天智天皇(てんじてんのう)「中大兄皇子」の「革命」と「恐怖」を深掘り解説

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3分でわかる天智天皇

まずはサクッとポイントだけ

本名:中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)

生没年:626〜672年(46歳)​

出身地:奈良県

代名詞として

645 年 乙巳の変で蘇我入鹿を暗殺

645〜 大化の改新で天皇中心の国づくりを開始

670 年 日本初の全国戸籍 庚午年籍 を編製​

天智天皇、中大兄皇子とは?

中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)は、 のちに即位して天智天皇(てんちてんのう)となった人物です。

つまり、
若い頃の名前が「中大兄皇子」
天皇になってからの名前が「天智天皇」
という関係です。

この人が何をしたか?超ざっくり言うと…

若いころ、蘇我氏を倒して(乙巳の変)クーデターを成功させた革命児

大化の改新を主導して、日本の国のしくみを作った改革者

唐・新羅の脅威に備えて、防衛網を築いた危機管理のリーダー

日本初の公共時計(漏刻)を設置し、「時間革命」まで起こした文明開化の推進者

さらに百人一首の一番目に選ばれるほど、文化人としても評価されている

一言でまとめるなら

国づくり・時間づくり・文化づくり――すべてに関わった、日本を近代国家へと導いた天皇

ここから先は、読むほどに“濃く”なる深掘りゾーンです。

乙巳の変――20歳のクーデター

中大兄皇子が放った最初の一手は、豪族・蘇我氏の排除でした。
645年6月12日、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を一刀両断。刺客が怯むなか、自ら刀を振り下ろした姿は『日本書紀』にも克明に描かれています。​

ワンポイント解説

乙巳の変=事件名

大化の改新=その後20年以上続く制度改革

中大兄皇子目線で語る「乙巳の変」

俺――中大兄皇子は、ずっと思っていた。
「この国は蘇我氏に乗っ取られている。このままじゃ日本は滅びる」と。

特にあの男、蘇我入鹿(そがのいるか)。
奴は天皇さえも押さえつけ、好き勝手に権力をふるっていた。
民は苦しみ、国は乱れ、未来が見えない。

だから俺は決めた。
この腐った支配を終わらせると。

大化の改新――制度オタクの本領発揮

(1) 公地公民制
土地と人民を「天皇のもの」と再定義し、豪族の私有を禁じました。

(2) 租・庸・調(そようちょう)
税制を全国一律にして国家収入を安定化。

(3) 班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)と庚午年籍(こうごねんじゃく)
戸籍を作り、6歳以上の男女に口分田を支給→6年ごとに返還させる仕組みを設計。
670年完成の庚午年籍は「永久保存せよ」と特別扱いされたほど重要なデータベースでした。​

天智天皇目線で語る「大化の改新」

俺、中大兄皇子は、蘇我氏が牛耳る腐った政治を終わらせたかった。
645年、乙巳の変で蘇我入鹿を討ち、新しい国づくりを始めた。

目指したのは、豪族任せではない、天皇中心の国。
土地と民を国家のものにし、税制や役所の仕組みも整えた。

バラバラだった日本を、「ひとつの国」としてまとめ上げたのが、大化の改新だ。

蘇我入鹿目線「俺はこういう男だ」

俺、蘇我入鹿。
父・蘇我馬子、祖父・蘇我稲目の血を引き、名門の跡取りだった。で国を動かしていた。

天皇を支え、政治を仕切るのが俺の役目だったが、
気づけば天皇よりも俺の力のほうが強くなっていた。

国をまとめるためには、邪魔な者も排除した。
手段を選ばなかったのは、それだけ本気だったからだ。

だが、力を持ちすぎた俺は、若い中大兄皇子たちに恐れられ、
宮中で討たれてしまった――
これが、俺の運命だった。

天智天皇の“怖さ”に迫る

ライバルは容赦なく排除

古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ) 謀反の密告 討伐・殺害(645年)​

有間皇子(ありまのみこ) 謀反を唆されたと密告される
(「頭がおかしくなったフリ」逸話) 絞首刑(658年)​

中大兄皇子目線での二人

古人大兄皇子について(645年)

蘇我氏とつながりが深く、
蘇我入鹿が倒れた後も、天皇の後継ぎ候補として有力だったのが古人大兄皇子だ。

俺にとっては、蘇我時代に戻る火種だった。
だから、謀反の密告を受けたタイミングで討伐し、排除した。

有間皇子について(658年)

有間皇子も、民衆に人気があり、
俺の政権にとって脅威になりうる存在だった。

謀反を唆されたとする密告を受け、
本人は「頭がおかしくなったふり」をして逃れようとしたが、
俺は見逃さず、絞首刑にした。

「自身の目指す政策を脅かす芽は、早めに摘む。」
これが、俺――中大兄皇子(のちの天智天皇)の戦略だった。

考察

“理想実現のためなら手段を選ばない”――この非情さがあったからこそ、大胆な改革が可能だったとも言えます。

外交と軍事――白村江の衝撃

663年、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗。帰国後すぐに九州一帯に防衛ラインを敷きます。

水城(みずき) — 幅80 m・長さ1.2 kmの巨大土塁で太宰府を防護

大野城・基肄城 — 山上に築かれた朝鮮式山城

烽火ネットワーク — のろしで敵襲を即時伝達​

この“国防インフラ”は、後の律令国家が全国に城柵を築くモデルになりました。

天智天皇目線で語る「白村江の戦いと防衛戦」

俺たちは、百済を救うために出兵した。
でも663年、白村江で唐・新羅の連合軍に大敗――悔しかった。

「今度は、奴らが攻めてくるかもしれない。」

そう思った俺は、すぐ動いた。
帰国後、九州に水城(みずき)や山城を築き、防人(さきもり)を置いて防衛ラインを張った。

守りを固め、日本を守る準備を始めたんだ。

天智天皇の文化的・革新的な側面(政治だけじゃない、文化と生活に与えた影響)

近江遷都と「時間革命」
漏刻(ろうこく)――日本初の公共時計
斉明6年(660)に水時計を製作し、671年には鐘鼓で時報をスタート。現在の「時の記念日」(6月10日)はこの故事が由来です。​

→ 天智天皇が、日本で初めて公共の時間管理(漏刻=水時計)を導入したこと。
 つまり、「みんなが同じ時間を意識して動く社会」を作り始めたってこと。
 今の「時の記念日」(6月10日)の由来にもなっているほど、
 日本にとって画期的な文明の一歩だった!

豆知識
近江神宮(滋賀県大津市)では毎年「漏刻祭」が行われ、時計が神前に供えられます。​

文化人・天智――百人一首第1番の詠み手
秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
わが衣手は
 露にぬれつつ

収穫期の田園を詠んだこの歌は、政治の第一線にいた彼が“庶民の暮らし”にも目を向けていた証とも言われます。​

→ 百人一首の第一番に採られた和歌を詠んだこと。
 それも、政治のトップにいたにもかかわらず、
 秋の収穫や庶民の暮らしを慈しむような視点で歌を詠んでいる。
 →つまり「天智天皇=武力と政治の人」だけじゃなく、
 文化・詩歌にも深い関心を持っていたリーダーだった、ということを伝えています!

天智天皇から学べる3つの行動原則

ビジョンを言語化し制度に落とし込む

仲間を全力で優遇し、敵は徹底的に排除する

インフラ(時間・防衛・データ)を先に整える

現代ビジネスでも通用する「戦略的リーダー像」がここにあります。

よくある質問

Q. 近江令は本当にあったの?
A. 22巻の法典を編纂したとする『藤氏家伝』の記述がありますが、写本が残らず実在を疑う説もあります。

Q. 庚午年籍の原本は見られる?
A. 残念ながら現存せず、木簡などの断片資料のみが見つかっています。

まとめ

天智天皇は
「クーデターで始まり、制度・インフラで国家を形にした」
日本史上まれに見る“革命と建設”を両立させたリーダーでした。
その一方で、理想実現のためにライバルを粛清する冷酷さも併せ持っていた――。
この二面性こそが、天智天皇を“凄くて怖い”存在にしているのです。

注意として

本記事は、史料(『日本書紀』ほか)と公的機関サイト等をもとに筆者が整理したものです。諸説あるため、解釈が絶対に正しいとは言い切れません。他の研究にもぜひ触れてみてください。

最後まで読んでいただき、

ありがとうございました。

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