ーーー絹守一馬 若頭
自らの得点を引き換えに新たな得点の機会を獲得出来る、そしてその引き換えにした自分の得点の量の大小により、自分の利き手に痛みを受ける可能性が反比例する。
という特殊ルールの中でタッグマッチ形式で戦う四人。
烏丸徨のタッグマッチの相方は、痛みを受けることを厭わすに自らの得点を全く使わずに、新たな得点の機会を得てゆく絹守一馬。
痛みを厭わず戦うことができた絹守の方法を知った時、対戦相手の写し身と呼ばれる二人の片方の山田ロミオは自身を奮い立たせ続行を望むものの、片方の時盾実の心は折れてしまっており、二人で一つを信条にしてきた二人は同じ思考を共有出来なくなってしまった以上ここで敗戦となってしまう。
そんな状況で言った絹守の言葉です。
同じ様な感覚の持ち主、同じ様な事で共感できる、同じ様な思考であれば、たしかに一緒にいても無駄に心がざわつくこともなく、相手の考えが分からずに無駄に悩むこともなく、お互いにとって気持ちの良い会話、気持ちの良い行動が行なえるのかもしれませんよね。
やりたいことも、嫌なことも同じ様な感覚の持ち主ならば、気兼ねなく自分の意見を言え、気兼ねなく嫌なことも口に出しせる、そしてそれを相手が同じ思いで受け入れてくれるのが分かっている、確定しているですから。
全てが一緒の思考ならば、この事は言わないほうが良いのか、この行動は相手にどの様に受け取られてしまうのだろか?と一喜一憂で気が滅入ることもないのでしょうね。
しかしそれでは自分の身体が2つ有るだけ、ということであり楽しく過ごすことは出来たとしても、自分の限界は変わらない、自分が生み出せないものは相手も生み出せない、ということかもしれませんね。
自分が思い浮かばないことは、相手も思い浮かばないということに他ならないのですね。
二人でいることで、生まれる相乗効果は全く期待できずに、いつまでもいつまでも同じ場所に漂い、同じ限界の壁に叩きのめされてしまう、ということにもなりえてしまう。
新しい発想や、多くの斬新な発想が必要な場面では二人でいることの価値は見いだせないのかもしれないですね。
例え自分とは合わないと感じる相手でも、その様な相手だからこそ考えられるアイデア、その様な人物だからこそ実行できる行動もあるのでしょう。
その相手が例えどんなに気が合わなくとも、ビジネスでは必要な人材で有ることは多々ありますよね、とても悔しいですがその口惜しさを糧に自身を成長させる事も時には必要なのですから。
あくまでもビジネスと割り切ることが出来るのならば、全く同じ思考の人達との付き合いだけではなく、自分とはかけ離れた思考の持ち主との付き合いも時には役には立ちますよね。
自分には、ビジネスや必要な時のみの関わりにしたい人が、そのような場合でも関わりたくないと考えてしまう存在がいることを否定できませんが。
色々な人と関わることによって、新しい発見や今までにない思考が生まれるのですかね?そこまで達観して自分の感情に向き合えることができたのならば、もっと楽に生きられるのではないか?と考えることができた心に響いた、感銘を受けた言葉でした。
そのような信条にまで達観しているのかもしれない、絹守の言葉は烏丸と絹守のペア、山田と時盾ペアのタッグマッチ方式で戦う賭けダーツの試合で発せられました。
得点を得られる条件として、自身の利き手に痛みを味わう事を前提としたルールの中で、写し身の二人組は痛みをなるべく回避し得点を得ようと躍起になっているにも関わらずに、ひとり痛みを受けることを苦とせずに得点の機会を増やしていく絹守。
そして、圧倒的にダーツの腕前では劣る絹守が、痛みをまるで感じないかのように新しい得点機会を得ていき、その結果ジワジワとしかし確実に点差を詰めていきます。
その姿に恐れおののきながらも戦い続ける山田ロミオと時盾実。
実は絹守がこの様な戦略をとれる裏には、恐ろしく絹守ならでは方法があった。
その方法を知った時には写し身の二人は、利き手に取り返しのつかない程の痛みを抱え満身創痍に陥っており、既にダーツの矢を投げることすら叶わなくなっていた。
それでも自身を奮い立たせ、絹守が行っていた方法で戦い続けうとする山田でしたが、一方の写し身である時盾はこの状況で既に心が折れてしまっていました。
まだだっ‼ まだやれると言い出す山田ですが、その山田に絹守は
それは無理でしょう
“二人で一つ”君達は友人としては素晴らしいが相棒としては最悪だ
二人で一つだから同じ発想しか出てこない 二人で一つだから同じミスを一緒に見落とす
…そして 二人で一つだから一人が折れればもう戦えない
漫画 エンバンメイズ第3巻より引用
という試合を締めくくるかのような言葉を投げかけます。
その言葉で山田も戦い続ける事が出来ないことを悟り、負けを認めます。
二人で一つだということの良さよりも悪い事が出てしまった試合でしたが、たしかに友人としてみればこれほど気持ちが良いものはないのかも知れませんね。
共有することが良いというのではなく、お互いに共有することが義務だと狂気的に考えているほどに深い信条の持ち主であり、そこまでの深い信条は普通ならばなかなか受け入れられないのではないでしょうか?それなのに、そこまで深く強烈に考えている信条の部分が合致している相手に巡り会えたこと、そしてお互いの信条を確かめ合え共通の思考を確認できた事がすでに友人として最高なのかもしれないと感じられました。
この試合写し身の、共有すれば倍速の成長とそして完璧な共感を得られると本気で信じているという部分が狂気に感じられ、対戦相手観客に対して畏怖を与えることに成功していましたが。
試合中に利き手に無駄にダメージを受けるということはデメリットでしかないように感じました、ダメージを受けるにしても、ダメージを受けた相棒と同じ方法を使い懺悔の口から受ければ、得点も得られ同じ経験をも得られるという二重取りだと思ったのですが。
また、絹守が手に傷が少ないダメージが最小な方法を暴露した後、山田は同じ方法を望み戦いの続行をしたが本当にその事は可能だったのでしょうか?
それともその方法が可能なのは絹守の技と精神力があることで成り立っている方法なのでしょうか?
初めは絹守はダーツの腕前では敵わないが、君達は絹守よりも長く苦痛に耐えることは出来ないと言っているように、絹守以外は不可能な方法かとも思いました。
しかし寸分狂わずに手を動かせる強固な意志があり、代償としての痛みを受ける決意あれば出来るような描写とそしてなによりも、その方法を聞いた後の山田が同じ手で続けたいというような発言から、覚悟と思考があれば出来たのではないのか?と悩んでしまいます。
そのような思考に行き渡らなかったのも、二人で一つだということのミスだというメッセージなのかもしれませんが。
皆様はどの様に考えるのでしょうか?
このような場面を直接読みたい場合は
エンバンメイズ ENBAN MAZE 田中一行 good!AFTERNOON KC 講談社
第3巻 ROUND14 写身〜twins〜<4>
を是非読んでみて下さい。
皆様にはどのような新しい響きがあるのか楽しみです。
そして、漫画では写し身と呼ばれていますが、題名では写身と表現されている理由も是非考察してくださると幸いです。
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