「愛しているなら、見返りを求めてはいけない?」
エロス・フィリア・アガペーの意味と違いを、プラトン、アリストテレス、キリスト教思想を手がかりにやさしく整理します。
求めること、支え合うこと、見返りだけを条件にせず相手を大切にすること。その違いを知りながら、普段何気なく使っている「愛している」という言葉の中身を、自分の言葉で考えてみましょう。

「見返りを求めたら愛じゃない?」から始める、「愛している」を考える哲学
代表例
「好き」は、全部同じ気持ち?

恋人に「好き」と言う。
親友を「大切な人」だと思う。
家族の幸せを願う。
困っている知らない人を見て、「何かできないかな」と思う。
私たちは、こうした気持ちをまとめて「愛」と呼びます。
けれど、少し考えてみると不思議です。
恋人に「もっと一緒にいたい」と思う気持ちと、親友に「幸せでいてほしい」と思う気持ちは、本当に同じなのでしょうか。
そして、
「愛しているなら、見返りを求めてはいけないの?」
「裏切られても許すのが愛なの?」
そんな疑問も生まれます。
愛とは、私たちが毎日のように使うのに、説明しようとすると急に難しくなる言葉です。
その「愛」を考える手がかりになるのが、古代ギリシャ語のエロス(erōs/エロース)、フィリア(philia)、そして後のキリスト教思想でも重要になったアガペー(agapē)です。
三つは、愛を完全に三種類へ分類するための箱ではありません。
愛の中にある「求める」「ともに大切にする」「見返りだけを条件にせず愛する」という違った面を考える手がかりとして見ていくと、わかりやすくなります。
5秒でわかる結論
エロス――価値あるものにひかれ、「近づきたい、得たい」と求める愛。
フィリア――相手を大切にし、互いによい関係を築いていく愛。
アガペー――特にキリスト教思想で、見返りや相手の価値だけを条件にしない愛を考える重要な言葉。
まずは、この三つを押さえれば十分です。
小学生にもわかるように言うと
噛み砕いていうと、3つの愛はこんなふうに考えられます。
「もっと会いたい」「もっと知りたい」「近づきたい」。
何かにひかれて、求める気持ち。
これがエロスを考える入口です。
友達が困っているときに、
「元気になってほしい」「力になりたい」
と思う気持ち。
これがフィリアを考える入口です。
そして、
「何かを返してくれるから大切にする」のではなく、
相手のことを思い、大切にしようとする。
これがアガペーを考える入口です。
とても簡単に言えば、
エロスは「求める愛」
フィリアは「ともに大切にする愛」
アガペーは「見返りだけを条件にしない愛」
と考えると、まずはわかりやすいでしょう。

ただし、この3つはきれいに分かれた別々の箱ではありません。
一人の人を愛するときにも、
「もっと一緒にいたい」
「幸せでいてほしい」
「何かを返してくれなくても大切にしたい」
という気持ちは、同時に生まれることがあります。
愛には、いくつもの顔がある。
エロス・フィリア・アガペーは、その違いに気づくための言葉なのです。
「好き」と「愛」って、何が違う?
ここで、「好き」と「愛」の違いも少し考えてみましょう。
小学館『デジタル大辞泉』では、「好き」は、心がひかれること、気に入ることなどと説明されています。
一方、「愛する」には、相手をいつくしむ、慕う、かけがえのないものとして大切にするといった意味があります。
ただし、日本語の「好き」と「愛」には、
「ここからが好きで、ここからが愛」と、いつでもはっきり分けられる一本の境界線があるわけではありません。
実際に「音楽を愛する」と言うように、「愛する」が「とても好む」という意味で使われることもあります。
そこでこの記事では、哲学するための一つの考え方の目安として、こう捉えてみます。
「好き」は、自分の心が相手にひかれること。
「もっと一緒にいたい」
「もっと知りたい」
「近づきたい」
という気持ちです。
それに対して、
「愛」は、相手そのものや相手の幸せまで大切にしようとすること。
「この人には幸せでいてほしい」
「この人自身を大切にしたい」
という方向まで含めて考えてみます。
たとえば、
「この人と一緒にいたい」
という気持ちから、さらに、
「たとえ自分の思いどおりにならなくても、この人には幸せでいてほしい」
と思えるとしたら、そこには「好き」だけでは捉えきれない、愛するという面が見えてくるかもしれません。
つまり、これは「好き」と「愛」の唯一の正しい定義ではありません。
この記事では一つの目安として、
好きは「私はこの人にどうひかれている?」
愛は「私はこの人をどう大切にしたい?」
と考えてみましょう。

そして、この「求める」「ともに大切にする」「見返りだけを条件にせず大切にする」という愛の違いを、もう少し細かく考える手がかりになるのが、これから見ていくエロス・フィリア・アガペーなのです。
1 「これって本当の愛?」と思ったことがあるあなたへ
「私はこれだけしているのに、相手は何もしてくれない」
そう思ったことはありませんか。
好きな人から返信が来なくて、
「本当に私のことを大切にしているのかな」
と不安になる。
親友だから助けてきたのに、いざ自分が困ったときには助けてもらえず、寂しくなる。
反対に、
「見返りを求めたら、本当の愛ではないのでは?」
と思って、自分の気持ちを我慢してしまうこともあるでしょう。
でも、ここで急いで「見返りを求めない愛だけが本物」と決める必要はありません。
人を求めること、互いに支え合うこと、相手自身の幸せを願うこと。
愛には、いくつもの面があります。
この記事ではエロス・フィリア・アガペーを手がかりに、
「私はなぜ、この人を大切にしたいのだろう?」
という身近な疑問から愛について考えていきます。
2 疑問が生まれた物語
「見返りを求めたら、愛じゃないの?」
美咲には、大切な恋人がいます。
仕事で疲れていると聞けば話を聞き、誕生日には相手が喜びそうなものを一生懸命考えます。
好きだから、してあげたい。
そう思っていました。
ところがある日、美咲自身が仕事で大きな失敗をしました。
誰かに話を聞いてほしくて恋人へ連絡すると、
「今日は疲れてるから、また今度ね」
と返ってきます。
その瞬間、美咲の心に、
「私はいつも話を聞いているのに」
という気持ちが浮かびました。

そして今度は、そんな自分が嫌になります。
「結局、私も何か返してほしくて優しくしていたのかな」
「本当に愛しているなら、何も求めないものなのかな」
調べていると、
エロス。
フィリア。
アガペー。
という言葉に出会いました。
けれど、説明を読むほど新しい疑問が出てきます。
恋人への愛はエロスだけ?
友達への愛がフィリア?
アガペーなら、本当に何も求めてはいけない?
そして、美咲は気づきます。
「もしかしたら私は、“愛”という一つの言葉の中に、違う気持ちを全部入れていたのかもしれない」
ここから、哲学してみましょう。
3 すぐにわかる結論
エロス・フィリア・アガペーとは、結局どういう愛?
ここまで読んで、
「結局、エロス・フィリア・アガペーは何が違うの?」
と思った人もいるでしょう。
まず、結論から整理します。
エロスは、価値あるものにひかれ、それを求めて近づこうとする愛。
フィリアは、相手と関係を築き、相手自身の幸せを願う愛。
アガペーは、特にキリスト教思想の中で、相手からの見返りだけを条件にせず相手を大切にする愛。

まずは、この違いを押さえておけば大丈夫です。
ただし、この三つを一人の哲学者が「愛にはこの三種類があります」と分類したわけではありません。
それぞれ、異なる時代や思想の中で重要な意味を持ってきた言葉です。
エロス――価値あるものを求める愛
エロス(ギリシャ語 erōs/エロース)を考えるうえで重要なのが、古代ギリシャの哲学者プラトン(紀元前427年ごろ〜紀元前347年ごろ)です。
プラトンの対話篇『饗宴(きょうえん)』では、エロスは単なる恋愛感情としてだけでは描かれていません。
美しい人にひかれるところから始まり、心の美しさ、知識、そして最終的には「美そのもの」へ向かっていく姿が語られます。
つまりプラトンのエロスには、
「自分にない、価値あるものを求め、そこへ近づいていこうとする力」
という面があります。
恋愛だけでなく、「もっと知りたい」「もっとよいものへ近づきたい」という憧れや欲求まで含めて考えられるのです。
フィリア――相手とともによく生きようとする愛
フィリア(ギリシャ語 philia)を詳しく論じた重要な人物が、プラトンの弟子でもあった哲学者アリストテレス(紀元前384年〜紀元前322年)です。
『ニコマコス倫理学』でアリストテレスは、人間が「よく生きる」ために友情がとても重要だと考えました。
フィリアは友人だけに限らず、家族などの親しい関係も含む広い言葉です。
アリストテレスは、役に立つから付き合う関係、一緒にいて楽しいから続く関係、そして相手の人柄そのものを大切にし、相手自身のためによいことを願う関係を区別しました。
そのためフィリアは、
「自分が何をもらえるか」だけではなく、相手を大切にしながら、お互いによい関係を築いていく愛
と考えるとわかりやすいでしょう。
アガペー――見返りだけを条件にしない愛
アガペー(ギリシャ語 agapē)は、もともとギリシャ語で使われていた言葉ですが、のちにキリスト教思想の中で愛を考える重要な言葉になりました。
ここで重要になるのが、西暦1世紀ごろのユダヤ社会で活動し、のちのキリスト教の中心となったイエス・キリストと、その教えを受け継いだキリスト教の伝統です。
新約聖書では、神が人を愛すること、人が神を愛すること、隣人や敵を愛することが語られています。
そのためアガペーは、しばしば「無償の愛」と説明されます。
ただし、より丁寧に言えば、
「相手が自分に何を返してくれるかだけを理由にせず、その人を大切にする愛」
と捉えるとわかりやすいでしょう。
「何をされても我慢する」という意味ではありません。
愛することと、自分自身を大切にすることは別々に考える必要があります。
ここで、物語の美咲に戻ってみましょう。
美咲が恋人に、
「私の話も聞いてほしい」
と思ったからといって、その愛が偽物になるわけではありません。
相手を求める気持ちにはエロス的な面があり、
「お互いを支えたい」と願う関係にはフィリア的な面があり、
「何かを返してくれるからだけではなく、この人を大切にしたい」という気持ちにはアガペーを考える手がかりがあります。
一人の人への愛の中に、エロス・フィリア・アガペー的な面が重なって現れることもあります。
ですから、三つを簡単にまとめるなら、
エロス=求め、近づこうとする愛
フィリア=相手とともによい関係を築く愛
アガペー=見返りだけを条件にせず相手を大切にする愛
です。
ここまでわかれば、エロス・フィリア・アガペーの大まかな違いはつかめています。
では、なぜエロスはプラトンの哲学で「美しいもの、よいものへ向かう力」として深められたのでしょうか。
なぜアリストテレスは、フィリアを単なる仲のよさではなく、「よく生きること」に欠かせないものとして考えたのでしょうか。
そして、なぜアガペーは、キリスト教の中でこれほど重要な愛の言葉になったのでしょうか。
その答えを考えるには、まず三つの言葉がもともとどのような意味を持ち、それぞれの思想の中でどのように深められていったのかを知る必要があります。
次は、エロス・フィリア・アガペーの正確な意味と、それぞれが哲学やキリスト教思想の中で重要になった理由から見ていきましょう。
4 そもそもエロス・フィリア・アガペーとは何なのか――3つの愛を正確に知る
ここまでで、エロス・フィリア・アガペーの大まかな違いは見えてきました。
では、3章の最後に出てきた、疑問に、もう一歩近づいてみましょう。
そのために、まず一つ大切なことを確認しておきます。
エロス・フィリア・アガペーは、誰か一人の哲学者が「愛にはこの3種類がある」と決めて作った分類ではありません。
三つともギリシャ語として使われてきた言葉です。
そして、その言葉を哲学者たちが考えたり、宗教の中で用いたりすることで、それぞれに重要な意味が与えられてきました。
つまり、
「言葉そのものにはどんな意味があるのか」と、「その言葉を哲学者やキリスト教がどのように考えたのか」は、分けて見る必要があります。
ここを押さえておくと、三つの愛がぐっと正確に見えてきます。
エロス――昔からあった「求める愛」を、プラトンはどう哲学したのか
エロスは、古代ギリシャ語で ἔρως(érōs/エロース)。
プラトンが作った言葉ではありません。
古代ギリシャではプラトン以前から使われており、恋愛的・性的な情熱だけでなく、何かを強く求める「欲望」という意味でも使われていました。古代ギリシャ語の代表的な辞典『リデル=スコット=ジョーンズ古希英辞典(A Greek-English Lexicon)』でも、エロスには恋愛的な愛だけでなく、物事への強い欲求という用法が確認できます。
では、なぜこの記事ではプラトンを取り上げるのでしょうか。
それは、すでに存在していたエロスという言葉を、「人はなぜ美しいものや、よいものを求めるのか」という哲学の問題にまで深めた代表的な哲学者だからです。
その人物が、古代ギリシャの哲学者プラトン(古代ギリシャ語:Πλάτων/Plátōn〔プラトーン〕、紀元前428・427年ごろ〜紀元前348・347年ごろ)です。
プラトンはアテナイを中心に活動し、正義、知識、魂、美、愛など、西洋哲学のその後に大きな影響を与える問題を考えた人物です。師であるソクラテスらを登場させた「対話篇」という形式で、多くの著作を残しました。
今回プラトンが重要なのは、エロスを単なる「好きな人がほしい」という感情だけで終わらせず、人間を美しいもの・よいものへ向かわせる力として考えたことにあります。
その考えがよく表れているのが、対話篇『饗宴(きょうえん)』です。
『饗宴』で中心的な役割を果たすのが、プラトンの師である哲学者ソクラテス(古代ギリシャ語:Σωκράτης/Sōkrátēs〔ソークラテース〕、紀元前469年ごろ〜紀元前399年)です。
ソクラテスは古代アテナイの哲学者で、自分自身では哲学書を残さず、人との対話を通して「正義とは何か」「よく生きるとは何か」と問い続けた人物です。プラトンはその弟子であり、ソクラテスを多くの対話篇の中心人物として登場させました。
『饗宴』のソクラテスはさらに、マンティネイアのディオティマ(古代ギリシャ語:Διοτίμα/Diotíma〔ディオティマ〕、年代不詳)という女性から愛について教わったという形でエロスを説明します。
ディオティマは『饗宴』の中でソクラテスに愛を教える重要な人物ですが、実在した人物だったのかどうかは確定していません。
そのため、ここでは「『饗宴』に登場する愛の教師」*として理解しておけば十分です。
そこで語られる大切な考えの一つが、
人は、自分がまだ十分には持っていない「美しいもの」や「よいもの」を求める
ということです。
「もっとこの人に近づきたい」
「もっと知りたい」
「もっとよい人になりたい」
そう願うとき、私たちは今の自分にはまだ十分にない何かへ向かっています。
プラトンの『饗宴』では、エロスはこのような欠けているものを求める欲望として描かれます。
しかし、『饗宴』のエロスが面白いのはここからです。
一人の美しい身体にひかれることから始まり、やがてさまざまな身体の美、心の美、人間の営みや知識の美へと進み、最後には個々の美しいものを超えた「美そのもの」へ向かう道が描かれます。
つまり、プラトンが『饗宴』で描いたエロスには、「ほしい」「近づきたい」という欲求が、より美しいもの・よりよいものを求めて自分自身を高めていく力にもなりうる、という特徴があります。
ここが重要です。
「エロス=プラトンの言葉」なのではありません。
昔から存在していたエロスを、プラトンが哲学の問題として深く考えた。
だからこの記事では、哲学におけるエロスを理解するための代表的な思想家としてプラトンを取り上げているのです。

フィリア――昔からあった「親しい結びつき」を、アリストテレスは人生の幸福につなげた
フィリアは、古代ギリシャ語で φιλία(philía/フィリア)。
この言葉も、アリストテレスが作ったものではありません。
古代ギリシャ語では、親しい愛情、友情、人との友好的な結びつきなどを表す言葉として使われていました。物に対する「好み」を表す場合もあります。
日本語では「友情」「友愛」と訳されることが多いのですが、古代ギリシャのフィリアは、現代日本語の「友達」より広い範囲を含みます。
友人だけでなく、家族などの関係も含まれるのです。
では、なぜこの記事ではアリストテレスを取り上げるのでしょうか。
それは、フィリアを「人間がよく生きるために、なぜ他者が必要なのか」という倫理学の重要な問題として詳しく考えた代表的な哲学者だからです。
その人物が、古代ギリシャの哲学者アリストテレス(古代ギリシャ語:Ἀριστοτέλης/Aristotélēs〔アリストテレース〕、紀元前384年〜紀元前322年)です。
アリストテレスは北ギリシャのスタゲイラに生まれ、若いころにプラトンの学園「アカデメイア」で学びました。その後、倫理学、政治学、論理学、自然研究など非常に幅広い分野を研究した哲学者です。
今回アリストテレスが重要なのは、フィリアを単なる「仲良し」ではなく、人間が幸福に生きるために必要な関係として詳しく考えたことにあります。
その代表的な著作が『ニコマコス倫理学』です。
この著作では、人間にとっての幸福をエウダイモニア(古代ギリシャ語:εὐδαιμονία/eudaimonía)という言葉を通して考えます。
日本語では「幸福」と訳されますが、単に、
「今日は楽しかった」
「幸せな気分だった」
という一時的な感情だけを意味する言葉ではありません。
アリストテレスが考えているのは、人間としての能力や徳を働かせながら、人生全体としてよく生きることです。
そして、その「よく生きること」にフィリアが深く関係します。『スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)』でも、『ニコマコス倫理学』第8巻・第9巻の友情論は、徳ある活動と幸福との関係を理解する重要な部分として説明されています。
アリストテレスは、人と人が結びつく理由にも違いがあると考えました。
役に立つから付き合う。
一緒にいると楽しいから付き合う。
そして、
その人自身をよいと思い、その人自身のためによいことを願う。
利益による関係や楽しさによる関係も、アリストテレスはフィリアの一種として扱います。
しかし、とくに充実した友情では、相手を「自分に何をしてくれる人なのか」だけで見ません。
その人自身のために、その人のよいことを願います。

そして大切なのは、それが一方通行ではないことです。
相手もこちらのことを大切に思い、互いにその気持ちを理解している。
この相互性も、アリストテレスのフィリアを理解する重要なポイントです。
だからフィリアでは、
「私はあなたから何をもらえるか」
だけではなく、
「私たちは、お互いにどのような人になり、どのような関係を築いていくのか」
までが問題になります。
支えてもらう。
自分も支える。
一緒に楽しむ。
ときには、相手のためを思って耳の痛いことも伝える。
そうして、お互いの人生が少しずつよい方向へ進んでいく。
アリストテレスにとってフィリアは、幸福な人生のあとに付け加える「おまけ」ではなく、よく生きる人生を形づくる重要な一部だったのです。
ここでも、
「フィリア=アリストテレスが作った考え」
なのではありません。
以前から存在したフィリアという言葉を、人間の幸福や徳との関係まで掘り下げた代表的な哲学者がアリストテレスだった。
だから、哲学におけるフィリアを考えるとき、アリストテレスが重要になるのです。
アガペー――昔からあった言葉が、なぜキリスト教の「愛」を表す重要語になったのか
アガペーは、ギリシャ語で ἀγάπη(agápē/アガペー)。
ここは三つの中でも、とくに丁寧に理解したいところです。
アガペーも、キリスト教がゼロから作り出した言葉ではありません。
ただし、名詞 agápē はキリスト教以前のギリシャ語では用例が少なく、ヘブライ語聖書を古代ギリシャ語へ翻訳した『七十人訳聖書(Septuagint/セプトゥアギンタ)』や、その後の新約聖書で重要な言葉になっていきました。
聖書学者ジェームズ・バーによる「Words for Love in Biblical Greek(ワーズ・フォー・ラヴ・イン・ビブリカル・グリーク/聖書ギリシャ語における愛の言葉)」でも、この語の歴史と、後世に作られた「エロス対アガペー」という単純な対立を分けて考える必要があることが論じられています。
つまり、
「アガペーという単語自体が最初から“完全な無償の愛”を意味していた」と考えるのではなく、キリスト教の中でこの言葉を使ってどのような愛が語られたのかを見ることが大切です。
では、なぜアガペーはキリスト教でそれほど重要になったのでしょうか。
ここで登場するのが、イエス・キリスト(ギリシャ語:Ἰησοῦς Χριστός/Iēsoûs Christós〔イエースース・クリストス〕)です。
歴史研究では「ナザレのイエス」とも呼ばれ、西暦1世紀前半にユダヤ地方を中心に活動したユダヤ人の宗教的指導者です。
正確な生年月日はわかっていませんが、紀元前数年ごろに生まれ、西暦1世紀前半に活動したと考えられています。
なお、「キリスト」は名字ではありません。
ギリシャ語 Χριστός(Christós/クリストス)は「油を注がれた者」を意味し、ユダヤ教の「メシア」に対応する称号です。
キリスト教では、イエスをこの「キリスト」、つまり救い主として信仰の中心に置いています。
今回イエスが重要なのは、キリスト教が語る愛を理解するうえで、自分を愛してくれる人だけではなく「敵を愛する」というところまで愛を広げた教えが重要だからです。
新約聖書『マタイによる福音書』5章では、イエスが敵を愛し、迫害する人のために祈るよう語ったと伝えられています。
ここでギリシャ語本文に使われているのは、アガペーと同じ語根を持つ動詞 ἀγαπάω(agapáō/アガパオー、「愛する」)です。
つまり、正確には「敵をアガペーしなさい」という名詞の使い方ではなく、アガペーと同じ言葉の仲間である「愛する」という動詞が使われています。
さらに、自分を愛してくれる人だけを愛するなら、それだけで何が特別なのか、という趣旨の教えが続きます。
ここに、キリスト教的なアガペーを理解する大きな手がかりがあります。
「大切にしてくれたから、大切にする」
「助けてもらったから、助ける」
これは人間関係として自然なことです。
フィリアのような相互的な関係では、むしろそうした支え合いが大切になります。
しかし、「敵を愛する」という教えでは、相手から同じ愛が返ってくるとは限りません。
それでも相手へ愛を向ける。
そのためキリスト教思想のアガペーでは、
「相手が自分に何を返してくれるかだけを、愛する条件にしない」
という面が強く表れます。

また新約聖書では、神と人との愛だけではなく、人が互いに愛し合うことも重要な教えとして語られています。『ヨハネによる福音書』でも、互いに愛し合うことが命じられています。
ですから、
アガペー=神から人への愛だけと限定するのも正確ではありません。
キリスト教では、神から人への愛、人から神への愛、そして人から人への愛を考える重要な言葉として使われてきました。
これが、アガペーがしばしば「無償の愛」と説明される背景です。
ただし、「無償」という言葉も丁寧に受け取る必要があります。
アガペーが示す大切な方向は、「自分が何を返してもらえるかだけで、相手を大切にするかどうかを決めないこと」です。
相手を愛することと、相手の行動をすべて正しいと認めることは同じではありません。
相手から離れる必要があると判断することと、その人を人間として尊重することも両立しえます。
そのためこの記事では、アガペーを、
「見返りだけを条件にせず、相手を大切にしようとする愛」
と説明しています。
ここまでを、いったん整理してみましょう。
エロスは、価値あるものを求め、そこへ近づいていく愛。
エロスという言葉はプラトン以前からありました。
そのエロスをプラトンは『饗宴』で、人間が美しいものやよいものを求め、より高いものへ向かっていく力として深く考えました。
フィリアは、人との親しい結びつきの中で、相手自身を大切にし、ともによい関係を築いていく愛。
フィリアという言葉もアリストテレス以前からありました。
そのフィリアをアリストテレスは、人間の徳や幸福と結びつけ、「よく生きるために、なぜ他者との関係が必要なのか」という問題にまで深めました。
アガペーは、特にキリスト教思想の中で、見返りだけを愛の条件にせず相手を大切にする愛を考える重要な言葉。
アガペーという語もキリスト教が突然作ったものではありません。
しかし、新約聖書やその後のキリスト教思想の中で、神の愛、互いに愛し合うこと、そして敵への愛まで考える重要な言葉になっていきました。
つまり三つとも、
昔から存在した言葉
→ 哲学や宗教の中で深く考えられた
→ 私たちが「愛とは何か」を考える重要な手がかりになった
という流れがあります。

そして、この三つは「どれが一番すばらしい愛なのか」を決めるランキングではありません。
たとえば大切な恋人に対しても、
「もっと一緒にいたい」
という求める気持ちがあり、
「お互いを支えながら、よい関係を築きたい」
というともに生きる気持ちがあり、
「自分の思いどおりになるかだけではなく、この人自身を大切にしたい」
という見返りだけを条件にしない気持ちが重なることがあります。
ここで、前に考えた「好き」と「愛」の違いにも、もう一度戻ってみましょう。
「好き」は、
「私は、この人にどうひかれているのだろう」
という、自分の心の動きから考えることができます。
「もっと会いたい」
「もっと知りたい」
「そばにいたい」
という気持ちです。
一方で「愛」は、
「私は、この人をどう大切にしたいのだろう」
という、相手そのものや相手との関係にも目を向ける気持ちとして考えることができます。
「この人には幸せでいてほしい」
「お互いを大切にできる関係でいたい」
「自分の思いどおりにならないときにも、この人をどう大切にできるだろう」
と考えることです。
つまりこの記事では、一つの考え方の目安として、
好きは「自分が相手にどうひかれているか」に目を向けること。
愛は「相手そのものや、相手との関係をどう大切にしたいか」まで目を向けること。
と捉えてみます。
もちろん、日本語の「好き」と「愛」を一本の線できれいに分けられるわけではありません。
大切なのは、エロス・フィリア・アガペーを通して、「ひかれる」という自分の気持ちだけでなく、「求める」「ともに生きる」「相手を大切にする」という違う方向まで見えるようになったことです。
すると、普段何気なく使っている「愛している」という一つの言葉の中にも、いくつもの気持ちが重なっていることが見えてきます。
エロス・フィリア・アガペーを学ぶ目的は、三つの名前を暗記することではありません。
求めること。
ともによく生きること。
見返りだけを条件にせず、相手を大切にすること。
「愛している」という一つの言葉の中にある、こうした違いを少しずつ見分けられるようになる。
それが、エロス・フィリア・アガペーを哲学として知る大きな意味なのです。
エロス・フィリア・アガペーを学ぶ目的は、三つの名前を暗記することではありません。
求めること。
ともによく生きること。
見返りだけを条件にせず、相手を大切にすること。
「愛している」という一つの言葉の中にある、こうした違いを少しずつ見分けられるようになる。
それが、エロス・フィリア・アガペーを哲学として知る大きな意味なのです。
5 なぜ、愛についてここまで考えたのか
第4章では、エロス・フィリア・アガペーがどのような言葉であり、それぞれの思想の中でどう深められてきたのかを見てきました。
ここからは、もう一段先へ進みます。
プラトン、アリストテレス、そしてキリスト教の伝統が考えていたのは、「愛にはどんな名前があるか」ではなく、愛することが人間の生き方をどう変えるのかという問題でした。
だからこそ、2000年以上たった今でも読む意味があります。
プラトン――人はなぜ、手に入れてもまた求めるのか
『饗宴』で描かれるエロスには、第4章で見た「自分に欠けているものを求める」という特徴があります。
しかし、その先にもう一つ重要な話があります。
ディオティマの議論では、人が求めているのは、ただ「よいもの」を手に入れることだけではありません。
「よいものを、いつまでも自分のものにしていたい」
と願うのだと考えます。

『饗宴』では、愛は、よいものを手に入れることだけでなく、そのよいものをいつまでも自分のものとして持ちたいという願いにも向かうことが語られています。
ここまで来ると、エロスは単なる「欲しい」という気持ちではなくなります。
たとえば、好きな人と一緒になれたとしても、
「この時間がずっと続いてほしい」
と思うことがあります。
知識を身につけても、
「もっと知りたい」
と思うことがあります。
何かを成し遂げても、
「自分が生きた証を残したい」
と思う人もいます。
プラトンの『饗宴』では、こうした欲求が、人間が有限な存在であることとも結びつけて考えられています。
人は永遠には生きられません。
だからこそ、子どもを残したり、作品や知識、徳や立派な行いを生み出したりすることで、自分を超えて残るものを求める。
『饗宴』ではこれを、身体だけではなく魂によっても「生み出す」こととして描いています。
ここに、プラトンのエロスの面白さがあります。
私たちが誰かや何かを求める気持ちの奥には、「このよさを失いたくない」「もっとよいものに近づきたい」という願いが隠れていることがある。
恋愛について考えていたはずなのに、いつの間にか、
「私は何をよいものだと思って生きているのだろう」
という人生そのものの問題へ進んでいく。
それが、『饗宴』でエロスを哲学する意味の一つなのです。
アリストテレス――幸福な人にも、なぜ友達が必要なのか
アリストテレスのフィリアにも、第4章からさらに一歩進んだ問題があります。
それは、
「本当に幸福な人なら、一人でも十分なのではないか」
という問題です。

お金もある。
自分で考えられる。
誰かに助けてもらわなくても生きていける。
そんな人なら、友人は必要ないようにも思えます。
ところがアリストテレスは、『ニコマコス倫理学』第9巻でこの問題を正面から取り上げ、幸福な人にも友人は必要だと論じます。
その理由は、「困ったときに助けてもらえるから」だけではありません。
アリストテレスにとって幸福は、何かを持っている状態ではなく、徳にかなった活動をしながら生きることです。
友人がいれば、
一緒に考える。
一緒に行動する。
相手によいことをする。
互いの生き方から学ぶ。
そうした活動ができます。
さらにアリストテレスは、よい友人を「もう一人の自分」のような存在として考えます。
これは「自分とまったく同じ人」という意味ではありません。
自分自身の生き方だけでは見えにくいものを、親しい友人の行動を通して見ることができる。
そして、人間にとっての「ともに生きる」とは、ただ同じ場所にいることではなく、会話や思考、活動を共有することだと論じています。
だからフィリアが教えてくれるのは、
「幸せになるには人脈が必要」
という話ではありません。
よく生きるということ自体が、ときに誰かと一緒に考え、行動し、互いによくなっていくことを含んでいる。
アリストテレスが幸福について考える途中で友情を長く論じた理由は、そこにあります。
『スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)』も、アリストテレスにとって、相手自身のためによいことを願うことと、自分自身の幸福を願うことは両立すると整理しています。
アガペー――なぜ「敵を愛する」まで愛を広げるのか
キリスト教的なアガペーでは、「敵を愛する」という教えが重要だと第4章で見ました。
ここでは、その理由をもう一段深く見てみましょう。
新約聖書『マタイによる福音書』5章では、敵を愛するという教えのあとに、神は善い人にも悪い人にも太陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせるという説明が続きます。
つまり、この箇所では、
「敵にも優しくしましょう」
という道徳だけが語られているわけではありません。
相手が自分にとって好ましい人かどうかだけで、善を向ける相手を選ばない神のあり方
が、一つの基準として示されています。
さらに、
「自分を愛してくれる人を愛するだけなら、そこに何が特別なのか」
という趣旨の言葉も続きます。
ここで問われているのは、愛の「交換条件」です。
「大切にしてくれるなら、大切にする」
という相互的な愛には、大切な価値があります。
フィリアでは、まさにその相互性が重要でした。
しかしアガペーを考えると、
相手から愛が返ってくることを期待できない場合にも、相手に善を向けられるのか
という、さらに厳しい問題が現れます。
だからキリスト教思想でアガペーが重要になった理由は、単に「一番すばらしい愛だから」ではありません。
愛する理由を、相手の魅力や見返りだけに置かない可能性を考えるための重要な言葉になったからです。
そして、だからこそアガペーは簡単ではありません。
好きになれない人。
自分に何も返してくれない人。
ときには、自分に敵対する人。
そこまで含めて「人を愛するとは何か」を考えさせる。
キリスト教的アガペーの厳しさと面白さは、そこにあります。
6 この3つを知ると、「愛している」の中身が見えてくる
ここまで学んできた三つの愛を、もう一度違う角度から見てみましょう。
エロス・フィリア・アガペーは、愛する相手を三つに分類する言葉というより、「愛のどこを見ているのか」が違う言葉として考えると理解しやすくなります。
この記事では、次のように整理してみます。
エロスは、「愛がどこへ向かおうとしているか」を見せてくれます。
何にひかれているのか。
何を求めているのか。
その欲求によって、自分はどこへ向かっているのか。
エロスという言葉そのものはプラトンが作ったものではありませんが、プラトンは、すでに使われていたエロスを『饗宴』の中で、美しいものやよいものを求め、人がそこへ向かっていく力として深く考えました。
そのプラトンが『饗宴』で描いたエロスでは、「自分が何にひかれているか」だけでなく、何を求め、その欲求によって自分がどこへ向かおうとしているのかが大切になります。
フィリアは、「二人の間にどんな関係ができているか」を見せてくれます。
ただ好きなだけなのか。
助け合えているのか。
相手自身の幸せを願えているのか。
互いに、よりよく生きられる関係になっているのか。
フィリアという言葉そのものはアリストテレスが作ったものではありませんが、アリストテレスは、すでに使われていたフィリアを「人は他者とどのようによい関係を築き、ともによく生きるのか」という問題として深く考えました。
そのアリストテレスのフィリアの考えでは、「自分が相手を好きか」だけではなく、お互いが相手の幸せを願い、どのような関係を一緒につくっているのかが大切になります。
アガペーは、「何を愛の条件にしているか」を見せてくれます。
優しいから愛する。
役に立つから大切にする。
自分を愛してくれるから愛する。
それだけなのか。
それとも、そこから返ってくるものだけでは測れない形で、相手を大切にできるのか。
アガペーという言葉そのものをキリスト教が作ったわけではありませんが、キリスト教では、すでに使われていたアガペーという言葉が、新約聖書やその後の思想の中で、神の愛や隣人への愛、敵への愛まで考える重要な言葉として深められてきました。
そのキリスト教思想の中で深められたアガペーからは、「相手が自分に何を返してくれるか」だけを愛する条件にせず、その人をどう大切にできるのかという視点が見えてきます。
この三つの見方を持つと、最初に登場した美咲の悩みも、より細かく見られるようになります。
美咲には、
「恋人にそばにいてほしい」
という求める気持ちがあります。
これは、それだけで悪いものではありません。
同時に、
「私があなたを支えるように、あなたにも私を支えてほしい」
という関係への願いがあります。
これも、フィリアの相互性から見れば、人間関係として自然に理解できます。
さらに、
「相手が自分の期待に応えてくれなかったら、すぐに相手の価値まで否定してしまうのか」
というところでは、アガペーから考えられる問題が出てきます。
すると美咲の悩みは、
「見返りを求めた私は、本当に愛していなかったの?」
という一つの問題ではなくなります。
「私は相手に何を求めているのか」
「私たちはどんな関係を築きたいのか」
「私は何を、相手を大切にする条件にしているのか」
という、別々の問題に分けて考えられるようになります。

これが哲学の大きな力の一つです。
悩みを消してくれるわけではありません。
でも、一つに絡まっていた悩みを分け、何に悩んでいるのかを見えやすくしてくれる。
エロス・フィリア・アガペーを知る価値は、「愛の種類を三つ覚えた」ことよりも、こちらにあるのではないでしょうか。
7 ここは誤解しやすい
3つの愛を正確に覚える
ここまでの内容を、誤解しやすいところだけ正確に整理しておきましょう。
まず覚えておきたいのは、
エロスは、恋愛や性的欲求だけに限定される言葉ではありません。
古代ギリシャ語のエロスには、強い欲望や恋愛的・性的な愛という意味があります。
そのうえでプラトンの『饗宴』では、エロスが美しいもの・よいものを求め、最終的に「美そのもの」へ向かう哲学的な力として描かれています。
ですから、
「古代ギリシャ語としてのエロス」と「プラトンが『饗宴』で哲学的に描いたエロス」を分けて理解すること
が大切です。
次に、
フィリアは、親友だけに使われる言葉ではありません。
古代ギリシャ語では家族なども含む、現代日本語の「友情」より広い関係を指します。
またアリストテレスは、利益によって結ばれる関係、楽しさによって結ばれる関係、人柄や徳によって結ばれる関係を区別して考えています。
つまり、
「フィリア=相手自身のためだけを願う完璧な友情」だけではなく、その中に複数の形がある
ということです。
その中でも、相手自身のためによいことを願う関係を、アリストテレスは最も充実した友情として重視しました。
そして、
アガペーは、ギリシャ語そのものの辞書的意味がそのまま「無条件の愛」だという言葉ではありません。
聖書学者ジェームズ・バーの研究が示すように、名詞 agápē(アガペー)はキリスト教以前には用例が少なく、『七十人訳聖書』や新約聖書で重要になりました。
後のキリスト教思想を通して、神の愛、人への愛、敵への愛などと結びつき、「見返りを条件にしない愛」を考える重要語になっていったのです。
ですから、
言葉そのものの意味と、キリスト教思想の中で深められた意味を分けること
が正確な理解につながります。
そして最後に、三つ全体について大切なことがあります。
エロス・フィリア・アガペーは、愛を完全に三つへ分類した体系でも、「下・中・上」と順位をつけるための階段でもありません。
20世紀の神学ではエロスとアガペーを強く対比する議論も有名になりましたが、その対立を古代ギリシャ語そのものの意味にまでさかのぼらせるのは慎重であるべきだと、聖書ギリシャ語の研究では指摘されています。
エロスには、求める力がある。
フィリアには、関係をともにつくるという面がある。
アガペーには、見返りだけを条件にしないという面がある。
三つは、どれが一番正しい愛なのかを競わせるためではなく、「愛している」という一つの言葉の中にある違う部分を見つけるための手がかりです。
だからこそ、一人の人への愛の中にも、三つの面が重なることがあります。
そして、その違いが見えてくるほど、
「本当に愛しているなら、どうすればいいの?」
という漠然とした悩みを、
「私は何を求めている?」
「私たちはどんな関係を築きたい?」
「何を愛の条件にしている?」
と、もう少し正確に考えられるようになります。
哲学は、愛について一つの正解を覚えるためのものではありません。
愛という複雑なものを、雑に一つにまとめず、よりよく見えるようにする。
エロス・フィリア・アガペーは、そのための三つの大切な手がかりなのです。
8 あなたはどう考える?
ここからは、あなた自身の哲学
ここまで、エロス・フィリア・アガペーについて詳しく見てきました。
でも、哲学は「意味を正しく覚えたら終わり」ではありません。
知った考えを使って、自分ならどう考えるのか。ここからが、あなた自身の哲学です。
少しだけ、説明を止めてみましょう。
「そばにいてほしい」と願うことは、愛でしょうか。
好きな人に、
「私を選んでほしい」
「もっと会いたい」
「ずっと一緒にいたい」
と思う。
そこには相手を求める気持ちがあります。
では、相手を求める気持ちが強くなり、
「私と一緒にいなければ嫌だ」
となったとき、何が変わったのでしょうか。
人を愛することと、人を自分のものにしたいと思うことの境目は、どこにあるのでしょう。
「私のことも大切にしてほしい」と願うのは、見返りでしょうか。
自分は相手の話を聞いている。
だから、自分の話も聞いてほしい。
自分は相手を支えている。
だから、自分が苦しいときには支えてほしい。
そう願うことは、愛を取引にしているのでしょうか。
それとも、フィリアから考えてきたように、互いに大切にし合いたいと願うことも、人間の愛の一つなのでしょうか。
自分の幸せと、相手の幸せがぶつかったらどうするでしょう。
あなたは一緒にいたい。
けれど、相手は別の道へ進みたい。
「愛しているから、離したくない」
という気持ちと、
「愛しているから、相手が選んだ人生を大切にしたい」
という気持ち。
両方が本心だったら、どちらを選べばよいのでしょう。
そして、アガペーについて考えると、さらに難しい問いが生まれます。
自分を傷つけた人を大切にすることはできるでしょうか。
ここまで見てきたように、相手を人間として大切にすることと、その人の行為を正しいと認めることは同じではありません。
距離を取ることが必要な場合もあります。
そのうえでなお、
「あなたがしたことは認められない。それでも、あなたという人間の不幸を望むわけではない」
と思うことはできるでしょうか。
それを愛と呼ぶでしょうか。
もう一つ、忘れたくない問いがあります。
人を愛することと、自分自身を大切にすることは、対立するのでしょうか。
「愛しているから我慢する」
「愛しているから断れない」
「愛しているなら、自分より相手を優先するべきだ」
そう考え続けて、自分が壊れてしまったとしたら、それでも愛と呼べるのでしょうか。
それとも、自分自身も「大切にすべき一人の人間」に含めて考える必要があるのでしょうか。
ここに、一つの正解を用意する必要はありません。
むしろ、
私は何を求めている?
私たちは、どんな関係をつくりたい?
私は何を条件に、この人を大切にしている?
と問い直してみてください。
ここで、考えるための一つの目安も置いておきましょう。
この記事を通して見てきたことから考えるなら、愛することは「何も求めないこと」でも、「自分の望みをすべて相手にかなえてもらうこと」でもないと考えることができます。
「そばにいてほしい」「大切にしてほしい」と願うこと自体を、すぐに悪いものと考える必要はありません。
大切なのは、その願いが相手の自由まで奪おうとしていないか、自分だけが我慢し続ける関係になっていないか、そして二人がお互いを大切にできる関係になっているかを見ていくことです。
また、相手を大切にすることは、相手の行動をすべて受け入れることとも同じではありません。
相手の幸せを願いながら、
「これは受け入れられない」
「ここからは距離を取りたい」
と判断することもできます。
だから一つの目安としては、
自分の願い、相手の幸せ、そして二人の関係の三つを、どれか一つだけにせず見てみる。

この記事では一つの目安として、愛とは「何も求めないこと」ではなく、自分の願いも相手の幸せも大切にしながら、二人にとってどんな関係がよいのかを考え続けることだと捉えてみます。
そう考えると、「本当の愛ならどうするべき?」という大きすぎる問いを、少しずつ自分で考えやすくなります。
もちろん、これが唯一の答えではありません。
これは、エロス・フィリア・アガペーを通して考えてきたことから見えてくる、自分なりの答えを探すための一つの目安です。
同じ「愛している」という言葉を使っていても、答えは人によって、そして関係によって変わるかもしれません。
哲学者の答えを覚えるだけではなく、哲学者が残した問いを使って、自分の愛を考えてみる。
それが、この章でいちばんやってみてほしいことです。
9 おまけコラム
愛は「感じるもの」? それとも「するもの」?
少しだけ肩の力を抜いて、愛を別の角度から見てみましょう。
「愛している」と聞くと、私たちはまず心の中の気持ちを思い浮かべるかもしれません。
会いたい。
そばにいたい。
幸せでいてほしい。
大切だと思う。
たしかに、こうした気持ちは愛の大切な一面です。
でも、愛は心の中だけにあるのでしょうか。
たとえば、大切な人が疲れているときに、そっと休ませる。
悩んでいるときに、話を聞く。
相手が大切にしていることを、自分も尊重する。
自分が間違えたときには謝る。
こうしたものには、胸が高鳴るような強い感情がなくても、「この人を大切にしたい」という思いが行動として表れています。
ここまで学んできたエロス・フィリア・アガペーを思い出すと、このことが少し見えやすくなります。
エロスでは、相手へひかれ、求め、近づこうとする力を考えてきました。
フィリアでは、お互いを大切にしながら、どんな関係を一緒につくっていくのかを考えてきました。
キリスト教思想の中で深められたアガペーでは、自分に何が返ってくるかだけを条件にせず、相手を大切にすることを考えてきました。
こうして見ると、この記事では愛を、
「心の中で感じるもの」であると同時に、「相手にどう向き合い、どう行動し、どんな関係をつくるかにも表れるもの」
として考えることができます。
つまり、このコラムの答えは、
愛は「感じるもの」か「するもの」かの二択ではなく、感じることが行動や関係の中に表れていくもの、と考えるとわかりやすい。
ということです。

もちろん、行動さえすれば何でも愛になるわけではありません。
「あなたのためだから」と言いながら、相手の気持ちを無視して押しつけてしまうこともあります。
だから大切なのは、
自分がどう感じているかだけでなく、その気持ちが相手をどう扱うことにつながっているかを見ることです。
「愛している」と言うことも愛。
言葉にはしなくても、困っているときにそばにいることも愛。
そして、二人がお互いを大切にできる関係を少しずつつくっていくことも、愛の一つの表れ方です。
そう考えると、「愛」は心の中だけにしまっておくものではなく、人と人とのあいだで少しずつ形になっていくものとしても見えてきます。
愛は、感じるだけでも、するだけでもない。
感じたことを、相手を大切にする言葉や行動、そして関係へとつなげていくこと。
そんなふうに考えると、いつもの「愛している」という言葉も、少しだけ立体的に見えてくるのではないでしょうか。
10 まとめ・考察
「本物の愛か」を決めるより、「愛の中身」を見てみる
この記事は、
「愛しているなら、見返りを求めてはいけないの?」
という疑問から始まりました。
誰かを愛しているのに、
「もっと会いたい」
「私のことも大切にしてほしい」
「そばにいてほしい」
と思ってしまう。
そんな自分を見て、
「何かを求めているなら、本当の愛ではないのでは?」
と不安になることがあります。
でも、ここまでエロス・フィリア・アガペーについて見てきたことで、もう少し違った考え方ができるようになりました。
愛は、一つの物差しだけで「本物」「偽物」と簡単に分けられるものではありません。
相手を求める気持ちがある。
相手と、ともによい関係を築きたいという願いがある。
自分に何が返ってくるかだけでは決めず、相手そのものを大切にしようとする思いもある。
同じ「愛している」という言葉の中に、こうした違う方向を向いた気持ちが重なっていることがあります。
だからこの記事では、
「これは本当の愛なのか」とすぐに判定するより、「この愛の中には何があるのだろう」と見てみること
を、一つの考え方として大切にしたいと思います。
エロスからは、
「私は、この人に何を求めているのだろう」
と考えることができます。
フィリアからは、
「私たちは、どんな関係を一緒につくりたいのだろう」
と考えることができます。
そして、キリスト教思想の中で深められたアガペーからは、
「私は、何を条件にこの人を大切にしているのだろう」
と考えることができます。
たとえば、大切な人からなかなか返信が来なかったとします。
「どうして返してくれないの?」
と苦しくなったとき、
「こんなに返信を求める私は、本当には愛していないのかな」
とすぐに自分の愛を否定する必要はありません。
少しだけ、中身を見てみます。
「私は今、何を求めている?」
もしかすると、ただ返信という文字がほしいのではなく、
「寂しいから話したい」
「自分も大切にされていると感じたい」
と思っているのかもしれません。
次に、
「私たちは、どんな関係でいたい?」
と考えてみます。
困ったときには話を聞き合える関係でいたいのかもしれません。
安心して気持ちを伝えられる関係を望んでいるのかもしれません。
さらに、
「私は何を条件に、この人を大切にしている?」
と考えてみます。
期待どおりに返信してくれるときだけ、その人を大切にしたいのでしょうか。
それとも、期待どおりにならない瞬間があっても、その人そのものまで否定したいわけではないのでしょうか。
こうして見ていくと、
「愛しているのに苦しい」
という一つの大きな悩みの中にも、
相手を求める気持ち。
自分も大切にされたいという願い。
二人の関係を大切にしたいという思い。
相手そのものをどう大切にするかという問題。
いくつものものが重なっていることが見えてきます。
エロス・フィリア・アガペーを知る意味は、ここにあります。
三つの言葉を使って、
「あなたの愛はこの種類です」
と分類するためではありません。
一つに見えていた「愛している」という気持ちを、少し違う角度から見られるようにするためです。
そして、ここまで考えてくると、愛についてもう一つ大切なことが見えてきます。
愛には、
「私」
「あなた」
「私たち」
という三つの視点があります。

「私はあなたと一緒にいたい」
という、自分の願い。
「あなたには幸せでいてほしい」
という、相手への願い。
そして、
「私たちは、どんな関係でいたいのだろう」
という、二人の関係についての問いです。
この三つは、いつもきれいに一致するとは限りません。
私は一緒にいたい。
でも、相手は離れたいと思っているかもしれません。
相手を幸せにしたい。
でも、そのために自分ばかりが苦しみ続けることが、本当に二人にとってよい関係なのかは別の問題です。
自分の願いだけを見ると、相手の気持ちを忘れてしまうことがあります。
相手のことだけを見ると、自分を大切にすることを忘れてしまうことがあります。
そして、「二人のため」と考えているつもりでも、本当はどちらか一方だけが我慢していることもあります。
だからこの記事では、愛について迷ったときの一つの目安として、
自分の願いを見る。
相手の幸せを見る。
そして、二人の関係を見る。
この三つを行き来しながら考えてみることを提案したいと思います。
これは、「愛とは必ずこうあるべきだ」という唯一の答えではありません。
けれど、
「見返りを求めた私は愛していないのか」
「こんなことを望む私は自分勝手なのか」
と自分をすぐに裁いてしまう前に、
「私は何を求めているのだろう」
「私は相手をどう大切にしたいのだろう」
「私たちは、どんな関係でいたいのだろう」
と考え直すことはできます。
哲学は、
「この愛は本物です」
と判定してくれる機械ではありません。
でも、エロス・フィリア・アガペーという言葉を知ることで、これまで一つに見えていた「愛」の中に、いくつもの問いがあることに気づけます。
そして、その違いが見えるようになると、
「本当の愛かどうか」
という大きすぎる問いを、
「私は、この人をどのように大切にしたいのだろう」
という、自分で考えられる問いへ変えていくことができます。
最後に、大切な人を一人だけ思い浮かべてみてください。
そして、
「私は、この人を本当に愛しているのだろうか」
と自分を試す代わりに、
「私は、この人をどのように大切にしたい?」と問い直してみてください。
すぐに答えが出なくてもかまいません。
大切なのは、「本物の愛」という一つの正解に自分を当てはめることではなく、自分の願い、相手の幸せ、そして二人の関係を見ながら、自分にとっての愛を少しずつ考えていくことです。
エロス・フィリア・アガペーについて知ることは、そのための答えそのものではありません。
愛について、自分の言葉で考え始めるための三つの視点なのです。
――ここからは、興味に合わせて少しだけ応用編へ進んでみましょう。
愛のまわりには、似ているけれど少しずつ違う言葉が、まだたくさんあります。
その違いを知ると、
「好き」
「愛している」
「会いたい」
「大切にしたい」
という日常の言葉も、今までより少し細かく、自分の言葉で考えられるようになります。
ここからは、エロス・フィリア・アガペーの周りにある言葉を、もう少しだけ増やしてみましょう。
11 応用編
愛の近くにある、似ているけれど違う言葉
ストルゲー――家族的な愛情にも使われる言葉
愛について調べていると、
「エロス・フィリア・アガペー・ストルゲー」
という四つを並べた説明を見かけることがあります。
ストルゲー(古代ギリシャ語:στοργή/storgḗ)は、実際に存在するギリシャ語です。
古代ギリシャ語の代表的な辞書『A Greek-English Lexicon(ア・グリーク・イングリッシュ・レキシコン/古代ギリシャ語‐英語辞典)』では、「love, affection(ラヴ、アフェクション/愛・愛情)」という意味が示され、とくに親と子の愛情についての用例が確認できます。
たとえば、
親が子どもに抱く愛情。
子どもが親に感じる親しさ。
長く一緒に暮らしてきた家族に感じる、言葉では説明しにくい愛着。
そんな家族的な愛情について考えるとき、ストルゲーという言葉が一つの手がかりになります。
ただし、ここは大切です。
エロス・フィリア・アガペー・ストルゲーが、古代ギリシャで誰かによって「愛の公式な四分類」として決められていたわけではありません。
ストルゲーも実在する愛の言葉の一つですが、それぞれの言葉には重なりがあり、使われ方も時代や文脈によって変わります。
「愛には絶対に四種類ある」と覚えるより、
「愛について考えるための言葉が、もう一つ増えた」
と捉える方がわかりやすいでしょう。
フィラウティア――自分を愛することは、自分勝手なのか
ここまでの記事では、
「人を愛するために、自分自身も大切にする必要があるのでは?」
という問いも考えてきました。
そこで知っておくと面白いのが、フィラウティア(古代ギリシャ語:φιλαυτία/philautía)です。
意味は、「自己愛」「自分自身への愛」です。
辞書では self-love, self-regard(セルフ・ラヴ、セルフ・リガード/自己愛・自己への関心)などと説明されます。
一方で、文脈によっては、自分の利益ばかりを求める「利己的な自己愛」という意味でも使われます。
ここで面白いのが、アリストテレスです。
『ニコマコス倫理学』第9巻では、自己愛をすべて悪いものとは考えていません。
お金や名誉などを自分だけ多く得ようとするような自己愛は、問題のあるものとして考えられます。
一方で、よいことを選び、徳のある人間として生きようとする人が、自分自身を大切にすることまで否定されるわけではありません。
『スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)』でも、アリストテレスが、徳に結びついた適切な自己愛を認めていることが説明されています。
つまり、
自分を愛することと、自分のことしか考えないことは同じではありません。
これは、この記事で考えてきた愛にもつながります。
「相手を大切にしたい」
と思うことと、
「自分自身も大切にしたい」
と思うことは、必ずしも敵同士ではないのです。
ポトス――そこにないものを、強く恋い求める気持ち
エロスに少し似ているけれど、また違ったニュアンスを持つ言葉もあります。
ポトス(古代ギリシャ語:πόθος/póthos)です。
意味は、「恋しさ」「切望」「強く求める気持ち」です。
古代ギリシャ語の辞書では、longing, yearning, fond desire(ロンギング、ヤーニング、フォンド・ディザイア/恋しさ・切望・強い慕い)などと説明されます。
エロスにも「求める」という面があります。
しかしポトスという言葉に目を向けると、同じ「求める」という気持ちの中でも、強く恋い求めることや、そこにいない人・失われたものを恋しく思うことが見えやすくなります。
「会いたいのに会えない」
「もう一度会いたい」
そんな切実な恋しさも、ポトスを考えるときの一つの例です。
遠く離れた相手を思う。
もう会えない人を恋しく思う。
離れた故郷を懐かしく思う。
そんな気持ちを考えるとき、ポトスという言葉は興味深い手がかりになります。
同じ「求める」という気持ちでも、
エロスとポトスでは、どこに光を当てるかが少し違うのです。
カリタス――「チャリティー」は、もともと寄付だけを表す言葉ではない
アガペーをもう少し先まで追いかけていくと、今度はギリシャ語ではなく、ラテン語に出会います。
カリタス(ラテン語:caritas)です。
カリタスは、ラテン語で「愛」「愛情」「親愛」などを表す言葉です。
そしてキリスト教のラテン語の伝統では、神への愛と、人への愛がどのようにつながるのかを考えるうえで、とても重要な言葉になりました。
簡単に言えば、
カリタス=「神を愛することを中心に、神との関係の中で、自分や隣人の善を願う愛」
と考えるとわかりやすいでしょう。
ここでいうのは、
「神を愛するのとまったく同じ強さの気持ちで、人間も愛する」
という意味ではありません。
神への愛を中心に置きながら、
「自分だけでなく、この人にも善くあってほしい」
と、自分や隣人の善を願うことです。
たとえば、
自分に何かを返してくれる人だから助けるのではなく、
「自分に利益がなくても、この人が困っているなら力になりたい」
と考える。
あるいは、自分を傷つけた相手についても、
「その人がしたことは正しいとは思わない。でも、その人そのものの不幸や破滅を望みたいわけではない」
と考える。
こうした人への愛を、神への愛とのつながりの中で考えるときに、カリタスという言葉が使われます。
中世キリスト教を代表する哲学者・神学者トマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225年ごろ〜1274年)は、カリタスを神への愛と、そこから隣人へと及ぶ愛にかかわる重要な徳として論じました。
ここでいう「徳」とは、簡単にいえば、人がよりよく生きるために身につけていく、よいあり方や性質のことです。
『スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)』でも、アクィナスのカリタスは、神への愛と、神との関係の中で隣人を愛することにかかわるものとして説明されています。
そして、この caritas から、英語の charity(チャリティー)につながる言葉が生まれました。
現代の日本語で「チャリティー」と聞くと、
募金。
寄付。
慈善活動。
といったものを思い浮かべるかもしれません。
もちろん、それらも人を助ける行動です。
けれど、キリスト教思想におけるカリタスは、「お金を寄付すること」だけを意味する言葉ではありません。
その根にあるのは、
神を愛することと切り離さずに、自分や隣人を大切にし、その人の善を願うという、もっと広い愛の考え方です。
だから、
「チャリティー=寄付」
とだけ覚えるより、
「カリタスという大きな愛の考え方があり、その歴史の先に、現在の charity という言葉もある」
と捉えると、その言葉がずっと立体的に見えてきます。
語彙が増えるということは、難しい言葉をたくさん覚えることではありません。
今まで、
「好き」
「愛している」
「会いたい」
「つらい」
と一つの言葉でまとめていた気持ちを、
「私は本当は、何を感じているのだろう」
と、もう少し細かく考えられるようになることです。
家族に感じる愛情。
自分自身への愛。
会えない人を恋しく思う気持ち。
そして、神や隣人への愛について考えてきた言葉。
新しい言葉を一つ知るたびに、今まで一つに見えていた「愛」の中にも、少しずつ違う表情があることが見えてきます。
エロス・フィリア・アガペーから始まった愛の哲学は、ここまで来ると、「愛の種類を暗記する勉強」ではありません。
自分と誰かの間にある気持ちを、より丁寧に見つめるための言葉の旅
になっていくのです。
12 さらに学びたい人へ
愛について、もう一歩考えるための本
エロス・フィリア・アガペーを知って、
「愛について、もう少し考えてみたい」
「実際の哲学者の考えにも触れてみたい」
と思ったなら、ここから先は本を通して哲学を続けてみるのもおすすめです。
難しい本から無理に始める必要はありません。
身近な問いから考える本 → 哲学者本人の議論を読む本 → 愛そのものを別の角度から考える本
という順番で進むと、この記事で考えてきたことが少しずつ広がっていきます。
小学生・初学者から
『きみの悩みに答える 10歳からの哲学の言葉160』監修 星友啓
この本は、エロス・フィリア・アガペーを専門的に解説する本ではありません。
その代わり、「友達って何だろう」「好きって何だろう」「自分と相手、どちらを大切にすればいいのだろう」といった、この記事でも大切にしてきた「身近な悩みを哲学の問いに変える」練習ができます。
哲学書を読むのが初めての人や、小学校高学年くらいから親子で考えてみたい人には、最初の一冊として入りやすい本です。
中級者へ
『ニコマコス倫理学 下』アリストテレス
この記事のフィリアを、原典に近いところまで確かめてみたい人に、おすすめです。
古典なので、最初からすらすら読める本ではありません。
それでも、この記事を読んだあとなら、
「フィリアには、こんなに深い議論があったのか」
と気づけるはずです。
今回の記事で特にフィリアに興味を持った人が、一歩踏み込むための一冊です。
この記事を読んだ人全体に
『愛するということ』エーリッヒ・フロム 訳 鈴木晶訳
一冊だけ選ぶなら『愛するということ』をおすすめします。原題は The Art of Loving(ジ・アート・オブ・ラヴィング)。直訳すれば「愛する技術」という意味です。
フロムは、ドイツに生まれ、精神分析に社会的な視点を取り入れながら「人間らしく生きるとは何か」を考え続けた思想家です。
この本で面白いのは、
愛を「偶然わき上がる感情」だけではなく、学び、身につけていくことのできる能力として考える
ところです。
友愛、母性愛、恋愛、自己愛、神への愛などが扱われ、「誰かに愛されるにはどうしたらいいか」だけではなく、「自分はどう愛する人間になるのか」という方向へ問いを変えてくれます。
エロス・フィリア・アガペーの三語をそのまま解説するための本ではありません。
エロス・フィリア・アガペーを覚えて終わるのではなく、「では、自分はどう愛するのか」まで考えてみたい人におすすめです。
本を読むときも、全部を一度で理解する必要はありません。
一行読んで、
「それは本当かな」
と思う。
自分の経験を思い出して、
「私の場合は違うかもしれない」
と思う。
それも立派な哲学です。
哲学書は、哲学者の答えをそのまま信じるための本ではなく、自分の問いを深くするためにも読めます。
この記事から生まれた「愛って、結局なんだろう」という疑問を、ぜひそのまま次の一冊へ持っていってみてください。
13 疑問が解決した物語
「見返りを求めたら、愛じゃないの?」
この記事の最初で、美咲はそう悩んでいました。
恋人がつらいときには話を聞いてきた。
だから、自分がつらいときには、自分の話も聞いてほしかった。
でも、そう思った瞬間、
「結局、私は何かを返してほしかっただけなのかな」
と、自分の愛そのものを疑ってしまいました。
けれど、エロス・フィリア・アガペーについて知った今、美咲の考えは少し変わっています。
「見返りを求めたら愛ではない」と、一つの基準だけで決める必要はない。
それが、美咲が最初にたどり着いた結論でした。
エロスについて知って、美咲は気づきます。
「この人にそばにいてほしい」
「私のことをわかってほしい」
「もっと一緒にいたい」
そう願うこと自体が、愛の偽物なのではありません。
エロスには、相手を求め、近づこうとする面があります。
誰かを愛するときに、自分の願いがあることそのものを責めなくてもいい。
美咲は、そう考えられるようになりました。
フィリアを知って、もう一つわかったことがあります。
美咲が本当に欲しかったのは、
「私がこれだけ優しくしたのだから、同じだけ返して」
という単純な交換ではありませんでした。
「自分がつらいときには、あなたにもそばにいてほしい」
「お互いに困ったときには支え合える関係でいたい」
そう願っていたのです。
アリストテレスが考えたフィリアには、相手自身の幸せを願いながら、互いによい関係を築いていくという面があります。
だから美咲は、
「私も大切にしてほしい」と願うことと、「相手を大切にすること」は両立できる
と考えるようになりました。
そしてアガペーについて知ったことで、
「見返りを求めない」という言葉の受け取り方も変わりました。
アガペーから考えられるのは、
「何も望んではいけない」
ということではありません。
相手が自分の期待どおりにしてくれることだけを、その人を大切にする条件にしないこと。
恋人が一度話を聞いてくれなかったからといって、
「じゃあ、この人にはもう価値がない」
と決める必要はありません。
でも反対に、
「愛しているのだから、どんな扱いを受けても我慢しなければならない」
という意味でもありません。
相手を大切にすることと、自分自身を大切にすることは両立できます。
三つの愛を知ったことで、美咲の中では、それまで一つだった「愛」が少しずつ分かれて見えるようになりました。
エロスからは、「私はこの人に何を求めているのか」。
フィリアからは、「私たちはどんな関係を築きたいのか」。
アガペーからは、「私は何を条件に、この人を大切にしているのか」。
考える場所が違うのです。
そして美咲は、自分なりの答えを出しました。
「愛するって、何も求めなくなることじゃないんだ。自分の願いも、相手の幸せも、二人の関係も、全部見ながら考えていくことなのかもしれない」
これが、美咲がエロス・フィリア・アガペーについて学んでたどり着いた結論でした。
数日後、美咲は恋人に話してみることにしました。
「この前、仕事で失敗した日に、ほんとはかなり落ち込んでたんだ」
少し迷ってから、続けます。
「あなたが疲れていたこともわかってる。でも、私はあのとき、少しだけでも話を聞いてほしかった」
以前の美咲なら、
「私はいつもあなたの話を聞いているのに」
と責めていたかもしれません。
あるいは反対に、
「本当に愛しているなら、何も求めちゃいけない」
と思って、何も言わなかったかもしれません。
でも今は違います。
相手を責めることと、自分が望んでいる関係を伝えることは同じではない。
そう考えられるようになったからです。
恋人は少し黙ってから、
「そんなに落ち込んでたとは思ってなかった。ごめん」
と言いました。
それだけで二人の問題がすべて解決したわけではありません。
また同じようなことが起こるかもしれません。
二人が望んでいる関係が、本当に同じなのかも、これからわかっていくことです。
でも、美咲には以前と違うところがあります。
もう、
「見返りを求めた私は、本当は愛していなかったんだ」
と、すぐに自分を裁くことはありません。
代わりに、
「私は今、この人に何を求めているんだろう」
「私たちは、どんな関係でいたいんだろう」
「この人が私の思いどおりにならないときでも、この人自身を大切にできるだろうか」
と考えます。
そして、もし話し合っても、お互いが望む関係が大きく違うなら、その違いを見ることも必要です。
愛しているから、必ずその関係を続けなければならないわけではありません。
相手を大切にすること。
自分自身を大切にすること。
そして、二人がどんな関係を築けるのかを見ること。
美咲は、その三つを分けて考えられるようになりました。
「見返りを求めたら、愛じゃないの?」
最初の疑問に、今の美咲ならこう答えるでしょう。
「何かを求めることだけで、愛が偽物になるわけじゃない。大切なのは、自分が何を求めているのか、どんな関係を築きたいのか、そして相手を何を条件に大切にしているのかを考えることなんだと思う」

哲学したから、恋愛が簡単になったわけではありません。
でも、美咲は「愛」という一つの言葉の中にあった、自分の違う気持ちを見分けられるようになりました。
そして、それを相手に言葉で伝えられるようになりました。
それが、美咲にとって今回の哲学から得た一番大きな変化でした。
では、あなたならどうでしょう。
大切な人に何かを求めたとき、
すぐに、
「こんなことを望む私は、自分勝手なのかな」
と自分を責めてはいないでしょうか。
そんなときは、
私は何を求めている?
私たちは、どんな関係を築きたい?
私は何を条件に、この人を大切にしている?
と、一つずつ考えてみてください。
「愛している」という一言では見えなかった、自分の本当の願いが見えてくるかもしれません。
14 文章の締めとして
「愛している」という言葉は、とても短い言葉です。
けれど、その中には、
会いたい。
そばにいてほしい。
幸せでいてほしい。
わかってほしい。
支え合いたい。
たとえ思いどおりにならなくても、大切にしたい。
そんな、いくつもの気持ちが重なっています。
だから、愛について迷うことは、きっとおかしなことではありません。
むしろ迷うのは、それだけ誰かを大切に思い、自分の気持ちも、相手の気持ちも、簡単には決めつけたくないからなのかもしれません。
エロス・フィリア・アガペーという言葉を知ったことで、「愛」の正解が一つ見つかったわけではありません。
でも、
「私は何を求めているのだろう」
「この人と、どんな関係でいたいのだろう」
「私はこの人を、どう大切にしたいのだろう」
と、少し立ち止まって考えるための言葉は増えました。
それだけでも、誰かを愛するときの景色は、少し変わるのではないでしょうか。
次に誰かへ「好き」と言うとき。
大切な人とすれ違ったとき。
「本当にこれが愛なのかな」と迷ったとき。
この記事で出会った三つの言葉を、ふと思い出してみてください。
答えを急がなくても大丈夫です。
愛について考えることそのものが、自分と相手のことを、今までより少し丁寧に見る時間になるはずです。

補足注意
この記事は、筆者が個人で確認できる範囲で情報、文献や資料をもとに、エロス・フィリア・アガペーについてできるだけ正確に、わかりやすくまとめたものです。
哲学や宗教思想にはさまざまな解釈や立場があり、この記事で紹介した考え方だけが唯一の答えというわけではありません。
また、古代思想や言葉の研究は今も続いており、新しい研究や資料の発見によって、これまでの理解が見直される可能性もあります。
🧭 本記事のスタンス
この記事を「答えを決める場所」ではなく、「もっと知りたい」「自分でも考えてみたい」と思ったときの入り口として使っていただけたらうれしいです。
一つの考え方だけで決めつけず、さまざまな立場や資料に触れながら、あなた自身の問いを深めてみてください。
愛を知るほど問いが増え、問いを重ねるほど、自分なりの愛の形が見えてくる。――このブログで芽生えた「もっと知りたい」を、今度は文献や原典へつなげ、エロスのように知を求め、フィリアのようにさまざまな考えと向き合い、アガペーが問いかける「見返りだけでは測れない愛」にも目を向けながら、あなた自身の「愛とは何か」を、さらに深く育ててみてください。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
エロス・フィリア・アガペーは、愛とは一つの正解に自分や相手を当てはめることではなく、互いの気持ちを丁寧に見つめながら「どう大切にしたいか」を考え続けることなのかもしれない、と教えてくれているのかもしれません。


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