まどのむこうの

絵本

ーーー切り取られた枠組み

言葉の使われた状況

一部分を切り取った枠があり、枠から次のページに描かれている果物が見られます。一部を切り取った枠なので、描かれた果物が見えるのも一部分です。ページを捲ると全体の果物絵が見られ、裏ページには半分に切られた果物が描かれています。その絵も一部分に切り取られた枠から見ることが出来ます。

心に響いた事

窓の向こうを見ていると、いかにもすぐに描かれている絵どんな果物を切り取った絵なのかが分かる物もあれば、ちょっと見ただけではハッキリとは判別できない果物もありました。

私が今まで如何に、一部分だけを意識して果物を見ていないということなのでしょうね。

さらには、まじまじと見ていると、あの果物だとは思うけれどもこんな部分が有ったのか?このような部分は何処なのだろう?と感じてしまう絵も有りました。

『ゲシュタルト崩壊』が起たかのような感覚がうまれました。

全体から切り取って一部だけを見ていると、その一部分のみの情報のみを意識して何かを生み出そうとする意識が強まるのでしょうか?脳はそのような構造になっているのでしょうか?あくまでも果物の一部分の絵なのにも関わらすに、その枠から見られる絵から顔の表情が描かれているようにも感じられました。絵文字のような感覚でした。

全体の一部分しか見られないからこそ、その部分をより詳しく見てみよう、より詳しく観察してみようと、その部分にだけ意識が強まるという効果があるのかもしれませんね。

大きな物事を見るよりも、区切られた時の方が、より集中できるのかもしれませんね。

その気持のままページを捲ると、大きな絵が目に入っても不思議と、次に視線が向かうのは先程の区切られた部分でした。

さらには、今までは気にしないような細かい部分までも、気にして見てみたくなりました。

全体の絵を見ているにも関わらずに、区切られて見ていた場所に目がむくと、先程と同じ絵を見ているはずなのに、本当にこの部分が先程区切られて見ていた部分なのか?感じてしまい凝視て観察して確認しようとしてまうこともありました。

一つの絵を、全体で見ているか、一部分で見ているか、という見方の違いなのだから、同じ絵のはずだ、と理解しているハズなのに、どうしてもこの部分を見ていたのか?とマジマジと確認したいという欲求が生まれてきました。

そんな感覚が芽生えた後に次のページを捲ると、半分に切られた果物の全体の絵が目に入ります、そのページを捲ると、半分に切られた果物の全体の絵の一部分が見られるようになっています。

その半分に切られた果物の一部分を見ていると、今度は違う部分の一部はどの様に見えるのか?との考えが浮かんできました。

そして改めて観察してみようと、ページを戻り果物の半分に切られた全体が描かれているページを開きました。

全体の果物の絵だけならば、そこまでじっくりと見ることもなく、この絵はこの果物の絵なんだな、半分に切られた果物の絵はこんな状態なんだな、と全体を見て終わりだと思います。

けれども、切り取られた部分を見ることによって、その部分がほかの場所だったらどの様に見えるのか?という欲求がうまれてくるのですね。

なにも感じずに、なにも意識しないで眺めれば目に写ったという事で終わりですが。

何かを意識する、何を見ようとするのかと思考するだけで、見えるものや感じ取れる事が、これ程までに変わるのだと、吸収できる情報も変わるのだなと感じられた、心に響いた、感銘を受けた場面でした。

また、枠を切り取ったページの裏の色は、次のページに描かれている果物の色で塗られているのですが、枠を切り取ったページから次の果物の一部が見えているので、何色で塗られているのかを容易に想像ができるはずなのですが、めくる前に半分に切られた果物の色が目に入ってしまうために、意識がそちらに引っ張られてしまうのか、半分に切られた果物の色でページが塗られているのではないか?と考えてしまう事があり、想像した色と、実際のページの色が一致せずに、違和感が生まれることも有りました。

次のページで描かれている果物の色で塗られているのだと、改めて理解をした上でページを捲ることができれば、認識と事実の色は一致するのですが。

意識のズレは簡単に起きてしまうのですね。

このような思考のズレから記憶が、誤ってしまう事があるのかと思うと怖いです。

いかに意識は流されやすいのか、移ろいやすいのか、さらには無意識の部分がこれ程までに脳に影響を及ぼしやすいのか、と考えさせられた絵本でもありました。

一部分をじっくりと観察するという事は、今まで見ているつもりでも、全く見ていなかった、意識すらしていなかったの部分があるのかを感じられる行為なのだと感じさせられました。

反対に一部分を意識すると全体を見ようとしても、一部分だけを見ようと脳は躍起になってしまうものなのかもしれないということを理解しなければ危険だということも考えさせられました。

人間の一部分の良いところをだけをみて、信用しすぎてしまったり。

反対に悪い一部分見た事で、この人は悪人なのではないかと。悪いところだけを見よう見ようとしてしまう。そのような意識が生まれてしまう危険があるのだろうと、考えさせられます。

私もそうだし、他人も人間ならばそうなのかも知れませんね。

他人もそのような脳の構造ならば、自分がもしも細かく細かくあら捜しをされたとしても、許す心を持てるのかも知れませんね?持てるのでしょうか??持たなくてはいけないのでしょうか???

一部分を詳しく見るということは、自分自身に対してもまだまだ意識すらしていない部分、どのようなことが好きで、どのようなことに興味を持てるのか、ということにが分かっていない時に、大きな感覚で分かろうとするのではなく、もっと細かく細分化して、まずは小さなきっかけからでも、自分を知ることも必要だなと感じさせられました。

物語の流れ

表紙の一部が切り取られており、ページを開いた先の果物の一部が見えます。

始めに描かれているのはイチゴでした。ページを開くとイチゴ全体が描かれています。

先程一部分が切り取られたページの裏側は、イチゴの色で塗られています。

更にページを捲ると、イチゴが描かれたページの裏側には、イチゴが半分に切られた全体絵が、描かれています。

次のページは真っ黒に塗られていますが、このページもまた一部分が切り取られており、次の果物の一部分が見られるようになっています。

ページを捲くり2つ目に描かれている果物はメロンでした。

左側のページはメロンの色で塗られていますが、一部分が切り取られているために先程描かれていた、半分に切られたイチゴの絵の一部分が見られます。

果物の一部分の絵と全体の絵、半分に切られた果物の全体の絵と、半分に切られた果物の一部分の絵が見られる、という流れで絵本を見ていけます。

最後のページも一部分が切り取られています、その窓から覗くことが出来た言葉は

まどのむこうの くだもの なあに?

まどのむこうのくだものなあに? より引用

でした。

細かい部分を観察する意識も、全体を見みる事も、それぞれ異なる見方や感じ方が有り面白いですよね。

このような果物の見方を、直接に見たい場合は

まどのむこうのくだものなあに? 荒井真紀 福音館書店

こどものとも年中向き 2019年7月号 通巻400号

を、是非読んでみて下さい。

果物の絵はどれも細かいところまで描かれており、見ているだけで楽しませてくれました。

皆様には、どの様な新しい響きがあるのか、楽しみです。

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