人格の同一性を深く考えたデレク・パーフィットは、なぜ「同じ人物であり続けること」そのものを最重要とは考えなかったのでしょうか。分裂の思考実験やR関係を手がかりに、その人生と思想、そして「生存にとって本当に重要なもの」を初心者にもわかりやすくたどります。
なぜ「同じ私」を考えると、デレク・パーフィットにたどり着くのか

代表例
「人格の同一性」を調べると、なぜデレク・パーフィットという名前が何度も出てくるのでしょうか。
「昔の自分と今の自分は、なぜ同じ私なのだろう?」
そんな疑問から調べ始めると、ジョン・ロック、心理的連続性、分裂の思考実験など、さまざまな考え方が出てきます。
その中で、現代の議論を知ろうとすると何度も出会う人物の一人が、イギリスの哲学者デレク・パーフィットです。
パーフィットが重要なのは、「何が人を同じ人物にするのか」について一つの答えを加えただけではありません。
「未来にも一人の同じ私が存在することそのものが、生き続けるうえで本当に一番重要なのだろうか」
と、同一性そのものの重要性まで問い直しました。

この記事では、パーフィットがどんな人物で、なぜ人格の同一性を考えるうえで重要なのかを、その問いの作り方とともに追っていきます。
5秒でわかる結論
デレク・パーフィットは、「何が人を時間を越えて同じ人物にするのか」だけでなく、「同じ人物であり続けることそのものが、生存にとって本当に一番重要なのか」まで問い直した哲学者です。
分裂などの思考実験を通して、人格の同一性と、記憶・意図・信念などの心理的なつながりは、特殊な場合には分かれることがあると考えました。
そして代表作『Reasons and Persons(リーズンズ・アンド・パーソンズ)=理由と人格』では、この問いを合理性や道徳へ広げていきました。
小学生にもわかるように言うと?
デレク・パーフィットは、「みんなが当たり前だと思っていることを、本当にそうかな?と何度も考え直した哲学者」です。
子どものころから哲学に興味はありましたが、大学では最初、哲学ではなく歴史を勉強していました。
その後、
「人は何によって同じ人であり続けるんだろう?」
「未来の自分を大切にするのは、どうしてなんだろう?」
といった問題に強くひかれ、哲学を本格的に研究するようになります。
パーフィットの特徴は、自分が思いついた答えを、すぐに正しいと決めなかったことです。
「こんな場合でも同じことが言えるかな?」
「この人の反対意見には答えられるかな?」
と考え、ほかの哲学者にも自分の文章を読んでもらいながら、何度も考え直しました。
だからパーフィットは、
「すごい答えを一度で思いついた人」というより、「もっとよい答えを探して、何度でも問い直した人」
と考えると分かりやすいでしょう。

そして哲学だけでなく、建物の写真を撮ることも大好きでした。
難しい「私とは何か」を考えながら、ヴェネツィアなどへ出かけて写真を撮る。
そんな一面も持った人物だったのです。
「当たり前だから」で終わらず、「本当にそうなの?」と考え続けること。
それが、デレク・パーフィットという哲学者を知る最初の入り口です。
- 代表例
- 5秒でわかる結論
- 小学生にもわかるように言うと?
- 第1章 「パーフィットって、結局何をした人?」と思った人へ
- 第2章 疑問が生まれた物語
- 第3章 先に知っておきたい「パーフィットの何がすごいの?」
- 第4章 デレク・パーフィットとは、どんな人物だったの?
- 第5章 歴史を学んでいたパーフィットは、なぜ「私とは何か」を考え始めたの?
- 第6章 パーフィットは、人格の同一性の「何」が気になったの?
- 第7章 1971年「Personal Identity」で、何を問い直したの?
- 第8章 パーフィットは、どんな「実験」をしたの?
- 第9章 パーフィットが考えた「心理的なつながり」とR関係とは?
- 第10章 「同じ私であることより重要なものがある」とは、どういう意味?
- 第11章 なぜ『理由と人格』は、それほど重要な本になったの?
- 第12章 パーフィットの「還元主義」とは?
- 第13章 パーフィット本人は、どんな哲学者だったの?
- 第14章 おまけコラム
- 第15章 人格の同一性だけじゃない
- 第16章 まとめ・考察
- 第17章 疑問が解決した物語
- 第18章 文章の締めとして
第1章 「パーフィットって、結局何をした人?」と思った人へ
まず知っておきたいのは、
personal identity(パーソナル・アイデンティティ)=人格の同一性には、複数の哲学的な問いが含まれている
ということです。
この記事で特に扱うのは、その中でも、
「人が変化しながら時間を越えて存在するとき、何によって過去と現在を一人の同じ人物だと言えるのか」
という「存続」の問題です。
子どものころと現在では、体も好みも考え方も変わります。
昔の出来事を忘れていることもあります。
それでも普通は、
「子どものころの私と今の私は、一人の同じ人物だ」
と考えます。
では、そのつながりは身体なのでしょうか。
脳なのでしょうか。
それとも、記憶・意図・信念・望みなどによる心理的なつながりなのでしょうか。
この問題をパーフィットが最初に作ったわけではありません。
たとえばジョン・ロックは、17世紀イギリスの哲学者で、人格の同一性を考える際に「意識」のつながりを重視し、その後の議論に大きな影響を与えました。
なお、ロックを単純な「記憶だけの説」と理解してよいかについては、現在も研究上の議論があります。
では、長い歴史のある問題で、なぜパーフィットがこれほど重要なのでしょう。
この記事では経歴を順番に並べるのではなく、
パーフィットが何に引きつけられ、どんな問いを作り、その問いをどう生存・合理性・道徳へ広げていったのか
を見ていきます。
「分裂の思考実験は何のため?」
「心理的連続性やR関係とは何?」
「『同一性は重要ではない』とはどういう意味?」
そんな疑問を、順番にほどいていきます。
第2章 疑問が生まれた物語
「この人、どうして何度も出てくるの?」
大学生の真琴は、高校生だったころのノートを見つけました。
そこには、今とはまったく違う夢や考えが書かれています。
「同じ私なのに、ずいぶん変わったな」
そう思った真琴は、
「何が続いているから、昔の私と今の私は同じ私なんだろう?」
と疑問を持ちました。
調べると「人格の同一性」という言葉にたどり着きます。
さらに進むと、ジョン・ロック、心理的連続性、分裂、そして何度もデレク・パーフィットという名前が出てきました。

人格の同一性は、パーフィットよりずっと前から議論されてきた問題です。
それでも現代の人格の同一性について学ぼうとすると、パーフィットは重要人物として何度も登場します。
そして真琴は、『理由と人格』第12章の題名を見つけました。
Why Our Identity Is not What Matters(ワイ・アワ・アイデンティティ・イズ・ノット・ワット・マターズ)
意味をやさしく言えば、
「私たちにとって本当に重要なのは、『一人の同じ人物であること』そのものではないのではないか」
という問いを示す題名です。
真琴は不思議に思いました。
人格の同一性を深く考えた哲学者が、なぜ「同一性そのものが最も重要なのではない」と考えるのでしょう。
大切なのは、
パーフィットが「自分の存在など、どうでもよい」と考えたわけではない
ということです。
彼が問い直したのは、
「未来の人物が今の私と一人の同じ人物であること」と、「今の私から未来へ、生存にとって大切な関係が続いていること」は、本当に同じなのか
という点でした。
真琴の疑問は、
「この人は何を言ったの?」
から、
「どうして、この人はそんな問いを考えるようになったの?」
へ変わっていきます。
第3章 先に知っておきたい「パーフィットの何がすごいの?」
詳しい人生へ進む前に、重要な点を三つだけ押さえておきましょう。
一つ目は、人格の同一性の「条件」だけでなく、その「重要性」を問い直したことです。
「何が同じ人物を成り立たせるのか」
という問いと、
「なぜ同じ人物であることを大切だと思うのか」
という問いは、同じとは限りません。
パーフィットは、この違いを深く追いました。
二つ目は、分裂の思考実験によって、人物の同一性と心理的なつながりを切り分けたことです。
『理由と人格』第12章では、脳の左右の半球を分け、それぞれを別の身体へ移す「完全分裂」が想像されます。
これはパーフィットが実際に人間へ行った実験の報告ではありません。
目的は、「一人の同じ人物であること」と「心理的なつながりが続くこと」が、本当に必ず一致するのかを考えることです。
この想定では、心理的なつながりは一人から二人へ枝分かれできます。
しかし、「一人の同じ人物である」という関係は、そのまま二人へ枝分かれできません。
そこでパーフィットは、
同じ人物であることが成立しなくても、生存について重要な心理的関係が残る場合を考えられる
と論じました。
後に詳しく見る、
Relation R(リレーション・アール)=R関係
は、この議論で重要になる言葉です。
正確には、psychological connectedness(サイコロジカル・コネクテッドネス)=心理的連結性および/またはpsychological continuity(サイコロジカル・コンティニュイティ)=心理的連続性と、それらがどのような原因によって成立するかという条件を含む関係です。
単に「同じ記憶を持っている」という意味ではありません。
三つ目は、人格の同一性を合理性や道徳、未来世代の問題へ広げたことです。
『理由と人格』第14章では、現在の自分と未来の自分との心理的なつながりの程度が、未来の自分を気にかける理由とどう関係するのかが検討されます。
第15章では人格の同一性と道徳へ進み、第4部では未来世代や、
non-identity problem(ノン・アイデンティティ・プロブレム)=非同一性問題
へと議論が広がります。
その重要な出発点の一つが、1971年の論文、
Personal Identity(パーソナル・アイデンティティ)=人格の同一性
です。
この論文は哲学誌『The Philosophical Review(ザ・フィロソフィカル・レビュー)』第80巻第1号、3〜27ページに掲載されました。

ただし、ここで覚えてほしいのは年号やページ数ではありません。
パーフィットは、人格の同一性を「誰が同じ人物なのか」という問題だけで終わらせず、それが生存・合理性・道徳に何を意味するのかまで問いを広げた。
そこが重要です。
では、なぜ彼はこのような問いを持ったのでしょう。
実はパーフィットは、大学で最初から哲学を専門にしていたわけではありません。
もともと学んでいたのは近代史でした。
次は、
歴史を学んでいた青年が、なぜ人格の同一性を代表する哲学者の一人になったのか
を追っていきましょう。
第4章 デレク・パーフィットとは、どんな人物だったの?
デレク・パーフィットは、最初から「人格の同一性」を専門にしていた哲学者ではありません。歴史を学んでいた青年が、哲学への関心を深め、やがて「人は何によって時間を越えて同じ人物なのか」を研究の中心にするようになりました。
この「歴史から哲学へ」という転換を知ると、パーフィットという人物が少し見えやすくなります。
正式な名前は、
Derek Antony Parfit(デレク・アントニー・パーフィット)
です。
1942年12月11日、中国の成都で生まれました。

イギリスの哲学者として知られ、のちに人格の同一性、合理性、道徳、未来世代などの問題に大きな影響を与えることになります。
British Academy(ブリティッシュ・アカデミー)=イギリスの人文・社会科学を代表する学術機関の回想録によれば、両親はともに医師で、中国で医療宣教に携わっていました。第二次世界大戦の影響を受け、家族は1945年にイギリスへ戻っています。
ただし、パーフィットの人生を理解するうえで重要なのは、「中国で生まれた」という経歴そのものではありません。
注目したいのは、
哲学との出会いは早かったものの、大学で最初に選んだ専門は歴史だった
ということです。
パーフィットはイギリスのEton College(イートン・カレッジ)に在学していたころから哲学に触れていました。
イートンでは歴史を中心に学んでいましたが、哲学のクラブにも参加し、自由意志や神、悪の問題などについて考えていたことが記録されています。
つまり、
「歴史しか知らなかった人が、ある日突然哲学に目覚めた」
というわけではありません。
歴史を学びながらも、すでに「人間や世界について根本から考えること」に強く引かれていた青年だった
と考える方が、実際の歩みに近いでしょう。
その後、パーフィットはオックスフォード大学の
Balliol College(ベリオール・カレッジ)
へ進み、1961年から1964年まで歴史を学びました。
大学に入ってからも哲学への関心は続き、かなり早い時期から哲学へ専門を変えることを考えていたことが分かっています。
それでも、すぐには変更しませんでした。
この時点のパーフィットは、
「歴史を研究する人生を選ぶのか。それとも、本当に考えたい哲学へ進むのか」
という分かれ道に立っていたのです。

その迷いが大きく動くのが、大学卒業後でした。
1964年、パーフィットは一度、
All Souls College(オール・ソウルズ・カレッジ)
のフェローを選ぶ試験を、歴史を専門として受けています。
オール・ソウルズ・カレッジは、オックスフォード大学を構成する研究者中心の共同体の一つです。
このときパーフィットは選ばれませんでした。
ただし、かなり高く評価されており、当時の学寮長から再挑戦を勧められたことが記録されています。
ここで彼はすぐに受け直すのではなく、アメリカへ向かいます。
1964年から1966年まで、
Harkness Fellowship(ハークネス・フェローシップ)
という研究・学習支援制度を利用し、アメリカに滞在しました。
この制度によって各地を旅しながら、Columbia University(コロンビア大学)やHarvard University(ハーバード大学)の授業にも参加することができました。
しかし、大切なのは有名大学の名前ではありません。
パーフィットにとって、この二年間は「これから何を研究する人間になるのか」を考えるための時間でした。
本人は後に、ハークネス・フェローシップを選んだ主な理由の一つについて、
パーフィットにとって、この二年間は、これからどのような道で研究を続けていくのかを考えるための時間でもありました。
彼が考えていたことは、大きく二つあります。
一つは、
「このまま大学・研究の世界に残り、研究者として進んでいくのか」
ということ。
そしてもう一つは、研究を続けるのであれば、
「歴史を研究し続けるのか、それとも哲学へ専門を変えるのか」
ということでした。
つまり、
「研究者になるか、哲学者になるか」
という二択ではありません。
研究者としての道そのものを続けるかを考えながら、同時に、自分が本当に研究したいのは歴史なのか哲学なのかを見極めようとしていた
のです。
このアメリカでの二年間を経て、パーフィットは次第に哲学へ進む決意を固めていきました。
残された資料からは、1966年1月ごろに、パーフィットが専門を哲学へ変えることを決めたと考えられています。
1967年1月にイギリスへ戻ると、ベリオール・カレッジで、
BPhil(ビーフィル)
という哲学の大学院課程に進み、本格的に哲学を学び始めました。
そして同じ1967年。
数年前には「歴史」で受けたオール・ソウルズの試験に、今度は哲学で再挑戦します。
今度は合格しました。
パーフィットは、
Prize Fellow(プライズ・フェロー)
に選ばれます。
これは、厳しい選考を通った若い研究者が、研究に集中できるフェロー職でした。
この出来事は、単なる就職先の決定以上の意味を持っています。
数年前まで歴史を専門として試験を受けていた人物が、
今度は哲学者として同じ場所に戻り、研究者として選ばれた
からです。
パーフィットはその後、2010年にSenior Research Fellow(シニア・リサーチ・フェロー)=上級研究フェローを退くまでオール・ソウルズに所属し、退職後もEmeritus Fellow(エメリタス・フェロー)=名誉フェローとして関係を持ち続けました。
そして、ここで今回の記事の中心である人格の同一性が、パーフィットの正式な研究テーマとしてはっきり姿を現します。
オール・ソウルズのフェローに選ばれたあと、パーフィットはBPhil課程を離れ、
DPhil(ディーフィル)
の研究へ移りました。
DPhilとは、オックスフォード大学などで使われている博士号の名称で、一般的なPhD(ピーエイチディー)=博士号に相当します。
その研究題目が、
The Philosophical Concept of Personal Identity(ザ・フィロソフィカル・コンセプト・オブ・パーソナル・アイデンティティ)
=「人格の同一性という哲学的概念」
でした。
つまり、1967年以降には、
「人が時間を越えて一人の同じ人物であるとは、どういうことなのか」
という問題が、パーフィットの研究の中心に置かれていたことが分かります。
ここには少し意外な続きがあります。
パーフィットは、この博士論文を最終的に提出しませんでした。
そのため、哲学の大学院学位を取得してはいません。
しかし、パーフィットを重要な哲学者にしたのは、学位そのものではなく、そこで生まれた哲学的な議論でした。
1971年1月、哲学誌
The Philosophical Review(ザ・フィロソフィカル・レビュー)
に、
Personal Identity(パーソナル・アイデンティティ)=「人格の同一性」
という論文を発表します。
実際にこの論文は、第80巻第1号の3〜27ページに掲載されています。
この論文は大きな評価を受けました。
British Academyの回想録は、この論文によってパーフィットが国際的な評価を得るようになったと記しています。オックスフォード大学哲学部の追悼記事でも、この最初の論文が彼の哲学者としての評判を確立したと振り返られています。
ここには、少し意外な続きがあります。
パーフィットは、この博士論文を最終的に提出しませんでした。
しかし、人格の同一性について進めていた研究そのものがそこで終わったわけではありません。
その成果の一つが、1971年に発表された論文「Personal Identity(パーソナル・アイデンティティ)=人格の同一性」です。
この論文でパーフィットが考えたのは、簡単に言えば、
「未来のその人は、今の私と一人の同じ人物なのだろうか?」
という問題でした。
でも、パーフィットはそこで終わりません。
さらに、
「未来のその人が“同じ私”であることは、なぜそんなに大切なのだろう?」
と問いを進めました。
たとえば、未来の自分のためにお金を貯めたり、健康に気をつけたりするのは、未来のその人を「自分」として特別に気にかけているからです。
では、もし「一人の同じ私」とは言えなくても、今の自分の記憶や考え、計画などが未来へ強くつながっていたらどうでしょう。
パーフィットは、「誰が同じ人物なのか」を決めるだけでなく、「私たちが未来の自分を大切にするとき、本当に大切にしているものは何なのか」まで考えようとしたのです。
彼はこの問題が、
未来の自分をどのように大切にするのか。
年を取ることや死をどう考えるのか。
自分の利益と他人の利益をどう考えるのか。
といった、生き方に関わる問題にも影響すると考えていました。
British Academyの回想録でも、1971年論文にはすでに、人格の同一性を倫理や自己利益の問題につなげる、後のパーフィット哲学の重要な特徴が現れていたと指摘されています。
ここまでの歩みを振り返ると、一本の流れが見えてきます。
歴史を学んでいた青年が、
哲学への関心を持ち続け、
アメリカで自分の進路を考え、
哲学へ転じ、
ついには「人格の同一性」を博士研究の題目に選ぶ。
そして、博士論文そのものではなく、その研究から生まれた論文によって哲学者として高く評価されていく。
パーフィットの経歴で本当に重要なのは、学校や肩書きの数ではありません。
「自分は何を一生考えたいのか」を選び直した結果、「人は何によって一人の同じ人物なのか」という問いが、彼の哲学の中心へ入っていったことです。
ただし、まだ一つ大きな疑問が残っています。
なぜパーフィットは、人格の同一性という問題にそれほど強く引きつけられたのでしょうか。
実は、哲学へ進む時期のパーフィットは、
「もし、一人の人間が二人へ分かれたら、その後の二人と元の人物の関係をどう考えればよいのか」
という奇妙な問題に強く魅了されていました。
そして、この問いとの出会いには、
David Wiggins(デイヴィッド・ウィギンズ)
という哲学者が関わっています。
ここから、
「人間が二人へ分かれる」という一見すると現実離れした問いが、なぜパーフィットを哲学へ引きつけ、やがて人格の同一性についての重要な議論へ発展していったのか
が見えてきます。
次は、その転換点をもう少し深く追っていきましょう。
※パーフィットの没年月日については資料に一日の違いがあります。所属先のオール・ソウルズ・カレッジは2017年1月1日に死亡したと公式に発表しています。一方、British Academyの回想録では2017年1月2日未明と記録されています。本記事では、所属先の公式発表に合わせて2017年1月1日を没日として扱います。
第5章 歴史を学んでいたパーフィットは、なぜ「私とは何か」を考え始めたの?
前の章で見たように、パーフィットは歴史を学んだあと、哲学へ専門を変えていきました。
では、数ある哲学の問題の中で、なぜ人格の同一性にこれほど強く引きつけられたのでしょうか。
その重要な手がかりとなるのが、イギリスの哲学者
David Wiggins(デイヴィッド・ウィギンズ)
です。

ウィギンズは、identity(アイデンティティ)=同一性、つまり「あるものが、時間がたっても一つの同じものであるとはどういうことか」を研究してきた哲学者です。
パーフィットが特に魅了されたのが、ウィギンズの考えた分裂の問題でした。
まず、分かりやすくアメーバを想像してみましょう。
一匹のアメーバAが分裂し、分裂後にはBとCという二匹になったとします。
ここで大切なのは、
分裂前にはAが一匹いて、分裂後にはBとCがいる
という時間の流れです。

A・B・Cの三匹が同時に存在するという意味ではありません。
では、
分裂前のAは、分裂後のBなのでしょうか。分裂後のCなのでしょうか。それとも、BとCの両方なのでしょうか。それともBとCどちらでもないのでしょうか。
ウィギンズは、この問題を出しただけで終わったわけではありません。
彼が示した答えは、
対称的に二つへ分裂した場合、BもCも、分裂前のAと一つの同じ個体ではない
という方向でした。
なぜでしょうか。
まず、
「BだけがAだ」
とする特別な理由がありません。
BとCが同じようにAから生じたなら、CではなくBだけをA本人とするのは不自然です。
では、
「BもAで、CもAだ」
ならどうでしょう。
これも、そのままでは成り立ちません。
もし、
AとBが一つの同じ存在で、
AとCも一つの同じ存在なら、
BとCも一つの同じ存在でなければならないからです。
しかし、分裂後のBとCは別々に存在する二つの個体です。

そこでウィギンズは、
一つの同じ存在であるという関係は、一つから二つへそのまま枝分かれすることはできない
と考えました。
このアメーバの分裂と似た問題を、人間の人格の同一性について考えるために、ウィギンズは脳を分け、それぞれを別の身体へ移すという想像上の事例でも検討しました。
そしてパーフィットは、このウィギンズの分裂事例に強く引きつけられ、1971年の論文「Personal Identity(パーソナル・アイデンティティ)=人格の同一性」や、後の『Reasons and Persons(リーズンズ・アンド・パーソンズ)=理由と人格』で、さらに詳しく考察していきます。
つまり、分裂という問題をパーフィットが一から思いついたというより、ウィギンズが提示した問題を受け取り、「同じ人物ではなくても、生存について重要なものは残るのではないか」という新しい問いへ発展させたと考えるのが分かりやすいでしょう。
想像の中で、一人の人物Aの脳を二つに分け、それぞれを別の身体で働かせることができたとします。
すると分裂後には、BとCという二人が現れます。
しかも二人とも、Aの性格を受け継ぎ、Aとして生きてきたことを覚えているように見える、と仮定します。
これは実際にこのような脳移植を行った人体実験ではありません。
普段なら一つにまとまっている「脳」「記憶や性格」「一人の同じ人物であること」を、想像の中であえて分けて考えるための思考実験です。
ここでも同じ問題が起こります。
BもCもAの続きのように見える。
しかし、BとCの両方をAと一人の同じ人物にはできない。
そして、どちらか片方だけをAとするのも不自然です。
ウィギンズは、人間の場合についても、分裂前の一人の人物が、分裂後の二人へそのまま「同じ一人の人物」として枝分かれして続くことはできないと考える方向へ議論を進めました。
ここで問われているのは、
「分裂前のAは、分裂後もBまたはCとして、一人の同じ人物のまま存続していると言えるのか」
という人格の同一性の問題です。
対称的な分裂では、BだけをA本人とする理由も、CだけをA本人とする理由もありません。
一方で、BとCの両方をA本人とすると、BとCまで一人の同じ人物でなければならなくなります。
そのためウィギンズは、分裂前のAは、分裂後のBともCとも、厳密には一人の同じ人物としては続かないと考えました。
ところが、この答えを出すと、新しい疑問が残ります。
BもCもA本人ではない。
それでも二人には、Aの記憶や性格などが強く引き継がれているとします。
それなら、
「A本人ではない」というだけで、Aから未来へ大切なものが何も残らなかったと言えるのでしょうか。
ここに強く引きつけられたのが、デレク・パーフィットでした。
パーフィット自身は、のちに『Reasons and Persons(リーズンズ・アンド・パーソンズ)=理由と人格』の注で、ウィギンズのこの想像上の事例に魅了されたことが、哲学を学ぶことを決めたほとんどすべての理由だったと振り返っています。
もちろん、これは「それまで哲学にまったく興味がなかった」という意味ではありません。
パーフィットはそれ以前から哲学に関心を持ち、アメリカ滞在中には、研究者として進むのか、そして研究を続けるなら歴史と哲学のどちらを専門にするのかを考えていました。
それでも本人がここまで強い言葉を残していることから、ウィギンズの分裂問題が、哲学へ進む決断に非常に大きな意味を持っていたことは分かります。
そして、ここからウィギンズとパーフィットの違いが見えてきます。
二人は、対称的な分裂の場合、
「分裂後のBもCも、分裂前のAと厳密には一人の同じ人物ではない」
という点では、同じ方向へ進みました。
違いが現れるのは、その先です。
ウィギンズは主に、
「一人の同じ人物であるという関係は、二方向へ枝分かれすることはできない」
という人格の同一性の問題を考えました。
一方パーフィットは、その結論を受けたうえで、
「では、BもCもA本人ではないとしても、Aの記憶・意図・性格などが二人へ強くつながっているなら、その関係にはどんな意味があるのだろう」
と問いをさらに進めます。
つまり、パーフィットが新しく加えたのは、
「誰が同じ人物なのか」という問いの答えではなく、「同じ人物ではないと分かったあとにも、生存にとって大切なものは残るのではないか」という問い
でした。

ここから、
「一人の同じ人物であること」と「生存について本当に重要なもの」は、もしかすると同じではないのではないか
という、パーフィットを代表する問題へつながっていきます。
同じ人物ではないと分かったあとで、「それでも元の人物から二人へ大切なつながりが残っているなら、それにはどんな意味があるのか」と問いを一段先へ進めたこと
にあります。
1971年の論文「Personal Identity(パーソナル・アイデンティティ)=人格の同一性」では、パーフィットは分裂について、
「私は生き残らないのか」
「二人のうち片方として生き残るのか」
「二人の両方として生き残るという別の考え方ができるのか」
を検討していきました。
そして後の『理由と人格』では、考えがさらに整理されます。
分裂後の二人は、どちらも元の人物そのものではない。けれども、元の人物から二人へ続いている関係には、生存について私たちが大切にしているものが含まれている。
パーフィットは、そこまで問いを進めました。
つまり思想の流れを簡単にすると、
ウィギンズは、「同一性は二方向へ枝分かれできない」と考えた。
そしてパーフィットは、
「それなら、同一性が失われたあとにも残っているものは何なのか。それこそが、生存について本当に重要なのではないか」
と問い直したのです。
ここが、パーフィットという哲学者を理解するうえで重要な転換点です。
彼は、すでに完成した人格の同一性の理論を持っていて、そこから分裂を思いついたわけではありません。
むしろ、
「一人だった人物が二人へ分かれたら、“同じ私”という考えはどうなるのだろう?」
という奇妙な問いに魅了され、その問いを追いかけるうちに、
「何が私を同じ人物にするのか」から、「同じ人物であることの何が、そもそも大切なのか」へ
問題を深めていったのです。
この問いが、1971年の「Personal Identity」、そして後の『理由と人格』へとつながっていきます。
第6章 パーフィットは、人格の同一性の「何」が気になったの?
パーフィットの問題意識を理解するとき、最も大切なのは次の区別です。
「何によって私は同じ人物であり続けるのか」という問いと、「同じ人物であり続けることは、なぜ重要なのか」という問いは別です。
前者は、人格の同一性の条件についての問いです。
身体が続くことなのか。
脳なのか。
記憶や意図などの心理的なつながりなのか。
一方、後者はその重要性についての問いです。
たとえば50年後の自分を考えてみましょう。
私たちは普通、
「未来の自分なのだから、見知らぬ他人とは違って特別に大切だ」
と考えます。
だから現在のお金を貯金したり、健康を守ったり、勉強したりします。

パーフィットが問い直したのは、
「未来の人物を特別に気にかける理由は、その人物が一人の同じ私であることそのものなのだろうか」
という点でした。
この問題は、
rationality(ラショナリティ)=合理性
とも関係します。
ここでいう合理性とは、
「自分には何をする理由があるのか」「どのように行動するのが筋の通ったことなのか」
を考える問題です。
パーフィットは人格の同一性を、単なる「誰が誰なのか」という分類の問題として扱いませんでした。
人格の同一性についての考え方によって、
未来の自分をどれほど特別に気にかけるべきなのか。
自己利益をどれほど重視するべきなのか。
老いや死をどう受け止めるのか。
さらには、自分と他人の利益をどのように考えるのか。
こうした問題まで変わる可能性があると考えたのです。
実際、1971年の論文「Personal Identity(パーソナル・アイデンティティ)=人格の同一性」の冒頭で、パーフィットは人格の同一性についてのある考え方が、自己利益を特別視する態度や、老い・死への態度にも影響すると述べています。
のちの『理由と人格』第14章でも、現在の自分と未来の自分との心理的なつながりの程度と、未来の自分への特別な関心との関係が詳しく検討されます。
つまりパーフィットにとって、
「私は何者なのか」という問題は、その答えによって「私はどう生きる理由があるのか」まで変わりうる問題だった
のです。
その問題意識が、最初に大きな形で現れたのが1971年の論文でした。
第7章 1971年「Personal Identity」で、何を問い直したの?
1971年、パーフィットは哲学専門誌
The Philosophical Review(ザ・フィロソフィカル・レビュー)
に、
Personal Identity(パーソナル・アイデンティティ)=「人格の同一性」
という論文を発表しました。
この論文は第80巻第1号、3〜27ページに掲載され、現在でも人格の同一性を考えるうえで重要な論文の一つとして扱われています。
ただし、ここで大切なのは、掲載された雑誌名やページ数ではありません。
パーフィットはこの論文で、人格の同一性について私たちが当然のように受け入れている二つの考え方を、「本当にそうなのだろうか」と問い直しました。
ここで最初に押さえておきたいのは、これから出てくる「一つ目」と「二つ目」は、どちらもパーフィット自身の結論ではないということです。
どちらも、パーフィットが疑った二つの前提です。
そして、この二つは別々の話ではなく、一つ目から二つ目へ順番につながっています。
まず、一つ目にパーフィットが疑ったのは、
「人格の同一性については、どんな特殊な場合でも、『同じ人物であるのか、そうではないのか』に必ず一つの決まった答えがあるはずだ」
という考えです。
普通の生活では、この考えでほとんど困りません。
たとえば、
「明日の自分は、今日の自分と同じ人物ですか」
と聞かれれば、普通は「そうです」と答えるでしょう。
ところが、分裂のような特殊な場合を考えると、話が難しくなります。
一人の人物がいて、その人の脳や心理的な特徴が、分裂後の二人へ同じくらい強く引き継がれるとします。
分裂後の二人は、どちらも元の人物の記憶や性格、計画などにつながっています。
では、
「分裂前の人物は、その後のどちらなのか」
と聞かれたらどうでしょう。
片方だけを本人とする特別な理由はありません。
かといって、
「二人とも元の人物と一人の同じ人物です」
ともできません。
もし分裂後の二人がどちらも元の人物と一人の同じ人物なら、分裂後の二人どうしまで一人の同じ人物でなければならなくなるからです。
しかし、分裂後の二人は別々に存在し、それぞれ別の人生を歩んでいきます。
そこでパーフィットは、
「本当に、どんな場合でも“私なのか、私ではないのか”に一つの決まった答えが必要なのだろうか」
と問い直しました。
ここで、一つ目の問題から二つ目の問題が出てきます。
もし、
「分裂後のどちらが元の人物なのか」
に一つの答えを出せないとしたら、
普通は、
「それでは、生き残ったのかどうかや、記憶や責任についても何も分からなくなるのでは?」
と思うかもしれません。
そこでパーフィットが二つ目に疑ったのが、
「生存・記憶・責任などの重要な問題を考えるためには、まず『同じ人物かどうか』を決めなければならない」
という考えです。
これも、パーフィット自身の結論ではありません。
彼が、
「本当に、まず同一人物かどうかを決める必要があるのだろうか」
と疑った考え方です。
少し噛み砕いてみましょう。
分裂後の二人について、
「どちらが分裂前の人物本人なのか」
には、うまく答えられないとします。
それでも、
分裂前の人物の記憶が、その後の二人へどのようにつながっているのか。
以前に持っていた意図や計画が、どのように引き継がれているのか。
性格や信念、望みがどのように続いているのか。
過去の行為と、その後の人物とのあいだにどのような関係があるのか。
こうしたことまで分からなくなるわけではありません。
つまり、
「本人かどうかが決まらない。だから、それ以上は何も考えられない」で終わる必要はないのです。
パーフィットは、
「同じ人物かどうか」という問いをいったん脇に置き、過去の人物から未来の人物へ、実際には何がどのようにつながっているのかを直接考えることができるのではないか
と提案しました。
ここまでを整理すると、1971年論文で疑われた二つの考え方は、次のようにつながっています。
まず、
「人格の同一性には、どんな場合でも必ず一つの答えがあるはずだ」という前提を疑う。
そして、
もし同一性について一つの答えが出なくても、
「それなら重要なことまで全部分からなくなる」と考える必要はないのではないかと、次の前提も疑う。
つまり、
「誰が同じ人物なのか」という問いと、「未来へ何が続いているのか」という問いを分けて考えよう
という方向へ進んだのです。
この1971年の論文ですでに、パーフィットは後の思想で重要になる、
psychological connectedness(サイコロジカル・コネクテッドネス)=心理的連結性
と、
psychological continuity(サイコロジカル・コンティニュイティ)=心理的連続性
を区別していました。
心理的連結性とは、記憶・意図・信念などによる、二つの時点のあいだの直接的な心理的つながり。
心理的連続性とは、そうした直接的なつながりが重なりながら、時間を越えて続いていくことです。

つまり、
1971年の時点ですでに、「一人の同じ人物であること」と「心理的につながっていること」は別々に考えられるのではないか、という後のパーフィット哲学の中心がかなり現れていました。
では、1984年の代表作
Reasons and Persons(リーズンズ・アンド・パーソンズ)=『理由と人格』
では、何が変わったのでしょうか。
ここも誤解しやすいところです。
1971年では一つの考えを持っていて、1984年になって正反対の考えへ変わったわけではありません。
中心にある発想は、かなり一貫しています。
変わったのは、
その考えがより細かく整理され、より広い問題へ展開されたこと
です。
『理由と人格』では、心理的連結性や心理的連続性をさらに詳しく整理し、それらを含む重要な関係を、
Relation R(リレーション・アール)=R関係
という形で論じます。
そして完全分裂についても、
「分裂後の二人のどちらも、分裂前の人物とは厳密には一人の同じ人物ではない。しかし、分裂前の人物と二人それぞれとのあいだには、生存について重要な心理的な関係が残っている」
という形で、よりはっきり整理されます。
ここが重要です。
パーフィットは、
「どちらが本当の私なのか」
という問いだけに答えようとしたのではありません。
むしろ、
「もし、どちらも厳密には私ではないとしても、普通の生存で大切にしている心理的なつながりが残っているなら、それこそが重要なのではないか」
と考えました。
そして『理由と人格』では、この問題をさらに、
未来の自分をなぜ大切にするのか。
自分の利益をなぜ特別に考えるのか。
合理的に行動するとはどういうことか。
自分と他人を道徳的にどう考えるべきなのか。
といった問題へ広げていきます。
『理由と人格』第3部では、
第12章
Why Our Identity Is not What Matters(ワイ・アワ・アイデンティティ・イズ・ノット・ワット・マターズ)
=「なぜ人格の同一性そのものが重要なのではないのか」
から、
「では何が重要なのか」
「人格の同一性と合理性」
「人格の同一性と道徳」
へと議論が進んでいきます。
そのため、
1971年の「Personal Identity」は、
後の思想がまだ存在しなかった未完成の考えというより、パーフィットの中心的な問題意識がすでにかなり現れていた出発点
と考えると分かりやすいでしょう。
そして1984年の『理由と人格』は、
その出発点から十年以上かけて議論を整理し、「誰が同じ人物なのか」という問題を、「生存にとって何が重要なのか」「それは合理性や道徳に何を意味するのか」という、さらに大きな問題へ発展させた著作
なのです。
第8章 パーフィットは、どんな「実験」をしたの?
パーフィットの人格の同一性論では、脳を分けたり、別の身体へ移したりする話が登場します。
ここで最初に覚えておきたい正確な点は、
パーフィットが哲学上の議論で中心的に使ったのは、人体を使った実証実験ではなく、thought experiment(ソート・エクスペリメント)=思考実験です。
ただし、完全な空想だけから考えたわけでもありません。
背景には、現実のsplit-brain(スプリット・ブレイン)=分離脳研究がありました。
左右の大脳半球は、
corpus callosum(コーパス・カローサム)=脳梁
と呼ばれる多数の神経線維によって大きく結ばれています。
重い難治性てんかんでは、発作が一方の大脳半球から反対側へ広がることがあります。
その広がりを抑える治療の一つとして、脳梁の全部または一部を切断する
corpus callosotomy(コーパス・カロソトミー)=脳梁離断術
が行われてきました。

目的は人格を分けることではなく、重い発作の広がりを抑えることです。
その後の研究では、左右の視野へ異なる情報を提示するなどして、脳梁を介した情報共有が減ったとき、左右の大脳半球がどのように情報を処理するかが調べられてきました。
現在の研究から確認できるのは、脳梁離断後には知覚や注意などで左右の機能的な統合が大きく弱まる一方、その分離は完全ではなく、行動の制御などに統一性が残る場合もあるということです。したがって、「脳梁を切断すると意識が完全に二つになる」と科学的に決着しているわけではありません。意識が一つなのか二つなのかについても議論が続いています。
パーフィットは、こうした現実の研究を背景の一つとしながら、哲学ではさらに条件を進めます。
ここまで説明してきたのは、現実に行われてきたsplit-brain(スプリット・ブレイン)=分離脳の研究です。
研究から確認できるのは、脳梁を切断すると左右の大脳半球の情報共有が大きく変化するということです。
しかし、
「一人の人間が、そのまま完全な二人の人物になる」
ことが実験で確認されたわけではありません。
ここから先は、現実の手術の結果ではなく、パーフィットが哲学上の問題を考えるために条件をさらに進めた思考実験です。
そして、この思考実験は突然ここで生まれたものでもありません。
第5章で紹介した、デイヴィッド・ウィギンズの分裂問題につながっています。
ウィギンズは、一人の人物の脳を分け、それぞれを別の身体で働かせることができたら、分裂前の人物と分裂後の二人の関係はどうなるのかを考えました。
そして、対称的に二人へ分裂する場合について、
分裂後の二人のどちらも、分裂前の人物と厳密には「一人の同じ人物」ではない
という方向へ議論を進めました。
パーフィットも後に、完全分裂については、この点では同じ結論を取ります。
つまり、
「分裂後のどちらが元の人物本人なのか」という人格の同一性の問題については、二人とも「どちらも厳密には元の人物本人ではない」という方向へ進んだ
のです。
では、すでにここまで答えが出ているのに、なぜパーフィットは分裂をさらに詳しく考えたのでしょうか。
それは、この答えによって別の新しい問題が生まれたからです。
分裂後の二人は、どちらも元の人物本人ではない。
しかし、二人には元の人物の記憶・意図・性格・信念・望みなどが強くつながっている。
それなら、
「一人の同じ人物ではない」というだけで、元の人物は完全に失われた、普通に死んだのと同じだ、と考えてよいのでしょうか。
パーフィットがさらに追究したのは、この新しい問題でした。
彼が改めて考えたかったのは、
「分裂後のどちらが本当の本人なのか」
だけではありません。
むしろ、
「どちらも元の人物本人ではないとしても、元の人物から未来へ大切なものが続いているなら、それにはどんな意味があるのか」
という問題でした。
たとえば、元の人物の脳の片方だけが別の身体で正常に働き、その人に記憶・性格・意図・計画などが受け継がれたとします。
その場合には、
「元の人物がその人として生き続けた」
と考えたくなるかもしれません。
では、もう片方の脳も同じように正常に働き、二人になったらどうでしょう。
二人になったため、厳密な人格の同一性は成立しなくなります。
しかし、記憶や意図、信念、望みなどの心理的なつながりまで消えたわけではありません。
一人だけなら「生き続けた」と考えられそうなのに、同じようにつながる人物がもう一人存在しただけで、「まったく生き残らなかった」と考えるのは、本当に自然なのでしょうか。
パーフィットは、この違和感を重要視しました。
そこで分裂という思考実験を、
「誰が同じ人物なのか」を確かめるためだけではなく、「生存について本当に重要なのは何なのか」を切り分けるための道具
として、さらに発展させていきます。
その代表的な設定が、『Reasons and Persons(リーズンズ・アンド・パーソンズ)=理由と人格』第12章で詳しく扱われる、
full division(フル・ディヴィジョン)=完全分裂
です。
一人の人物Aの脳を左右に分け、それぞれの半球を別の身体へ移し、どちらも正常に働くと仮定します。
その結果、BとCという二人が生まれ、
二人ともAの過去と心理的につながり、
Aの記憶、計画、信念、望みなどを引き継ぐとします。

これは実際に成功した脳移植の報告ではありません。
現実では一緒に続いている「脳」「身体」「心理的なつながり」「一人の同じ人物であること」を、想像の中で切り離して比較するための設定です。
Oxford Academic(オックスフォード・アカデミック)は、オックスフォード大学出版局が運営する学術文献のオンラインサービス、そこに掲載されている『理由と人格』第12章の概要でも、左右の脳半球をそれぞれ別の身体へ移植する「完全分裂」が、現実の人体実験ではなく、人格の同一性を考えるための想像上の事例として扱われています。
ここで重要な違いが現れます。
AからBへ心理的なつながりが続く。
AからCへも続く。
しかし、BとCは二人の別々の人物です。
そのため、
心理的なつながりは一人から二人へ枝分かれできても、「一人の同じ人物であること」は同じ形では枝分かれできません。
パーフィットはこの違いから、
BもCもAと一人の同じ人物ではないとしても、Aが未来を気にかけるうえで重要な心理的関係は、両方へ残ることがありうる
と論じました。
これが思考実験の狙いです。
脳を分けたら医学的に「何人になるのか」を決めるためではありません。
「一人の同じ人物であること」と「過去から未来へ心理的なつながりが続くこと」を切り離したとき、生存について本当に重要なものは何なのかを考えるためです。
こうしてパーフィットは、奇妙な思考実験を使いながら、
「どちらが本物の私なのか」
という問いから、
「そもそも、私たちが未来へ残ってほしいと思っているものは何なのか」
という問いへ進んでいきました。
そして、その答えをより正確に説明するために重要になるのが、
psychological connectedness(サイコロジカル・コネクテッドネス)=心理的連結性
psychological continuity(サイコロジカル・コンティニュイティ)=心理的連続性
そして、
Relation R(リレーション・アール)=R関係
です。
次は、パーフィットが「未来へ続いていく心理的な関係」をどのように整理したのかを見ていきましょう。
第9章 パーフィットが考えた「心理的なつながり」とR関係とは?
前の章の完全分裂から見えてきたのは、
「一人の同じ人物であること」と「過去から未来へ心理的なものがつながっていること」は、特殊な場合には別々になりうる
ということでした。
そこでパーフィットは、人物の同一性とは別に、未来へ何が続いているのかを詳しく考えます。
重要になるのが、
psychological connectedness(サイコロジカル・コネクテッドネス)=心理的連結性
と、
psychological continuity(サイコロジカル・コンティニュイティ)=心理的連続性
です。
心理的連結性とは、二つの時点のあいだにある直接的な心理的つながりです。
たとえば昨日、
「明日は図書館へ行こう」
と決め、今日その予定を覚えて実行したなら、昨日の意図が今日の行動へつながっています。

昔の経験が現在の判断へ影響している。
以前から持っていた信念や目標が、今の行動へ続いている。
こうした記憶・意図・信念・望み・目標などの直接的な関係が、心理的連結性です。
つまり、
「心理的につながる」とは、昔と今で同じことを考え続けることではありません。過去の心理状態が、現在の心理状態へ因果的につながっていることが大切です。
なお、パーフィットのような心理的な立場を厳密に説明するときには、
quasi-memory(クワジ・メモリー)=準記憶
という考え方が使われることもあります。
普通の「記憶」という言葉には、
「自分が経験したことを自分が覚えている」
という意味が含まれやすいため、それだけでは最初から「同じ人物であること」を前提にしてしまう可能性があります。
準記憶は、その前提を入れずに、過去の経験と現在の記憶のような状態との因果的なつながりを考えるための概念です。初心者向けには「記憶」と考えても大きな流れはつかめますが、パーフィットの議論は単純な記憶説ではありません。
一方、心理的連続性は、こうした直接的なつながりが時間の中で重なりながら続いていることです。
現在のあなたは、小学生だったある一日のことを何も覚えていないかもしれません。
それでも、
小学生のあなたから、その翌年のあなたへ。
そこから中学生、高校生、現在のあなたへ。
心理的なつながりが少しずつ重なって続いていることがあります。
昔の自分と現在の自分が直接つながっていなくても、そのあいだを心理的なつながりの鎖が結んでいる。
これが心理的連続性の基本的な考え方です。

心理的連結性は「隣り合う点を直接つなぐ関係」、心理的連続性は「その直接的なつながりが鎖のように重なり、遠く離れた時点までつながっている関係」です。
そしてパーフィットは、ここまで説明してきた心理的なつながりを議論するとき、
Relation R(リレーション・アール)=R関係
という名前を使います。
では、なぜわざわざ「R関係」という新しい名前が必要だったのでしょうか。
「一人の同じ人物であること」と、「過去から未来へ心理的なものがつながっていること」を、別々に指して考える必要があったからです。
普通の生活では、この二つはほとんど一緒に続いています。
昨日の私と今日の私は一人の同じ人物であり、同時に、記憶・意図・信念・望みなども心理的につながっています。
そのため、二つをわざわざ区別しなくても困りません。
ところが、完全分裂では違います。
分裂後の二人は、どちらも分裂前の人物と厳密には一人の同じ人物ではありません。
それでも、分裂前の人物の記憶・意図・信念・望みなどは、二人へ心理的につながっていると考えることができます。
そこでパーフィットは、
「同じ人物かどうか」とは別に、「心理的なつながりが続いているか」を指すための名前
を必要としました。
そのために使われるのがR関係です。

大まかには、
心理的連結性および/または心理的連続性が、因果的なつながりをもって成立している関係
を指します。
つまりR関係とは、新しい不思議な力の名前ではありません。
記憶・意図・信念・望みなどによって、過去の人物と未来の人物が心理的につながっている関係をまとめて考えるための名前です。
この名前を付けたことで、パーフィットは二つの問いを分けられるようになりました。
「未来の人物は、今の私と一人の同じ人物なのか」
そして、
「未来の人物とのあいだに、R関係は残っているのか」
です。
完全分裂では、
一つ目には「いいえ」と答えることができます。
しかし二つ目には「はい」と答えられる場合があります。
ここが重要です。
一人の同じ人物ではなくなっても、R関係は残ることができる。
するとパーフィットは、さらに問いを進めることができます。
「もしR関係が残っているなら、私たちが生き続けるうえで本当に大切にしていたのは、“一人の同じ私であること”そのものではなく、この心理的なつながりの方なのではないか」
という問いです。
R関係という言葉は、まさにこの二つを切り分けて考えるために重要だったのです。
ここでいう「心理的なつながり」は、同じ思想を持っている、同じ文化を共有している、誰かの考えに影響を受けた、という意味ではありません。
たとえば、ある哲学者の本を読んで、その考え方を受け継いだとしても、それだけでその哲学者とのR関係が成立するわけではありません。
パーフィットが考えているのは、
ある人物の経験・記憶・意図・信念・望み・性格などが、その人物の心理生活から因果的につながりながら、未来の人物の心理状態へ十分に引き継がれている関係
です。
完全分裂の思考実験でも、分裂後の二人は、元の人物の思想にただ共感しているのではありません。
元の人物の心理状態そのものから、記憶・意図・信念・望みなどが二人へ引き継がれている
と仮定されています。
そのため、
「思想が受け継がれたこと」と、
「パーフィットのいう心理的連続性やR関係があること」
は、分けて考える必要があります。
ここで少し注意が必要です。
パーフィットは『理由と人格』で、「何が生存にとって重要なのか」をさらに検討すると、
R関係が普通の身体や脳によって生じたのか、それとも別の仕組みによって生じたのかは決定的ではない、と考えます。
彼は最終的に、
Relation R with any cause(リレーション・アール・ウィズ・エニー・コーズ)=どのような原因によるものであっても成立するR関係
を「重要なもの」の候補として支持しました。
ただし、これは、
「偶然まったく同じ記憶を持つ人が現れれば、それだけでR関係になる」
という意味ではありません。
R関係そのものには心理状態どうしの因果的なつながりが必要であり、そのR関係が成立する仕組みが通常の脳なのか、別の方法なのかを問わない
という意味に近いものです。この「原因」の扱いには研究上の解釈上の注意もあります。
なぜパーフィットに、このR関係が必要だったのでしょうか。
答えは、完全分裂にあります。
人物としての同一性は一人から二人へ枝分かれできません。
しかし、R関係は、
AからBへ。
そしてAからCへ。
二方向へ続くことを想像できます。
そこで、
「人物の同一性が成立するか」と、「生存について大切な心理的関係が残っているか」を別々に考えられる
ようになったのです。
ここからパーフィットは、さらに大胆な問いへ進みます。
もしR関係が残っているなら、「一人の同じ私であり続けること」そのものは、本当に生存にとって一番重要なのでしょうか。
第10章 「同じ私であることより重要なものがある」とは、どういう意味?
パーフィットの代表作『Reasons and Persons(リーズンズ・アンド・パーソンズ)=理由と人格』第12章には、
Why Our Identity Is Not What Matters(ワイ・アワ・アイデンティティ・イズ・ノット・ワット・マターズ)=「なぜ私たちの同一性は、本当に重要なものではないのか」
という題名が付けられています。
かなり強い題名です。
そのため、
「同一性が重要ではないなら、自分自身には価値がない、という意味なの?」
と思うかもしれません。
しかし、パーフィットが問題にしているのは、人間そのものに価値があるかどうかではありません。
また、
「自分の人生なんてどうでもよい」
という話でもありません。
ここで彼が問い直しているのは、
「未来の自分について私たちが大切にしているものは、本当に“一人の同じ人物であり続けること”そのものなのか」
という問題です。
第8章で紹介した完全分裂を、もう一度思い出してみましょう。
分裂前には、Aという一人の人物がいます。
そのAの脳を左右に分け、それぞれを別の身体で正常に働かせることができたと仮定します。
すると、分裂後にはBとCという二人の人物がいます。
この場合、
BもCも、分裂前のAと厳密には一人の同じ人物ではありません。
これは、ウィギンズの分裂問題からパーフィットが受け継いだ重要な結論でした。
しかし、ここで話は終わりません。
完全分裂では、BとCのどちらにも、Aの記憶・意図・信念・望みなどが心理的につながっていると考えます。
つまり、
「Aと一人の同じ人物であること」は失われても、Aから未来へ続く心理的な関係まで、すべて失われるわけではない
のです。
ここで前章のR関係が重要になります。
R関係は、単に、
「同じ考えを持っている」
「Aの思想をBが受け継いだ」
という意味ではありません。
Aの心理生活から、記憶・意図・信念・望みなどが因果的につながりながら未来へ続いている、という関係です。
完全分裂では、
AからBへR関係が続き、同時にAからCへもR関係が続く
と考えることができます。
それでも、BとCがA本人になるわけではありません。
ここが大切です。
「一人の同じ人物であること」と「R関係が続いていること」は、同じではないのです。
では、なぜこの違いがそんなに重要なのでしょうか。
一人だけへ心理的なつながりが続く普通の生存なら、
「未来のその人物は私であり、私の記憶や意図もそこへ続いている」
と考えることができます。
そのため、
「同じ人物だから未来の私を気にかける」のか、
「心理的なつながりが続いているから未来の私を気にかける」のか
を、普段は区別する必要がありません。
ところが完全分裂では、この二つが分かれます。
分裂後の二人はA本人ではない。
それでも、Aから二人へR関係は続いている。
そこでパーフィットは、
「もし“一人の同じ人物であること”が失われても、普通の生存で大切にしている心理的な関係が残っているのなら、本当に重要なのは人格の同一性そのものなのだろうか」
と問い直しました。
ここでいう「生存」という言葉にも注意が必要です。
パーフィットが考えているのは、
「身体が生命活動を続けるためには何が必要か」という医学的・生物学的な意味での生存ではありません。
問題にしているのは、
「未来に“自分の続き”があることについて、私たちは何を大切にしているのか」という哲学上の問題です。
たとえば私たちは、
「老後に困らないように貯金しておこう」
「未来の自分が健康でいられるように、今から生活を整えよう」
と考えます。
まだ存在していない何十年後の自分の幸福や苦しみを、私たちは今から「自分のこと」として気にかけています。
こうした、
自分自身の未来の幸福や苦しみを、自分のこととして特別に気にかける関心
を、哲学では
prudential concern(プルーデンシャル・コンサーン)=自分自身の将来への実際的な関心
と表現することがあります。
パーフィットが問い直したのは、
「私たちが未来の自分をこのように特別に気にかける理由は、未来の人物が今の私と“一人の同じ人物”だからなのだろうか」
ということです。
完全分裂を考えると、その答えはそれほど単純ではなくなります。
BもCもA本人ではありません。
しかし、AからBへも、AからCへも、普通に未来の自分へ続いているような心理的な関係が残っています。
それならAには、BやCの未来を、まったく無関係な他人の未来と同じように考えるのではなく、自分の未来を気にかけるのに似た理由で気にかける理由があるのではないか。
パーフィットは、そこに注目しました。
つまり彼が示そうとしたのは、
「R関係がある人は、元の人物と同じ人物になる」ということではありません。
そうではなく、
「同じ人物ではなくても、私たちが普通の生存で大切にしている心理的な関係は残ることができる」
ということです。
だからこそ、
「生存について本当に重要なのは、人格の同一性そのものではなく、R関係の方なのではないか」
という問いが生まれます。
ここで、パーフィットの考えを一度まとめておきましょう。
パーフィットが「生存について重要だ」と考えたのは、
未来の人物が、今の私と厳密に一人の同じ人物であることそのものではなく、今の私から未来へ、記憶・意図・信念・望みなどを含む心理的なつながりが続いていること
でした。

その重要な心理的関係をまとめて表すのが、前章で見たR関係です。
これは、
「自分の思想や考えを、そのまま未来へ残さなければならない」
という意味ではありません。
また、
「同じ考えを持つ別人なら、自分の続きになる」
という意味でもありません。
パーフィットが考えているのは、現在の人物の心理生活そのものから、未来の人物の心理生活へ、記憶・意図・信念・望みなどが因果的につながりながら続いている関係です。
だから彼は、
「未来にもまったく同じ私が残ること」より、「今の私から未来へ、生存について大切な心理的な関係が続いていること」の方が重要なのではないか
と考えたのです。
そして『理由と人格』は、第12章で
Why Our Identity Is not What Matters
=なぜ私たちの同一性は「重要なもの」ではないのか
と問いかけたあと、第13章で、
What Does Matter(ワット・ダズ・マター)
=では、何が重要なのか
へ進みます。
この章の流れは、パーフィットの考え方をよく表しています。
彼は、
「人格の同一性は重要ではない」
と言って、そこで終わったのではありません。
むしろ、
「それでは、私たちが未来の自分について本当に大切にしていたものは何なのか」
と、問いをさらに深く掘り下げました。
そして、その答えを考えるうえで中心的になったのが、心理的連結性や心理的連続性を含むR関係です。
パーフィットが問い直したのは、人間の価値そのものではありません。
「未来の私が大切なのは、未来の人物が今の私と厳密に一人の同じ人物だからなのか。それとも、今の私から未来へ、大切な心理的な関係が続いているからなのか」
という問題です。
完全分裂は、その二つを切り離して考えるための思考実験でした。
そして、その切り分けによってパーフィットは、
「何が人を一人の同じ人物にするのか」という問いから、「未来の自分について、私たちは本当は何を大切にしているのか」という、さらに一段深い問いへ進んだのです。
第11章 なぜ『理由と人格』は、それほど重要な本になったの?
パーフィットの代表作、
Reasons and Persons(リーズンズ・アンド・パーソンズ)=『理由と人格』
は、1984年に初めて刊行されました。
現在Oxford Academicで閲覧できる版は1986年の修正版をもとにしていますが、出版社の著作権ページにも「First published 1984(ファースト・パブリッシュト・ナインティーン・エイティフォー)=初版1984年」と明記されています。
この本を理解するときに大切なのは、
人格の同一性だけについて書かれた本ではない
ということです。
題名には、
Reasons(リーズンズ)=理由
と、
Persons(パーソンズ)=人・人格
があります。
パーフィットが考えたのは、
「私たちには何をする理由があるのか」
という問題と、
「私たちはどのような存在なのか」
という問題です。
そして、この二つが互いに関係すると考えました。
『理由と人格』は四つの大きな部から構成されています。
第1部では、合理性や道徳の理論が自分自身の目的を壊してしまう場合を扱います。
第2部では、自己利益や時間に対する態度を考えます。
第3部で人格の同一性を詳しく検討し、その結果を合理性や道徳へ結びつけます。
そして第4部では、未来世代や人口倫理の問題へ進みます。
ここは正確に理解しておきたいところです。
『理由と人格』全体が、「人格の同一性を考えた結果、そのまま未来世代の問題が出てきた」という一本道の本ではありません。
パーフィット自身、この本を「ゆるやかにつながる四つの部分」として説明しています。
それでも第3部では、人格の同一性についての考えが、私たちの合理性や道徳への考え方を変える可能性が明確に論じられています。
たとえば、
「未来の自分も現在の自分と同じ人物だから、未来の自分を特別に大切にする」
と考えていたとします。
しかし、生存で重要なのが厳密な同一性ではなく、程度のある心理的なつながりだとしたらどうでしょう。
すると、
遠い未来の自分をどのように気にかけるべきなのか
という合理性の問題も、もう一度考え直す必要が出てきます。
実際、第14章は
Personal Identity and Rationality(パーソナル・アイデンティティ・アンド・ラショナリティ)=「人格の同一性と合理性」
第15章は
Personal Identity and Morality(パーソナル・アイデンティティ・アンド・モラリティ)=「人格の同一性と道徳」
と題されています。
つまりパーフィットが人格の同一性で重要なのは、
「何が同じ人物を成り立たせるのか」という答えを一つ追加したからだけではありません。
人間についての考え方が変われば、「何をする理由があるのか」「自分と他人をどう扱うべきなのか」という問題まで変わりうることを、本格的に追究したからです。
そこに『理由と人格』の大きな特徴があります。
第12章 パーフィットの「還元主義」とは?
ここまでのパーフィットの考えを支えている、もう一つの重要な立場があります。
それが、
reductionism(リダクショニズム)=還元主義
です。
一般に還元主義とは、複雑に見えるものを、それを成り立たせている、より基本的な要素や関係によって説明しようとする考え方です。
では、パーフィットは「私」という人物について、何をどのように説明しようとしたのでしょうか。
パーフィットの還元主義で重要なのは、
人物や人格の同一性についての事実を説明するとき、脳・身体・心理的なつながりについての事実とは別に、さらに人格の同一性を決める「深い事実」が必要だとは考えない
という点です。

少し難しいので、順番に見ていきましょう。
私たちが一人の人物について考えるときには、
その人の身体や脳がどう続いているのか。
どんな経験をしているのか。
どんな記憶・意図・信念・望みを持っているのか。
それらの心理状態が、過去から現在へどのようにつながっているのか。
といった、さまざまな物理的・心理的な事実があります。
パーフィットは、人物について必要な事実を説明したあとに、
「それでも、その人が本当の意味で同じ人物なのかどうかを決める、さらに別の事実が残っている」
と考える必要はない、としました。
ここで大切なのは、
パーフィットの還元主義は、「人間や人物は存在しない」という主張ではない
ということです。
パーフィットは、私たちが人物として存在することを否定しているわけではありません。
問題にしているのは、
人物についての事実を説明するために、身体・脳・心理的な出来事やその関係とは別の、さらに独立した「私そのもの」を付け加える必要があるのか
ということです。
パーフィットは、そのような追加の事実を必要としないと考えました。
この考えを理解するうえで役立つのが、
Cartesian ego(カーテジアン・イーゴ)=デカルト的自我
のような考え方です。
これは大まかに言えば、
身体や個々の心理状態とは別に、それらを経験し続ける独立した主体が存在する
と考える立場です。
たとえば、身体が変化しても、記憶や考え方が変化しても、その奥には変わらない「本当の私」がいて、その存在が人格の同一性を支えている、と考えるイメージです。
パーフィットは、人格の同一性を説明するために、このような独立した主体を必ず想定する必要はないと考えました。
人物について重要なのは、
脳や身体がどう続いているのか。
記憶・意図・信念・望みなどがどうつながっているのか。
そして、それらがどのような因果関係を持って続いているのか。
といった、具体的な事実です。
それらがすべて分かっているなら、
その背後に、さらに人格の同一性を決める見えない事実が必ず残っているとは考えなくてよい
というのが、パーフィットの還元主義の重要な考え方です。
そして、この還元主義は、これまで見てきた完全分裂の思考実験と深くつながっています。
分裂前にはAという一人の人物がいます。
そのAの脳を左右に分け、それぞれを別の身体で正常に働かせることができたと仮定します。
すると、分裂後にはBとCという二人の人物がいます。
BにもCにも、Aの記憶・意図・信念・望みなどが心理的につながっているとします。
このとき、
AとBのあいだにもR関係があり、
AとCのあいだにもR関係がある。
しかし、
BもCも、Aと厳密には一人の同じ人物ではありません。
ではここで、
「それでも、本当はBかCのどちらか一方がAなのではないか」と考える必要があるのでしょうか。
もし、脳・身体・心理的なつながりについての事実とは別に、人格の同一性を決める「さらに深い事実」があると考えるなら、
「私たちには分からなくても、見えないところではBかCのどちらかが本当のAなのかもしれない」と考えたくなるかもしれません。
しかし、パーフィットの還元主義では、そのような隠れた答えが必ず存在するとは考えません。
A・B・Cについて、
脳がどうなったのか。
身体がどうなったのか。
記憶や意図がどのようにつながっているのか。
心理的連続性がどのように続いているのか。
といった必要な事実がすべて分かっているなら、
その説明の後ろに、さらに「本当はどちらがAなのか」という別の答えが残っていなければならないわけではない
のです。
ここが、完全分裂と還元主義がつながる重要な部分です。
すると、問いの立て方そのものも変わってきます。
これまでは、
「未来の人物は、今の私と一人の同じ人物なのか」
という問いに答えようとしていました。
しかしパーフィットは、
「同じ人物かどうか」だけに答えを求めなくても、
「今の人物から未来の人物へ、実際には何がどのようにつながっているのか」を調べることができると考えました。
そこには、
記憶。
意図。
信念。
望み。
心理的連結性。
心理的連続性。
そしてR関係があります。
完全分裂では、人格の同一性は二方向へ枝分かれできません。
しかし、こうした心理的な関係は、AからBへ、そしてAからCへと二方向へ続くことを想像できます。
だからこそパーフィットは、
「人物の同一性が成立するか」と、「未来へ生存について重要な関係が続いているか」を分けて考える
ことができました。
ここまでの議論をつなげると、パーフィットの考えが少しずつ一本の線になって見えてきます。
まず、
心理的なつながりは、記憶だけではなく、意図・信念・望みなども含んでいる。
そして、
心理的につながっていることと、一人の同じ人物であることは同じではない。
完全分裂では、その二つを分けて考えることができます。
さらにパーフィットは、
未来の自分について本当に重要なのは、人格の同一性そのものではなく、R関係のような心理的な関係なのではないか
と問い直しました。
そして還元主義によって、
人物についての事実を説明するために、こうした物理的・心理的な事実とは別の「さらに深い私」を必ず想定する必要はない
と考えます。
つまり、パーフィットの還元主義が問い直したのは、
「私」についての事実を説明するために、私たちは本当は何を必要としているのか
という問題でした。
私たちは普段、
「昨日の私も、今日の私も、未来の私も、同じ一人の私だ」
と自然に考えています。
パーフィットは、その日常的な考えをすぐに否定したわけではありません。
むしろ、
「何によって同じ人物なのか」
「その同一性は、なぜ重要なのか」
「同一性が成立しなくても、未来へ残る重要な関係はあるのか」
「人物についての事実を説明したあとに、さらに“本当の私”を決める事実は必要なのか」
と、一つずつ問いを深めていきました。
そして最後には、
「人格の同一性」という問題そのものを、私たちはどのように考えるべきなのか
というところまで問い直していきます。
パーフィットが人格の同一性について重要なのは、単に新しい答えを一つ付け加えたからではありません。
「何が人を一人の同じ人物にするのか」だけでなく、「そもそも、その問いにどこまで答えを求める必要があるのか」まで考え直した。
そこに、デレク・パーフィットが現在でも人格の同一性を考えるうえで重要な哲学者であり続ける、大きな理由の一つがあります。
第13章 パーフィット本人は、どんな哲学者だったの?
ここまで見てきたパーフィットは、
分裂。
R関係。
還元主義。
といった難しい問題を考える哲学者でした。
では、実際のパーフィットは、どのように哲学をしていた人物だったのでしょうか。
人物像を知るうえで、まず大切なのは、
パーフィットは、自分の考えを一人で完成させて発表するというより、多くの人から反論や批判を受け、それによって議論を何度も作り直すことを非常に重視した哲学者だった
ということです。
2025年にOxford University Pressから刊行された人物研究『Derek Parfit: His Life and Thought(デレク・パーフィット:ヒズ・ライフ・アンド・ソート)=「デレク・パーフィット――その人生と思想」』では、パーフィットについて、強い完璧主義、真理への細かなこだわり、そして、自分の考えに誤りがあると指摘されたとき、その可能性を受け入れて考え直そうとする姿勢が特徴として挙げられています。
ここでいう「完璧主義」は、
「自分の考えが絶対に正しいと思っていた」
という意味ではありません。
むしろ逆です。
自分の主張に反論があるなら、それを知り、よりよい議論へ直したい。
そう考えていた人物でした。
この姿勢がよく表れているのが、最初の著書『理由と人格』を出版する前の出来事です。
British Academyに掲載された哲学者ジョナサン・ダンシーによる回想では、パーフィットは出版直前に近い草稿を、世界中の非常に多くの哲学者へ送りました。
回想によれば、その数は100人を超えていたとされ、実際に意見を寄せた人として謝辞に記された名前だけでも56人にのぼります。
目的は、自分の本を宣伝することではありません。
「この議論に問題があるなら、出版する前に教えてほしい」
ということでした。

そして受け取った反論や指摘をもとに、文章や議論を修正していきます。
これは、ここまで見てきたパーフィットの哲学ともよく合っています。
彼は、
「私はこう思う。だからこれが答えだ」
で終わるより、
「では、この場合はどうなる?」
「この反論にも答えられる?」
「条件を変えても、この考えは成り立つ?」
と問いを重ねます。
思考実験だけでなく、他の哲学者からの反論も、自分の考えを試すための重要な材料にしていた
と言えるでしょう。
しかも、この態度は自分の著作に対してだけではありませんでした。
他の研究者から論文を送られると、非常に詳しいコメントを返すことでも知られていました。
British Academyの回想では、論文を送ると数日ほどで返事が来ることがあり、返されたコメントが元の論文と同じくらい、あるいはそれ以上の長さになることさえあったと記されています。
パーフィットにとって、他人の哲学にコメントすることは、自分の研究を邪魔する作業ではなかったようです。
哲学そのものを、複数の人が一緒に真理へ近づこうとする共同作業として考えていた
ことが、回想からうかがえます。
学生への接し方についても興味深い記録があります。
自分には非常に厳しい基準を課していた人物なので、
「学生にも同じような厳しさを要求したのでは?」
と思うかもしれません。
しかし、元学生たちの証言をまとめた回想では、パーフィットは指導する学生に対して非常に支援的で、自分と同じ哲学者にしようとするのではなく、その学生自身の力を伸ばそうとしていたと評されています。
ここから見えてくる人物像は、
「奇妙な思考実験を次々と思いついた孤独な天才」
だけではありません。
反論されることを避けるのではなく、むしろ反論を集め、それを使って自分の考えを何度も組み直した哲学者
という姿です。
もちろん、こうした性格だけから、
「だからパーフィットは人格の同一性について、あの理論を作った」
と説明することはできません。
哲学上の主張が正しいかどうかは、その人の性格とは別に、議論そのものによって確かめる必要があります。
それでも人物像を知ると、
なぜパーフィットの文章には、
一つの考え。
そこへの反論。
さらに別の例。
条件を変えた場合。
修正された主張。
という流れが何度も現れるのか、少し分かりやすくなります。
パーフィットにとって哲学とは、「自分の答えを守ること」より、「より正しい答えへ近づくために、自分の答えさえ何度でも疑うこと」だった。
そうした姿勢は、晩年まで続きました。
『On What Matters(オン・ワット・マターズ)=「何が重要なのか」』第3巻の序文でも、他の哲学者からの批判によって自分の誤りに気づき、新しい考えに至ったことを、パーフィット自身が率直に認めています。
人格の同一性について、
「本当に同一性が重要なのか」
と問い直したパーフィット。
その問い方は、自分自身の哲学にも向けられていたのです。
第14章 おまけコラム
パーフィットは「写真」にも夢中だった?

ここまでパーフィットについて、
哲学。
論文。
思考実験。
反論。
といった話をしてきました。
しかし、彼の人生には、哲学とは別に膨大な時間と情熱を注いだものがありました。
写真です。
パーフィットが特に好んで撮影したのは、
Venice(ヴェニス/ヴェネツィア)
と、
St Petersburg(セイント・ピーターズバーグ/サンクトペテルブルク)
の建築物でした。
『The New Yorker(ザ・ニューヨーカー)』の人物紹介によれば、パーフィットは1975年から1998年まで、毎年およそ5週間をヴェネツィアやサンクトペテルブルクで過ごし、建築写真を撮っていました。
これは、
「旅行へ行ったついでに、趣味で何枚か写真を撮る」
という程度のものではありませんでした。
パーフィットは非常に多くの写真を撮り、その中からわずかな写真を選び、仕上がりにも強くこだわりました。
自分には生まれつき優れた写真の才能があるとは考えていなかった一方で、
たくさん撮影し、その中からよいものを選び、さらに修整を重ねることで、よりよい作品へ近づこうとしていた
ことが回想されています。
写真の修整もかなり徹底していました。
初期には専門家による手作業の修整を利用し、のちには電子的な画像処理も使うようになります。
建物の形をより美しく見えるように調整したり、建築を見る妨げになると考えた人物や看板などを写真から取り除いたりすることもありました。
彼にとって写真は、
「その瞬間にそこにあったものを、そのまま記録すれば完成」
というものではなかったようです。
撮る。
選ぶ。
見直す。
修整する。
そして、さらによい一枚を探す。
その作業を何度も繰り返していました。
哲学の仕事を終えたあと、夜遅くに写真の作業をしていたことも回想されています。
さらに2025年にOxford University Pressから刊行された人物研究『Derek Parfit: His Life and Thought(デレク・パーフィット:ヒズ・ライフ・アンド・ソート)=「デレク・パーフィット――その人生と思想」』でも、妻ジャネット・ラドクリフ・リチャーズによる回想は、パーフィットを哲学と建築写真という二つの目的に強く没頭した人物として描いています。
では、パーフィットにとって写真とは、いったい何だったのでしょうか。
単なる息抜きだったのでしょうか。
哲学で疲れた頭を休ませるための気晴らしだったのでしょうか。
それとも、哲学とどこかでつながった、彼にとって必要な活動だったのでしょうか。
ここから先は、本人が明確に答えを残した哲学的主張ではありません。
残されている記録と、これまで見てきたパーフィットの人物像から考える、本記事での考察です。
写真は「息抜き」だったのだろうか
もちろん、哲学とはまったく違うことに取り組む時間が、結果として気分転換になっていた可能性はあります。
一日中、人格の同一性や合理性、道徳といった抽象的な問題を考え続けたあとに、建築や光を眺める。
それによって頭が切り替わることもあったかもしれません。
しかし、残された記録を見るかぎり、
「疲れたから写真でも撮って休もう」というだけでは、彼の写真への情熱を十分には説明できないように思えます。
毎年長い時間を撮影に使い、大量の写真を撮り、そこから選び、さらに修整を重ねる。
哲学の仕事を終えたあとにも写真へ取り組む。
ここまで時間と労力を注いでいる以上、写真は単なる休憩というより、
哲学とは別に、それ自体を本気で追い求めていたもう一つの活動だったと考える方が自然でしょう。
もしかすると写真は、パーフィットにとって「何もしない休息」ではなく、
哲学とは違うものへ集中することで、頭の使い方を切り替える時間でもあったのかもしれません。
ただし、これも本人がそう説明したと確認できるわけではありません。
「見たものを残したい」という気持ちもあったのかもしれない
『The New Yorker』には、もう一つ興味深い話があります。
パーフィットは、見たものの姿を頭の中に保つことが得意ではなかったとされ、自分が写真に引きつけられた理由について、
目の前から消えてしまう像を、写真として残すことと関係しているのかもしれないと考えていたことが紹介されています。
もしそうなら、彼にとって写真には、
「今ここで見ているものを、あとからもう一度見られる形にして残す」という意味もあったのかもしれません。
光は変わります。
人は移動します。
街も変わります。
同じ建物であっても、同じ瞬間は二度と現れません。
写真にすれば、そのとき自分が見たものを、あとからもう一度見つめることができます。
ここで、
「これは人格の同一性についての哲学と同じだ」
とまで言うことはできません。
パーフィット自身が、
「時間の中で人物がどう続くのかを考えていたから、写真で建物を残そうとした」
と説明したわけではないからです。
しかし本記事の考察として見るなら、
変化するものの中で、何が残り、何を残したいのか
ということに強く目を向けていた人物だった、と感じることはできます。
それは哲学との因果関係を示すものではありません。
それでも、人格の同一性を考えた哲学者が、同時に「消えてしまう像を残す」という写真へ強く引きつけられていたことは、一人の人物として興味深いところです。
哲学と写真には、似た「取り組み方」があったのではないか
もう一つ、本記事で注目したいのは、
パーフィットが写真を完成させるまでの姿勢
です。
彼は、一度撮った写真をそのまま完成品とはしませんでした。
たくさん撮る。
比較する。
よりよいものを選ぶ。
不要だと思うものを取り除く。
修整する。
そして、より満足できるものへ近づけていく。
この姿を見ると、これまで紹介してきた彼の哲学への取り組み方を思い出します。
パーフィットは哲学でも、
一度考えた答えをそのまま守り続けるのではなく、
反論を受け取り、
問題を探し、
書き直し、
さらに反論を考え、
より納得できる議論へ近づこうとしました。
だからといって、
「写真の完璧主義が哲学を生み出した」
あるいは、
「哲学の方法を写真にも使っていた」
と断定することはできません。
実際、British Academyの回想でも、パーフィットの哲学と写真のあいだにどのような関係があったのかを説明することは難しいとされています。
それでも、
最初に与えられたものをそのまま完成とはせず、何度も見直し、よりよいものへ近づこうとする
という取り組み方には、哲学と写真の両方に共通するパーフィットらしさを見ることができるのではないでしょうか。

「真理」と「美」を、それぞれ追い続けていたのかもしれない
さらに考えてみると、哲学と写真では、パーフィットが追い求めていたものそのものが違います。
哲学では、
「何が真実なのか」
「何が正しいのか」
「どんな理由があるのか」
「何が本当に重要なのか」
を考え続けました。
一方、建築写真では、
「何が美しいのか」
「どの角度がよいのか」
「どの光がよいのか」
「どの一枚を残したいのか」
を選び続けました。
一方では、真理や道徳的な価値。
もう一方では、美的な価値。
対象はまったく違います。
しかし、
「自分が価値あると思うものを見つけ、それにできるだけ近づこうとする」
という点では、二つの活動にはどこか似たものがあったのかもしれません。
パーフィットは哲学で、最初に思いついた答えに満足しませんでした。
写真でも、最初に撮れた一枚に簡単には満足しませんでした。
どちらについても、
「もっとよくできないだろうか」
と考え続ける人物だったように見えます。
もちろん、これも「哲学と写真には同じ目的があった」という事実を示すものではありません。
あくまで、残された人物像から読み取ることのできる一つの見方です。
もちろん、パーフィットの写真と哲学に直接の因果関係があったと断定することはできません。
それでも、一つの哲学的な問いを何度も考え直す姿と、一つの建物を何度も撮り、よりよい一枚を探し続ける姿には、
「これで十分だ」と簡単には終わらせず、自分がよりよいと思うものへ近づこうとするパーフィットらしさ
を感じることができます。
写真は、パーフィットの哲学を説明する答えではありません。
しかし、哲学だけでは見えにくい、彼が何に心を動かされ、何のためなら膨大な時間を注ぐことのできた人物だったのかを知る手がかりにはなるでしょう。
第15章 人格の同一性だけじゃない
パーフィットは、その後何を考えたの?
ここまでパーフィットについて、
「何が人を時間を越えて同じ人物にするのか」
「未来の自分について、本当に重要なのは何なのか」
という問題を中心に見てきました。
そのため、
「パーフィットは、ずっと“自分とは何か”だけを研究していた哲学者なのかな」
と思うかもしれません。
しかし、パーフィットが考えた問題は、それだけではありません。
人格の同一性は彼の哲学の大きな柱の一つですが、そこから合理性、道徳、未来の人々、人口の問題などへ研究は大きく広がっていきました。
代表作『Reasons and Persons(リーズンズ・アンド・パーソンズ)=理由と人格』でも、第3部で人格の同一性を扱ったあと、第4部では、
Future Generations(フューチャー・ジェネレーションズ)=未来世代
の問題へ進みます。
つまり、
「今の私と未来の私」
について考えていたパーフィットは、さらに視野を広げ、
「今の私たちと、まだ生まれていない未来の人々」
についても考えるようになったのです。

未来の人を傷つけるとは、どういうこと?
ここで登場する有名な問題が、
The Non-Identity Problem(ザ・ノン・アイデンティティ・プロブレム)=非同一性問題
です。
「同一性」という言葉が入っていますが、これまで考えてきた人格の同一性とは少し違います。
これまでの問いは、
「子どものころの私と、今の私は、一人の同じ人物なのか」
という問題でした。
非同一性問題では、
「現在の私たちの選択によって、未来に“どの人物が生まれるか”そのものが変わってしまうことがある」
という点が重要になります。
少し想像してみましょう。
ある社会に、
「将来の環境を守る政策」
と、
「今は便利だけれど、遠い未来の環境を大きく悪化させる政策」
という二つの選択肢があったとします。
後者を選べば、何世代も先の人々は、資源不足や環境悪化などによって、より厳しい生活を送ることになるかもしれません。
普通なら、
「未来の人々を苦しませるのだから、そんな政策は選ばない方がよい」
と考えるでしょう。
ところが、パーフィットはここに意外な難しさがあることに気づきます。
政策が変われば、社会の出来事も変わります。
働く場所が変わる。
住む場所が変わる。
人と人が出会う時期が変わる。
結婚したり、子どもが生まれたりする時期も少しずつ変わる。
こうした小さな変化が何世代も積み重なれば、
遠い未来には、そもそも別の人々が生まれている可能性があります。
これは、
「未来に生まれる人の運命が最初から決まっている」
という話ではありません。
むしろ反対です。
私たちが現在どのような選択をするかによって、未来に存在する人物そのものが変わる可能性がある
という話です。
たとえば、
環境を守る政策を選んだ未来では「Aさん」が生まれ、
環境を悪化させる政策を選んだ未来では「Bさん」が生まれたとします。

この場合、
「悪い政策のせいで、Bさんは、よい政策の場合より不幸になった」
とは簡単には言えません。
なぜなら、よい政策を選んでいたら、
もっと幸せなBさんが存在したのではなく、Bさん自身が生まれず、Aさんという別の人物が生まれていた
かもしれないからです。
では、
「Bさんを、Bさんが別の政策なら送れた人生より悪くしたとは言えないのだから、環境を悪くしても問題ない」のでしょうか。
パーフィットが言いたかったのは、そういうことではありません。
未来を大きく悪化させる選択は避けるべきだ、と私たちは考えます。
パーフィットが難しいと考えたのは、その判断そのものではありません。
難しいのは、
「なぜ未来を大きく悪化させる選択は悪いのか」を、未来に生まれる人物そのものが変わる場合にも通用する道徳のルールとして、どう説明するのか
ということです。
たとえば、
「ある行為が悪いのは、その行為によって、ある人を、その人が別の選択なら送れた人生より悪くしたからだ」
という考え方があります。
今いる同じ人物が将来も生きている場合なら、この説明は分かりやすいでしょう。
しかし何世代も先になると、現在の選択によって、未来に生まれる人物そのものが変わる可能性があります。
すると、
「この政策によって、この未来の人物を、別の政策の場合より不幸にした」
とは言えないことがあります。
別の政策を選んでいたら、その人がもっと幸せに暮らしていたのではなく、そもそもその人自身が生まれていなかったかもしれないからです。
それでも、
未来の環境や人々の暮らしを大きく悪化させる政策は、やはり避けるべきだ
と思えます。
では、その「悪さ」を、
「特定の誰かを、その人自身にとって以前より悪い状態にしたから」という説明だけに頼らず、どう説明すればよいのでしょうか。
ここに、非同一性問題の難しさがあります。
つまり非同一性問題は、
「未来を悪化させてもよいのか」と迷うための問題ではありません。
そうではなく、
「未来を大きく悪化させることが悪いとして、その理由を、未来に生まれる人物が変わる場合にも成り立つ道徳の考え方として、どう説明すればよいのか」
を問いかける問題なのです。
では、「よりよい未来」とは何だろう?
ここからパーフィットの議論は、さらに大きな問題へ進みます。
それが、
population ethics(ポピュレーション・エシックス)=人口倫理
です。
人口倫理とは、大まかに言えば、
「存在する人数も、一人ひとりの人生のよさも違う世界を、私たちはどのように比べればよいのか」
を考える倫理学の分野です。
たとえば、
少ない人数が、とてもよい人生を送っている世界
と、
それより多くの人数が、それなりによい人生を送っている世界
があったとします。
どちらを「よりよい世界」と考えるべきなのでしょうか。
一人ひとりの人生のよさを重視するのでしょうか。
よい人生を送る人の人数を重視するのでしょうか。
それとも、その両方を考えるのでしょうか。
パーフィットは、この問いをさらに進めると、とても難しい問題が現れることを示しました。
世界Aと世界Zを比べてみよう
パーフィットの有名な設定では、まず、
世界A
を考えます。
世界Aには、少なくとも100億人という非常に多くの人々が存在し、
その全員が、とても質の高い人生を送っています。
ここで注意したいのは、
「100億人だけが幸福で、そのほかの大勢は不幸に暮らしている」
という設定ではないことです。
世界Aで考えている人々は、全員が非常によい人生を送っています。
そして、
「その100億人に入れなかった人たちが、どこかで苦しんでいる」
という設定でもありません。
そもそも世界Aには、その人たちは存在しない
と考えます。
つまり世界Aは、
「非常に多くの人々が存在し、その全員がとてもよい人生を送っている世界」
です。
では、これとは別の、
世界Z
を考えてみましょう。
世界Zには、世界Aとは比べものにならないほど多くの人々が存在します。
ただし、一人ひとりの人生のよさは大きく下がっています。
パーフィットが設定するのは、
barely worth living(ベアリー・ワース・リヴィング)=かろうじて生きる価値がある人生
です。
この表現は少し注意が必要です。
これは、
「みんな希望を持って、それなりに幸せに暮らしている」
という意味ではありません。
しかし同時に、
「毎日が激しい苦痛で、生まれなかった方が明らかによかった」
という意味とも限りません。

重要なのは、
人生全体のよさを考えたとき、「まったく存在しない方がよかった」と言うほどではなく、ほんのわずかにプラスの側にある
という設定です。
つまり、
世界A=非常に多くの人々が、全員とてもよい人生を送っている
のに対して、
世界Z=それよりはるかに多くの人々が、全員「生きる価値がぎりぎりプラス」といえる程度の人生を送っている
という比較です。
幸福を全部足したらどうなる?
ここで、考え方をつかむためだけに、非常に単純な数字を使ってみましょう。
これはパーフィット本人が使った数字ではありません。
世界Aで、
10人 × 一人あたり100 = 合計1000
のよさがあるとします。
全員が100という、とても充実した人生を送っています。
一方、世界Zでは、
1001人 × 一人あたり1 = 合計1001
だったとします。
一人ひとりの人生は、Aの人々と比べればはるかに低い水準です。
しかし、人数が圧倒的に多いため、
人生のよさを単純に全部足せば、世界Zの合計の方が大きくなります。
すると、
「世界全体の幸福や人生のよさの合計が大きい方を、よりよい世界としよう」
と考える立場では、
世界Aより世界Zの方がよい、
という結論が出てきます。
しかし、ここで強い疑問が生まれます。
本当に、非常に多くの人が全員とても充実した人生を送る世界より、全員がぎりぎりプラス程度の人生を送る巨大な世界の方が、「よりよい世界」なのでしょうか。
この受け入れにくい結論が、
The Repugnant Conclusion(ザ・リパグナント・コンクルージョン)=忌まわしい結論
と呼ばれています。
でも、本当に「忌まわしい」の?
ここで、
「でも、人数がものすごく多くて、その全員の人生に少しでも生きる価値があるなら、世界Zの方がよいと考えてもいいのでは?」
と思う人もいるでしょう。
それは、おかしな疑問ではありません。
「忌まわしい結論」という名前だからといって、
この結論が論理的に間違っていると証明されたわけではない
からです。
大切なのは、世界Aが、
「少数だけが幸せで、残りの人々が絶望している世界」
ではないことです。
世界Aでも、非常に多くの人々が存在し、
その全員が、とてもよい人生を送っています。
それに対して世界Zでは、
さらに圧倒的に多くの人々が存在する代わりに、全員の人生のよさが、ぎりぎりプラスという水準まで下がっています。
そこで、
「人数を十分に増やせるなら、一人ひとりの人生の質がどれほど低くなっても、その世界をよりよいと考えるべきなのか」
という疑問が出てくるのです。
パーフィットは、この結論を非常に受け入れにくいものだと考えました。
しかし、哲学者全員が同じように考えているわけではありません。
実際、
「世界Zの方がよいという結論を受け入れてもよいのではないか」
と主張する哲学者もいます。

たとえば哲学者トールビョルン・テンショーは、「忌まわしい結論」は受け入れるべきだという立場を論じています。
つまり、
「世界Zの方がよい」という考えも、哲学上の一つの立場として本格的に議論されている
のです。
だから、この問題について、
「世界Zの方がいいと思った自分は間違っている」
と考える必要はありません。
むしろ人口倫理で重要なのは、
「自分はAとZのどちらをよりよいと思うのか。そして、なぜそう思うのか」
を考えてみることです。
では、何が難しいの?
問題は、どちらかを直感で選ぶだけでは終わりません。
人口倫理では、
どんな世界を比べる場合にも、できるだけ一貫して使える考え方を作れるか
が問われます。
たとえば、
「一人ひとりの人生の質を重視しよう」
とすると、ある場面ではうまくいっても、別の場面で困った結果が出るかもしれません。
「幸福の合計が多い世界をよいとしよう」
とすると、世界Zのような結論につながりやすくなります。
「平均的な幸福が高い世界をよいとしよう」
と考えても、また別の問題が生まれます。
つまり、
一つの問題を解決すると、別の問題が出てくる
のです。
パーフィットが苦労したのは、
「AかZのどちらが好きか」
を決めることだけではありません。
人数も、一人ひとりの人生の質も違うさまざまな未来について、できるだけ矛盾せず、納得できる判断を出せる理論を作ること
でした。
Theory Xとは何?
そこで登場するのが、
Theory X(セオリー・エックス)=理論X
という言葉です。
名前だけを見ると、
「パーフィットが完成させた特別な理論なのかな」
と思うかもしれません。
しかし、そうではありません。
ここでの「X」は、
「まだ十分には見つかっていない、私たちが探している理論」
くらいに考えると分かりやすいでしょう。
パーフィットが求めたのは、
未来の人々への責任を説明できる。
人数が違う世界も比べられる。
一人ひとりの人生のよさも無視しない。
そして、忌まわしい結論のような受け入れにくい結果についても、納得できる説明ができる。
さらに、その問題を解決するために、別の場所で新しい矛盾を生み出さない。
そんな、
人口や未来世代についてのさまざまな問題を、できるだけ一貫して説明できる理論
です。
その理想的な答えを探すために使われた名前が、
Theory X=理論X
なのです。
パーフィットが人口倫理で示した重要なことは、
「世界Aが絶対に正しい」
「世界Zが絶対に間違っている」
と簡単に答えることではありませんでした。
むしろ、
「人数が多いこと」と「一人ひとりがよりよい人生を送ること」を、私たちはどう比べればよいのか。そして、その判断をどんな場合にも一貫して使えるのか」
という、簡単には答えの出ない問いを私たちに残したのです。
人格の同一性と、未来世代の問題は同じなの?
ここまで読むと、
「人格の同一性の話から、ずいぶん遠くへ来たな」
と感じるかもしれません。
実際、未来世代や人口倫理は、人格の同一性とまったく同じ問題ではありません。
すべてを、
「人格の同一性から発展した」
と一本につなげてしまうのも正確ではありません。
しかし、パーフィットの考え方のスタイルには共通するところがあります。
それは、
私たちが当たり前だと思っている考えを、特殊な事例まで使って最後まで試してみる
という姿勢です。
人格の同一性では、
「未来の私と一人の同じ人物であることが、一番重要なのは当然だ」
という考えを問い直しました。
非同一性問題では、
「悪い行為とは、特定の誰かを、その人がそうでなければ送れた人生より悪くすることだ」
という考えだけで十分なのかを問い直しました。
人口倫理では、
「幸福が増えることはよい」
という一見もっともらしい考えを、人数が大きく変わる場合まで進めるとどうなるのかを調べました。
パーフィットは、
「この考えは普通の場合には正しそうだ」で止まらず、「では、極端な場合まで進めても本当に正しいのか」と問い続けた
のです。
晩年には「何が本当に重要なのか」へ
そして、パーフィットが晩年に大きな力を注いだ著作が、
On What Matters(オン・ワット・マターズ)=『何が重要なのか』
です。
第1巻と第2巻は2011年に刊行されました。
ここで中心となるのは、
「私は何者なのか」
という人格の同一性の問題ではありません。
もっと直接的に、
「私たちには、何をする理由があるのか」
「何をすることが道徳的に正しいのか」
を考えます。
パーフィットが特に注目したのが、これまで対立しているように見えてきた複数の道徳理論です。
その中には、
Kantianism(カンティアニズム)=カント主義
「人を単なる手段として扱わず、誰にでも成り立つような道徳の原則に従うことを重視する考え方」
Contractualism(コントラクチュアリズム)=契約主義
「誰も合理的に拒否できないような原則に従うことを重視する考え方」
Consequentialism(コンシークエンシャリズム)=帰結主義
「行為やルールがもたらす結果を見て、よりよい結果につながるものを重視する考え方」
があります。
とても大まかに言えば、
カント主義は「どんな原則に従って行動するか」
契約主義は「その原則を他の人に正当化できるか」
帰結主義は「その行動や原則がどんな結果をもたらすか」
に、それぞれ強く注目する考え方です。
もちろん実際の理論はもっと複雑ですが、ここでは三つがそれぞれ違う角度から「何が道徳的に正しいのか」を考えてきた、とつかめれば十分です。
ここも少し注意が必要です。
パーフィットは、
「カント主義も契約主義も帰結主義も、実は全部まったく同じ理論だった」と言ったわけではありません。
それぞれには重要な違いがあります。
しかし、それぞれの理論をパーフィットが最も説得力があると考える形まで整えていくと、
「結局、私たちはどのような道徳原則に従うべきなのか」という点では、かなり近いところへ集まるのではないか
と考えました。
この考えが、
Triple Theory(トリプル・セオリー)=三重理論
と呼ばれます。
簡単に言えば、
一見すると別々の道を歩いている三つの道徳理論が、慎重に考えていくと同じような道徳原則を支持する可能性がある
という考えです。
もちろん、
「これで道徳哲学の問題はすべて解決した」
ということではありません。
多くの哲学者がパーフィットの議論を検討し、反論しました。
そしてパーフィット自身も、その反論を読みながら自分の考えを修正し続けました。
最後まで、反論から考え直した
『On What Matters』第3巻は、パーフィットが亡くなった2017年1月の後、同年1月19日に刊行されました。
そこでもパーフィットは、
理由とは何か。
道徳的な真理とは何か。
他の哲学者との意見の違いを、どこまで解決できるのか。
といった問題を考え続けています。
第3巻の序文では、他の哲学者から寄せられた批判によって、自分の重要な誤りに気づき、新しい考えを得たという趣旨のことも述べています。
これは、これまで見てきたパーフィットの人物像とも重なります。
彼にとって哲学は、
一度答えを出したら、その答えを守り続けるためのものではありませんでした。
反論されたら考え直す。
間違いに気づいたら直す。
別の考えの方がよければ取り入れる。
そして、もう一度問い直す。
その繰り返しでした。
若いころには、
「何が人を一人の同じ人物にするのか」
を考えました。
そこから、
「未来の自分について本当に重要なのは何なのか」
を考えます。
さらに、
「私たちには何をする理由があるのか」
「未来の人々に、私たちはどのような責任を持つのか」
「どのような世界を、よりよい世界と考えるべきなのか」
「何をすることが道徳的に正しいのか」
へと問いを広げていきました。
だから、
「デレク・パーフィットは人格の同一性を研究した哲学者である」
という説明は間違いではありません。
しかし、それだけでは彼の哲学の全体は見えてきません。
より広く見るならパーフィットは、
「私とは何か」という問いだけでなく、「私たちは何を大切にし、何をする理由があり、現在の人だけでなく未来の人々に対してどう行動するべきなのか」を、生涯にわたって考え続けた哲学者
だったのです。
そして、扱う問題が変わっても、一つの姿勢は変わりませんでした。
「当たり前だと思っている考えは、本当に最後まで成り立つのか」
と問い続けることです。
人格の同一性を調べていると何度も出会う「デレク・パーフィット」という名前。
ここまで見てくると、その名前が人格の同一性だけではなく、現代の倫理学でも重要であり続けている理由が、少し見えてくるのではないでしょうか。
第16章 まとめ・考察
パーフィットから、私たちは何を持ち帰れるのか
ここまで、デレク・パーフィットという人物を追ってきました。
歴史を学んでいた青年が哲学へ進み、
「一人の人間が二人へ分かれたらどうなるのか」
という奇妙な問いに強く引きつけられ、
人格の同一性を考え、
そこから合理性、道徳、未来世代へと問いを広げていきました。
パーフィットについて一番覚えておきたいのは、
「同じ私とは何か」に一つの簡単な答えを出した哲学者ではなく、「私たちは本当は何を大切にしているのか」まで問いを深めた哲学者だった
ということです。
人格の同一性について考えると、
「身体が同じだから私なのか」
「記憶が続いているから私なのか」
「心理的につながっているから私なのか」
という問いが出てきます。
しかしパーフィットは、そこで終わりませんでした。
「仮に“同じ人物かどうか”とは別に、未来へ大切なつながりが残るとしたら、私たちが生存について本当に気にしていたものは何なのだろう」
と考えました。
ここからは、この記事を通して見えてきたことについて、一つの考察です。
パーフィットの哲学のおもしろさは、「私」を保存するものとしてだけではなく、“未来へ受け渡されていく関係”としても考えられるようにしたことにあるのかもしれません。
私たちは、昨日とまったく同じ人間ではありません。
知識が増えます。
考えを変えます。
忘れます。
夢を変えることもあります。
それでも昨日立てた予定を今日引き受けたり、
昔の失敗から学んだり、
現在の努力を未来の自分へ渡したりします。
そう考えると人生は、
「変わらない自分を守り続けること」
だけではなく、
「過去から何を受け取り、未来へ何を渡していくのか」
という営みにも見えてきます。

そして、もう一つパーフィットから学べるのは、結論そのものではなく問い方です。
普通なら、
「そんなこと現実には起こらない」
と終わらせてしまう分裂の思考実験を、
パーフィットは、
「では、起こったと仮定したら、今まで当然だと思っていた考えのどこが揺らぐのだろう」
と使いました。
さらに、自分の理論にも他の哲学者から反論を集め、修正を続けました。
ここから見えてくるのは、
哲学するとは、自分の考えを絶対に変えないことではなく、「どんな場合でも本当にそう言えるのか」と自分の考えを試し続けることでもある
という姿です。
これは、日常でも少し使える考え方かもしれません。
たとえば昔の写真や文章を見て、
「昔の自分は、今とは全然違う」
と思ったことはないでしょうか。
あるいは、
「昔決めたことだから、今も続けなければならない」
と思ったことがあるかもしれません。
反対に、
「昔とは考えが変わったのだから、あのころの自分はもう関係ない」
と感じることもあるでしょう。
そんなとき、
「昔と同じでいる必要はない。でも、昔の自分から何を受け取って現在の自分ができているのだろう」
と考えてみると、少し違った見方ができます。
未来についても同じです。
10年後の自分は、今とは違う考え方をしているかもしれません。
今日の出来事も忘れているかもしれません。
それでも、
今日身につけた知識。
今日決めたこと。
今日誰かにした約束。
今日始めた習慣。
そうしたものが、形を変えながら未来へつながっていくことがあります。
だから、
「未来の自分は今と同じでいてくれるだろうか」ではなく、「今の自分から未来へ、何をつなげたいだろうか」
と問いを変えてみることもできます。
もちろん、これはパーフィットの理論そのものから必ず導かれる人生訓ではありません。
この記事を通して考えた、一つの受け取り方です。
そして、パーフィット本人の姿勢からは、もう一つおもしろい考え方ができます。
意見が変わることは、
「昔の自分が間違っていた証拠」
だけではありません。
新しい理由や反論を受け取り、自分の考えを更新できた証拠でもあります。

パーフィット自身が、一度作った理論に固執するのではなく、批判を受けて何度も考え直したように、
私たちも、
「考えが変わった自分」
を必ずしも「一貫性のない自分」と考える必要はないのかもしれません。
過去から受け取りながら、必要なところは変えていく。
未来へ残したいものは残していく。
そう考えると、
「同じ私であり続けること」と「変わり続けること」は、必ずしも反対ではありません。
では、あなたならどうでしょう。
昔のあなたから、今のあなたは何を受け取っていますか。
そして、
未来のあなたへ、一つだけ何かを残せるとしたら、何を渡したいでしょうか。
第17章 疑問が解決した物語
「だから、この人が何度も出てくるんだ」
高校生だったころのノートを見つけたことから、
「昔の私と今の私は、何が同じなのだろう」
と考え始めた真琴。
調べていくうちに、
ジョン・ロック。
心理的連続性。
分裂。
R関係。
そして何度も、
デレク・パーフィット
という名前に出会いました。
最初の真琴には、それが不思議でした。
「人格の同一性を最初に考えた人でもないのに、どうしてこんなに何度も出てくるんだろう」
さらに、
Why Our Identity Is not What Matters(ワイ・アワ・アイデンティティ・イズ・ノット・ワット・マターズ)
という章題を見たときには、もっと分からなくなりました。
人格の同一性を研究しているのに、
なぜ、
「同一性そのものが重要なのではない」
というところへ進むのでしょう。
けれど、パーフィットの人生と思想を追った今なら、少し分かります。
パーフィットが重要なのは、
「何が人を同じ人物にするのか」
について、新しい答えを一つ追加したからだけではありません。
「そもそも、その問いに私たちは何を求めているのか」まで考え直したからです。
分裂の思考実験では、
「どちらが本物のAなのか」
だけにこだわりませんでした。
心理的なつながりは残っている。
でも、一人の同じ人物とは言えない。
それなら、
「私たちが生存について本当に大切にしていたものは何だったのだろう」
と問いを変えました。
真琴は、机の上に高校時代のノートをもう一度開きました。
そこには、
「将来は絶対にこの仕事をしたい」
と書いてあります。

今の真琴が目指している道とは、まったく違いました。
少し前までなら、
「昔の私は何も分かっていなかったな」
と笑って閉じていたかもしれません。
でも今回は、少しだけ立ち止まりました。
そのころ興味を持っていたこと。
その後経験した失敗。
大学で出会った人。
途中で変わった考え。
いろいろなものが少しずつつながって、今の自分があります。
「昔の私と同じ考えでいる必要はないんだ」
真琴は思いました。
そして、そのあとに続けます。
「でも、違う考えになったからといって、昔の私が何も関係なくなるわけでもないんだ」

ノートの最後の空いているページを開きました。
そこに一行だけ書きます。
「未来の私へ。今と同じ考えじゃなくてもいい。でも、どうして考えが変わったのかは、ときどき思い出してみてください。」
書いてから、少し笑いました。
未来の自分が、このノートを読むかどうかは分かりません。
読んでも、今の気持ちを忘れているかもしれません。
それでも、
現在の自分から未来へ何かを渡そうとすることには意味がある
と、今の真琴には思えました。
そして、最初の疑問にも答えが見えてきました。
「どうして人格の同一性を調べると、パーフィットが何度も出てくるの?」
それは、
パーフィットが「同じ人物とは何か」を考えただけでなく、その問いを分解し、「では、本当に重要なのは何か」まで哲学を進めた人物だからです。
そして人物としても、
一度考えた答えを守り続けるより、
反論を受け、
間違いを認め、
さらに考え直すことを続けました。
真琴はノートを閉じました。
高校時代と同じ夢を持っている必要はない。
今の答えを一生守る必要もない。
でも、
「なぜそう考えたのか」を問い続けることはできる。
それが今回パーフィットから受け取った、一番大きなものなのかもしれない。
そう思いました。
では、あなたならどうでしょう。
この記事を読む前と今とで、
「自分」というものの見え方は、少し変わったでしょうか。
そしてもし、未来のあなたが今日のあなたとは大きく変わっていたとしても――
今日のあなたから、何だけは受け取っていてほしいと思いますか。
第18章 文章の締めとして
デレク・パーフィット
その名前を初めて見たときには、
「人格の同一性について考えた哲学者」
という説明だけで十分だったかもしれません。
でも、その人物を追っていくと、少し違った姿が見えてきます。
歴史を学びながら、哲学へ進むか迷っていた青年。
人間が二人へ分かれるという奇妙な問いに魅了された研究者。
「同じ私とは何か」を考え抜いた末に、
「では、同じ私であることは本当に最も重要なのか」
と、自分が研究していた問いそのものをもう一度疑った哲学者。

そして、
反論を避けるのではなく集め、
何度も書き直し、
晩年まで、
「何が本当に重要なのか」
を考え続けた人物でした。
哲学者について学ぶとき、
私たちはつい「その人が出した答え」を覚えようとします。
パーフィットについても、
「心理的連続性」
「R関係」
「還元主義」
といった言葉だけを覚えることはできます。
けれど、この人物のおもしろさは、おそらくそれだけではありません。
一つの答えを手にしたあとに、
「でも、本当に重要なのはそこなのだろうか」
と、さらに問い続けたことにあります。
もしかすると、哲学を学ぶとは、
答えを増やすことだけではなく、
今まで疑う必要さえないと思っていた問いを、もう一度問い直せるようになること
なのかもしれません。
今のあなたが出した答えも、
10年後には変わっているかもしれません。
「自分とは何か」
という答えも、
「何を大切にしたいか」
という答えも、
少しずつ変わっていくかもしれません。
でも、それは考え続けてきた人生だからこそ起こる変化でもあります。
パーフィットが自分の哲学を何度も修正したように、
私たちもまた、
過去の自分から何かを受け取りながら、
新しい理由に出会い、
ときには答えを変えながら、
未来へ進んでいくことができます。
そしてその途中で、
「本当にそうだろうか」
と問い直すことができる。
それだけでも、哲学を知る意味はあるのではないでしょうか。

補足注意
この記事は、公開時点で確認できるパーフィット本人の情報を著者が個人で調べられる範囲でまとめ、デレク・パーフィットという人物と、その人格の同一性をめぐる思想を知るための入り口としています。
パーフィットの思想には複数の解釈があり、人格の同一性についても、心理的なつながりを重視する立場だけでなく、身体や生物としての連続性を重視する立場など、さまざまな考え方があります。
また、分離脳や意識に関する研究、パーフィットの思想史的な位置づけについても、今後の研究や新しい資料によって理解が深まったり、見方が修正されたりする可能性があります。
🧭 本記事のスタンス
この記事は、「これが唯一の正解だ」と決めるためではなく、「デレク・パーフィットをもっと知りたい」「人格の同一性について自分でも考えてみたい」と思ったときの出発点として書いています。
一つの解釈や立場だけで結論を決めず、パーフィット本人の著作や、異なる立場の哲学者たちの議論にも触れながら、ぜひあなた自身の問いを深めてみてください。
「同じ私」をたどるほど、「違う私」が見えてくる――このブログで生まれた問いをここで閉じず、次は文献を開いて、「理由」をたどり、「人格」を探り、「何が重要か」まで、あなた自身の学びをさらに深くつないでみてください。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
デレク・パーフィットの哲学は、「自分とは何か」という答えを守り続けることよりも、変わりながら問い続け、そのたびに何が本当に重要なのかを考え直すことの大切さを教えてくれているのかもしれません。


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