今回の言葉は、カラザースがシャーロック・ホームズとジョン・ワトソンに対して、自分の感情と行動の動機を説明する場面で使われた。
心に響く言葉
『とにかく私は、彼の女を去らせることは出来ませんでした。』
アーサー・コナン・ドイル 『自転車嬢の危難』 より引用
カラザース
という言葉です。
カラザースは、当初はヴァイオレット・スミス嬢と彼女の財産を巡る陰謀の一環として彼女と接触しました。しかし、彼女と過ごすうちに、カラザースは真の愛情を感じるようになり、彼女を守りたいという強い願望を持つようになります。
カラザースは、物語の中で複雑な役割を持つ人物です。彼は当初、ヴァイオレット・スミス嬢の財産を狙う一連の陰謀の一部として登場します。彼と他の二人(ウィリアムソンとウードレー)は、ヴァイオレットの叔父ラルフ・スミスが遺した財産を手に入れるために策略を巡らせていました。この策略の一環として、彼らはヴァイオレットを結婚させようとし、その結果、彼女の財産を掌握しようと考えていました。
しかし、カラザースは物語が進むにつれ、彼自身がヴァイオレットに対して真の愛情を抱くようになります。彼は自らの過ちを認識し、ヴァイオレットを守るために行動を起こすようになります。
物語のクライマックスでは、カラザースはヴァイオレットが誘拐される危険から彼女を救うために積極的に行動します。
物語の中で、彼が許されたのかどうかはの明確な描写はありません。
前提として
悪事を働いていたのが、改心したからと言って、それだけで許されるわけでもありませんし、反対に愛情が芽生えなければ、愛情を芽生えない相手だったとしたら、そのまま悪事を働いていたのですから、単純にこの言葉を持って、素晴らしい場面というのはお門違いだとは思います。思いますがそのことはおいて置くことにさせて下さい。
「いやそれは結局、一致するものかもしれませんがしかし、とにかく私は、彼の女を去らせることは出来ませんでした。その上に周囲はああした連中ですからね。彼の女には誰か、側そばに居てよく見てやるとよいのだがなと思いましたが、その時私は海底電信を受け取りましたので、彼等は策動を始めようとしていることを知ったのでした」
アーサー・コナン・ドイル 『自転車嬢の危難』 より引用
この言葉は、自身の行いさえも変えさせる、自身の行動すらも変えようと感じられるほどの、出会いがあった、そしてその出会いを大切に、かつ逃さずに即行動したというあかしのことばではないでしょうか。
自分勝手であることも確かでしょうが、それでも気づいてしまった思いを、自分の心をある意味大切にし、自身を裏切らない行動を取れているという点については、見習いたい部分であるのかもしれません。何かにつけて言い訳や、世間体を気にしている自分はそのような直情的とも言える行動に憧れているのかもしれません。自分の心を裏切ることは、自身を顧みない行動とも言えるのではないでしょうか。
心の声にもっと迅速に素直になることも、大切ではないかと考えさせられました。
言葉の意味
カラザースがヴァイオレット・スミス嬢に対して抱いていた深い愛情と、彼女を守りたいという強い意志を表しています。この言葉には、彼が自分の過去の行為や陰謀から離れ、ヴァイオレットの幸福を最優先に考えるようになったことの変化が反映されています。彼はヴァイオレットを単なる財産や目的として見るのではなく、真に大切に思う存在として見るようになり、彼女が危険にさらされることを何よりも恐れていました。
この言葉から、愛と犠牲、成長と改善、そして人間関係の大切さという、人生において極めて重要なテーマを学ぶことができます。それらは、より良い人間関係を築き、充実した人生を送るための重要な教訓となり得ます。
作者の意図を考察
作者がこの言葉を使った真意は、キャラクターの内面的な変化と成長を読者に示すことにあるのではないでしょうか。カラザースのこの言葉は、物語の中で彼が経験した心情の変化を象徴しており、愛情が人を変える力を持つこと、そして過ちから学び、正しい選択をする勇気を持つことの重要性を強調しています。この場面を通じて、作者は読者に対して、人は過去の過ちを乗り越え、より良い方向に変わることができるという希望のメッセージを伝えているのだと感じられました。
また、この言葉は物語の重要なテーマである「愛と犠牲」を浮き彫りにします。カラザースは自己利益を超えてヴァイオレットを守ろうとし、彼女の安全と幸福のためには自分の命さえも投げ出す覚悟を示しています。
総じて、カラザースのこの言葉と彼の行動は、愛が最も強い動機であり、人間性の善の力を信じることの重要性を読者に伝えることを作者が意図しているのでは、と考えられました。
注意喚起
この考察は、あくまで一個人の解釈に過ぎず、アーサー・コナン・ドイル作品シャーロック・ホームズの『自転車嬢の危難』に関する多岐にわたる見解や解釈が存在することを十分に認識しています。文学作品の解釈は、読者一人ひとりの経験や価値観に深く根ざしているため、多様な意見が存在するのは自然なことです。したがって、ここで述べられている考察を、可能性の一つとして捉えていただければ幸いです。読者の皆様がそれぞれに持つ独自の視点から、この物語の新たな面白さや深みを見出すきっかけとなれば、これ以上の喜びはありません。
最後まで読んでいただき
ありがとうございました。
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