「1時間で56%忘れる」は本当なのでしょうか?本記事では、エビングハウスの忘却曲線の本当の意味、実験内容、節約率(Savings)の考え方、現代の心理学・脳科学から分かっている記憶の仕組み、効果的な復習方法まで、初心者にも分かりやすく解説します。

「1時間で56%忘れる」という説の真相から、エビングハウスの実験、節約率、記憶の仕組み、効果的な復習方法までをやさしく解説します。
代表例
テスト前の夜、漢字や英単語を一生懸命に覚えました。
そのときは、何も見なくても答えられたはずです。
ところが翌朝になると、昨日覚えた言葉がどうしても出てきません。
「昨日はちゃんと覚えていたのに、どうして?」
この身近な疑問を考える手がかりになるのが、心理学で知られるエビングハウスの忘却曲線です。
5秒で分かる結論
科学的に簡潔な答え
エビングハウスの忘却曲線とは、学習後の時間が長くなるにつれて、同じ内容を覚え直すときに節約できる学習時間が減っていく様子を示したものです。
実験では、学習後の比較的早い段階で節約率が大きく低下し、その後は低下が緩やかになる傾向が見られました。
ただし、
「人は1時間で、覚えた内容の56%を脳から失う」

という意味ではありません。
エビングハウスが測った中心的な指標は、記憶そのものが何%消えたかではなく、再び覚える際に、最初よりどれくらい学習時間を省けたかという節約率でした。
小学生にも分かる答え
人の記憶は、覚えたばかりのころほど、思い出しにくくなる変化が大きいことがあります。
しかし、思い出せないからといって、勉強したことが全部なくなったとは限りません。
たとえば、一度覚えた漢字を忘れてしまっても、二回目は最初より早く覚え直せることがあります。
つまり、
「答えが出てこない」と「頭の中から完全になくなった」は、同じとは限らない
ということです。
忘れた自分を責めるより、
「そろそろ、もう一度思い出してみよう」
と考えることが大切です。
1.昨日覚えたのに、どうして思い出せないの?
このようなことはありませんか?
- 昨日覚えた英単語が、今日になると出てこない
- 授業中には分かった問題が、テストでは解けない
- 本を読んだ直後は理解していたのに、内容を説明できない
- 研修を受けたときは納得したのに、仕事で使おうとすると迷う
- 人の名前を聞いた直後なのに、会話が終わるころには忘れている
- 買う物を覚えて店に入ったのに、一つだけ思い出せない
- 何度も復習したはずなのに、しばらくすると自信がなくなる
覚えた瞬間には、確かに分かっていたはずです。
それなのに、時間がたつと、記憶に薄い霧がかかったように答えが見つからなくなります。
「私には記憶力がないのかな」
「勉強した時間は無駄だったのかな」
そう不安になる人もいるでしょう。
しかし、思い出せなくなったからといって、努力がすべて消えたとは限りません。
一度学習したものは、今すぐ答えられなくても、初めてのときより早く覚え直せることがあります。
その「見えない学習の跡」を調べるために使われた方法が、エビングハウスの節約法です。
忘却曲線について、よく浮かぶ疑問
「昨日覚えたことを、なぜ今日には忘れてしまうの?」
「忘れた記憶は、本当に頭の中から消えたの?」
「1時間で56%忘れるという話は、本当なの?」
「復習すれば、忘却曲線は最初からやり直しになるの?」
「忘れないためには、いつ復習すればよいの?」
忘却曲線は有名な言葉ですが、実際の研究内容とは異なる説明も広く使われています。
特に、
20分後には42%
1時間後には56%
1日後には約70%忘れる
という数字だけが一人歩きしがちです。
けれども、これは「学校で学んだ内容が、その割合で脳から消える」という意味ではありません。
エビングハウス自身も、得られた式や数値について、特定の実験条件で得られた結果であり、他の人や条件にも同じ形で当てはまるかは分からないと述べています。
不思議な「忘れる」には、調べられた歴史があります
覚えたはずなのに、思い出せない。
忘れたはずなのに、見直すとすぐに分かる。
初めて学んだときは難しかったのに、二回目は少し楽に感じる。
こうした記憶の不思議を、実験と数字で調べた先駆者の一人が、ドイツの心理学者ヘルマン・エビングハウスです。
エビングハウスは、自分自身を実験参加者にして、意味を持たない音節を何度も覚えました。
そして、時間を空けてから同じ内容を再び学習し、最初よりどれくらい時間を短縮できたかを調べました。
研究成果は1885年(明治18年)に『Über das Gedächtnis(ユーバー・ダス・ゲデヒトニス/記憶について)』として発表されています。英訳版『Memory: A Contribution to Experimental Psychology(メモリー:ア・コントリビューション・トゥ・エクスペリメンタル・サイコロジー/記憶――実験心理学への貢献)』は、1913年(大正2年)に刊行されました。
忘れることは、単なる失敗なのでしょうか。
それとも、記憶が時間の中で変化している証拠なのでしょうか。
不思議なこの現象には、心理学で研究されてきた背景があります。
その正体を、一緒に探っていきましょう。
この記事を読むメリット
この記事を読むと、次のことが分かります。
- 忘却曲線が本当は何を表すグラフなのか
- 「1時間で56%忘れる」という説明の注意点
- 記憶が消えることと、思い出せないことの違い
- エビングハウスがどのような実験をしたのか
- 「節約率」という言葉の意味
- 忘れることを前提にした学習の考え方
- 復習するときに意識したい基本的なポイント
忘却曲線を正しく知ることは、単に心理学の言葉を一つ覚えることではありません。
勉強しても忘れてしまう自分を責めすぎず、学習方法を見直すきっかけになります。
資格試験、学校の勉強、仕事の研修、英語学習などで、
「覚えても、すぐに忘れてしまう」
と悩んでいる人にとっても、考え方を整理する手助けになるでしょう。
2.疑問が浮かんだ物語
「昨日はできたのに、今日は思い出せない」

会社員の美咲さんは、新しい会計システムの研修を受けました。
説明を聞きながら操作したときは、入力方法も保存方法も理解できていました。
「これなら、明日から一人でできそう」
そう思っていたのです。
ところが翌朝、実際に画面を開くと、最初に何をすればよいのか思い出せません。
困って先輩に聞くと、説明された瞬間に、
「ああ、そうでした」
と昨日の記憶が戻ってきました。
「忘れたはずなのに、聞くと思い出せるのはなぜだろう?」
記憶は完全に消えたのでしょうか。
それとも、思い出しにくくなっていただけなのでしょうか。
この不思議を考える手がかりが、エビングハウスの忘却曲線です。
3.すぐに分かる結論
お答えします
美咲さんが操作方法を思い出せなかったからといって、昨日の記憶がすべて消えたとは限りません。
自分では答えを取り出せなくても、ヒントを聞くと思い出せることがあります。
また、一度学んだ内容は、忘れたように感じても、初めてのときより早く覚え直せる場合があります。
エビングハウスは、この覚え直すときに省けた時間や労力を調べました。
これを「節約率」といいます。
忘却曲線が示したのは、学習後の早い時期ほど節約率が大きく下がり、その後は変化が緩やかになる傾向です。

噛み砕いていうなら、
覚えたことは、初めのうちは急に思い出しにくくなります。
しかし、思い出せないからといって、すべてが消えたとは限りません。
ということです。
なお、よく見かける、
「1時間で56%の記憶が消える」
という説明は正確ではありません。
この数字は、エビングハウスが調べた節約率を、便宜的に「忘れた割合」のように表したものです。
すべての人が、同じ時間に同じ割合で忘れるという意味ではありません。
忘れることは、勉強した努力が無駄になった証拠ではありません。
大切なのは、忘れることを前提に、もう一度思い出す機会を作ることです。
忘却曲線は、どのような実験から生まれたのでしょうか。
次の章では、エビングハウスの研究と、忘却曲線の本当の意味をもう少し詳しく見ていきましょう。
4.『忘却曲線』とは?
正式な意味を詳しく解説
忘却曲線は、よく「時間とともに記憶が消えていくグラフ」と説明されます。
しかし、エビングハウスの実験内容を正確に理解するには、それだけでは十分ではありません。
大切なのは、
何を覚えたのかではなく、何を測ったのか
を確認することです。
忘却曲線の名称、縦軸と横軸、節約率の意味を順番に見ていきましょう。

忘却曲線の名称と基本的な定義
忘却曲線は、英語で一般に、
forgetting curve(フォゲティング・カーブ)
と呼ばれます。
エビングハウスの研究に由来する曲線であることを明確にする場合は、
Ebbinghaus forgetting curve
(エビングハウス・フォゲティング・カーブ)
という表現も使われます。
日本語では、主に次のように呼ばれています。
- 忘却曲線
- エビングハウスの忘却曲線
- エビングハウス曲線
ただし、「忘却曲線」という言葉には注意が必要です。
広い意味では、学習後の時間と記憶成績との関係を表す曲線全般を指すことがあります。
一方、今回の記事で詳しく扱うエビングハウスの忘却曲線は、一度学習した内容を、時間を空けて覚え直したときの節約をもとにした曲線です。
エビングハウスが目指したのは、保持と学習後の経過時間との間に、どのような規則的な関係があるのかを調べることでした。2015年(平成27年)の再現研究でも、この曲線は「節約法」に基づくものとして扱われています。
そのため、本記事では忘却曲線を次のように定義します。
エビングハウスの忘却曲線とは、最初の学習から再学習までの時間が長くなるにつれて、覚え直す際に得られる節約がどのように変化するかを表した曲線です。
ここでいう「節約」が、この章で最も重要な言葉です。
「忘却」という名前でも、記憶の消滅を直接測ったわけではない
「忘却」という言葉を聞くと、頭の中に保存されていた記憶が、時間とともに少しずつ消えていく様子を思い浮かべるかもしれません。
しかし、エビングハウスは脳の中を直接観察したわけではありません。
また、
覚えた内容の何%を正解できたか
だけを測ったわけでもありません。
一度覚えた音節を一定時間後に覚え直し、初回の学習よりも、どれくらい短い時間で再び覚えられたかを調べました。
つまり、測定したのは、
以前の学習が、後の再学習をどれだけ助けたか
です。
この点を理解すると、
「思い出せない=記憶が完全に消えた」
とは限らない理由が見えてきます。
自力では答えられなくても、覚え直すときに初回より早く学べるなら、以前の学習の影響が行動に表れているからです。
忘却曲線は、脳内に残った記憶の量を直接示す「記憶の残量計」ではありません。
学習後の時間と、再学習で観察された成績との関係を示す曲線なのです。
忘却曲線の横軸は「経過時間」
忘却曲線を読むときは、まず横軸を確認します。
横軸が表すのは、
最初の学習から、同じ内容を再学習するまでに経過した時間
です。
左側ほど学習直後に近く、右側へ進むほど長い時間がたっています。
エビングハウスの研究では、短い間隔から約1か月後まで、複数の時点で再学習が行われました。
一般には、
- 約20分後
- 約1時間後
- 約9時間後
- 1日後
- 2日後
- 6日後
- 31日後
という間隔が知られています。
ただし、最も短い時間については、原著に15分、約19分、約3分の1時間などの記述があり、学習時間の補正方法も関係するため、厳密には単純ではありません。
2015年(平成27年)の再現研究では、エビングハウスが意図した代表的な間隔として、20分、1時間、9時間、1日、2日、6日、31日が使われました。
したがって、この数字は、
人間が必ずこの時刻に決まった量を忘れる
ことを意味するものではありません。
あくまでも、実験で再学習を行った時間の間隔です。
縦軸は「正答率」ではなく節約率
次に、縦軸を見てみましょう。
エビングハウスの代表的な忘却実験で重要となる縦軸は、
savings(セービングス/節約)
です。
これを割合で表したものを、本記事では節約率と呼びます。
節約率が高い場合は、
初回よりも短い時間で覚え直せた
ことを意味します。
節約率が低い場合は、
初回と比べて、再学習の時間をあまり短縮できなかった
ことを意味します。
したがって、曲線が時間とともに下がることは、
経過時間が長くなるにつれて、再学習で得られた節約が小さくなった
ことを表しています。
ここを、
時間とともに、脳の中の記憶が同じ割合で減った
と読み替えてはいけません。
縦軸は、記憶の物理的な量を直接測った値ではなく、再学習という行動から得られた測定値です。
節約法とは?
エビングハウスが用いた方法は、
method of savings(メソッド・オブ・セービングス/節約法)
または、
savings method(セービングス・メソッド/節約法)
と呼ばれます。
日本語では、再学習を利用することから「再学習法」と説明される場合もあります。
考え方は、次のとおりです。
- ある内容を、決められた基準まで学習する
- 一定の時間を空ける
- 同じ内容を、再び同じ基準まで学習する
- 初回と再学習に必要だった時間を比べる
エビングハウスが1885年(明治18年)に示した節約という指標は、最初に学習した経験によって、二回目の学習時間が相対的にどれだけ短くなったかを表します。
言葉だけでは分かりにくいため、具体例で考えてみましょう。
節約率を具体例で理解しよう
ある音節の並びを、最初に覚えるまで10分かかったとします。
一日後、同じ並びを覚え直したところ、6分で覚えられました。
初回より短くなった時間は、
10分-6分=4分
です。
初回の10分に対して4分を省けたため、節約率は次のように計算できます。
節約率=(初回の学習時間-再学習時間)÷初回の学習時間×100
この例では、
(10分-6分)÷10分×100=40%
となります。
つまり、節約率は40%です。
ただし、節約率40%とは、
- 問題に40%正解した
- 記憶の40%を思い出せた
- 脳内に記憶が40%残っていた
という意味ではありません。
正確には、
初回に必要だった学習時間より、40%短い時間で覚え直せた
という意味です。
この違いを理解することが、忘却曲線を正しく読むための中心となります。
「節約時間」と「節約率」はどう違う?
節約には、「時間」と「割合」という二つの見方があります。
節約時間
初回と再学習の差を、分や秒で表したものです。
たとえば、
- 初回の学習:20分
- 再学習:15分
なら、節約時間は5分です。
節約率
節約できた時間が、初回の学習時間に対してどれくらいだったかを示した割合です。
この例では、
(20分-15分)÷20分×100=25%
となります。
節約率は25%です。
節約時間だけでは、初回の学習時間が異なる場合に比べにくくなります。
同じ5分の節約でも、最初に10分かかった人と、最初に30分かかった人では意味が異なるからです。
そこで、初回の時間を基準とした割合にすることで、再学習の短縮を比較しやすくしています。
思い出せなくても「学習の跡」が見えることがある
節約法の興味深いところは、自分では思い出せない内容についても、以前の学習の影響を見つけられる可能性がある点です。
たとえば、一週間前に覚えた言葉を、何も見ずに答えられなかったとします。
本人は、
「完全に忘れてしまった」
と感じるでしょう。
しかし、同じ言葉をもう一度学んだところ、初めてのときより早く覚えられたとします。
この場合、少なくとも再学習の成績には、一度目の学習の影響が現れています。
つまり、
今すぐ思い出せない状態と、初めて学ぶ前の状態は、同じとは限りません。
記憶は、「ある」か「ない」かだけで分けられるものではありません。
- 自力で思い出せる
- ヒントがあれば思い出せる
- 見れば以前に学んだと分かる
- 思い出せないが、早く覚え直せる
というように、測り方によって異なる姿を見せます。
節約法は、その中でも「覚え直しやすさ」に注目した方法です。
2015年(平成27年)の再現研究では、一人の参加者が約70時間にわたり、音節の一覧を学習して覚え直しました。その結果、エビングハウスのデータに似た基本的な曲線が得られました。ただし、この再現研究も一人を対象としているため、人間全体に同じ数値が当てはまることを証明したものではありません。
なぜ「忘却率」とは言い切れないの?
インターネットでは、忘却曲線について次のような数字を見かけます。
- 20分後には42%忘れる
- 1時間後には56%忘れる
- 1日後には約70%忘れる
しかし、これらを、
覚えた情報が、その割合で脳から消えた
と受け取るのは正確ではありません。
たとえば、約1時間後の節約率を44%とした場合、
100%-44%=56%
となります。
この反対側の56%を、「忘れた割合」や「忘却率」として紹介することがあります。
しかし、この56%が直接表すのは、
初回に必要だった時間のうち、再学習で省けなかった割合
です。
次の三つは同じものではありません。
- 再学習で省けなかった時間の割合
- 自力で思い出せなかった項目の割合
- 脳内から失われた情報の割合
そのため、
「1時間後には記憶の56%が消える」
という表現は、エビングハウスの測定内容を正確に伝えているとはいえません。
「1時間で56%忘れる」を正確に言い換えると?
誤解を招きやすい説明は、次のとおりです。
人は、覚えた内容の56%を1時間後に忘れます。
この書き方では、
- 誰にでも同じ数字が当てはまる
- 教科書や英単語にもそのまま当てはまる
- 記憶の56%が脳から消える
- 1時間後の正答率が44%になる
という印象を与えかねません。
研究内容に近い形へ言い換えるなら、次のようになります。
エビングハウスが自分自身を対象に、意味を持たない音節を用いて行った実験では、約1時間後の再学習で得られた節約率が、およそ44%でした。これを100%から差し引き、「56%忘れた」と表現する場合がありますが、記憶の56%が脳から消えたことを意味するものではありません。
さらに短く伝えるなら、次の一文が適しています。
約1時間後に、初回の学習時間の約44%を省いて覚え直せたのであり、記憶の56%が消滅したという意味ではありません。
これが、本記事で「1時間で56%忘れる」と断定しない理由です。
忘却曲線は、なぜ急に下がってから緩やかになるの?
忘却曲線を図にすると、一般には左上から右下へ向かって下がります。
ただし、定規で引いたような一直線ではありません。
学習後の早い時期には大きく下がり、その後は下がり方が緩やかになります。
図がなくても分かるように、坂道を想像してみてください。
丘の上から坂を下り始めたときは、傾斜が急なので、短い時間で大きく高度が下がります。
しかし、ふもとに近づくと道がなだらかになり、同じ時間に下がる高さは小さくなります。
忘却曲線も、形だけを見るとこれに似ています。
ただし、曲線が下がるとは、
記憶が同じ形のまま、一定量ずつ消えている
という意味ではありません。
エビングハウスの実験についていえば、
再学習で得られる節約が初期に大きく低下し、その後は低下が緩やかになった
という意味です。
また、実際の測定値は、教科書に描かれる滑らかな線と完全に一致するわけではありません。
2015年(平成27年)の再現研究では、基本的な曲線は再現されましたが、1日後付近から節約値が一時的に予測より高くなる可能性も検討されています。研究者は睡眠との関連を論じていますが、この実験だけから原因を睡眠だと断定することはできないとしています。
忘却は、時計だけに従って機械的に進む単純な現象ではないのです。
忘却曲線から分かること
エビングハウスの曲線からは、少なくとも次の傾向を読み取れます。
特定の実験条件では、再学習で得られる節約は、学習後の比較的早い時期に大きく低下し、その後は変化が緩やかになりました。
さらに、節約法からは、
自力で思い出せなくても、以前の学習が再学習を助ける場合がある
ことも分かります。
これは、学習者にとって大切な意味を持ちます。
昨日覚えたことを今日答えられなかったとしても、昨日の努力が完全に消えたとは限りません。
覚え直すときに初回より早く学べるなら、以前の学習が次の学習を支えている可能性があります。
忘れることは、必ずしも「最初からやり直すこと」ではないのです。
忘却曲線だけでは分からないこと
一方、忘却曲線だけから、次のことを断定することはできません。
- すべての人が同じ割合で忘れる
- すべての教材が同じ速さで忘れられる
- 記憶が脳のどこから消えたか
- 1時間後に正解できる問題の割合
- すべての人に最適な復習時刻
- 復習すれば曲線が同じ形で最初に戻る
- 忘却の原因が時間だけである
- 記憶の何%が脳内に残っている
エビングハウスの原研究は、主に本人一人が、意味を持たない音節を学んだ自己実験でした。
彼の実験は、管理された刺激、時刻による影響への配慮、統計的な分析、数式による曲線の要約など、当時としては非常に体系的なものでした。
その一方で、一人の結果をそのまま人間全体へ広げられないという限界があります。2015年(平成27年)の再現研究も、この一般化可能性を検討する必要性を指摘しています。
曲線の価値を正しく理解するには、
分かったことと、まだ分からないことを分ける
姿勢が欠かせません。
忘却曲線の要点を整理しよう
ここまでの内容をまとめます。
忘却曲線とは?
学習後の経過時間と、記憶に関する測定値との関係を表す曲線です。
今回扱うエビングハウスの忘却曲線では、主に再学習時の節約が用いられました。
横軸は?
最初の学習から再学習までに経過した時間です。
縦軸は?
エビングハウスの代表的な実験では、再学習によって得られた節約率です。
節約率とは?
初回より、どの程度短い時間で覚え直せたかを表す割合です。
曲線が下がるとは?
時間の経過に伴い、再学習で得られる節約が小さくなったことを意味します。
「1時間で56%忘れる」とは?
約1時間後の節約率を44%とし、その反対側を56%と表した説明です。
記憶の56%が脳から消えたという意味ではありません。
最も大切な点は?
自分で思い出せないことと、以前の学習の影響が完全になくなったことは同じではありません。
忘却曲線を一言で説明するなら
忘却曲線について、分かりやすさと正確さを両立して一言で表すなら、次のようになります。
一度学習した内容は、時間がたつにつれて覚え直す際の助けが小さくなりますが、その変化は初めに大きく、後になるほど緩やかになる傾向があります。
忘却曲線は、
「人間はすぐに忘れるから、学習しても無駄です」
と伝える曲線ではありません。
むしろ、
「思い出せなくても、以前の学習が次の学習を助けている場合があります」
と教えてくれる曲線です。
忘れたように感じる記憶の奥にも、学習の跡が残っているかもしれません。
では、エビングハウスは、なぜ「思い出せるかどうか」だけではなく、覚え直す時間を測ろうと考えたのでしょうか。
彼はどのような時代に生き、どのような考えから、自分自身を実験参加者にしてまで記憶を調べたのでしょうか。
次の章では、忘却曲線を生み出した心理学者、ヘルマン・エビングハウスの人物像と、記憶研究へ向かった背景をたどります。
5.エビングハウスとはどんな人物?
忘却曲線を生み出したのは、ドイツの心理学者、ヘルマン・エビングハウスです。
英字では、
Hermann Ebbinghaus
と表記します。

彼は「忘却曲線を発見した人」と紹介されることが多い人物です。
しかし、本当の功績は、有名な曲線を一つ残したことだけではありません。
それまで科学的に測ることが難しいと考えられていた「記憶」を、時間や反復回数によって調べようとしたことにあります。
記憶を実験の対象にした先駆者
エビングハウスは、1850年(嘉永3年)1月24日、当時のプロイセン王国にあったバルメンで生まれました。
現在のドイツ西部に位置する地域です。
ボン大学で学び、1873年(明治6年)に博士号を取得しました。
博士論文は記憶に関するものではなく、哲学者エドゥアルト・フォン・ハルトマンを扱った研究でした。
つまり、学生時代から一貫して忘却だけを研究していたわけではありません。
後に彼は、哲学的に論じられることの多かった心の働きを、実験と数字によって調べる道へ進みました。
当時の心理学は生まれたばかりだった
心理学豆知識① 記憶は、かつて主に哲学の問題だった?
記憶は古くから、哲学者や思想家によって論じられてきました。
エビングハウス以前にも、記憶に関する観察や理論は存在していました。しかし、記憶を統制された条件のもとで繰り返し測定し、数値として比較する研究は、まだ十分に確立されていませんでした。
エビングハウスは、記憶を哲学的に考えるだけでなく、実験によって測定できる課題として発展させた重要な人物です。
19世紀後半、心理学は哲学から独立し、実験科学として形を整え始めていました。
光の明るさや音の大きさ、人が刺激に反応するまでの時間などは、すでに測定の対象になりつつありました。
1879年(明治12年)には、
Wilhelm Wundt
(ヴィルヘルム・ヴント)
が、ライプツィヒ大学に実験心理学の研究室を設けています。
一方、記憶や思考のような複雑な心の働きは、感覚や反応時間よりも実験しにくいと考えられていました。
記憶には、その人が以前から持っている知識や経験が影響するからです。
たとえば「海」という言葉を覚える場合でも、家族旅行を思い出す人と、学校の授業を思い出す人では、言葉から連想する内容が異なります。
そこでエビングハウスは、過去の知識や経験による影響をできるだけ抑えながら、記憶を測定する方法を考えました。
その工夫の一つが、意味を持たない音節を学習材料として使うことだったのです。
記憶そのものではなく、行動を測る
記憶は、定規や体重計で直接測れません。
そこでエビングハウスは、記憶によって生じる行動の違いに注目しました。
- 覚えるまで何回読んだか
- 覚えるまで何分かかったか
- 時間を空けた後、どれくらい早く覚え直せたか
こうした数値なら記録できます。
つまり、彼は、
記憶そのものは見えなくても、学習にかかる時間の変化なら測れる
と考えたのです。
現在の心理学でも、目に見えない心の働きを、正答率や反応時間、行動の変化などから推定します。
エビングハウスは、その考え方を記憶研究へ本格的に持ち込んだ先駆者の一人でした。
なぜ記憶を研究したのか?
エビングハウスが記憶を選んだ直接の理由について、本人の詳しい記録が十分に残っているわけではありません。
そのため、
ある出来事を経験したため、忘却を研究し始めた
と断定できる歴史的事実は確認されていません。
心理学史では、エビングハウスが、
Gustav Fechner(グスタフ・フェヒナー)
の著作から影響を受けたという説明が広く知られています。
フェヒナーは、物理的な刺激と、人が感じる感覚との関係を数量的に研究した人物です。
この研究は、
目に見えない心の働きも、適切な方法を使えば数字で研究できる
という可能性を示していました。
エビングハウスは、その発想を記憶へ広げようとしたと考えられています。
ただし、「フェヒナーの本を読んだ瞬間に忘却曲線を思いついた」とまで断定することはできません。
歴史上の逸話と、確実に確認できる事実は分けて読む必要があります。
なぜ自分自身を実験参加者にしたのか?
エビングハウスの記憶研究では、研究者である本人が、主な実験参加者でもありました。
彼は、自分で音節を読み、自分で覚え、時間を空け、自分で覚え直しました。
現代の研究から見ると、参加者が一人だけという設計は不十分に感じられます。
しかし、彼の実験は、短時間で終わるものではありませんでした。
大量の音節を、決められた速さと基準で、長期間にわたって学習する必要がありました。
実験方法を詳しく理解し、同じ手順を繰り返し続けられる人物として、本人が参加する方法には実用上の利点がありました。
一方、本人がなぜ他の参加者ではなく自分を選んだのかについて、細かな動機まで確認できる史料は限られています。
したがって、
費用がなかったから
他人を信用しなかったから
などと推測で決めつけるべきではありません。
自己実験の強みと弱み
同じ人物を繰り返し測定すれば、人による知識や発音、学習速度の違いを小さくできます。
その意味では、条件をそろえやすい方法でした。
しかし、弱点もあります。
参加者が一人なので、その結果が、
- 子ども
- 高齢者
- 異なる言語を話す人
- 記憶が得意な人
- 記憶に困難がある人
にも当てはまるとは限りません。
さらに、実験者と参加者が同じ人物なので、研究の目的や予想を本人が知っています。
期待、疲労、集中力、判断の癖などが、結果へ影響した可能性もあります。
エビングハウスの研究は、条件を細かく統制した点では優れていましたが、人間全体へ一般化するには限界がありました。
研究成果は1885年に発表された
エビングハウスは1870年代末ごろから記憶実験に取り組み、複数の時期にわたって測定を行いました。
研究成果は1885年(明治18年)、
Über das Gedächtnis(ユーバー・ダス・ゲデヒトニス/記憶について)
として発表されました。
英訳版は1913年(大正2年)、
Memory: A Contribution to Experimental Psychology(メモリー:ア・コントリビューション・トゥ・エクスペリメンタル・サイコロジー/記憶――実験心理学への貢献)
という題名で刊行されています。
この著作では、忘却だけでなく、
- 学習量
- 反復
- 再学習
- 系列の長さ
- 項目の位置
など、記憶に関する複数の問題が扱われました。
忘却曲線だけを発見した人物ではない
エビングハウスの研究は、忘却曲線だけにとどまりません。
繰り返し学習することの効果や、一覧の中で項目が置かれた位置による覚えやすさも調べました。
一覧の初めと終わりが、中ほどより記憶されやすい傾向は、後に、
serial position effect(シリアル・ポジション・エフェクト/系列位置効果)
として研究されるようになります。
初めの項目を覚えやすい傾向は、
primacy effect(プライマシー・エフェクト/初頭効果)
終わりの項目を覚えやすい傾向は、
recency effect(リーセンシー・エフェクト/新近性効果)
と呼ばれます。
現在使われる理論や解釈は後世の研究によって発展したものですが、系列内の位置に注目した点も、エビングハウスの重要な功績です。
エビングハウスが心理学へ残したもの
エビングハウスは、記憶のすべてを解明した人物ではありません。
実験には、参加者がほぼ一人だったことや、日常とかけ離れた材料を使ったことなど、多くの限界があります。
それでも彼は、
記憶のような複雑な心の働きも、実験によって測定できる
ことを示しました。
忘却曲線が重要なのは、「人は忘れる」と教えたからだけではありません。
忘れるという目に見えない現象を、測定できる問題へ変えたからです。
では、彼は実際に何を覚え、どのように「覚えた」と判断したのでしょうか。
次の章では、忘却曲線を生んだ実験の中身を詳しく見ていきます。
6.忘却曲線はどんな実験だったの?
忘却曲線は、単語テストの正解数を時間ごとに調べて作られたものではありません。
エビングハウスは、意味を持たない音節を順番どおりに覚え、一定時間後に同じ内容を覚え直しました。
そして、
最初の学習より、再学習に必要な時間をどれだけ短くできたか
を調べました。
ここでは、実験に使われた材料から測定方法まで、順番に見ていきます。

使われた「無意味音節」とは?
エビングハウスは、
nonsense syllables(ナンセンス・シラブルズ/無意味音節)
を学習材料として使いました。
基本的には、
子音+母音+子音
という三つの音からなる組み合わせです。
英語では、
consonant–vowel–consonant(コンソナント・ヴァウエル・コンソナント)
といい、頭文字から、
CVC
と表すことがあります。
日本語でイメージするなら、「ネフ」「ダク」「ロプ」のように、発音はできても通常の単語として明確な意味を持たない音です。
これは説明用の例であり、エビングハウスが片仮名を使ったわけではありません。
なぜ意味のある言葉を使わなかったのか?
普通の単語には、すでに知っている意味があります。
「学校」という言葉を見れば、校舎、先生、友達、授業などが思い浮かびます。
こうした知識や経験は、記憶を助ける手がかりになります。
しかし、その手がかりは人によって違います。
同じ単語を覚えても、全員が同じ条件で学習しているとはいえません。
そこでエビングハウスは、意味や連想の影響をできるだけ小さくするため、無意味音節を使いました。
原著では、詩や文章には、意味、リズム、文脈など複数の助けが含まれるため、単純な記憶の関係を調べるには複雑すぎると考えられています。
「無意味」でも完全に同じ条件ではない
無意味音節にも限界があります。
ある音は、知っている名前や単語に似て聞こえるかもしれません。
発音しやすい音と、発音しにくい音もあります。
似た音節が続けば、混同しやすくなります。
したがって、無意味音節は、
意味の影響を完全になくした材料
ではありません。
より正確には、
普通の言葉より、既存の意味や知識の影響を小さくしようとした材料
です。
13個の音節を順番に覚えた
忘却曲線に関係する代表的な実験では、13個の無意味音節からなる系列が使われました。
エビングハウスは、それらを決められた順番で繰り返し読み、最初から最後まで正しく再生できる状態を目指しました。
ただし、原著のすべての実験が13音節だったわけではありません。
研究目的に応じて、系列の長さや反復回数を変えています。
13音節という条件は、忘却曲線に関係する代表的な実験条件です。
読む速さや調子もそろえた
読む速さが毎回違えば、学習にかかった時間を正しく比べられません。
そこでエビングハウスは、一定の拍子に合わせ、できるだけ同じ速さと調子で音節を読みました。
発音の強弱や独特のリズムが、記憶の手がかりにならないようにも注意しました。
このように、調べたい条件以外をできるだけそろえることを、
experimental control(エクスペリメンタル・コントロール/実験統制)
といいます。
当時の道具は現代ほど自動化されていませんでしたが、条件を統一しようとした姿勢は、実験心理学の基本に沿っています。
どこまでできたら「覚えた」のか?
実験では、「何となく分かった」という感覚を基準にできません。
そこで、系列を最初から最後まで、決められた順番で誤りなく再生できる状態を学習の基準としました。
このような基準は、
learning criterion(ラーニング・クライテリオン/学習基準)
と呼ばれます。
初回の学習でも再学習でも、同じ基準に達するまでの時間や反復回数を測ります。
同じ到達点を使うからこそ、初回と再学習を比べられます。
学習後に時間を空け、同じ系列を覚え直した
最初の学習が終わると、一定の時間を空けました。
その後、同じ系列を再び、同じ基準まで覚え直しました。
代表的な間隔として知られているのは、
- 約20分
- 約1時間
- 約9時間
- 1日
- 2日
- 6日
- 31日
です。
ただし、原著の最短間隔には、実際の学習時間をどう扱うかによる細かな問題があります。
そのため、「人間の記憶は必ず20分ごとに測定された」と単純化せず、代表的な実験間隔として理解するのが適切です。
測ったのは再学習で省けた時間
初回の学習に1,000秒かかり、再学習には700秒かかったとします。
省けた時間は300秒です。
単純化した節約率は、
(1,000秒-700秒)÷1,000秒×100
で求められ、30%となります。
これは、
30%の音節を思い出した
という意味ではありません。
初回より30%短い時間で、同じ基準まで覚え直せた
という意味です。
この節約率と経過時間との関係を表したものが、エビングハウスの忘却曲線です。
「何回覚えたのか」に一つの答えはない
エビングハウスが何回音節を読んだのかについて、一つの固定された数字はありません。
必要な反復回数は、系列や条件によって変わったからです。
彼が知ろうとしたのは、
決められた回数を読んだ結果
ではありません。
正しく再生できるまでに、何回または何秒必要だったか
です。
必要な回数そのものが、測定対象でした。
実験の結果
学習から再学習までの時間が長くなるほど、節約率は全体として低くなりました。
その低下は一定ではありませんでした。
学習後の比較的早い段階で大きく低下し、その後は変化が緩やかになりました。
これが、現在「忘却曲線」として知られる形です。
ただし、実際の測定値が完全になめらかな線を描いたわけではありません。
複数の測定結果をまとめ、時間と節約の関係を曲線として表現したものです。
実験の優れていた点
この実験には、現在でも評価される特徴があります。
- 記憶を感想ではなく数値で表した
- 材料の意味をできるだけ減らした
- 読む速さや学習基準をそろえた
- 長期間にわたって測定を繰り返した
- 正答数だけでなく、覚え直しやすさを測った
特に節約法は、自力で思い出せない状態でも、以前の学習が再学習へ与える影響を測れる点で重要でした。
2022年(令和4年)の理論的検討でも、節約法が記憶保持の測定方法として持つ性質が改めて分析されています。
実験の限界
一方で、この実験には次の限界があります。
参加者がほぼ一人だった
結果をすべての人へそのまま広げられません。
材料が特殊だった
無意味音節は、学校で学ぶ文章、技能、顔、日常の出来事とは異なります。
実験者と参加者が同じだった
仮説や目的を本人が知っているため、期待や判断の影響を完全には除けません。
長期実験による練習効果があった可能性
実験を続けるうちに、無意味音節を覚える作業自体へ慣れた可能性があります。
現代の基準では手順の記述が十分でない部分がある
原著には詳細な説明がありますが、現在の研究報告と比べると、完全な再現が難しい箇所も残っています。
これらは、研究を無意味にする欠点ではありません。
結果をどこまで一般化できるかを考えるための条件です。
現代なら倫理審査を受けるの?
現在、人を対象とする心理学研究は、通常、開始前に倫理審査を受けます。
英語では、
Institutional Review Board(インスティテューショナル・レビュー・ボード)
略して、
IRB
と呼ばれます。
日本では、研究倫理審査委員会などの名称が使われます。
審査では、
- 研究参加への同意
- 途中でやめる権利
- 心身への負担
- 個人情報の保護
- データの管理
などが確認されます。
エビングハウスの時代には、現在のように制度化された倫理審査はありませんでした。
本人が参加者であっても、現代なら必ず倫理審査が不要になるわけではありません。
特に長時間の課題では、疲労や拘束時間への配慮が必要です。
約130年後に行われた再現研究
2015年(平成27年)、ヤープ・ムレとジョースト・ドロスは、エビングハウスの方法に近い実験を行いました。
研究は学術誌、
PLOS ONE(プロス・ワン)
に発表されています。
一人の参加者が約70時間にわたり、無意味音節の系列を学習し、複数の時間間隔を空けて再学習しました。
その結果、エビングハウスの原研究に似た基本的な忘却曲線が得られました。
一方、曲線は完全になめらかではなく、24時間後付近から節約値が予測より高くなる変化も報告されました。
研究者は睡眠との関係を可能性として考察していますが、この実験だけで原因を睡眠と断定することはできません。
また、再現研究も主な参加者が一人だったため、全員に同じ数値が当てはまることを示したわけではありません。
この実験から本当に分かったこと
エビングハウスの実験が示したのは、
人間は決まった割合で記憶を失う
という万能の法則ではありません。
特定の材料と条件のもとで、
時間がたつほど、再学習で得られる節約が小さくなる
その変化は初めに大きく、後になるほど緩やかになる
という傾向が観察されたのです。
では、この結果がなぜ、
1時間で56%忘れる
という有名な説明へ変わったのでしょうか。
次の章では、この数字の正体を整理します。
7.「1時間で56%忘れる」は本当?
最初に結論を示します。
「人は、覚えた内容の56%を1時間後に脳から失う」という意味ではありません。
56%という数字は、再学習で測られた節約率の反対側を、「忘れた割合」のように表したものです。
ここでは、数字の作られ方と、誤解しやすいポイントを整理します。

56%という数字はどこから来たの?
約1時間後の節約率を44%とした場合、
100%-44%=56%
となります。
この56%を「忘却率」として表すことがあります。
しかし、節約率44%とは、
約1時間後に、初回より約44%少ない学習時間で覚え直せた
という意味です。
したがって、残りの56%が直接表すのは、
初回の学習時間のうち、再学習では省けなかった割合
です。
記憶の56%が脳から消えたことを測った数字ではありません。
三つの数字を混同しない
次の三つは、すべて異なるものです。
再学習で省けなかった時間の割合
節約率の反対側です。
テストで答えられなかった項目の割合
正答率や再生率に関係する値です。
脳内から失われた情報の割合
神経的な記憶痕跡の消失を意味する考え方です。
エビングハウスの節約法が測ったのは、主に最初の数字です。
テストの不正解率や、脳内の記憶消失率を直接測ったわけではありません。
20分後、1日後という数字も同じ考え方
よく紹介される、
20分後には42%
1日後には約70%忘れる
という数字も、節約率を100%から差し引いた説明です。
さらに、資料によって、
- 15分
- 約19分
- 約20分
- 8時間50分
- 約9時間
など、時間表記に違いがあります。
数値の丸め方によって、表示される割合も変わります。
そのため、これらを小数点まで正確な「全人類共通の記憶法則」として扱うことはできません。
正確に言い換えるなら
「1時間で56%忘れる」を研究内容に近い形で説明すると、次のようになります。
エビングハウスが自分自身を対象に、無意味音節を使って行った実験では、約1時間後の再学習で、初回の学習時間の約44%を省くことができました。その反対側を「56%忘れた」と表す場合がありますが、記憶の56%が脳から消えたという意味ではありません。
短く表すなら、次の一文で十分です。
1時間後に記憶の56%が消えたのではなく、再学習で省けなかった時間が約56%だったという説明です。
1時間後のテストが44点になるわけではない
学習直後に100点だった人が、1時間後に必ず44点になるわけではありません。
節約率とテストの得点は、別の指標だからです。
また、忘れ方は次の条件でも変わります。
- 教材に意味があるか
- 内容を理解しているか
- 既存の知識と結びついているか
- 何回練習したか
- どのような方法でテストするか
- どれほど注意を向けたか
エビングハウスの無意味音節で得られた数値を、学校の教科書や仕事の知識へそのまま当てはめることはできません。
全員が同じ曲線で忘れるわけではない
原研究の参加者は、主にエビングハウス本人でした。
2015年(平成27年)の再現研究でも、主な参加者は一人です。
そのため、基本的な曲線の形が再び得られたことは重要ですが、
誰でも同じ時間に、同じ割合で忘れる
と証明されたわけではありません。
人による違いだけでなく、同じ人でも、学ぶ内容や状況によって結果は変わります。
思い出せないことと、消えたことは同じではない
自力では答えられなくても、ヒントを聞くと思い出せることがあります。
選択肢を見れば正解が分かることもあります。
思い出せなくても、二回目は早く覚え直せる場合もあります。
思い出すための手がかりを、英語では、
retrieval cue(リトリーバル・キュー/想起手がかり)
と呼びます。
記憶に何らかの影響が残っていても、その場面に適した手がかりがなければ、うまく取り出せないことがあります。
したがって、
今は答えられない=記憶が完全に消滅した
とは限りません。
復習すると曲線は100%へ戻るの?
復習するたびに曲線が100%まで戻る図を見かけることがあります。
学習のイメージとしては分かりやすいでしょう。
しかし、すべての学習に共通する厳密な法則ではありません。
答えを眺めるだけの復習と、自分で思い出す復習では効果が異なります。
十分に理解していない内容を繰り返し読むだけでは、長期的な保持が大きく改善しない場合もあります。
復習後の忘れ方も、毎回まったく同じ形になるとは限りません。
そのため、
復習すれば必ず記憶が100%へ戻る
とは断定できません。
最適な復習日は忘却曲線だけでは決まらない
「1日後、3日後、7日後に復習すればよい」といった予定表があります。
学習間隔を空けることには、学習科学上の根拠があります。
しかし、全員に共通する唯一の予定表はありません。
適切な間隔は、
- いつまで覚えたいか
- 内容がどれくらい難しいか
- 現在どれくらい理解しているか
- 試験まで何日あるか
- どの方法で復習するか
によって変わります。
忘却曲線は、全員に共通する復習日を直接指定したグラフではありません。
よくある誤解を整理しよう
誤解①
1時間で記憶の56%が消える。
正しい理解
再学習で省けなかった時間を、56%と表したものです。
誤解②
1時間後のテスト得点は44%になる。
正しい理解
節約率と正答率は別の指標です。
誤解③
誰でも同じ数字で忘れる。
正しい理解
原研究は主に一人の自己実験です。
誤解④
学校の勉強にも同じ数字が当てはまる。
正しい理解
原研究では主に無意味音節が使われました。
誤解⑤
復習すれば曲線は必ず100%へ戻る。
正しい理解
復習の内容、方法、間隔によって結果は変わります。
56%という数字より大切なこと
忘却曲線から学ぶべきなのは、具体的な数字への恐怖ではありません。
大切なのは、
学習した内容は時間とともに利用しにくくなることがある
しかし、思い出せなくても、以前の学習が次の学習を助ける場合がある
という点です。
「もう忘れたから、勉強は無駄だった」と決めつける必要はありません。
むしろ、
今、答えを見ずに一度思い出してみよう
と考えることが、忘却曲線を学習へ生かす第一歩です。
では、なぜ脳は学んだ情報を取り出せなくなるのでしょうか。
次の章では、海馬やシナプスなど、現代の脳科学から忘却を見ていきます。
8.人はなぜ忘れるの?脳の中では何が起きている?
「忘れた」と感じる原因は一つではありません。
そもそも十分に覚えていなかった場合もあります。
記憶が変化した場合もあります。
情報は残っていても、うまく取り出せない場合もあります。
現代の脳科学では、忘却を単なる「記憶の消去」ではなく、記憶が作られ、安定し、取り出される複数の過程から考えます。
なお、エビングハウスの忘却曲線は行動実験の結果です。
海馬やシナプスの変化を直接測った曲線ではありません。

記憶は一つの場所に保存されない
脳の中に、すべての記憶を収める一つの倉庫があるわけではありません。
見たもの、聞いたもの、場所、言葉、感情などには、複数の脳領域が関わります。
一つの出来事の記憶は、それらの情報が結びついた神経活動として成り立ちます。
その中で、新しい出来事や場所の関係を学ぶうえで重要なのが海馬です。
海馬は情報を結びつける
海馬は英語で、
hippocampus(ヒポキャンパス)
といいます。
左右の側頭葉の内側に位置します。
海馬は、特に、
episodic memory(エピソディック・メモリー/エピソード記憶)
に重要な役割を持ちます。
エピソード記憶とは、
いつ、どこで、何が起きたか
という個人的な出来事の記憶です。
海馬は、単なる一時保管箱ではありません。
人、場所、時間、行動など、出来事を構成する情報同士を結びつける働きに関わります。
ただし、海馬だけが記憶を作り、保存しているわけではありません。
長期記憶には大脳皮質も関わる
大脳の表面を覆う領域を、
cerebral cortex(セレブラル・コーテックス/大脳皮質)
と呼びます。
長期的な記憶は、海馬と大脳皮質を含む広いネットワークによって支えられると考えられています。
ただし、
最初は海馬に保存され、後で記憶がそのまま大脳皮質へ移される
という単純な引っ越しではありません。
時間とともに、記憶の詳細や意味、脳領域同士の関係が変化する可能性があります。
遠い過去の記憶に海馬がいつまで必要なのかについても、複数の理論があり、現在も研究が続いています。
神経細胞とシナプス
脳の働きを支える細胞の一つが、
neuron(ニューロン/神経細胞)
です。
神経細胞同士が情報を伝える接続部分を、
synapse(シナプス)
と呼びます。
学習すると、神経細胞間の信号の伝わりやすさが変化することがあります。
経験に応じて変化する性質を、
synaptic plasticity(シナプティック・プラスティシティ/シナプス可塑性[かそせい])
といいます。
ただし、一つの記憶が一つの神経細胞や一つのシナプスに保存されるわけではありません。
多くの神経細胞と脳領域の活動が関わります。
記憶が作られる最初の段階
情報を記憶として取り込む過程を、
encoding(エンコーディング/符号化)
と呼びます。
符号化が十分でなければ、後から思い出すことは難しくなります。
たとえば、人の名前を聞いたときに別のことを考えていれば、名前を十分に覚えていない可能性があります。
この場合、時間とともに記憶が消えたというより、
最初から十分に取り込まれていなかった
と考えられます。
「一度見た」と「きちんと覚えた」は同じではありません。
記憶固定とは?
新しく作られた記憶が、時間とともに安定していく過程を、
memory consolidation(メモリー・コンソリデーション/記憶固定)
と呼びます。
学習直後の記憶は、最初から完全に安定しているわけではありません。
神経細胞内の分子やシナプスの変化、海馬と大脳皮質を含む脳領域間の変化など、複数の時間規模の過程が関わると考えられています。
睡眠中に学習時の神経活動の一部が再び現れる、
reactivation(リアクティベーション/再活性化)
も、記憶固定と関係する可能性があります。
ただし、
一晩眠れば、すべての学習内容が確実に長期記憶になる
わけではありません。
想起できなければ「忘れた」と感じる
記憶を取り出す過程を、
retrieval(リトリーバル/想起・検索)
と呼びます。
記憶に何らかの痕跡があっても、その場面で取り出せなければ、私たちは「忘れた」と感じます。
想起には手がかりが重要です。
人の名前が出てこないときでも、
- どこで会ったか
- 何の仕事をしているか
- 名前の最初の音
を思い出すと、名前が急に出てくることがあります。
これは、数秒の間に記憶を新しく保存したというより、適切な手がかりによってアクセスしやすくなったと考えられます。
似た記憶が邪魔をする
似た情報が競合し、目的の記憶を取り出しにくくすることがあります。
これを、
interference(インターフェアレンス/干渉)
と呼びます。
古い記憶が新しい学習を邪魔する現象は、
proactive interference(プロアクティブ・インターフェアレンス/順向干渉)
です。
以前のパスワードが、新しいパスワードを思い出す邪魔をする場合などです。
新しい記憶が古い記憶を邪魔する現象は、
retroactive interference(レトロアクティブ・インターフェアレンス/逆向干渉)
です。
新しい電話番号を覚えた後、以前の番号が出てこなくなる場合などが当てはまります。
記憶は時間だけで消えるのか?
時間がたつほど忘れやすくなることはあります。
しかし、「時間」そのものが何もせずに記憶を削っていると断定するのは簡単ではありません。
時間の間には、
- 新しい情報を学ぶ
- 似た経験をする
- 眠る
- 記憶を思い出す
- 神経系が変化する
といった多くの出来事が起こります。
忘却には、記憶痕跡の変化、干渉、想起の失敗など、複数の仕組みが関係すると考えられています。
思い出すたびに記憶は完全再生されるわけではない
記憶は、録画映像をそのまま再生する仕組みではありません。
想起するとき、保存された情報、現在の知識、周囲の手がかりなどを使って、過去の出来事を再構成します。
そのため、後から聞いた情報が記憶へ混ざる場合があります。
自信が強い記憶でも、必ず正確とは限りません。
また、想起された記憶が一時的に変化しやすくなり、再び安定する過程は、
reconsolidation(リコンソリデーション/再固定化)
と呼ばれます。
ただし、思い出すたびに記憶全体が必ず書き換えられるという意味ではありません。
どの条件で変化するかは、現在も研究されています。
忘却は脳の失敗だけではない可能性
現在では、忘却を単なる受け身の劣化だけでなく、脳が情報を選ぶ過程として考える研究もあります。
これを、
active forgetting(アクティブ・フォゲティング/能動的忘却)
と呼びます。
古くなった情報や、現在の行動に不要な情報を利用しにくくすることは、新しい学習や柔軟な判断に役立つ可能性があります。
ただし、能動的忘却の細かな神経機構については、動物研究から得られた知見も多くあります。
動物で確認された仕組みを、人間の日常的な忘却へそのまま当てはめることはできません。
忘却曲線と脳科学を直接結びつけてはいけない
エビングハウスは、脳画像や神経細胞を測定していません。
彼が調べたのは、再学習に必要な時間という行動です。
したがって、
忘却曲線の急な低下は、海馬から記憶が消える時間である
曲線が緩やかになると、大脳皮質へ記憶が移る
などと対応させることはできません。
現代の研究では、
- 符号化
- 記憶固定
- 記憶痕跡の変化
- 干渉
- 想起の失敗
- 能動的忘却
など、複数の過程が研究されています。
忘却曲線の形を、一つの脳部位や一つの神経機構だけで説明できるとは確定していません。
現代の総説でも、記憶は符号化、固定、想起、忘却を通じて、多数の神経細胞と脳領域が関わる動的な過程として整理されています。
「忘れた」と感じる原因を整理しよう
人が忘れたと感じるとき、少なくとも次の可能性があります。
最初から十分に覚えていなかった
注意が不足し、符号化が十分でなかった。
記憶が十分に安定しなかった
学習後の記憶固定が不十分だった。
記憶を支える状態が変化した
神経的な記憶痕跡が時間や経験によって変化した。
似た情報が邪魔をした
新旧の記憶が競合した。
適切な手がかりがなかった
情報は残っていても、その場では取り出せなかった。
このように、「忘れた」という一つの感覚の裏側には、複数の原因があります。
まだ科学で分かっていないこと
現在でも、忘却には多くの未解決問題があります。
- 記憶痕跡が失われた状態と、取り出せない状態をどう見分けるか
- 人間の能動的忘却がどのように働くか
- 海馬が遠い過去の記憶へいつまで関わるか
- 睡眠が記憶の詳細と要点をどう変えるか
- 個人によって忘れ方が違う理由
- 感情的な記憶が残りやすい仕組み
科学的に正確な説明では、分からない部分を無理に一つの答えへまとめないことが大切です。
忘れた自分を責める前に
忘れたとき、すぐに、
「自分は記憶力が悪い」
と考える必要はありません。
十分に注意を向けていなかったのかもしれません。
似た知識が邪魔をしているのかもしれません。
適切な手がかりがないだけかもしれません。
一度も自力で思い出す練習をしていない可能性もあります。
忘却は、能力不足という一つの言葉だけでは説明できません。
脳は、過去をそのまま保存し続ける倉庫ではなく、新しい情報を取り込み、記憶同士の関係を変え、必要なものを選び続ける仕組みです。
では、忘れることは、本当に悪いことなのでしょうか。
9.忘れることは悪いこと?
「忘れる能力」が必要な理由
覚えたことを思い出せないと、私たちはすぐに、
「記憶力が悪い」
「せっかく勉強したのに無駄だった」
と考えてしまいます。
しかし、忘却は、脳が壊れている証拠ではありません。
必要な記憶まで失うことは困りますが、すべての情報をいつまでも同じ強さで思い出せることが、必ずしも理想とは限らないのです。
すべてを覚えていたら、本当に便利なのか?
昨日見た広告の細かな文字。
通勤中にすれ違った人の服装。
数年前に使っていたパスワード。
すでに変更された職場の古い手順。
これらが、大切な予定や現在のパスワードと同じ強さで浮かんできたら、必要な情報を選ぶのが難しくなるでしょう。
記憶にとって重要なのは、保存した情報の多さだけではありません。
現在の目的に合う情報を、必要なときに取り出せること
も重要です。
古い記憶が新しい行動を邪魔することがある
職場のシステムが新しくなった場面を想像してください。
新しい操作を覚えようとしても、以前のボタンの位置や手順が浮かび、間違えてしまうことがあります。
これは、8の段落で紹介した、
proactive interference(プロアクティブ・インターフェアレンス/順向干渉)
の一例として考えられます。
古い知識は役立つこともありますが、環境が変わった後には、新しい行動を邪魔することがあります。
古い情報が少しずつ利用しにくくなることは、変化した環境へ適応するうえで役立つ場合があるのです。
忘却は「容量を空ける作業」なの?
忘却について、
脳の容量がいっぱいになるため、古い記憶を削除している
と説明されることがあります。
しかし、人間の長期記憶を、スマートフォンの保存容量のように表すことはできません。
「記憶を何個入れると満杯になる」という決まった上限も分かっていません。
一方、私たちが現在の課題で同時に扱える情報には限界があります。
この働きは、
working memory(ワーキング・メモリー/作業記憶)
と呼ばれます。
作業記憶では、今の課題に関係する情報を選び、不要になった情報から注意を離す必要があります。
したがって、忘却の利点は、
保存場所を空けること
というより、
古い情報による競合を減らし、今必要な情報を選びやすくすること
として考えるほうが適切です。
細部を忘れるから、共通点を見つけられることもある
私たちは、経験した出来事のすべてを同じ細かさで覚えているわけではありません。
時間がたつと、
- 服の色
- 正確な言い回し
- 出来事の細かな順番
などは思い出しにくくなります。
一方で、
あの場面では、確認せずに行動したことが失敗の原因だった
という全体的な意味は残ることがあります。
細部が薄れることで、複数の経験に共通する規則や傾向を見つけやすくなる可能性があります。
ただし、これは常に起こるわけではありません。
重要な細部まで失われれば、誤った判断につながることもあります。
つらい記憶が変化することにも意味がある
失敗や別れなど、感情を伴う記憶は長く残ることがあります。
それでも、多くの記憶では、時間とともに細部や感情の強さが変化します。
その変化によって、過去の出来事だけに注意を奪われず、現在の生活へ戻りやすくなる場合があります。
ただし、
つらい記憶は忘れればよい
忘れられないのは努力不足である
という意味ではありません。
心的外傷に関係する記憶などは、本人の意思だけで簡単に変えられるものではありません。
忘却の適応的な面を、苦しんでいる人への責任転嫁に使ってはいけません。
すべての忘却が役立つわけではない
薬を飲む時刻。
試験に必要な知識。
危険を避けるための手順。
大切な人との約束。
これらを忘れれば、実生活に不利益が生じます。
忘却が適応的な場合があるからといって、忘れることが常に良いわけではありません。
重要なのは、
残す必要がある情報を選び、外部の道具や復習によって支えること
です。
人間の記憶に完璧さを求めるのではなく、予定表、メモ、通知、チェックリストを使うことも、賢い記憶の使い方です。
忘れる能力は、新しく学ぶ能力でもある
忘却は、覚えたものを失う現象としてだけ見ると、欠点に見えます。
しかし、古い情報の影響を弱め、新しい情報を利用できるようにする面から見ると、学習を支える働きでもあります。
忘れることは、過去を完全に消すことではありません。
現在に合わなくなった情報の優先順位を下げ、新しい行動を選ぶための仕組み
でもあるのです。
だから、忘れた自分をすぐに責める必要はありません。
必要な情報なら、もう一度思い出す機会を作ればよいのです。
10.現代では忘却曲線はどう使われている?
忘却曲線は、現代の学習サービスを考えるうえで象徴的な存在です。
しかし、現在の教育やアプリが、エビングハウスの数値をそのまま使っているとは限りません。
現代の学習では、忘却曲線だけでなく、その後に蓄積された、
- 分散学習
- 想起練習
- 正答履歴
- 問題ごとの難易度
- 学習者ごとの違い
などが組み合わされています。
資格試験では「一度で完成させない」
資格試験では、広い範囲を数週間から数か月かけて学びます。
一つの単元を完璧にしてから次へ進むと、最後の単元へ着くころには、最初の内容を思い出せなくなることがあります。
そこで、
- 学習した翌日に確認する
- 数日後に問題を解く
- 正解が続いた内容は間隔を延ばす
- 間違えた内容は早めに再確認する
という方法が使われます。
ここで大切なのは、全員が同じ日に復習することではありません。
自分の正答状況を見ながら、復習時期を調整することです。
学校では以前の知識をもう一度使う
学校教育では、以前の単元を後の授業で再び使うことがあります。
たとえば、
- 授業開始時の小テスト
- 前回の内容を思い出す質問
- 複数単元を含む宿題
- 学期をまたぐ復習
- 既習知識を利用する応用問題
などです。
ただし、先生の説明をもう一度聞くだけでは、自力で取り出す練習にならない場合があります。
答えを見せる前に、
前回は何を学びましたか?
と問い、学習者が思い出す時間を作ることが重要です。
語学学習では単語を異なる形で取り出す
語学学習では、一つの単語でも複数の使い方があります。
- 外国語を見て意味を答える
- 日本語から外国語を思い出す
- 音を聞いて単語を判断する
- 文章の空欄へ入れる
- 会話や作文で使う
カードを何度も見ただけでは、実際の会話で使えるとは限りません。
時間を空けるだけでなく、必要な場面に近い方法で取り出す練習が必要です。
『Anki』は忘却曲線をそのまま使うアプリではない
Anki(アンキ)は、質問と答えをカード形式で登録し、時間を空けて再提示する学習ソフトです。
利用者は答えを考えた後、思い出しやすさを評価します。
その履歴をもとに、次回の表示時期が調整されます。
現在のAnkiでは、
Free Spaced Repetition Scheduler
(フリー・スペースト・レペティション・スケジューラー)
略して、
FSRS(エフ・エス・アール・エス)
というスケジューラーも利用されています。
FSRSは、カードの復習履歴などに合わせて予定を調整する仕組みです。
したがって、Ankiを、
エビングハウスの忘却曲線どおりに出題するアプリ
と説明するのは正確ではありません。
個々の学習履歴を利用して、間隔反復を支援する道具
と考えるのが適切です。
『Quizlet』などのカードサービス
Quizlet(クイズレット)などの学習サービスでも、カード、確認テスト、学習履歴などが利用されています。
サービスによって機能は異なり、機能や料金体系は変更されることがあります。
そのため、「忘却曲線対応」という言葉だけで選ばず、次を確認しましょう。
- 答えを見る前に考える時間があるか
- 間違えた問題が再び出るか
- 正解した問題の間隔が調整されるか
- 自分の間違いを確認できるか
- 学習目的に合う形式か
アプリを開いた時間より、実際に記憶から答えを取り出した回数のほうが重要です。
AI教材は何を予測しているの?
心理学豆知識② AI教材は記憶を直接読んでいるの?
AI教材が、学習者の脳内を直接読み取っているわけではありません。
多くのシステムは、学習中に記録された行動から、理解度や次の問題に正解できる可能性を推定しています。
利用される情報には、たとえば次のようなものがあります。
- 過去の正解と不正解
- 解答にかかった時間
- 学習した日時
- 問題の種類や難易度
- 同じ分野での過去の成績
こうした学習履歴から、学習者がどの知識を身につけている可能性が高いかを推定する技術は、
knowledge tracing(ナレッジ・トレーシング/知識追跡)
と呼ばれます。
ただし、ここで示される理解度は、脳内に残っている記憶量を直接測定したものではありません。
画面上で観察できた回答や操作をもとにした、統計的または計算上の推定です。
教材側は、その推定を参考にして、
- 次に出す問題
- 問題の難易度
- 復習する内容
- 説明を表示するタイミング
- 学習する順番
などを調整することがあります。
このように、学習者の状態に合わせて教材や学習経路を変える仕組みを、
adaptive learning(アダプティブ・ラーニング/適応学習)
と呼びます。
ただし、AI教材にも限界があります。
学習者が授業外で何を学んだか、十分に眠れたか、体調がよいか、内容を本質的に理解しているかまで、完全に把握できるわけではありません。
同じ正解でも、内容を理解して答えた場合と、偶然当たった場合があります。反対に、理解していても操作ミスで不正解になることもあります。
そのため、AI教材が示す理解度や復習時期は、学習者の記憶を完全に表す答えではなく、学習を支えるための予測として受け取ることが大切です。
社員教育では「一度の研修」を分ける
情報セキュリティーや安全管理の研修は、一度説明を聞くだけでは、必要な場面で思い出せないことがあります。
そこで、
- 研修直後の確認問題
- 数日後の短い事例問題
- 一週間後の判断課題
- 一か月後の再確認
などに分ける方法があります。
短い教材を繰り返し提供する方法は、
microlearning(マイクロラーニング/小単位学習)
と呼ばれることがあります。
ただし、短く区切るだけでは十分ではありません。
受講者が自分で判断し、答えを取り出す内容にする必要があります。
医療教育でも間隔反復が使われる
医療従事者は、大量の知識を長期間保持し、実際の判断へ使わなければなりません。
近年の大規模研究では、家庭医や研修医を対象とした間隔反復が、学習成績と後の知識転移を改善したと報告されています。
ただし、カードで知識を覚えることと、患者を診察し、安全に処置を行うことは同じではありません。
医療教育では、
- 実技
- 症例検討
- シミュレーション
- 指導者からのフィードバック
と組み合わせる必要があります。
現代の利用から学べること
現代の学習システムが教えてくれるのは、
決まった時刻に全員が同じ復習をする
という方法ではありません。
学習者と問題ごとの成績に合わせ、時間を空けながら、何度も取り出す機会を作る
という考え方です。
11.本当に効果がある復習方法
復習というと、教科書やノートを何度も読み返すことを想像するかもしれません。
しかし、長期的に覚えたい場合、読む回数だけを増やすよりも、
時間を空けて、自分の記憶から答えを取り出す
ことが重要です。
幅広い学習技法を比較した研究レビューでは、特に練習テストと分散学習が、さまざまな条件で有用性の高い方法として評価されています。
分散学習――一度に詰め込まない
学習を複数の時点へ分ける方法を、
spaced practice(スペースト・プラクティス/分散学習)
と呼びます。
60分を一度に使う代わりに、
- 月曜日に20分
- 水曜日に20分
- 土曜日に20分
と分けます。
多数の実験をまとめたメタ分析でも、時間を空けた学習には長期保持上の利点があることが確認されています。
ただし、間隔は長ければ長いほどよいわけではありません。
翌日のテストと半年後の試験では、適切な間隔が異なります。最終的にいつ思い出したいかによって、効果的な間隔が変わることも示されています。
想起練習――答えを見る前に考える
学んだ内容を、教材を見ずに思い出す方法を、
retrieval practice(リトリーバル・プラクティス/想起練習)
と呼びます。
たとえば、
- 教科書を閉じて要点を書く
- 日本語から英単語を答える
- 章の内容を口頭で説明する
- 問題集を解く
- 自分で確認問題を作る
などです。
情報を繰り返し読むだけでなく、記憶から取り出す行為そのものが、後の保持を高めることが多くの研究で示されています。
テスト効果――テストは学習方法でもある
テストによって後の記憶が強まる現象は、
testing effect(テスティング・エフェクト/テスト効果)
と呼ばれます。
テストは、成績をつけるためだけのものではありません。
思い出そうとすることで、何を覚えていて、何が不足しているかも分かります。
ただし、間違えたまま終わらせてはいけません。
答える
→正解を確認する
→誤りを修正する
という流れが必要です。
繰り返しテストとフィードバックを組み合わせることで、長期保持が改善した研究もあります。
読み返しは無意味なの?
読み返しにも、最初に内容を理解したり、間違いを確認したりする役割があります。
問題は、読み返しただけで学習を終えることです。
文章を何度も見ると、内容が見慣れてきます。
すると、
「覚えている」
という感覚が生まれます。
しかし、見れば分かることと、何も見ずに説明できることは異なります。
次の流れへ変えてみましょう。
読む
→閉じる
→思い出す
→開いて確認する
交互学習――似た問題を混ぜる
異なる種類の問題を交互に練習する方法を、
interleaving(インターリービング/交互学習)
と呼びます。
数学なら、同じ公式を使う問題だけを連続させず、複数の問題形式を混ぜます。
すると、
どの公式を使うか
まで自分で判断しなければなりません。
交互学習は全体として効果がありますが、教材によって差があります。
視覚的な分類や似た問題の見分けでは役立ちやすい一方、単語や説明文では、必ずしも有利とは限りません。
したがって、基礎を学んだ後に、似た方法を見分ける練習として使うのが現実的です。
精緻化(せいちか)――「なぜ」を加える
新しい知識を、すでに知っている内容や具体例と結びつけることを、
elaboration(エラボレーション/精緻化)
と呼びます。
たとえば、
海馬は記憶に関係する
だけで終わらず、
海馬は出来事の人、場所、時間を結びつける働きに関係するため、昨日の体験を思い出す際にも重要になる
と説明します。
次の質問が使えます。
- なぜそうなるのか
- 日常のどこで起きるか
- 以前に学んだ内容とどうつながるか
- 反対の例はあるか
自己説明――自分の言葉へ変える
学んだ内容や問題を解く手順を、自分の言葉で説明する方法を、
self-explanation(セルフ・エクスプラネーション/自己説明)
と呼びます。
次のように問いかけます。
- なぜこの答えになるのか
- どの知識を使ったのか
- 別の例でも説明できるか
- 小学生へ説明するとしたら、どう言うか
説明できない部分は、理解が不十分な可能性があります。
ただし、自己説明も想起練習も、正しい答えの確認と組み合わせる必要があります。
少し難しい学習が役立つこともある
答えを隠す。
時間を空ける。
問題を混ぜる。
こうした方法は、読み返しより難しく感じることがあります。
しかし、学習中の楽さと、後に思い出せることは同じではありません。
努力が必要な方法を、学習者が「効果が低い」と誤解する場合があることも報告されています。
ただし、難しければ何でもよいわけではありません。
まったく理解できず、答えの確認もできない状態は、効果的な困難とはいえません。
迷ったときの復習手順
復習方法に迷ったら、次の流れから始めましょう。
少し時間を空ける
→答えを見ずに思い出す
→正解を確認する
→間違いを修正する
→再び時間を空ける
正解できた内容は次の間隔を少し延ばします。
思い出せなかった内容は、早めに再確認します。
固定された「1日、3日、7日」という予定より、自分の反応に合わせて調整することが重要です。
12.忘却曲線で誤解されやすいこと
ここでは、記事全体の要点を短く確認します。
7の段落で詳しく説明した内容は繰り返さず、「間違い」と「本当」を一組ずつ整理します。
誤解1
間違い
1時間後に記憶の56%が消える。
本当
再学習で省けなかった時間を、56%と表した説明です。
誤解2
間違い
1時間後のテスト得点は44点になる。
本当
節約率とテストの正答率は別の指標です。
誤解3
間違い
全員が同じ曲線で忘れる。
本当
原研究は主にエビングハウス本人による自己実験です。
誤解4
間違い
教科書や英単語にも、同じ数字が当てはまる。
本当
原研究では主に無意味音節が使われました。
誤解5
間違い
忘却曲線は、脳内に残る記憶量を測った。
本当
再学習に必要な時間という行動を測った研究です。
誤解6
間違い
思い出せない記憶は完全に消えている。
本当
ヒントで思い出したり、初回より早く覚え直したりする場合があります。
誤解7
間違い
復習すると曲線は必ず100%へ戻る。
本当
復習方法、理解度、間隔によって結果は変わります。
誤解8
間違い
1日後、3日後、7日後が全員に最適である。
本当
適切な間隔は、学習内容と、いつまで保持したいかによって変わります。
誤解9
間違い
同じ文章を何度も読めば、長期記憶になる。
本当
読み返しだけでなく、時間を空けた想起練習が重要です。
誤解10
間違い
一人の実験なので科学的価値はない。
本当
一般化には限界がありますが、記憶を実験的・数量的に研究した歴史的価値があります。
13.忘却曲線を実生活で活かす方法
忘却曲線を活かすとは、特定の日程へ機械的に従うことではありません。
必要な情報を選ぶ
→時間を空ける
→自分で思い出す
→確認して修正する
という流れを生活へ取り入れることです。
学生の場合
授業当日に、ノートを見ずに要点を三つ書きます。
翌日は、教科書を開く前に前日の内容を思い出します。
数日後には問題を解き、間違えた理由まで説明します。
試験前にすべてを読み返すのではなく、
自力で説明できない部分
を中心に確認します。
受験生の場合
一つの単元を完璧にしてから次へ進むより、全範囲を進めながら以前の単元へ戻ります。
過去問の間違いは、次のように分けます。
- 知識を知らなかった
- 覚えていたが出てこなかった
- 問題文を読み違えた
- 解法を選べなかった
- 時間が足りなかった
すべてを「暗記不足」と考えないことが大切です。
社会人の場合
研修資料を読んだだけで終わらせず、
- 手順を見ずに説明する
- 実際の画面で操作する
- よくある失敗へ対応する
- 翌日にもう一度行う
- 同僚へ説明する
という練習へ変えます。
仕事では、知識を答えるだけでなく、必要な状況で実行できることが重要です。
資格試験を受ける社会人
長時間を確保できない場合は、学習を小さく分けます。
通勤時間にカード。
昼休みに一問だけ記述。
週末に複数単元を混ぜた問題。
ただし、カードを機械的にめくるだけでは十分ではありません。
答えを表示する前に、実際に声や文字で答えましょう。
子どもの場合
子どもが思い出せないとき、
「昨日やったでしょう」
と責めると、学習への不安を強める可能性があります。
代わりに、
最初に何をしたかな?
と小さな手がかりを出します。
思い出せたら、次回は手がかりを少なくします。
一度に長時間行うより、短い時間を複数の日へ分ける方法も使えます。
高齢者の場合
覚える情報を一度に詰め込まず、毎日の行動と結びつけます。
たとえば、薬の時刻を単独で覚えるのではなく、
朝食を食べた後
という日課と結びつけます。
カレンダー、メモ、アラームも積極的に使います。
急に物忘れが増えた、生活に支障がある、同じことを何度も尋ねるなどの変化がある場合は、忘却曲線だけで説明せず、医療機関などへの相談が必要です。
読書内容を残したい場合
一章を読み終えたら、本を閉じます。
そして、
- 著者の主張を一文で書く
- 重要な点を三つ挙げる
- 自分の経験と結びつける
- 賛成できない点を書く
- 数日後に再び思い出す
という方法を使います。
本の文章を丸ごと覚える必要はありません。
自分の考えや行動に影響する部分を選びましょう。
人の名前を覚えたい場合
名前を聞いたら、会話の中で一度自然に使います。
別れた後に、
今日会った人の名前は何だったか
と思い出します。
次に会う前にも確認します。
人の名前は、聞いた瞬間に別のことを考えていると、そもそも十分に符号化されていない場合があります。
最も簡単な日常ルール
専門的なアプリがなくても、次の方法で始められます。
学習後に教材を閉じ、3分だけ思い出す。
翌日、一問だけ自分へ出題する。
一週間後、誰かへ説明するつもりで話す。
少ない回数でも、受け身で読み続けるより、自分で取り出す時間を作ることが重要です。
14.忘却曲線にも批判や限界がある
忘却曲線は、心理学史上、重要な研究です。
しかし、あらゆる人と教材に当てはまる完全な法則ではありません。
科学的に評価するには、功績だけでなく、限界も見る必要があります。
参加者が主に一人だった
最大の限界は、エビングハウス本人を中心とした自己実験だったことです。
一人を長期間測定すれば、参加者による違いを抑えられます。
しかし、その人の結果を、子ども、高齢者、異なる言語の話者などへそのまま広げることはできません。
研究結果を他の人や状況へ広げられる程度は、
generalizability(ジェネラライザビリティ/一般化可能性)
と呼ばれます。
無意味音節は日常の学習と異なる
無意味音節は、意味や経験の影響を減らすためには便利でした。
一方、日常で覚えるものの多くには意味があります。
- 物語
- 授業内容
- 人の顔
- 仕事の手順
- 感情を伴う体験
- すでに持っている知識と結びつく情報
無意味音節で得られた数値を、これらへそのまま当てはめることはできません。
外的妥当性の問題
研究結果が、別の人、教材、環境にも当てはまる程度を、
external validity(エクスターナル・ヴァリディティ/外的妥当性)
と呼びます。
エビングハウスの実験は、条件を細かくそろえた点で優れています。
しかし、条件を単純にするほど、現実の学習場面とは異なってきます。
これは忘却曲線だけでなく、実験研究全般にある難しさです。
生態学的妥当性の問題
実験課題が、日常生活の活動にどの程度近いかという問題は、
ecological validity(エコロジカル・ヴァリディティ/生態学的妥当性)
と呼ばれます。
無意味音節を一定の速さで読み、順番どおりに完全再生する作業は、普段の生活ではあまり行いません。
資格試験では意味を理解して問題へ応用します。
仕事では資料を参照できます。
会話では相手や場所が手がかりになります。
そのため、原実験の数字を、日常学習の予定表としてそのまま使うことはできません。
一本の曲線は個々の違いを隠す
忘却曲線は、通常、一本の滑らかな線で描かれます。
しかし、実際の測定値にはばらつきがあります。
系列の最初と最後では、覚えやすさが異なる可能性があります。
同じ人でも、体調や学習状態によって結果が変わります。
曲線は、全体的な傾向を理解しやすくするためのモデルです。
自然界に最初から一本の線が存在し、それをそのまま写したものではありません。
時間だけが忘却の原因ではない
学習から再学習までの間には、
- 新しい情報を覚える
- 似た情報に触れる
- 眠る
- 記憶を思い出す
- 疲労や感情が変化する
など、多くのことが起きます。
したがって、
時間そのものが記憶を削った
と単純に断定することはできません。
干渉、記憶固定、想起手がかりなど、複数の要因が関係します。
節約率だけが記憶の測り方ではない
記憶には、複数の測定方法があります。
- 自力で答える再生
- 選択肢から選ぶ再認
- ヒントを使う想起
- 再学習
- 技能を実行する課題
測定方法が変われば、同じ記憶でも成績が変わります。
節約法は、思い出せない状態でも以前の学習の影響を捉えられる可能性がある一方、記憶のすべてを表す唯一の指標ではありません。
現代の再現研究にも課題が残る
2015年(平成27年)の再現研究では、エビングハウスの原研究に似た基本的な曲線が得られました。
これは重要な結果です。
ただし、原実験に近い長期の自己実験を再現するため、主な参加者は一人でした。
したがって、
基本的な形は別の参加者でも再現された
しかし、全員に同じ数字が当てはまるとは確認されていない
という両方を理解する必要があります。
教材の広告にも注意する
「エビングハウスの忘却曲線に基づく」と書かれていても、それだけで効果が保証されるわけではありません。
確認すべきなのは、
- 解答履歴に応じて復習時期が変わるか
- 答えを見る前に想起させるか
- 正しいフィードバックがあるか
- 教材の内容自体が適切か
- 学習目的に合っているか
- 効果を検証した研究があるか
です。
有名な心理学用語が、広告上の飾りとして使われる場合もあります。
限界があっても価値は失われない
一人の自己実験。
特殊な無意味音節。
日常とは異なる課題。
こうした限界があるからといって、忘却曲線に価値がないわけではありません。
エビングハウスは、
- 記憶を数量的に測った
- 条件をできる限り統一した
- 長期間の反復実験を行った
- 再学習による節約を指標にした
- 時間と保持の関係をモデル化した
という功績を残しました。
適切な評価は、絶賛と否定の中間にあります。
忘却曲線は、人間の記憶すべてを説明する法則ではありません。
しかし、記憶を実験と数値で研究できることを示した、心理学史上重要な研究です。
研究の限界を知ることは、科学を否定することではありません。
何が分かり、何がまだ分からないのかを分けることこそ、科学的な読み方です。
そして、忘却曲線から私たちが受け取るべきものは、「何時間後に何%忘れる」という数字だけではありません。
思い出せないことは、学習が無駄になったことを意味しない。
忘れたと気づいたときから、もう一度学び直すことができる。
それが、忘却曲線から得られる最も実用的な教訓なのです。
15.おまけコラム
心理学コラム|なぜ最初と最後だけ覚えているのか?

心理学豆知識③ 一覧の最初と最後は覚えやすい?
単語や名前を一覧で覚えたとき、最初と最後の項目は思い出せるのに、中ほどの項目だけ出てこなかった経験はありませんか?
これは、一覧の中で情報が置かれた位置と、思い出しやすさが関係するためかもしれません。
なぜ、このような違いが生まれるのでしょうか。
まずは、簡単な記憶実験で確かめてみましょう。
人の記憶を左右するのは、学習してから経過した時間だけではありません。
情報がどのような順番で示されたかによっても、思い出しやすさが変わることがあります。
次の言葉を、一度だけ読んでみてください。
りんご
牛乳
石けん
電池
タオル
コーヒー
卵
ティッシュ
バナナ
歯磨き粉
読み終わったら、一覧を隠します。
思い出せる言葉を、順番を気にせず挙げてみてください。
最初にあった「りんご」や「牛乳」、最後にあった「バナナ」や「歯磨き粉」は出てきたのに、中ほどの言葉は思い出せなかった人もいるかもしれません。
一度の簡単な体験だけで、心理学的な効果を証明することはできません。
それでも、一覧の初めと終わりが比較的思い出されやすいという、有名な記憶現象を体験できることがあります。
系列位置効果とは?
一覧内の位置によって、項目の思い出しやすさが変わる現象を、
serial position effect(シリアル・ポジション・エフェクト/系列位置効果)
と呼びます。
一般的な自由再生課題では、一覧の初めと終わりの項目が、中央付近の項目より思い出されやすくなることがあります。
この結果をグラフにすると、両端が高く、中央が低い、U字に近い形になります。
ただし、いつも同じ形になるわけではありません。
次の条件によって結果は変わります。
- 一覧の長さ
- 項目を見せる速さ
- 項目の意味や親しみやすさ
- 思い出すまでの時間
- 回答前に別の作業をしたか
- 再生か再認かという測定方法
系列位置効果は、記憶の絶対的な法則というより、特定の条件で現れやすい傾向です。
最初を覚えやすい「初頭効果」
一覧の初めにある項目を比較的思い出しやすい傾向を、
primacy effect(プライマシー・エフェクト/初頭効果)
と呼びます。
初めの項目は、まだ覚える情報が少ないため、頭の中で繰り返したり、意味を考えたりする時間を取りやすくなります。
たとえば、最初に「りんご」と聞いた時点では、「りんご、りんご」と繰り返せます。
その後、言葉が次々に追加されると、すべての項目を同じ回数だけ繰り返すことは難しくなります。
このような復唱回数の違いが、初頭効果に関係すると考えられてきました。
ただし、初頭効果は復唱だけで決まるわけではありません。
注意の向け方、情報同士の区別しやすさ、学習時間なども影響します。
最後を覚えやすい「新近性効果」
一覧の終わりにある項目を比較的思い出しやすい傾向を、
recency effect(リーセンシー・エフェクト/新近性効果)
と呼びます。
最後の項目は、回答する直前に見聞きしたため、まだ利用しやすい状態にあると考えられます。
たとえば、電話で買い物を頼まれた直後なら、最後に言われた商品が頭に残っていることがあります。
ただし、一覧を聞いた後に計算問題などを挟むと、最後の項目の優位性が弱くなる場合があります。
つまり、新近性効果には、
一覧の最後だったこと
だけでなく、
その項目を聞いてから、何が起きたか
も関係します。
現在では、初頭効果と新近性効果を、単純に「長期記憶」と「短期記憶」の二つだけで説明するのではなく、時間的な文脈、注意、項目間の競合などを含む複数の理論から研究しています。
エビングハウスは系列位置効果を発見したのか?
エビングハウスは、音節系列の中で項目が置かれた位置によって、学習や記憶成績が変わることを初期に記述しました。
そのため、系列位置効果の歴史を説明する際に、重要な研究者として紹介されます。
ただし、現在知られている初頭効果と新近性効果の区別や、それぞれの仕組みを、エビングハウス一人が完成させたわけではありません。
その後の研究者たちが、
- 自由な順番で思い出す課題
- 項目の提示速度
- 一覧の長さ
- 回答までの待ち時間
- 回答前に行う別の作業
などを変え、系列位置効果の仕組みを詳しく調べてきました。
したがって、正確には、
エビングハウスは、系列内の位置によって記憶成績が変わる現象を初期に実験的に報告した研究者の一人
と説明するのが適切です。
系列位置効果を勉強に活かす方法
系列位置効果を知ると、
大事な内容は最初か最後に置けばよい
と思うかもしれません。
しかし、学習では、中央の情報が抜け落ちないようにする工夫のほうが重要です。
一覧を短く分ける
30項目を一つの長い一覧として学ぶのではなく、5項目から10項目程度の小さなまとまりに分けます。
ただし、小さく分けるだけでなく、後からまとまりを越えて問題を出すことも必要です。
毎回同じ順番で学ばない
単語や用語を毎回同じ順番で確認すると、知識そのものではなく、前後の位置を手がかりに覚えてしまうことがあります。
順番を入れ替えたり、ランダムに問題を出したりします。
中央から確認する
一覧の最初から読む習慣がある人は、途中で疲れ、中央以降の学習が浅くなることがあります。
ときには一覧の中央や最後から確認します。
単独でも答えられるようにする
前の項目がなければ答えられない状態では、知識を柔軟に利用できません。
項目を一つずつ取り出し、単独で意味や使い方を説明できるか確かめます。
プレゼンテーションにも使える?
人前で話すときは、最初に要点を示し、最後に結論を確認すると、内容を理解してもらいやすくなる場合があります。
ただし、
最初と最後に置けば必ず記憶される
わけではありません。
話の分かりやすさ、聞き手の関心、情報量、具体例なども影響します。
系列位置効果は、伝え方を補助する一つの知識であり、内容そのものの質を置き換えるものではありません。
忘却曲線との共通点
忘却曲線は、
学習してからどれだけ時間が経過したか
と記憶成績との関係を示しました。
系列位置効果は、
情報が一覧のどこに置かれていたか
と記憶成績との関係を示します。
二つに共通するのは、記憶力が本人の才能だけで決まるわけではないという点です。
記憶は、
- 時間
- 順番
- 学習方法
- 手がかり
- 情報の意味
- 測定方法
などの条件によって変わります。
思い出せなかったとき、
「自分は記憶力が悪い」
と決めつける必要はありません。
情報の並べ方や学び方を変えるだけで、思い出しやすさが変わることもあるのです。
16.まとめ
忘れたところから、学習は続いていく
昨日覚えたはずなのに、今日は思い出せない。
この記事は、そんな日常的な経験から始まりました。
思い出せないと、
「勉強した時間は無駄だった」
「自分には記憶力がない」
と感じるかもしれません。
しかし、忘却曲線が示しているのは、学習した内容が一定時間後に同じ割合で消滅するという話ではありません。
記憶は時間や学習条件によって変化し、思い出せなくなった後でも、以前の学習が覚え直しを助ける場合があります。
忘れたことと、何も学んでいなかったことは、同じではないのです。

忘却曲線は「記憶の残量計」ではない
忘却曲線は、脳内に何%の記憶が残っているかを直接表示するグラフではありません。
エビングハウスは主に、自分が無意味音節を覚え直すとき、初回と比べてどれだけ学習時間を省けたかを測りました。
この測定方法が、
savings method(セービングス・メソッド/節約法)
です。
したがって、有名な数字だけを取り出して、
1時間後には、全員が記憶の56%を失う
とはいえません。
この点は記事全体で最も重要な事実なので、最後に一度だけ確認しておきましょう。
大切なのは、忘れないことではない
人間は、学んだことを完全な形で保存し続けることはできません。
また、すべての情報を永久に覚えている必要もありません。
重要なのは、
自分に必要な情報を、必要な場面で取り出せるようにすること
です。
そのためには、
- 一度に詰め込まない
- 時間を空ける
- 答えを見る前に思い出す
- 正解を確認する
- 間違いを修正する
- 必要に応じて再び学ぶ
という流れが役立ちます。
復習とは、記憶を100%へ戻す作業ではありません。
知識を取り出しやすくし、理解を修正しながら、次に使える形へ作り直す作業です。
忘却をすべて美化してはいけない
忘却には、古い情報による競合を減らし、変化した環境へ適応しやすくする面があります。
しかし、すべての忘却が役立つわけではありません。
大切な約束。
安全に関わる手順。
薬を飲む時刻。
仕事や試験に必要な知識。
こうした情報を忘れれば、現実的な不利益が生じます。
そのため、人間の記憶だけに頼らず、
- メモ
- カレンダー
- 通知
- チェックリスト
- 学習アプリ
- 周囲の人による確認
などを使うことも大切です。
道具を使うことは、記憶力の弱さを認めることではありません。
人間の記憶の性質を理解し、それに合った環境を作ることです。
「忘れるから成長できる」の本当の意味
忘れるだけで、人は自動的に成長するわけではありません。
忘れた後に、
- もう一度思い出そうとする
- 間違いに気づく
- 正しい情報を確認する
- 新しい知識と結びつける
- 古い考えを修正する
という行動を取ることで、学びは更新されます。
「忘れるから人は成長できる」という言葉を、より正確に表すなら、次のようになります。
人は忘れるからこそ、何を残すかを選び、学び直しながら、知識を現在に合う形へ変えていける。
過去の情報を一字一句保存することだけが、記憶の役割ではありません。
新しい経験と結びつけ、これからの判断や行動に使えるようにすることも、記憶の大切な役割です。
思い出せなかった瞬間を利用する
答えが出てこなかったとき、すぐに教材を開く前に、数秒だけ記憶を探してみてください。
「最初の文字は何だったか」
「どの場面で学んだか」
「似た内容はなかったか」
と、手がかりを探します。
それでも思い出せなければ、答えを確認します。
そして、翌日か数日後に、もう一度、答えを隠して考えます。
この流れによって、
忘れたという経験
を、
次の復習時期を知らせる情報
へ変えられます。
思い出せなかったことは、失敗の判定ではありません。
今の学び方では、まだ十分に取り出せないと分かったということです。
忘却曲線が本当に教えてくれること
忘却曲線は、人間の記憶力の低さを証明するための曲線ではありません。
全員に同じ復習日を命令する予定表でもありません。
忘却曲線から学べるのは、次のことです。
記憶は時間とともに変化する。
思い出せなくても、以前の学習の影響が残っている場合がある。
学習方法や復習の仕方によって、その後の覚えやすさは変わる。
人は忘れます。
それでも、一度学んだ経験を土台にして、もう一度思い出し、理解し直し、知識を作り直すことができます。
「忘れてしまった」と気づいた瞬間は、学習が終わった瞬間ではありません。
そこから、次の学習が始まるのです。
17.疑問が解決した物語
「昨日はできたのに、今日は思い出せない。」
あの日、美咲さんは、自分の記憶力が悪いのだと思っていました。
しかし、この記事を読み終えた今なら、その出来事を違う視点で見ることができます。
翌日、操作方法を思い出せなかったのは、学んだ内容がすべて消えてしまったからではありませんでした。
先輩から少し説明を受けると、
「ああ、そうでした。」
と昨日の記憶がよみがえったのは、一度学んだ経験が完全になくなっていたわけではなかったからです。
もちろん、その記憶がどのような状態で残っていたのかは、現在の研究でもすべてが解明されているわけではありません。
それでも、思い出せないことと、何も学んでいなかったことは同じではないと考えられています。
その日から、美咲さんは学び方を少し変えました。
研修が終わったら、資料を閉じて操作手順を自分の言葉で説明してみる。
翌日は、すぐにマニュアルを開かず、まずは思い出せるところまで操作してみる。
間違えたところだけを確認し、数日後にもう一度復習する。
「忘れないように頑張る」のではなく、
「忘れることを前提に、思い出す機会を作る」
という考え方へ変わったのです。

すると、不思議なことに、「忘れてしまった」と焦る回数は減り、以前より落ち着いて学び直せるようになりました。
忘れることは、学習の失敗ではありません。
何を復習すればよいのかを教えてくれる、大切なサインでもあります。
もし今、あなたにも、
「昨日は分かっていたのに、今日は思い出せない。」
そんな経験があるなら、自分の記憶力を責める前に、一度だけ立ち止まって考えてみてください。
それは、本当に「忘れてしまった」のでしょうか。
それとも、もう一度思い出すことで、より長く残る知識へ育てられる途中なのかもしれません。
この記事が、記憶との付き合い方を少しでも前向きに考えるきっかけになれば幸いです。
18.文章の締めとして
忘却曲線という名前は知っていても、その意味や背景まで詳しく知る機会は、それほど多くありません。
この記事を通して、「1時間で56%忘れる」という有名な話の本当の意味や、エビングハウスが何を実験し、何を明らかにしようとしたのかを、一つずつ理解していただけたなら幸いです。
私たちは、何かを忘れるたびに、「自分は記憶力が悪い」と考えてしまいがちです。
しかし、忘れるという現象を正しく知ることで、その見方は少し変わるかもしれません。
忘れたことを責めるのではなく、もう一度思い出してみる。
思い出せなかったら、もう一度学んでみる。
その小さな積み重ねが、昨日の自分より少し成長した今日の自分をつくっていくのだと思います。
心理学は、人の心や行動を分析する学問ですが、同時に、自分自身との向き合い方を教えてくれる学問でもあります。
今回の記事が、勉強や仕事だけでなく、毎日の「覚えること」や「忘れること」に対する見方を少しでも変えるきっかけになれば、とてもうれしく思います。
注意補足
本記事は、筆者が個人で調べられる範囲での情報でエビングハウスの研究、心理学、などの文献や研究を参考に、調査・整理した内容を、できるだけ分かりやすくまとめたものです。
ただし、科学の世界では、一つの研究だけで物事が完全に証明されることはほとんどありません。
忘却や記憶の仕組みについても、現在も世界中で研究が続けられており、研究手法の進歩や新しい発見によって、これまでの考え方や解釈が見直される可能性があります。
また、同じ研究結果であっても、研究者によって解釈や重視する点が異なることがあります。

🧭 本記事のスタンス
本記事の内容は「唯一の正解」としてではなく、現在の研究から考えられている代表的な考え方の一つとして読んでいただければ幸いです。
もしこの記事をきっかけに、
「もっと詳しく知りたい」
「別の研究ではどのように説明されているのだろう」
と興味を持っていただけたなら、とてもうれしく思います。
心理学や脳科学は、今も新しい発見が積み重ねられている学問です。
この記事が、記憶について考え、自分自身で調べ、学び続けるための入り口になれば幸いです。
このブログで芽生えた「知りたい」を忘れずに、忘却を知る学びから、記憶をめぐるさらに深い学びへと歩みを進めてみてください。
最後まで読んでいただき、
本当にありがとうございました。
忘れることは終わりではなく、よりよく学び、よりよく成長していくための新しい一歩を教えてくれているのかもしれません。


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