天武天皇(大海人皇子)とは?日本を動かした武闘派天皇と愛の人
日本のはじまりに立つ男
日本の歴史を語るうえで欠かせない人物、それが天武天皇(大海人皇子/おおあまのおうじ)です。壬申の乱(じんしんのらん)に勝利して、天皇の権力を強めた彼の存在は、日本の国家体制の基盤を築いたといっても過言ではありません。
この記事では、そんな天武天皇の生涯と、彼の「凄さ」に迫っていきます!
天武天皇(大海人皇子)とは?
生没年:不明〜686年(和暦 朱鳥元年)
出身地:奈良県(当時は飛鳥地方)
出自:父は舒明天皇(じょめいてんのう)、母は皇極天皇(こうぎょくてんのう)という、まさに皇族の中でも超エリートな血筋に生まれました。
大海人皇子は、兄である天智天皇(てんじてんのう)のあとを継ぐ立場でした。しかし、ここで思わぬ事態が起こります。
古代史最大の内戦「壬申の乱」
兄・天智天皇は、実子である大友皇子(おおとものおうじ)に皇位を継がせたくなったのです。
しかも、天智天皇は「目的のためなら非情な手段も辞さない」と恐れられていた人物。大海人皇子は、自らの命に危険を感じ、朝廷を離れて僧侶の姿になり身を隠します。
しかし、671年に天智天皇が死去。翌年、大友皇子が軍を挙げたことで、古代日本最大の内戦「壬申の乱(じんしんのらん)」が勃発しました。
この戦いは、たった一ヶ月間にもかかわらず、壮絶な激戦が繰り広げられました。そして、最終的に勝利したのは大海人皇子!
こうして大海人皇子は即位し、天武天皇となったのです。
🌸 天武天皇(大海人皇子)目線で語る「大友皇子」とは
わたしにとって、大友皇子(おおとものおうじ)とは、 兄・天智天皇(てんじてんのう)の子、 つまりわたしの甥(おい)にあたる存在でした。
まだ若かった彼は、
頭も良く、武芸にもたけた才能ある皇子でした。
兄である天智天皇は、そんな大友皇子に、国を託したいと考えるようになったのでしょう。
わたしはもともと、
「天皇の後を継ぐ者」として育てられてきましたが、
血を分けた甥に対して、あからさまに争いを挑む気持ちは持ってはいませんでした。
しかし――
時代の流れ、権力の渦は、わたしと大友皇子を避けられない運命の道へと導いてしまったのです。
彼もまた、
父・天智天皇の期待を背負い、
「この国を守らなければならない」という強い使命感に燃えていたのでしょう。
だからこそ、
わたしの存在を脅威に感じ、先に兵を挙げてきたのだと思います。
わたしと大友皇子――
この二人の争いは、
ただの「権力争い」ではありませんでした。
それは、
「国の未来をどう築くか」という、
それぞれの正義と信念がぶつかった戦いだったのです。
たとえ結果として、
わたしが勝ち、彼が散ることになったとしても、
わたしは彼を、
ただの敵とは思いません。
大友皇子もまた、
未来を真剣に思い、懸命に生きた一人の若き皇子だったと。
🌟 壬申の乱で天武天皇がとった「すごい戦略と戦術」
壬申の乱は、今でいう奈良県・滋賀県・三重県あたりを中心に行われた、
いわば「日本初の本格的な内戦」です。
お互いに、
わたし(大海人皇子)側(東軍)
大友皇子側(西軍)
に分かれて、天下をかけて戦ったのです。
でも、ただ「力と力でぶつかった」わけではありません。
わたしは緻密な作戦と人心掌握(みんなの心をつかむこと)で勝利を引き寄せました。
「売られた喧嘩は、買わねばならぬ」
わたしは、ただ力任せに戦うのではありませんでした。
まず、地元の有力者たちに味方になってもらい
敵の動きを探り、情報を集め
戦う前から勝つための準備を整えたのです。
そして、兵たちをすばやく動かし、重要な川や橋を押さえました。
さらには、敵の食料の道を断ち、戦わずして弱らせる作戦もとりました。
みんなと心を一つにして戦ったからこそ、わたしたちは勝つことができたのです。

政治改革と「八色の姓(やくさのかばね)」
天武天皇が成し遂げた最大の業績のひとつは、天皇家中心の身分制度を確立したことです。
具体的には、「八色の姓(やくさのかばね)」という新しい身分制度を作り、天皇を頂点とする政治体制を整えました。これによって、天皇が圧倒的な権力を持つ国家の仕組みができあがったのです。
また、天武天皇は日本最古の法体系である律令制度の礎を築き、後の奈良時代の国家体制に大きな影響を与えました。
まさに、「日本という国のかたち」を作った人といえるでしょう!
🌸 天武天皇目線で語る「八色の姓(やくさのかばね)」
壬申の乱に勝ち、わたしは天皇となりました。
しかし、ただ戦に勝っただけでは、国はまとまりません。
そこで、わたしは考えました。
「天皇を中心に、国全体をしっかり支える仕組みを作ろう」
こうして生まれたのが、
「八色の姓(やくさのかばね)」です。
これは、人々の身分や役割を8つのランクに分け、
誰がどんな立場で国を支えるのかを、
はっきりと示す制度でした。
🌟 「八色の姓」とは何か?
簡単にいうと、
人々の身分や役割を8つのランクに分け、
それぞれに「姓(かばね)」を与えた制度です。
上から順番に、
真人(まひと)
朝臣(あそん)
宿禰(すくね)
忌寸(いみき)
道師(みちのし)
臣(おみ)
連(むらじ)
稲置(いなぎ)
というように、
地位や功績によって、はっきり分けました。
とくに、
「真人(まひと)」という最高ランクは、
天皇にとても近い血筋の者たちにしか与えられませんでした。
国に仕える者たちが、
それぞれの役割を胸に、誇りを持てるようにしたのです。
八色の姓は、平和な国づくりへの第一歩でした。

武闘派でありながら、愛情深い人物だった
天武天皇には「武闘派」のイメージがあります。
事実、彼は幼い頃から武芸に秀で、戦場では勇猛果敢なリーダーでした。天智天皇が大友皇子に皇位を譲ろうとしたとき、怒りのあまり酒宴の席で槍を床に突き刺したという逸話も伝わっています。
壬申の乱でも、「売られた喧嘩は買う!」というスタンスを貫き、激しい戦いを戦い抜きました。
しかし、そんなバイオレンスな一面とは裏腹に、家族への愛情は非常に深かったのです。

息子たちへの願い
自ら皇位争いの過酷さを知っていた天武天皇は、息子たちに「互いに争わず、助け合って政治を行うこと」を誓わせ、優しく抱きしめたと伝えられています。

妻・鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)への愛
また、天武天皇の正妻であり、後に持統天皇(じとうてんのう)となる鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が病に倒れたとき、彼はその回復を強く願い、薬師寺(やくしじ)を建立(こんりゅう)したと伝えられています。
薬師寺とは、病気平癒の祈りを込めた仏教寺院です。
つまり、戦場では鬼のように強く、家庭では愛に満ちた父であり夫であったのです。

🌸天武天皇目線で語る「鸕野讃良皇女との結婚」
わたしが人生の中で、とても大切にした人がいます。
それが、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)――
のちの持統天皇(じとうてんのう)です。
彼女は、実はわたしの兄、天智天皇の娘でした。
つまり、
わたしにとっては姪(めい)にあたる存在だったのです。
今でこそ不思議に思う方もいるかもしれませんが、
当時のわたしたち皇族にとっては、
血筋を守り、王家を強く結束させるために、
近い血縁同士で結婚することは特別なことではありませんでした。
それ以上に、
わたしにとって鸕野讃良皇女は、
運命に導かれたかのような、大切な存在でした。
彼女は聡明で、
心の奥に、たしかな強さと優しさを持っていました。
わたしたちは互いに支え合いながら、
荒れた時代を乗り越え、
新しい日本の未来を築こうと誓い合ったのです。
天武天皇(大海人皇子)から学べること
天武天皇から私たちが学べることは、
戦うべきときは全力で戦う
愛すべきときは惜しみなく愛する
という、強さと優しさを両立させる生き方です。
ただ強いだけではない、ただ優しいだけでもない。状況に応じた「強さ」と「愛」を、天武天皇は見事に体現していたのです。
【注意】本記事について
今回ご紹介した内容は、筆者が信頼できる資料や研究をもとに整理したものですが、古代史には諸説あり、すべてが確定された真実とは限りません。
また、これからも歴史研究が進むことで、新たな発見や解釈が登場する可能性があります。ぜひ他の研究成果もあわせてご覧いただき、自分自身でさまざまな視点から歴史を楽しんでいただけたら嬉しいです。

最後まで読んでいただき、
ありがとうございました。

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