プラトン・アリストテレス・イエス・パウロは「愛」をどう考えた?|エロス・フィリア・アガペーを人物から読み解く

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エロス・フィリア・アガペーを調べると、なぜプラトン、アリストテレス、イエス、パウロが出てくるのか。4人は三つの愛の「発明者」ではありません。それぞれが、何を求めるのか、どうともに生きるのか、誰を愛するのか、愛をどう生きるのかという問いを深めた重要人物です。本記事では、4人と愛の思想の関係をやさしく読み解きます。

なぜこの4人を知ると、エロス・フィリア・アガペーが深く見えてくるのか

代表例

「エロス・フィリア・アガペーを調べると、なぜこの4人の名前が出てくるの?」

エロスについて調べていると、プラトン

フィリアについて調べていると、アリストテレス

アガペーについて調べていくと、イエス・キリストパウロ

について知りたかっただけなのに、いつの間にか何人もの人物が出てきます。

すると、こんな疑問が浮かんできませんか。

「エロスって、プラトンが考えた言葉だったっけ?」

「フィリアとアリストテレスは、どうして関係があるの?」

「アガペーを考えたのは、イエスなの? パウロなの?」

「そもそも、この4人は同じ“愛”について話していたの?」

まず大切なのは、

プラトン、アリストテレス、イエス、パウロが、エロス・フィリア・アガペーという三つの言葉を作ったわけではない

ということです。

それでも、この三つの愛について深く知ろうとすると、この4人は何度も登場します。

なぜなら、それぞれが違う時代、違う立場から、

「人はなぜ求めるのか」

「人は誰かと、どう生きるのか」

「誰を愛するのか」

「愛を、実際の生き方の中でどう表すのか」

という問いに関わっているからです。

つまり今回の記事では、人物の生涯を順番に覚えるのではありません。

「なぜこの人物を知ると、エロス・フィリア・アガペーがもっと深く見えてくるのか」

という視点から、4人を見ていきます。

5秒でわかる結論

プラトン――エロスを、人が何を求め、どこへ向かうのかという哲学の問題として深く考えた人物。
アリストテレス――フィリアを、人が他者とどのように関わり、ともによく生きるのかという問題として詳しく考えた人物。
イエス――福音書に伝えられる教えの中で、自分を愛してくれる人だけでなく、敵にまで愛を向けるという問いを示した重要人物。
パウロ――初期キリスト教の共同体に向けて、愛が人と人との間でどのように生きられるのかを語った重要人物。

つまりこの4人は、

同じ愛を同じように説明した人物ではありません。

について、それぞれ違う方向から大きな問いを残した人物なのです。

小学生にもわかるように言うと

もっと簡単にしてみましょう。

プラトンの考えからは、

「どうして人は、好きなものにもっと近づきたくなるの?」

という問いが見えてきます。

アリストテレスからは、

「友達や家族と、どうすれば一緒によく生きられるの?」

という問いが見えてきます。

イエスの教えからは、

「自分に優しい人だけを大切にすれば、それで愛なの?」

という問いが見えてきます。

そしてパウロからは、

「愛って、気持ちだけではなく、人との関わりの中でどう表すの?」

という問いが見えてきます。

四人は、同じ時代の人ではありません。

同じ立場の人でもありません。

それでも、

「人が誰かを愛するとは、どういうことなのか」

という大きな問題を考えるとき、今でも重要な手がかりを残している人物たちです。

1 こんな疑問を持った人に読んでほしい

この記事は、

「エロス・フィリア・アガペーという言葉は聞いたことがあるけれど、人物との関係まではよくわからない」

という人に向けた記事です。

たとえば、

「エロスといえばプラトン、と書いてあったけれど、どうして?」

「フィリアを調べるとアリストテレスが出てくるのはなぜ?」

「アガペーなら、イエスを知ればいいの? それともパウロ?」

「プラトンとイエスでは時代もずいぶん違うのに、どうして同じ“愛”の話で出てくるの?」

そんなところで、ふと立ち止まったことはないでしょうか。

あるいは、

「エロス=恋愛」

「フィリア=友情」

「アガペー=無償の愛」

と覚えたものの、

「それだけで本当にわかったことになるのかな?」

と思った人にも向いています。

この記事では、エロス・フィリア・アガペーそのものを細かく分類することより、

その言葉を深く知ろうとしたとき、なぜプラトン、アリストテレス、イエス、パウロという人物が重要になるのか

を見ていきます。

読み終わるころには、

「この人は、愛のどんな部分を考えた人なのか」

「どうして、この人物が今でも名前を挙げられるのか」

が、少しずつつながって見えるようになるはずです。

2 疑問が生まれた物語

「この4人って、何が違うんだろう?」

遥は、ある日「エロス・フィリア・アガペー」という言葉を知りました。

気になって調べてみると、

エロスの説明にはプラトン。

フィリアの説明にはアリストテレス。

アガペーについて読んでいると、イエス。

さらに少し先へ進むと、パウロ。

次々に違う人物が出てきます。

遥は思いました。

「エロスはプラトンが考えたのかな」

「フィリアはアリストテレス?」

「じゃあ、アガペーはイエスかパウロが作ったの?」

ところが調べれば調べるほど、そんな単純な話ではなさそうです。

しかも、プラトンとアリストテレスは古代ギリシャの哲学者。

イエスとパウロは、その数百年後のユダヤ教・初期キリスト教の歴史に登場します。

「そもそも、この4人を一緒に見ていいのかな?」

遥には、そこも気になりました。

でも、一人ずつ見ていくと、少しずつ違いが見えてきます。

ある人は、

「人は何を求めるのか」

を考えている。

ある人は、

「人は誰かと、どう生きるのか」

を考えている。

ある人は、

「自分を愛してくれない人まで愛するとはどういうことか」

を問いかけている。

そしてある人は、

「愛を、人と人との現実の関係の中でどう生きるのか」

を語っている。

そこで遥は思いました。

「三つの言葉だけを見るより、その言葉の向こうにいる人を知った方が、愛の違いがもっと見えてくるかもしれない」

ここから一緒に、4人をたどってみましょう。

3 まず結論

なぜこの4人が重要なの?

詳しく見る前に、4人の役割だけをつかんでおきましょう。

人物特に関係するテーマこの人物から見えてくる問い
プラトンエロス・フィリア私は何を求め、その欲求によってどこへ向かうのか
アリストテレスフィリア人は他者と、どうすればともによく生きられるのか
イエス後のキリスト教的な愛を考える重要な源自分を愛してくれる人だけを愛すればよいのか
パウロ初期キリスト教におけるアガペー愛を、実際の人間関係や共同体の中でどう生きるのか

ここで覚えておきたいのは、

4人は「三つの愛の発明者」ではなく、それぞれの立場から愛について重要な問いを残した人物だということです。

プラトンを知ると、エロスが単なる恋愛の言葉ではなく、人間が何を求めて生きるのかという問題へ広がっていきます。

アリストテレスを知ると、フィリアが単なる「仲良し」ではなく、人が他者とともによく生きることに関わる問題だと見えてきます。

イエスの教えをたどると、愛は、自分を愛してくれる人だけに向けるものなのかという問いにぶつかります。

そしてパウロを見ると、愛は考え方だけではなく、人と人が実際にどう関わり、どう生きるのかという問題として現れます。

つまり、

プラトンは「何を求めるのか」。

アリストテレスは「どうともに生きるのか」。

イエスの教えは「誰を愛するのか」。

パウロは「愛をどう生きるのか」。

この四つの方向を最初につかんでおくと、これから登場する人物の話がずっと理解しやすくなります。

ここから先は、一人ずつ詳しく見ていきましょう。

その前に――4人は同じ時代に「愛」を語った人ではない

ここから四人を一人ずつ見ていく前に、時代と立場を一度だけ整理しておきましょう。

プラトンとアリストテレスは、紀元前4世紀を中心に生きた古代ギリシャの哲学者です。アリストテレスは、プラトンが開いたアカデメイアで学びました。

それに対して、イエスとパウロが登場するのは、その数百年後の西暦1世紀です。イエスはユダヤ人の宗教的教師として活動し、パウロはイエスの死後、初期キリスト教を各地へ伝えた使徒・宣教者でした。

つまり、この四人が同じ場所に集まって「愛とは何か」を話し合ったわけではありません。

また、

プラトンからアリストテレス、イエス、パウロへと、一つの愛の思想がそのまま順番に受け継がれた

と考えるのも正確ではありません。

では、なぜ四人を一緒に見るのでしょうか。

それは、時代も文化も立場も違う四人を並べることで、

「人は何を求めるのか」
「人は誰かとどう生きるのか」
「誰にまで愛を向けるのか」
「その愛をどう生きるのか」

という、愛についての違う問いが見えてくるからです。

四人の共通点は、同じ答えを持っていたことではありません。

違う場所から、「人が人を愛するとはどういうことか」に関わる重要な問いを残したこと。

その違いを意識しながら読むと、これからの四人の話が、単なる人物紹介ではなく、四つの異なる入口から「愛」を考える旅として見えてきます。

最初に訪ねるのは、

エロスを「人は何を求めるのか」という哲学の問題へ深めた、古代ギリシャの哲学者プラトンです。

4 プラトン

なぜエロスは「恋愛」だけでは終わらないのか

プラトン(古代ギリシャ語:Πλάτων/Plátōn[プラトーン]、紀元前429年ごろ〜紀元前347年)は、古代ギリシャのアテナイで活動した哲学者です。

紀元前の人物なので、この時代にはまだ日本の和暦はありません。

現在の『スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy/スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー)』――哲学の専門研究者が執筆・更新するオンライン哲学百科事典――では、生年の不確実さを含めて紀元前429年ごろ〜紀元前347年とされています。

では、なぜエロスについて学ぶと、プラトンがこれほど重要な人物として出てくるのでしょうか。

その前に、プラトン以前から使われていた「エロス」とは何だったのかを確認しておきましょう。

エロス(古代ギリシャ語:ἔρως/érōs[エロース])は、プラトンが作った哲学用語ではありません。

古代ギリシャでは、プラトン以前から使われていた言葉で、愛や強い欲望、とくに人に強くひかれる恋愛的・性的な情念を表すことがありました。

ただし、恋愛だけに使われた言葉でもありません。

人や身体に対する強い欲望だけでなく、何かを強く欲したり、求めたりする場合にも使われています。

さらに古代ギリシャの神話や詩では、エロスは「愛の神」の名前としても登場します。

つまり、プラトン以前のエロスには、もともと、

「何かに強くひかれる」

「何かを欲する」

「何かを自分のものにしたいと求める」

という力強い欲望の意味があったのです。

では、プラトンはその意味をまったく別のものに変えたのでしょうか。

そう考えるより、

すでに人々が使っていた「求める愛」という言葉を取り上げて、「人はなぜ求めるのか」「何を求めているのか」「その欲望は人をどこへ向かわせるのか」と、哲学の問題としてさらに深く掘り下げた

と考える方が正確です。

『饗宴』では、欲望する者は、自分にないもの、欠けているものを求める、という方向で議論が進められます。
『饗宴(きょうえん)』は、宴に集まった人々がエロスについて語り合う、プラトンの対話篇という形式の哲学作品です。

そこからエロスは、単に、

「好きな人が欲しい」

「美しい人にひかれる」

という話だけでは終わらなくなります。

人は美しいものを求める。

よいものを求める。

それを自分のものにしたいと願う。

そして、それによって幸福になりたいと願う。

さらに、そのよいものをできるだけ失わずに持ち続けたいと願う。

そのように、もともとあった「強く求める」というエロスの性格を出発点にしながら、その欲望の奥にある美・善・幸福、そして人間の生き方まで考えるところへ進めたのが、『饗宴』で描かれるプラトンの大きな特徴です。

ですから、最初に結論を言えば、

プラトンがエロスという言葉を作ったから重要なのではありません。すでに「愛すること・強く求めること」を表していたエロスを、人間は何を欠いているから求めるのか、何をよいものとして求めるのか、そしてその欲望によってどのような幸福や生き方へ向かうのかという哲学の問題として深く掘り下げたからです。

プラトンの愛についての思想を知るうえで、特に重要なのが、

『饗宴(きょうえん)』
『リュシス(Lysis/リュシス)』
『パイドロス(Phaedrus/パイドロス)』

という三つの作品です。

これらは「エロス」「フィリア」のような哲学用語の名前ではありません。

すべてプラトンが書いた作品の題名です。

しかも、プラトンは「私はこう考えます」と自分の思想を説明書のように書くことが多い哲学者ではありません。

登場人物たちが会話し、質問し、反論しながら問題を考えていく対話篇という形式を使いました。

そのため、プラトンを読むときには、

作品中の人物が語ったこと=そのままプラトン本人の言葉と単純に考えないことが大切です。

現在の研究でも、プラトン自身の最終的な立場を対話篇からどのように読み取るかは慎重に考える必要があります。

では、そのプラトンはエロスについて何を描いたのでしょうか。

『饗宴』では、エロスから「幸福」まで話が広がっていく

愛について特に有名なのが、プラトンの対話篇『饗宴』です。

題名の「饗宴」は、人々が集まって飲食し、語り合う宴のこと。

作品では、宴に集まった人々が順番にエロスについて語っていきます。

その中でも重要なのが、ソクラテスの話です。

ソクラテスはプラトンの師として知られるアテナイの哲学者で、自分の考えを一方的に教えるよりも、相手に質問を重ねながら一緒に問題を考えていくことで知られています。
ソクラテス(古代ギリシャ語:Σωκράτης/Sōkrátēs[ソークラテース]、紀元前469年ごろ〜紀元前399年)。

『饗宴』では、そのソクラテスが、マンティネイア出身のディオティマ(古代ギリシャ語:Διοτίμα/Diotíma、年代不詳)という女性から愛について教わったとして、その内容を語ります。
マンティネイアは古代ギリシャの都市名で、ディオティマは『饗宴』で愛について重要な教えを語る人物ですが、実在した人物かどうかは確定していません。

ディオティマが実在した人物なのか、それともプラトンが対話篇の中に登場させた人物なのかについては、確定していません。

重要なのは、彼女を通して語られる議論です。

そこで、かなり面白いやり取りが行われます。

ディオティマはソクラテスに、簡単に言えば、

「よいものを愛し求める人は、そのよいものをどうしたいのか」

と問いかけます。

ソクラテスは、

「自分のものにしたい」

という方向で答えます。

では、よいものを自分のものにしたらどうなるのか。

続く問いに対して示される答えは、

「幸福になる」

です。

さらに議論は一歩進みます。

人は、よいものを一度だけ手に入れれば満足するのでしょうか。

ディオティマの議論では、そうではありません。

人は、よいものを自分のものとして、できるならいつまでも持ち続けたいと願う。

『饗宴』では、このように、「よいものを自分のものにすること」「それによって幸福になること」「そのよいものをいつまでも自分のものにしたいこと」が、一続きの議論として描かれています。

ここまでを見ると、プラトンの『饗宴』でエロスがなぜ単なる恋愛の話で終わらないのかが見えてきます。

誰かを好きになる。

美しい人にひかれる。

もっと近づきたいと思う。

そこから、

「そもそも、自分は何を“よいもの”だと思って求めているのだろう」という問題へ進んでいくからです。

ただし、この問いそのものは、プラトンが作品中でこの日本語の形で問いかけたものではありません。

『饗宴』で実際に展開される「人はよいものを求め、それを自分のものにし、それによって幸福になろうとする」という議論を、現代の私たち自身に引きつけて言い換えた問いです。

ここを分けておくと、プラトン本人の議論と、この記事での考察が混ざりません。

エロスは、どこへ向かうのか

『饗宴』では、さらにエロスの行き先まで描かれます。

ディオティマが語る有名な流れでは、まず一人の美しい身体にひかれるところから始まります。

しかし、そこで終わりません。

一人の身体の美から、さまざまな身体の美へ。

そこから魂の美しさへ。

さらに、人間の営みや制度、知識の美しさへ。

そして最後には、個々の美しいものを超えた**「美そのもの」**へと向かう道が描かれます。

ここは、

「恋愛は価値が低いから捨てて、哲学だけをしなさい」と単純に読むところではありません。

大切なのは、

最初は一人の人に向かっていた「ひかれる力」が、何を美しいと思うのか、何をよいと思うのかを問いながら、より広い美や善を求める方向へ育っていく

というところです。

プラトンの『饗宴』で描かれるエロスは、

「欲しいから手に入れる」

だけではありません。

自分に欠けていると思う美や善を求め、それによって幸福になろうとし、さらにそのよさをできるだけ失わずに持ち続けようとする欲求

として考えられています。

『スタンフォード哲学百科事典』でも、『饗宴』における人間は、完全な存在ではなく、美や善を求め続ける存在として説明されています。

では、

「プラトンは結局、人は何を求めていると考えたの?」

と聞かれたら、どう答えればよいのでしょうか。

プラトン本人が「私の最終回答はこれです」と一文でまとめているわけではありません。

そのうえで、とくに『饗宴』のディオティマの議論からは、

人は、自分に欠けている美や善を求め、それを自分のものにすることで幸福になろうとし、そのよさをできるかぎり持ち続けたいと願うという答えを読み取ることができます。

これが、この章でまず覚えておきたいプラトンのエロスです。

『リュシス』と『パイドロス』を見ると、愛の問題はさらに広がる

プラトンは『饗宴』だけで愛について考えたわけではありません。

先ほど名前を挙げた『リュシス』『パイドロス』も、どちらもプラトンの対話篇の題名です。

『リュシス』では、フィリア(古代ギリシャ語:φιλία/philía、友情・親しい結びつき)が中心的な問題になります。

人は、なぜ誰かの友になるのか。

似ている者どうしだからなのか。

違う者どうしだからなのか。

何かが自分に欠けているから、相手を求めるのか。

こうした可能性がソクラテスたちの対話で検討されます。

ただし、『リュシス』では最後に、

「フィリアとはこれである」という一つの完成した定義には到達しません。

議論を重ねた結果、簡単には答えを確定できない状態で終わります。

このような哲学的な行き詰まりは、アポリア(古代ギリシャ語:ἀπορία/aporía、行き詰まり・答えを簡単に確定できない状態)と呼ばれます。

ここで大切なのは、

「答えが出なかったから失敗した」わけではないということです。

「友情とは何か」を簡単な一言で決めようとすると、次々に例外や問題が出てくる。

そのこと自体を読者に気づかせるのも、対話篇の重要な役割です。

一方、『パイドロス』では、エロスに加えて、魂、哲学、教育、そして人を説得する言葉のあり方などが結びついて論じられます。

そこでのエロスは、単に理性を失わせる危険な欲望としてだけ描かれるわけではありません。

美しいものとの出会いによって魂が揺さぶられ、真実や知恵、より高いものを求める方向へ向かう可能性も描かれます。

『スタンフォード哲学百科事典』でも、プラトンのエロスとフィリアを考える中心作品として『リュシス』『饗宴』『パイドロス』が挙げられています。

つまり、三つの作品を並べると、

『リュシス』では、人はなぜ誰かと結びつくのか。

『饗宴』では、人は何をよいものとして求め、なぜ幸福を求めるのか。

『パイドロス』では、そのエロスが魂や生き方をどこへ向かわせるのか。

というように、愛についての問題が少しずつ違う角度から見えてきます。

ここまで来ると、なぜエロスを学ぶとプラトンが重要なのかが、かなりはっきりします。

プラトンはエロスを発明した人物ではありません。

エロスを、「誰かを好きになる感情」だけでは終わらせず、人間が美や善を求め、幸福を求め、その欲求によってどのような生き方へ向かうのかを考える哲学の問題として深めた人物なのです。

そして、ここから現代の私たち自身に問いを戻すなら、

「私は何を『よいもの』だと思って求めているのだろう。そして、それを求めることで、どんな人間になろうとしているのだろう」

と考えることができます。

これはプラトンがそのままこの言葉で問いかけた文章ではありません。

『饗宴』『リュシス』『パイドロス』で展開される愛の議論を、私たち自身の生き方を考えるための問いに言い換えたものです。

プラトンの答えを知るだけでなく、その答えを手がかりに自分の欲求を見直してみる。

そこまで進むと、エロスは遠い古代ギリシャの言葉ではなくなります。

「私は、なぜこの人を求めるのだろう」

「私は、何を美しい、よいと思っているのだろう」

「それを求め続けることで、私はどこへ向かうのだろう」

こうしてエロスは、ただ「誰かを好きになる気持ち」ではなく、自分が何を美しいもの・善いものとして求め、その欲求によってどんな生き方へ向かうのかを考える言葉へと広がっていきます。

『饗宴』の議論から見えてくる一つの答えは、人は自分に欠けている美や善を求め、それを得ることで幸福になろうとする。そして、その欲求をより広い美や善へ向けていくことができるということです。

つまりプラトンのエロスは、「何を欲しいか」だけではなく、「その欲求が自分をどこへ向かわせているのか」まで考えさせる愛なのです。

そこに、プラトンの愛の思想が二千年以上たった今も読み継がれる大きな面白さがあります。

では、愛は「自分が何を求めるか」だけで考えられるのでしょうか。

次は視線を、

「自分と相手のあいだに、どんな関係をつくるのか」

へ移してみましょう。

そこで登場するのが、プラトンの学園で学んだアリストテレスです。

5 アリストテレス

なぜ「友達」が幸福の問題になるのか

アリストテレス(古代ギリシャ語:Ἀριστοτέλης/Aristotélēs[アリストテレース]、紀元前384年〜紀元前322年)は、古代ギリシャ北部のスタゲイラに生まれ、若いころにアテナイへ渡り、プラトンが開いたアカデメイアで学んだ哲学者です。

アカデメイアとは、現在の学校名ではなく、プラトンを中心に哲学や数学などを研究した学びの場です。アリストテレスはそこで長く学び、その後、倫理学、政治学、論理学、自然研究など幅広い分野に大きな影響を残しました。紀元前の人物なので、この時代にはまだ日本の和暦はありません。

では、なぜフィリアについて調べると、アリストテレスがこれほど重要な人物として出てくるのでしょうか。

最初に結論を言えば、

アリストテレスは、フィリアを単なる「仲のよさ」ではなく、人間が幸福に生きるために必要な関係として詳しく考えたからです。

その中心となるのが、『ニコマコス倫理学』です。

これは哲学用語の名前ではなく、アリストテレスの倫理学を伝える著作の題名です。

その第8巻・第9巻では、フィリアがまとまって論じられています。前章で紹介した『スタンフォード哲学百科事典』でも、この二巻の中心的な主題はフィリアであり、それが幸福や徳ある活動とどう結びつくのかが重要だと整理されています。

ここでいうフィリア(古代ギリシャ語:φιλία/philía)は、日本語では「友情」「友愛」などと訳されます。

ただし、現在の日本語でいう「友達」だけを指す言葉ではありません。

古代ギリシャ語では、友人だけでなく家族などの親しい関係にも使われます。

ですから、アリストテレスのフィリアを、

「親友についてだけ書かれた友情論」と考えると範囲を狭くしすぎてしまいます。

人と人が、どのような理由で結びつき、互いにどう関わりながら生きるのか。

そこまで含む問題なのです。

では、なぜフィリアが「幸福」と関係するのでしょうか。

ここで出てくるのが、

エウダイモニア(古代ギリシャ語:εὐδαιμονία/eudaimonía)

という言葉です。

日本語では一般に「幸福」と訳されます。

ただし、

「今日はうれしかった」「楽しいことがあった」という一時的な気分だけを意味するものではありません。

アリストテレスの倫理学では、エウダイモニア living well(リヴィング・ウェル/よく生きること) や、人間としての力を十分に発揮して生きることに関わる言葉です。

さらに彼は、幸福をただ「持っている状態」ではなく、よい活動を実際に行いながら生きることと深く結びつけました。

ここが、フィリアを理解する大切な入口です。

幸福が「一人で手に入れて保管しておくもの」ではなく、実際にどう生き、どう行動するかに関わるのなら、

その人生を誰と、どのように生きるのか

も重要な問題になってくるからです。

アリストテレスはまず、人が誰かと親しくなる理由を整理します。

大きく分けると、

役に立つから。

一緒にいると楽しいから。

その人自身の人柄や善さを大切に思うから。

という三つです。

ここで大切なのは、利益や楽しさから始まる関係も、アリストテレスがフィリアの一種として扱っていることです。

「利益のある関係は友情ではない」と切り捨てているわけではありません。

ただし、利益を理由にした関係は、その利益がなくなれば終わりやすい。

楽しさを理由にした関係も、楽しくなくなれば変化しやすい。

それに対して、より充実したフィリアでは、相手の人柄や善さそのものを大切にし、

「この人自身によいことがあってほしい」

と願います。

しかもフィリアは、一方だけが相手を大切に思えば成立するものではありません。

アリストテレスは、互いに相手への善意を持ち、その善意が互いに知られていることを重要な条件として考えます。

特に善い人どうしの充実したフィリアでは、相手が自分に何を与えてくれるかだけでなく、相手自身のために善を願うことが中心になります。

ここまでなら、

「アリストテレスは友情を分類した人なんだ」で終わるかもしれません。

しかし、第9巻では、そこからさらに踏み込んだ問いが実際に出てきます。

「幸福な人にも、友人は必要なのか」

という問題です。

これはこの記事が現代向けに作った問いではありません。

『ニコマコス倫理学』第9巻第9章で、アリストテレス自身が検討している論点です。

一見すると、答えは「必要ない」ようにも思えます。

本当に幸福な人なら、自分で満たされている。

必要なものも持っている。

誰かに助けてもらわなくても生きられる。

それなら、友人はいらないのではないか。

アリストテレスはこの考えを検討したうえで、幸福な人にも、善い友人は必要だという方向へ答えを出します。

なぜでしょうか。

理由の一つは、幸福が「所有物」ではなく、活動することだからです。

幸福な人は、ただ何もせず満足しているのではありません。

考える。

善いことをする。

人に善を与える。

よい活動を続ける。

そうやって生きています。

そしてアリストテレスは、そうした善い活動は、友人とともに行うことで持続しやすくなり、友人の善い行為を見ることも自分のよい生き方に関わると考えます。

さらに、人間は他者とともに生きる存在であり、すべての善いものを持ちながら完全に孤独に生きる人生を、幸福な人生として選ぶのは不自然だとも論じます。

つまり、

幸福だから友人が不要になるのではなく、幸福に「よく生きること」が含まれるからこそ、善い友人との関係もその人生の一部になる。

これがアリストテレスの答えです。

ここで、もう一つ有名な表現が出てきます。

アリストテレスは友人を、

「もう一人の自分」

と表現する議論をしています。

これは、

「自分と性格が同じ人を友達にしなさい」

という意味ではありません。

親しい友人の場合、その人の善や幸福を、まるで自分自身の善にも関わることのように大切にする。

友人が善く生きることを願い、友人の喜びや悲しみに関わり、ともに活動する。

自分自身を大切にすることと、友人を大切にすることが、まったく無関係ではなくなるほど深い関係

を考えるための表現です。

だから、アリストテレスがフィリアを考えるうえで重要なのは、

単に、

「友達は大切です」と言ったからではありません。

人間の幸福そのものを考えていくと、他者との関係を抜きにしては考えきれないことを、フィリアの議論を通して示したからです。

では、アリストテレスは結局、

「人はなぜ友人を必要とするのか」という問いに、どう答えたのでしょうか。

この章で見てきた内容をまとめるなら、

人は、誰かから利益を受け取るためだけに友人を必要とするのではない。人間の幸福が「よく活動しながら生きること」にある以上、互いの善を願い、ともに活動し、ともに善く生きる友人そのものが、幸福な人生の重要な一部になる。

と整理できます。

そのうえで、この記事から現代の私たち自身へ問いを戻すなら、

「私は、この人から何を得たいのか」だけではなく、「私はこの人と、どんな生き方を一緒につくりたいのか」

と考えることができます。

これは、アリストテレスがそのままこの日本語で問いかけた文章ではありません。

『ニコマコス倫理学』第8・9巻で実際に展開される、フィリア・幸福・相互的な善意・共同の活動についての議論を、現代の私たち自身に引きつけて言い換えた問いです。

ここまで来ると、なぜフィリアを学ぶとアリストテレスが重要人物として登場するのかが見えてきます。

アリストテレスは、フィリアを単なる「仲良しの気持ち」から、人が他者とともによく生きるとはどういうことかを考える哲学の問題へ深めた人物なのです。

プラトンを通して、愛には、

「私は何をよいものとして求めているのか」という問題が見えてきました。

アリストテレスを通して、そこにもう一つ、

「その人と、どのような善い関係をつくりながら生きるのか」という問題が加わりました。

では、愛する相手が、自分に善意を返してくれる人とは限らないとしたらどうでしょう。

自分に何も返してくれない人。

さらに、自分に敵対する人だったとしたら。

ここから愛の問いは、「互いに大切にし合う関係」だけでは説明しきれないところへ進んでいきます。

そこで次に登場するのが、福音書に伝えられる愛の教えを考えるうえで重要な人物、イエスです。

6 イエス

なぜ「敵を愛する」がキリスト教的な愛の重要な問いになるのか

イエス・キリスト(ギリシャ語:Ἰησοῦς Χριστός/Iēsoûs Christós[イエースース・クリストス])は、西暦1世紀前半にガリラヤやユダヤ地方で活動したユダヤ人の宗教的教師です。

歴史研究では「ナザレのイエス」とも呼ばれます。

正確な生没年は確定していません。死についても特定の日付まで歴史的に確定することは難しく、研究上かなり確実に言える範囲としては、西暦29〜34年ごろの過越祭の時期に死去したと考えられています。当時の日本は弥生時代ごろで、まだ和暦が始まる以前です。

なお、「キリスト」は名字ではありません。

では、「イエス・キリスト」の「キリスト」とは何なのでしょうか。

これは名前ではなく、イエスに付けられた称号です。

ギリシャ語のΧριστός(Christós[クリストス])は、「油を注がれた者」を意味します。

これは、ヘブライ語で同じく「油を注がれた者」を意味するメシアに対応するギリシャ語です。

つまり、「クリストス」と「メシア」は言語は違いますが、聖書の文脈では同じ「油を注がれた者」という意味を表す対応語です。

「油を注がれた者」という言葉は、もともと聖書の中で、王や祭司など、神から特別な役割を与えられた人物にも使われました。

そして、のちには文脈によって、神が将来立てる王や、人々の救いに関わる人物への期待とも結びついていきます。

イエスの弟子たちや初期のキリスト教徒は、イエスの教えや行動を振り返り、とくに十字架で死んだイエスを神が復活させた、と信じたことを大きな理由として、イエスこそ「メシア=キリスト」であると理解するようになりました。

その後、イエスの生涯や死をユダヤ教の聖書と重ねて読み直し、「神が約束していた救いに関わる人物がイエスだった」と考える信仰が、初期キリスト教の中心になっていきました。

そのためキリスト教では、イエスを単なる名前として「キリスト」と呼ぶのではなく、神から遣わされたキリストとして信仰の中心に置いてきたのです。

では、なぜアガペーを学ぶと、イエスが重要人物として出てくるのでしょうか。

最初に結論を言えば、

イエスがアガペーという言葉を作ったからではありません。福音書に伝えられるイエスの教えが、「自分を愛してくれる人だけでなく、敵にまで愛を向けるとはどういうことか」という、後のキリスト教的な愛を考える重要な源になったからです。

では、イエス以前のアガペーは、どのような言葉だったのでしょうか。

アガペーは、イエスやキリスト教が作った言葉ではなく、それ以前から存在していた「愛」を表すギリシャ語です。誰が最初に作ったのかは分かっていません。

イエス以前には、『七十人訳聖書』――ヘブライ語などで書かれたユダヤ教の聖書を、紀元前3世紀ごろから古代ギリシャ語へ翻訳していった聖書――などでも、この言葉が使われていました。

そしてイエスが、アガペーという言葉そのものを新しい意味に作り変えた、と考えるのも正確ではありません。

重要なのは、福音書に伝えられるイエスの教えによって、「愛する」ということが、自分を愛してくれる人だけでなく、敵にまで向けられるものとして語られたことです。

つまり、イエスが新しい「アガペー」という単語を作ったのではなく、「では、その愛を誰にまで向けるのか」という問題を大きく広げ、その教えが後のキリスト教的なアガペー理解を形づくる重要な源になったのです。

ここで、初めて出てくる言葉を整理しておきましょう。

アガペー(ギリシャ語:ἀγάπη/agápē)は、「愛」を表す名詞です。

ただし、アガペーという単語そのものが、最初から必ず「無条件の愛」や「自己犠牲の愛」だけを意味していたと考えるのは正確ではありません。

大切なのは、「アガペーという言葉だから特別な愛」と決めつけるのではなく、それぞれの文章の中で、誰が誰をどのように愛することについて語っているのかを見ることです。

つまり、後のキリスト教でアガペーが非常に重要な愛の言葉になったからといって、その一語だけですべての意味が決まるわけではありません。

そして、イエスについて考えるときには、もう一つ重要な点があります。

イエス本人が書いたと確認できる著作は残っていません。

私たちが現在知るイエスの言葉や活動は、主に福音書を通して伝えられています。

福音書とは、単なる哲学書の題名ではなく、イエスの活動・教え・死などを伝え、その意味を初期キリスト教の立場から語った新約聖書の文書です。

現在の新約聖書には、『マタイによる福音書』『マルコによる福音書』『ルカによる福音書』『ヨハネによる福音書』の四つがあります。

これらは現代の意味での客観的な伝記そのものではなく、信仰共同体の視点からイエスを伝える古代の文書でもあります。そのため、歴史上のイエス本人が正確にどの言葉を語ったのかを考えるときには、歴史研究では慎重な検討が必要です。

この記事でも、

「イエス本人の著作にこう書かれている」

とはせず、

「『マタイによる福音書』では、イエスがこう教えたと伝えられている」という形で区別して見ていきます。

愛について特に重要なのが、『マタイによる福音書』第5章43〜48節です。

ここで使われているのが、

アガパオー(ギリシャ語:ἀγαπάω/agapáō)

という言葉です。

これは「愛」を意味する名詞アガペーではなく、「愛する」という意味の動詞です。

つまり、この箇所では「アガペーという愛の種類を定義する」というよりも、実際に「愛する」とは誰に向けられる行為なのかが問題になります。

福音書では、イエスが、

敵を愛し、迫害する人のために祈るよう教えたと伝えられています。

そして、そのあとに実際の問いが続きます。

簡単に言えば、

「自分を愛してくれる人だけを愛するなら、それだけで何が特別なのか」という問いです。

これは、この記事が作った問いではありません。

『マタイによる福音書』5章46節で、イエスが弟子たちに向けて問いかけたと伝えられている内容です。同じ箇所では、「自分の仲間だけにあいさつするなら、何が特別なのか」という問いも続きます。

では、その問いに対して、福音書はどのような答えを示しているのでしょうか。

その直前に、大切な手がかりがあります。

神は、

悪い人にも善い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせる

と語られます。

つまり、本文が示している答えの方向は、

「相手が自分に何を返してくれる人なのか」だけを基準に、愛を向ける相手を決めないこと

です。

自分に優しくしてくれる人を大切にする。

自分を愛してくれる人に愛を返す。

これは自然なことです。

けれど福音書に伝えられるイエスの教えは、そこで止まりません。

「愛が返ってくる相手だけを愛するのであれば、その愛は相手からの返礼に左右されているのではないか」というところまで、問いを広げていきます。

そして、

愛を返してくれない相手、さらには敵にまで愛を向けるという答えを示します。

ここで注意したいのは、「敵を愛する」=「敵を好きな気持ちにならなければならない」と単純に言い換えないことです。

『マタイによる福音書』で具体的に示されているのは、

敵を愛すること。

迫害する人のために祈ること。

です。

本文は、

「嫌いという感情そのものを完全になくしなさい」と心理状態だけを説明しているわけではありません。

また、

「敵がしたことをすべて正しいと認めなさい」と書いているわけでもありません。

ですから、本文から確実に言える中心は、

自分を愛してくれる相手だけに愛を返すという相互性を超え、敵にまで善を向けるよう求めている

ということです。

かみくだいて言えば、

「自分にやさしくしてくれる人にだけやさしくするのではなく、自分にひどいことをした人に対しても、相手が不幸になればいいと願うのではなく、その人にとってよいことを願う」

という方向です。

つまり、「よくしてもらったから、よくする」という交換のような愛だけで終わらせないということです。

では、現代の私たちは、この教えをどう考えればよいのでしょうか。

ここから先は、福音書そのものに書かれている内容ではなく、この教えを、今の私たちの家族・友人・職場などの人間関係に置き換えて考えてみる部分です。

たとえば、

「この人がしたことは間違っている」

と思うことと、

「だから、この人が不幸になればいい」

と思うことは、必ずしも同じではありません。

相手の行為を批判する。

必要なら距離を取る。

危険な行為を止める。

それでも、その人の不幸や破滅そのものを願わない。

行為をどう評価するかと、その人にどのような善を向けるかを分けて考えることができるのではないか。

これは、『マタイによる福音書』が現代心理学の「境界線」を直接教えているという意味ではありません。

敵への愛という教えを、現代の私たちが自分の人間関係に引きつけて考えるなら、そこから導ける一つの問いです。

では、イエスは結局、

「誰を愛するのか」という問題に、どのような答えを示したのでしょうか。

福音書に伝えられる教えから答えるなら、

「自分を愛してくれる人だけに愛を限定しない。敵にまで愛を向け、迫害する人のためにも祈る」

という方向です。

その根拠として示されるのが、

神が善い人にも悪い人にも太陽と雨を与える

という姿です。

つまり、この箇所では愛が、

「相手が自分に何をしてくれたか」

だけで決まるものではなくなります。

ここに、イエスがキリスト教的な愛を考えるうえで重要である大きな理由があります。

イエスはアガペーという単語を発明した人物ではありません。

福音書に伝えられるイエスの教えが、「自分を愛してくれる人だけを愛する」という相互性を越えて、愛をどこまで広げることができるのかという問題を、キリスト教の愛の中心的な問いとして残したのです。

そのうえで、この記事から私たち自身へ問いを戻すなら、

「相手が自分の期待どおりにしてくれないときにも、私はその人をどう扱いたいのだろう」と考えることができます。

これはイエスがそのままこの日本語で問いかけた文章ではありません。

『マタイによる福音書』に伝えられる「自分を愛する人だけを愛するなら何が特別なのか」「敵を愛し、迫害する人のために祈りなさい」という教えを、現代の私たち自身の人間関係へ置き換えた問いです。

プラトンでは、

「私は何をよいものとして求めているのか」

という問題が見えてきました。

アリストテレスでは、

「私は相手と、どのような善い関係を築きたいのか」

という問題が加わりました。

そして福音書に伝えられるイエスの教えでは、

「その愛は、自分に愛を返してくれる人だけに向けるものなのか」

というところまで問いが広がります。

では、敵にまで愛を向けるという考えを、実際に人が集まる共同体の中で生きようとしたら、どうなるのでしょうか。

愛を大切だと思うだけではなく、

意見が違う。

能力が違う。

立場が違う。

衝突も起こる。

そんな現実の人間関係の中で、愛をどう行動に変えるのか。

そこで次に登場するのが、初期キリスト教の共同体へ手紙を書き、アガペーを実際の共同体生活の中で語ったパウロです。

7 パウロ

なぜアガペーは「生き方」の問題になるのか

パウロ(ギリシャ語:Παῦλος/Paûlos[パウロス]、生没年は正確には不明)は、西暦1世紀に活動したユダヤ人で、イエスの死後、地中海世界の各地でキリスト教を伝えた使徒・宣教者です。『使徒言行録』では、現在のトルコ南部にあたるキリキア地方の都市タルソス出身と伝えられています。

『使徒言行録』は、新約聖書に収められている書物の一つで、イエスの死後、弟子たちやパウロたちがどのようにキリスト教を広めていったのかを伝える文書です。本文に著者名は書かれていませんが、『ルカによる福音書』――新約聖書に収められた四つの福音書の一つで、イエスの活動や教えを伝える書物――と同じ著者による続編と考えられています。

この時代も、日本ではまだ元号制度が始まる前です。

ここでいう使徒とは、初期キリスト教で、イエス・キリストを伝える使命を担った者に使われる呼び名です。

パウロは、生前のイエスに従っていた「十二弟子」の一人ではありません。

それどころか、パウロ自身の手紙によれば、最初はイエスを信じる人々を迫害していた側でした。

しかしその後、パウロは、復活したイエスが自分に現れたと受け止める体験をしたと、自身の手紙の中で語っています。

パウロはその体験を、単なる思いつきではなく、神がイエスを自分に示し、そのことをユダヤ人以外の人々にも伝える使命を与えた出来事だと理解しました。

ただし、ここは歴史と信仰を分けて考える必要があります。

パウロがそのような体験をしたと自ら語り、それによって生き方や活動を大きく変えたことは、本人の手紙から確認できます。

一方で、復活したイエスが実際にどのような形で現れ、何が起こったのかを、現在の歴史研究だけで確かめることはできません。

ですから、この記事では「本当にイエスが現れた」と歴史的事実として断定するのでも、「パウロの思い込みだった」と決めつけるのでもなく、パウロ本人は、自分が復活したイエスの現れを経験し、神から使命を与えられたと確信していた、というところまでを確かに言えることとして扱います。

つまりパウロは、生前からイエスの弟子になりたかった人物ではありません。

イエスを信じる人々に反対していた人物が、ある体験をきっかけに立場を大きく変え、自分はキリストを人々に伝える使命を受けた使徒だと考えるようになったのです。

そしてパウロは、その使命に従って各地を巡り、イエス・キリストについて人々に伝え、各地に生まれたキリスト教共同体――イエスをキリストと信じる人々が集まり、教えを学び、礼拝し、助け合って生活していた集まり――と関わるようになります。

このように、宗教の教えや信仰を人々に伝え、広めていく活動を「宣教(せんきょう)」といいます。

パウロは宣教を行うだけでなく、自分が関わった共同体に手紙を書き、問題について助言したり、人々を励ましたりしました。

そのためパウロは、使徒であると同時に、各地でキリスト教を伝え、共同体の形成や指導に関わった「宣教者」としても重要な人物なのです。

では、なぜアガペーについて学ぶと、イエスに続いてパウロが重要人物として出てくるのでしょうか。

最初に結論を言えば、

パウロがアガペーという言葉を作ったからではありません。パウロは、実際に問題を抱えていた初期キリスト教の共同体に向けて、「どれほど優れた能力や知識を持っていても、愛がなければ十分ではない」と語り、アガペーを人と人との現実の関係の中でどう生きるのかという問題として示したからです。

では、パウロ以前のアガペーは、どのような言葉だったのでしょうか。

アガペー(ἀγάπη/agápē)は、パウロ以前から使われていた「愛」を表す言葉です。

イエスより前に成立した『七十人訳聖書』などでも使われ、人と人との愛や、神と人との関係など、さまざまな愛を表していました。

つまり、もともと「無条件の愛だけ」を意味する特別な言葉だったわけではありません。

では、パウロは何をしたのでしょうか。

パウロはアガペーの意味をまったく別のものに作り変えたのではなく、この「愛」という言葉を、キリストを信じる人々が実際にどう生きるのかを考える中心的な言葉として強く用いました。

とくにパウロにとって重要なのは、

「愛を知っているか」だけではなく、「その愛によって、実際に人とどう接するのか」

ということです。

そのため、能力や知識がどれほどあっても、愛がなければ十分ではないと語り、愛を忍耐や親切、自分だけの利益を求めない態度などとして具体的に示しました。

つまりパウロが重要なのは、アガペーという言葉を発明したからではなく、すでにあった「愛」という言葉を、違いのある人々がともに生きるための具体的な生き方の問題として強く打ち出したからなのです。

そのことが特によく表れているのが、

『コリントの信徒への手紙一』

です。

これは哲学用語や思想の名前ではありません。

パウロがコリントにあった初期キリスト教共同体へ送った手紙の名前で、現在は新約聖書に収められています。

コリントとは、現在のギリシャにあたる地域にあった重要な都市です。

パウロはそこに形成されたキリスト教共同体と深く関わり、その人々が抱えていた具体的な問題に答えるために手紙を書きました。

現在の新約聖書にはパウロの名を持つ複数の手紙がありますが、そのすべてについて、現代の研究者が「パウロ本人が書いた」と同じ確かさで考えているわけではありません。

その中でも、

『ローマの信徒への手紙』

『コリントの信徒への手紙一』

『コリントの信徒への手紙二』

『ガラテヤの信徒への手紙』

『フィリピの信徒への手紙』

『テサロニケの信徒への手紙一』

『フィレモンへの手紙』

の七つは、現在の新約聖書研究でパウロ本人によるものと広く認められている書簡です。『コリントの信徒への手紙一』も、その一つです。

ここでいう書簡とは、簡単にいえば「手紙として書かれた文書」のことです。

つまり、『コリントの信徒への手紙一』は、後世の読者のために最初から体系的な「愛の教科書」として書かれた本ではありません。

実際の人々が暮らす共同体へ送られた手紙🟰実際にコリントで生活し、信仰をともにしていたキリスト教徒たちの集まりへ送られた手紙なのです。

そのことを知ると、『コリントの信徒への手紙一』第13章――愛について語られることで特に有名な部分――も、少し違って見えてきます。

「愛の章」は、もともと結婚式のために書かれた文章ではない

現在の『コリントの信徒への手紙一』第13章は、愛について語られることで有名なため、「愛の章」とも呼ばれています。

ここで繰り返し使われているのが、

アガペー(ギリシャ語:ἀγάπη/agápē)

という「愛」を表す名詞です。

この第13章は、現在では実際に結婚式でも読まれています。

とくによく知られているのが、

愛は忍耐強く、親切であり、ねたまず、自分の利益だけを求めない

といった、愛が人との関係の中でどのような態度として表れるのかを語る部分です。

こうした言葉は、

「結婚した二人が、これから相手をどのように大切にしながら生きていくのか」を考える言葉としてもよく合います。

そのため、現在ではキリスト教の結婚式の聖書朗読として実際に用いられています。

しかし、ここで大切なのは、

パウロがこの文章を、最初から恋人や新婚夫婦のために書いたわけではない

ということです。

『コリントの信徒への手紙一』は、パウロが実際のコリントのキリスト教徒たちへ送った手紙です。

そこには、人間関係の対立や立場の違い、礼拝をめぐる問題などがあり、さらに「賜物」をどう考え、どう使うのかも問題になっていました。

ここでいう賜物(たまもの)とは、パウロが神の霊によって人それぞれに与えられたと考えた能力や働きのことです。

知恵や知識、信仰、預言、いやし、異言など、さまざまなものが挙げられています。

そして手紙からは、目立つ賜物が高く評価されたり、それが人の優劣を考えることにつながったりしていた可能性が読み取れます。

そこでパウロは、

賜物は「誰が一番すごいか」を示すためではなく、それぞれの力を共同体全体のために生かすもの

だと語ります。

そして、その流れの中で「愛」が出てきます。

パウロが言おうとしているのは、

能力があること自体が悪いということではありません。

むしろ、

どれほど優れた能力や知識、信仰を持っていても、それを人との関係の中で愛をもって生かさなければ、それだけでは十分ではない

ということです。

つまり、能力そのものが愛になるのではありません。

その能力を何のために使うのか、誰のために使うのか、そしてどんな態度で使うのかを導くものとして、愛が必要になるのです。

そのため第13章では、愛が、

忍耐する。

親切にする。

ねたまない。

自分の利益だけを求めない。

といった、具体的な人との接し方として描かれています。

こうして見ると、第13章の中心にあるのは、

「恋人をどう愛すればよいのか」だけではなく、「能力も考え方も立場も違う人たちが、ともに生きるためには何が必要なのか」という、もっと広い問題です。

そしてパウロが示す答えの中心にあるのが、

アガペー=愛

なのです。

では、もともと結婚について書かれた文章ではないのに、なぜ結婚式で読むのでしょうか。

それは、結婚もまた、違う二人が長い時間をともに生きていく人間関係だからです。

好きという気持ちだけではなく、

意見が合わないときにも忍耐する。

相手を思いやって親切にする。

自分のことだけを優先しない。

相手とともによく生きようとする。

そうした愛が必要になります。

その意味では、もともとは共同体へ向けられたパウロの言葉を、夫婦という人間関係に当てはめて読むことにも十分な意味があります。

つまり、

「第13章は結婚のために書かれた文章ではないから、結婚式で読むのは間違い」なのではありません。

むしろ本来の背景を知ることで、

「愛とは、好きという気持ちだけではなく、違う人とともに生きるときに、どのような態度を選ぶのかという問題でもある」

という、結婚式でこの文章が読まれるもう一段深い意味も見えてくるのです。

なぜ「賜物」の話の途中に、「愛」が出てくるのか

ここまで見てきたように、パウロがいう賜物とは、神の霊によって人それぞれに与えられたと考えられた、さまざまな能力や働きのことです。

では、なぜその賜物についての話の中に、突然「愛」が出てくるのでしょうか。

現在の聖書では、『コリントの信徒への手紙一』の第12章から第14章にかけて、賜物についての議論が続いています。

第12章では、知恵、知識、信仰、預言、いやし、異言など、人によって異なる働きがあることが語られます。

そしてパウロは、それらが「誰が一番すごいか」を示すためではなく、共同体全体のために用いられるものだと考えます。

現在の第13章にあたる部分で、そこにアガペー=愛の話が入ります。

そして第14章では、再び預言や異言などの話へ戻ります。

なお、パウロ自身が「第12章」「第13章」「第14章」という番号をつけて手紙を書いたわけではありません。章や節の番号は後の時代につけられたものです。

つまり、第13章の「愛」は、賜物の話とは関係のない別の話が途中に入ったのではありません。

さまざまな能力を持つ人たちが、それをどのように使えば、ともによく生きられるのか」

という問題を考えるうえで、愛が必要になるのです。

では、パウロは何を言おうとしたのか

第13章でパウロは、

「愛とは何ですか?」と質問して、その定義を答える書き方はしていません。

代わりに、

もし、すばらしい言葉を話せたとしても。

もし、預言する力や豊かな知識があったとしても。

もし、非常に強い信仰があったとしても。

そこに愛がなかったらどうなるのか。という形で話を進めます。

そしてパウロの答えは、かなりはっきりしています。

どれほど優れた能力や知識、信仰があっても、愛がなければ、それだけでは十分ではない。

ということです。

ここで大切なのは、パウロが、

「能力はいらない」

「知識を持ってはいけない」

と言っているわけではないことです。

むしろ、人によって異なる力があること自体は認めています。

問題なのは、

「自分にはこんな能力がある」と誇るだけで終わり、その力がほかの人のために使われていないなら、本当に意味があるのか

ということです。

パウロの議論から見えてくる答えは、

与えられた力は、自分の優秀さを示すためだけではなく、愛に導かれて、ほかの人や共同体全体のために生かされる必要がある

という方向です。

能力そのものが愛に変わるわけではありません。

能力を「何のために、誰のために、どのような態度で使うのか」を導くものとして、愛が必要になるのです。

では、その「愛」はどんな態度として表れるのか

パウロは第13章で、アガペーを辞書のように一文で定義してはいません。

代わりに、愛があるとき、人がどのようにふるまうのかを描いています。

愛は忍耐する。

親切にする。

ねたまない。

自慢しない。

高ぶらない。

自分の利益だけを求めない。

不正を喜ばず、真実を喜ぶ。

つまり、ここで語られるアガペーは、心の中に「大切だと思っています」という気持ちがあるだけで完成する愛ではありません。

相手にどう接するのか。

自分の力を何のために使うのか。

自分だけを誇ろうとしていないか。

違う人をどう扱うのか。

そうした実際の人間関係の中で表れる態度として語られています。

だからこそ、パウロにとってアガペーは「生き方」の問題になるのです。

第13章の最後では、信仰・希望・愛が挙げられ、その中でも愛が最も大きいと語られます。

また、その少し前では、預言や異言、知識などには終わるときが来る一方で、愛は終わらないものとして描かれています。

パウロが「なぜ愛が最大なのか」を現代の教科書のように項目立てして説明しているわけではありません。

それでも、この一連の文章からは、

能力や知識には限りがあっても、人と人がどう関わり、どう大切にし合うかという愛は、共同体を成り立たせる中心にある

という方向を読み取ることができます。

では、パウロは結局、

「愛があるなら、人はどう生きるのか」という問題に、どのような答えを示したのでしょうか。

これはパウロがそのままこの日本語で問いかけた文章ではなく、この記事で第13章の議論を分かりやすく問いの形にしたものです。

そのうえで、パウロの文章から答えをまとめるなら、

愛があるなら、自分の能力や知識を誇るだけで終わらず、それをほかの人のために生かし、相手との関係の中で忍耐し、親切にし、自分の利益だけを求めずに生きる。という方向が見えてきます。

ここに、パウロがアガペーを考えるうえで重要な理由があります。

パウロはアガペーという言葉を作った人物ではありません。

すでにあった「愛」という言葉を、違いや対立を抱えた現実の人々に向けて、

「愛があるなら、その愛は実際の人間関係の中で、どのような態度や行動として表れるのか」

という問題として具体的に語った人物なのです。

そのうえで、現代の私たち自身に置き換えて考えるなら、

「私は何ができるか」だけではなく、「その力を、誰のために、どんな気持ちや態度で使っているのか」

と考えることができます。

これはパウロ本人の言葉ではありません。

「賜物は共同のためにある」「愛がなければ十分ではない」「愛は忍耐し、親切にする」というパウロの議論を、今の私たちの生き方へ置き換えた問いです。

ここまで四人をたどると、それぞれが「愛」の違う問題を見ていたことが分かります。

プラトンは、人は何を求め、その欲求によってどこへ向かうのか。

アリストテレスは、人は他者とどうともによく生きるのか。

福音書に伝えられるイエスの教えは、愛を、自分を愛してくれる人だけに向けるのか。

そしてパウロは、その愛を、違う人たちがいる現実の関係の中でどう生きるのか。

四人が三つの愛を作ったわけではありません。

それぞれ違う時代と立場から、「人はどう愛するのか」という問題の違う部分を深く考えたからこそ、エロス・フィリア・アガペーをたどると、この四人が重要人物として登場するのです。

では次に、四人を横に並べながら、

それぞれが「愛」のどこを見ていたのかを、もう一度整理してみましょう。

8 4人を知ると、「愛の悩み」を4つの問いに分けられる

ここまで、プラトン、アリストテレス、イエス、パウロを一人ずつ見てきました。

ここからは、四人について覚えた知識を、もう少し自分の生活に近づけてみましょう。

四人を並べて見えてくる大切なことは、

「愛について悩んでいる」とき、私たちは実は一つのことだけに悩んでいるとは限らない

ということです。

この記事では、四人について見てきた内容を、私たち自身が愛について考えるための問いとして、次のように整理してみます。

プラトンの著作から見えてくるのは、「私は何を求め、その欲求によってどこへ向かう?」

アリストテレスの著作から見えてくるのは、「私たちは、どうともによく生きる?」

福音書に伝えられるイエスの教えから見えてくるのは、「私は、自分を愛してくれる人だけでなく、誰にまで愛を向ける?」

パウロの書簡から見えてくるのは、「その愛を、現実の人間関係の中でどう生きる?」

これは、四人自身が作った「愛の四分類」ではありません。

それぞれの著作や、福音書に伝えられる教えから見えてきた考えを、この記事で私たち自身が愛について考えるための四つの問いとして整理したものです。

では、この四つが何の役に立つのでしょうか。

たとえば、大切な人と激しく言い争ってしまったとします。

「もう知らない」

と思う一方で、

「本当は仲直りしたい」

という気持ちもある。

相手に謝ってほしい。

でも、自分にも言いすぎたところがある。

相手を大切にしたいと思っているのに、腹も立っている。

こんなとき、

「私はこの人を愛しているの? 愛していないの?」

と一つの問いにしてしまうと、なかなか答えが出ません。

そこで、四人から見えてきた問いを使って、少しずつ分けてみます。

まずプラトンから考えるなら、

「私は、この人に何を求めているのだろう?」

と考えられます。

謝ってほしいのか。

自分の気持ちを理解してほしいのか。

以前のように仲良くしたいのか。

それとも、

「自分の方が正しかったと認めてほしい」

と思っているのかもしれません。

プラトンの愛についての議論では、エロスは単に一人の人への恋愛感情だけではなく、人が何をよいものとして求め、どこへ向かうのかという問題に広がっていきます。だからプラトンから得られるのは、欲求をすぐに善悪で裁く前に、「私は本当は何を求めているのか」と問い直す視点です。

次にアリストテレスから考えるなら、

「私たちは、どんな関係でいたいのだろう?」

と考えられます。

相手に言いたいことを何でもぶつける関係なのか。

どちらか一方だけが我慢する関係なのか。

それとも、意見が違っても、お互いのよいことを願える関係でいたいのか。

アリストテレスのフィリアでは、相手自身のためによいことを願うことや、互いに相手を大切にすることが、特に充実した友情を考える重要な要素になります。また、そのフィリアは現代日本語の「友達」だけでなく、家族なども含む広い関係を扱っています。

つまり、

「私はこの人が好きか」だけでなく、「私たちは、どんな関係を一緒につくっているのか」

まで見てみるのです。

そして、福音書に伝えられるイエスの教えからは、

「相手が自分の望みどおりにしてくれないときにも、その人に善を向けることはできるだろうか」

という問いが見えてきます。

『マタイによる福音書』5章では、自分を愛してくれる人だけではなく、敵を愛し、迫害する人のために祈ることが語られます。また神について、善い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせるという説明が続きます。

ここから確認できる中心は、

愛を、自分に何が返ってくるかだけで決めない

という方向です。

これは、

「相手のしたことを全部許さなければならない」

という意味まで自動的に導くものではありません。

現代の私たちがここから人間関係について考えるなら、

「相手の行動には納得できない。でも、その人そのものの不幸を願いたいわけでもない」

というように、相手の行為をどう評価するかと、相手へどのような態度を向けるかを分けて考えることもできます。

そしてパウロからは、

「では、その愛を実際にどう表すのだろう?」

と考えることができます。

仲直りしたいと思っている。

相手を大切にしたいとも思っている。

でも、それを心の中で思っているだけでは、相手には伝わりません。

謝る。

自分の気持ちを落ち着いて伝える。

相手の話を聞く。

少し距離を置く必要があると伝える。

その場では答えを出さず、後でもう一度話す。

パウロの『コリントの信徒への手紙一』は、さまざまな問題を抱えていた実際の共同体に向けられた手紙です。特に第12〜14章では、それぞれの能力や働きが共同体の中でどう用いられるかという問題の間に「愛」の議論が置かれています。つまりパウロの愛は、抽象的な美しい感情だけではなく、人と人が一緒に生きるところでどう振る舞うのかという問題と切り離せません。

こうして考えると、

「愛しているのに、どうしてこんなに苦しいんだろう」

という一つの大きな悩みを、

私は何を求めている?

私たちは、どんな関係でいたい?

相手が思いどおりにならないときにも、どのような善を向けられる?

その気持ちを、実際にどんな言葉や行動へ変える?

と分けて考えられるようになります。

これが、四人を一緒に学ぶことで得られる大きなものです。

四人の答えを暗記するだけではありません。

自分の中で絡まっていた「愛」を、違う角度から見られるようになる。

プラトン、アリストテレス、イエス、パウロは、そのための四つの窓にもなるのです。

9 4人は「愛の四段階」ではない

正しく比べるために

ここまで四人を並べてきたので、その位置関係も正確に整理しておきましょう。

今回の四人は、「愛が四段階に発展していったこと」を示す人物ではなく、愛の異なる問題を考えるための四つの重要な入口です。

プラトンとアリストテレスは、紀元前4世紀を中心に活動した古代ギリシャの哲学者です。

それに対してイエスとパウロは、西暦1世紀のユダヤ教・初期キリスト教の歴史に登場します。

同じ時代に集まって、一つの「愛の理論」を共同で作った人たちではありません。

また、

エロス。

フィリア。

アガペー。

という三つの言葉も、

「エロスよりフィリアが上、その上にアガペーがある」という順位を表しているわけではありません。

それぞれ、注目しているものが違います。

エロスを考えると、人が何にひかれ、何を求めるのかが見えてきます。

フィリアを考えると、人と人との関係や相互性が見えてきます。

キリスト教思想の中でアガペーを考えると、見返りや相互性だけでは説明しきれない愛の問題が見えてきます。

そして、人物と愛の言葉も、一人につき一語できれいに固定されるわけではありません。

たとえばプラトンはエロスだけでなく、フィリアについても『リュシス』などで考えています。『スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)』でも、プラトンのエロスとフィリアは『リュシス』『饗宴』『パイドロス』をまたぐ問題として扱われています。

アリストテレスのフィリアも、現代日本語でいう「親友」だけを意味するものではなく、家族関係などを含む広いものです。

イエスについても、正確には、

福音書に伝えられるイエスの教えが、後のキリスト教的な愛を考える重要な源になったと位置づけるのが適切です。

『マタイによる福音書』5章の敵への愛では、名詞のアガペーそのものではなく、同じ語群の動詞ἀγαπάω(agapáō[アガパオー]/愛する)が使われています。

一方、パウロの『コリントの信徒への手紙一』13章では、名詞ἀγάπη(agápē[アガペー]/愛)が中心的に使われます。また『コリントの信徒への手紙一』は、現在の研究でもパウロ本人によることが広く認められている書簡の一つで、初期キリスト教共同体の具体的な問題を知る重要な資料でもあります。

だから今回の四人は、

「同じ種類の四人の哲学者」として並んでいるわけでもありません。

プラトンとアリストテレスは哲学者。

イエスは1世紀のユダヤ人宗教教師で、後のキリスト教が信仰の中心に置いた人物。

パウロは初期キリスト教の使徒・宣教者です。

この記事では、

「西洋の愛の思想をたどっていくと、なぜこの四人が重要になるのか」

という理由で一緒に見ています。

この整理をしておくと、四人を比べるときに、

「誰の愛が一番優れているの?」

と順位をつける必要がなくなります。

代わりに、

「この人を読むと、愛のどんな問題が見えるのだろう」

と考えられるようになります。

それこそが、四人を並べて読む一番大きな意味です。

10 おまけコラム

愛の哲学は、意外と「人と人のあいだ」の話だった?

ここまで少し硬い話が続いたので、最後に四人を別の角度から眺めてみましょう。

プラトン。

アリストテレス。

イエス。

パウロ。

遠い昔の人物ばかりです。

「愛について考えた思想家」と聞くと、一人で静かに座って、

「愛とは何か……」

と考えている姿を想像するかもしれません。

ところが今回見てきた四人の愛の話には、意外なほど**「人と人が一緒にいる場面」**が出てきます。

プラトンの『饗宴』は、その題名からして人が集まる場です。

古代ギリシャ語ではσυμπόσιον(sympósion[シュンポシオン])

酒宴や宴席を表す言葉で、人々が酒を飲みながら語り合う場を指します。

『饗宴』では、そんな場所で登場人物たちが次々にエロスについて語ります。

つまり読者は、

「愛の正解」を教科書のように渡されるのではなく、

違う人たちが愛について違うことを語る場に参加する

ことになります。

プラトンの愛についての作品では、こうした対話や語りそのものが重要な役割を果たしています。

アリストテレスでは、さらに分かりやすいです。

彼が考える充実したフィリアには、

一緒に時間を過ごす。

一緒に活動する。

互いのよいことを願う。

という「ともに生きること」が含まれます。

よい人生は、自分一人の頭の中だけで完成するものではない。

少なくともアリストテレスの友情論では、他者との関係が幸福な生活の重要な一部として考えられています。

福音書に伝えられるイエスの愛の教えも、人との関係から離れてはいません。

敵。

自分を愛してくれる人。

迫害する人。

「誰を愛するのか」という問題そのものが、相手がいて初めて生まれる問いです。

そしてパウロの『コリントの信徒への手紙一』に至っては、実際に問題を抱えている共同体へ向けた文章です。

そこでは、

能力の違い。

役割の違い。

意見の違い。

共同体の分裂。

礼拝をめぐる問題。

といった、かなり現実的な問題が扱われています。

その真ん中で「愛」が語られる。

そう考えると、『コリントの信徒への手紙一』13章も少し違って見えてきます。

愛とは、

きれいな気持ちを持つことだけではない。

自分とは違う人間と一緒にいるとき、どう振る舞うのかという問題でもある。

四人を並べてみると、そんな共通点が見えてきます。

もちろん、

「四人とも愛について同じ考えだった」

という意味ではありません。

むしろ考え方はかなり違います。

それでも今回扱った範囲では、

愛は一人の心の中だけで完結する問題ではなく、人と人とのあいだで初めて見えてくる問題でもある

ということがわかります。

誰かにひかれる。

誰かと一緒に生きる。

誰かに期待する。

誰かと意見がぶつかる。

自分を好きではない人と出会う。

違う能力や考えを持った人と一緒にやっていく。

そんなとき私たちは初めて、

「自分はこの人をどう大切にしたいのだろう」

と本気で考えることがあります。

もしかすると、愛についての古い思想が今でも読まれる理由の一つは、ここにあるのかもしれません。

時代が変わっても、人は誰かにひかれ、誰かと生き、誰かとぶつかり、そのたびに「どう大切にするか」を考え続けるからです。

遠い昔のプラトン、アリストテレス、イエス、パウロを読んでいたはずなのに、気がつくと、自分の家族や友人、恋人、そして自分自身の人との関わり方を考えている。

愛の思想が今も私たちに近く感じられるのは、そんなところにもあるのかもしれません。

――ここまで、プラトン、アリストテレス、イエス、パウロという四人を通して、愛についてどんな問いが考えられてきたのかを見てきました。

ここからは、少しだけ応用編です。

愛について学んでいくと、

「求める気持ちは、全部エロスなの?」

「相手の幸せを願えば、それだけでフィリアなの?」

「アガペーとアガパオーは何が違うの?」

と、似ているけれど同じではない言葉に出会います。

こうした違いがわかると、古い哲学を正確に読めるだけでなく、自分の気持ちも少し細かく言葉にできるようになります。

11 応用編

似ている言葉を知ると、「愛」がもう少し正確に見えてくる

エロスとエピテュミア――「求める」だけでは同じではない

古代ギリシャ語には、エピテュミア(ἐπιθυμία/epithymía)という言葉があります。

意味は「欲望」「切望」「何かを強く求めること」です。古代ギリシャ語の代表的辞典『リデル=スコット=ジョーンズ古希英辞典(A Greek-English Lexicon/ア・グリーク・イングリッシュ・レキシコン)』でも、desire, yearning, longing(ディザイア、ヤーニング、ロンギング/欲望・切望・強く求めること)と説明されています。

では、エロスも「求める愛」なのだから、同じなのでしょうか。

大切なのは、「欲望」という大きな範囲と、プラトンがエロスを通して考えた問題を、そのまま同じものにしないことです。

お腹が空いて食べ物がほしい。

名誉がほしい。

誰かに会いたい。

美しいものにひかれる。

どれも「求める」という点では似ています。

しかし『饗宴』のエロスでは、そこからさらに、

「自分は何をよいものとして求め、その欲求によってどこへ向かうのか」

まで問いが広がりました。

だからエロスを単なる「欲しい気持ち」とだけ覚えるより、人間の欲求の行き先まで考える言葉として見ると、プラトンの面白さがより見えてきます。

フィリアとエウノイア――「幸せでいてほしい」と「友である」は同じ?

アリストテレスを理解するときに役立つのが、

エウノイア(εὔνοια/eúnoia)

という言葉です。

日本語では「善意」「好意」などと訳せます。

簡単にいえば、

「この人によいことがあってほしい」と願うこと

です。

しかしアリストテレスでは、善意があることだけで、すぐフィリアになるわけではありません。

『スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy/スタンフォード・エンサイクロペディア・オブ・フィロソフィー)』では、アリストテレスのフィリアについて、相手のために善を願うエウノイアが相互的であり、互いにその善意を知っていることが重要だと整理されています。

たとえば、困っている知らない人を見て、

「この人が幸せになればいいな」

と思う。

そこには善意があります。

でも、その人はこちらを知らず、二人の間に関係があるわけではありません。

つまり、

エウノイアは「相手によいことを願うこと」。

フィリアでは、さらに二人のあいだの相互的な関係が問題になります。

「大切に思うこと」と「関係を築いていること」は似ていますが、同じではありません。

この違いがわかると、アリストテレスがなぜフィリアを「ともに生きること」と結びつけたのかも理解しやすくなります。

アガペーとアガパオー――「愛」と「愛する」を分けてみる

イエスとパウロのところで登場した二つの言葉も、ここで整理しておきましょう。

アガペー(ἀγάπη/agápē)は「愛」という名詞。

アガパオー(ἀγαπάω/agapáō)は「愛する」という動詞。

です。

『マタイによる福音書』5章の「敵を愛する」という教えでは、アガパオーと同じ語群の動詞が使われます。

一方、『コリントの信徒への手紙一』13章では、名詞のアガペーが繰り返し使われます。

だから、

「イエスがアガペーという一つの理論を作り、それをパウロが受け継いだ」

と一直線に考えるより、

新約聖書のさまざまな場面で、「愛する」「愛」という同じ語群が、それぞれの文脈の中で使われている

と理解する方が正確です。

そして、この名詞と動詞の違いは、私たちにも面白い問いを与えてくれます。

「愛とは何か」と考えることと、「私は実際にどう愛するのか」と考えることは、少し違う。

前者は愛の意味を問い、後者は愛する行為を問います。

パウロのところで「愛をどう生きるのか」という問題が出てきた理由も、ここにつながっています。

では、「愛」の反対は何なのか

ここまで来ると、

「エロス・フィリア・アガペーの反対語は何?」

と思うかもしれません。

しかし、愛全体に対応する「これ一語が正式な反対語」というものを決めることはできません。

なぜなら、三つの言葉が見ているものが違うからです。

エロスなら、「求めること」に対して何を反対と考えるのか。

フィリアなら、親しい関係に対して「敵対」を考えるのか。

アガペーなら、愛を向けることに対して「憎しみ」を考えるのか、それとも「相手を顧みないこと」を考えるのか。

問いによって変わります。

だから、

「愛の反対は何?」より、「いま考えている愛の、どの部分と反対なの?」

と問い直してみる方が、哲学的には面白くなります。

言葉を増やす目的は、難しいギリシャ語を暗記することではありません。

これまで一つに見えていた気持ちを、少しずつ違うものとして見分けられるようになることです。

「求めている」のか。

「幸せを願っている」のか。

「関係を築いている」のか。

「実際に愛する行動をしている」のか。

言葉が増えるほど、自分自身の「愛している」の中身も、少しずつ自分の言葉で説明できるようになります。

12 さらに学びたい人へ

4人を一人ずつ、もう少し知るための本

ここまで読んで、

「次はプラトン本人を読んでみたい」

「アリストテレスの幸福と友情をもっと知りたい」

「イエスとパウロを、もう少し歴史的に知りたい」

と思った人へ。

今回は、四人それぞれについて一冊ずつ選びました。

難しい本をたくさん並べるのではなく、今回の記事から次へ進みやすいものに絞っています。

プラトンをもっと知りたい人へ
『饗宴』 プラトン 中澤務訳

今回の記事で扱ったエロスを、解説ではなくプラトンの対話篇そのものから読みたい人におすすめです。

宴に集まった人々が、それぞれエロスについて語り、ソクラテス、ディオティマ、アルキビアデスへと話が進んでいきます。

今回の記事を読んでからなら、

「ここが“求める愛”の話か」

「ここから“美そのもの”へ進むのか」

と、本文の中で確かめながら読めます。

プラトンについて、人から説明してもらう次の一歩として、本人の作品へ入ってみたい人に向いた一冊です。

アリストテレスをもっと知りたい人へ
『アリストテレス『ニコマコス倫理学』を読む――幸福とは何か』 菅豊彦

今回の記事で扱った、

「幸福とは何か」「よく生きるとはどういうことか」「なぜ幸福な人にも友人が必要なのか」

という問題を、『ニコマコス倫理学』の議論に沿ってもう一段深く知りたい人におすすめです。

本書は『ニコマコス倫理学』を実際の本文に触れながら、「人生をどう生きることが最善なのか」「幸福とは何か」という問いを丹念に読み解く案内書として紹介されています。

原典そのものを最初から読むよりは入りやすい一方、単なるやさしい要約ではなく、アリストテレスがどのように議論を組み立てているのかまで追えるのが特徴です。

アリストテレスの倫理学全体の中で、なぜフィリアが必要になるのかを考えることで、

「ともによく生きる」とは何を意味しているのか

が、より立体的に見えてきます。

原典へ進む前に、『ニコマコス倫理学』全体の地図を持っておきたい人にも向いている一冊です。

イエスをもっと知りたい人へ
『知ったかぶりキリスト教入門 イエス・聖書・教会の基本の教養99』 中村圭志

これはイエスだけの伝記ではありません。

その代わり、

「イエスとは誰だったのか」「聖書とは何なのか」「キリスト教はどう成立したのか」

を一緒に知ることができます。

Q&A形式で99の疑問から説明されるため、聖書やキリスト教についてほとんど知らない人にも入りやすい構成です。

今回の記事で、

「歴史上のイエスと、キリスト教が信じるキリストはどう違うの?」

「福音書って、そもそも何?」

と思った人に向いています。

敵への愛だけを切り取るのではなく、その教えが語られた背景まで知るための入口になる一冊です。

パウロをもっと知りたい人へ
『パウロ――十字架の使徒』 青野太潮

この本では、パウロの生涯だけではなく、パウロの手紙は何なのか、どのように読まれてきたのか、彼の思想の中心には何があったのかが説明されます。

今回の記事では『コリントの信徒への手紙一』13章のアガペーを中心に見ました。

しかしパウロを知ると、

「なぜ共同体へ手紙を書いたのか」

「なぜ十字架が彼の思想で重要なのか」

「愛という言葉は、彼の信仰全体の中でどんな位置にあるのか」

まで見えてきます。

「愛の章を書いた人」だけではないパウロを知りたい人に適した一冊です。

本は、最初から全部理解しなくても大丈夫です。

気になる人物から一冊選び、

「今回の記事で出てきた問いは、本の中ではどう語られているのだろう」

と探してみてください。

人物名が、少しずつ「自分と一緒に問いを考えてくれる人」に変わっていきます。

13 まとめ・考察

愛の言葉を知ると意味が見え、人物を知ると「問い」が見えてくる

この記事の始まりには、

「エロス・フィリア・アガペーを調べると、なぜプラトン、アリストテレス、イエス、パウロが出てくるの?」

という疑問がありました。

ここまで見てきた答えは、シンプルです。

四人が三つの愛を作ったからではありません。

愛について、それぞれ違う場所から重要な問いを残したからです。

プラトンを知れば、エロスは単なる「恋愛」という一語では終わりません。

人は何を求め、その欲求によってどこへ向かうのかという問題になります。

アリストテレスを知れば、フィリアも単なる「友情」では終わりません。

誰かとともによく生きるとは何かという問題になります。

福音書に伝えられるイエスの教えを知れば、

自分に愛を返してくれる人だけを愛するのか、という問いが現れます。

そしてパウロを知れば、

愛が大切だと考えるだけでなく、それを人間関係の中でどう生きるのかという問題へ進みます。

つまり、

「愛とは何か」という一つの問いの中には、いくつもの違う問いが隠れています。

だから愛について悩んだとき、

すぐに、

「これは本物の愛なのか」

と一つの答えを出そうとしなくてもいいのかもしれません。

まず、

「私は何を求めている?」

「この人と、どんな関係を築きたい?」

「相手が思いどおりにならないとき、私はどう相手を見る?」

「その気持ちを、どんな行動にする?」

と分けてみる。

すると、「愛」という大きすぎる言葉が、少しずつ自分で考えられる問いになっていきます。

そして、それこそが今回、四人を人物として知った意味でもあります。

人物を学ぶことは、

生まれた年や著作名を暗記することだけではありません。

その人が、何を不思議に思い、何を問題として考え続けたのかを知ることです。

愛の言葉を知れば、その意味が見えてきます。

でも、

愛について考えた人を知ると、その言葉の向こうにある「問い」が見えてきます。

そしてその問いを、

「では、自分はどう考えるだろう」

と持ち帰ることができたとき、

二千年以上前の愛の思想は、昔の知識ではなく、

今の自分が「人をどう大切にしたいのか」を考えるための哲学

へ変わっていくのです。

14 疑問が解決した物語

「この4人って、何が違うんだろう?」

そう思って調べ始めた遥は、もう一度、最初に書いたメモを見返していました。

そこには、

「エロス=プラトン?」

「フィリア=アリストテレス?」

「アガペー=イエス? パウロ?」

と書かれています。

最初の遥は、三つの愛と四人の人物を、きれいに一対一で結びつければ理解できると思っていました。

けれど、四人について調べ終えた今は、少し違って見えています。

「そっか。誰かが三つの愛を作った、という話じゃなかったんだ」

遥は、古いメモの横に新しく書き足しました。

プラトン――私は何を求め、その欲求によってどこへ向かう?

アリストテレス――私たちは、どうともによく生きる?

イエスの教え――私は、自分を愛してくれる人だけでなく、誰にまで愛を向ける?

パウロ――その愛を、実際の人間関係の中でどう生きる?

四つを並べてみると、最初に感じていた混乱が、少しずつほどけていきました。

プラトンは、エロスという言葉を作った人ではありません。

けれど、人が何かに強くひかれ、求めるということから、

「人は何をよいものとして求め、その欲求によってどこへ向かうのか」

というところまで、愛の問いを深くしました。

アリストテレスも、フィリアという言葉を作った人ではありません。

けれど、友人や家族との関係を、

「人が他者とともによく生きるとはどういうことか」

という幸福の問題と結びつけて考えました。

福音書に伝えられるイエスの教えからは、

「自分を愛してくれる人だけを愛するのでよいのか」

という問いが見えてきました。

そしてパウロは、

「愛が大切だ」と考えるだけではなく、その愛を、違いのある人たちがいる現実の共同体の中でどう生きるのか

を語っていました。

「同じ“愛”の話をしているようで、見ている場所が違うんだ」

遥は、そこでようやく腑に落ちました。

そして、もう一つ大きなことに気づきました。

それまでの遥は、誰かとの関係で迷うと、

「この人を本当に愛しているのかな」

「こんなに腹が立つなら、愛していないのかな」

と、すぐに一つの答えを出そうとしていました。

けれど今は、そう考えなくてもいいのだと思えるようになりました。

愛について迷ったときには、

まず、

「私は、この人に何を求めているのだろう」

と考えてみる。

次に、

「私は、この人とどんな関係でいたいのだろう」

と考える。

さらに、

「相手が自分の期待どおりにしてくれないときにも、私はその人をどう大切にしたいのだろう」

と考えてみる。

そして最後に、

「その気持ちを、実際にどんな言葉や行動にすればいいのだろう」

と考えてみる。

そうすれば、

「愛しているか、愛していないか」

「本物の愛か、偽物の愛か」

という大きな二択だけで、自分の気持ちを決めなくてもいい。

愛についての悩みを、考えられる問いに分けてみればいい。

それが、四人を調べ終えた遥が見つけた、一つの答えでした。

そして遥は、もう一つ、自分なりにこう考えるようになりました。

愛というのは、どれか一つの気持ちだけを指す言葉ではないのかもしれない。

誰かを求めること。

その人とよい関係を築こうとすること。

相手から何かが返ってこなくても、その人に善を向けようとすること。

そして、その思いを実際の行動にしていくこと。

四人は、それぞれ違う場所から、そうした「人を愛すること」の一部分を考えていたのではないか。

もちろん、これはプラトン、アリストテレス、イエス、パウロの考えを一つにまとめた「正式な愛の定義」ではありません。

四人について調べた遥が、自分なりにたどり着いた理解です。

だから遥は、これから誰かとの関係で迷ったとき、

「これは本物の愛なのかな」

とすぐに答えを決めるのではなく、

自分は何を求めているのか。

この人と、どう生きたいのか。

相手が思いどおりにならないときにも、どう大切にしたいのか。

そして、その思いをどう行動にするのか。

一つずつ考えてみようと思いました。

最初は、

「エロスは誰が考えたの?」

「アガペーはイエスとパウロのどっち?」

という疑問から始まりました。

けれど、調べ終えた今、遥にとって大切なのは、

「誰がどの愛を作ったのか」ではなく、「その人が愛について何を問い続けたのか」

ということになっていました。

遥は、最初のメモの最後に一行だけ書き足しました。

「愛の言葉を覚えるだけじゃなくて、その言葉を使って、自分がどう人を大切にしたいのかを考えることが大切なんだ。」

プラトン、アリストテレス、イエス、パウロ。

四人を知って、遥が見つけたのは、「愛の正解」ではありませんでした。

その代わりに、

愛について迷ったとき、自分で考え始めるための見方と、自分なりの答えを探していく方法

を手に入れたのです。

15 文章の締めとして

「愛」という言葉は、とても身近な言葉です。

家族にも、友人にも、恋人にも使います。

けれど、その短い言葉について少し深く考えてみると、

何を求めるのか。

誰かとどう生きるのか。

誰にまで愛を向けるのか。

そして、その気持ちをどう生きるのか。

そんな、簡単には答えの出ない問いがいくつも隠れていました。

プラトン、アリストテレス、イエス、パウロ。

生きた時代も、立場も、残した言葉も違う四人です。

それでも、彼らについてたどっていくと、不思議なことがあります。

遠い昔の思想を読んでいたはずなのに、いつの間にか考えているのは、

「自分は何を求めているのだろう」

「この人と、どんな関係を築きたいのだろう」

「相手が思いどおりにならないとき、どう大切にしたいのだろう」

という、自分自身のことです。

哲学を学ぶことは、昔の人の答えをそのまま受け取ることだけではありません。

誰かが残した問いを手がかりに、

これまで何となく使っていた言葉を、もう一度、自分の言葉で考え直してみること

でもあります。

「愛している」と言うこと。

誰かを求めること。

ともに生きたいと願うこと。

見返りだけでは測れないところで、相手を大切にしようとすること。

その一つひとつについて、

「私はどう考えるだろう」

と問い続けることができる。

そこに、二千年以上前の愛の思想を、今の私たちが読む意味があるのかもしれません。

もしかすると、愛には、最後まで一つに決められない部分が残るでしょう。

けれど、だからこそ私たちは、

誰かを愛するたびに、

誰かとの関係に迷うたびに、

そして自分の気持ちがわからなくなるたびに、

もう一度「愛とは何だろう」と考えることができます。

その問いに、誰か一人の答えをそのまま当てはめなくてもかまいません。

大切なのは、

自分が何を求め、誰とどう生き、誰をどのように大切にし、その思いをどう行動にしていきたいのかを、自分自身で考え続けることです。

補足注意

この記事は、筆者が確認できる文献や資料をもとに、エロス・フィリア・アガペーと、プラトン、アリストテレス、イエス、パウロとの関係をできるだけ正確に整理したものです。

ただし、哲学・古典研究・聖書研究には複数の解釈や立場があり、この記事で紹介した理解だけが唯一の答えというわけではありません。

古代の言葉や人物については、資料の読み方や研究上の見解が分かれる部分もあります。また、今後の研究や新しい資料の検討によって、現在の理解が修正されたり、より詳しくわかることが増えたりする可能性もあります。

🧭 本記事のスタンス

この記事は、「これが唯一の正解です」と答えを決めるためではなく、エロス・フィリア・アガペーや、その言葉に関わる人物に興味を持ち、自分でも調べ、考えていくための入り口として書いています。

同じ言葉でも、時代や著者、哲学・宗教・歴史などの立場によって見え方は変わります。

ぜひ一つの説明だけで終わらせず、原典や研究書、異なる解釈にも触れながら、あなた自身の「愛とは何か」という問いを、さらに深く育ててみてください。

このブログで芽生えた「もっと知りたい」を、今度は原典や文献へ――プラトンのように「何を求めるのか」と問いを深め、アリストテレスのように「どうともに生きるのか」と関係を見つめ、イエスの教えから「誰にまで愛を向けるのか」を問い、パウロのように「その愛をどう生きるのか」までたどりながら、知を求め、問いを追い、愛を学び、あなた自身の「愛とは何か」をさらに深く育ててみてください。

最後まで読んでいただき、

本当にありがとうございました。

プラトン、アリストテレス、イエス、パウロが残した愛の問いは、「愛とは何か」を知ることだけでなく、私たち自身が「人をどう大切にして生きたいのか」を考え続けることの大切さを教えてくれているのかもしれません。

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