ーーーかあさんぐま
小さなこぐまはきかんぼうでかあさんぐまの言うことを聴きません。川でマスを捕まえようとするのを止められると、違う動物になると言って何処かに行ってしまいます。色々な動物になろうとしたもののどれも上手にできずに戻ります。
そんな、きかんぼうで自分勝手に出ていった子熊を優しく迎え入れた母グマの器の大きさと、ゆとりの心があるからこそ言葉に胸を打たれました。
全てを見透かしたように、優しく対応する母熊、子熊に、おまえは熊なんだから、まだ小さいだけだからと諭し、優しく許す母熊。
子育てはこんなにも優しく、おおらかに、子供を許せるものなのでしょうか?
今の母熊が子熊だった時には、その母熊が優しく諭してくれたのかも知れませんし、子供の時の事を考え返せば、自分も親に同じようにきかんぼうな態度を取っていたと、思い出せるのかも知れませんし、今回のように誰もが親から子へと愛情を伝えていくのでしょう。
けれども、私には子供がおこなっている事が自分勝手な振る舞いであり、自分や他者にとって気に障る行為だとしたら、ここまで優しく向かい入れる度量はとてもありません。
今回の子熊のように、母熊は、子熊が出来ないことを無理にやろうとしていたから止めただけなのにも関わらずに子熊は怒り出し、あまつさえ違う動物になると言って出ていってしまった子熊。
そのうえ好き勝手に色々な事を試したけれども結局は上手にできなかったからといって、戻ってきた子供を、若気の至りとだからと笑って許せる度量は、とても身についていません、親としての度量は何処で身につけるべきなのでしょうか?
それともこのようなことぐらいのことは、子育てでは想定内の事柄なのでしょうか?
どうせ熊は熊にしかなれない、無理だと言ってすぐに戻ってくる事であり、その様に経験をさせることも子育てでは必要な事であり、目くじらをたてるにもあたいしないことなのでしょうか?
色々な経験をした、親の元から飛び出せる行動力を認めてあげる事案なのでしょうか?
器の大きい親になることは難しいと感じられた、心に響いた感銘を受けた言葉でした。
物語の親子の熊は、寒い北の国の草原にいます。子熊は母熊と一緒に歩き回り、木苺を探したり根っこ堀をしたり、魚の捕り方を教わります。
ある時子熊は、水が冷たく流れも早い川でマスを捕まえようとします、まだ小さいからと止める母熊に反抗する子熊。
捕れるまで川から出ないと言い出す子熊ですが、寒くて震えています。みかねた母熊が子熊を咥えて岸に引きずり出すと、子熊は怒り出してしまいます。
もう、熊なんか嫌だ、違う動物になる!と言って走って行ってしましました。
最初に違う動物になろうと挑戦したのは、ハタリスでした。
しかし、ハタリスのように口笛を吹いても面白くないと思い諦めます。
次はトナカイです、しかしトナカイのように早く走っても楽しくないと考えて諦めます。
次はカモです、それも飛んだり水に潜るのは楽しくないと諦めます。
どんな事も楽しくないと理由をつけて、諦めてそまっていると考えるのがただしいのでしょうか?それとも子熊の本能がやめておけと忠告してくれているので楽しくないのでしょうか?
どれもこれもすぐに止めてしまう事に、諦めが早すぎると感じるのが正しいのか、見切りが早いと考えるのが正しいのでしょうか?
わかりかねます…
そうこうしていると、子熊を母熊が迎えに来てくれます。
何になったの?と優しく訊き出す母熊。
このような態度がとれるのも、結果の分かっている事柄だからこその優しさなのでしょうか?
それとも自愛に満ちた母の愛情なのでしょうか?
なににもならなかった、くまがいい!と答えた子熊に対して母熊は
それは よかったね
絵本 きかんぼうのこぐま より引用
と優しく答えます。
子供が間違った道へ進まなかった事への安堵なのか、子供に対する愛情なのか、優しさのあふれる母熊の言葉でした。
親子の熊のやり取りを、直接読みたい場合は
きかんぼうのこぐま 再話 V・グロツェル G・スネギリョフ アジア・エスキモーの昔話
訳 松谷さやか 絵 おくはらゆめ
こどものとも年中向き 2022年2月号 通巻431号 福音館書店
を是非読んでみてください。
皆様には、どの様な新しい響きがあるのか楽しみです。
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