれているのかもしれないこと
『ちいかわ』第364話「居場所/いきアップ」
今回は、前半ではオデとカレー屋さんをめぐる「居場所」の話、後半ではちいかわとハチワレが一緒にゲームを楽しむ「いきアップ」の話が描かれていました。
一見すると、どちらもとてもかわいく、穏やかな日常を楽しむエピソードです。
シーサーはかわいいし、ゴブリンたちは一生懸命働いているし、ちいかわとハチワレは仲良くゲームをしています。
ただ、見終わったあとに少し振り返ってみると、今回の二つの話には、それぞれ違った形で「人との関わり」が描かれているようにも感じました。
前半のオデは「自分の居場所」を見つけます。
一方、後半のちいかわとハチワレは、言葉が完全に一致していなくても、お互いの気持ちを理解しながら同じ時間を楽しんでいます。
そう考えると今回の「居場所」と「いきアップ」は、まったく関係のない二つの話というよりも、「自分が安心していられる場所とは何なのか」「人と分かり合うとはどういうことなのか」という部分で、どこかつながっているようにも思えました。
ご飯粒をつけたまま「また来まーす」――何でもない仕草が記憶に残る
物語の始まりでは、オデが笑顔でカレーをよそっています。
そして前回からの続きとして、カレーを食べ終わったシーサーが、
「また来まーす」
と店を後にします。
ここでまず目に入るのが、シーサーの口元についている小さなご飯粒です。
これが本当にかわいい。
何か大きなギャグがあるわけでも、特別な出来事が起きているわけでもありません。
ただ、おいしくカレーを食べて、少しご飯粒をつけたまま、満足そうに帰っていく。
それだけです。
でも、この「それだけ」が強く印象に残ります。
『ちいかわ』には、こういう小さな生活感をとても大切にしているところがあるように思います。
きれいに食べ終えて、完璧な笑顔で帰るのではなく、ご飯粒を一粒つけたまま帰ってしまう。
その少しだけ不完全なところが、むしろキャラクターを生き生きと見せています。
考えてみれば、私たちが誰かを「かわいい」と思うときも、必ずしも完璧な姿を見たときとは限りません。
ちょっとした言い間違いや、何かに夢中になっている姿、本人が気づいていない小さな失敗。
そういう自然な部分に、その人らしさを感じることがあります。
シーサーのご飯粒も、そんな「作られていないかわいさ」を感じさせる場面だったように思いました。
気がつけば大繁盛――オデには本当に才能があるのかもしれない
そして店内を見ると、驚くほどたくさんのお客さんがカレーを食べています。
前回、オデがカレーにりんごとはちみつを加えて食べやすくしていましたが、それが相当好評だったのでしょう。
いつの間にか、お店は大繁盛しています。
オデも汗をかきながら一生懸命カレーをよそっています。
さらに面白いのが、ゴブリンたちまで完全に店員として働いていることです。
笑顔で接客したり、お皿を運んだりしていて、もう普通にスタッフの一員です。
外には順番を待っているお客さんまでいるように見えます。
ここまでを見ると、
「オデ、普通に飲食店をやる才能があるのでは?」
と思ってしまいます。
辛すぎるカレーを、より多くの人が食べやすい味に変える。
お客さんが増えたら、自分も汗だくになって働く。
ゴブリンたちと協力して店を回している。
結果として、たくさんのお客さんが笑顔になっています。
オデは単に料理ができるだけではなく、「誰かが喜んでくれること」に大きな喜びを感じる性格なのかもしれません。
ここが後の「居場所」という言葉につながっていきます。
「見つかったかも、オデの居場所」
繁盛する店の中で、オデは幸せそうに、
「見つかったかも、オデの居場所」
と言います。
背景まで花柄になり、本人にとっては本当に大きな発見だったことが伝わってきます。
この場面は笑える場面でもあるのですが、私は少し切なさも感じました。
なぜなら「居場所が見つかった」という言葉は、裏を返せば、それまでオデ自身が「自分の居場所が分からなかった」ということでもあるからです。
ここからは私なりの考察になります。
「居場所」という言葉には、単純に自分がいる場所という意味だけではなく、
「自分がここにいてもいいと思える場所」
という意味もあるように思います。
さらに言えば、
「自分が誰かに必要とされていると感じられる場所」
でもあるのではないでしょうか。
カレーを作れば、みんなが喜ぶ。
自分が働けば、店が繁盛する。
ゴブリンたちも一緒に働いてくれる。
オデにとって、この店では「自分が何をすればいいのか」が非常に分かりやすかったのだと思います。
自分のしたことが、そのまま誰かの笑顔につながる。
それは、オデにとってかなりうれしい経験だったのでしょう。
だからこそ、
「ここがオデの居場所かもしれない」
と思ったのではないでしょうか。
ところが、その「居場所」は誰かの居場所だった
しかし、ここで今回最大の問題が出てきます。
次の場面で現れるのは、このカレー屋さんの本当の店主である鎧さんです。
自分の店に戻ってみると、なぜか大行列。
中では知らないうちにオデとゴブリンたちが働いている。
そして自分の店に入った鎧さんを、オデたちが笑顔で迎えます。
この光景は、とにかくシュールです。
鎧さんからすれば、
「いや、ここ自分の店なんだけど……」
という気持ちだったのではないでしょうか。
オデ側から見ると、
「ついに自分の居場所を発見した!」
という感動的な場面です。
ところが鎧さん側から見ると、
「自分の居場所に帰ったら、自分以外の誰かの居場所になっていた」
という状況です。
同じ場所なのに、見る人の立場によって意味がまったく違っています。
ここに今回の「居場所」というタイトルの面白さがあるように感じました。
「居場所」は自分一人では決められないのかもしれない
ここからさらに考えてみると、「居場所」とは自分がそう思えば成立するものなのか、という疑問が出てきます。
オデは間違いなく、
「ここが自分の居場所だ」
と感じています。
お客さんにも喜ばれています。
ゴブリンたちとも協力できています。
本人の感覚だけを見るなら、本当に最高の居場所です。
でも、その場所にはもともと鎧さんがいます。
そう考えると、
「自分が居心地がいいと思うこと」と、
「その場所にいていいと周囲から認められていること」は、
少し違うのではないでしょうか。
私たちも、
「ここなら自分らしくいられる」
「ここなら自分の力を発揮できる」
と思える場所を探すことがあります。
それ自体はとても大切なことだと思います。
ただ、自分の居場所を作ることと、誰かの居場所を尊重することは両立しなければいけません。
今回のオデは、その境界をものすごく自然に飛び越えてしまっています。
しかも本人にまったく悪気がない。
そこが面白くもあり、少し怖くもあります。
善意だけでは解決できないこともある
オデに悪意はないように見えます。
むしろ、お客さんを喜ばせたい。
カレーをおいしくしたい。
自分も役に立ちたい。
かなり善意に近い行動です。
そして結果だけを見れば、
お客さんは喜んでいる。
店は繁盛している。
ゴブリンたちには仕事ができている。
オデにも役割ができている。
一見すると、全員が幸せになっているように見えます。
でも、一人だけ置いていかれている人物がいます。
鎧さんです。
ここがとても興味深いところです。
「結果が良ければ、それでいいのか」
という問題が、非常にかわいい形で出てきています。
もし自分が長い時間をかけて作った店に帰ってきたら、知らない誰かが勝手に商品を改良して、自分のときよりも大繁盛していた。
これはかなり複雑な気持ちになると思います。
怒りだけではないでしょう。
「自分が作ってきたものは何だったんだろう」
という寂しさもあるかもしれません。
あるいは、
「繁盛しているのはうれしいけれど、なんで勝手にやっているの?」
という戸惑いもあるでしょう。
オデの行動は悪意ではなく善意に近いからこそ、単純に「悪い人」として終わらせることができません。
善意があっても、相手の立場を考えなければ人を困らせることがある。
今回の「居場所」には、そんなことまで考えさせられました。
だからこそ、この後が描かれないのが面白い
では鎧さんは、このあとどうしたのでしょうか。
オデに店を返すように言ったのでしょうか。
一緒に働くことになったのでしょうか。
あるいは、オデが自分で別の店を始める可能性もあるのでしょうか。
これほど気になる状況を作っておきながら、物語は答えを見せません。
突然、場面が変わります。
私はこの「答えを描かない」ところも『ちいかわ』の面白さだと思います。
全部説明してしまえば、その瞬間に物語は終わります。
でも答えを見せないから、
「鎧さん、あのあと何て言ったんだろう」
「オデはどうしたんだろう」
と考えてしまいます。
描かれていない部分そのものが、物語の余白になっています。
そして突然、ちいかわとハチワレのゲームへ
場面が変わると、今度はちいかわとハチワレが一緒にゲームをしています。
前半のカレー屋さん問題がどうなったのかは完全に置いていかれます。
その切り替わりもまた面白いです。
ハチワレはゲームにかなり夢中になっていて、
「次やられたらゲームオーバー」
という状況で、ちいかわのプレイを見守っています。
ちいかわも真剣です。
ここには先ほどのオデの話とはまったく違った、友達同士の穏やかな時間があります。
一人が操作して、もう一人が横から見ている。
でも二人とも同じくらい楽しんでいます。
昔、友達や兄弟とゲームをした経験がある人なら、この感じに懐かしさを覚えるかもしれません。
ゲームは一人用でも、その時間は二人のものなのです。
「いきアップ!」――ハチワレの独特な言葉
ゲームの途中で、キャラクターがブロックを叩くとアイテムのようなものが出てきます。
そこでハチワレが大興奮して、
「いきアップ!」
と叫びます。
ちいかわは、
「いき……?」
という感じでハチワレを見ます。
明らかに意味が分かっていない。
このちいかわの表情がとてもかわいいです。
しかしハチワレはその疑問には気づかず、
「取ったほうがいいよ!」
「取ったほうがいいよ!」
と二回続けて伝えます。
ここで私が面白いと思ったのが、
「取って!」
ではないことです。
あれだけ興奮しているのに、
「取ったほうがいいよ」
なんです。
ハチワレはちいかわに命令していません。
あくまで、
「僕は取ったほうがいいと思うよ」
という言い方をしています。
ほんの短いセリフですが、ここにもハチワレの性格が表れているように感じました。
相手を動かすのではなく、相手を応援する
「取ったほうがいいよ」という言葉には、ちいかわに最終的な選択を残しています。
もちろんハチワレ本人は興奮しているので、そこまで考えて発言しているわけではないでしょう。
ただ、普段の関係性が自然に言葉に出ているように見えます。
ちいかわがプレイしているゲームだから、決めるのはちいかわ。
自分は横から教えるだけ。
この距離感がとても優しいです。
友達を助けることと、友達の代わりに全部決めることは違います。
ハチワレは前者なのだと思います。
だからこの二人を見ていると、安心感があります。
自分のことのように喜ぶハチワレ
ちいかわがアイテムを取ると、ハチワレは大喜びします。
自分がプレイしているわけではありません。
でも、
「やった!」
と、自分の成功のように喜びます。
ここも私はとても好きでした。
相手の成功を、自分のことのように喜べる。
実はこれも、簡単なようで難しいことです。
人は時に、誰かがうまくいくと、自分と比較してしまうことがあります。
でもハチワレにはそういう様子がありません。
ただ、
「ちいかわがうまくいった!」
ということがうれしい。
だから全力で喜ぶ。
ちいかわも、その喜びを自然に受け入れています。
二人が一緒にゲームをしているだけなのですが、この短い場面に二人の関係がとてもよく表れていると思います。
ちいかわは「いきアップ」をどう理解したのか
そして今回、特に考察したくなるのが、ちいかわが「いきアップ」という言葉を理解する場面です。
最初は、
「いき?」
と分からなかった。
しかしゲームの状況を見て、ハチワレの反応を見て、自分なりに考える。
そして、
「ああ、これのことを『いきアップ』って言っているんだ」
と理解したような表情になります。
豆電球が光るような演出も入り、まさに頭の中で意味がつながった瞬間です。
ここからは私なりの考察ですが、私はこの場面に、ちいかわの意外な「理解力」が表れているように感じました。
ちいかわは、たくさん言葉を話すタイプではありません。
でもだからといって、人の言葉を理解する力が弱いわけではない。
むしろ、表情や状況、相手の反応をよく見ています。
「何と言ったか」だけではなく、
「なぜ今そう言ったのか」
を考えているようにも見えます。
言葉を理解することと、気持ちを理解することは少し違う
私たちも普段、会話の中で相手の言葉を完全に理解できないことがあります。
知らない言葉が出てきたり、相手が言い間違えたり、説明が少し足りなかったりする。
それでも、その後の話を聞いているうちに、
「ああ、こういう意味だったのか」
と分かることがあります。
今回のちいかわは、まさにそのような理解をしています。
そして面白いのは、理解したあとにハチワレを訂正しないことです。
「それ、一機アップじゃないの?」
とは言いません。
ハチワレが「いきアップ」と呼ぶなら、その意味を理解したうえでそのまま受け入れています。
ここには、
「正しい言葉を使うこと」と
「相手の言いたいことを理解すること」は、
必ずしも同じではないということが表れているように感じました。
正しさよりも、伝わったことのほうが大切なのかもしれない
もちろん言葉を正しく使うことは大切です。
でも会話の目的は、相手の間違いを探すことだけではありません。
本当に大切なのは、
「相手が何を伝えたいのか」
を受け取ることなのかもしれません。
ハチワレは「いきアップ」と言う。
ちいかわは最初、その意味が分からない。
でも考えて理解する。
理解したら、そのまま一緒に喜ぶ。
この流れがとても自然です。
もしちいかわが、
「それ違うよ」
と言って会話を止めていたら、この楽しさは少し違ったものになっていたでしょう。
間違いを指摘するより、一緒に楽しむ。
そんな選択をしているように見えるところが、とても微笑ましいです。
「いきアップ」は子供のころの言葉の覚え方にも似ている
そして「いきアップ」という言葉そのものにも、とてもリアルな面白さがあります。
子供のころ、意味をよく分かっていない言葉を、音だけ覚えて使っていたことはないでしょうか。
友達や兄弟が使っている言葉を聞いて、
「たぶんこういうときに言うんだろう」
くらいの感覚で覚える。
あとから漢字や本当の意味を知って、
「そういう言葉だったのか」
と驚く。
ハチワレの「いきアップ」には、そんな子供らしい言葉の獲得の仕方が感じられます。
だから単なる言い間違い以上に、
「こういうこと、子供のころ本当にあったな」
と思わせる力があるのではないでしょうか。
「居場所」と「いきアップ」は、本当に別々の話なのか
ここまで見てくると、私は前半の「居場所」と後半の「いきアップ」が、本当にまったく別の話なのだろうかと思いました。
オデが求めているのは、
「自分がここにいていいと思える場所」。
一方、ちいかわとハチワレの間には、
相手の言葉が少し違っていても、それを理解しようとして、一緒に喜べる関係があります。
もし「居場所」というものが、単に建物や仕事ではなく、
「自分を受け入れてくれる人がいる状態」
でもあるのだとしたら、ちいかわとハチワレはすでにお互いにとって一つの「居場所」なのかもしれません。
同じゲームをする。
意味が分からなくても理解しようとする。
成功したら一緒に喜ぶ。
相手を無理に動かそうとしない。
そういう小さなやり取りが積み重なって、
「この人といると安心する」
という感覚が生まれていくのではないでしょうか。
オデに足りなかったものと、ちいかわとハチワレが持っているもの
そう考えると、前半と後半には対照的なものも見えてきます。
オデは「居場所」を見つけました。
しかし、その場所の持ち主である鎧さんとの関係はまだできていません。
つまり場所だけを先に「自分の居場所」と思ってしまった状態です。
一方で、ちいかわとハチワレには特定の場所がなくても、二人の関係そのものに安心感があります。
ここから考えると、
「居場所」というものは、単に自分が気に入った場所ではなく、人との関係の中で生まれるものなのかもしれません。
自分がここにいたい。
相手も、あなたがここにいることを受け入れている。
その両方がそろって、初めて本当の意味での居場所になる。
今回の二つの話を並べて見ると、そんな違いまで考えられるように思いました。
何も起きない時間が、なぜこれほど安心するのか
今回の後半では、ちいかわとハチワレがただゲームをしています。
本当にそれだけです。
でも、その何でもない時間がとても幸せに見えます。
『ちいかわ』の世界には、突然怖いことが起こります。
理不尽なこともあります。
だからこそ、何も起きずに友達と一緒にゲームをして笑っている時間が、とても尊く見えます。
平和な日常だけを描いていたら、ここまで強く感じないかもしれません。
怖い出来事や不穏な出来事を知っているからこそ、
「今日は二人でゲームができてよかった」
と感じられる。
平穏と不穏が互いを引き立てているところも、『ちいかわ』という作品の魅力なのだと思います。
最後には、今回ほとんど登場しなかったうさぎが車に乗っている姿も映ります。
ほんの短い登場ですが、「あ、うさぎもいつも通りどこかで何かをしているんだ」と思えて、これもまた日常が続いていることを感じさせる締め方でした。
コメント欄では「かわいい」の奥に、さまざまな見方があった
今回の動画のコメント欄を見ると、まず非常に多かったのが、シーサーがご飯粒をつけたまま「また来まーす」と帰っていく姿がかわいいという声でした。また、ゴブリンたちが普通に店員として働いている姿や、ハチワレの「いきアップ」、それを聞いたちいかわの「いき?」という反応にも、多くの人がかわいさや癒しを感じていました。
一方、オデの「居場所」については、「居場所が見つかってよかった」という見方と同時に、「でもそこは鎧さんの店ではないか」「自分の居場所を見つけた代わりに、誰かの居場所を奪っている」という意見も多く見られました。特に、自分が店を空けている間に、知らないうちに味を変えられ、知らない人たちに営業され、しかも自分のとき以上に繁盛していた鎧さんの気持ちを想像する声が印象的でした。
また、「いきアップ」については、ハチワレの独特な言い方をかわいいと感じる声だけでなく、昔ゲームをしていたころに「一機アップ」「ワンアップ」などと呼んでいた記憶を思い出したという声も多くありました。そして、言葉の意味が分からなかったちいかわが、ハチワレの反応やゲームの状況から自分で意味を理解していく姿に注目し、「ちいかわは相手の言葉を察する力が高い」「言葉を否定せず受け入れているところがいい」という見方もありました。
さらに、劇場版を見たあとに今回のような日常回を見たことで、「平和で安心した」「ほっとした」「何でもない時間がありがたい」と感じた人も多かったようです。かわいいだけではなく、「誰の視点から見るか」「言葉をどう理解するか」「日常がなぜ大切に感じられるのか」まで、さまざまな方向に考えられる回だったことが、コメント欄からも伝わってきました。
今回の物語が教えてくれているのかもしれないこと
今回の「居場所」と「いきアップ」。
最初はまったく違う二つの話に見えます。
でも私は、どちらにも「人とどう関わるか」ということが描かれているように感じました。
オデは、誰かに喜んでもらうことで自分の役割を見つけ、「ここが自分の居場所かもしれない」と感じます。
その気持ちはとても大切です。
しかし一方で、自分が居心地よく感じる場所だからといって、その場所が自動的に自分の居場所になるわけではありません。
そこには、すでに別の誰かの思いや生活があるかもしれません。
居場所とは、自分一人で決めるものではなく、自分と周りの人との関係の中で少しずつ作られていくものなのかもしれません。
そしてちいかわとハチワレは、言葉が完全に同じでなくても、相手の言いたいことを考え、一緒に喜びます。
相手を正すことよりも、理解しようとする。
相手を動かすことよりも、応援する。
相手がうれしいときには、自分のことのように喜ぶ。
そういう小さなやり取りが積み重なることで、
「この人と一緒にいると安心できる」
という気持ちが生まれていくのでしょう。
もしかすると本当の「居場所」とは、場所そのものではなく、
「自分のことを分かろうとしてくれる誰かがいること」
なのかもしれません。
自分が必要とされること。
誰かの居場所も大切にすること。
言葉が少しくらい違っていても、相手の気持ちを理解しようとすること。
そして、何でもない時間を一緒に笑って過ごせること。
今回の物語は、そんな小さな積み重ねの中にこそ、人が安心していられる本当の「居場所」が生まれていくのだということを、かわいく、少し不思議な物語を通して教えてくれているのかもしれません。


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